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2006年2月

2006年2月28日 (火)

ドイツで最低賃金導入が大論争

20日のエントリの続報ですが、現在最低賃金制度がないドイツに同制度を導入するべきかどうかが大論争になっているようです。

これはドイッチェ・ベレの英語ニュースですが、

http://www.dw-world.de/dw/article/0,2144,1915245,00.html

連立与党のキリスト教民主・社会同盟と社会民主党が、最低賃金導入で合意したようで、これに労働組合側と使用者側が猛烈に反発しているという状況のようです。

女将に賃金まで決めて貰いたくないという労使自治の原則が、グローバル化の中で風前の灯火となりつつあるということでしょうか。その水準は時給6ユーロ、現在の為替相場で827円強ということで、そんな低いのじゃ話にならんと組合は言っているようです。しかし、そもそも、この記事でも言ってるように、最低賃金は団体交渉の死だという気持ちが強いのでしょう。

EUのグローバリゼーションファンド

明日、欧州委員会はグローバリゼーションファンドの具体案を公表するようです。これは昨年末の欧州理事会で各国首脳間で合意がされていたものですが、グローバル化でリロケーションやリストラクチャリングがあちこちで起こっているのに対応すべく、離職を余儀なくされた労働者の訓練その他に5億ユーロのカネを支出しようという計画です。なんや日本の雇用安定資金やないかというなかれ、これを「グローバリゼーションファンド」と名付けて、政治的にフレームアップするところがやっぱり学ぶべきところですねえ(役人として)。

この直接のきっかけは、昨年9月にヒューレットパッカードがフランスを中心にヨーロッパで6000人の解雇を計画しているという記事が出て、これに対してシラク大統領が激怒して、欧州委員会に訴えると息巻いたという話のようです(ルモンドとFTの記事)。

http://www.lemonde.fr/cgi-bin/ACHATS/acheter.cgi?offre=ARCHIVES&type_item=ART_ARCH_30J&objet_id=916448

https://registration.ft.com/registration/barrier?referer=http://www.eupolitix.com/EN/Bulletins/PressReview/Items/200509/e9cf3b1b-ce29-4d8c-8a0b-9dd701f87019.htm&location=http%3A//news.ft.com/cms/s/b68cea64-2a0d-11da-b890-00000e2511c8.html

EUはこれまでも、リストラ問題が政治的に取り上げられると、それをうまく利用して立法化を図ってきましたが、今度は予算獲得に使ったわけですね。

2006年2月27日 (月)

パートって言うな

都内某所で意見交換、

思うに、パートとかフリーターという言葉を用いて論ずること自体が既に社会問題として重要な問題でないというコノテーションを有してしまっているのではないか。そんなことを眉を逆立てて叫んでいること自体がどうかしているんじゃないかという意味空間に陥っているんじゃないか。低賃金非正規労働者の問題としてきちんと論ずる枠組みが、まずは言葉のレベルで必要なのではないか。

確かに、パートという言葉で脳裏に浮かぶのは、亭主が会社の正社員として働いていて、それに上乗せ的に若干の収入を得ようという「主に家事」型の主婦パートだ。で、この類型の労働者は確かにキャリアから排除されている。労働世界の主流から排除されている。それがけしからん、男女性別役割分業だ、家父長制だと、いろいろ理屈は立つ。近ごろ都に流行る女性学とかジェンダー論とか、そういう社会構造自体を根本的に改造すべきだという立場からすれば、これは革命の導火線である。しかしこの導火線は全然革命に関心がない。それもそのはず、彼女らは社会的に排除されていないからだ。むしろ、主観的には社会の主流に位置している。そして、そのことはみんなが知っている。そういう中で同一労働同一賃金とかを声高に叫ぶことは、またなんやフェミがきいきいわめいとるで、という以上の反応を起こすことはない。ポリティカリーにはコレクトでなくても、ソシオロジカリーには何ら問題はなかったわけだ。

実は同じ構造はアルバイトという名で呼ばれる低賃金非正規労働者にもいえる。こっちはひどいことに、誰もそういう観点で論じてくれなかった。「主に通学」の学生が小遣い稼ぎにやってるというコノテーションが強固で、そもそも労働者であるという認識を持って貰うのに一苦労という有様。しかし、それも社会学的には同様になんら問題はなかったわけだ。彼らが卒業したらちゃんと正社員と就職していけるのならば。これは社会の主流に入る前の一エピソードにすぎない。

ある時期までの日本の雇用システムは、どうしても必要になる外部的柔軟性の受け皿となる労働者として、キャリアからの排除が社会的排除にならないような性格を有する特定のグループを選択した。パートとかアルバイトとか言う言葉は、それ自体の中に「どんなに職場で差別的な扱いをされても、そのことが彼らの社会的ポジションを下げるものではない」というコノテーションを含んでいる。そういう言葉を使って論じている限り、その磁力線から自由にはなれないだろう。

パートやアルバイトの基幹化という言葉には労働力需要側と供給側の二つの意味がありうるのではないか。供給側からすれば、それが家事や通学の片手間の仕事ではなく、それによって生計を立てざるを得ない生活における基幹化が進んできたというのが大きいのではないか。アルバイトの場合、学生アルバイトと区別してフリーターという(これ自体、勝手にふわふわしてやがる連中という強烈なコノテーションを持った言葉だが)言葉がそれを指すために用いられるようになってきたわけだが、パートの場合、130万円を超えないように仕事をセーブしている人も、時給800円で必死で働いても年収200万円までいかない人もどっちもパートはパートだ。そして、いつまでも「主に家事」のコノテーションから自由になれない。

まあ、まず名をたださんか、ってだけではあんまり意味はない。具体的にどういうはなしにつながるかというと、雇用均等児童家庭局はパート問題から手を引いた方がいいってことだな。あそこがやってると、ああまた男女平等か、共同参画か、ジェンダーか、わかったわかった、と、何がわかったのか全然わからんが、問題の深刻さが聞く人にとって全然深刻でない次元でしか受け止めて貰えない。

これは深刻な問題なのだ、なぜなら、今まであんたが考えていたような職場でキャリアから排除されていても社会の中にちゃんとポジションがあって社会的に排除されていないという風な労働者層ではなく、職場でキャリアから排除されることがすなわち社会の中で下層階級に位置づけられてしまう、社会のメインストリームから排除されるということだからだということを、もっときちんと説明する必要がある。多分、経済財政諮問会議とかはここんところがよくわかっていない。今の日本には、(これをうかつに言うとポリティカリーにコレクトじゃないといってぶん殴られるけれども)ジェンダーコンシャスネスよりもクラスコンシャスネスが必要なんだ。

クラスコンシャスといえば、日本の観念左翼のクラスコンシャスのなさが今の事態を招いたとまで言えば贔屓の引き倒しだが、それは教育界だけではない。今頃になって格差格差と鬼の首を取ったように言うんじゃないや。管理教育や社畜が悪いんじゃなかったのか。

非正規労働者のキャリア形成

残念ながら授業と重なったため最終回には出席できなかったが、都内某所の某研究会に示された最終報告案はかなり改善の痕が見られる。

特にキャリア権に関する章では、非正規労働者のキャリア形成に関する記述が全部で11カ所付け加えられており、言った甲斐があったというべきか。

2006年2月23日 (木)

EU指令でサッカーファンがレッドカードに直面って?

イギリスのデーリー・テレグラフといえば、いわゆる高級紙中では部数最大を誇る保守系、というか反EU、反組合論調で鳴らす新聞ですが、こういうちょっと変わったタイトルの記事がありました。

http://www.telegraph.co.uk/money/main.jhtml?xml=/money/2006/02/21/cbeu21.xml

「ECはサッカーファンをレッドカードに直面させるままにする」とでもいう感じでしょうか。

一体何事かと思うと、これが労働時間指令がらみの記事なんですね。

労働組合の馬鹿野郎がEUの労働時間指令で欧州委員会に駆け込んだために労働者はワールドカップでイギリスの試合が見られなくなっちゃう、てな導入部で、なんでそうなるんだろうと思って読んでいくと、こういうこと。

EU労働時間指令は1日の労働時間が6時間を超える場合には休憩時間を義務づけています。考え方は日本の労基法と同じです。これを受けたイギリスの労働時間規則でも、休憩時間を取る権利があると書いてあります。ところが、この記事によると、公式ガイダンスには、労働者が休憩を取れる(can)ようにせよと書いてあって、取る(do)ことを確保せよとは書いていないらしい。で、それはおかしいと、機械工組合のAmicusが欧州委員会に訴えて、欧州委員会がイギリスを欧州司法裁判所に訴えた、という話です。ホントかなと思って欧州委員会や欧州司法裁判所のサイトを見てみましたが、今のところ何も出ていません。まさか今はやりのガセネタでもないでしょうが、真偽のほどは不明です。

で、この記事は、それに対して小企業連盟(Federation of Small Businesses)が文句を言っているという記事で、その中に、これじゃあサッカーファンがランチタイムに仕事をしてその分早く帰って、6時のワールドカップの試合のキックオフに間に合うように家に帰れなくなっちゃうぞ、というのが出てくるのがタイトルの由来のようです。

小企業連盟としては、労働者が自発的にランチタイムを返上しても、その分早く帰れるんだからいいじゃないか、ということなんですが、さてほんとにそうなのか、日本人だったら、昼休み返上してもやっぱり最後まで残るでしょうが、イギリス人はどうなんでしょう。なんといってもオプトアウトの国ですから、みんながサッカーの試合のために早引けできるというわけでもなさそうですが。この記事を書いたグリベン記者はどうなんでしょう。

とにかく、ドーバー海峡には労働時間の高波が結構たくさん打ち寄せているようで。

2006年2月22日 (水)

足もとはどうなっているか

昨日も都内某所で某研究会。

まとまらないが、頭の中を駆けめぐっていることども。

かつて事業分権、人事集権だった日本企業が、アメリカ風に財務集権、人事分権になっていくと、企業の中のどのレベルで規制するのかという問題にも影響。

本社の人事部が把握していない人的資源(事業所や職場の判断で雇うパートやアルバイト、派遣、請負・・・)が増大すればするほど、あるいは本社の人事部が関与しない事業所や職場単位の人事管理が拡大すればするほど、本社人事部ないし労務部と企業別組合本部の幹部との間で一生懸命協議させても、彼らにも見えていない、わかっていないところが増えていく。

日本の企業別組合というのは、欧州の産業別組合との対比では、よりミクロな企業という単位での意思決定権限の大きさに着目されるが、もっとミクロに照準すれば、事業所や職場という単位ではなく、よりマクロな企業という単位に(様々な情報とともに)意思決定権限が集約されているということ。だから、職場や事業所を超えたフレクシビリティも可能。

これは、終戦直後には職場や事業所単位に自然発生的に成立した組合が、戦後半世紀の中で「企業別化」してきたもの。これと終戦直後的な状況に対応した労基法等の事業所単位の労使協定方式が食い違っているというのは、経営側はそういうけれども、確かにそうなんだけれども、足もとは逆の方向に進んでいるんじゃないか。36協定を本社の人事部と企業別組合の本部の役員とで締結して、現場が見えているだろうか。

いま、組合の支部とか分会とかはどういう風になっているんだろう。今までの日本型「企業別」意思決定システムを前提にすれば、そんなレベルに下手に権限をやらないというのが正しいやり方。さもないと、昔の国鉄の職場闘争みたいに、現場は無秩序のカオス。しかし、それは企業別レベルに的確な判断を可能にする情報が集約されているという前提。そこが「雲の上の人」になってしまってたら。

いや、そうなっていなくったって、企業の側がそもそもそんなちんけなことは事業所や現場レベルに任せてある、本社は知らんぜよという風になってきたら、つまり本社の人事機能が低下してきたら、それはすなわち「企業別」の空洞化。

まあ、その辺業種ごとにいろいろと違いがありそう。

2006年2月21日 (火)

福祉国家とは?

昨日、都内某所で某研究会。

福祉国家というときに、職域の助け合いというのは入っているんだろうか。日本型福祉国家が非福祉国家だというときには、企業の長期雇用慣行や企業内福利厚生などは本来の福祉国家を構成するものではないという判断がはいっている。日本の経営者の福祉国家理解が乏しいとか、囲い込みによる保障は不透明で拘束感がある、息苦しいとかいうのも、そういう判断がもとにある。

しかし、ヨーロッパの特に保守主義レジームもまた、職域の助け合いを原理の一つとしている。もちろん、どこまでを助け合うべき職域と考えるかという点で、ヨーロッパと日本ではまた異なるけれども、いきなり国家レベルのミニマムにいくんじゃなく、さまざまな職域の保障システムが並び立ち、それぞれの水準の保障を提供し、そこからこぼれ落ちる人にミニマムがいくという多元的な福祉のシステム。

ヨーロッパの場合、それは産業レベルの労使交渉によって勝ち取られてきたものだけど、日本の企業福祉は経営者のお情けだというのは、少なくとも事実に反する。それもまた、歴史的には企業レベルの交渉で勝ち取ってきたもの。それを息苦しいと感じる人がいることは、それを労働者が求めてきたことを否定する論拠にはならない。

さらにいえば、囲い込みは息苦しいというのは、どんなレベルだってありうる。国家による福祉だって、リバタリアンからすれば息苦しくて仕方がないだろう。

別の観点からの批判、つまり仲間内だけで助け合って、よそ者がそこから排除されるというのも、およそいかなる福祉システムにも共通するものではないか。保守主義レジームとは自分たちの職域エゴイズムに立脚したシステムだろう。それに対して、社会民主主義レジームは一見美しげに見えるけれども、一体どこまで博愛衆に及ぼすつもりがあるのかという問いが追っかけてくる。

いま、デンマークの新聞が載せたムハンマドのポンチ絵が大騒ぎになっているけれども、これまで大変リベラルで通っていたデンマークが、移民に対して極めて反感を高めて、右翼が勢力を伸ばしているのがその背景。デンマークだけじゃなく、ヨーロッパ全体に、俺たちの受けるべき福祉をあのどうしようもねえ連中がむさぼってやがるといういわば福祉右翼の感情が澎湃とわき起こっていることを考えると、社会民主主義だって、というか、社会民主主義だからこそ、よそ者にまで博愛衆に及ぼすことは困難。

そうなると、仲間内の助け合いという原理を否定してしまうと、唯一可能な選択肢はアングロサクソン流のホントにホントの最低限だけ、福祉は救貧で、普通の人は対象外、ということになってしまう。

一方で、自立とか、分権とか、民間非営利とか、市民社会とか、まあそのたぐいがすごく称揚される。だけど、それも一種の仲間内だろう。いやだから悪いなんていっていない。人間、所詮、仲間内でしか助け合えない生き物なんだから。

多分、現在起こっている問題は、これまでの(産業レベルにせよ企業レベルにせよ)職域の助け合いが機能する領域がどんどん狭くなってきて、そこからこぼれ落ちる人々が急激に増大してきたというところにある。で、そういう職域なんかでやってるからだめなんだ、もっと普遍的にやりませうというのがもっともらしく聞こえる。だけど、もちろん、最後の普遍的なセーフティネットも大事だけれども、そこまで行かないようにする様々な命綱のシステムをもう少し広げていくというやり方もあるはず。職域の保障を正社員だけでなく、その周辺で働いている人々にも、レベルは異ならせてでも、少しづつでも広げていくとか。これまでの会社中心とは違った形で職域の助け合いを構築していく試みもあっていい。

市民社会っていうのは、変にかっこつけたシミンシミンした人たちの社会じゃなく、同じ時空間を共有し、ともに働く人々の作り出す仲間社会と理解すべきなんじゃなかろうか。

2006年2月20日 (月)

EU委員がドイツに最低賃金導入を勧告

ここ数年来EUを騒がしてきたサービス指令案と国内労使関係制度との関係については、スウェーデンのラヴァル事件を例にとって若干お話ししてきましたけれども、もっとでかい話につながってきているようです。

17日のドイツ紙Die Weltによると、欧州委員会のフェアホイゲン副委員長(ドイツ人)は、同紙に対して、ドイツは最低賃金制度を導入することを勧告したと伝えています。

http://www.welt.de/data/2006/02/17/846998.html

意外に思われるかも知れませんが、ドイツには法定の最低賃金制度というのは存在しません。苧谷秀信『ドイツの労働』(日本労働研究機構)によると、「ドイツでは、労働組合と使用者団体との自主交渉を中心とする労使自治の考えが根強く、日本の最低賃金制度のような行政機関による監督を予定し、かつ、罰則で担保するような制度は(一部を除いて)存在しない。第1章で前述した労働協約法による一般的拘束力宣言がなされれば、未組織労働者にも労働協約賃金が適用されるが、この違反については行政機関の監督や罰則の規定の適用はなく、労働者が従業員代表委員会への苦情申し立てや労働裁判所に民事裁判を提起することで是正される。」ということです。

サービス指令案に対して労働者側が労働条件低下をおそれるのは、最低賃金制度がないからだろう、それならきちんと作ればよいではないか、という論理です。イギリスはちゃんと最低賃金制度があるが、失業を増やすどころかかえって雇用が増加している、と。欧州議会のドイツ人議員も似たようなことを言っているようですし、ミュンテフェリンク労働相も最低賃金制の導入に前向きなようです。

しかし、これは考えてみれば大変皮肉な話です。国家による権力的規制ではなく、労使による自主的規制というよりソフトなシステムを選択してきた社会が、市場原理の強化によってかえって国家権力の強化を余儀なくされているわけですから。一般的拘束力制度すらなく、全てを労使の自主性に委ねてきたスウェーデンがラヴァル事件で苦悩しているのと、似たような話といえましょう。

この辺の、市場原理の強化が却って国家規制を強化し、結果的に中間集団レベルの自成的秩序の力を弱めてしまうというパラドックスに対して、日本の関係者ももっときちんと向かい合う必要があるように思います。日本の場合も、特にかつて竹中現総務相が中心的に執筆した『日本経済再生への戦略』の中で、日本型雇用・賃金システムは護送船団でモラル・ハザードだ、自己責任と自助努力にせよ、それでこぼれ落ちたら国のセーフティネットだという乱暴な議論を展開し、世の中そういう方向に向かっているように見えますが、そうやって自成的な秩序形成を破壊していけば、今のところはまだ脳天気な規制緩和論が元気なようですが、必ず規制強化の揺り戻しがきますし、その時にはゆっくりと自発的な形でなどというとこでは収まらず、より直裁的に国のセーフティネットを強化せよという方向に走ることになり、結果的により柔軟性に欠け硬直的な国家規制が肥大化していくことになりかねません。

まあ、日本の話はここでは余計ですが、そういうパラドックスをくっきりと浮かび上がらせたという点に、今回のサービス指令案の最大の功績があるように思われます。そして、EUの場合、ヒト、モノ、カネの自由移動が至高の原理原則である以上、サービス指令案の原則を否定せず、かつ国家規制に過度に頼らない労使の自主的秩序形成を維持するためには、やはりEUレベルの労使交渉システムという方向を目指す以外にはないのではないかという気がします。私の希望的観測を込めてではありますが、そういう方向への動きを見つめていきたいと考えています。

2006年2月17日 (金)

欧州統計局の無業者に関する統計

数日前に、欧州統計局(ユーロスタット)のホームページに「焦点の統計」(Statistics in Focus)として、無業者比率(inactivity rate)の低下に関する8頁ほどの冊子が載っていました。

http://epp.eurostat.cec.eu.int/cache/ITY_OFFPUB/KS-NK-06-002/EN/KS-NK-06-002-EN.PDF

就業率の引き上げがEU全体の大目標になっているので、これは大変関心の高い統計です(原データは欧州労働力調査)。

まずEU全体で、1999年から2004年までに、15歳から64歳までの無業率は、31.8%から30.4%と若干減ってきていますが、これはもっぱら、同年齢層の女性の無業率が40.5%から38.1%に大きく下がったためで、男性については23.0%から22.6%とあまり減っていません。

プライムエイジの25-54歳層で見ると、男性の無業者は8.2%で、これはだいたい800万人に相当するということです。女性は24.7%で約2400万人。この数字をどうみるかですが、もっと働けるはずだと、当局は思っているわけです。

この人たちに無業の理由を聞くと、男性の0.3%、女性の11.6%が家庭責任を挙げていると言うことで、ワークライフバランスが政策の優先課題になるわけです。

雇用政策の観点から就業意欲との関係を見ますと、25-54歳層の男性の33.7%は就業意欲はあり、8.7%は実際に仕事を探している(がすぐに仕事に就けないので失業者ではない)ということです。女性はこれがやや低く、25.2%が就業意欲があり、4.3%が実際に仕事を探している。

これが55-64歳層になると、就業意欲があるのは男性で8.1%、女性で5.4%とだいぶ低くなります。アクティブ・エイジングと称してかなり力を入れている割には、あんまり意識改革にはつながっていないようです。

EUサービス指令、欧州議会を通過

ここ数年来EUの政治の焦点となってきたサービス指令案、通称ボルケシュタイン指令案が、昨日の欧州議会総会で欧州人民党(キリスト教民主グループ)と社会民主グループの賛成多数で修正の上可決されました。

http://www.europarl.eu.int/news/expert/infopress_page/056-5221-47-2-7-909-20060213IPR05194-16-02-2006-2006--true/default_en.htm

これは欧州議会によるプレスリリースですが、ヨーロッパのマスコミにはいっぱい記事が出ています。

2月8日に両党間で成り立った妥協案というのがこれです。この形で修正されたのでしょう。

http://www.euractiv.com/29/images/060208am-services-en_tcm29-152370.pdf

原案にあった「原産国原則」をおとして「サービス提供の自由」に代えたというのが最大の修正点でしょう。サービス受入国は、他国のサービス業者の活動を制限してはいけないけれども、自国の規制を加えることは認められることになります。

労働関係では、労働法や労働条件に影響を及ぼさないこと、特に団体交渉や労働協約の権利が明記されています。また、労働者派遣事業が適用除外となっています。この辺は欧州労連のロビイングの結果でしょう。

ただ適用除外としては、社会福祉関係がごっそり適用除外というのが大きいでしょう。この辺は公益的活動であると同時に経済活動でもあるという点で、この指令の試金石でもあったわけですが、キリスト教民主勢力にとっては組織基盤という面もあるのかも知れません。

これでボールは再度閣僚理事会側に投げ返されたことになります。ぎりぎりいっぱいインかアウトか判断の難しいところでしょう。下手にハンドリングするとせっかく採択のチャンスが近づいたのに却って遠ざけることになりかねませんし、このままイエスというのもつらいところかも知れません。

欧州産業経営者連盟は即日「これはヨーロッパが必要とするサービス指令じゃない」という声明を発表。

http://212.3.246.117/1/PFOPIGADFKPAMDIGHOBIHKGNPDBN9DBY739LI71KM/UNICE/docs/DLS/2006-00197-EN.pdf

それに対して欧州労連は満足そうに、

http://212.3.246.117/1/PFOPIGADFKPAMDIGHOBIHKGNPDBN9DBY739LI71KM/UNICE/docs/DLS/2006-00197-EN.pdf

「欧州労働者の大勝利、ボルケシュタイン指令案は死んだ」と叫んでいます。

2006年2月16日 (木)

OECDの社会政策

http://d.hatena.ne.jp/nami-a/20060213

で、社会保険労務士のakazawa namiさんが、OECDが昨年3月に開催した社会保障大臣会合の報告書を紹介されていますが、これは既に翻訳され、明石書店から出版されています。

http://www.akashi.co.jp/Asp/details.asp?isbnFLD=4-7503-2150-8

先進諸国における「ウェルフェア・トゥ・ワーク」から「ウェルフェア・イン・ワーク」への動向を的確に紹介したもので、9日及び13日に紹介したEUの政策もこの流れにあります。

今後の労働法政策について

本日都内某所で某団体の某某と意見交換。

エグゼンプションはどこまで割増を払わなくちゃいけないのかという問題として議論するべきなのに、「自律的」とか言うから変になる。多くのホワイトカラーは自律的じゃない、休みが必要。1日ごとの休息期間、1週ごとの休日、1年単位の年次休暇、この3つの休みで健康を確保すれば、あとは給料をどう決めるかの話。3休が大事。

就業規則を個別労働関係法だというからおかしくなる。あれは集団的労働条件決定システムのできそこないとみるべき。労働条件は労働者と使用者が対等の立場で決定すべきもの(労基2条)だが、就業規則に労働者代表の同意を要するとすると「労働協約の締結を法律で強制することになる」から意見聴取(90条)となった。つまり、就業規則とは労働側のアグリーメントなきアグリーメント。それを不利益変更するというのも、本来ならアグリーメントでやるべきところ。就業規則を約款みたいに考えて、一方的に変更してもいいけどその合理性は裁判所が判断するというのは、使用者対個別労働者という対等じゃない当事者間の法理でパターナリズム。労働者代表が同意すれば不利益変更の合理性を推定するというのは、理屈の建て方はねじ曲がっているけれども、結論としては集団的労使対等決定の原則に合致。ねじけにねじけた就業規則法理を使って、最終結論だけは妥当。

但しここで問題は公正代表義務。特に過半数組合が組合費を払っていない非組合員の利益を代表すべきなのか否か。代表しないというなら、過半数組合が労働者代表になる資格に疑問が生ずるし、代表するというのなら、組合費を払っている組合員に対する説明責任をどう考えるか。これは既に、高齢法に基づく継続雇用にかかる労使協定で現実化。結論、過半数組合とは単なる結社ではなく公共的機関である。組合員だけのことを考えてはいけない。パートやフリーターや管理職の利益も代表すべき。ではそのコストは組合員が負担せよと言うのか。フリーライドを認めるのか。

西欧の労使協議会では、そのコストは使用者が負担。法律に基づく公共的機関なのだから当然。日本では企業別労働組合が労使協議会の機能を担っているのだから、その部分は使用者が負担してもいいのではないか。ここで問題は労組法7条3項。経費援助は不当労働行為。このワグナー法のなごりをどうするか。世界的には労働者代表制を会社組合として忌避するアメリカシステムが異常。

ただ、これを本当に打ち出すと少数組合が激怒。集団的労使関係システムとは集団的労働条件決定システムのことのはずだが、その機能をになわ/えない団結権至上主義の組合にとっては存亡の問題。とりあえず、団結権と労働協約締結権を峻別するというところか。17条も同種の労働者とか4分の3とかじゃなく、過半数組合法制の一環に。

労組法を本当にわかって担当している人がいない。どこにもいない。過半数組合論は本当は組合法の抜本的リシャッフル、だけど現実は契約法のおまけ。

その後某機関の某と意見交換。

大上段に振りかぶると、すぐに同一労働同一賃金にせよという左翼原理主義か、解雇規制を撤廃せよという右翼原理主義になりがち。地味で現実的な政策に我慢できるかが問題。話をマクロにしたいんだったらやらない方がいい。

まず言葉が乱れている。年功制から成果主義へ?これまでのは何なのか。能力主義管理とは何なのか。賃金の上がり方が年功的だというのと賃金の決め方が年功的だというのは別。能力が年の功に伴って上がっているから賃金が上がっているのか、能力は上がっていないのに賃金が上がっているというのか。能力を何で見るのか、高さなのか、幅広さなのか。

ニコン事件のUさんの働き方を見ると、下手な正社員は裸足で逃げ出す。これだけの仕事をしていても、ニコンの人事部の記録には彼の名前はない。キャリアからの疎外。そこをどうしていくかという問題。確かに偽装請負はワル。しかし、それを若者のキャリア形成につなげていく道筋はないだろうか。公的な介入の余地はないだろうか。

まずは準B級市民としてでも、やがて正A級市民につながるルート、キャリアがつながっていく道筋をつくるのが、みみっちくつまんないようで実は現実を変える。真の理想主義者は現実主義者。

2006年2月15日 (水)

パートタイム労働者の賃金について

平家さんのブログ、「労働・社会問題」でパートタイム労働者の賃金の在り方が議論になっています。

http://takamasa.at.webry.info/200601/article_25.html

が出発点で、その後いろいろな方々からのコメントに応じて話が発展し、5回目が

http://takamasa.at.webry.info/200602/article_10.html

です。ここで、「男女同一労働同一賃金の原則」という言葉が出てきたので、以下のようなコメントを書き込みました。

平家さんのご説明でだいたい間違いはないのですが、もう少し厳密に言いますと、日本の実定法上「同一労働同一賃金」を定めた規定は(若干の留保を伴って)存在しません。労働基準法第4条をごらん頂ければわかるように、ここに定められているのは男女同一賃金であって、同一労働又は同一価値労働に対する同一賃金ではないからです。
この規定ぶりには理由があります。実は審議会に出された原案では「同一価値労働同一賃金」になっていたのです。ところが、労働側からそれでは生活給の思想と矛盾するというクレームが付き、女性であることを理由とする差別だけを禁止しようと言うことになりました。

ところが、その後50年代、60年代にかけて、経営側や政府から職務給制度への移行が慫慂され、同一労働同一賃金原則が叫ばれる時代が続きます。間違えないでください。経営側や政府がそういっていたんです。そして、1967年にはILOの男女同一価値労働同一賃金を批准しちゃっているんです。その時に労働省の官房長は、年功制から同一賃金制へと変えていくんだと答弁しているんですね。
考えようによっては、これは解釈による立法改正を行ったのだと見られないこともありません。批准したILO条約の国内における効力をどう考えるかにもよりますが、少なくとも当時の政策当事者は日本的雇用システムを否定的に考え、それを欧米型に変えていくべきだと考えていたのでしょう。

ところが、これが1970年代に大きくひっくり返るのです。日本的雇用システムを維持し、より強化する方向に政策の舵が切られ、同一労働同一賃金なんて、そんな古くさいアホな話は誰からも相手にされなくなってしまいます。ちょうどこの頃国連から男女平等の動きが及んできましたが、みんな男性正社員と同様のキャリアパスに乗って年功賃金制を享受できるようにすべきだという発想で、同一労働同一賃金を基盤にして男女平等を論ずるという欧米で一般的な問題意識はほとんど見られませんでした。まあ、これが時代精神というものなのでしょう。

で、パートの問題となるわけです。

男女平等と同じ路線で行くのなら、パートにも年功制を、とか、短時間正社員を作ろうとか、そういう基幹化モデル路線ということになります。しかし、これで救われる人はそんなに多くない。

では、再び同一労働同一賃金原則のお出ましか?これは賃金制度を根本的に作り替えるという話ですから、口で言うほど簡単なものではありません。本気でやるのなら、相当数の中高年正社員の賃金を引き下げなくちゃいけないでしょう。リップサービスはあっても、現実にはまず不可能。

その後、ここにコメントされているrascalさんの主たる問題意識が若者の問題にあることから、次の6回目の

http://takamasa.at.webry.info/200602/article_11.html

では、次のようなコメントを書き込みました。

rascalさんの言われる「若年者の就業機会の問題を経路とした問題提起」の観点からは、賃金のみに着目して同一価値労働同一賃金原則の泥沼にはまってしまうよりも、能力開発機会や能力評価システムの問題として設定した方がフルートフルなのではないかというのが、現時点での私の考え方です。
もちろん、現実のフリーターの働き方は千差万別で一概には言えませんが、かなりの程度職場の基幹的な作業に従事するようになっているとすれば、それをきちんとキャリアとして認め、次のステップにつながっていくような仕組みを作ることが重要なのではないかということです。

そもそも、日本の企業内教育訓練システムは、OJTで様々な仕事を経験させ、そうやって幅広い技能形成をさせる仕組みですが、それを社内的にキャリアと認める仕組みがあるからうまく回っているわけです。西欧的な資格社会では、何年この仕事をしたというだけでは資格にならないのですが(最近少しそういう動きが出てきていますが)、日本ではそれを内部労働市場で認めて、その積み重ねを熟練形成と認めて年功制のもと賃金にも反映させてきています。
ところが、フリーターはそのメカニズムから排除されているために、実質的には職場の正社員と同じような仕事を積み重ねていってもそれがキャリアにならない。そこのところに、何らかの公的な関与の余地があるんではなかろうか、少なくとも賃金制度そのものを抜本的な改めましょうなどと言う世界同時革命待望論ではなく、漸進的な改革の余地があるように思われるのです。
上記ブログで「フリーターにもキャリア権を」というようなことを述べたのも、そんなイメージからです。

この問題はいろいろな問題が絡み合っていますので、さらに議論が深められていくことが大事だと思います。

2006年2月14日 (火)

欧州労連は中東欧労働者の味方!

これも先週9日のエントリーの続報と言うことになりますが、中東欧の新規加盟国からの労働移動制限の問題についてです。

これは同じEU労働者の中で利害の対立する問題です。旧加盟国、特にドイツやオーストリアのように中東欧に国境を接している国の労働者にとっては、チープな連中にどっとやってこられては困るというのが先に立ち、労働者の欧州的連帯は後回しになりがちです。それに対して、中東欧の労働者にとっては、西のゆたかな社会の分け前に早くあずかりたい。

ここで、今や中東欧諸国の労働組合もれっきとした正会員である欧州労連としては、どっちに軍配を上げるか、というか、軍配を上げる立場ではないんですが、どっちに旗を振るかというのは、大変重大な問題になるわけです。

http://www.etuc.org/a/2059

これがそれ。制限は撤廃すべきだと旗幟を鮮明にしています。それはまあ、筋として、EUというのは労働についても単一市場のはずなのですから、東北や九州の人間は東京に来るなみたいな制限は本来おかしなものです。

欧州労連が制限撤廃すべきだとする理由は、さらに、中東欧からの労働者が二流三流の市民という扱いを受ける、賃金や労働条件の不公正競争をもたらし、ヤミ就労や偽装自営業を増やすだけだというものです。我々は同一地域における国籍を問わぬ同一価値労働同一賃金原則に基づいた開かれた労働市場を求める、と言い切っています。

このベースになった決議が

http://www.etuc.org/a/1898

ですが、ここでは前に紹介したラヴァル事件なども引きながら、団体交渉制度に基づく労使関係を尊重すべきことを訴えています。この辺は絡み合っているんですね。

2006年2月13日 (月)

職業教育はペイするか?

先週8日のエントリー(「職業能力ってなあに?」)の関連で、たまたま矢野眞和さんという方の「試験の時代の終焉」というもう15年も前に出された本ですが、読んでいたら、興味深いデータが出てきました。いわゆる教育の経済学というやり方で、学歴の収益率を計算しているんですが、機会費用を考慮しても大卒の方が高卒よりも収益率が高い、と、まあこれはそうだろうなあという結果ですが、同じ高卒の中で職業科卒と普通科卒でどうか。

1970年頃の高校は、普通科よりも工業科と商業科の方が収益率が高かったのだそうです。進学するならともかく、高卒で就職するなら普通科よりも職業科を選択する方が有利だったんですね。ところがこれが1975年頃には、工業科が普通科と同程度になり、80年には商業科の優位もなくなり、どうせ就職するんでも普通科にいった方が得ということになってしまったようです。やっぱり1970年代が日本社会の大きな転機であったことは間違いないようです。

この収益率が、90年代後半以降どのように推移しているのか、是非知りたいところです。職業教育は再びペイするようになってきているのか、それともまだ普通科の方が得なのか。

EUの貧困・社会的排除対策の方向

9日のエントリーの詳報ということで、この「労働市場から最も遠い人々の積極的な統合」で提起されている政策の方向性をメモしておきます。

これは、ここのところ各新聞や雑誌などで思い出したように取り上げられている格差問題、貧困問題に対して、だから生活保護やいろんなセーフティネットを拡充しなくちゃという第一次的反応のその1歩先にある、そうやってカネばっかりやってたら働かない怠け者になるからしっかり働かせろという第2次的反応の議論の、そのまたもう一歩先でやらなければいけない第3次的レベルの議論を今から考えておく上で大変有効なものです。

この文書の第1部では、まず各加盟国レベルにおける様々な措置が、続いてEUレベルにおける措置が概観された上で、次のような基本的な認識が示されています。すなわち、雇用が多くの人々にとって社会的排除に対する主要な防護である以上、労働市場への統合が枢要な目的であり、長期的に「それ自体としてペイする」(pay for itself)唯一の措置であると述べています。

給付については、たとえば、資産調査付きの給付は労働供給に悪影響を与えますし、在職給付はこの危険は少ないですが、低賃金雇用機会に依存することになります。

労働市場から排除されている最も脆弱な人々をいかに労働市場に統合していくかというのが最大の課題であることはいうまでもありません。その際、民間企業における職業訓練や通常の労働と同様の活性化措置が最も見込みのあるアプローチであり、若年者や社会経験の少ないものほどこれが役に立つという評価がされています。そして、こういった活性化措置は短期的な雇用への効果だけで判断されるべきではなく、社会的孤立化から脱し、自尊心や仕事や社会に対するより積極的な態度を回復するのにも役立つのだと指摘しています。ここのところはまさにワークフェア政策です。

しかし、単純なワークフェアの唱道にとどまっていないのは、これとともに、仕事に就けるようになる前提条件として、十分な社会的サービスへのアクセスにも注意が払われるべきだと述べているところです。

要約すれば、①雇用機会や職業訓練を通じた労働市場とのリンク、②尊厳ある生活を送るのに十分な水準の所得補助、③社会の主流に入っていく上での障壁を取り除くためのサービスへのアクセス(具体的にはカウンセリング、保健医療、保育、教育上の不利益を補うための生涯学習、情報通信技術の訓練、心理社会的リハビリテーションなど)の3要素を結合した包括的な政策ミックスが求められると主張しているのです。この文書では、これを積極的な統合(active inclusion)と呼んでいます。貧困と社会的排除をなくすには、これら全てが互いに結合することが必要だというわけです。

社会の主流に入っていくための社会的サービスという視点は、日本では残念ながら現在のところまだあまりきちんと確立されているとは言い難いところがあります。というか、今までは、福祉事務所の仕事は自立できるような人は最初から福祉に入れないことでしたし、最近になってようやく自立支援というタイトルのもと就労支援の試みが始められましたが、ここのところのノウハウというのは実のところ職安にもなければ福祉事務所にもないというのが実情でしょう。

一昨年12月に、厚生労働省の社会保障審議会生活保護制度の在り方に関する専門委員会の報告書が出され、「利用しやすく自立しやすい制度へ」の見直しが打ち出されましたが、今までの資産活用要件などの見直しが中心で、ではこれから何をやっていくのかというところはまだこれからの議論という感じがします。

http://www.mhlw.go.jp/shingi/2004/12/s1215-8a.html

この問題は失業給付や最低賃金制度といった問題とも絡んできますから、労働関係の方々の積極的な発言も期待したいところです。

2006年2月10日 (金)

フリーターにこそキャリア権を!

昨日、都内某所の某研究会で、そういう趣旨のことをわめいてきました。某報告素案が、キャリア権とか言いながら、会社の中で会社に訓練されている人とか自力で「自己啓発」してる人のことばかり書いてて、非正規労働者の訓練は最後に「補論」として数行付けたりになっているだけなので、ちょっとむかついたということもあります。

均等待遇とか言っても、賃金や労働条件の前に、まずは能力開発機会の均等と身につけた技能の正当な評価の仕組みがなければ、企業からは馬鹿なものを押しつけるなと一蹴されるだけですからね。

2006年2月 9日 (木)

労働市場から最も遠い人々の積極的な統合

昨日付で、実はもう一つ重要なEUの政策文書が出されていました。

http://www.europa.eu.int/comm/employment_social/social_inclusion/docs/com_2006_0044_f_acte_en.pdf

もうだいぶ前から予告されてきていた、労働市場から排除された人々をいかに労働市場に統合するか、という問題に関する協議文書です。

労働市場の外側というのは、もう仕事を探すということすらしていない人々、失業者でもないので、普通の雇用政策の外側にはみ出してしまうわけですが、そういう人々こそちゃんと労働市場に統合(インクルード)していこうという話です。

近ごろ日本でもNEETの話が盛んになって、それももとのイギリスの問題意識からは離れてしまって、若者の精神論みたいな話になってしまっている、云々というのは本田由紀先生始めとして言われているところですが、そういうのは別にして、ヨーロッパではこれはむしろ、社会保護制度の在り方論と結びつけて議論されてきています。ウェルフェア・トゥ・ワークとかメイク・ワーク・ペイとかワークフェアといういろんな言葉がありますが、問題意識は福祉依存から仕事による自立にどう持って行くかという話の流れです。

まあ、一方にはワークフェアは強制労働だという議論もあって、なかなか難しいところがあるのですが、日本と同様今後人口構成が急速に高齢化していくヨーロッパにおいても、働けるのに働いていない人々にはできるだけ働いて貰う、というか、働けるようにしていくというのが雇用政策の中心課題になりつつあるわけで、そういう動きを見る上では役立ちます(日本の変なニート論よりは)。

新規加盟国からの労働移動制限を緩和すべきか?

昨日、欧州委員会は中東欧の新規加盟国からの労働者の自由移動を制限している現在の措置を見直すべきか否かの議論に直結するある報告を発表しました。

http://www.europa.eu.int/comm/employment_social/emplweb/news/news_en.cfm?id=119

この報告は、それ自体こうすべきだというような政策方向を示しているものではないのですが、現在この制限を課していない3カ国(イギリス、アイルランド、スウェーデン)へのこれら諸国からの労働移動の効果が良好であることなどを指摘し、制限の緩和に向けた政策意図がにじみ出るものとなっているようです。

この制限は、EU拡大に伴う経過措置で、要はいきなり中東欧の連中がどどっとやってこられては困るという旧加盟国の我が儘が通ったようなものです。最大7年間認められるのですが、第1段階の2年間が今年の4月末に終わり、そこで一回目の見直しをすることになっているんですね。

実は、現在の欧州委員会の雇用担当委員は前チェコ首相のシュピドラ氏で、個人的には制限の撤廃を強く望んでいると思われます。

この問題に関する結論は3月の欧州理事会で出されることになりますが、一方で域内の労働者の自由移動はEUのもっとも根本的な原則であると同時に、各国の政治家は「あいつらに職を奪われるんじゃないか」という国民の声に耳を貸さないわけにもいかないと言うところがあって、どうなることか注目されるところです。

2006年2月 8日 (水)

労働政策審議会に対する今後の労働時間法制の在り方についての諮問

目新しい話ではありません。今まで何回も書いてきたことの繰り返しですが。。。

http://www.mhlw.go.jp/shingi/2006/02/s0208-5a.html

厚生労働大臣が、労働政策審議会に対して、今後の労働時間法制の在り方について諮問をしたということです。その諮問文に曰く、

「成果等が必ずしも労働時間の長短に比例しない性格の業務を行う労働者が増加する中で労働者が創造的・専門的能力を発揮できる自律的な働き方への更なる対応が求められるなど・・・」

全く同じ間違いを繰り返して反省がないんですね。「中で」の前と後ろにどういう論理的なつながりがあるのか説明して貰いたいものです。

結局この問題は、管理監督者層よりも広い範囲に時間外手当の適用除外を拡大するという政策目的を、本来「創造的」「自律的」な人々のために作られた裁量制という枠組みを使ってやってしまったというところにボタンの掛け違いがあるんでしょうね。

で、もっとつっこんで考えると、管理監督者とはなんぞやということを、じっくり真剣に考えようとしてこなかったことがその原因にあるように思われます。

ある方からのご教示ですが、例えば一番典型的な管理監督者として工場長を考えてみましょう。工場長は工場が操業を開始する前に工場にきていなくちゃいけないし、操業が終了した後まで残っていなくちゃいけません。裁量制が適用される専門家みたいに「創造的」「自律的」に働けるはずがないのです。じゃあ、なんで工場長は裁量制の人みたいに時間外手当が出ないの?という問いは話がひっくり返っています。全然制度の趣旨が違うの!

今回対象にしようとしている人々だって、勝手にオフィスを離れてあちこちぶらぶらしてていい人じゃないでしょう。労働時間は拘束されているんです。仕事の中味が労働時間に制約されていない、つまり「成果等が必ずしも労働時間の長短に比例しない」ということなんであってね。

正直言って、こんな諮問をやっててどうなるか、大変心配。労働組合側も、本音では何でもかんでもサービス残業だ、時間外手当を払えと言うのも行き過ぎだと思ってるわけです、実のところは。で、じゃあどの辺で線を引くのがいいのか、それが公労使の審議会の役割のはずなんですが、まずは、どこが創造的なんだ、どこが自律的なんだというそもそも論をやらないといけないですねえ。この長時間労働をどうするつもりだ、過労死してもいいのか、過労自殺してもいいのか、いくらでも議論のネタはある。本題のカネの話になかなか入れないのではないでしょうか。

職業能力ってなあに?

ともに私の深く尊敬する労働関係ブロガーの労務屋さんと本田由紀先生が、経済産業省の社会人基礎力とか言う訳のわからないものをめぐって論争(までいっていないようですが)されているようです。といっても、どっちもこの経産省の妙な代物を評価しているというわけではなく、労務屋さんの「新卒採用は官能的な要素」という言葉に、本田先生が大変カチンときたということのようであります。

http://d.hatena.ne.jp/roumuya/20060206#p2

http://d.hatena.ne.jp/yukihonda/20060207

小心な私がこの論争に割って入ろうなどというつもりは全くありませんが、この問題を考えるには、その歴史的経緯を知っておいた方がいいのではないかと(そんなのばっかりですが)いう思いから、若干のコメントをしておきたいと思います。

これは、人材養成を基本的には企業外の仕組み(多くの場合は教育システム)が担い、企業はその専門性を認めて採用し、それを基礎としてさらに養成していくという仕組みを基本と考えるか、人材養成は基本的に企業が行うから、教育制度は余計なことをせずいい素材だけ提供してくれればいいという考え方に立つかの対立です。

荻野・本田論争を見ると、企業が後者の立場に立つのが当たり前にように思われるかも知れませんが、実は必ずしもそうではありません。

むしろ終戦直後から高度成長期に至るまで、企業側、具体的には企業全体の利益を代表する立場の日経連は、もっぱら職業教育中心の公的人材養成システムの拡充を求め続けていたのです。普通科ばっかりつくってんじゃねえよ、俺たちに役立つ職業高校を作ってくれ、下らん文科系大学ばっかりこさえてどうすんだ、職業専門大学作れよ、って感じです。

これに対して一貫して冷ややかだったのが教育界、実業なんていう不純物で神聖な教育をけがされたくないという感じ、特にこれが強かったのが日教組で、職業教育なんて高校卒業後にやってくれみたいな感じ。

こういう冷たい教育界に対して、企業側が、それならしょうがないから俺たちが一からやるというのが、日本型雇用慣行の特徴とされる企業内人材養成システムです。企業が一からやるんだから、学校で何を学んできたかなどは関係なくなる、職業高校卒というのは、そういう専門を勉強してきた奴というラベルではなく、中卒時に普通科に行けず、職業高校しか行けなかった奴というレッテルになります。

大学も同じね。これはよくおわかりでしょう。

専門性で人間を測るのではなく、俺たちが一から教えるのにふさわしい奴かどうかを見るのですから、そりゃあ「官能的」になるでしょう。

企業側が、職業を蔑視する教育界の我が儘に適応した結果が、この本田先生の言う「職業レリバンスの欠如」なのですから、この因果関係自体について今さら企業を責めてみても始まりません。教育界の自業自得であり、ツケが回ったのです。

問題はここから先をどうするか、です。企業実務家の立場からすれば、高度成長期以来確立してきた人材養成システムをそう一朝一夕に変えられるものではないし、そもそもじゃあ変えたら明日から学校はそういう人材をちゃんと耳をそろえて持ってきてくれるというのか、ということになります。文部科学省もさすがに近ごろ「キャリア教育」とか称していろいろ実験しているようですが、企業から見ればたぶんちゃんちゃらおかしいというレベルなんでしょう。

これに対して、本田先生は「職業レリバンスの回復」という理想を掲げて戦っていらっしゃるわけです。それは現段階では理想に過ぎず、現実の教育界の姿を前提にすれば無理なことを言っているのはわかった上で、あえてそういう理想を掲げて前進すべきではないかと仰っておられるわけで、そういう戦いの過程において「採用は官能的」などという発言を見過ごしにできないとお感じになられるのは、これはこれでまたよく理解できるところでもあります。

ただ、若干苦言(というわけでもないのですが)を呈しておきますと、本田先生の論点はあくまでも採用時における着目点を人間力だの社会人基礎力だのという得体の知れない官能的なものではなく、その時点までに身につけた(あくまでも基礎的な、その後の発展の基礎となるような)専門性に置くべきだという御主張のはずなので、あまり「中国経済」だの「企業法務」だのとモロ即戦力以外の何者でもないみたいな例示はややミスリーディングではないかと思われます。また、職場ごとに部門長が採用するという雇用システムは、職場ごとのボス支配を結果する危険性が高い(アメリカがまさにそう)ので、ここでの論点とは切り離された方がいいように思われます。

2006年2月 7日 (火)

イギリス労使協議規則で初の中央仲裁委決定

昨年、労働契約法制研究会の報告が出されてから、労使委員会の問題が大きく議論されるようになっています。現在のところ、表立って論じられているのは、労使委員会そのものの問題が中心ですが、報告書をよく読めば労働条件の不利益変更にせよ解雇にせよこれは過半数組合とセットで論じられており、「労働者代表としての過半数組合」をどう考えるべきかという労基法と労組法にまたがる大きな問題がここにはあります。

この問題については、私も著書『労働法政策』や、いくつかの文章で若干の見解を述べたりしていますが、つきつめると、労働組合員でない被用者の利益を労働組合が代表するという事態をどこまでどういう形で認めうるのか、という点になるのでしょう。アメリカの場合は、排他的交渉代表制というある意味で特殊な制度を持ち込むことで解決を図っているわけです。これに対し、多くのヨーロッパ諸国は企業外的存在である労働組合と企業内的存在である被用者代表制を並立させることで(実態は組合が牛耳っている場合が多いようですが)この問題を回避しているといえます。この点で、イギリスは今までヨーロッパ型の一般的被用者代表制を持たなかったのですが、EUの2002年一般労使協議指令の採択を受けて、昨年5月から情報協議規則が施行され、やや複雑な仕組みが作られました。これは、被用者の申し出と交渉による設置を原則としつつ、既に存在する協約が要件を満たす場合には、それを認証する投票を行うという仕組みです。これがその規則です。

http://www.opsi.gov.uk/si/si2004/20043426.htm

ちなみに、イギリス通産省雇用関係局のこの規則に関するホームページには、本規則に関するいろいろな情報が載っています。

http://www.dti.gov.uk/er/consultation/proposal.htm

で、ようやく本題に入りますが、本規則施行後初めての事案がこれです。

http://www.cac.gov.uk/I&C/IC3%2014%20Dec%20Moray%20Council%20Reg%2010(1)%20Decision%20(Final%20Version-Amended).htm

これはモーレイ市議会(カウンシル)が、既存の組合との間で結んでいる協約とか組合規約とか協議規程が、本規則で言う既存の協約に当たるかが争われたものです。原告のスチュワートさんというのは、この組合員じゃないんですね。で、これでは、承認労働組合の組合員でない者との協議のメカニズムはないじゃないかと異議を申し立てたわけです。

組合との協約では組合との協議しか規定していなくて、非組合員のことは書いていません。カウンシルはニュースレター等で一般職員にも情報を流していたようですが、彼は「俺は協議を受けてねえぞ!このやり方は非組合員を無視してるじゃねえか」と感じたわけですね。

それに対してカウンシル曰く、いやあ被用者関与は大事です、ですから組合と協約を結んだわけで。組合と非組合一般職員を一緒にすると、団体交渉の仕組みに問題が起こってしまいますよ。既存の協約は組合員だけでなく全被用者をカバーしているんです。組合は過半数を組織していますからね。

ふむふむ、法制度はかなり違いますが、なかなか本質的に共通の問題が提起されてきているじゃありませんか。

これに対して、中央仲裁委員会は、当該協約、規約及び規程の文言から、これらが全被用者を対象とするものであると認定しています。そこで組合員と非組合員が特に区別されていないのだから、あんたもカバーされているんだ、と。

次に、労働組合代表が署名したことが被用者による承認と見なしうるか。被用者の過半数が労働組合員なんだから、あんたが組合に入ろうが入るまいが、組合が全被用者を代表してることにかわりねえんだ。

もっとも、こういうふうにスチュワートさんの一番言いたかったことを退けた上で、この協約は中味がなっとらん、情報・協議規則を満たしておらんぞと言って、交渉をやり直せと、スチュワートさん勝訴みたいな結論になっているんですが、争点そのもので見ればこれはカウンシル側の勝ちと見るべきなんでしょうね。

ま、これが直ちに日本の法制にどう参考になるかならないかは、皆様がじっくりとお考えになることでございますが、大変興味深い決定であることは間違いないですね。

2006年2月 6日 (月)

EU道路運送労働時間規則の改正に欧州議会が最終合意

最近、日本では、タクシー業界の規制緩和が長時間労働をもたらしているという批判がかなり強くなってきているようです。もともと道路運送業というのは長時間労働になりやすい性質があるのでしょう。日本でもむかしの2・9通達、27通達時代から、道路運送業の労働時間については特別の規制対象になってきていますし、そのもとになったILO条約でも、67号条約、153号条約とわざわざ条約が設けられてきています。

EUでも、すでに1969年に道路運送に関する社会立法の調和に関する規則が制定され、1985年には改正されてきています。これは運転時間、休息期間を規制するほか、最低年齢や歩合給の原則禁止などが規定されています。ちなみに所管は労働社会総局ではなく、運輸総局です。かつて、私がブリュッセル在勤中、日本から運輸関係労組の方々がお見えになった際、いつもつきあっている労働総局でなく、運輸総局の所管なので、運輸省からのアタッシェの方にお願いしてアポイントを取って貰ったことがあります。

そのEUの道路運送規則の改正について、2月2日、欧州議会が最終的にゴーサインを出したというニュースが出ました。これは欧州議会のプレスリリースです。

http://www.europarl.eu.int/news/expert/infopress_page/062-4910-32-2-5-910-20060131IPR04893-01-02-2006-2006--true/default_en.htm

「運転時間が短いほど事故も少ない」という題のこの発表で、今年の5月から適用される新規則の内容が確定したようです。

まず、デジタルタコグラフの装着が義務づけられることで、時間のごまかしが困難になるということです。

休息期間については、欧州議会は最低連続12時間を主張していましたが、最終的に最低連続11時間という理事会側の主張に歩み寄ったようです。まあしかし、それだけあれば、睡眠不足でうつらうつら運転で事故になるという危険は少ないということでしょう。

加盟国によるミニマムチェックのところはごちゃごちゃしているんですが、2008年からは労働日の最低2%、2010年からは最低3%、ミニマムチェックをするということで合意したということです。これをさらにもとの資料でみると、このチェックのうち少なくとも15%は道路上で、少なくとも30%は事業場で行うこと、2008年からはそれぞれ30%、50%となること、さらに、道路上でのチェックは、随時様々な場所で行い、チェックポイントを避けることが困難なように道路網の広範な部分をカバーせねばならず、地理的バランスを考慮してランダムローテーションで実施することというような細かい注文がついています。

違反に対する罰則については、理事会側はこれは加盟国の専権事項であってEUレベルで決めることではないと主張していたようですが、欧州議会側が強硬に主張して、指令の附則として例示列挙と言うことでつけることになったようです。例えば、運転時間の上限の違反については20%オーバー、休息期間についても20%オーバー、休憩時間については33%オーバーが罰則の対象となるということらしい。

最近の道路運送業界をめぐるいろいろな動向をみていると、今回の改正内容もそうですが、現行の道路運送規則の規制内容も、結構参考になるところが多いように思います。

2006年2月 3日 (金)

ラヴァル事件に欧州委の意見提出?

今日は、EU労働フリーク(そんなのいるのかね?)にとって大変興味深い話題です。

フランスの新聞ル・モンドに2月1日、こんな記事が出ていたんですね。「ブリュッセルはラトビア労働者に対してスウェーデン人が正しいと認めた」って感じの標題かな。

http://www.lemonde.fr/web/article/0,1-0@2-3214,36-736661@51-721776,0.html

一体、これは何のことかと思われるでしょう。日本の新聞雑誌等では、私が最近書いた記事を除けば、ほとんどこの事件を報道していませんから。

まず、基礎知識として、これを読んでください。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/seikatukeizaiservice.html

これは、『生活経済政策』という雑誌の昨年12月号に載せた記事です。メインは、最近ヨーロッパで注目の的になっているサービス指令案、別名ボルケシュタイン指令案というものについて、その経緯と現在の状況を説明したものですが、その最後のところで、スウェーデンで昨年来大問題になっているラヴァル事件について取り上げています。

この事件では、サービス提供業者が連れてきた自国の労働者について現地の労働協約で定める労働条件を遵守する必要があるのかというのが争点になっています。スウェーデンに進出したラトビアの建設業者をめぐって紛争となり、現在欧州司法裁判所に係属しているものです。

事案をかいつまんで説明すると、ラトビアの建設業者ラヴァル社は2004年6月、スウェーデンのヴァクスホルムの学校修復工事を請け負い、子会社を作ってラトビアの賃金水準でラトビア人労働者を派遣したんですね。これに対してスウェーデン建設労働組合は同社に協約締結を申し入れたのですが、その交渉中同社はラトビアの組合と協約を結んで、スウェーデン建設労組の要求を拒否したのです。この協約は、ラトビア労組組合員以外のラトビア人労働者にも適用され、しかも他の協約締結を排除するものでした。これに対してスウェーデン建設労組は11月、建設現場を封鎖するという行動に出たのです。スウェーデン電気工組合も12月、同社の全電気施設を封鎖するという同情争議を行いました。

 ラヴァル社は同月、スウェーデン労働裁判所に対し、これら争議行為は違法であるとしてその差止めの仮処分と損害賠償を請求しました。労働裁判所は同月、仮処分の訴えを退けました。翌2005年1月、他のスウェーデン労働総同盟(LO)傘下の7組合が同情争議に参加しました。工事は中断し、ラトビア人労働者は帰国し、子会社は倒産に追い込まれました。

ラヴァル社の主張はこうです。EUの海外派遣指令は派遣先国の法令又は一般的拘束力を有する労働協約で定める最低賃金をクリアしなければならないと規定しているけれども、スウェーデンにはいずれも存在しないじゃないか。ラヴァル社が一般的拘束力を持たない労働協約に拘束されるいわれはないし、その締結を強制される理由もないんだ。スウェーデン労組の行動は、EU条約第12条(国籍による差別)及び第49条(サービス提供の自由)に違反するぞ、と。

これを読んで、えっ?と思われたかも知れません。あの福祉国家の鑑と言われるスウェーデンにはいずれも存在しないって?

ええ、ないんです。それはなぜか。

スウェーデンは組合組織率が80%以上と極めて高く、労働条件のかなりの部分が全国レベルの産業別労働協約で決定されています。そして、これが使用者団体傘下の企業を通じて非組合員にも適用され、使用者団体未加盟企業には組合が個別協約の締結によって適用していくというスウェーデン方式をとっているのです。逆にいうと、国家権力による一般的拘束力制度はないし、さらにそもそも法定最低賃金も存在しません。全ては労使に委ねられているのです。労使自治の鑑と申せましょう。

ところが、その立派な労使自治の仕組みの盲点を、EUの新参者ラトビアの会社に衝かれた形になったわけですね。

スウェーデン労働裁判所は昨年4月、争点がEUの条約と指令の解釈に関わることから、本件を欧州司法裁判所に付託しました。現在まだ判決は出されていません。
今回のル・モンドの記事は、欧州委員会がこれに対して、1月31日の夜から2月1日の間に(なんだか捜査記事みたいだな)組合側に味方する意見を提出したというものなのです。実はこれには伏線があるんです。

昨年10月、ストックホルムを訪れた欧州委員会のマクリーヴィ委員がラヴァル社の主張を支持する発言をしたと地元の新聞に報じられ、騒ぎが大きくなったんですね。欧州労連(ETUC)は早速、域内市場の追求よりも労使対話と社会的権利の確立の方が欧州委員会の重要な責務だと同委員を批判し、欧州議会も急遽、マクリーヴィ委員に加えてバローゾ委員長を呼んで公聴会を開催するという騒ぎになりました。このとき、バローゾ委員長は慎重な言い回しに終始してたんですが、マクリーヴィ委員の方は「私はスウェーデンの労使関係や団体交渉制度について疑問を呈しているのではない。私の所管する基本的な権利や自由を擁護するのが私の使命だ。これが加盟国にとってセンシティブな問題だからと言って、私が意見を表明する権利を奪う理由にはならない。」と意見を貫いていました。

労働組合側はもちろん猛反発、このために、ただでさえ採択が遅れに遅れているサービス指令案がまたもや先送りされるというようなことになっては大変だ、という配慮が、欧州委員会内部で働いたんでしょうか。

欧州委員会はどうもラヴァル社寄りで、スウェーデンの労使関係制度に対して理解がないんじゃないかと非難されていた中で、もちろん公式発表されたわけではないんですが、欧州委員会の見解が欧州司法裁判所に提出されたというニュースは、いやが上にも注目を集めることになっていたわけです。

この記事によると、欧州委員会は、スウェーデンの労働組合は、外国の企業に対し、スウェーデン国内の労働協約への調印を要求する権利があると述べているそうです。
ところが、よく後ろの方を読んでいくと、必ずしもそう明確に労働組合側の味方をしているわけでもなさそうだな。

海外派遣指令の水準を超えて労働協約を強制することはできないとか書いてあるぞ。なんじゃこれは。標題と中味が違うじゃないか。だからこういう消息筋の記事は困るんだ。話は難しい法律問題なんだから、単純に書くなよな。

そういうことで、ちょっと頭が混乱してきましたので、とりあえずここで筆を置きますね。どこかに続報があればまた書き足します。

2006年2月 2日 (木)

モルガン・スタンレー証券事件判決について

最近、労働時間制度関係の話題が続きましたが、このホワイトカラーエグゼンプションに絡んで、昨年10月に興味深い判決が東京地裁から出されていることをご存じでしょうか。

http://courtdomino2.courts.go.jp/kshanrei.nsf/webview/F484129D552CB38A492570A7002F557A/?OpenDocument

これは最高裁のホームページの裁判例集に既に載っていますが、その中の労働事件裁判例集ではなくて、下級裁主要判決情報というコーナーの方に掲載されています。

これは基本給月額183万円という、すっごい高給取りの「プロフェッショナル社員」だった原告が、早朝ミーティングに参加した時間分の時間外手当を払えと訴えた裁判です。この人、実は別件でクビになり、そっちでも訴訟を起こしているのですが、たまたまその訴訟で、原告が自分は裁量労働制だと言ったら、被告会社がそうじゃないと言ったので、おおそうかい、それなら残業手当を払って貰おうじゃないかということになったといういきさつのようで、あんまり筋のいい事件でもないのですが、とにかく管理監督者でもなければ裁量制も適用されていないという状況下で、時間外も何も莫大な基本給に全部入れ込んで払っていたというこの事件をどう裁いたか。

たぶん、原告は弁護士と相談して、この問題には小里機材事件最高裁判決というのがあって、時間外手当を基本給に含めて払うという合意は、両者がきちんと区分されていなくちゃいけないんだというのを知って、それじゃあ貰えるじゃないかということになったんでしょうね。

東京地裁の難波孝一裁判官は、この原告の反論に対して、まず小里機材事件は時間外手当を基本給に含めるという合意がなかった事件なのだが、まあそこはおいて、拘束力があるという前提で考えてみても、本件はその射程に入らないんだと、次のような理屈を述べています。以下引用。

『労基法37条1項の制度趣旨は,同法が規定する法定労働時間制及び週休制の原則の維持を図るとともに,過重な労働に対する労働者への補償を行おうとするものである。確かに小里機材事件の労働者のように,所定労働時間が決められ,労働時間の対価として給与が定められているような事案においては,所定時間を超えて労働した部分については,使用者はこれをきちんと支払う義務がある。なぜならば,基本給のうち,所定時間労働の対価と所定時間外労働の対価との区別がないとすれば,実際には所定時間外労働をしたにもかかわらず,その対価が支払われないおそれがあり(基本給で支払っているとして),サービス残業を助長し,労基法37条の制度趣旨を没却することに繋がるからである。
 そこで,問題は,本件のような場合にも,労基法37条1項の制度趣旨を没却する可能性があるかという点である。これを本件についてみるに,前記(2)(3)で認定した事実・判断及び弁論の全趣旨によれば,①原告の給与は,労働時間数によって決まっているのではなく,会社にどのような営業利益をもたらし,どのような役割を果たしたのかによって決められていること,②被告は原告の労働時間を管理しておらず,原告の仕事の性質上,原告は自分の判断で営業活動や行動計画を決め,被告はこれを許容していたこと,このため,そもそも原告がどの位時間外労働をしたか,それともしなかったかを把握することが困難なシステムとなっていること,③原告は被告から受領する年次総額報酬以外に超過勤務手当の名目で金員が支給されるものとは考えていなかったこと,④原告は被告から高額の報酬を受けており,基本給だけでも平成14年以降は月額183万3333円を超える額であり,本件において1日70分間の超過勤務手当を基本給の中に含めて支払う合意をしたからといって労働者の保護に欠ける点はないことが認められ,これらの事実に照らすと,被告から原告へ支給される毎月の基本給の中に所定時間労働の対価と所定時間外労働の対価とが区別がされることなく入っていても,労基法37条の制度趣旨に反することにはならないというべきである。
 以上によれば,被告が原告の支給する毎月の基本給の中に所定時間外労働に対する対価が含まれている旨の合意は,有効であると解するのが相当であり,当該判断を覆すに足りる証拠は存在しない。よって,原告の上記主張は理由がない。』

結論としては大変納得できる判決ではあるのですが、理屈として小里機材事件判決と矛盾がないのか、大変難しいところでしょう。なんだか、欧州司法裁判所お得意の司法による立法の先取りをやってるように見えないこともありません。

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