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2026年10月 8日 (木)

職場の心理社会的リスクに関する欧州議会の決議

一昨日(10月6日)、欧州議会が「職場の社会心理的リスク、ストレス及びメンタルヘルス」に関する決議を採択しました。

https://www.europarl.europa.eu/doceo/document/TA-10-2026-0326_EN.pdf

決議のうしろに、欧州委員会が提案すべき勧告案が載っています。

欧州議会雇用社会問題委員会による解説のページはこちら。

https://www.europarl.europa.eu/news/en/press-room/20261002IPR47897/parliament-wants-better-protection-of-workers-mental-and-physical-health

Policies addressing violence and harassment

MEPs want employers to prevent work-related psychosocial risks, and to adopt and implement policies that define and prohibit violence, harassment, bullying and discriminatory behaviour that undermines workers’ dignity, physical or mental health, as well as early detection mechanisms and risk-based prevention protocols for third-party violence. They also say timely support is needed for workers exposed to psychosocial risks.

Psychosocial risk assessment and action plan

MEPs recommend employers carry out regular psychosocial risk assessments to evaluate factors such as excessive workload and high work intensity and adopt action plans with concrete measures.

Significant restructuring or reorganisation, such as teleworking arrangements or the introduction of automated decision-making and automated monitoring systems, should be subject to a prior psychosocial risk assessment in cooperation with workers and their representatives, they say.

Employers should ensure that the introduction of algorithmic management systems does not impose excessive burden or monitoring of workers, and there must always be human oversight. MEPs also reiterate that workers have the right to disconnect from work.

Support for returning to work

Workers who have been absent from work because of work-related psychosocial risks should have the right to a supported and sustainable return to work, MEPs say. To that end, they recommend employers establish individual return-to-work plans, specifying factors such as adjustments to working time or work organisation and adaptations of a worker’s tasks or workload.

暴力とハラスメントへの対処に関する政策

欧州議会議員は、雇用主が仕事に関連する心理社会的リスクを防止し、労働者の尊厳、身体的または精神的健康を損なう暴力、ハラスメント、いじめ、差別的行為を定義し禁止する政策を採用・実施し、第三者による暴力に対する早期発見メカニズムとリスクベースの予防プロトコルを導入することを求めている。また、心理社会的リスクにさらされている労働者にはタイムリーな支援が必要だと述べている。

心理社会的リスク評価と行動計画

欧州議会議員は、雇用主が過重労働や高強度労働などの要因を評価するために定期的な心理社会的リスク評価を実施し、具体的な対策を含む行動計画を採用することを推奨している。

テレワークの導入や自動意思決定システム、自動監視システムの導入など、大幅な組織再編や再編成は、労働者とその代表者と協力して事前に心理社会的リスク評価を行うべきだと述べている。

雇用主は、アルゴリズム管理システムの導入が労働者に過度の負担や監視を課さないよう、常に人間の監視が必要であることを保証すべきである。欧州議会議員らは、労働者には仕事から離れる権利があることを改めて強調した。職場

復帰支援

欧州議会議員らは、仕事に関連する心理社会的リスクのために欠勤していた労働者は、支援を受けながら持続可能な職場復帰をする権利を持つべきだと述べている。そのため、雇用主は、労働時間や業務体制の調整、労働者の業務内容や作業負荷の調整といった要素を明記した個別の職場復帰計画を策定することを推奨している。

 

 

 

20年前から同じことを言い続けてとっくに飽きてるんだが、まだ同じことを言い続けなくちゃいけないようだ

Hu9xcknj_400x400 1990年代末から2000年代にかけて、構造改革が人気絶頂であった頃の論壇と政策界のヒーローand/orヒール竹中平蔵氏が、ひさしぶりにこんなことを呟いたということで、X(旧twitter)界がざわめいているようですが、

https://x.com/HeizoTakenaka/status/2107788471507014141

「正社員をなくせばいい」私がなぜそう考えるのか。

世間ではいまだに「非正規が増えたのは竹中のせいだ」といった的外れな批判が繰り返されている。
だが、働き手のうち派遣はわずか2〜3%にすぎず、客観的なファクトすら見ようとしない感情論にすぎない。 

真の病巣は、1979年の判例以来、何があってもクビを切られない「正社員」という世界でも異常な特権構造にある。
人件費が完全に固定費化してしまったからこそ、企業は非正規の働き手を都合のいい調整弁として搾取せざるを得ず、過酷な「雇用の二重構造」が固定化してしまったのだ。 

正社員の既得権益を守り続けたツケを非正規に押し付け、日本全体の賃金と生産性を沈没させている残酷な真実を、なぜ政治もメディアも直視しないのか。 

この国を覆う雇用の欺瞞に、私は強い危機感を覚えている。
日本が直面する労働市場の致命的な欠陥と、なぜ正社員の廃止が「働く人全員の救済」に繋がるのか、そして日本全体が良くなるのか、本動画で私の率直な真意を語った。

これに対する反応が、20年前とたいして変わっていないことに、この間けっこういろいろと論じてきたつもりの私としては軽い絶望感を感じたりもしております。

以下に、この間のわたくしの論稿をいくつか再掲しておきましょうか。

『エコノミスト』2008年7月1日号に寄稿した『日本の解雇規制は「二重構造」これが正規・非正規の差別を生む』

 日本の解雇規制への風当たりが強い。OECDの対日経済審査報告書2008年版でも、「労働市場改革のための提言」として、「正規労働者への雇用保護を緩和することで、非正規労働者を採用して雇用の柔軟性を確保しようとするインセンティブを弱める」ことが求められている。一見したところこのOECDの提言も、内閣府の規制改革会議労働タスクフォースが昨年5月に公表した意見書と同様、あらゆる労働者保護はことごとく労働者の利益に反するという急進的な規制撤廃論に立っているように見えるかも知れない。しかし報告書をよく読めば、OECDが懸念しているのは解雇規制の絶対水準ではなく、正規と非正規の間の雇用保護水準の格差であることが判る。提言の文言はいささか誤解を招きかねないものだが、誤解に基づいて「解雇規制はことごとく撤廃せよ」と叫ぶのも「解雇規制には一切手をつけるな」と叫ぶのも適切な反応とはいえない。
 OECD自身、その雇用見通し(2006年)の中で、解雇規制が失業を生み出すという証拠は見出せないと述べるとともに、常用労働者に対する厳格な解雇規制を維持しつつ臨時・派遣労働ばかりを規制緩和することは悪影響を及ぼすと指摘している(『世界の労働市場改革 OECD新雇用戦略』戎居皆和訳(明石書店))。今回の報告書が日本の労働市場の最大の問題点として指摘しているのも、賃金、職業訓練、社会保障、雇用保護などあらゆる領域にわたる正規と非正規の二重構造である。全労働者を非正規並みにすれば解決するなどとは言っていない。一方で、全労働者に現在の正規並みの雇用保護を与えることも不可能である。
 日本の解雇規制は二重構造になっている。第一段の「解雇権濫用法理」は解雇に正当な理由を求めるもので、ほとんどすべての先進国と共通する。これがなければ、労働者は使用者に何を言われても我慢するか辞める以外に道はない。労働者に「退出」だけでなく「発言」という選択肢を与えるのであれば、最低限第一段の解雇規制は必要なのである。ただし、現在の判例では解雇無効の場合金銭補償の途がなく復職しかない。一方で、有期契約の雇止めに解雇権濫用法理を類推適用することは判例法理上は可能だが現実には難しい。このため、復職が認められる正規労働者と金銭補償すら認められない非正規労働者の格差が極端に拡大してしまう。不当な解雇を規制する必要はあるが、その解決方法は原則として金銭補償とすることによって、非正規労働者の不当な雇止めに対しても正規労働者の解雇と同様の保護を与えることができるのではなかろうか。
 経済学者が解雇規制を語るとき、往々にして基本となる解雇権濫用法理を無視して、第二段の「整理解雇法理」のみを論じていることがよくある。これは石油ショック後確立したもので、企業の経済的事情による解雇が①人員整理の必要性、②解雇回避努力、③解雇者選定基準、④労使協議という4要件を満たすことを求めている。このうち②では、時間外労働の削減、配転による雇用維持、非正規労働者の雇止めが、正規労働者の解雇を回避するためにとるべき努力義務として要求されている。このことが、恒常的な時間外労働の存在を正当化している面があるし、家庭責任を負うため配転に応じられない女性労働者への差別を正当化している面がある。そして何よりも非正規労働者の雇止めを「解雇回避努力」として評価するような法理は、それ自体が雇用形態による差別を奨励している。
 かつて妻が専業主婦であることを前提とすれば、長時間残業や遠距離配転は十分対応可能であったし、非正規労働者がパート主婦やアルバイト学生であることを前提とすれば、そんな者は切り捨てて家計を支える正社員の雇用確保に集中することは当然であったのかも知れない。しかし、共働き夫婦にとっては、雇用維持の代償として長時間残業や遠距離配転を受け入れることは難しいし、幼い子供がいれば不可能だ。そこで生活と両立するために妻はやむなくパートとして働かざるを得なくなる。そんな彼女らを切り捨てるべしと命ずるような差別的な解雇規制の在り方を見直すことは、労働者の利益にとっても重要な課題のはずである。
 ここで、EU加盟国の解雇規制と有期契約に関する規制を一瞥してみよう。概ね、差別や人権に関わる解雇は明確に無効とされているが、一般的な解雇についてはベルギー、オーストリアのように極めて自由な国からオランダのように法制上は極めて厳格な国(もっとも実態は緩やか)まで様々である。整理解雇については概ね解雇を前提として労使協議という手続を要求するにとどまる。重要な点は、イタリア等を除き不当な解雇についてもほぼ金銭補償が原則となっていることで、これが有期契約へのかなり厳格な規制とバランスをとっている。つまり、有期契約の規制に違反して無期契約に転換しても、勤続期間に応じた補償が求められるだけで、復職が求められるわけではない。日本の法制に対しても参考となると思われる。 

『労基旬報』2013年5月25日号に寄稿した『解雇規制緩和論の誤解』

 昨年末安倍政権が成立してから、再び解雇規制論議がかまびすしくなっているが、筋道をきちんと理解しないままに思い込みで議論する傾向が一部に見られ、混乱を増幅させている。
 まっとうな議論を展開しているのは、政府の経済財政諮問会議と規制改革会議である。いずれも、職務や勤務地が無限定の「メンバーシップ型正社員」ではなく、職務限定、勤務地限定の「ジョブ型正社員」を創出することを前提に、当該ジョブがなくなったり縮小したりしたときに、契約を超えた配転ができないがゆえに整理解雇が正当とされるという筋道で議論を展開しようとしている。
 ところが同じ政府の産業競争力会議では、そういう前提抜きに現在の日本の解雇規制が厳しすぎるとして、その緩和、あるいはむしろ自由化を求める声が出ているようである。
 労働契約法第16条は「客観的に合理的な理由を欠き、社会通念上相当であると認められない」解雇を無効としているに過ぎない。どのような解雇が客観的に合理的であり、社会通念上相当であるかは、その雇用契約が何を定めているかによって変わってくる。
 欧米で一般的なジョブ型雇用契約では、同一事業場の同一職種に配転可能でなければ、労使協議など一定の手続を取ることを前提として、整理解雇は正当なものである。それが日本型正社員について正当とされにくいのは、雇用契約でどんな仕事でもどんな場所でも配転させると約束しているからだ。実際日本企業はそのおかげで欧米企業には考えられないような内部的柔軟性を存分に享受してきた。共稼ぎで親の介護と乳幼児の保育を理由に遠隔地配転を拒否した正社員の懲戒解雇を、日本の最高裁は正当と認めている。
 日本は解雇規制が厳しすぎるのではない。解雇規制が適用される雇用契約の性格が「なんでもやらせるからその仕事がなくてもクビにはしない」「何でもやるからその仕事がなくてもクビにはされない」という特殊な約束になっているだけなのだ。「なんでもやる」という前提に逆らった者に対しては、欧米では信じられないような冷たい対応も正当となるのである。
 権利と義務とは表裏一体である。正社員の内部的柔軟性を享受したいのなら、外部的柔軟性は制約されるのは当然であろう。世の中、いいとこ取りはできない。
 と、ここまで述べてきたことは、実は出るところ(裁判所)へ出たときのルールに過ぎない。年間数十万件の解雇紛争を労働裁判所で処理している西欧諸国に比べ、日本で解雇が裁判沙汰になるのは年間1600件程度に過ぎない。圧倒的に多くの解雇事件は法廷にまで来ないのだ。全国の労働局に寄せられた雇用終了関係の相談件数は年間10万件に上るが、そのうちあっせんを申請したのは約4000件弱である。
2008年度のその実態を調査したところ(『日本の雇用終了』)、そこには態度が悪いからとか上司のいうことを聞かないからといった理由による解雇が山のように並んでいる。しかも金銭解決の水準は平均17万円と極めて低い。
日本の大部分を占める中小企業レベルでは、解雇は限りなく自由に近いのが現状なのだ。

『Business Law Journal』2014年2月号に寄稿した『解雇規制の誤解』

 最近、解雇規制をめぐる議論がかまびすしいが、非常に多くの人々が誤解していることがある。それは、日本は他の欧米諸国より解雇規制が厳しいと思われていることだ。経済学者や一部法学者までそういう誤った認識で語る傾向があるのは嘆かわしいことである。
 日本の労働契約法16条は「客観的に合理的な理由を欠き、社会通念上相当であると認められない」解雇を権利濫用として無効としているに過ぎない。解雇できるのが原則であり、権利濫用は例外である。ところが、その例外が非常に広くなっている。特に、欧米では最も正当な解雇理由である経済上の理由による整理解雇が、日本では最も不当な解雇とみなされているし、能力不足を理由とする解雇もなかなか認められない。しかし、それは解雇規制のせいではなく、企業の人事労務管理が鏡に映っているだけなのである。
 この問題を考える出発点は、日本の「正社員」と呼ばれる労働者の雇用契約が世界的に見て極めて特殊であるという点である。諸外国では就職というのは文字通り「職」、英語で言えば「ジョブ」に就くこと、つまり職務を限定して雇用契約を結ぶことであり、通常勤務地や労働時間も限定される。それに対して日本の「正社員」は、世間で「「就職」じゃなく「就社」だ」といわれるように、職務を限定せずに会社の命令次第でどんな仕事でもやる前提で雇われる。また勤務地や労働時間も限定されないのが普通である。こういう「無限定」社員を、われわれ日本人はごく当たり前だと思っているが、実は世界的には極めて特殊なのである。
 そういう日本型「正社員」は、たまたま会社に命じられた仕事がなくなったからといって簡単に解雇されない。なぜなら、どんな仕事でも、どんな場所でも働くという約束なのだから、会社側には別の仕事や事業所に配転する義務があるからである。社内に配転可能である限り解雇は正当とされないのだ。これを労働法の世界では解雇回避努力義務というが、それは「就職」ではなく「就社」した人々だからそうなるのである。
 欧米で一般的な「ジョブ」型の雇用契約では、同一事業場の同一職種を超えて配転することができないので、労使協議など一定の手続を取ることを前提として、整理解雇は正当なものとみなされる。それに対して日本型「正社員」の場合は、雇用契約でどんな仕事でもどんな場所でも配転させると約束しているため、整理解雇はそれだけ認められにくくなる。
 日本は解雇規制が厳しすぎるのではない。解雇規制が適用される雇用契約の性格が「なんでもやらせるからその仕事がなくてもクビにはしない」「何でもやるからその仕事がなくてもクビにはされない」という特殊な約束になっているだけなのだ。ヨーロッパ並みに整理解雇ができるようにするためには、まず「何でもやらせる」ことになっている「正社員」の雇用契約のあり方を見直し、職務限定、勤務地限定の正社員を創り出していくことが不可欠の前提であろう。 

『生産性新聞』2015年3月5日号に寄稿した『解雇の金銭解決と訴訟物』

 現代日本の解雇法制をめぐる誤解は少なくありません。日本は法律で解雇を厳格に規制しているという思い込みもその一つですが、労働契約法第16条を一瞥しただけでそれが誤解であることがわかります。西欧では解雇のもっとも正当な理由になる経営上の理由による職の喪失が、日本の大企業正社員ではもっとも許されない解雇類型となるのは、職務の定めなき雇用契約というシステム論的理由によるものであって、法規制の故ではないことは、私が繰り返し説いてきたとおりです。
 解雇をめぐるもう一つの誤解は、金銭解決制度を認めるべきか否かが大きな争点になっていることです。国会では、野党議員が首相に「金銭解決を認めるのか」を繰り返し問うという事態まで起こっています。まるで現代日本では解雇の金銭解決が禁止されているかのようです。もちろん、現代日本において、解雇の大部分はおそらく泣き寝入り等の未解決ですが、少数派の解決事案の圧倒的大部分は、金銭解決されています。労働局等のあっせんにおいても、裁判所の労働審判においても、いや訴訟においてすら過半数は判決に至らず和解で解決しており、その圧倒的大部分は金銭解決です。日本国の法律に、解雇を金銭解決してはならないなどという馬鹿げた規制は一つもありません。
 ではなぜ金銭解決制度の導入が立法政策論として問題になるのか。その原因は労働実体法ではなく、民事訴訟法の訴訟物理論にあるのです。訴訟物とは、訴訟における請求の対象のことで、お金を払えという給付の訴えと法律関係の確認の訴えでは訴訟物が違います。民事訴訟法学では新旧訴訟物理論というのがあって、たとえば賃貸借契約終了に基づく返還請求と所有権に基づく返還請求は、旧訴訟物理論では別々の訴訟物ですが、新訴訟物理論では紛争実態から見てひとつの訴訟物になります。「手段的権利が複数存在するにとどまり、訴訟で解決すべき目的は一個であるとみるべき」(三ヶ月章『民事訴訟法第二版』弘文堂)という考え方からです。とはいえ、さすがに金銭給付請求と地位確認請求をひとつの訴訟物ととらえるような理論は存在しません。
 しかし一方、労働紛争の社会的実態からすれば、不当解雇に対して補償金を支払えという請求と、解雇は無効だからその間の未払い賃金を支払えという請求は、ものの言い方が違うだけで、ほとんど変わりはありません。判決で解雇無効となっても、職場に復帰して就労する権利は認められないのですから、地位確認請求といってもその実態は金銭給付請求と選ぶところはないのです。こういう法社会学的認識が、残念ながら民事訴訟法学には的確に取り込まれていないために、訴訟で判決に至らなければあらゆるレベルの紛争解決システムで自由自在に行われている金銭解決が、まるで法律で禁止されているかのように思い込まれてしまうわけです。
 これがはっきり現れているのが同じ裁判所で行われている労働審判です。労働審判でも解雇事案の圧倒的大部分は解雇無効による地位確認請求です。伊藤幹郎・後藤潤一郎・村田浩治・佐々木亮著『労働審判を使いこなそう!』には、「申立人が必ずしも職場に戻るつもりがなくても地位確認で行くべきである。・・・必ずしも職場に戻る意思がなくとも、そのように主張しないと多くの解決金は望めないからである」という記述があります。しかし、労働審判は訴訟ではないので訴訟物理論に縛られません。地位確認請求に対して、金100万円を支払えというような審判が下され、それで誰も不審に思いません。法社会学的な現実に即した対応が可能になっているのです。

『労基旬報』2021年2月25日号に寄稿した『解雇の金銭救済制度はなぜねじれにねじれるのか? 』

 過去20年間、労働時間法制や非正規労働法制など大きく変わってきた分野に対比して、議論ばかりが繰り返されながらほとんど何も進展がなかった分野が解雇法制、とりわけその金銭解決(補償/救済)制度です。2003年の労働基準法改正時には国会提出直前に蹉跌し、2007年の労働契約法制定時にはもとになった研究会報告でかなり詳細な制度設計をしながらも労政審の審議でいつの間にか消滅しました。その後「日本再興戦略」を受けて、2015年10月から「透明かつ公正な労働紛争解決システム等の在り方に関する検討会」で議論され、2017年5月に一旦その報告書が出されたものの、2018年6月からさらに「解雇無効時の金銭救済制度に係る法技術的論点に関する検討会」を設置して、前記報告書が提起した金銭解決制度の法技術的論点の検討を続けています。2020年に入ってからは1年近く動きがありませんでしたが、ようやく2020年11月に再開し、その議論の整理では、これまでの形成権構成に加え、新たに形成判決構成が並列されています。この両者を対比させてざっと見ておきましょう。
 形成権構成では、無効な解雇等により金銭救済請求権(形成権)が発生し、その行使として訴えの提起等がなされ、これにより解消金債権が発生し、その金額が判決確定によって判明するとともに、訴えの提起により解消金支払いの条件付き労働契約の終了という効果が発生し、解消金支払という条件成就に伴い労働契約が終了します。
 これに対し形成判決構成では、無効な解雇等は形成原因の発生に過ぎず、解消金債権の発生と解消金支払い条件付き労働契約の終了の判決を求める訴えを提起し、認容判決が確定することにより解消金債権が発生するとともに、解消金支払条件付き労働契約の終了という効果が発生し、解消金支払という条件成就により労働契約が終了します。
 形成権構成では原則的には裁判外でも公使可能ですが、制度創設時には訴えの提起又は労働審判の申立てに限り、裁判外での権利行使の可否については制度創設後の状況等を踏まえて検討します。形成判決構成では訴えの提起又は労働審判の申立てによりますが、労働審判で実現することが可能かという問題があります。
 また、解消金の構成と支払の効果については、労働契約解消金の支払のみによって労働契約が終了するという構成と、バックペイの履行確保の観点から、労働契約解消金に加えて(併合提起した)バックペイも支払ったときに労働契約が終了するという構成を示しています。後者には、バックペイを先に充当する旨の特則を労働契約法に規定し、バックペイ弁済後解消金の支払により労働契約が終了する案、バックペイを労働契約解消金に含める案があります。
 解消金で補償すべき範囲は現在の地位に反映された解雇前の就労実績の喪失と契約終了後の将来得べかりし賃金等の経済的損失であり、その考慮要素としては勤続年数、給与額、企業規模、年齢が挙げられていますが、年齢については低いほど今後就労する期間が長く経済的損失が大きいという評価と、年齢が高いほど再就職が困難となり経済的損失の補償の必要性が高いという相反する評価が示されています。
 算定方法については、客観的な考慮要素のみで算定式を構成して基準額を算定した上で、一定の評価を要する考慮要素によって等が基準額を増減する方法と、基礎的な部分について一部の定型的な考慮要素のみで算出し、それに加わる部分については上限を決めるのみで、その他の個別的な要素を考慮して算定する方法が示されています。
 このように、一見法技術的な議論が煮詰まってきているように見えますが、そもそも現実の労働社会において膨大な数に上っている解雇の法社会学的実態から考えた時、上述のような法技術的な議論のどれほどが多くの労働者にとって意味のあるものであるのか、大変疑わしいという感を免れないものがあります。本紙でも何回も書いてきたように、日本では労働紛争が裁判所に到達するのは極めてわずかな数でしかありません。ヨーロッパ諸国のように労働裁判所で年間数十万件の事案を処理しているような国とは違うのです。筆者は裁判所まで行かない主として中小零細企業における個別労働紛争とその解決の実態を探るため、都道府県労働局におけるあっせん事案の内容を分析し、『日本の雇用終了』や『日本の雇用紛争』(労働政策研究・研修機構)として公刊しましたが、そこでは解決する事案ですら平均して10万円台の解決金で解決しており、むしろ解決しないものの方が多いのが実態です。世の中の実態としては、日本も解雇は金銭解決されている国なのです。なのに、それを法律に書こうとすると、法技術的な難問がぞろぞろ出てきてなかなか収拾がつかないという訳の分からない事態になってしまうのです。ごくごく上澄みの判例法理だけで細かな議論を積み重ねれば重ねるほど、圧倒的に多くの労働者とは縁遠い空虚な制度設計になっていくだけではないでしょうか。
 それにしても解雇の金銭救済という問題はなぜここまで込み入った話になってしまったのでしょうか。解雇自由が原則のアメリカを除けば、ヨーロッパ諸国にはいずれも何らかの解雇規制がありますが、その救済制度としては金銭解決が一般的です。それがなぜ日本ではこんなに難しいのでしょうか。
 その最大の理由は、権利濫用法理というもともと例外的な状況に対してのみ最後の手段として取り出してくるべき法理を、よほどのことがない限り適用されるべき原則的な法理として確立してきてしまったことにあると思われます。いわずもがなですが、権利濫用とは、民法1条3項に規定される超一般原則です。普通はそれぞれの法律におけるそれぞれの規定に従って動いているけれども、それでは社会正義に反することになってしまう、しかしそれにうまく当てはまる法規定が見つからないという絶体絶命の状況で、突然神様が天から降りてきて、「この紋所が目に入らぬか!」とひっくり返してしまう万能の武器が権利濫用法理なのです。民法の授業では、信玄公旗掛松事件とか宇奈月温泉事件が必ず教えられますね。
 ところが労働法の世界にくると、権利濫用と言いながら解雇に正当事由がなければ権利濫用になってしまうという、原則と例外が完全に逆転した法理になってしまいます。もちろん、もともとの民法では解雇自由が原則だったので、それに対して労働法の世界が丸ごと例外なのだといえばそうなのですが、その膨大な、もはや原則の存在する余地のないくらいの例外が、依然として例外としての法的規定のまま存在し続けていることが、今日解雇の金銭救済をめぐって法技術的論点に頭を悩ませなければならない大きな原因になっているのだと思われます。
 解雇はもともと自由に行使することのできる権利でした。それを前提に、しかしこの事案ではあまりにひどいから、権利濫用法理を使って特別に例外的に解雇を無効にしてやろう、と、最初は考えたのでしょう。そして、そういう例外的処理が山のように積み重なっていきました。しかし、どんなに積み重なっても例外的処理は例外的処理です。絶体絶命の状況で天から降りてくる葵の御紋です。一般原則として、この解雇はこれほどに不当だから無効にしてやろう、この解雇はこの程度しか不当でないから無効にはせず、金銭の支払いで許してやろうとか、そういう全体的な目配りができるような仕組みにはならなかったのです。
 大変皮肉ですが、ヨーロッパ諸国のように早い段階で法律上に解雇規制を書き込むという法政策が採られていれば、そういうこともできたかもしれませんが、残念ながらそういう機会を逸してしまい、2003年に労働基準法改正によって初めて解雇権濫用法理がそのまま法律上に規定されることになりました。
 とはいえ、あらためて考えてみると、この2003年改正時にもう少し落ち着いて法政策の在り方を深く考える余地はあったようにも思われます。この時、それまでの判例法理をそのまま立法化するという触れ込みだったのですが、よくよく考えれば、それまでの判例はいかに膨大な数に上るとはいえ、すべて個別事案に対する個別判断の積み重ねに過ぎません。その当該解雇事案については、正当な理由がないから無効だと判断してきただけであって、およそ正当な理由がない解雇はすべて無効だというような一般原則を定立したわけではありません。この事案はひどいから無効だけれども、別の事案はそこまでいかないから金銭を払えば有効にしてもいい、というような判断がありうることを否定していたわけではありません。
 その意味では、今日解雇の金銭救済制度で、例外的な状況だから無効という大前提の上に、金銭救済制度を考案しなければならないという「無理ゲー」をしなければならなくなった原因は、あまり深く考えずに判例法理を「そのまま」実定法に書き込んでしまった2003年改正にあったのかもしれません。

そして、一番最近では、『中央公論』2024年12月号に寄稿した『政治家もメディアも解雇規制を誤解している-問題は法ではなく雇用システム』

去る9月27日に自由民主党の総裁選挙で石破茂氏が総裁に選出され、10月1日の臨時国会で内閣総理大臣に指名されて石破茂内閣が発足した。石破首相は臨時国会会期末の9日に衆議院を解散し、27日投開票の衆議院議員選挙で自民党は連立政権を組む公明党と合わせても過半数を割る大敗を喫したが、比較第一党には留まり、連立の組み替えなどを模索している。
 今回の自民党総裁選ではさまざまな論点が議論の俎上に載せられたが、その中でも政治家やマスメディアの関心を惹いたものの一つに、解雇規制をめぐる問題があった。とりわけ総裁選が始まった当初は最有力候補と目されていた小泉進次郎氏が、結果的に石破、高市早苗両氏の後塵を拝して3位に終わった原因の一つとして、彼が立候補表明時に「労働市場改革の本丸である解雇規制の見直し」を掲げたことが指摘されている。
 小泉氏は「現在の解雇規制は、昭和の高度成長期に確立した裁判所の判例を労働法に明記したもので、大企業については解雇を容易に許さず、企業の中での配置転換を促進してきた」と述べ、「人員整理が認められにくい状況を変えていく」と訴えたことで、多くの批判を浴びた。また、結果的に候補者9人中8位と惨敗した河野太郎氏も、解雇規制の緩和や解雇の金銭解決を主張していた。
 この間、マスメディアではやや通り一遍の解説がいくつか掲載されはしたが、この問題の本質を雇用システム論を踏まえて論じたものは少なかったように思われる。本稿は、この問題を考えるうえで必要最小限の論点を提示し、世上にはびこる「解雇規制をめぐる誤解」を解きほぐそうとするものである。
 
法規定上の「解雇規制」は強くない
 まずもって、政治家もマスメディアも「解雇規制」という言葉を何の疑いもなく使っているが、そもそも日本の実定法上に解雇を規制する法律は存在しているのだろうか。小泉氏が言うような「大企業については解雇を容易に許さず、企業の中での配置転換を促進」するような法規定があるのだろうか。
 実定法上、特定の解雇を規制する規定は存在している。労働基準法は30日前の解雇予告を義務付けるとともに、産前産後休業中と労災休業中の解雇を禁止しているし、労働組合法は組合員であることを理由とする解雇を禁止、男女雇用機会均等法、育児・介護休業法等々、特定の解雇を規制する法規定は結構ある。しかし、小泉氏が想定しているような法規定は存在しない。
 というと、いやいや、労働契約法第16条が解雇を一般的に規制しているではないかという声が出てくるだろう。しかし同条は「解雇は、客観的に合理的な理由を欠き、社会通念上相当であると認められない場合は、その権利を濫用したものとして、無効とする」と述べているだけである。これこそが解雇を困難にしている元凶であり、速やかに削除すべきだと主張する人もいる。ではこの条文を削除したらどうなるだろうか。何も変わらないのである。本条は2007年に労働契約法が制定されたときに労働基準法第18条の2が平行移動したものだが、同規定は03年の改正で書き込まれたもので、それまでは存在しなかった。では03年改正まで解雇は原則として自由だったのかといえばむしろ逆で、六法全書のどこにも書かれていない解雇権濫用法理によって、現在と同様に裁判所では多くの解雇事案が権利濫用ゆえに無効と判断されていた。
 権利濫用法理とは民法第1条第3項に「権利の濫用は、これを許さない」と書かれている一般原則で、法律上行使できる権利であっても濫用してはならないという当然の理路に過ぎない。問題は何が権利の濫用に当たるかだが、労働契約法第16条は「客観的に合理的な理由を欠き、社会通念上相当であると認められない場合」という、それ自体としては何ら特定性のない一般的な文言を示しているだけである。従って、いかなる解雇がこれに該当するかは、1950年代以来蓄積されてきた判例によってしか判断できない。
 小泉氏が想定しているのはおそらく、整理解雇4要件と呼ばれるものの第2要件「解雇回避努力義務」であろうが、これは最高裁判例ですらなく、1979年の東洋酸素事件という東京高等裁判所の下級審裁判例があるに過ぎないのだ。しかしながらそれ以来、圧倒的に多くの裁判例において、裁判所はこの枠組みに従って判断してきた。
 
日本型雇用特有の「職務無限定」性
 ではなぜかくも茫漠とした一般的な解雇権濫用法理が、小泉氏の言う「人員整理が認められにくい状況」を生み出してきたのだろうか。それは、社会の現実に国家が介入するという意味での法規制のゆえではなく、社会の現実が無効とすべき権利濫用の中身を決定づけてきたからである。社会の現実とは何か。それは、企業と労働者の間の雇用契約関係の在り方であり、近年流行の用語法でいえば、欧米アジア諸国で普遍的なジョブ型雇用契約ではなく、日本独特のメンバーシップ型雇用契約である。
 産業革命以来、日本を除く世界の雇用契約のスタンダードは、まず職(ジョブ)があり、そこに人をはめ込むというものである。借家契約が家主と借主が特定の住宅について設定する賃貸借契約であるのと同様、雇用契約も使用者と労働者が特定の職務について設定する労務の賃貸借契約である。募集採用もすべて特定の職務をめぐる欠員補充であるし、社内昇進も公募への応募という形をとる。これを言葉の正しい意味での就「職」と呼ぶならば、日本に就「職」はほとんど存在しない。
 では日本で「しゅうしょく」と呼ばれているものの内実は何かといえば、共同体の一員として会社に入ること(入社)を意味している。使用者と労働者は特定されるが、具体的にいかなる職務を遂行するかという、日本以外であれば最も重要であるはずの要素が、日本の雇用契約では限定されていない。それゆえ原理的には、社員にとっては会社の中に存在する全ての職務が、会社の命令によって従事する義務の対象となりうる。実際、日本の最高裁判例によれば、契約上絶対に他の職務には回さないと言っていない限りは、配置転換を受け入れる義務がある(1989年の日産自動車村山工場事件判決)。
 ごく最近になって、将来就く職務についての明示義務が省令に規定されたり、職種限定の労働者を会社が一方的に配置転換するすることができないという最高裁判例が出たりして、若干の動揺はあるとはいえ、今日でもなお職務無限定性こそが日本の雇用契約の特徴である。これを筆者は欧米アジア諸国の「ジョブ型」に対して、日本独特の「メンバーシップ型」として定式化してきた(『ジョブ型雇用社会とは何か』岩波新書)。
 
強大な人事権に伴う解雇回避の義務
 会社側がそれだけ強大な人事権を持っているので、逆に社内で配置転換が可能な限り、解雇は正当とされにくくなる。これは規制ではない。雇用契約で職務が特定されていれば、その職務が消滅するのであれば、他の職務に配置転換することが許されない以上、配置転換によって解雇を回避する努力義務などいうものはありえない。しかし、社内のいかなる職務にも配置転換する権利を会社が有しているのであれば、いざというときには当然その権利を行使すべきであって、幾らでもできるはずの配置転換をあえてやらずに「君の仕事はなくなった」などと言って整理解雇することが許されないのは当然であろう。
 多くのジョブ型社会には解雇規制立法が存在し、不当な解雇を禁止している。特にヨーロッパ諸国には事細かな解雇の手続規制も存在するが、職務がなくなるがゆえに解雇するという整理解雇は、それが真実である限りあらゆる解雇類型の中で最も正当な解雇理由である。これに対して能力不足解雇や労働者個人の問題を理由とする解雇は厳しく制限されることになる。
 これと対照的に、社内のあらゆる職務に従事しうる日本のメンバーシップ型社員の場合、経営危機で会社自体が収縮し、社内に配置転換可能な職務が存在しないという状況に追い込まれない限り、整理解雇が正当と認められにくくなる。この現状を「人員整理が認められにくい状況」と表現するのは正しいが、それはいかなる意味でも、実定法の規定が会社の意図に反して上から押しつけている規制ではない。会社が行使できる強大な人事権が、いざというときに自らを拘束しているに過ぎない。
 なお、日本では整理解雇だけでなく能力不足解雇も認められにくいとよく言われる。確かにそうだが、その理由も雇用契約の職務無限定性にある。社内のどんな仕事にも就けられるのだから、ある仕事ができなくても探せばやれる仕事があるだろう、というわけだ。欧米アジア諸国のジョブ型社会では、具体的な職務に関して雇用契約を結ぶのであるから、当該職務を遂行する能力が著しく劣る者を解雇することは、それをきちんと証明することを条件として正当と認められる。とはいえ、それは「私はその仕事ができます」と言っていたのに、採用して実際にやらせてみたら全然できないというような場合に限られる。長年その仕事をやらせて、言い換えればその仕事のスキルに文句をつけずに労務を受領し続けておいて、5年も10年も経ってから能力不足だと言いがかりをつけて解雇することが認められるわけではない。
 
法改正では「解雇規制緩和」は困難
 さてこのように見てくると、小泉氏が言う「大企業については解雇を容易に許さず、企業の中での配置転換を促進」したり「人員整理が認められにくい状況」を生み出してきたのは、会社の意思に反して上から押し付けられる法規制ではなく、労働者を会社内のいかなる仕事にも就けることが可能な強大な人事権にあることが分かるだろう。この人事権も、別に実定法のどこかに規定されているわけではなく、現実の日本企業の姿に対応して、過去の判例が積み上げてきた配置転換法理として存在しているに過ぎない。日本の労働法制というのは、肝心かなめの部分というのは法規制ではなく、会社の現実の姿を映し出した判例法理という形で存在しているのである。
 では、それを変えるためにはどうしたらいいのだろうか、法律の規定改正でそれが可能になるのだろうか。筆者がかつて政府の規制改革会議雇用ワーキンググループに呼ばれて意見を述べた時、「労働契約法第16条が問題ではないか」と問われたことがあるが、同条は権利を濫用してはいけないという当たり前のことしか述べていないので、改正することは不可能だ。まさか「解雇は、客観的に合理的な理由を欠き、社会通念上相当であると認められない場合であっても、その権利を濫用したものとはみなさず、有効とする」などとは改正できまい。面倒くさいとばかりに同条を削除してみても、2003年改正以前に戻るだけである。1990年代末に規制改革会議で八代尚宏氏らが解雇規制の緩和を主張し始めたときには、六法全書上には解雇権濫用法理の規定などまったく存在していなかったのだ。
 筆者がかつて2013年に当時の産業競争力会議雇用・人材分科会に有識者として呼ばれたとき、一つの案として提示したのは、未だに法規制としては存在していない解雇に係るルールを、法律上明確に法規制として書き込んでしまうというものであった。皮肉な言い方だが、欧州並みに解雇規制を設ければ、その例外(解雇できる場合)も明確化するだという理路である。具体的には、次のような条文が考えられる。
第○条 使用者は次の各号の場合を除き労働者を解雇してはならない。
一 労働者が重大な非行を行った場合。
二 労働者が労働契約に定める職務を遂行する能力に欠ける場合。
三 企業経営上の理由により労働契約に定める職務が消滅または縮小する場合。ただし職務が縮小する場合には、解雇対象者は公正に選定しなければならない。
2 前項第三号の場合、過半数労働組合または従業員を代表する者に誠実に協議をしなければならない。
 「労働契約に定める職務」というのが明確に限定されている場合、この条文は意味を持つ。また、今回小泉氏が強く主張していた整理解雇時にリスキリングや再就職支援を義務付けるというのも、第2項に追加して「前項第三号の場合、・・・解雇対象者に対する能力再開発訓練を実施するとともに、他の企業への再就職を支援しなければならない」との規定を設ければ実現できる。
 ただし言うまでもないが、この条文はあくまでも「労働契約に定める職務」が限定的に存在することを前提にしたジョブ型の法規定である。いつでもどこでもなんでもやる無限定正社員と企業の強大な人事権をそのままに維持しておきたいのであれば、これはほとんど解雇禁止規定になってしまうであろう。従って、なお圧倒的に多くの日本企業がメンバーシップ型であり続けようとしている今日、このような提案が実現する見込みはほとんどない。
 
現実が先行する「解雇の金銭解決」
 解雇についてはもう一点、河野太郎氏が言及した金銭解決という問題がある。これは実際に、2003年以来20年以上にわたって労働政策において検討が続けられ、現在は労働政策審議会労働条件分科会で審議対象となっている案件である。筆者自身も、政府の要請に応じて実際に行われている解雇の金銭解決の実情を調査し、報告書にまとめ、その内容は政府の検討会や審議会に報告されており、この問題の当事者でもある。しかしここでは、そもそも解雇の金銭解決制度の創設という問題設定そのものの問題点を指摘しておきたい。
 解雇の金銭解決制度が必要だという前提で政策が動いてきている以上、日本では解雇は金銭解決できないと思っている人がいるかもしれないが、日本の実定法上で解雇を金銭解決してはならないなどという法律はどこにもない。むしろ、現実には解雇の圧倒的大部分は金銭解決されているのである。金銭解決ができない、正確に言うと金銭解決の判決が出せないのは、裁判所で解雇無効の判決が出た場合のみである。判決に至るまでに裁判所で和解すれば、解雇事案の大部分は金銭解決しているし、あるいは同じ裁判所でも労働審判という手続きをとれば、やはり解雇事案のほとんど金銭解決している。行政機関である労働局の個別労働関係紛争のあっせんであれば、金銭解決しているのが3割で、残りはいわば泣き寝入りの方が多い。そこまで行かないものも山のようにあるだろうから、現実に日本で行われている解雇のうち、そもそも金銭解決ができなくて問題となっているというのは、氷山の一角というのも言い過ぎで、本当に上澄みの一部だけである。
 筆者は労働局のあっせん事案を千数百件ほど分析したが、むしろ問題は3割しか金銭解決していないことに加えて、金銭解決している事案についても、例えば解決金の中央値は16万円程度に過ぎないという金額の低さにある。労働審判における金銭解決水準の中央値は概ね150万円であり、裁判上の和解であれば300万円程度であることを考えると、金銭解決の基準が明確になっていないために、非常に低額の解決をもたらしているか、あるいは解決すらしていないことになる。大企業の正社員でお金のある人ほど裁判ができるが、そうではない中小零細企業や、あるいは非正規の人になればなるほど裁判はできない。弁護士を頼むということもできず、低額の解決あるいは未解決になっていることに着目をして、まさに中小零細企業や非正規の労働者の保護という観点から、解雇の金銭解決を法律に定めていくことには意味があるのではないかと考えられる。
 ところが、現在政府の審議会で議論されている解雇の金銭救済制度案というものは、あくまでも裁判において解雇が無効である場合に原職復帰の代わりに金銭救済を労働者が請求できるという極めて限定的な制度設計になっている。そのようになった経緯はいろいろあるのだが、現実社会に存在する事実上の金銭解決とは切り離された議論になってしまっている感が強い。現実社会の解雇は大部分が金銭解決しており、むしろ低額の解決が問題になっているにもかかわらず、なぜこの問題はここまで込み入った話になってしまったのだろうか。詳細な解雇規制立法を有するヨーロッパ諸国でも、ドイツやフランスのように解雇は金銭解決が一般的なのに、なぜ日本ではそれが難しい話になるのだろうか。
 その最大の理由は、例外的な状況に対して最後の手段として持ち出してくるべき権利濫用法理を、よほどのことがない限り常に適用される原則的な法理として確立してしまったことにある。権利濫用法理と言いながら解雇に正当事由がなければ権利濫用になってしまうという、原則と例外が逆転した法理になっているのだ。
 
的外れではなかった河野氏の主張
 皮肉な話であるが、ヨーロッパ諸国のように解雇を正面から規制する立法をしておけば、その例外としての金銭解決を法律上に規定することも簡単であったろう。実際、日本労働弁護団は2002年に、解雇の原則禁止規定に加えて金銭賠償規定も盛り込んだ「解雇等労働契約終了に関する立法提言」を公表していた。
 こうしてみると、河野氏の「会社都合で一方的に解雇されたときに金銭補償のルールがあることが大事だ」という主張はそれほどおかしなものではないし、その論拠として「中小零細企業の従業員は、会社都合で解雇されたのに金銭の補償がなされない場合が少なくありません」というのも、(多くのマスメディアの報道に反して)むしろ現実を見据えたものであったといえよう。小泉氏の議論と同列に批判されたのは、やや気の毒な話ではあった。今後の解雇規制に関する議論は、せめてこの水準から始めてもらいたい。

 

2026年10月 7日 (水)

山崎憲『AI時代の労働・協働・公共性』

680724 山崎憲『AI時代の労働・協働・公共性 人間は何のために働き、生きるのか』(明石書店)をお送りいただきました。

https://www.akashi.co.jp/book/b680724.html

「AIは仕事を奪うのか」という問いを超えて、社会思想史を辿って労働の観念を問い直し、新たな時代の働き方・生き方を探る。人が人とつながり何かを一緒につくる関係まで企業が測定し所有する時代に、人間が働くこと、その先にあるものを考える必読の一冊。

メインタイトルを見ると、AI時代の労働の在り方を論じたアクチュアルな本という印象を受けますが、読み進んでいくとむしろ、副題の哲学的な問いが繰り返し出てきて、なんというか、労働に関わるあれやこれやは哲学的な問いのための素材として使われているようにも見えます。

なので、この本は恐らく読者を選びます。人によっては、そういう変に哲学的な問いが繰り返されること自体を「うざい」と感じて、途中でそっと閉じてしまいたくなる人もいるかも知れません。

でも「あとがき」を読むと、山崎さんはまさにそういう哲学的な議論がしたくてこの本を書いているのであって、トレードが解体してジョブが成立したとか、会社荘園制がどうしたとか、そういうここの議論を突き詰めたくてこの本を書いているのではないのです。

プロローグ AIは仕事を奪うのではない
 第1節 協働がスコアになる
  業務インフラはいつセンサーになったのか
  成果ではなく「つながり」が測られる
  見えない協働はなぜ放置できなくなったのか
  「なんのために生きるのか」の喪失
 第2節 「労働」「仕事」「活動」と、人間の条件からの逃避
  労働・仕事・活動は何を区別するのか
  公共空間は場所ではなく関係である
  協働の測定は「活動」を「労働」へ落とす
  臣民化と超越という二つの逃避
 第3節 疎外されない労働はありうるか
  疎外は消えず、対象を変えた
  奪われるのは仕事より交渉である
  協働の公共性とは何か
  本書の問いと論証の道筋

第1章 協働はどのように考えられてきたか
 第1節 協働を公共として考える系譜
  なぜ協働を公共として考えるのか
  市民的友愛は何を支えたのか
  複数性と「現れの空間」
  公共は対立を持続可能にする
 第2節 協働を制度として考える系譜
  市場以前、協働はどこに埋め込まれていたか
  脱埋め込みは自由と孤立を同時に生む
  取引と継続体という見方
  共有資源の統治から〈共〉の生産へ
  協働はなぜ有限な共有財なのか

第2章 市民は登場し、しかし工場労働は置き去りにされた
 第1節 所有を持つ市民という出発点
  自分の身体は自分のものである
  労働は所有の根拠になった
  契約は身分からの解放であった
  市民像に埋め込まれた所有者の影
 第2節 革命と権利の承認は誰を市民にしたのか
  宣言は人を権利主体として作った
  普遍を掲げながら、誰が排除されたか
  自由と平等の間にある友愛
  権利の承認と価値の承認を区別する
 第3節 工場労働はなぜヒューマニズムの外に置かれたのか
  同感は市場社会を支えられるか
  分業は豊かさと能力の萎縮を同時に生む
  請負から雇用へ――過程の支配権が移る
  労働力の売買は何を移転するのか
  市民は工場の門前で止まった
 第4節 近代の文法はなぜ管理社会と親和するのか
  契約化された個人はデータ単位になる
  分業はタスク化へ進む
  自律は自己管理へ変わる
  価値の評価が権利に入り込む

第3章 近代をどう捉えるか――産業主義と思想
 第1節 産業主義は世界をどう作り変えたか――収斂のロジック
  産業社会は共通の制度を必要とする
  「ルールの網」
  収斂は西欧化を意味するのか
 第2節 自律・承認・疎外――ドイツ観念論からマルクスへ
  自律――意志が自らに法則を与える
  承認――自由は他者との関係で現実になる
  疎外――労働の成果と活動が自分から離れる
 第3節 経済と歴史をどう捉えるか――歴史学派・カー・プラグマティズム
  経済は歴史の中で作られる
  歴史は現在と過去の対話である
  利害の調和
  行為の中で知り、制度を変える
 第4節 ウェーバー――神・天職・脱魔術化
  天職は仕事にどのような意味を与えたか
  禁欲は蓄積と規律を生んだ
  脱魔術化は意味を消し、手続きを残す
  鉄の檻からスコアの檻へ
 第5節 自律=観照か、複数性=活動か――決定不能という蝶番
  判断するために距離を取る
  活動は他者の前に現れる
  参加と距離を往復する
  決定不能を制度の問題へ送る
 第6節 AIは近代の自由と規律をどう組み替えるか
  自律が自己管理へ変わる
  承認が評価へ置き換わる
  協働が外部の力として戻る

第4章 トレードの解体とジョブの成立――協働はなぜ共有財なのか
 第1節 トレードとは何だったか――交渉される自治的労働
  トレードは技能と身分の共同体だった
  職務境界は何を守ったのか
  ジョブ・コントロール・ユニオニズム
  自治は誰を排除したか
 第2節 ジョブはどう成立したか――管理可能な職務への解体
  請負の解体と直接雇用
  雇用官僚制と内部労働市場
  ジョブは防御壁でもあった
  職務境界の解体と柔軟な配置
  エンプロイアビリティは誰の責任か
 第3節 取引と継続体としての組織
  分析単位を商品から取引へ移す
  交渉取引――拒否できる関係
  管理取引――命令と服従の秩序
  割当取引――集団がルールを決める
  ゴーイング・コンサーンとワーキング・ルール
  将来価値と労働の所有権移転
 第4節 行為の中で知る――制度の改変可能性
  習慣は制度を支え、制度は習慣を作る
  産業の論理と営利の論理
  問題から公共が生まれる
  制度は共同探究で改変できる
 第5節 交渉の不在化――本書の中心概念
  交渉の不在化とは何か
  誰が条件を変更できるのか
  三つの取引から見た交渉の不在化
 第6節 協働はなぜ有限な共有財なのか
  技能は個人にも企業にも帰属しない
  信頼と注意は使えば減る
  企業は果実を得るが、再生産費用は誰が負うか
  尊重された個人の協働か、統制を滑らかにする協働か

第5章 協働の功利的利用――金融資本主義の暴走と「王としての企業」
 第1節 金融資本主義の暴走と「資本をどう制御するか」
  企業はいつ私的政府になったのか
  所有と支配の分離
  秩序の危機としての労働争議
 第2節 独裁・革命・ニューディール――三つの応答
  自由放任はなぜ維持できなかったのか
  独裁――統一の名による対立の封鎖
  革命――所有関係の転覆
  ニューディール――対立の制度化
  ウィスコンシン学派と合理的価値
 第3節 科学的管理法はどう取り込まれたか
  組織的怠業と熟練の防御
  時間研究と知識の移転
  精神革命と交渉の後退
 第4節 会社荘園制とウェルフェア・キャピタリズム
  企業福祉と労使関係の内部化
  温情の制度化と雇用官僚制
  「近代の荘園」と協働の囲い込み
 第5節 メイヨーのエリート主義とリッカートの参加
  企業共同体の理想と人間関係論
  自己実現の理想と企業目的
  戦時動員と行動科学の巨大化
  参加型管理と協働の資源化

第6章 協働の発見と反転――心理を治める道具
 第1節 協働システムとしての組織
  協働としての組織
  誘因と貢献の均衡
  権威の受容と無関心圏
  組織存続のための協働
 第2節 発見はなぜ心理の管理へ反転したか
  所属感の生産性変数化
  所属感の測定と交渉の後退
  企業文化と規範的統制
 第3節 労働過程はどう支配されたか
  構想と実行の分離
  脱熟練化論の限界
  知識労働と協働の中で生まれる知識
 第4節 戦略と制度はなぜ協働を見えなくしたか
  企業境界と価値連鎖
  取引費用と階層統治
  組織能力と協働の資産化
  実践知と権利の空白
 第5節 批判はどこへ潜ったか
  制度構想から組織内部の批判へ
  管理の中立性への批判
  職場の公共性と独立した発言
  批判と制度の分離

第7章 協働はなぜ日本で公共概念にならなかったのか
 第1節 経営側が作った協働の制度
  保護から始まった協働
  福利・能率・調停の結合
  企業内交渉の制度化
  職場集団と心の組織化
  企業の外へつながる回路の細さ
  企業目的の内側に作られた協働
 第2節 批判的社会科学はなぜ協働へ向かわなかったのか
  国家と階級へ向かった批判
  生活と交渉を守る社会政策
  管理と交渉をつなぐ細い道
  労働研究から離れた主体性
  熟練と知識の企業能力化
  権限・所有・内面の分離
 第3節 協働を分けた学問領域
  経営と労働を一つに考える試み
  人間問題から人材管理へ
  協力の条件として測られる心
  仕事から離れる条件の個人化
  分かれた知識を結び直す場
 第4節 会社の内側に集められた承認
  会社身分制が配ったもの
  保護と協力の交換
  〈一人前〉から向上主義へ
  価値を示す場としての協働
  会社の外にあった協同の道
  制度の歴史が作った空白

第8章 AI管理社会――人間の条件の収奪と交渉の回復
 第1節 行動科学管理は何をAIへ渡したのか
  人間の条件と管理
  交渉取引・管理取引・割当取引
  管理知識の蓄積とAIによる統合
 第2節 AIによる協働の観察・配分・評価
  タスク化とプロセス管理
  協働のセンサーとしての業務インフラ
  組織ネットワーク診断と企業の視界
  動的プロフィールによる採用・配置・学習
  年次評価から連続的介入へ
 第3節 AI管理による人間の条件の収奪
  労働の内部に組み込まれた活動
  発言・関係・判断の企業資産化
  「活動」の「労働」化
  判断権の集中
  義務なき荘園
  協働の有限性と企業外の公共空間
 第4節 交渉の回復
  所有制度の変更と残る管理問題
  割当取引による管理限界の設定
  交渉取引による設計参加
  視界・判断権・異議申立ての共有
  三つの取引による協働統治
  「労働」内部の「活動」と公共空間
  コモン論の限界と交渉の公共性

終章 協働を公共へ返す
  協働の囲い込み
  労働を「仕事」と「活動」へ開く
  共同体幻想を超えて
  権利と交渉による多元的秩序
  有限な人間が問い続ける公共
  公共の継承

 あとがき
 参考文献

 

 

 

谷口明丈編『企業はどのように人を育ててきたか』

156bddb1704e4edfab2cf58eb6dc003f 谷口明丈編『企業はどのように人を育ててきたか——GE・日立・ジーメンスにおける人的資本の形成』(有斐閣)をお送りいただきました。ありがとうございます。

https://www.yuhikaku.co.jp/book/b10193585.html

GE・日立・ジーメンスを比較し,創業期から21世紀初頭までの人材育成制度の変遷を検証。技能労働者から経営幹部まで,教育制度はいかに戦略と結びつき,人的資本を競争優位へと転化させたのかを解明する。

GE,日立、ジーメンスという3社かける戦前、戦後、近年という3時期で計9章からなる比較経営史ということです。

序 章 課題とパースペクティブ(谷口明丈)
第1部 創業・発展期におけるエンジニアと熟練労働者──現場を担う人びとをどう育てたか
 第1章 ジーメンスにおける体系的企業内教育の形成──デュアル・システムの歴史的展開(田中洋子)
 第2章 GEにおけるエンジニアと熟練労働者の育成──テスト・コースと工場徒弟制を中心に(谷口明丈)
 第3章 日立製作所におけるものづくり人材の形成(菅山真次)
第2部 総合電機時代における管理者(マネジャー)──組織を担う人びとをどう育てたか
 第4章 GEにおけるマネジャー教育の改革とクロトンビル経営研修所の設立(宮田憲一)
 第5章 日立製作所における経営者教育の確立──経営研修所設立前後を中心に(長谷部弘道)
 第6章 ジーメンスのエンジニア・事務職員に対する教育訓練システム(石塚史樹)
第3部 「選択と集中」期における経営幹部(エグゼクティブ)──戦略を担う人びとをどう育てたか
 第7章 GEにおけるオフィサー養成の転換とクロトンビル経営研修所の改革(宮田憲一)
 第8章 「日立マン」から「グローバルリーダー」へ──日立総合経営研修所の変化を中心に(長谷部弘道)
 第9章 ジーメンスにおける経営者能力の養成システム(石塚史樹)
 終 章 総括とインプリケーション(谷口明丈)

ジーメンスが想像以上に「メンバーシップ型」であるというのが恐らく多くの読者に印象づけられる事実ではないでしょうか。

第9章に、ローラント・ブッシュ社長の履歴が載っていますが、

エアランゲン・ニュリンベルク大学及びグルノーブル大学で物理学を専攻し、博士号を取得して、

1994年に本社の中央R&D部門のプロジェクト長として職歴を開始し、

1995年本社の燃料電池技術のスペシャリスト職、

1997年上記に加え本社自動車技術事業部における戦略計画担当の事業部取締役アシスタント、

1998年本社スタッフ部門の中央品質管理、社内コンサルティング、情報マネジメントの長、

2001年本社スタッフ部門の戦略・社内コンサルティングの長、上記役職にあってジーメンスがM&Aした企業をSiemense VDO Automoteveとして統合

2002年子会社Siemense VDO Automoteveのインフォテインメント事業分野の長

2005年上記子会社のアジア太平洋部門の代表及びCEO

2007年本社の輸送システム事業部の大量輸送事業分野の長

2008年本社のスタッフ部門の企業戦略・コーポレートディベロプメントの長

2011年ジーメンスの取締役に任命

2019年ジーメンス副社長及び労働重役に任命

2020年加えてデジタル事業、スマート・インフラストラクチャー&モビリティ事業の最高責任担当

2021年ジーメンス社長に任命

最初こそ技術屋的なポストですが、その後はまことに何でもありのジョブ・ローテーションでゼネラリスト的人事経路ですね。

 

 

2026年10月 5日 (月)

EUクオリティ・ジョブ法第2次協議に対する労使団体の反応

去る7月20日に行われたクオリティ・ジョブ法に関する欧州委員会の労使団体に対する第2次協議に対して、欧州労連(ETUC)と欧州経団連(ビジネス・ヨーロッパ)がそれぞれけっこう膨大な意見書を公表しています。

ETUC Reply to Second-phase consultation of social partners under Article 154 TFEU on possible EU action to improve working conditions, health and safety at work and implementation of workers’ rights – Quality Jobs Act

BusinessEurope’s response to second-phase consultation of social partners under Article 154 TFEU on possible EU action to improve working conditions, health and safety at work and implementation of workers’ rights – Quality Jobs Act

エステル・リンチETUC事務局長の談話:

“The Commission has correctly diagnosed many of these huge challenges, which puts a responsibility on them to bring forward real solutions. 

"The haphazard way in which AI has been introduced into workplaces has led to widespread abuses that are playing their part in a dangerous rise in psychosocial risks.

“Clearly, tinkering with existing legislation is not going to be sufficient to deal with a technology revolutionising our workplaces. 

“The same commitment must be shown to tackling the widespread abuse of subcontracted workers, the green transition, the right to disconnect, or the 16 million people living in poverty despite working."

「委員会は、こうした数多くの重大な課題を的確に認識しており、それゆえに実効性のある解決策を提示する責任を負っています。

職場へのAI導入が無秩序に行われた結果、広範な形での不適切な利用が横行し、それが心理社会的リスクの危険な増大の一因となっています。

職場に革命をもたらしているこの技術に対処するには、既存の法規制を小手先で修正するだけでは不十分であることは明らかです。

下請け労働者の広範な不当な扱いや、グリーン・トランジション(環境に配慮した経済への移行)、『つながらない権利』、あるいは働いているにもかかわらず貧困状態にある1,600万人もの人々といった問題への取り組みにおいても、同様の姿勢が示されなければなりません。」

 

 

佐藤博樹・武石恵美子編『ホワイトカラーの働き方・暮らし方 』

82075d06e9b746a78b7f537466c4f426 佐藤博樹・武石恵美子編『ホワイトカラーの働き方・暮らし方 国際比較からみる日本の課題』(東京大学出版会)をお送りいただきました。いつもありがとうございます。

https://www.utp.or.jp/book/b10171858.html

DXの進展やグローバル化など、雇用を取り巻く環境に構造変化が起きている。この変化に対して、「日本的」といわれる雇用システムにおける働き方やキャリア形成で的確に対応できるのか? 日本の雇用の現場の課題について、国際比較調査から多角的にとらえる。

序 章 国際調査から日本の課題に接近する(武石恵美子・佐藤博樹)
第1章 5カ国の雇用制度と働き方・生活のあり方――労働時間を規定する要因は何か?(佐藤博樹) 
 
Ⅰ 日本の働き方の特徴は何か
第2章 ダイバーシティ経営の効果分析にみる日本の課題(武石恵美子)
第3章 働く人のキャリア自律の醸成に資する職場の要因(松原光代)
第4章 能力開発行動とダイバーシティマネジメント――新しいスキルの習得に着目して(池田心豪)
第5章 組織内キャリア自律と個人の能力開発行動(高村 静)
第6章 在宅勤務の普及実態と仕事と生活の両立(高崎美佐)
第7章 日本の管理職の部下育成行動の特徴とその規定要因(坂爪洋美)
第8章 職場の問題解決行動の国際比較――多様性と発言経路の影響に着目して(松浦民恵)
第9章 勤続意向を規定する要因――ワーク・ライフ・バランスと職場マネジメントの視点から(朝井友紀子)

Ⅱ 日本の暮らし方の特徴は何か
第10章 仕事と生活の時間配分にみる日本の課題(高見具広)
第11章 子育て社員の働き方とキャリア(矢島洋子)
第12章 育児休業などの取得に対する上司・同僚の態度とその規定要因(田中 茜)
第13章 なぜ長時間労働は解消しないのか――Work intensity of a household(百瀬由璃絵)

総論にあたる第1章では、佐藤博樹さんが5カ国調査に基づいて、「ジョブ型」「メンバーシップ型」という理念型的な類型化がどのくらいまで当てはまり、どのくらいまで当てはまらないのかを概観しています。

もちろん、理念型は理念型なので現実とは多かれ少なかれずれがあるのは当然なので、おおむねは、欧米はジョブ型的であり、日本はメンバーシップ型的ではあるものの、それぞれにそうでない面もけっこうあるという、いかにもなるほどという結果になっています。

採用:訓練可能性重視の新卒採用か、即戦力重視の経験者採用かにしても、職場や業務の変更:会社主導か、個人主導かにしても、給与制度:給与水準を決めるのは、職能か職務かにしても、おおむね日本は前者寄りで欧米は後者寄りではあるけれど、そうでない面もそこそこあるという、まあ常識的な結果です。

ところが、ある項目については、まったく逆の結果が出ています。つまり、日本型雇用システムの特徴であると考えられてきたことが、むしろ欧米よりも希薄であるという結果が出ているのです。それは、能力開発:職場でのOJTによる能力開発か、社員による自己投資かについては、日本側の自己認識が正しくなかったということが明らかになっています。

・・・上記の分析によると、これまで日本企業では、OJTによって人材育成が行われているとの理解が一般的であった。しかし、管理職と一般職の両者の調査結果を見ると、日本の管理職は、他の4カ国の管理職に比較して、部下育成につながる業務配分やアドバイスを行っていないことが明らかになった。・・・日本の管理職は、部下育成のために時間を割くゆとりがないだけでなく、職場の要員不足など能力向上につながる業務を部下に割り振ることが難しい状況がある可能性があろう。さらに部下育成に取り組むことが管理職の人事評価に結びついていない人事制度上の課題も考えられる。

これはなかなかに皮肉な結果です。OJTこそが日本型雇用の誇るべき最大の特徴であるというのは、とりわけ1970年代から80年代にかけての日本型雇用礼賛の時代に盛んに鼓吹された議論であり、そこから日本型雇用の特徴を「能力開発主義」と位置づけるイデオロギーが盛んに論じられたことは周知の通りですが、実はその部分こそが一番日本の特徴ではなかった点であったというのですから、これ以上の皮肉はないでしょう。

拙著『スキルとデキル』でも、当時の学者や政府によるOJT礼賛論がかなりの紙数で紹介されていますが、読み返すと皮肉の感を禁じ得ません。

・・・1970年代後半から1990年代前半までの企業主義の時代に流行した内部労働市場志向の労働経済学理論の代表格が小池和男の知的熟練論です。1981年に刊行された『日本の熟練』(有斐閣選書、1981年)では、冒頭で日本を「超先進国」と礼賛し、とりわけその「めざましい人材形成」を褒め上げています。同書によれば、「今日熟練形成の主要な途は、学校、職業訓練所、徒弟制ではなく、はたまた企業内で教育訓練と銘打って行う訓練コースでもなく、断然OJT(on-the-job-training)、つまり仕事に就きながらの訓練」なのです。それゆえ「どの仕事に配置されるかが、熟練形成の決め手」となり、さらに「ある仕事を行うことが、その仕事に対してだけでなく、関連する他の仕事への訓練ともなるとき、OJTは最も効率的になる」のです。小池はこれを「幅広い熟練」と呼び、これこそが欧米のブルーカラーと異なり、日本のブルーカラーが仕事のやり方を現場で工夫していく根拠であると説くのです。

 1991年に刊行された『仕事の経済学』(東洋経済新報社、1991年)では、日本の現場労働者がふだんと違った作業や異常への対応ができる点で欧米の労働者と異なると論じ、それを分離方式に対する統合方式と呼び、そうした知的熟練を生み出す上で中核的な方法こそOJTであると説きます。同書は、「かつて養成工のOff-JTは3~4年とながかったが、すでに姿を消した」と述べ、「大半の生産労働者は技能をもたずに、職場に配置される。職場でのOJT、つまり実務訓練こそが技能形成の主役なのである」と言うのです。

 この思想は、世間の流行が外部労働市場志向へ、オフィシャルなOff-JTへと移行しつつあった1997年に刊行された『日本企業の人材形成』(中公新書、1997年)でも全く変わらず、「この本の特色は、巷の大合唱とはまったく反対に、実務訓練に光を当てることにある」、「ひとたびOJTに注目すれば、日本の人材開発方式のもっとも重要な特徴、長期の人材開発という特徴が明らかになる」と、その優秀性を説いてやみません。この時期、彼の知的熟練論は労働経済学者だけではなく、政策担当者の間でも流行し、後述のように日本の職業能力開発政策に大きな影響を及ぼしていきました。・・・

 ・・・前述のようなOJT礼賛の流れの中で、これまでの「職業訓練」という言葉でイメージされる職業訓練観を一新し、新しい職業能力開発観に基づく法律として、1985年6月に法改正が行われ、職業訓練法が職業能力開発促進法になりました。もっとも、法律の名称変更に先立って1984年7月に、本法を所管する行政組織の名称が職業訓練局から職業能力開発局に変わっていました。これは、臨時行政調査会(いわゆる第二次臨調)で職業安定局と職業訓練局の統合が求められたのに対し、「能力を作る行政」としての独自性を主張したことによるものです。

 新生職業能力開発局に設置された企業内教育研究会は1984年11月に「新しい『学習企業』をめざして」と題する報告書をとりまとめましたが、その中で、職業能力開発パラダイムの転換として、OJTを基底に据えて、日本的人材育成システムをより活性化させ、その機能をフルに発揮させていくことを求め、企業は新時代に求められる職業人を積極的に育成する新しい「学習企業」に移行すべきだと主張しました。かつて見よう見まねだと批判していたOJTに対する評価が180度転換しているのは、歴史的文書としてその時代の空気をよく表していると言えます。・・・

もっとも、ここには、それまでOJTによるスキル習得の慣行が根付いていたブルーカラー職場の事実認識と、そうではなかったのに自分たちのやっているいい加減な代物をOJTだと勝手に持ち上げてしまっていたホワイトカラー職場の事実誤認とが、複雑骨折するように入り組んでしまったということなのかも知れません。

(追記)

この話を聞いて、「あれ?なんだかちょっと前に似たような話を聞いたぞ」と感じたあなた。ピンポーン。これです。

「日本の強みは人事異動とOJT」は嘘。幻想を捨て、一から日本型の能力開発を@リクルートワークス研究所インタビュー

歯に衣を着せずに相当にズバズバ発言しておりますので、心してお読みください。

——Global Career Survey 2024の結果をご覧になって、率直にどう思われましたか。
 
一番おもしろかったのが、皆さんもそうだと思いますがOJTに関してです。これぞ日本の特徴だ、強さだと言ってきたのが全然そうじゃなかったじゃないか、というのがおもしろくて。・・・・・
——ホワイトカラーの人たちは、何をもってOJTと感じているのでしょうか。
 
はっきり言って、皆さん薄々感じているんじゃないですか。2年か3年おきに人事異動で新しい職場に飛ばすのをOJTと称しているだけじゃないかって。・・・・・・
——先ほど先生がおっしゃった人事異動も、実際に経験がある人が非常に少なかった。頻繁な配置転換を通してジェネラリストを育成しているという日本の特徴が実際には見られなかったことは、どのように受け止められますか?
 
これもおもしろいデータでした。パート有期法第8条に、“通常の労働者”という概念があります。正社員として業務や配置が転々と変わっていくのが通常の労働者で、そうでないのが短時間労働者とか有期労働者と書いてあります。企業の方に人事権があるかどうかの違いを言っているわけです。でも実際には異動していなかった。・・・・・・
——先ほど、ホワイトカラーには能力評価システムが存在しないという話がありました。なぜないのでしょうか。
 
厚生労働省でも、繰り返し作っていますが、全部失敗してきています。企業で使われないのです。役に立たないから使わないのでしょうね。・・・・・・
——最後に、日本企業にとってここからどういう道があるのか、希望があるとしたらどんなことなのか、伺いたいです。
 
日本はもう駄目だ、駄目だと言われながら、日本には人事異動とOJTの強みがあって、この良さをちゃんとうまく使っていけばやがて復活するだろうという、恐らく唯一の希望が、今回のこの調査で、見事に粉々にたたきつぶされた(笑)。・・・・・・

 

 

 

本書は「終章」に尽きる

322511000924_20261005122801 せるげいさんが、ブクログで拙著『スキルとデキル』をたった一言で寸評しているのですが、

https://booklog.jp/users/serugey/archives/1/4040825705

本書は「終章」に尽きる。
「終章」さえ読めば、日本社会で求められる能力の欺瞞性が良くわかると思った。

いやまあ、確かに、読者へのメッセージは終章と「おわりに」の合わせて16ページほどに尽きるといえばその通りなのですが、それを渾身の思いを込めて言い切るためには、それに先立つ240ページにわたる近現代日本における職業教育訓練をめぐる政策と思想の有為転変の歴史の叙述が必要不可欠なのです。

それなしに、いきなり終章だけ読まされても、恐らく読者の多くは「それってあなたの独自の見解に過ぎませんよね」という感想しか抱かないでしょう。ふうーーん、そういう意見もあるんだね、じゃあね、と。

「日本社会で求められる能力の欺瞞性」を、単なる口先で主張しているだけの代物ではないということを、これでもかこれでもかと歴史的証拠書類を積み重ねているのが膨大な歴史編ですので、できれば、本屋さんの店頭で、終章と「おわりに」だけ立ち読みして、「ふむ、なるほど、そういうことね、よく分った」と分っちゃわないでください。

 

 

能力主義とは何か?@『生活協同組合研究』2026年10月号

Kenkyu_260928_01_01 『生活協同組合研究』2026年10月号に「能力主義とは何か?」を寄稿しました。

https://ccij.jp/book/kenkyu_20260928_01.html

「労働における「能力主義」を解きほぐす」という特集の中の一本です。

 近年、日本の労働政策において「能力」や「スキル」を重視する傾向がみられる。「リ・スキリング」や「学び直し」の促進、職務給の導入をめぐる議論は、その一端である。こうした議論の背景には、働き方の多様化や人手不足への対応に加え、長期雇用や年功的処遇を基調とする従来の雇用慣行を見直し、職務に必要な能力やスキルを明確にし、それらを評価や処遇に反映する雇用システムへの転換を図ろうとする政策意図がある。

 能力にもとづいて労働者を評価し、その評価を処遇に反映することは、雇用システムの客観性、透明性、公平性を高めるとともに、生産性の向上につながるものとして期待されている。一方で、どのような能力を評価の対象とするのかは自明ではない。目に見えやすい能力や数値化しやすい成果が評価の対象となりやすい一方で、周囲への支援や調整、ケアといった営みは、組織の維持や発展に不可欠であるにもかかわらず、その価値が見えづらい場合も少なくない。能力評価をめぐっては、何を評価することが適切なのか、評価の枠組みからこぼれ落ちているものがないかを問う視点も求められる。

 とりわけ生協をはじめとする協同組合にとって、「協同」という理念と能力主義の関係は重要な論点である。個人の成果や競争を重視する考え方と、人と人との協力や支え合いを重視する考え方を、どのように両立させることができるのか。この問いは、協同組合における働き方や組織運営のあり方を考えるうえで欠かせない。

 このような背景をふまえて、本特集では、労働者に対する評価指標として能力やスキルが重視されるようになった歴史的経緯をたどりつつ、能力を評価し、それを処遇に反映することの難しさについて掘り下げたいと考えた。計6名の論者に論稿をご執筆いただいたほか、2020年に人事制度改革を行い、仕事の成果や職員の成長度を処遇に反映する仕組みを導入した生活協同組合コープやまぐちへの取材稿も収録した。

 職務に必要な能力やスキルを評価するという考え方は分かりやすいが、実際にどのような能力を評価するのかを定めることは決して容易ではない。ある能力を高く評価することで、他の重要な能力の価値が見落とされてしまうことはないだろうか。また、能力や成果を重視するのであれば、それを育む責任を労働者個人の努力だけに委ねず、職場や社会がどのように支えていくのかという視点も重要である。本特集が、人々の多様な能力をどのように捉え、生かし、支えていくのかという問いについて考える契機となれば幸いである。

能力主義とは何か?(濱口桂一郎)
「能力」よりもこれからの職場に不可欠なまなざし──可謬性としての愛──(勅使川原真衣)
モヤモヤ対話や組織内ダイアローグを通じたケアしあう協同組合へ(竹端 寛)
能力主義とジェンダー──社会公正の追求と労働者間の連帯を考える──(金井 郁)
雇われない働き方における能力主義に自営業者・フリーランサーはどのように向き合っているのか(松永伸太朗)
コラム1 能力とは誰が,どう決めるのか(栗田隆子)
コラム2 コープやまぐちの人事制度改革(原岡辰也(聞き手:中村由香))

拙論は、先月刊行した『スキルとデキル』の一部を要約したような内容です。

はじめに
 近年、日本政府は「リ・スキリング」を大々的に唱道している。安倍政権時の日本再興戦略から始まり、近年も岸田政権時の「三位一体の労働市場改革」から、現高市政権下の「人材育成システム改革ビジョン」に至るまで、スキル、つまり具体的な職務(ジョブ)を遂行する技能(スキル)を身につけ、向上することが政策の中心課題として掲げられている。ところが、政府が鉦や太鼓でリ・スキリングを煽り立てても、肝心の企業や労働者の側は、笛吹けども踊らずという状態が続いているようだ。
 スキルと似た言葉に「能力」がある。戦後日本では、この「能力」という言葉が企業の人事管理の中心を占めてきた。日本経営者団体連盟(日経連)が1969年に出した有名な『能力主義管理』以来、日本企業は能力主義に基づいて人事管理を行なってきたとされている。企業は何よりも従業員の能力開発と能力評価を重視してきたというのである。半世紀以上にわたって企業は能力開発に努めてきたにもかかわらず、今になって政府からリ・スキリングを求められるとはどういうことなのだろうか。この「能力」とスキルとはどういう関係にあるのだろうか?本稿では、戦後日本におけるスキルと「能力」の込み入った関係を歴史的に解説していきたい。
1 技能者養成の時代
2 生活給と職務給
3 職能給への移行
4 「能力」による説明の陥穽
5 「能力」のもう一つの顔
6 日教組の「能力主義」批判
7 ジョブ型、職務給、リ・スキリング再び
8 なぜ笛を吹いても踊らないのか
  

2026年10月 4日 (日)

pairuさんの拙著要約と解説

322511000924_20261004165301 pairuさんがnoteで、拙著『スキルとデキル』を大変丁寧に要約解説していただいた上に、その意義を論じていただいております。

https://note.com/ready_honest8301/n/n066e6462218e

 「仕事ができる」と言うとき、日本人は何を見ているのか。
C言語が書けることか。
それとも、C言語を知らなくても「あいつなら何とかする」と思わせる何かか。
150年分の職業訓練の歴史をひっくり返すと、日本社会がずっとこの2つを取り違えてきたことが見えてくる。

と、ここから拙著の各章ごとにその内容を大変詳しく解説していくのですが、その後に、本書の意義を次のように述べていただいていて、書いた本人が思わずそうだったのか、と思ったくらいです。

①本書が一貫して示しているのは、「日本人はなぜリスキリングしないのか」という道徳的な問いを、「なぜ日本の労働市場は、スキルという商品を独立した価値として買う仕組みになっていないのか」という制度の問いへ置き換える視点だ。
著者は、日本の職業能力史を「古い能力主義から新しいスキル主義へ」という一直線の進歩として描かない。
むしろ、スキル重視からデキル重視へ、そして再びスキル重視へという振り子の動きとして描いている。
この振り子構造を発見的に提示したところに、本書の学術的な芯がある。
前著『ジョブ型雇用社会とは何か』や『賃金とは何か』が示してきたジョブ型・メンバーシップ型という枠組みを、職業訓練という具体的な政策史の側面から裏づけ直す位置づけの本だと読める。 

②この本のいちばんの見どころは、「能力」という、あまりに手垢のついた日常語を、150年という射程で丹念に解体してみせる作業の粘り強さにある。
普通、能力主義批判というジャンルは、道徳的な糾弾か、抽象的な理論のどちらかに寄りがちだ。本書はそのどちらでもない。
1958年の職業訓練法、1969年の『能力主義管理』、1985年の職業能力開発促進法という、地味だが確かな制度の年号を丹念に積み重ねることで、「デキル」という言葉の重さを実証的に組み立てている。
高度成長の初期にはスキル重視の時代があった、という指摘も見どころのひとつだ。
多くの読者は「日本はもともと年功と根性の国だった」と思い込んでいるはずで、そこにいったんスキル重視が存在していたという事実を差し出す構成は、著者ならではの粘り強い史料の掘り方を感じさせる。

ここまでは確かに私自身の意図するところではありましたが、その後にここまで深読みされていて、著書自身がそうも読めるのかと思ったところです。

 ③これは本書の外側からの読み替えで、著者の意図からはかなり離れる。
本書が描く「スキル」対「デキル」の対立を、労働の話としてではなく、人が他者をどう理解しようとするかという、より広い認知の問題として読み替えることもできる。
「この人は何ができるか」という問いは、対象を分解して検証できる。
だが「この人はデキるか」という問いは、対象を分解できない全体的な印象に依存する。これは、人間が他者の能力を評価するときに使う、2つの異なる認知の様式の違いだと見ることもできる。
だとすれば、日本のメンバーシップ型雇用が「デキル」を好んだのは、単に制度の選択の結果というより、分解できない全体評価のほうが、直感的に処理しやすいという、人間の認知的な傾きと相性がよかったからだとも読める。

 

 

2026年10月 2日 (金)

『企業組織再編に関する労働法制』

Saihen JILPTの海外労働情報26-10『企業組織再編に関する労働法制―ドイツ、フランス、イギリス―』が公開されました。

https://www.jil.go.jp/foreign/report/2026/pdf/26-10.pdf

2024 年の第 213 回通常国会で「事業性融資の推進等に関する法律」が成立し、その附帯決議として「「事業譲渡又は合併を行うに当たって会社等が留意すべき事項に関する指針」については、政府において、専門的な検討の場を設け、新たな企業価値担保権の創設を踏まえて必要な見直し等を行うこと。加えて、合併・事業譲渡をはじめ企業組織の再編に伴う労働者保護に関する諸問題については、その実態把握を行うとともに、速やかに検討を進め、結論を得た後、必要に応じて立法上の措置を講ずること」とされ、必要な検討等が実施される予定である。この検討に当たっては、附帯決議の後段に係る対応として、海外における組織再編に伴う労働関係法制及び実務上の影響に関する実態把握が必要であると考えていることから、当機構ではこのための調査を実施することとした。
具体的には、組織再編に伴う各国の労働法制の現状を把握するため、労働法の専門家に各国等(EU、ドイツ、フランス、イギリス)における組織再編に伴う労働関係の法制度の現状や裁判例、議論の動向、実務上の課題等について情報収集していただき、本報告書にとりまとめた。

各国ごとの執筆者は以下の通りです。

EU・ドイツ 橋本陽子 学習院大学学生センター所長兼法学部教授

フランス 細川良 青山学院大学法学部教授

イギリス 志水深雪 明治大学専門職大学院法務研究科専任教授 

 

『欧米諸国における賃金制度とその運用』

Shokumukyu JILPTの資料シリーズNo.308『欧米諸国における賃金制度とその運用―文献等調査結果―』が公開されました。

https://www.jil.go.jp/institute/siryo/2026/documents/0308.pdf

.各国の概要
①ドイツ
ドイツでは、最低賃金法、産業別労働協約、協約外部門における労使協議制が重層的に賃金を規律し、安定的な報酬支給を支えている。企業を超えた報酬情報についても、ドイツに特化したサラリーサーベイを通じて共有されている。1970年代以降は仕事基準の職務評価と役職グレードが普及し、1990年代後半からはグローバル標準の社員格付けや成果主義が浸透した。ただし、世界金融危機やコロナ禍を経て、その一辺倒からの修正もみられ、労使協議を通じた報酬水準の維持や支給ルールの調整が行われている。

②フランス
フランスでは、国、産業・業界、企業・事業所という複数のレベルが相互に影響しながら賃金を決定している。国レベルでは比較的高水準の最低賃金(SMIC)が重要な役割を果たし、低い組合組織率にもかかわらず、拡張適用制度によって産業別労使協約がほぼすべての民間労働者をカバーする。一方、協約が企業の賃金決定に及ぼす影響は産業によって異なる。近年では、カードルの再定義や、金属・鉄鋼産業における職務評価を基礎とした新たな職種・賃金制度の導入など、従来の賃金秩序を見直す動きが進んでいる。

③スウェーデン
スウェーデンでは、高い労働組合組織率と労働協約適用率を背景に、産業別交渉と企業レベルの賃金決定を組み合わせた仕組みが形成されている。産業別協約は職種・職務別の賃率を直接定めるのではなく、最低賃金や賃金決定の一般的ルールなどを規定する。近年は賃上げ率を定めない「数値なし協約」も拡大し、企業レベルへの分権化が進んでいる。企業では評価に基づく賃金決定がブルーカラー、ホワイトカラー双方に広がっているが、その運用には労働組合も関与しており、分権化と集団的労使関係が併存している。

④イギリス
イギリスでは、企業が職務分析と市場賃金情報を組み合わせて賃金を決定している。上級役職者や高度専門職では個人別の賃金決定もみられ、昇給には成果、ポテンシャル、コンピテンシー、スキルなどが考慮される。他方、賃金情報の不透明性や男女間賃金格差が政策課題となっており、最低賃金・生活賃金や情報開示を通じた規制が強化されている。組合組織率は低下しているものの、近年は法制度の改革を背景に労働組合の役割を再強化する動きもみられる。

⑤アメリカ
アメリカの報酬決定は、外部労働市場の市場賃金を重視する市場志向性を特徴とする。近年は職務評価による職務価値よりも市場価格を重視する傾向が強まり、給与レンジを市場水準と連動させ、昇給マトリクスやエクイティ調整によって市場との乖離を補正する仕組みが形成されている。一方、役割、職群、職務レベルなどの枠組みを用いて、市場価格を企業内部の人事・報酬制度へと翻訳している。近年のスキルベース化や給与透明化も、市場志向的な報酬システムを再編する新たな動きとして位置づけられる。

2.事実発見と今後の検討解題
①各章の内容から、欧米では「職務給」と単純化することは難しいことが示唆される。アメリカのホワイトカラーセクターで見られた制度設計における役割(Role)基準を導入する試みは、その最たる例であろう。イギリスにおいてもポテンシャルやスキルが賃金決定において考慮されている。また、ドイツの管理職層では、年功が賃金決定における重要な基準となっている。さらに、スウェーデンではブルーカラーにおいても能力給の導入が進んでいる。

②賃金制度の設計において各国間で共通する動きがあることも示唆された。ドイツやスウェーデンの章で見られたように、職務評価の方法として外部のグローバルコンサルティング会社の活用が挙げられていた。かつては国ごとに独自の評価基準で評価されていたものが、グローバル標準の基準を採用する動きが強まっている可能性がある。また、マーケットデータの活用についても、職種によって異なることがアメリカの章などからは示唆される。

③ドイツ、フランス、スウェーデンなど調整型市場経済に位置づけられるヨーロッパ諸国では、職種間で賃金決定において相違が確認された。ホワイトカラーの中でも管理職、大卒専門職、それ以外のホワイトカラーで異なっている可能性が高いことが各章の発見から示唆される。

③イギリスの章では、賃金決定に対して団体交渉が影響していることが指摘されていた。また、ドイツやスウェーデンの章では、賃金制度の設計や運用において労働組合などの労働者の集団的発言機構が関与している例も見られた。

④今後の検討課題として、次の4点が挙げられる。第1に、欧米諸国の賃金制度の実態とその変化の方向性を明らかにすることである。各国では、職務に加えて、役割、能力・スキル、成果、勤続など複数の要素が賃金決定に用いられており、グローバルコンサルティング会社による職務評価やマーケットデータの活用も広がっている。こうした制度や情報が、等級制度、給与レンジ、個人別賃金の決定にどのように反映されているのかを把握する必要がある。第2に、同一国内における職種・従業員層間の相違を明らかにすることである。ブルーカラーとホワイトカラーに加え、管理職、大卒専門職などによって、適用される賃金制度や市場賃金情報の利用方法が異なる可能性がある。第3に、賃金制度の設計・運用における集団的発言機構の役割とその影響を明らかにすることである。労働組合や従業員代表が制度設計、評価、個人別昇給などにどのように関与し、それが賃金決定や企業の人事管理にいかなる影響を及ぼしているのかについて、実査を通じて検討する必要がある。第4に、政策の影響である。最低賃金以外にも労働者個人の賃金水準に影響を与えることが予想される法政策は存在する。労働政策は欧米諸国の賃金決定にいかなる影響を与えているのか。また、当事者はそのような政策をどのように感じているのか。政策が現場に与える影響について、情報を収集する必要がある。 

なお、各国ごとの執筆者は以下の通りです。

序章 池添弘邦 労働政策研究・研修機構 統括研究員

ドイツ 石塚史樹 明治大学経営学部 教授

フランス 野原博淳 フランス国立労働経済・社会学研究所 研究員

序章・スウェーデン 西村純 中央大学商学部 准教授

イギリス 中村天江 連合総合生活開発研究所 主幹研究員

アメリカ 樋口純平 同志社大学社会学部 准教授 

 

2026年10月 1日 (木)

クィン・スロボディアン『破壊系資本主義』@『労働新聞』書評

08091142_6a77e90731dc6  月例の『労働新聞』書評ですが、今回はクィン・スロボディアン『破壊系資本主義』(みすず書房)です。

https://www.rodo.co.jp/column/226251/

 オビに書かれた「自由と民主主義は両立しない」、「離脱せよ!」とはベンチャー投資家ピーター・ティールの言葉だ。めんどくさい民主主義を捨てて資本主義を自由に羽ばたかせよ。この理想を最初に説いたのはミルトン・フリードマンであり、説いた場所は1970年代の植民地香港だった。イギリス領でありながら植民地であるがゆえに本国の民主主義は適用されず、しかし隣接する共産中国とは対照的に徹底した市場原理に基づく経済運営だけは完璧だ。それゆえに、当時経済停滞に喘ぐ英米をはじめとする西側諸国に対する力強い代替選択肢の提示となった。この民主主義なき資本主義という理想は、その後世界のあちこちにさまざまな形で広がっていく。

 香港の宗主国であるイギリスはサッチャー首相の下で、テムズ川下流にドックランズを開発し、民間所有の公共空間での住民や労働者の権利を制限する。運輸一般労組は1世紀前に同労組結成のきっかけとなったストライキが起こった地で、ストライキを差し止められた。

 一方、香港方式を独立国としてより精緻に遂行したのがシンガポールだった。そしてそのシンガポールを経済発展のモデルとしたのが鄧小平率いる共産党一党独裁の中国であった。深圳(しんせん)をはじめとする経済特区は、この民主主義なき資本主義を純粋培養する「ゾーン」という形で世界中に広がっていく。

 そしてアメリカは、中世の城郭都市の再現ともいうべきゲーテッド・コミュニティで覆われていく。地元の地方政府が関与できない「荘園」の繁殖だ。

 ここまでは一応なんとなく知っていることだが、その先に繰り出されるさまざまな事例は驚くものも多い。たとえば、アパルトヘイト下の南アフリカのシスカイという黒人「国家」で行われたネオリベラル政策。大公ハンス・アダム2世の下で、信託制のタックス・ヘイブンとして発展した「株式会社国家」リヒテンシュタイン。破綻国家ソマリアで、リバタリアン弁護士のファン・ノッテンが地元の部族と作り上げようとした無政府資本主義の理想郷ソマリランド。

 そして、単なる経済特区ではなく、かつての租借地のように国内法が一切適用されないホンジュラスの「プロスペラ」というゾーン。これは、2018年にノーベル経済学賞を受賞したポール・ローマーのチャータード・シティ構想を実現したもので、憲法違反だと訴えた地元弁護士は射殺された。現時点での最大の成功例は砂漠の海上都市、アラブ首長国連邦のドバイだろう。

 次々に繰り出されるこれらの事例は、今や世界のここかしこで「破損」が起こっていることを教えてくれる。そう、本書の原題は「Crack-up Capitalism」(破損資本主義)なのだ。

 本書の最後に登場するのは再び香港だ。民主主義を希求した香港住民の企ては、「共産党」という名の下に民主主義なき資本主義の道を驀進する中国政府によって完膚なきまでに叩き潰された。フリードマン万歳!

 

 

 

 

 

 

2026年9月30日 (水)

葦名ふみ『議会報道のメディア史』

E9f9173b589e4bc0ba8e0835272abe56 葦名ふみさんの『議会報道のメディア史 漫画から国会中継まで』(吉川弘文館)をお送りいただきました。わざわざありがとうございます。

https://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b10172239.html

1890年に帝国議会が開設したとき、議会を報じる手段は新聞など活字メディアが中心だった。漫画・写真・ラジオ・ニュース映画など、次々に登場した最先端のメディアは、議会報道の世界にいかに進出していったのか。テレビ登場までの様々な出来事を振り返り、個性あふれる政治家たちのエピソードも交えながら、メディアと議会の関係を考える。

というわけで、写真から漫画、ラジオ、テレビといったメディア史の観点から近現代日本の議会史を描いた、なかなか類書のない本だと思います。

個人的に面白かったのは、終戦直後の吉田茂内閣で蔵相を務めていた池田勇人の「失言」でした。例のドッジラインで緊縮政策に転換した頃です。

これって、はじめの大したことのなかった「失言」を、なまじ「解説」しようとしてますます「失言」ぶりが深まっていくという、世の中にけっこうありそうな話だったんですね。

最初はニュース映画のインタビューで、

企業は税金で非常に苦しんでいるようで心中事件なども起きているようですが、それについてご感想は如何でしょうか。

(池田勇人蔵相の回答)

いやあ、税金が高いから死ぬるというのはどうかと思いますが、とにかくまあインフレ時代から経済安定に向かっていく過渡期には個々の場合には起こるということはこれはありうると思います。

これが翌日の新聞で大きく報じられて、衆議院予算委員会で発言の真意を問われ、

「五人や十人が倒産しても仕方がない。こういう意味は、中にはインフレになれて当然落伍しなければならない人があるかも分らない。そういう人は倒産することがあるだろう、と言っているのであります」「何と申しましても表現の仕方が悪かったのか、ああいう風に出たのでありますが、あれは私の真意ではない。ほんとうはとにかく一人の倒産者も自殺者もないように、日夜努力しているのが、私の真情であるのであります」

と答えたのですが、この釈明がさらに「失言」となり、野党から不信任案が出されたがこの時には否決されました。

その2年半後、またも国会でこの池田発言を質問されて、

「私の心境は、インフレ経済から安定経済に参りますとき、それが倒産をし、しこうしてまた倒産から思い余って自殺するようなことがあっても、お気の毒でございますが、やむを得ないということははっきり申し上げます」

と、釈明どころか火に油を注ぐような発言をし、今度は池田蔵相の不信任決議案が可決され、池田は辞任することになったという話です。

言ってることは、タカ派経済政策の立場からすれば一貫しており、その観点からすれば筋を通した硬骨漢ということになるのでしょうけど、メディア時代の政治家としては、言うことは同じでももう少しものの言い方に気をつけた方が良かったのかも知れません。

最近だったら、ネット上での発言を解説しようとしてますます火に油を注ぐということが日常的に見られますが、その手の事例の濫觴といえるのでしょうかしらん。

 

 

 

 

 

強いストレスを感じる労働者 67.5%@『労務事情』2026年10月1日号

706c8c56d1b7406188dfb65340fc45ca 『労務事情』2026年10月1日号に「強いストレスを感じる労働者 67.5%」を寄稿しました。

https://www.sanro.co.jp/book/b10205633.html

◎数字から読む 日本の雇用 濱口桂一郎
 第50回 強いストレスを感じる労働者 67.5%

 

 

 

2026年9月29日 (火)

青柳春夏『日本のリカレント教育政策の制度的限界に関する研究』

東京大学公共政策大学院のホームページに、学生の研究論文として、青柳春夏『日本のリカレント教育政策の制度的限界に関する研究』がアップされています。

https://www.pp.u-tokyo.ac.jp/wp-content/uploads/2026/09/9f2c12538c2bc43cc61998523a5acd77.pdf

 近年、リカレント教育(リスキリング)は、重要な政策課題に位置づけられている。第四次産業革命やデジタル化の進展等を背景に、働きながら学ぶ仕組みの整備が各国で進められている。世界経済フォーラムは 2020 年に「リスキリング革命(Reskilling Revolution)」を掲げ、2023 年までに 10 億人のリスキリングを目指すと発表した(世界経済フォーラム HP)。この動きは、人的投資を経済成⾧戦略の中核に位置づける国際的潮流を象徴するものである。
 日本においても、第二次安倍政権以降、「学び直し」や「リカレント教育」は成⾧戦略の重要な柱として言及されてきた。2013 年に閣議決定された第 2 期教育振興基本計画以降、「社会人の学び直し」が政策課題として設定され、様々な政策が行われてきた(岩崎, 2020)。岸田政権は、所信表明演説において 5 年間で 1 兆円規模のリスキリング支援を行うと表明し、構造的な賃上げの実現に向け、労働移動・人的投資の重要性について言及した(日本経済新聞, 2022)。
 ところが、こうした積極的な政策主張にもかかわらず、日本におけるリカレント教育は活発とは言い難い。OECD の”Adult learning Dashboard”によると、日本の成人は他の OECD 加盟国に比べて training の参加率が低いことが報告されている(OECD, n.d.)。
 アジア太平洋地域 14 の国と地域と比較した調査では、勤務先以外での学習や自己啓発について「特に何も行っていない」と回答した割合が 46.3%で、14 の国と地域の中で最も高い(パーソル総合研究所, 2019)。すなわち、日本ではリカレント教育が政策上は強調されながらも、実態としては十分に普及しているとは言えないという状況が存在している。・・・

 では、両政権の積極的な政策にもかかわらず、社会の側では十分に変化が起きていない。この乖離を、単なる政策運営上の問題ではなく、制度的な問題として捉えるのが本研究の出発点である。・・・

というわけで、まさに拙著『スキルとデキル』と同じ問題意識に立って、それをアカデミックな論文として論じたものです。

実はこの青柳春夏さんという名前には見覚えがありました。わたしは2024年度まで東京大学公共政策大学院で労働法政策の授業を1コマ受け持っていたのですが、その最後の年度の受講生の中に青柳春夏さんがいたのです。

その時に1回分の講義として職業教育訓練政策について話したことが出発点になって、こうやって素晴らしい研究成果として開花するに至ったことは、とても嬉しく思います。

 

 

2026年9月28日 (月)

荒木尚志・菅野和夫・山川隆一『詳説 労働契約法 <第3版>』

79720d8800d04c1fa7a59dfcb65c75e6 荒木尚志・菅野和夫・山川隆一『詳説 労働契約法 <第3版>』(弘文堂)をお送りいただきました。ありがとうございます。

https://www.koubundou.co.jp/book/b10194014.html

 2018年の改正で労契法20条が削除され、パート有期労働者法8条に統合されたことを踏まえ、同8条と関連規定(均衡・均等待遇)を本書に組み込んで詳しく解説。法改正等をフォローし、第2版以降の裁判例や学説の発展を含めた法全体の意義と経緯、条文解釈、今後の課題を詳論。実務の動向にも目を配った12年ぶりの改訂版です。
 労働者個人と会社の雇用契約ルールを明確にすることを目指した労働契約法全体を、労働法研究者を代表する3人の著者が充分に討議を重ねて書き上げた書。

第2版を頂いたのが2014年ですから,確かに「12年ぶり」です。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2014/05/post-e46a.html

初版は2007年の労働契約法制定を受けて、第2版は2012年の有期関係の改正を受けてだったのに対し、今回の第3版は2018年の働き方改革で旧第20条が引っこ抜かれたのを受けてだとするとちょっと時間が空きすぎていますが、その旧第20条が合体したパ有法第8条の「同一労働同一賃金」と称する指針が改定されたのを受けてということで、今回の刊行に至ったようです。

いうまでもなく、そのガイドラインが標榜する「同一労働同一賃金」という看板に対しては、鋭い批評の言葉が投げつけられています。もちろん、私と違って羊頭だの狗肉だのといった下品な表現は一切されていませんが、でも気持ちが伝わってくる叙述にはなっています。

・・・しかしながら、「同一労働同一賃金」とは、従来、各産業における職務の種類とグレードに対応した賃金額の詳細な基準が産業別労働協約によって超企業的(産業横断的)に樹立されている欧州社会における、「職務内容(その種類・グレード)が同一であれば同一の賃金を支払うべし」との発想に立った欧州における処遇の原則(グレード制職務給原則)として理解されてきたものである。これに対し、働き方改革関連法が法制化した均衡・均等待遇原則は、「わが国の雇用慣行」(新卒採用から定年退職までの長期的雇用関係に対応した年功的賃金処遇制度と、パート・有期労働者についての時間当たり職務給制度)に「充分留意」して、それまで労働契約法に規定されてきた有期労働者のための均衡待遇の原則をパート・有期労働者についてほぼそのまま継承するものであって、日本独特の待遇均衡か政策を法規範化したものである。・・・

なお、第2版のときに,解雇の金銭解決についての記述に対して、ちょっと異論を挟んだことがありましたが、12年後の今回も基本的な考え方は変わっておられないようです。

・・・この傾向が進めば、濫用的解雇について、金銭解決制度(金銭解決の強制的達成を可能とする制度)を要請する必要性は労働者側にはもはや存せず、使用者側のみに存するということになる。解雇紛争の金銭解決は、制度設置の必要性は著しく少ないのみならず、使用者側にのみ必要性が存在するという偏頗な状況ともなりつつあるのである。

 

 

 

 

 

 

2026年9月27日 (日)

小泉防衛相が全駐労の結成80周年記念祝賀会に出席

Htmjmktbiaabv7q 小泉防衛大臣がX(旧twitter)で、全駐労の結成80周年記念祝賀会に出席したと述べています。

https://x.com/shinjirokoiz/status/2104036016139186367

昨日は米軍基地で働く日本人基地従業員の労働組合「全駐留軍労働組合(全駐労)」の結成80周年記念祝賀会に出席しました。防衛大臣は「雇用主」の立場にありますが、今までは全駐労のこのような会に防衛省からは政務三役(大臣・副大臣・政務官)は出席したことはなく、局長も初めて出席したと昨夜話していました。それでもなお、防衛大臣として初めて私が出席したのは、地元の横須賀に米軍基地があり、そこで働く日本人基地従業員の皆さんこそが日米同盟の現場を支えてくれていることを実感しているからです。その皆さんの労働環境を改善するために「雇用主」である防衛大臣として防衛省あげて全力を尽くす決意をお話しさせていただきました。・・・

駐留軍労働者の雇用労働関係はなかなか複雑ですが、ざっくりいうと日本政府(防衛省)が派遣元であり、米軍が派遣先という派遣労働関係に近いところがあります。

ですので、派遣元の防衛相は雇用契約上はまさに使用者ですが、労働力の利用者である米軍に対して労働者の労働条件の改善を要求する立場でもあります。

米軍基地の中で働く駐留軍等労働者の皆様は、日米同盟を現場で支え ていただいている重要な役割を担っておられる大切な方々です。私は、防衛大臣に着任して以降、駐留軍等労働者の労働環境の改善に精力的に取り組んでまいりました。

本年3月には長い間解決されなかった 「子の看護休暇の拡充」を実現させました。しかし、まだ実現していない課題が多くあります。 その中でも特に、全駐労の皆様が実現を強く要望されている「介護休暇の完全有給化」、「定年年齢の65歳までの段階的な引き上げ」、「祝日の追加」、この3つの課題については、可能なものは年末までに、遅くとも3月までには全て実現させる、そのような決意をもってアメリカ側との協議を進めていく考えです。

とはいえ、小泉さんが言うようにこれまで防衛庁/防衛省は労働組合をあまり身内だと意識してこなかったようです。むしろ、かつて非武装中立を掲げ自衛隊や在日米軍を敵視していた社会党を支持する労働組合に対して敵視政策をとっていた感覚が続いていたのかもしれません。

実際、かつて日本社会党の委員長として「非武装中立」を唱えた石橋政嗣は、全駐労出身だったわけです。

そういう感覚を変えるには、小泉さんのような過去にとらわれない行動力が必要だったのかもしれません。

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2026年9月26日 (土)

習近平は蒋介石のイデオロギー的嫡子か

アメリカと中国が第二次大戦で同盟国であったというのは全くその通り。

ただしその「中国」は蒋介石率いる国民党の中華民国であった。

ルーズベルト大統領のアメリカ合衆国とトランプ大統領のアメリカ合衆国は同じ「アメリカ」だが、

蒋介石の中華民国と習近平の中華人民共和国は別の国だ。

・・・・・・・・・・・・

というのが、まあ普通の認識なんだろうけど、もしかしたら習近平の頭の中ではそうでもないのかもしれない。

そもそも今の中華人民共和国は一党独裁の資本主義国家であって、毛沢東が理想として掲げた清貧の共産主義とはかけ離れているし、マルクスだのエンゲルスだのといった「お経」を信じている人はほとんどいなさそうだ。

一方、レーニン主義的な一党独裁体制の下で、もっぱら中華ナショナリズムを掲げ、「国恥」を雪ぎ、「中華復興」を目指すというのは、まさにかつてアメリカの同盟国であった中華民国の蒋介石の思想そのものであるように見える。

もちろん中国共産党総書記自らが「マルクス主義も毛沢東思想も下らん。大事なのは中華ナショナリズムだ」などとは口が裂けても言うわけはないけれども、実のところその頭の中はかつての蒋介石とほぼ同じなのではないかと思われる。

とすれば、トランプと習近平が仲良く同盟国の過去を共有して意気投合して見せるのは、単なる国際政治上の外交辞令にとどまらず、少なくとも習近平にとっては(共産主義などという一党独裁を維持するための信じてもいない表層のお経よりも)中華ナショナリズムという本音に即したものなのかもしれない。

これに対して、台湾の民進党政権が「いやいや同盟国だったのは中華民国だ」と言って見せてるのもまた皮肉な話で、彼らは実のところそのロジックを内心否定したくて仕方がない側なのだ。

蒋介石が生きていたら心の底から激怒して、「ふざけるな、必死でアメリカと同盟して戦争に勝ったのは俺だ、内陸に引っ込んでた毛沢東の後継者如きが何を言う」と喚き散らしたであろうが、今の台湾政府はそういう感覚を受け継いでなどいないし、むしろ正反対だろう。

何とも二重三重に捩じれた話ではあるけれども、捩じれに捩じれた挙句に、共産党の習近平は国民党の蒋介石のイデオロギー的嫡子ではないかという誰も怖くて言えないけれども目の前に赤裸々に露呈している真実が浮かび上がってくるようだ。

 

 

 

2026年9月25日 (金)

加藤敏幸インタビュー by 仁田道夫

Jihou202609 全基連発行の『中央労働時報』9月号に、先日『労使関係からみる戦後という時代』という大著を出された仁田道夫先生が、加藤敏幸さんにインタビューされている記事がのっていました。「シリーズこの人に聞く労使関係第15回」です。

https://www.zenkiren.com/teiki-book/top.html#jihou

・シリーズ この人に聴く労使関係(第15回)
  どこにあっても現場感覚を忘れない。
     電機連合名誉顧問、元全民労協事務局次長、
          元連合労政局長、元三菱電機労働組合中央執行委員長

    加藤 敏幸氏(1)

Wikipediaで「加藤敏幸」を検索すると、冒頭

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E6%95%8F%E5%B9%B8

前参議院議員(2期)。民進党参議院国会対策委員長、参議院外交防衛委員長、国土交通委員長、外務大臣政務官(野田内閣)を歴任。

と出てきて、もっぱら政治家としての活動ばかりが書かれていますが、もちろん労働関係者にとっては電機労連、全民労協、連合で活躍した労働組合運動家以外の何者でもないでしょう。

私が見知っているのは、連合の幹部としてさまざまな労働政策に関わっていた姿ですが、このインタビューでは、そもそも彼が労働組合運動に入るきっかけになったある事件から始まります。加藤さんが新居浜工業高等専門学校を卒業して三菱電機に入社した当時、

加藤 ・・・入社1年目は、現場で見習いとして研修を受けて、その後正式に製造管理部整備課に配属されました。翌1970年の春闘時期には,職場集会が何度も開かれていました。昼休みに職場の「支部委員」が前の方に出て、今回の要求内容や今後の交渉のポイントを説明するために、「お手元の要求書をご覧下さい」と話す。説明の中に登場した「生計手当」(社内規則での表記。扶養家族の種類と数、居住地域によって決まるいわゆる「家族手当」。以下文中では「家族手当」と表記)という言葉に違和感を覚えました。

 「何か質問は?」との振りがあったので、私は思わず手を挙げてしまったのです。相手が誰であろうが、昔から余り物怖じしない性格が災いしました。

 「仕事をしに来ているのに、家族が多い人と少ない人で手当に差がつくのはおかしくないですか。家族の人数と仕事の中身は関係あるのですか」と。

仁田 ずいぶんストレートですね(笑)。

加藤 当時、私は独身でしたから、遠慮することなく言い放ったのです。心の底には「家族が多いからといって、そんなに威張るなよ」ぐらいの気持ちがあったのだと思います。その質問で周りは一瞬にしてシーンと静まりかえりました。職場集会終了後、係長曰く、「ああいうこと言ってくれるな」と。得心がいかない私が「何でですか」と問い返すと係長は「俺は家族四人いるからな」と(笑)。「それは失礼しました」と謝りました。

これは、もしもっと前に出ていれば、『賃金とは何か』に引用してもいいくらい、生活給をめぐる労働組合主流派と若手組合員の対立構図がよく現われていますね。若き加藤青年はジョブ型青年だったのです。

仁田 多分、それで終わりにならなかった?

加藤 終わりどころか大きな始まりになりました。入社翌年の7月、次の任期の支部委員1名を選ぶときに、1票を除いて全部に私の名前が書かれいたのです。「何でだ」と聞いたら、「支部委員を1回やらせて、教育し直せ」というのが職場の総意だったと(笑)。そんな経緯で、1970年8月から1年(後年には2年)任期の支部委員になりました。

なんと、分ってない若者に生活給思想を「教育し直す」ために組合役員にさせられたのが出発点だったというわけです。

その後、労働組合活動を長年続け、最後は政治家にもなった加藤さんは、この問題についてこう振り返っています。

加藤 最後に、家族手当の話です。最初にお話ししたとおり、私が新入社員のときに家族手当に異論を唱えたことが,労働運動に関わる一つのきっかけになりました。家族の有無で賃金に差をつけるのは、合理性に欠ける。賃金はあくまで労働の対価であるべきだ、と若い私は考えていたからです。

 戦後の日本で家族手当がしぶとく残った背景には、「国が信頼できなくなったときでも、人々が拠り所にしたのは家族だった」という歴史的事情がある、という見方もあります。家族をまるごと抱え込んで面倒を見る会社、というモデルが,労働者にも経営者側にも魅力的に映った時期があったのでしょう。

 とはいえ、合理主義的な理系の若者からすれば、「家族が多い人が偉いのか」「家族のいない人を差別していいのか」という疑問は当然です。その意味で、あのとき職場の仲間の多くが「家族手当の議論であそこまで言った奴がいたから,面白そうなので一票入れてみよう」と支部委員選挙で名前を書いてくれたのかも知れません。私にとっては迷惑だったのかはともかく、大きな転機であり、答え合わせのような出来事でした。・・・

 

 

 

 

 

 

 

オベリスクさんの拙著書評

322511000924_20260925112801 拙著が出るたびにブログ「オベリスクの備忘録」で書評していただいているオベリスクさんが、早速『スキルとデキル』にも丁寧な書評をしていただきました。

https://obelisk2.hatenablog.com/entry/2026/09/24/085246

・・・買ったばかりの濱口先生の本を読み始める、ざっと第四章まで読んだ、というか、わたしの雑な頭ではきちんと読めず、これも目を通した、くらいのレヴェルであろう。正直、濱口先生と自分とでは世界観や人間観が随分ちがうし、「スキル」も「デキル」もあんま興味ねーよなーって思っていたのだが、やっぱり地に足のついた、優秀な学者の本を読んで、おもしろくないわけないか、ってなったわ。
 でも、題名はともかく、近現代日本の「職業教育」の歴史を記述した本じゃないの、って思ったね。はっきりいって、わたしの何も知らない世界で、ま、それもおもしろい。・・・

はい、その通りです、タイトルはややキャッチーですが、本文の大部分は「近現代日本における職業教育訓練の歴史」とでも題するのがふさわしいような内容になっております。

・・・「職業教育」ってのは(いや、学校教育全般がそうだが)、いうまでもなく「国策」だよね。最初は国も、労働者に「スキル(技術)」を求めていた。それが変わり始めるのは七十年代半ばだという。その最大の駆動力は「賃金制度における職能給の一般化」(p.131)。このあたりは、濱口先生の他の本で勉強した筈だが、わたしの雑な頭のせいで、もう忘れてしまった。また、ホワイトカラーとブルーカラーの関係性も、かかわっているという。
 とにかくその時点で、「会社」が新入社員にもとめるものは仕事にすぐに役立つ「技術(スキル)」ではなく、なんだかわからない「能力」というものになってきて、濱口先生はそれを本書で「デキル」(なんでもできる「能力」)と呼んでおられる。スキルそのものは、(学校じゃなくて)OJT によって「会社」が現場で教える、と。
 わたしのようなバブル世代は、まさに「デキル」の時代の子だったな。わたしは大学で物理学を学んでいたのだが、当時、商社や銀行から、いっぱいおさそいがあったくらいで(物理学が役立つとは到底思えない)、あれはなんだったんだろう、てなもんである。・・・

「大学で勉強してきたことは全部忘れろ、会社が現場で一から教えてやる」が常識化した時代でした。

で、だからこそ、本書197ページで、ロースクールのはなしの関連で言及した明治大学法学部の民法不合格留年事件が社会問題になったりしたわけです。

 

 

 

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