『日本労働研究雑誌』2019年7月号

708_07 『日本労働研究雑誌』2019年7月号は「観光産業の雇用と労働」が特集です。

https://www.jil.go.jp/institute/zassi/new/index.html

提言 観光産業の持続的発展に向けて 山内弘隆(一橋大学大学院特任教授)
解題 観光産業の雇用と労働 編集委員会
論文 旅行産業の成長と宿泊業における雇用・労働に与える影響 矢ケ崎紀子(東京女子大学教授)
観光産業の生産性 深尾京司(一橋大学教授)・金榮愨(専修大学教授)・権赫旭(日本大学教授)
観光系大学における教育が観光産業に果たす役割 髙橋伸子(流通経済大学准教授)
宿泊業界における成長戦略としての人材育成─ホテル業の現状と課題 テイラー雅子(大阪学院大学教授)
宿泊業従事者の就業意識─その特徴と課題 田村尚子(西武文理大学教授)
地方小規模宿泊業(旅館業)における労働環境 井門隆夫(高崎経済大学教授)
紹介 観光産業における労使関係・課題 神田達哉(サービス連合情報総研理事)

髙橋さんの論文には観光関連の学部学科やコースのある大学が2ページにわたって載っており、へえ、こんなにあるんだという驚きですが、読んで面白かったのは井門さんの論文で、旅館業史を、宿の誕生と一夜湯治から始まって、戦後旅館業の労働環境を綴っていくその文章が実にいいです。住み込み制や接客要員が仮名で勤務する「源氏名」制なんてのもあったんですね。これは、事情があり身を明らかにしたくない女性にとっては駆込み寺のような存在であり、そうした女性の社会的な雇用プールであった・・・と語ります。

あと、最後のコラムで、

フィールド・アイ 大麻合法化と職場における諸問題(トロントから③)所浩代(福岡大学教授)

が、最近大麻を合法化したカナダの状況を伝えていて、興味深いです。

 

 

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デジタルエコノミーの進展と働き方の変化@『ビジネス・レーバー・トレンド』2019年7月号

201907 JILPTの『ビジネス・レーバー・トレンド』2019年7月号は、去る3月25日に開催した労働政策フォーラム「デジタルエコノミーの進展と働き方の変化」が特集記事です。

https://www.jil.go.jp/kokunai/blt/backnumber/2019/07/index.html

労働政策フォーラム デジタルエコノミーの進展と働き方の変化
【問題提起】濱口 桂一郎 JILPT研究所長 【研究報告】第四次産業革命下における労働法政策をめぐる日・独比較―
Comparative Labor Law on Labor Policy for the Fourth Industrial Revolution
山本 陽大 JILPT副主任研究員【事例報告①】ベイシアにおける生産性向上対応―AI導入でレジ混雑緩和
重田 憲司 株式会社ベイシア 執行役員 流通技術研究所 所長【事例報告②】人と機械の共存に向けて―RPAの導入と計画
塚本 隆広 フジモトHD株式会社 情報システム室 企画・管理担当課長【事例報告③】RPAによる組織・働き方の変化
矢頭 慎太郎 パーソル テンプスタッフ株式会社 業務改革推進部 RPA推進室 室長
【パネルディスカッション】

それに加えて、JILPTが実施した4社1労組へのヒアリング結果も載せています。

AI等の技術革新が雇用・労働に与える影響に関するヒアリング調査
―4社、1労組の事例から見る現状と課題
【事例1】新技術を採り入れたデータ活用でキャリアアドバイザーの仕事を深化 パーソル キャリア
【事例2】機械学習を応用した来客予測システムで接客価値を高める仕事に注力 ゑびや/EBILAB
【事例3】RPAの推進・拡大で人のやるべき仕事の見極めを パーソル テンプスタッフ
【事例4】窓口の手続きをタブレットで対応することで地域サービスの向上を 伊予銀行
【事例5】デジタル技術革新の導入に向けて生産性三原則を前提にした労使協議を要求 UAゼンセン

はやりのテーマですが、一つ一つ事例を積み上げて考察することが大事であることはいうまでもなく、そのためにもこういう特集記事は有用だと思います。

 

 

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日本型雇用システム論と小池理論の評価(再掲)

小池和男さんが亡くなられました。日本の労働研究者の中でも、世界的に有名な方の一人であり、その理論は小池理論として多くの人々に受容されています。

ただ、私はその【受容】の内実がかなり違っているのではないかと考えてきました。鶴光太郞さんに依頼され、経済産業研究所で報告したこともあります。それをまとめたのが、一昨年にWEB労政時報に掲載した「日本型雇用システム論と小池理論の評価」です。昨年、本ブログに全文アップしており、ここでもそれを再度掲載することで、多くの方々が小池理論について突っ込んだ議論を展開するよすがになればと思います。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2018/01/post-af37.html (小池ファンは小池理論を全く逆に取り違えている件)

 日本型雇用システムについての議論では、ほぼ必ず小池和男氏の理論が道しるべとして用いられます。しかし、世間の人々が小池理論を理解している理解の仕方は、実は必ずしも小池氏が一貫して説き続けてきていることとは異なるのではないか、むしろその理論的方向性においては逆向きに理解されてきているのではないかという風に、私は感じるようになっています。「理論的」方向性とは、政治的とか社会的な方向性、いわゆるイデオロギー的な傾きのことではありません。実を言えば、そういう方面からの批判や称賛は山のようにありますが、そういう類いの議論は全て、小池理論の「理論」たる根幹のところを取り違えてしまっているのではないか、取り違えて褒めたり貶したりしてしまっているのではないか、という疑問です。
 今回は、実務的な本サイトの性格からするとやや違和感があるかも知れませんが、上述した違和感を、小池氏の著作の文言そのものを正確に把握することを通じて確認してみたいと思います。今まで著書で部分的に論じてきたことを、この際まとめておきたいという気持ちもあります。

 私自身の「メンバーシップ型」「ジョブ型」論も含め、日本型雇用システムに関する議論はほとんどすべて、欧米の雇用社会と日本の雇用社会が対照的であるという「常識」に立脚して論じられてきました。この「常識」はもちろんあくまでも事実認識として共有されているということであって、価値判断としては真っ向から対立する思想を含みます。むしろ、「ジョブ型」万歳論も「メンバーシップ型」万歳論も、一見対立しているように見えて、その土俵となる事実認識としてはほぼ同じ認識枠組を共有してきたということがここでは重要です。
 この「常識」を共有するさまざまな見解を、その時々の時代の主流となった意見の順番に見ていくと、まず1960年代までの経営側と政府の考え方は、①日本も欧米型職務給を目指すべき、というわりと素朴なジョブ型推進論でした。その当時の労働側の主流(総評)は、②いや建前上からはそうかも知れないけれど、そんなことをしたら労働者とりわけ中高年に不利益になるから反対だというものでした。もっともその頃でも、労働側の非主流派には、③経営側の主張する職務給ではなくて西欧のような横断賃率を目指すべきだと主張する人々もいました。ところが1969年の日経連『能力主義管理』ととりわけオイルショックを過ぎて、世の中の雰囲気は一変し、④いやいや日本型の方が効率的で人間的で素晴らしい、という考え方が世の中に広まりました。1970年代から1980年代はこの思想が世の中を覆った時代です。恐らく世の中の圧倒的に多くの人々は、小池理論とはこの④の見解を実証に基づいて説いたものと思われているのではないでしょうか。ところが1990年代にバブルが崩壊した後は、⑤やっぱり日本型はダメで欧米型を見倣うべし、という考え方が「常識」として政策を駆動していくことになりました。
 と見てくると、方向性は目まぐるしく変わっているように見えますが、いや確かにそうなのですが、日本型と欧米型が対照的であるという(価値判断以前の)事実認識の次元においては、何ら変わることなく一貫していることが分かると思います。そう、私が言う「理論的」とはこの次元のことです。そして、恐らく圧倒的に多くの読者にとって意外に聞こえると思いますが、この「理論的」次元において、一貫して上記さまざまな意見と異なる地点にいたのが、実は小池和男氏の理論だったのです。すなわち、これらベクトルはさまざまでも基本構造は共通の「常識」とはまったく異なり、「欧米型は実は日本型と同じなんだ」という「常識はずれ」の理論を一貫して唱え続けてきたのが小池氏なのです。

 小池氏が初めて自らの賃金理論をまとめて世に問うた『賃金 その理論と現状分析』(ダイヤモンド社、1966年)から、その理論のエッセンスを抜き出してみましょう。小池氏は言います。

・・・わが国の通説は、日本の賃金や労働組合が欧米諸国に比べきわめて特殊だ、と強調している。熟練は本来企業をこえて通用し、労働者は企業間を移動できるはずなのに、日本の労働者は終身雇用によって個別企業に結びつけられ、その企業にしか通用しない「年功的熟練」をもつにすぎない。賃金は本来職種ごとにきまり、企業や年齢によって異ならないはずなのに、日本の賃金は企業によって差があり、また年齢によってはなはだしく異なる。労働組合は本来職業別あるいは産業別の「横断組織」であるはずなのに、日本の労働組合は企業別だ、というのである。
 ここで日本を特殊だという基準は、欧米諸国の「実態」におかれている。あるいは、よりあいまいに「近代的」という言葉が使われている。たしかに・・・右の基準は産業資本主義段階では充分妥当する。だが・・・それらの条件が独占段階に入ってもなお支配的に存在するかは、きわめて疑わしい。近時独占段階の資本蓄積様式の研究が進み、かなり著しい変化が確かめられている。それらは労働力の性質や賃金などにはほとんど及んでいないけれども、変化がそこにも起こっていると推測させるに充分である。そしてわずかに見出された若干の事象をみると、これまで「日本的」とされていたものと少なからず類似している。吟味が要求される。
 まず労働力の性質について、「内部昇進制(job promotion)」と「先任権制度(seniority)」という現象が注目される。・・・先任権制度が確立するなら、労働者は原則として未経験工として入社し、勤続を重ねながらしだいに上級の仕事に進むことになる。他社に移ると勤続による利得を失うことになるから、労働者は個別企業と深く結びつく。その本質はなお吟味されねばならないが、一見日本の「年功的熟練」と似た事象が見出されてくるのである。
 勤続に応じてより上級の仕事につくのが一般的傾向であれば、賃金率が仕事ごとにきまっていても、結果的には勤続に応じても上昇する。この点を確かめるべき資料に恵まれないけれども、充分推測される。そうすると、勤続や年齢に応じて上昇する日本の年功賃金と似ていることになろう。また労働者がひとつの企業に長く勤続するなら、その賃金は企業をこえてまったく共通するとは限らないだろう。・・・こうした類似点は、たんに表面的なものにすぎないのであろうか。それとも、独占段階一般の傾向なのだろうか。その点の研究はまだきわめて貧しく、以下、まだ市民権を得ていない筆者の仮説-ありうべきひとつの説明を提示するほかない。・・・

 誤解の余地はないでしょう。小池理論とは、「欧米諸国でも内部昇進制や先任権制度があるから、日本と変わらない、つまり日本は全然特殊ではないという議論」であって、前記④ではありません。せいぜい、同じ方向に進む同士の中で若干先進的という程度です。そしてその理論的根拠は、これまた多くの人にとっては意外かも知れませんが、今ではあまりはやらなくなった宇野派マルクス経済学の独占資本主義段階論であり、本人自ら実証的根拠はないと認識していたことがわかります。

 いやそれはもう半世紀以上も昔の若い頃の議論であって、その後は変わっているんじゃないかと思うかも知れませんが、そうではありません。既に上記④が終わりつつあった1994年に出版された『日本の雇用システム その普遍性と強み』(東洋経済新報社、1994年)でも、一見紛らわしいその標題にもかかわらず、「日本は全然特殊ではない」という議論を全面展開しています。

・・・通念によれば、日本方式とは、なによりも「年功賃金」「終身雇用」「年功的昇進」「企業別組合」そして「集団主義」である。「年功賃金」で暮らしに応じた賃金を払い、「終身雇用」で雇用が確保されれば暮らしが保障される。ただし、保障されたからといって、人はよく働くものではない。かえって心を安んじ、怠ることも大いにあろう。にもかかわらず日本の職場にそれが起こらないとすれば、それは集団主義という気風の賜だ。企業という集団を重視し、働く仲間に気配りしながら働く。そのゆえに職場の効率が高い、と説く。
 だが、一体絵に描いたような「年功賃金」や「終身雇用」が日本に存在し得ようか。ときに「年功賃金」を、ほとんど勤続や年齢で賃金額が決まるもの、働きにあまり関係なく暮らしで決まるものと想定する。・・・日本では、毎年定期昇給があることをもって、先のように誤解したりする。だが、いうまでもなく、定期昇給制は、毎期個人ごとの働きぶりの厳しい査定があり、それによって金額が違う。・・・個人の働きぶりによって長い期間をとれば、賃金はかなり差がついていく。そもそも働こうが怠けようが賃金に差がつかなければ、誰がよく働こうか。

 自称小池ファンの多くは無意識的に④の立場に立って、日本型システムのすばらしさを実証している理論だと思い込んでいるようですが、小池著をちらとでも読めばそれは全く逆であって、そういう「通念」「常識」を批判しているのが小池理論であることがわかります。
 ただし、その議論の仕方はあまりにもアンフェアと言わざるを得ません。ほとんど非現実なまでにカリカチュアライズされた④をこしらえて、その非現実性を叩くというやり方です。本来問題の立て方は、なぜ欧米では一般労働者層には個人査定はないのに、日本では末端に至るまで「毎期個人ごとの働きぶりの厳しい査定があり、それによって金額が違う」のか?でなければならないはずなのに、そういう疑問が生じないように議論を誘導することで、雇用・賃金システム論を封じ込めてしまっています。
 しかしむしろ問題は、そういう議論の構成であるにも関わらず、つまり日本型は欧米型と変わらず、むしろ欧米よりも欧米型であること(=普遍性)がその「強み」だという議論であるにも関わらず、なぜか世間では欧米型に対する日本型の「強み」を実証した議論だと理解されているという皮肉な事態にあります。
 その背景事情には、青木昌彦企業論における「J企業論」とともに、日本経済の全盛期にその活力の理由を説明する理論として「消費」されたからではないかと思われますが、圧倒的に多くの小池読者たちは、こういう文章を目の前に読みながらその文字通りの意味を理解しようともせず、脳内で勝手に小池理論を上記④の議論だと思い込んでしまい、この壮烈なパラドックスを的確につかまえられていないのではないかと思われるのです。

 さらにその後、1999年に出された『仕事の経済学(第2版)』(東洋経済新報社、1999年)では、その「第13章 基礎理論と段階論」で、30年以上前の宇野マルクス経済学の段階論のロジックを繰り返しています。それによると、まず4つの労働力タイプ論が提示されます。

A 技能がやや高く、時間によっても不変のタイプ(熟練労働者タイプ):
B 技能が低く、時間によっても不変のタイプ(不熟練労働者タイプ)
C 技能が時間によってかなり高まるタイプ(内部昇進タイプ)
D 技能が時間によってやや高まるタイプ(半熟練労働者タイプ)

 これを産業化の2段階論と組み合わせると、こうなります。

(1)クラフトユニオンの時代:AタイプとBタイプが主役、組合が熟練を形成し、職種別賃金率。
(2)産業別組合の時代:CタイプとDタイプが主役。
(3)これをさらに前期と後期に分け、前期はDタイプがやや主役でCタイプは専門管理職的ホワイトカラーにとどまるが、後期はCタイプが生産労働者にも広まる。

 つまり、日本型特殊性論を否定し、それ(「ブルーカラーのホワイトカラー化」)を産業別組合時代後期の一般的性質に解消する議論なのです。しかし、再びその実証的根拠は希薄です。その正否はともかく、宇野マルクス経済学の段階論で一貫している点だけは明らかです。そして、殆どすべての小池読者たちが(表面上の価値判断の片言隻句に囚われて)見落としてきたのもこの理論的一貫性です。
 では現実に存在する各国間の差異を小池氏はどう説明するのでしょうか?

・・・それぞれの発展段階には、それぞれ最も適合した経済や技術の方式があるのみならず、さらに最も適した労働力タイプ、労働組合、労使関係などの社会制度があろう。・・・第1段階が長い間反映すると、それに適合した社会制度が十二分に発達し、深く根を下ろして確立する。第2段階になっても前代の制度があまりに強く確立しているためにその廃棄、従ってその移行コストが高くなりすぎ、第2段階の社会制度の普及がかえって遅れる。
・・・そうじて第2段階の社会制度をより広く十分に確立させたという点で、日本の技能形成制度、労使関係制度は、世界の流れを半歩先んじている。
・・・なお、単なる後発効果の強調ですむなら、後発の国は他に多い。なぜ今のところ日本だけが先んじているのであろうか。恐らく第2段階への移行の時期と、日本の当時の内的発展の高さがうまく適合したのであろう。他の多くの国は第2段階がかなり進んでから産業化に乗り出し、第2段階の先頭を切るには遅すぎた。

 正直言って、本気か?と言いたくなります。あまりにも「常識はずれ」です。もっとも、小池氏はあまりにも宇野マルクス経済学に忠実なので、いかなる社会も同じ道を進歩していくという考え方以外が目に入らないのかも知れません。そういう単線発展論の土俵の上で「日本のふつうの議論は長らく日本の遅れによる、とみてきた。はたしてそうか。」という反論をしているつもりなのでしょう。議論が壮大にすれ違っているわけです。

 ここで、こういう小池氏の発想の根源を探ってみたいと思います。多くの人は小池氏を実証的労使関係論者だと思っているようです。しかし、小池氏の議論は労使関係論の基本的発想の欠如した純粋経済学者のスタイルです。それも新古典派というよりも宇野派マルクス経済学の直系です。
 労使関係論とは何でしょうか?一言でいえば、労使の抗争と妥協によって作り上げられる「ルール」の体系を研究する学問です。その「ルール」は政治的に構築されるのですから、経済学的に正しい保障はありません。もちろん、政治的に構築されたルールが持続可能であるためには経済学的に一定の合理性を持つ必要があります。
 戦時賃金統制と電産型賃金体系が確立した生活給自体は政治的産物であるので、その合理性を経済学から演繹することはできません。しかし生活給を変形した(厳しい個人査定付き)年功的職能給制度の合理性は経済学的に説明することが可能です。
 いわば、小池理論とは、労使関係論が最も重視する(政治的に決定される)「ルール」をあえて議論の土俵から排除することによって成立しているきわめて純粋経済学的な議論なのです。

 この労使関係論なき純粋経済学ぶりは、賃金の決め方と上がり方をめぐる議論にも明確に現れています。上記『賃金』(1966年)を見てみましょう。小池氏は、当時経営側や政府で流行していた「年功賃金から職務給へ」に反論して、こう述べます。

・・・だが、右の議論には納得できない疑問点が数多く見出される。第一に、賃金率の上がり方と決め方が混同され、区別されていない。決め方とは、ここの賃金率を直接規定する方式のことである。・・・これに対して、賃金率が結果としてどのような趨勢をとるかが「上がり方」の問題である。
重要なのは、この二つが全く次元の異なったものだということである。例えば、決め方が職務給でも、上がり方が年齢に応じて上昇することもあり得る。・・・この両者のうち、より一層重要なのは上がり方である。そこに生活がかかっているからである。ところが右の年功賃金論は、この区別を知らない。職務給をとれば上がり方も緩やかになる、と考えている。だが職務給はもともと決め方にすぎないのであって、決め方を変えたからといって、上がり方がそれによって変わるものではない。・・・だから、そもそも上がり方としての年功賃金を、決め方としての職務給と対立させるのがおかしいのであり、両者は両立しうるのである。・・・

 さらっと読むと一見もっともらしく見えますが、生活給とは「上がり方」そのものを「決め方」で規制する仕組みであり、結果としてこういう上がり方になりましたというものではありません。労使関係論者であれば労使の抗争と妥協の中でどういう「ルール」になったかが最大の関心になるはずですが、小池氏にとっては(当事者が決定した)「ルール」よりも「より一層重要なのは」(当事者ではなく外部の観察者が調査しグラフ化して初めてみえてくる)「上がり方」であるという点に、その純粋経済学者としてのスタンスが現れています。
 とりわけトリッキーなのは、「そこに生活がかかっているからである」という台詞です。「そこに生活がかかっているから」こそ、電産型賃金体系は直接に「ルール」でもって「上がり方」を「決め」ようとしたのです。つまり確実に上がるような「決め方」が大事なのであって、労使当事者が決められる「ルール」の外側の経済学者が観察しグラフ化してはじめてみえてくる「上がり方」などに委ねようとはしなかったのです。

 よく知られているように、1969年の『能力主義管理』は、日経連の20年に及ぶ職務給化唱道からの撤退宣言です。「職務」による決定を「職務遂行能力」による決定に「転進」させることで、生活給に由来する年功的「上がり方」を経済学的に合理的なものとして運用することが可能になりました。それゆえそれは運用次第で生活給的な運用にも「能力」を理由とした大きな差のつく運用にもなりえます。「能力」概念の曖昧さが、年功ベースでも経済学的に合理的な運用を可能にするというパラドックスです。それを初めからそのように構築されたかのように説明するのは、歴史感覚の欠如した経済学的思考にすぎません。
 この「能力主義」を経済学的に説明する道具として70-80年代に活用されたのが小池氏の名と共に人口に膾炙した「知的熟練論」です。しかしその原型は『賃金』(1966年)にあるとおり、中小企業と大企業の賃金の上がり方の違いの経済学的に見える説明でした。今ではほとんどの人がその原型を知らずに使っていると思いますが、「知的熟練論」とはこういうものだったのです。

・・・この傾向を素直に解すると、5~10年以上の勤続の意味が、大企業と中小企業とでは、ちがうらしい。大企業では5~10年をこえても勤続年数はなお技能(広い意味での)と相関し、それゆえ賃金も上昇していくのであろう。それに対し中小企業では、それまでは技能とかなり深く相関し、それゆえやはり賃金も上昇していくのだが、それをこえると、もはや技能との相関が浅くなり、そのため賃金も鈍化ないし横ばいとなっていくのではあるまいか。いいかえれば、大企業の労働能力は、10年をこえてもなおより高い職務へと昇りつづけるのに対し、一般的にいって中小企業の労働力は、必要経験年数が5~10年どまりの職務の遂行にとどまっているのではあるまいか。要するに、中年長勤続層における著しい格差は、労働能力の性質のちがいによると推測される。だから労働市場の逼迫によっても、依然格差が残ったのではあるまいか。・・・
では、なぜ中年長勤続層では労働能力の種類のちがいが生じるのだろうか。・・・大企業の機械設備が中小企業に比べ概して巨大で複雑なことを想起する必要がある。・・・大企業の巨大な複雑化した機械体系は、・・・しばしばそうした「知的熟練」を強く要求している。ひとつのスイッチを押すにも、機械体系全体の仕組みについての理解が要求され、そのために関連する多くの職務を遍歴してその「知的熟練」を身につける必要があり、かくして、想像以上に長い経験年数が必要とされる。・・・要するに、中年長勤続層のはなはだしい格差は、おもに労働能力の種類のちがいによるものと考えられる。

 正直な感想を言えば、「あるまいか」の連発のあげくの「知的熟練」という万能の説明であり、笑止千万としか言いようがありません。言うまでもなく、日本には欧米のような企業を超えてその職業能力を認証する仕組みは存在しません。本当に大企業の中高年労働者の能力がその高賃金に見合うだけ高く、中小企業の中高年労働者の能力がその低賃金に見合うだけ低いのかどうかを客観的に測定する物差しは、どこにも存在していないのです。小池氏の説明は、現実に存在する大企業と中小企業の年功カーブの格差を、労働能力の格差を反映しているに違いないと推測しているだけです。存在するものは合理的というヘーゲル的な論理というべきでしょう。

 しかしこの説明の仕方は、後年の『中小企業の熟練』(1981年)でも全く変わっていません。証拠のない仮説のままで。

・・・かくて、労働力の質を強調する仮説が残る。この仮説にとって有利な状況は、大企業は、そこに働くすべての労働者に対して、より高い賃金を払ってはいない、ということである。大企業の仕事をしていても、季節工、社外工、下請、臨時という形で、かなりの人々には、中小企業労働者や不熟練労働者と変わりない賃金が支払われている。本工とホワイトカラーだけが、より高い賃金を支払われているに過ぎない。そして、その人々は、かなり広い範囲の職務を遍歴する内部昇進制の下にある。その内部昇進制が、他のグループとは違った労働力の質を形成しているのではないか、というのである。
・・・この仮説の難点は、労働力の質について経験的研究が乏しく、それを直接支持する証拠が提出されていない、ということである。労働能力それ自体について、統計的資料など存在しない。ごく若干のケースについて細かい観察があるに過ぎない。これはまだ証拠に恵まれない、一つの仮説に過ぎない。ただこの仮説を採ると、他のいくつかの仮説も生きてくる。・・・
・・・大企業と中小企業の労働力の質について、前節で見た規模別賃金格差の実態がまことに示唆的である。労働需給が逼迫して久しい時期にもかなりの格差が残る。残る格差は、製造業ブルーカラーに著しい。・・・これだけの格差があれば、そして需給関係にその原因を求められないとすれば、何らかの労働力の質の差、あるいは労働力タイプの違いとみるのは、けだし当然であろう。

 「労働需給」で説明できない部分は「労働力の質」で説明するしかない、というこの発想!言葉の最も正確な意味で「労使関係論なき純粋経済学」の名に値します。労使関係論が最も重視する(政治的に決定される)「ルール」をあえて議論の土俵から排除することによって成立しているきわめて純粋経済学的な議論です。そして純粋経済学であるがゆえに、「証拠なき仮説」が平然と通用してしまうのです。

 しかし、「証拠なき仮説」はいかに紙の上の議論としては通用しても、現実社会では企業行動自体によって裏切られてしまいます。上記『日本の雇用システム』(1994年)ではこう高らかに論じているのですが、

・・・しばしば日本の報酬制度は、単に「年功」つまり勤続や年齢などと相関が高く、それゆえ「非能力主義的」とされてきた。職場における能力とは、端的には技能にほかならない。ところが、技能の伸長と報酬との関係はあまり立ち入って吟味されなかった。技能はそれほど長期には伸びないと想定されていたかのように思われる。だが、これまで最も深く技能を吟味した業績によれば、勤続20年を超えて、なお技能は伸び続けるという結果が得られている。・・・知的熟練の向上度を示す中核的な指標は、(a)経験のはばと(b)問題処理のノウハウである。この二つは、普通の報酬の方式では促進できない。

 問題は、その「知的熟練」が、本当に企業にとってそれだけの高い給料を払い続けたくなるような価値を有しているのか、という点にあります。

・・・では現代日本の解雇の方式に何の問題もないのか。いや、そうではない。通念とは全く逆に、日本の方がコストの高い人たちを解雇しているかも知れないという疑問である。
・・・この日独の差は何を意味するか。中高年の解雇は、本人にとってその損失がはなはだ大きい。 ・・・日本はどうやらコストの大きい層を対象にしているようだ。・・・そのコスト高を承知で解雇を行えばまだしも、それをまったく知らずに実施しては、失うものが甚だしい。肝心の変化と問題をこなす高い技量の形成を妨げよう。それは、職場で経験をかさね、実際に問題に挑戦して身につける。長期を要する。雇用調整が早すぎると、その長期の見通しを壊してしまいかねない。いったん崩れると、その再建は容易でない。

 何でしょう、この無責任ぶりは。欧米よりも合理的な知的熟練を形成するような賃金制度を実施しているはずの日本企業が、肝心の中高年の取扱いになると、それがまったくわかっていない愚か者に変身するというのは、あまり説得力のある議論ではありません。
 正確に言えば、白紙の状態で「入社」してOJTでいろいろな仕事を覚えている時期には、「職務遂行能力」は確かに年々上昇しているけれども、中年期に入ってからは必ずしもそうではない(にもかかわらず、年功的な「能力」評価のために、「職務遂行能力」がなお上がり続けていることになっている)というのが、企業側の本音でしょう。
 「職務遂行能力」にせよ「知的熟練」にせよ、客観的な評価基準があるわけではないので、それが現実に対応しているのかそれとも乖離しているのかは、それが問われるような危機的状況における企業の行動によってしか知ることはできません。リストラ時の企業行動は、中高年の「知的熟練」を幻想だと考えていることを明白に示しているのです。

 そろそろまとめておきましょう。
 戦後日本の労働政策において、中高年雇用は常に問題であり続けました。高度成長期にはその問題点は極めて明確で、経済的合理性に反する年功賃金制のため、企業が中高年雇用を選好しないためでした。職務給を唱道する経営側だけでなく、生活給を死守しようとした労働側も、問題構造の認識は同じだったのです。それゆえ当時は賃金制度改革が答えでした。「常識」に立脚しつつ「存在するものは(必ずしも)合理的ではない」という非ヘーゲル的認識からの経済学的答案です。
 ところが、小池理論は中高年の高賃金を知的熟練論で論証することにより「存在するものは合理的」にしてしまいました。つまり問題そのものを消去したのです。
 しかし紙の上で問題を消去しても、現実世界の問題は消え失せてくれません。その理論上の「合理性」に反する(不況のたびに繰り返される)企業行動を批判する小池理論は、矛盾を内在するパラドックスになってしまったといえましょう。
 その原因は挙げて、ほとんどすべての当事者たちが共有していた「常識」「通念」に反する理論構成をしたためです。
 「常識」はずれの議論は、いかにアクロバティックな論理展開で人を酔わせても、最後は破綻するのです。

 

 


 

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『労働契約論の再構成 小宮文人先生古稀記念論文集』

Komiya 淺野高宏・北岡大介編『労働契約論の再構成 小宮文人先生古稀記念論文集』(法律文化社)をお送りいただきました。タイトル通り小宮文人先生の学恩を受けた方々による論集ですが、冒頭に小宮先生自身の論考も載っています。

http://www.hou-bun.com/cgi-bin/search/detail.cgi?c=ISBN978-4-589-04018-3

労働環境の変動への対応から体系的に立法された労働契約法は、成立以降、その法理の妥当性が常に問われている。労働契約論に関する主な論点につき、理論的到達点を踏まえ、あらためて再定位を試みるとともに、今日的課題を探る。

収録されている論文はいずれも重要な論点ですが、ここでは恐らく圧倒的に多くの方々がほとんど関心を払わないであろうトピックを扱った論文を紹介しておきたいと思います。それは、日本大学の南健悟さんの「海上労働契約の構造」です。

船員の労働法体系が陸上のそれと異なっていることはよく知られていますが、そもそも雇用契約と雇入契約という二重契約(かどうかが大問題)の仕組みであることはほとんど知られていないのではないでしょうか。私は『日本の労働法政策』の付章で若干詳しく歴史的に解説しましたが、この問題に正面から挑戦しているのが南さんの論文なのです。

 

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70歳までの就業機会確保@『労基旬報』2019年6月25日号

『労基旬報』2019年6月25日号に「70歳までの就業機会確保」を寄稿しました。

 現在、未来投資会議で審議されている成長戦略実行計画には、「第3章 全世代型社会保障への改革」の冒頭に「70歳までの就業機会確保」という項目が掲げられています。そこでは、「65歳から70歳までの就業機会確保については、多様な選択肢を法制度上許容し、当該企業としては、そのうちどのような選択肢を用意するか、労使で話し合う仕組み、また、当該個人にどの選択肢を適用するか、企業が当該個人と相談し、選択ができるような仕組みを検討する」とされ、具体的な選択肢としては次の7つが提示されています。
(a) 定年廃止
(b) 70歳までの定年延長
(c) 継続雇用制度導入(現行65歳までの制度と同様、子会社・関連会社での継続雇用を含む)
(d) 他の企業(子会社・関連会社以外の企業)への再就職の実現
(e) 個人とのフリーランス契約への資金提供
(f) 個人の起業支援
(g) 個人の社会貢献活動参加への資金提供
 このリストはなかなか興味深いものがあります。(a)から(c)までは現在の高齢法第9条の高年齢者雇用確保措置と同じです。ですが、これを60歳代後半層にそのまま押しつけるのは無理だろうというのは多くの人々の共通の認識でした。そこで、同じ高齢法の後ろの方にある第15条(再就職援助措置)を持ってきて、他企業への再就職(d)も選択肢に入れるというのは、想定の範囲内であったと思われます。
 しかしこのリストはそれよりもさらに広く、個人請負による自営業も就業機会として含めています。ただこれも、実はそれほど意外感はありません。高齢者対策では既に長らくシルバー人材センターという形で雇用によらない就業形態を推進してきていますし、隣接分野である障害者対策では、2005年改正で雇用によらない在宅就業障害者に仕事を発注する事業主に対して、障害者雇用納付金制度において特例調整金、特例報奨金の支給を行うこととされています。(e)(f)はその高齢者版と位置付けられるのでしょう。
 (g)の社会貢献活動になると、解釈によってはそもそもここでいう「就業機会」に含まれるのかという疑問も生じますが、恐らくここで想定されているのは、NPOやNGOなどの非営利組織の一員となって社会的に有用な経済活動に参加するものなのだと思われます。
 「企業は(a)から(g)の中から当該企業で採用するものを労使で話し合う。それぞれの選択肢についての企業の関与の具体的な在り方について、今後検討する」とありますが、この「労使で話し合う」の中身が恐らく過半数組合又は過半数代表者との協定で云々という形になるとすると、2004年改正で継続雇用対象者の選別を委ねたときと同様に、改めて従業員代表制の議論を喚起することになるでしょう。
 この立法は二段階方式で進めるということです。まず第1段階は、「法制度上、上記の(a)~(g)といった選択肢を明示した上で、70歳までの就業機会確保の努力規定とする。また、必要があると認める場合は、厚生労働大臣が、事業主に対して、個社労使で計画を策定するよう求め、計画策定については履行確保を求める」とされ、この第1段階の実態の進捗を踏まえて、第2段階として、「現行法のような企業名公表による担保(いわゆる義務化)のための法改正を検討する。この際は、かつての立法例のように、健康状態が良くない、出勤率が低いなどで労使が合意した場合について、適用除外規定を設けることについて検討する」とされています。
 まず努力義務で促進し、その上で義務化するというのは、60歳定年でも65歳継続雇用でもとられてきたやり方なので違和感はありませんが、企業名の公表が義務化であるかのような表現ぶりには疑問があります。いうまでもなく、企業名の公表というのは1986年改正時に60歳定年の努力義務を定めた時にその実効確保のために導入されたもので、義務化とともに廃止されています。ここにはいささか概念の混乱が見られるようです。
 また、「混乱が生じないよう、65歳(現在63歳。2025年に施行完了予定)までの現行法制度は、改正を検討しないこととする」というのは、法的安定性を考えれば当然のこととはいいながら、高齢期の人事管理が60歳まで、60歳から65歳まで、65歳から70歳までと5歳刻みで分断されてしまい、本来あるべき一貫した人事管理が難しくなるという難点があります。もちろん、早い段階から社会貢献活動に専念するわけにもいかないでしょうが、たとえば再就職や起業をするにしても、65歳というのでは遅すぎて、もっと早い段階から進めていかなければならないといった意見が出てくるのではないでしょうか。
 今後の日程としては、「労働政策審議会における審議を経て、2020年の通常国会において、第一段階の法案提出を図る」ということなので、実はあまり時間はありません。秋口から審議会で議論をし、年末には建議を取りまとめるというスケジュールで動いていくことになります。その際、上述のような問題点がどこまできちんと議論されるのかが重要でしょう。
 なお、今回はわざわざ念押し的に「70歳までの就業機会の確保に伴い、年金支給開始年齢の引上げは行わない。他方、年金受給開始の時期を自分で選択できる範囲(現在は70歳まで選択可)は拡大する。 加えて、在職老齢年金制度について、社会保障審議会での議論を経て、制度の見直しを行う」と書かれています。これまでの高齢者雇用対策がほとんどすべて厚生年金の支給開始年齢の引上げと連動する形で進められてきたことを考えると、この点は大きな違いです。これは、年金受給開始時期を60歳に繰り上げ受給することから70歳に繰り下げ受給することまで可能である現行年金法の枠内で、70歳就業の自然な帰結として70歳繰り下げ受給を拡大していこうという温和なやり方で、無用の反発を回避する狙いがあるのでしょう。
 ただ、在職老齢年金の見直しというのは、もちろん60歳代後半層の就労意欲を高めるためという意図はわかるのですが、要は在職しているが故に削減されている部分を満額支給するということなので、数千億円の追加支出を必要とすることになり、ただでさえ逼迫している年金財政にさらに悪影響を与えることになりかねません。これは年金政策サイドとしては、そう簡単に実施できないように思われます。

なお、成長戦略実行計画は先週金曜日に閣議決定されています。

 

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カナダの雑誌『Edge』にインタビュー記事

今まで気が付いていなかったのですが、カナダの雑誌『Edge』のネット版(4月27日付)に、日本の長時間労働に関するわたくしのインタビュー記事が載っていました。

https://theedgeleaders.com/from-japan-to-france-laws-meant-to-protect-workers-can-end-up-triggering-a-cultural-clash/

これ、実はそのちょっと前の4月19日に、カナダのテレビ局CBCの電話取材を受けた時の内容です。テレビ局の電話取材ということで、日本でカナダのテレビを見ることもないので、そのまま忘れていたのですが、その時のやり取りが雑誌記事になっていたんですね。

この記事は日本とフランスを対照させている記事で、私はその前半の日本の話に出てきます。

Take Japan, where overwork thrives.
“Blue and white collar workers … have a sense of guilt to leave the office,” says Keiichiro Hamaguchi of the Japan Institute for Labour Policy and Training.
Last year, an Expedia survey found 58 per cent of Japanese respondents felt guilty for taking a vacation. This year, some workers are even complaining about the special 10-day nationwide holiday at the end of the month to mark Emperor Akihito’s abdication.
“The Japanese workplace is a very collective atmosphere,” Hamaguchi says, adding that it’s as if each worker has no individual job description.
“The job description is attributed to the division or department,” he says. “So if the department hasn’t completed their task, then any member should not leave the office.”
At its most extreme, this work mentality leads to “karōshi,” the well-worn term in Japanese society for death from overwork.

長時間労働が蔓延している日本を取り上げよう。

「ブルーカラーもホワイトカラーも、職場を離れることに罪悪感を持っている」とJILPTの濱口桂一郎は言う。

昨年、エクスペディアの調査では、日本人の58%が休暇を取るのに罪悪感を感じている。今年、明仁天皇の退位による月末の10日にわたる公休日に不満を漏らす労働者もいる。

「日本の職場はとても集団的な雰囲気がある」と濱口は述べ、あたかもどの労働者も個別のジョブディスクリプションを持っていないかのようだと付け加えた。

「ジョブディスクリプションは係や課に与えられている」と彼は述べ、「なので、課がその任務を完了していないならば、課員は誰も職場を離れるべきではない」と。

その極限において、この労働メンタリティは日本社会でよく知られた「過労死」に至る。

電話越しの口頭でのやり取りなので、ややニュアンスがずれたところもありますが、まあおおむね趣旨は通じていたようです。

一番最後に「This story originally appeared on CBC」とあるので、ほぼこういうやり取りがカナダのテレビに流れたんだと思います。

 

 

 

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無知がものの役に立ったためしはない

例の「年金返せ」デモについて、藤田孝典さんがこういうことをつぶやいていたようですが、

https://twitter.com/fujitatakanori/status/1141039413918437377

年金について勉強してから発言したり、行動するべきだ、という議論もあるみたい。しかし、そんなことは政治家、官僚、研究者、専門家の仕事。一般市民や大衆は、怒りを感じたらみんなで集まり、デモや示威行動で表現すればいい。何も行動しないよりはるかにマシ。

いやこれは全然駄目。

細かいところまで勉強せよとは言わない。しかし、公的年金とはそもそも如何なるものであるか、そして公的年金制度において「年金返せ」なるスローガンが如何なる、どちら向きのベクトルを持った台詞であるかという、基礎の基礎のそのまた基礎に当たるようなことを全く理解しないほどの不勉強な、方向性を全く間違えた「怒り」なるものを、それが無知な大衆の怒りであるという理由で賞賛するような議論は、良く言って愚かの極みであり、悪く言えば利敵行為以外の何物でもないでしょう。

保険料の拠出という形で個人の権利性を確保しつつ、公的社会保障制度全体で貧富間の再分配を図るという仕組みの根源を破壊する方向の論理だからです。

公的年金をつかまえて、あたかも私的な取引に基づく積立貯金であるかの如く「返せ」などという言語を発すること自体が、脳内主観では敵対していることになっているホリエモンと全く寸分違わない立場に自らをおいているという基礎の基礎すら理解できていないような人間は、やはり最小限のことを勉強してから発言したり行動すべきなのです。

同じ社会保障制度で例を取れば、健康保険で医者にかかって本人負担分の高さに逆上して、「健康保険料返せ」とわめき散らして、公的健康保険を破壊し、市場ベースの医療保険だけの、ムーア監督の「シッコ」の世界を求めるかの如き無知な「庶民の怒り」を、褒め称えるようなことを言ってはいけないのです。

 

 

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ワシの年金バカ再掲

なんだかもう、バカとアホとタワケが三つどもえで南海の大決闘をやらかしているような悲惨な状況下で、とりわけ狂った正義感に満ちあふれているらしき「りべらる」諸氏の言動には絶望感しかないので、新たに何かを書く元気も起こらず、過去のいくつかのエントリを再掲することで、一応の対応ということにしたいと思います。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/07/post-f716.html (年金世代の大いなる勘違い)

・・・これは確かにわたしも感じていることです。ただ、理由付けは異論があります。官僚への期待値も政治的疎外感も、逆方向に向かう蓋然性の方が高いはずです。

では、お前の考える理由は何か?

彼らが「年金生活」に入っていることそれ自体が最大の理由ではないか、と思うのです。

ただし、これは社会保障がちゃんと分かっている人には理解しにくいでしょう。

公的年金とは今現在の現役世代が稼いだ金を国家権力を通じて高齢世代に再分配しているのだということがちゃんと分かっていれば、年金をもらっている側がそういう発想になることはあり得ないはずだと、普通思うわけです。

でも、年金世代はそう思っていないんです。この金は、俺たちが若い頃に預けた金じゃ、預けた金を返してもらっとるんじゃから、現役世代に感謝するいわれなんぞないわい、と、まあ、そういう風に思っているんです。

自分が今受け取っている年金を社会保障だと思っていないんです。

まるで民間銀行に預けた金を受け取っているかのように思っているんです。

だから、年金生活しながら、平然と「小さな政府」万歳とか言っていられるんでしょう。

自分の生計がもっぱら「大きな政府」のおかげで成り立っているなんて、これっぽっちも思っていないので、「近ごろの若い連中」にお金を渡すような「大きな政府」は無駄じゃ無駄じゃ、と思うわけですね。

社会保障学者たちは、始末に負えないインチキ経済学者の相手をする以上に、こういう国民の迷信をなんとかする必要がありますよ。

労働教育より先に年金教育が必要というのが、本日のオチでしたか。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2014/11/post-7e36.html (「ワシの年金」バカが福祉を殺す)

・・・この問題をめぐるミスコミュニケーションのひとつの大きな理由は、一方は社会保障という言葉で、税金を原資にまかなわなければならない様々な現場の福祉を考えているのに対し、他方は年金のような国民が拠出している社会保険を想定しているということもあるように思います。

いや、駒崎さんをクローニー呼ばわりする下司下郎は、まさに税金を原資にするしかない福祉を目の敵にしているわけですが、そういうのをおいといて、マスコミや政治家といった「世間」感覚の人々の場合、福祉といえばまずなにより年金という素朴な感覚と、しかし年金の金はワシが若い頃払った金じゃという私保険感覚が、(本来矛盾するはずなのに)頭の中でべたりとくっついて、増税は我々の福祉のためという北欧諸国ではごく当たり前の感覚が広まるのを阻害しているように思われます。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2016/12/post-d4d3.html (「ワシの年金」バカの脳内積立妄想)

・・・このエントリは、どちらかというと大きい政府小さい政府論の文脈で、なぜ社会保障で生活しているはずの年金世代が小さい政府といいたがるのかというパラドックスを指摘したものですが、実は、年金制度それ自体の内部で、まさにこの「脳内積立妄想」が猛威を発揮しているのが、今日ただいまの「年金カット法案」という醜悪なネーミングであるように思われます。

ニッポンという大家族で、子どもと孫の世代が一生懸命耕して田植えして稲刈りして積み上げたお米を、もう引退したじいさまとばあさまも食べて生きているという状況下で、その現役世代の食えるお米が少なくなったときに、さて、じいさまとばあさまの食う米を同じように減らすべきか、断固として減らしてはならないか。

多分、子どもや孫が腹を減らしてもじいさまとばあさまの食う米を減らしてはならないと主張する人は、その米が何十年もむかしにそのじさまとばあさまが現役で田んぼに出て働いていた頃に、自分で刈り取ったお米が倉の中に何十年も積み上げられていて、それを今ワシらが食っているんじゃ、と思っているのでしょう。

いろいろ思うに、ここ10年、いや20年近くにわたる年金をめぐるわけの分からない議論の漂流の源泉は、そもそも現実の年金が仕送りになっているということを忘れた「ワシの年金」バカの脳内積立妄想に在るのではないか、というのが私の見立てです。

そのとんでもない破壊力に比べれば、経済学者の中の積立方式に変えろ論など可愛いものではないか、と思ってしまいます。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2016/08/post-0196.html (上野千鶴子氏の年金認識)

いやもちろん、拙著『働く女子の運命』の腰巻で「絶賛」していただいた方ですから、悪口を言いたいわけではないのですが、やはり問題の筋道は筋道として明らかにしておく必要があろうかと思います。・・・・

なお、もう少し理論的に説明したものとしては、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/post-9649.html (財・サービスは積み立てられない)

・・・この問題は、いまから10年前に、連合総研の研究会で正村公宏先生が、「積み立て方式といおうが、賦課方式といおうが、その時に生産人口によって生産された財やサービスを非生産人口に移転するということには何の変わりもない。ただそれを、貨幣という媒体によって正当化するのか、法律に基づく年金権という媒体で正当化するかの違いだ」(大意)といわれたことを思い出させます。

財やサービスは積み立てられません。どんなに紙の上にお金を積み立てても、いざ財やサービスが必要になったときには、その時に生産された財やサービスを移転するしかないわけです。そのときに、どういう立場でそれを要求するのか。積み立て方式とは、引退者が(死せる労働を債権として保有する)資本家としてそれを現役世代に要求するという仕組みであるわけです。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/07/post-a96e.html (積み立て方式って、一体何が積み立てられると思っているんだろうか?)

・・・「積み立て方式」という言葉を使うことによって、あたかも財やサービスといった効用ある経済的価値そのものが、どこかで積み立てられているかの如き空想がにょきにょきと頭の中に生え茂ってしまうのでしょうね。

非常に単純化して言えば、少子化が超絶的に急激に進んで、今の現役世代が年金受給者になったときに働いてくれる若者がほとんどいなくなってしまえば、どんなに年金証書だけがしっかりと整備されていたところで、その紙の上の数字を実体的な財やサービスと交換してくれる奇特な人はいなくなっているという、小学生でも分かる実体経済の話なんですが、経済を実体ではなく紙の上の数字でのみ考える癖の付いた自称専門家になればなるほど、この真理が見えなくなるのでしょう。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2012/03/post-545a.html (年金証書は積み立てられても財やサービスは積み立てられない)

・・・従って、人口構成の高齢化に対して年金制度を適応させるやり方は、原理的にはたった一つしかあり得ません。年金保険料を払う経済的現役世代の人口と年金給付をもらう経済的引退世代の人口との比率を一定に保つという、これだけです。

 

 

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メールマガジン労働情報1500号記念企画 第1回「雇用類似の働き方」

労働政策研究・研修機構のメールマガジン労働情報1500号記念企画として、第1回「雇用類似の働き方」がアップされています。

https://www.jil.go.jp/kokunai/mm/memorable/1500th/01.html

 現在世界的に、最もホットな労働問題となっているのが、第4次産業革命とともに登場してきた新たな就業形態であり、シェアリング経済、プラットフォーム労働、クラウド労働等々のバズワードが世界を飛び交っている。今回の特徴はそれが日米欧といったこれまでの先進諸国だけでなく、中国や韓国など他のアジア諸国においても同時進行的に進んでいるという点である。JILPTは毎年日中韓の枠組みで労働フォーラムを開催しているが、昨年末2018年11月に中国青島(チンタオ)で開催した会議では、中国側の主導で「新たな就業形態」がテーマとされ、3か国の実態と対応が討議されたが、とりわけ従来型産業規制が希薄な中国においてこの種の新たなビジネスモデルが急速に展開していることが窺われた(参考資料1)。一方、2018年6月には日本の厚生労働省とEUの欧州委員会による日・EU労働シンポジウムでも「新たな就業形態」がテーマに取り上げられており、EUのこの問題への高い関心を示している。・・・・・

前半はこのトピックにかかわるJILPTの研究成果を紹介し、後半は雇用類似の働き方に対する法政策の在り方についてのごく簡単な解説です。

 

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労働基準監督システムの1世紀@『季刊労働法』2019年夏号(265号)

1837028_o 『季刊労働法』2019年夏号(265号)に「労働法の立法学」第54回として、「労働基準監督システムの1世紀」を執筆しました。

https://www.roudou-kk.co.jp/books/quarterly/6893/

■労働法の立法学 第54回■
労働基準監督システムの1世紀
労働政策研究・研修機構労働政策研究所長 濱口桂一郎

はじめに
1 工場監督システムの形成と展開 
(1) 工場法の制定経緯
(2) 工場監督システムをめぐる問題
(3) 工場監督システムの整備
(4) 内務省社会局時代
(5) 戦時体制下の労務監督制度
2 鉱山監督制度
3 労働基準監督システムの形成
(1) 労働基準法の制定
(2) 労働基準監督システムの船出
(3) 監督行政の段階的展開
4 労働基準監督システムをめぐる有為転変
(1) 労働基準監督行政の地方移管問題 
(2) 都道府県労働局の設置とその後の動向
(3) 労働基準監督業務の民間活用問題
5 労働基準監督行政の展開
(1) 戦後復興期の監督行政
(2) 高度成長期の監督行政
(3) 安定成長期の監督行政
(4) 臨検監督と司法処分
(5) 労働基準監督官行動規範

 

 

 

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職業安定法旧第33条の4(兼業の禁止)

あるニュースを見て、職業安定法の今は亡きある規定を思いだしました。

(兼業の禁止)
第三十三条の四 料理店業、飲食店業、旅館業、古物商、質屋業、貸金業、両替業その他これらに類する営業を行う者は、職業紹介事業を行うことができない。 

この規定、すでに2003年の改正で削除されているんですが、このうち貸金業については、いろいろと問題があります。

この規定を思いだしたニュースというのはこれですが、

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190614/k10011952671000.html (借金ある男性に除染現場で強制労働させた疑い 男3人逮捕)

・・・米倉容疑者は、知り合いからの借金があった男性を「返済のため仕事しろ」などと脅して、ともに逮捕された男が経営する福島県の会社で除染作業員として日当1500円で2日間働かせたということです。

警視庁によりますと調べに対して、米倉容疑者は「借金返済を理由に仕事を勧めたが、無理やり連れていってはいない」などと容疑を否認しているということです。

実は今から8年前にこういうエントリを書ていたんですね。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/post-58bd.html (女は風俗、男は原発)

これでもそうとうにやばいですが、その先はいよいよ・・・

>そして、もう一つのルートが多重債務者だ。貸金業法改正によって、正規の業者から融資を受けられなくなった人が、いわゆるヤミ金から斡旋されて作業員になるケースもあるという。
>「女は風俗、男は原発というのが昔からの常識。元金にもよるけど、利子を引かれて元に残るのは5000円とか。一杯飲んでタバコ買ったら終わり。だからなかなか辞めない。でもよく働くよ、最近の多重債務者は。ほかに貸してくれるところがないからだろう」

ちなみに2003年改正まで、職業安定法には兼業禁止規定がありました。もとをたどると戦前の職業紹介法に由来し、料理店業・飲食店業・旅館業・古物商・質屋業・貸金業・両替業等と職業紹介事業との兼業は禁止されていたのです。「借りた金を返せねえのなら、体で返してもらおうか」という世界が現実にあったからですが、改正時にはそういう現実が遠いものに感じられるようになっていたのでしょう。 

借金のカタにやばい仕事に送り込むという世界は、戦前以来脈々と続いているようです。

 

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大学教授はジョブ型正社員か?

大学教授と言えば、その専門分野の学識で採用される真正高級のジョブ型正社員じゃないかとも思われるところですが、必ずしもそういうわけでもないということが、最近の裁判例で明らかになったようです。今年5月23日の東京地裁の判決、淑徳大学事件では、

http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/728/088728_hanrei.pdf

本件は,被告との間で期間の定めのない労働契約を締結し,被告の設置する大学の教員として勤務していた原告らが,被告が原告らの所属していた学部の廃止を理由としてした解雇が無効であると主張して,被告に対し,労働契約に基づき,それぞれ労働契約上の権利を有する地位にあることの確認を求めるとともに,解雇後の月例賃金,夏期手当,年末手当及び年度末手当である原告Aにおいて別紙①請求一覧表1の,原告Bにおいて別紙①請求一覧表2の,原告Cにおいて別紙①請求一覧表3の各支給日欄記載の日限り各金額欄記載の各金員並びに各金員に対する各起算日欄記載の日から支払済みまで民法所定年5分の割合による遅延損害金の支払を求めた事案である。

大学教授も無限定正社員なの?

淑徳大学の就業規則によれば、

被告の就業規則8条は「学園は,業務上必要と認めた場合,教職員に対し勤務地,所属部署,職種及び職務の変更を命ずることができる。」と定め,同14条は「教職員が次に掲げる各号の一に該当するときは,解雇する。」と定め,同条4号は「やむを得ない理由により事業を縮小または廃止するとき」と定めている(甲6)。

ふむ、普通の会社と一緒ですね。ただ、原告側主張では、職種は大学教授に限定されているけれども、職務つまり何を教えるかは無限定だということのようです。だから、国際コミュニケーション学部を廃止しても、他学部に配置転換することで雇用を維持できるはずだと。

それに対して被告大学側は、「大学は学部ごとに研究及び教育内容の専門性が異なるから,大学教員は所属学部を限定して公募,採用されることが一般的であり,淑徳大学においても,教員を採用する際は,公募段階で所属学部を限定した上,所属予定の学部の教授会又は人事委員会が承認した場合に限って採用している」と主張しています。

この点について、判決はなんだかずらして議論をしています。

・・・しかし,原告らの所属学部が同学部に限定されていたか否かは別として,淑徳大学には,アジア国際社会福祉研究所その他の附属機関があり,学部に所属せずに附属機関に所属する教員が存在し,原告らが配置転換を求めていたことは前記認定のとおりであるから,被告は,原告らを他学部へ配置転換することが可能であったかはともかくとしても,附属機関へ配置転換することは可能であったことが認められる。そうすると,仮に原告らの所属学部が同学部に限定されていたとしても,国際コミュニケーション学部の廃止によっても,原告らの配置転換が不可能であった結果,原告らを解雇する以外に方法がなかったということはできず,被告の主張は採用することができない。

他学部への配置転換を考慮する義務があるかどうかはともかくとして(なんやこれ)、附属機関への配置転換はできるやろうと。結論として解雇回避努力を尽くしておらず解雇無効としています。

と、これだけでもいろいろと議論のネタになりそうな判決ですが、そもそも最近の大学教授の皆様の状況は、むしろ率直に無限定社員化しつつあるというべきなのかもしれません。

 

 

 

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[書評]160 神と天使と人間と 大澤真幸『社会学史』(1)by 佐藤俊樹@『UP』6月号

456895 先日、名著『社会科学と因果分析』をお送りいただいた佐藤俊樹さんが、東大出版会の広報誌『UP』で、大澤真幸さんの『社会学史』を批評しているんですが、これが破壊力すごすぎて、正直がれきの山という感じです。何が?って、大澤さんのこの本が。

http://www.utp.or.jp/book/b456895.html

[書評]160 神と天使と人間と 大澤真幸『社会学史』(1) 佐藤俊樹

何がどうがれきの山なのか、それは読んでいただくしかなさそうです。

(参考)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2019/02/post-8337.html (佐藤俊樹『社会科学と因果分析』)

・・・思いだしてみると、今から40年余り前に大学に入ったころのマックス・ウェーバーという人のイメージって、(当時駒場にいた社会学者が折原浩という典型的なウェーバー考証学者だったこともあり)確かにガチ文系という感じでしたね。同じ文系でも数学を駆使している近代経済学とは対極にある感じでした。でも、それって、ウェーバーのそういうところばっかり「研究」してきた日本のウェーバー学者たちのバイアスだったようです。

佐藤さんのすごいところは、ウェーバーの論文で参照されている同時代のフォン・クリースという統計学者をはじめとして、関連する学問分野の文献を丁寧に見ていき、リッカート的ブンケー論に引き寄せて解釈されがちだったウェーバーが、実は同時代の最先端の統計論と取っ組み合っていたということを論証していくところです。そのスタイルは、それこそまさに文系の学者たちの得意とする文献考証そのものですが、それでこれだけ世の通俗的な認識と異なる絵図が描けてしまうということは、いかにこれまでのガチ文系のウェーバー学者たちが、自分の乏しい認識枠組みの内部だけで、ウェーバーの論文をあーでもないこーでもないとひねくり返して読んできていたかを示しているともいえるのでしょうね。

 

 

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『福祉社会へのアプローチ 久塚純一先生古稀祝賀』(上)(下)

Hisatuka 『福祉社会へのアプローチ 久塚純一先生古稀祝賀』(上)(下)(成文堂)が届きました。上下巻合わせて1500ページに及ぶ大冊です。

わたくしは下巻に「国家と企業の生活保障」を寄稿させていただいております。

久塚さんは社会保障法学者なので、そちらの論文が多いのですが、そうでないかなりはなれたテーマの論文もいくつか散見され、久塚さんのおつきあいの広さを窺わせるものとなっています。

労働法、労働研究の観点から興味を惹きそうなものをいくつかピックアップしておきますと、

フランスにおける障害者雇用支援システム 大曽根寛

地方公務員の退職勧奨における性別格差-1960年代の一般行政職を中心として 大森真紀

ワークライフバランス(WLB)理念の法的検討-再構成に向けての一考察 河合塁

ワークライフバランスと公共的相互性 後藤玲子

保険料拠出の意義と被保険者の地位に関するメモランダム 小西啓文

災害時の労働者の労務給付拒絶権に関わる一試論 春田吉備彦

ドイツの障害者雇用における使用者の法的義務と障害に関する情報の取得について 松井良和

日本福利厚生形成史に関する一考察 森田慎二郎

なぜ在華紡は大事か 篠田徹

ちなみに、この中でいちばん面白かったのは、大森真紀さんの論文です。『働く女子の運命』で触れた1960年代の企業の感覚とほぼ同じ感覚が地方自治体でも支配的で、あちこちの自治体で退職勧奨の対象が「満30歳以上で在職10年以上の女子」とか「有夫・有児で月収3万5千円以上の女子」とか、あるいは採用時に結婚退職の誓約書を提出させていたとか、山のようにあります。

某市の総務課長曰く、「市職員になりたい人が多い現状なので、市としては1世帯にひとりずつ採用する方針を採っており、一部には結婚して出産したら辞めるよう勧告したこともある。昇給ストップもやむを得ない」

大森さん曰く:大都市圏でもなく大企業が立地しない地方地域において、地方公務員職は、性別にかかわらず希少な雇用機会を提供していたから、夫婦で安定した現金収入を稼ぐことへの住民の反発も強く、それが地方自治体による女性への退職勧奨圧力を支えていたのだろう。

 

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労働立法政策史における「連続」と「断絶」 by 石田眞@『労働法律旬報』6月上旬号

457079 『労働法律旬報』6月上旬号は、例のベルコ事件が特集ですが、巻頭言に、 石田眞さんが「労働立法政策史における「連続」と「断絶」―労働法研究における「歴史」の面白さ」を書かれています。

http://www.junposha.com/book/b457079.html

昨年末は、石田さん編著の『戦後労働立法史』、石井保雄さんの『わが国労働法学の史的展開』、わたくしの『日本の労働法政策』と、歴史物の大冊が並びましたが、このコラムは、石田編著と拙著の論点として戦前、戦中、戦後の「連続説」「断絶説」を取り出し、読者の興味をそそったところで、今年10月に立命館大学で開催される日本労働法学会におけるワークショップに勧誘しています。

というわけで、皆様是非このワークショップに参加して、議論をぶつけていただければと存じます。

ついでに、本号特集のベルコ事件については、『Japan Labor Issues』5月号に英文で短い評釈を書いておりますので、ご参考までに。

https://www.jil.go.jp/english/jli/documents/2019/014-03.pdf

 

 

 

 

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