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2025年3月15日 (土)

スマイル0円が諸悪の根源(再掲)

15年も昔のこれを再掲しろといわれたような気がしました。気のせいじゃありませんよね。

「サービスはタダ」反省を 日本生産性本部・茂木会長

スマイル0円が諸悪の根源

日本生産性本部が、毎年恒例の「労働生産性の国際比較2010年版」を公表しています。

http://activity.jpc-net.jp/detail/01.data/activity001013.html

>日本の労働生産性は65,896ドル(755万円/2009年)。1998年以来11年ぶりに前年水準を割り込み、順位もOECD加盟33カ国中第22位と前年から1つ低下。

>製造業の労働生産性は米国水準の70.6%、OECD加盟主要22カ国中第6位と上位を維持。

>サービス産業の労働生産性は、卸小売(米国水準比42.4%)や飲食宿泊(同37.8%)で大きく立ち遅れ

前から、本ブログで繰り返していることですが、製造業(などの生産工程のある業種)における生産性と、労働者の労務それ自体が直接顧客へのサービスとなるサービス業とでは、生産性を考える筋道が違わなければいけないのに、ついつい製造業的センスでサービス業の生産性を考えるから、

>>お!日本はサービス業の生産性が低いぞ!もっともっと頑張って生産性向上運動をしなくちゃいけない!

という完全に間違った方向に議論が進んでしまうのですね。

製造業のような物的生産性概念がそもそもあり得ない以上、サービス業も含めた生産性概念は価値生産性、つまりいくらでそのサービスが売れたかによって決まるので、日本のサービス業の生産性が低いというのは、つまりサービスそれ自体である労務の値段が低いということであって、製造業的に頑張れば頑張るほど、生産性は下がる一方です。

http://activity.jpc-net.jp/detail/01.data/activity001013/attached.pdf

この詳細版で、どういう国のサービス生産性が高いか、4頁の図3を見て下さい。

1位はルクセンブルク、2位はオランダ、3位はベルギー、4位はデンマーク、5位はフィンランド、6位はドイツ・・・。

わたくしは3位の国に住んで、1位の国と2位の国によく行ってましたから、あえて断言しますが、サービスの「質」は日本と比べて天と地です。いうまでもなく、日本が「天」です。消費者にとっては。

それを裏返すと、消費者天国の日本だから、「スマイル0円」の日本だから、サービスの生産性が異常なまでに低いのです。膨大なサービス労務の投入量に対して、異常なまでに低い価格付けしか社会的にされていないことが、この生産性の低さをもたらしているのです。

ちなみに、世界中どこのマクドナルドのCMでも、日本以外で「スマイル0円」なんてのを見たことはありません。

生産性を上げるには、もっと少ないサービス労務投入量に対して、もっと高額の料金を頂くようにするしかありません。ところが、そういう議論はとても少ないのですね。

(参考)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/03/post-2546.html(サービスの生産性ってなあに?)

(追記)

ついった上で、こういうコメントが、

http://twitter.com/nikoXco240628/status/17619055213027328

>サービスに「タダ」という意味を勝手に内包した日本人の価値観こそが諸悪の根源。

たしかに、「サービス残業」てのも不思議な言葉ですね。英語で「サービス」とは「労務」そのものですから素直に直訳すれば「労務残業」。はぁ?

どういう経緯で「サービスしまっせ」が「タダにしまっせ」という意味になっていったのか、日本語の歴史として興味深いところですね。

ちなみに、こちらはいまから10年前ですが、

勤勉にサービスしすぎるから生産性が低いのだよ!日本人は

産経の記事ですが、

http://www.sankei.com/politics/news/151218/plt1512180033-n1.html (労働生産性、先進7カ国で最低 茂木友三郎生産性本部会長「勤勉な日本が…残念な結果」)

日本の生産性が低いことは以前から繰り返し本ブログでも取り上げてきていますが、この新聞記事を見てがっくりきたのは、日本生産性本部のトップともあろうお方が、こんな認識であったのか、といういささかの絶望感でありました。

茂木会長は、「日本は勤勉な国で、生産性が高いはずと考えられるが、残念な結果だ」と評価した。

生産性のなんたるかがよくわかっていない市井の人々はよくこの手の間違いをしますが、さすがに日本生産性本部会長がこの言葉はないでしょう、と。

茂木会長は「労働人口が減少する日本が国内総生産(GDP)600兆円を達成させるためにも、生産性の向上が必要で、特にサービス産業の改善が求められる」と語った。

まさに、サービス業の生産性というのが何で決まってくるのかをしっかりと考えてこそ、その「改善」も可能になろうというものです。

あとはもう、以前から本ブログをお読みの皆様方にとっては今更的な話ばかりになりますが、せっかくですので、以前のエントリを引っ張り出して、皆様の復習の用に供しようと思います。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2013/12/post-8791.html (なにい?労働生産性が低いい?なんということだ、もっとビシバシ低賃金で死ぬ寸前まで働かせて、生産性を無理にでも引き上げろ!!!)

依然としてサービスの生産性が一部で話題になっているようなので、本ブログでかつて語ったことを・・・、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/12/post-107c.html(スマイル0円が諸悪の根源)

日本生産性本部が、毎年恒例の「労働生産性の国際比較2010年版」を公表しています。

http://activity.jpc-net.jp/detail/01.data/activity001013.html

>日本の労働生産性は65,896ドル(755万円/2009年)。1998年以来11年ぶりに前年水準を割り込み、順位もOECD加盟33カ国中第22位と前年から1つ低下。

>製造業の労働生産性は米国水準の70.6%、OECD加盟主要22カ国中第6位と上位を維持。

>サービス産業の労働生産性は、卸小売(米国水準比42.4%)や飲食宿泊(同37.8%)で大きく立ち遅れ。

前から、本ブログで繰り返していることですが、製造業(などの生産工程のある業種)における生産性と、労働者の労務それ自体が直接顧客へのサービスとなるサービス業とでは、生産性を考える筋道が違わなければいけないのに、ついつい製造業的センスでサービス業の生産性を考えるから、

>>お!日本はサービス業の生産性が低いぞ!もっともっと頑張って生産性向上運動をしなくちゃいけない!

という完全に間違った方向に議論が進んでしまうのですね。

製造業のような物的生産性概念がそもそもあり得ない以上、サービス業も含めた生産性概念は価値生産性、つまりいくらでそのサービスが売れたかによって決まるので、日本のサービス業の生産性が低いというのは、つまりサービスそれ自体である労務の値段が低いということであって、製造業的に頑張れば頑張るほど、生産性は下がる一方です。

http://activity.jpc-net.jp/detail/01.data/activity001013/attached.pdf

この詳細版で、どういう国のサービス生産性が高いか、4頁の図3を見て下さい。

1位はルクセンブルク、2位はオランダ、3位はベルギー、4位はデンマーク、5位はフィンランド、6位はドイツ・・・。

わたくしは3位の国に住んで、1位の国と2位の国によく行ってましたから、あえて断言しますが、サービスの「質」は日本と比べて天と地です。いうまでもなく、日本が「天」です。消費者にとっては。

それを裏返すと、消費者天国の日本だから、「スマイル0円」の日本だから、サービスの生産性が異常なまでに低いのです。膨大なサービス労務の投入量に対して、異常なまでに低い価格付けしか社会的にされていないことが、この生産性の低さをもたらしているのです。

ちなみに、世界中どこのマクドナルドのCMでも、日本以外で「スマイル0円」なんてのを見たことはありません。

生産性を上げるには、もっと少ないサービス労務投入量に対して、もっと高額の料金を頂くようにするしかありません。ところが、そういう議論はとても少ないのですね。

(参考)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/03/post-2546.html(サービスの生産性ってなあに?)

(追記)

ついった上で、こういうコメントが、

http://twitter.com/nikoXco240628/status/17619055213027328

>サービスに「タダ」という意味を勝手に内包した日本人の価値観こそが諸悪の根源。

たしかに、「サービス残業」てのも不思議な言葉ですね。英語で「サービス」とは「労務」そのものですから素直に直訳すれば「労務残業」。はぁ?

どういう経緯で「サービスしまっせ」が「タダにしまっせ」という意味になっていったのか、日本語の歴史として興味深いところですね。

※欄

3法則氏の面目躍如:

http://twitter.com/ikedanob/status/17944582452944896

Zrzsj3tz_400x400>日本の会社の問題は、正社員の人件費が高いことにつきる。サービス業の低生産性もこれが原因。

なるほど、ルクセンブルクやオランダやベルギーみたいに、人件費をとことん低くするとサービス業の生産性がダントツになるわけですな。

さすが事実への軽侮にも年季が入っていることで。

なんにせよ、このケーザイ学者というふれこみの御仁が、「おりゃぁ、てめえら、ろくに仕事もせずに高い給料とりやがって。だから生産性が低いんだよぉ」という、生産性概念の基本が分かっていないそこらのオッサン並みの認識で偉そうにつぶやいているというのは、大変に示唆的な現象ではありますな。

(追記)

http://twitter.com/WARE_bluefield/status/18056376509014017

>こりゃ面白い。池田先生への痛烈な皮肉だなぁ。/ スマイル0円が諸悪の根源・・・

いやぁ、別にそんなつもりはなくって、単純にいつも巡回している日本生産性本部の発表ものを見て、いつも考えていることを改めて書いただけなんですが、3法則氏が見事に突入してきただけで。それが結果的に皮肉になってしまうのですから、面白いものですが。

というか、この日本生産性本部発表資料の、サービス生産性の高い国の名前をちらっと見ただけで、上のようなアホな戯言は言えなくなるはずですが、絶対に原資料に確認しないというのが、この手の手合いの方々の行動原則なのでしょう。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/03/post-2546.html(サービスの生産性ってなあに?)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2007/02/post_b2df.html(労働市場改革専門調査会第2回議事録)

(参考)上記エントリのコメント欄に書いたことを再掲しておきます。

>とまさんという方から上のコメントで紹介のあったリンク先の生産性をめぐる「論争」(みたいなもの)を読むと、皆さん生産性という概念をどのように理解しているのかなあ?という疑問が湧きます。労働実務家の立場からすると、生産性って言葉にはいろんな意味があって、一番ポピュラーで多分このリンク先の論争でも意識されているであろう労働生産性にしたって、物的生産性を議論しているのか、価値生産性を議論しているのかで、全然違ってくるわけです。ていうか、多分皆さん、ケーザイ学の教科書的に、貨幣ヴェール説で、どっちでも同じだと思っているのかも知れないけれど。

もともと製造業をモデルに物的生産性で考えていたわけだけど、ロットで計ってたんでは自動車と電機の比較もできないし、技術進歩でたくさん作れるようになったというだけじゃなくて性能が上がったというのも計りたいから、結局値段で計ることになったわけですね。価値生産性という奴です。

価値生産性というのは値段で計るわけだから、値段が上がれば生産性が上がったことになるわけです。売れなきゃいつまでも高い値段を付けていられないから、まあ生産性を計るのにおおむね間違いではない、と製造業であればいえるでしょう。だけど、サービス業というのは労働供給即商品で加工過程はないわけだから、床屋さんでもメイドさんでもいいけど、労働市場で調達可能な給料を賄うためにサービス価格が上がれば生産性が上がったことになるわけですよ。日本国内で生身でサービスを提供する労働者の限界生産性は、途上国で同じサービスを提供する人のそれより高いということになるわけです。

 

どうもここんところが誤解されているような気がします。日本と途上国で同じ水準のサービスをしているんであれば、同じ生産性だという物的生産性概念で議論しているから混乱しているんではないのでしょうか。

>ていうか、そもそもサービス業の物的生産性って何で計るの?という大問題があるわけですよ。

価値生産性で考えればそこはスルーできるけど、逆に高い金出して買う客がいる限り生産性は高いと言わざるを得ない。

生身のカラダが必要なサービス業である限り、そもそも場所的なサービス提供者調達可能性抜きに生産性を議論できないはずです。

ここが、例えばインドのソフトウェア技術者にネットで仕事をやらせるというようなアタマの中味だけ持ってくれば済むサービス業と違うところでしょう。それはむしろ製造業に近いと思います。

そういうサービス業については生産性向上という議論は意味があると思うけれども、生身のカラダのサービス業にどれくらい意味があるかってことです(もっとも、技術進歩で、生身のカラダを持って行かなくてもそういうサービスが可能になることがないとは言えませんけど)。

>いやいや、製造業だろうが何だろうが、労働は生身の人間がやってるわけです。しかし、労働の結果はモノとして労働力とは切り離して売買されるから、単一のマーケットでついた値段で価値生産性を計れば、それが物的生産性の大体の指標になりうるわけでしょう。インドのソフトウェアサービスもそうですね。

しかし、生身のカラダ抜きにやれないサービスの場合、生身のサービス提供者がいるところでついた値段しか拠り所がないでしょうということを言いたいわけで。カラダをおいといてサービスの結果だけ持っていけないでしょう。

いくらフィクションといったって、フィリピン人の看護婦がフィリピンにいるままで日本の患者の面倒を見られない以上、場所の入れ替えに意味があるとは思えません。ただ、サービス業がより知的精神的なものになればなるほど、こういう場所的制約は薄れては行くでしょうね。医者の診断なんてのは、そうなっていく可能性はあるかも知れません。そのことは否定していませんよ。

>フィリピン人のウェイトレスさんを日本に連れてきてサービスして貰うためには、(合法的な外国人労働としてという前提での話ですが)日本の家に住み、日本の食事を食べ、日本の生活費をかけて労働力を再生産しなければならないのですから、フィリピンでかかる費用ではすまないですよ。パスポートを取り上げてタコ部屋に押し込めて働かせることを前提にしてはいけません。

もちろん、際限なくフィリピンの若い女性が悉く日本にやってくるまで行けば、長期的にはウェイトレスのサービス価格がフィリピンと同じまで行くかも知れないけれど、それはウェイトレスの価値生産性が下がったというしかないわけです。以前と同じことをしていてもね。しかしそれはあまりに非現実的な想定でしょう。

要するに、生産性という概念は比較活用できる概念としては価値生産性、つまり最終的についた値段で判断するしかないでしょう、ということであって。

>いやいや、労働生産性としての物的生産性の話なのですから、労働者(正確には組織体としての労働者集団ですが)の生産性ですよ。企業の資本生産性の話ではなかったはず。

製造業やそれに類する産業の場合、労務サービスと生産された商品は切り離されて取引されますから、国際的にその品質に応じて値段が付いて、それに基づいて価値生産性を測れば、それが物的生産性の指標になるわけでしょう。

ところが、労務サービス即商品である場合、当該労務サービスを提供する人とそれを消費する人が同じ空間にいなければならないので、当該労務サービスを消費できる人が物的生産性の高い人やその関係者であってサービスに高い値段を付けられるならば、当該労務サービスの価値生産性は高くなり、当該労務サービスを消費できる人が物的生産性の低い人やその関係者であってサービスに高い価格をつけられないならば、当該労務サービスの価値生産性は低くなると言うことです。

そして、労務サービスの場合、この価値生産性以外に、ナマの(貨幣価値を抜きにした)物的生産性をあれこれ論ずる意味はないのです。おなじ行為をしているじゃないかというのは、その行為を消費する人が同じである可能性がない限り意味がない。

そういう話を不用意な設定で議論しようとするから、某開発経済実務家の方も、某テレビ局出身情報経済専門家の方も、へんちくりんな方向に迷走していくんだと思うのですよ。

>まあ、製造業の高い物的生産性が国内で提供されるサービスにも均霑して高い価値生産性を示すという点は正しいわけですから。

問題は、それを、誰がどうやって計ればいいのか分からない、単位も不明なサービスの物的生産性という「本質」をまず設定して、それは本当は低いんだけれども、製造業の高い物的生産性と「平均」されて、本当の水準よりも高く「現象」するんだというような説明をしなければならない理由が明らかでないということですから。

それに、サービスの価値生産性が高いのは、製造業の物的生産性が高い国だけじゃなくって、石油がドバドバ噴き出て、寝そべっていてもカネが流れ込んでくる国もそうなわけで、その場合、原油が噴き出すという「高い生産性」と平均されるという説明になるのでしょうかね。

いずれにしても、サービスの生産性を高めるのはそれがどの国で提供されるかということであって、誰が提供するかではありません。フィリピン人メイドがフィリピンで提供するサービスは生産性が低く、ヨーロッパやアラブ産油国で提供するサービスは生産性が高いわけです。そこも、何となく誤解されている点のような気がします。

>大体、もともと「生産性」という言葉は、工場の中で生産性向上運動というような極めてミクロなレベルで使われていた言葉です。そういうミクロなレベルでは大変有意味な言葉ではあった。

だけど、それをマクロな国民経済に不用意に持ち込むと、今回の山形さんや池田さんのようなお馬鹿な騒ぎを引き起こす原因になる。マクロ経済において意味を持つ「生産性」とは値段で計った価値生産性以外にはあり得ない。

とすれば、その価値生産性とは財やサービスを売って得られた所得水準そのものなので、ほとんどトートロジーの世界になるわけです。というか、トートロジーとしてのみ意味がある。そこに個々のサービスの(値段とは切り離された本質的な)物的生産性が高いだの低いだのという無意味な議論を持ち込むと、見ての通りの空騒ぎしか残らない。

 

>いや、実質所得に意味があるのは、モノで考えているからでしょう。モノであれば、時間空間を超えて流通しますから、特定の時空間における値段のむこうに実質価値を想定しうるし、それとの比較で単なる値段の上昇という概念も意味がある。

逆に言えば、サービスの値段が上がったときに、それが「サービスの物的生産性が向上したからそれにともなって値段が上がった」と考えるのか、「サービス自体はなんら変わっていないのに、ただ値段が上昇した」と考えるのか、最終的な決め手はないのではないでしょうか。

このあたり、例の生産性上昇率格差インフレの議論の根っこにある議論ですよね。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2012/09/post-0c56.html(誰の賃金が下がったのか?または国際競争ガーの誤解)

経済産業研究所が公表した「サービス産業における賃金低下の要因~誰の賃金が下がったのか~」というディスカッションペーパーは、最後に述べるように一点だけ注文がありますが、今日の賃金低迷現象の原因がどこにあるかについて、世間で蔓延する「国際競争ガー」という誤解を見事に解消し、問題の本質(の一歩手前)まで接近しています。・・・・・

国際競争に一番晒されている製造業ではなく、一番ドメスティックなサービス産業、とりわけ小売業や飲食店で一番賃金が下落しているということは、この間日本で起こったことを大変雄弁に物語っていますね。

「誰の賃金が下がったのか?」という疑問に対して一言で回答すると、国際的な価格競争に巻き込まれている製造業よりむしろ、サービス産業の賃金が下がった。また、サービス産業の中でも賃金が大きく下がっているのは、小売業、飲食サービス業、運輸業という国際競争に直接的にはさらされていない産業であり、サービス産業の中でも、金融保険業、卸売業、情報通信業といたサービスの提供範囲が地理的制約を受けにくいサービス産業では賃金の下落幅が小さい。

そう、そういうことなんですが、それをこのディスカッションペーパーみたいに、こういう表現をしてしまうと、一番肝心な真実から一歩足を引っ込めてしまうことになってしまいます。

本分析により、2000 年代に急速に進展した日本経済の特に製造業におけるグローバル化が賃金下落の要因ではなく、労働生産性が低迷するサービス産業において非正規労働者の増加及び全体の労働時間の抑制という形で平均賃金が下落したことが判明した。

念のため、この表現は、それ自体としては間違っていません。

確かにドメスティックなサービス産業で「労働生産性が低迷した」のが原因です。

ただ、付加価値生産性とは何であるかということをちゃんと分かっている人にはいうまでもないことですが、世の多くの人々は、こういう字面を見ると、パブロフの犬の如く条件反射的に、

なにい?労働生産性が低いい?なんということだ、もっとビシバシ低賃金で死ぬ寸前まで働かせて、生産性を無理にでも引き上げろ!!!

いや、付加価値生産性の定義上、そういう風にすればする程、生産性は下がるわけですよ。

そして、国際競争と関係の一番薄い分野でもっとも付加価値生産性が下落したのは、まさにそういう条件反射的「根本的に間違った生産性向上イデオロギー」が世を風靡したからじゃないのですかね。

以上は、経済産業研究所のDPそれ自体にケチをつけているわけではありません。でも、現在の日本人の平均的知的水準を考えると、上記引用の文章を、それだけ読んだ読者が、脳内でどういう奇怪な化学反応を起こすかというところまで思いが至っていないという点において、若干の留保をつけざるを得ません。

結局、どれだけ語ってみても、

なにい?労働生産性が低いい?なんということだ、もっとビシバシ低賃金で死ぬ寸前まで働かせて、生産性を無理にでも引き上げろ!!!

とわめき散らす方々の精神構造はこれっぽっちも動かなかったということでしょうか。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2013/04/post-fcfc.html(労働生産性から考えるサービス業が低賃金なワケ@『東洋経済』)

今年の東洋経済でも取り上げたのですけどね。

「日本の消費者は安いサービスを求め、労働力を買いたたいている。海外にシフトできず日本に残るサービス業をわざわざ低賃金化しているわけだ。またその背景には、高度成長期からサービス業はパート労働者を使うのが上手だったという面もある」(労働政策研究・研修機構の濱口桂一郎統括研究員)

こう考えると、サービス業の賃金上昇には、高付加価値化といった産業視点の戦略だけでなく、非正社員の待遇改善など労働政策も必須であることがわかる。「サービス価格は労働の値段である」という基本に立ち戻る必要がある。

 

 

 

連合の賃上げ第1次集計結果

昨日、連合の今春闘賃上げ第1次集計結果が発表されました。

前年を上回る回答引き出し!中小組合も5%超え! 有期・短時間・契約等労働者(時給)の賃上げ率は6%超え! ~2025 春季生活闘争 第1回回答集計結果について~

とりあえず、『賃金とは何か』(朝日新書)p235の定昇とベアのグラフを、2025年第1次集計分を追加してみました。

20251

 

 

2025年3月14日 (金)

財やサービスは積み立てられない(再掲)

13年前のエッセイを、一字一句変えることなく、そのまま再掲しなくちゃいけない、ということに、却って悩み深いものを感じざるを得ません。

財やサービスは積み立てられない

784241_l社会保険研究所の月刊誌『年金時代』5月号に、「財やサービスは積み立てられない」を寄稿しました。

中身は、本ブログで折に触れ書いてきたことですが。


 この期に及んで、未だに賦課方式ではダメだから積立方式にせよなどという、2周遅れ3周遅れの議論を展開する人々が跡を絶たないようです。

 この問題は、いまから十年前に、連合総研の研究会で正村公宏先生が、「積立方式といおうが、賦課方式といおうが、その時に生産人口によって生産された財やサービスを非生産人口に移転するということには何の変わりもない。ただそれを、貨幣という媒体によって正当化するのか、法律に基づく年金権という媒体で正当化するかの違いだ」(大意)といわれたことを思い出させます。

 財やサービスは積み立てられません。どんなに紙の上にお金を積み立てても、いざ財やサービスが必要になったときには、その時に生産された財やサービスを移転するしかないわけです。そのときに、どういう立場でそれを要求するのか。積立方式とは、引退者が(死せる労働を債権として保有する)資本家としてそれを現役世代に要求するという仕組みであるわけです。

 かつてカリフォルニア州職員だった引退者は自ら財やサービスを生産しない以上、その生活を維持するためには、現在の生産年齢人口が生み出した財・サービスを移転するしかないわけですが、それを彼らの代表が金融資本として行動するやり方でやることによって、現在の生産年齢人口に対して(その意に反して・・・かどうかは別として)搾取者として立ち現れざるを得ないということですね。

 「積立方式」という言葉を使うことによって、あたかも財やサービスといった効用ある経済的価値そのものが、どこかで積み立てられているかの如き空想が頭の中に生え茂ってしまうのでしょうか。

 非常に単純化して言えば、少子化が超絶的に急激に進んで、今の現役世代が年金受給者になったときに働いてくれる若者がほとんどいなくなってしまえば、どんなに年金証書だけがしっかりと整備されていたところで、その紙の上の数字を実体的な財やサービスと交換してくれる奇特な人はいなくなっているという、小学生でも分かる実体経済の話なのですが、経済を実体ではなく紙の上の数字でのみ考える癖の付いた自称専門家になればなるほど、この真理が見えなくなるのでしょう。

 従って、人口構成の高齢化に対して年金制度を適応させるやり方は、原理的にはたった一つしかあり得ません。年金保険料を払う経済的現役世代の人口と年金給付をもらう経済的引退世代の人口との比率を一定に保つという、これだけです。

 ところが、高齢者を優遇するなと叫んで、年金を積立方式にせよと主張するような経済学者に限って、一方では高齢者が働いて社会を支える側にまわるようにする政策に対しても、高齢者を優遇するなと批判することが多いようです。こういう安手の「若者の味方」が横行するのが、今日の悲劇かも知れません。高齢者を働かせずに現役世代に負担させ続けるのもダメなら、高齢者にも働いてもらって現役世代の負担を軽減するのもダメとなると、一体どういう政策が残ることになるのか。まさか「楢山節考」の世界ではあるまいと、心から祈るばかりですが。

2025年3月13日 (木)

令和6年度沖永賞

本日、労働問題リサーチセンターの令和6年度沖永賞の授賞式があり、わたくしも出席してきました。

https://www.rodorc.or.jp/recognize

受賞作は以下の3著書、1論文ですが、

Job_20250313200501 『ジョブ・クラフティングのマネジメント』 

    (著者)森永 雄太(上智大学経済学部教授)
    (発行所) 千倉書房

Chingin賃金の日本史-仕事と暮らしの一五〇〇年』 

    (著者) 高島 正憲(関西学院大学経済学部准教授)
    (発行所)吉川弘文館

Josei_20250313200601日本の女性のキャリア形成と家族

         雇用慣行・賃金格差・出産子育て 』 

    (著者) 永瀬 伸子(お茶の水女子大学基幹研究院教授)      
    (発行所) 勁草書房

Hihara労働におけるハラスメントの法的規律

  ―セクシュアル・ハラスメント、差別的ハラスメント及び

  「パワー・ハラスメント」に関する日仏カナダ比較法研究』 

    (著者) 日原 雪恵(山形大学人文社会科学部専任講師)    

    (掲載誌)法学協会雑誌 140巻1号1頁、3号347頁、5号547頁、7号829頁、9号1193頁、

         11号1463頁、141巻1・2号1頁(2023年1月~2024年1月)

永瀬さんの本はお送りいただいたときにここでご紹介していますし、日原さんの論文は法学協会雑誌連載時から読んでいました。お二人は以前からよく存じ上げています。

それに対して初めのお二人はこれまでお目にかかる機会はなかったのですが、じつは『賃金の日本史』の高島さんとは、ある一点で接点があったのです。

それは、「ちんぎん」の「ぎん」の字は、「金」か「銀」かという、まことにトリビアな、世間の普通の人はあんまり関心を持たないようなトピックに関心を持って、わざわざそういう文章を書いたりする奇特な人間同士であるという点だったんです。

賃金と賃銀

53c6df442fe541b49827497a70ce8134 『賃金の日本史』を書かれた高島正憲さんが、歴史書の老舗吉川弘文館のPR誌『本郷』の2023年11月号に「「賃銀」から「賃金」へ」というエッセイを寄稿されていたことに気がつきました。noteに載ったからですが。そこに、私の書いた小論が引用されていました。

「賃銀」から「賃金」へ 高島正憲

 そもそも、我われがあたりまえのように日常のなかで使っている「賃金」という言葉はいつから日本で広まりだしたのであろうか。書籍や論文、雑誌記事、ウェブなどいろいろと調べていると、やはりというか、なぜ「賃銀」ではなくて「賃金」なのかと同じような疑問を考えている人は多いようである。

 濱口桂一郎「賃銀と賃金」(『労基旬報』二〇二二年六月二五日号)では、「賃金」という表記は戦前から存在しており、特に法令上はその表記の方が多かったとして、法制史上の事例の考察と、そこから導き出される「賃銀」から「賃金」への移行についての仮説が紹介されている。たとえば、 一九三九年に公布された労働賃金を抑制する賃金統制令や賃金臨時措置令は、法令名そのものがまさに「賃金」であるし、それら法令は一九三八年の国家総動員法にもとづいたものだが、その本文にも「賃金其ノ他ノ従業条件」(第六条)という表記が確認される。また、法令上で「賃金」をさかのぼることができるのは一九一六年の工場法施行令で、条文中に「賃金」という表記が二〇箇所以降も確認することができ、それより五年前の一九一一年に公布された肝心の工場法には「賃金」が見当たらないことも指摘されている。

 よく知られているように、労働者保護の法令を作成する機運は、工場法制定に先立つこと数十年前の明治期半ばよりあったが、企業・財界よりの反対や政府の調整不足などで法案が作成・提出されるも長い間制定にはいたらなかった。それらの草案では「賃銀」や「賃銭」の表記となっていたが、他方、民法ではすでに「賃金」という表記がされており、またその定義するところも家賃、債権、雇人の給料など複数の意味で書かれるなど、用語としてはやや混乱した状況であったようである。その後、工場法の制定・施行過程で(意味が異なるとはいえ)民法に明記された「賃金」の表記が使われるようになり、やがて戦時下の統制関係の法令によって「賃金」の使用が確立した、という仮説となっている。

私の小論は、せいぜい明治以降の労働関係法令用語や社会政策学者の本くらいまでしか論じていませんが、古代からの賃金史を書かれた高島さんらしく、ここから話はさらに拡大し、明治初期から江戸時代までいろんな用例を紹介されています。

と、中世にまで遡ったあとに、最後のオチとして、21世紀になっても岩波文庫のマルクスの本は『賃銀・価格および利潤』(長谷部文雄訳) であるという話で締めくくっています。

1708078048670ynakg5pmc2 なお、改めていうまでもありませんが、高島さんの『賃金の日本史』は傑作です。是非ご一読を。

というわけで、本日は初めて高島正憲さんにお目にかかり、ちょっと変わった「賃金」論者同士としてご挨拶をさせていただきました。

それで本日のやることは終わりかな、あとはのんびり、と思ったら、そこに飛び込んできたのは・・・・・

 

 

永野仁美・長谷川珠子・富永晃一・石﨑由希子『詳説 障害者雇用促進法・障害者総合支援法』

77eb6295d62848159a62ae07c8e7b766 永野仁美・長谷川珠子・富永晃一・石﨑由希子『詳説 障害者雇用促進法・障害者総合支援法 多様性社会の就労ルールをひもとく』(弘文堂)をお送りいただきました。ありがとうございます。

https://www.koubundou.co.jp/book/b10108037.html

平成25年の大改正以降、〈障害者差別禁止〉と〈合理的配慮提供義務〉を軸として事業者に対して実効的な対応を義務づけ、障害者雇用の一層の前進を図っている障害者雇用促進法。そして、障害のある人が基本的人権のある個人としての尊厳にふさわしい日常生活や社会生活を営むことができるよう、必要となる福祉サービスにかかわる給付・地域生活支援事業などの支援を定める障害者総合支援法――。障害のある人の社会参画にとって「はたらく」ということは大きな位置を占めるものです。そこで本書は、まさに多様性社会の基本法をなすと言っても過言ではないこの2法の条文に則した解説を両輪としつつ、障害者権利条約、障害者基本法、障害者差別解消法といった関連諸法をも含めて体系的に整理・解説。当分野第一線の研究者らによる決定版です。

この四人のうち永野、長谷川、富永の3人は、以前に『詳説 障害者雇用促進法』を同じ版元から出していますが、

永野仁美・長谷川珠子・富永晃一編著『詳説 障害者雇用促進法』

永野・長谷川・富永編『詳説 障害者雇用促進法 <増補補正版>』

今回は、同じくらいの厚さの本の中で障害者雇用促進法は全体の約4割ほどに縮められていて、残りは主として福祉就労系の法令の解説になっています。

確かに、障害者の「はたらく」は、雇用労働と福祉就労にまたがっていて、両方を睨みながらでないと全体像が見えてこないところがあるので、本書のようなアプローチは重要だと思います。

一方で、雇用労働のところが縮んだために、いささかそそくさと簡述されている感が強まり、せっかく広い観点から書いているんだから、もちっと突っ込んでよ、という感想も持ちました。たとえば、2019年改正のもとになった国、地方自治体等の障害者雇用水増し問題も、単にけしからんというだけではなく、障害者の範囲が変わったきたことなど、制度の複雑な絡まり合いが背景にあるわけです。でも、そういうことを言い出すとどんどん膨れ上がってきて,本が分厚くなって売れるものでなくなるのでしょうね。

障害者雇用法制のすぐ先の延長線上にありながらあまり労働法界隈で注目されない障害者虐待防止法や障害者優先調達推進法がちゃんと詳しく紹介されているのは,本書の大きなメリットの一つだと思います。

第1部 障害者に関する法制度のあゆみ
 第1章 第2次世界大戦~1950年代:傷痍軍人から身体障害者へ
 第2章 1960年代:身体障害者雇用促進法と精神薄弱者福祉法の制定
 第3章 1970年代:雇用義務制度の確立と福祉工場の設立
 第4章 1980年代:対象となる障害者の拡大
 第5章 1990年代:障害者基本法の制定
 第6章 2000年代:多様な働き方への対応・障害者自立支援法の制定
 第7章 2010年代:障害者差別禁止・合理的配慮規定の導入
 第8章 2020年代:雇用と福祉のさらなる連携強化
第2部 障害者雇用促進法
 第1章 総則
 第2章 職業リハビリテーション
 第3章 差別禁止と合理的配慮
 第4章 雇用義務制度
第3部 障害者総合支援法
 第1章 総則
 第2章 支給決定の仕組み
 第3章 給付内容:訓練等給付を中心に
 第4章 障害福祉サービスの適切な提供
第4部 その他の関連諸法
 第1章 障害者権利条約
 第2章 障害者基本法
 第3章 障害者差別解消法
 第4章 障害者虐待防止法
 第5章 障害者優先調達推進法
第5部 その他の関連諸法
 第1章 就労支援法制
 第2章 労働関係法制
 第3章 所得保障法制

 

 

 

 

 

2025年3月12日 (水)

上林陽治・立教大学上林ゼミナール編著『大学生が伝えたい 非正規公務員の真実』

658633 上林陽治・立教大学上林ゼミナール編著『大学生が伝えたい 非正規公務員の真実』(明石書店)をお送りいただきました。ありがとうございます。

https://www.akashi.co.jp/book/b658633.html

教員・図書館職員・相談員など、日本の市区町村の非正規公務員割合が4割を超え、ワーキングプア化する中、この問題の第一人者である著者が、所属大学のゼミ生とともに現場取材を重ね、問題の解決に向けて考える。第一線のジャーナリストによる寄稿も収載。

非正規公務員問題を世に問い続けてきた上林陽治さんが、立教大学でゼミ生を募集する際に

「非正規公務員問題は日本の抱える問題の中でも最重要のものの一つと言われています。ゼミ生は『報道記者』担ったつもりで、この非正規公務員問題を調査し、当事者にインタビューし,報道するという過程を経験していただきます」

と募集し、これに応じて参加した20歳そこそこの大学二年生たちが、児童相談所、教育現場、公共図書館、ハローワークの現場に出向いて非正規公務員の人達から話を聞き、そして区役所の相談コーナーの非正規相談員で自殺した方の関係者を取材するなどしてまとめ上げた本です。ゼミの活動記録であるとともに、現代日本の断面図を若者たちが協力して描きだした記録になっています。

プロローグ:「書くという行為」について
はじめに

第1章 児童相談所――児童虐待に挑む現場第一線は非正規公務員[守田優也]
 非正規公務員に支えられる公共サービス
 児童相談所のリアル
 ジョブ・ローテーションと非正規依存の児童相談所
 虐待のおそれのある家庭を見守るという現場
 今後の日本を支える福祉に求めるもの
 指導教員から一言

第2章 教員の質が担保されない教育現場[櫻井晴菜]
 臨時的任用教員の実態
 初任者研修
 襲来する教員不足時代
 教育現場がブラックな背景
 おわりに:『「教員不足」への対応等について』の考察
 指導教員から一言

第3章 公共図書館の非正規公務員[佐藤千花]
 脅かされる非正規図書館員の雇用
 選ばれて非正規化した図書館
 見過ごされるやりがい搾取
 図書館は民主主義の砦
 現場の生の声から学ぶ
 指導教員から一言

第4章 女性を支える女性の非正規公務員──女性相談支援員、男女共同参画センターコーディネーター[上林陽治]
 困難を抱える人をおいて、逃げない
 女性相談支援員の置かれた状況
 PSMと処遇のアンバランス
 男女共同参画センターコーディネーターの場合
 軽んじられる男女共同参画事業
 専門性を蔑ろにする男女共同参画行政/寅子の叫びはいまも響く

 コラム1 スクールカウンセラー大量雇止めから考える公共サービスの崩落[藤田和恵]

第5章 ハローワーク相談員 声をあげる非正規公務員当事者たち──雇止めされる恐怖に抗して[秋田谷和哉]
 ハローワークの中の人の試練
 雇止めハラスメント
 現状変化を求め市民運動団体を創設
 指導教員から一言

第6章 ある相談支援員の自死から考える[山田優月]
 非正規公務員であった1人の女性の生涯
 裁判では聞き入れられなかった両親の主張
 非正規公務員のハラスメントの実態
 専門職として働く非正規公務員が有期雇用であることの弊害
 人権侵害
 指導教員から一言

 コラム2 非正規公務員問題とマスコミ[畑間香織]

 特別寄稿 地方紙で非正規公務員問題を追いかける[竹次稔]

結びに代えて
エピローグ:「世間」ではなく「社会」にむけて発信する

 

 

 

 

 

2025年3月11日 (火)

公務員法は78年前に純粋ジョブ型で作られたはずなんだが(1年だけ変えて再掲)

T3fet3rh_400x400 『労働新聞』にジョブ型の正しい解説を連載されている弁護士リチャードソンこと伊山正和さんが、こんなつぶやきを

職務給という仕組みは、ついに厚労省が「手引き」を公式に発行するまでのものとなりましたですな。 まあ、いろいろと申し上げたいところはございますが、ならば国家公務員の俸給表はなくなるのでありましょうか、というところかと存じます。

まあ、この「手引き」なる文書の出来不出来はあえて(武士の情けで)論じませんが、国家公務員の俸給表について申しますならば、それはもともと純粋ジョブ型だったんですよ。

公務員法は77年前に純粋ジョブ型で作られたはずなんだが・・・

でもなまじ公務員法制の歴史をちょっとでも知っていると、今頃になって「ジョブ型拡大」などという台詞の皮肉さがじわじわと感じられてしまうはずです。

なぜなら、今から77年前、1947年に国家公務員法が制定された時には、それはアメリカ直輸入の純粋ジョブ型の制度として設けられたものだったからです。詳細なジョブディスクリプションを作成し、ジョブに基づいてのみ採用することができ、ジョブに基づいてのみ給与を支払うことができると明記していたはずの国家公務員法が、それとは全く正反対の純粋メンバーシップ型で運用されるに至ってきたこと自体が、日本における法律と現実の乖離のもっとも典型的な実例であるわけで、その国家公務員法の担い手の人事院が70年ぶりにジョブ型なんて言い出しているということ自体、これ以上ない皮肉を感じないわけにはいかないはずですが、でもそもそもそんな歴史的経緯をわきまえている人自体がほとんど絶無に等しく、こういうことを言っても何を言ってるんだろうとぽかんとされるだけなのでしょうね、たぶん。

この問題については、2年前に『試験と研修』という雑誌に寄稿した「公務員とジョブ型のねじれにねじれた関係」が、わりとコンパクトにまとめているので、ご参考までに改めて掲載しておきます。

公務員とジョブ型のねじれにねじれた関係

1 純粋ジョブ型で作られた(はずの)公務員制度
 
 本稿の執筆依頼には「ジョブ型雇用を日本、特に公務に導入する際の課題」云々という表現があった。現代日本の公務員の世界がほぼ完全なメンバーシップ型で動いており、ジョブ型とは対極的な有り様であるというのは、誰もが同意する判断であろう。それゆえ、かくも対極的な「ジョブ型」を日本の公務員制度に導入するにはどうしたらいいのか、というのが最大の問いになるのも、これまた極めて常識的な認識と言えよう。さはさりながら、普通に公務員として日々働いているだけの者であれば格別、その職務上公務員制度に関わりを持つ者であれば、そこになにがしかのわだかまりを感じるはずである。いや感じてくれなければ困る。なぜなら、日本国の国家公務員法は今から75年前に、アメリカ直輸入の純粋ジョブ型の制度として作られたものだからだ。そして、2007年改正で条文として消えるまでの60年間、国家公務員法は(少なくともその条文上は)職階制というジョブ型の見本のような仕組みを中核とし、それに基づく任用制度と給与制度によって組み立てられてい(ることになってい)たはずだからだ。実際の運用とは真逆の看板を掲げ続ける後ろめたさからは解放されたとはいえ、現在の国家公務員法の基本構造はなお生誕時のジョブ型の母斑を残している。公務員制度とジョブ型雇用というテーマは、今なおねじれにねじれたものであり続けているのである。
 釈迦に説法の感もあるが、職階制とは何だったのか振り返っておこう。これは、幣原内閣の大蔵大臣であった渋沢敬三(栄一の孫)が招聘したフーバー率いる対日米国人事行政顧問団の指示によって国家公務員制度の中核として規定されたものであり、一義的には官職を分類整理し、格付することである。しかしそれで終わりではなく、それのみを「任用の資格要件」と「俸給支給の基準」としなければならないということが重要である。つまり、ある官職にいかなる人を就けるのか、そしてその者にいかなる給与を払うのかという、人事管理の2大根本事項を、分類整理され格付された職種と等級に基づくものにしなければならないのである。まさに、ヒト基準ではなくジョブ基準の人事管理を大原則として規定しているのが職階制なのだ。
 占領下ではこれに基づき職階法が制定され、さらに上級官職をジョブ型任用するためにS-1試験が遂行され、約4分の1の幹部職員が職を追われたという。こうしたことから職階制は他省庁から猛反発を受け、占領の終了とともに人事院が懸命に作成していた膨大な職級明細書はほぼ空洞化し、職階制は名存実亡の状態となった。では職階制に基づいて作られるはずの任用制度と給与制度はどうなったのか。
 1952年に人事院規則6-2(職員の任免)が制定され、人事院はその理念を「国家公務員法における任用とは官職の欠員補充の方法である。すなわち官職への任用であり、職員に特定の職務と責任を与えることであつて、職員に或る身分若しくは地位を与えることではない」と述べた。実際、同規則の規定ぶりはそうなっていたが、同規則第81条以下(経過規定)は、職階制が実施される日までは従前通りとし、そして職階制は永遠に実施されなかった。以来日本国においては、この当座の間に合わせの任用制度によって、「職員に或る身分若しくは地位を与えることであつて職員に特定の職務と責任を与えることではない」という純粋メンバーシップ型の運用がまかり通ってきたのである。
 一方給与制度は、1948年に「政府職員の新給与実施に関する法律第十四条に基づく職務による級別区分の基準」が設けられたが、この職務分類は「職務」を分類しておらず、最下級の1級職から最上級の15級職まで等級を分類しているだけであった。1948年改正国家公務員法はこの「職務分類」を国家公務員法の職階制規定に基づく計画と見なしたが、それは暫定的な措置であり、本来の職階制が実施されれば効力を失うはずであったが、その日は永遠に来なかった。正確に言えば、同法は期限切れで失効したが、それに代わって1950年4月に制定された一般職の職員の給与に関する法律が15級の職務分類の根拠規定を引き続き設けた。これも職階制が実施されるまでの暫定措置であり、そのことは同法第1条第3項に明記されていたが、やはりその日は永遠に来なかった。国家公務員法上には、職階制に適合した給与準則を制定し、これに基づくことなしにはいかなる給与も支払ってはならないと明記してあるにもかかわらず、給与準則が制定されることはなかった。そしてその結果、職務分類とはせいぜい給与法の別表に掲げる俸給表の違いでしかなくなってしまった。法律上は徹底したジョブ型給与制度を明記しながら、縦の等級区分は15級もあるのに、横の職務区分は一般のほかは税務、公安、船員しかないという、およそジョブ感覚の欠如したシステムが長年継続できた手品の種はここにある。

 

安周永『転換期の労働政治』

Normal_ed89cb2431674e9a8ba6da8116532ec6 安周永『転換期の労働政治 多様化する就労形態と日韓労働組合の戦略』(ナカニシヤ出版)をお送りいただきました。ありがとうございます。

https://www.nakanishiya.co.jp/book/b10132265.html

類似した状況の下で労働市場改革が進められてきた日韓両国。しかしその帰結は大きく異なるものであった。この違いはなぜ生じたのか。就労形態の多様化と不安定労働者の増加のなかで、労働組合はどのように労働者を代表し、利益を実現するべきか。

この著者の本は,以前『日韓企業主義的雇用政策の分岐』(ミネルヴァ書房)を大原雑誌で書評したことがあります。

https://oisr-org.ws.hosei.ac.jp/images/oz/contents/659-660-10.pdf

そのとき、「雇用政策や労働法の研究者が本書を読むと,その政治学的分析の是非巧拙よりも,素材たる雇用政策や労働法に対する認識にいくつかの疑問を持つ可能性があるからである。いや正直に言えば,評者が本書を通読した際に時折つまずいたのは,まさにそのような諸点であった」と述べたのですが、今回もいくつかの点で似たような感想を持ちました。

序章 労働政治の変容と日韓の相違点
  第1節 深刻化する企業主義的労働市場の問題
  第2節 日韓労働政策の改革
  第3節 労働組合と労働政治
  第4節 本書の構成

第1章 制度変化と労働組合の戦略
  第1節 制度変化の圧力
  第2節 新制度論の視点と争点
  第3節 制度変化に着目したアプローチとその問題点
  第4節 転換期における労働組合の戦略

第2章 日韓労働組合の歴史と戦略
  第1節 日韓労働組合の前史
  第2節 労働政策過程の特徴と変化
  第3節 労働組合の戦略と日韓の違い

第3章 企業別労使関係の慣行と労働者代表性の課題
  第1節 労働時間規制の変化と労働者代表問題
  第2節 労働時間短縮の歴史と契機
  第3節 時間外労働規制の政治過程と問題点
  第4節 労働者代表としての労働組合の課題

第4章 労働組合の戦略Ⅰ 不安定労働者の包摂
  第1節 プラットフォーム経済と新しい就労形態
  第2節 プラットフォーム就労者の保護政策
  第3節 労働組合の取り組み─ヨーロッパと日本
  第4節 労働組合の取り組み─韓国
  第5節 新しい働き方と労働組合の戦略

第5章 労働組合の戦略Ⅱ 政党と社会運動団体との提携
  第1節 日韓リベラル政党の浮沈と相違点
  第2節 民主党の失敗と日本の社会運動
  第3節 リベラル政党と政党対立軸の変化
  第4節 社会運動と労働運動との関係
  第5節 リベラル政党再生の道標

第6章 労働組合の戦略Ⅲ インサイダー・アウトサイダー戦略
  第1節 日韓働き方改革の類似点と相違点
  第2節 働き方改革をめぐる審議会での攻防
  第3節 働き方改革をめぐる国会での攻防
  第4節 アウトサイダー戦略の意義と限界

第7章 労働政治のダイナミズムと最低賃金の変遷
  第1節 最低賃金の政治化と韓国の変化
  第2節 最低賃金をめぐる労働組合の戦略
  第3節 最低賃金引き上げをめぐる攻防
  第4節 最低賃金をめぐる今後の論点

第8章 新たな労働運動の可能性
  第1節 組織転換と学校非正規労働者の組織化
  第2節 学校非正規労働者の特徴と待遇改善
  第3節 学校非正規労働者をとりまく環境要因
  第4節 非正規労働者の戦略的取り組み
  第5節 不安定労働者の組織化の可能性

終章 労働組合と民主主義の活性化に向けて
  第1節 日韓労働政治の分岐
  第2節 労働組合の課題と労働政治のこれから
  第3節 民主主義の危機と労働政治の役割

ただ今回は、労働政策へのアプローチの違いの根っこにある日韓労働組合の歴史の違いに遡って論じています。インサイダー戦略にせよ、アウトサイダー戦略にせよ、ゲームで自由に選べるわけではなく、それまでの歴史と経緯によって否応なく縛られてしまう面がある以上、そこを無視することはできません。一方で、韓国の労働組合が例えばプラットフォーム労働といった新たな課題に対して、より縛られずに積極的に行動できるというメリットを存分に振るっていることも第4章から浮かび上がってきます。

 

 

 

2025年3月 9日 (日)

連合会長 自民党大会で挨拶

B9aa40ca51b31fd66b14238b34e3ddcc_1 本日、連合の芳野友子会長が自民党大会に出席してあいさつをしたことはニュースになっていますが、連合のサイトにはそのあいさつ文が載っています。

https://www.jtuc-rengo.or.jp/news/file_download.php?id=8320

 皆さま、こんにちは。連合会長の芳野でございます。本日は、立党70 年の記念すべき歴史ある党大会へお招きいただきありがとうございます。本日のご盛会を心よりお慶び申し上げます。
 連合会長が御党の大会に参加することで、内外から様々な意見が出ていることは承知の上で、本日は参加させていただきました。顧みますと、2003年に当時の笹森会長が、連合会長として初めて党大会に参加させていただきました。
 それから20 年が経過しましたが、この間、自民党の皆さまにも政府予算や各種政策について、連合はもとより産業別労働組合や企業別労働組合も適宜要請をさせていただいてきました。政治的な立ち位置の違いはありますが、対話を通じた相互理解は重要であると存じます。
 また、世界が大きく動いている中にあって、日本だけが一人負けしている場合ではありません。このように、経営者の代表と労働組合の代表が肩を並べて御党の大会に出席している意味は、政労使がともに政策を協議し、協力し合って国内外の問題を解決していかなければならないという姿勢の表れと受け取っていただきたいと存じます。その点からも、本日、お招きをいただきましたことに、重ねて御礼申し上げます。・・・

いままで、支持政党の二党のうち、立憲民主党に対しては共産との関係で厳しい姿勢を示す一方、国民民主党に対しては政策的にあまり文句を言ってこなかった感じだったのですが、ここにきて国民民主党が選挙で躍進しすぎていささか錯乱気味になり、そもそも労働組合の支持の上に成り立っている政党であることを忘れたかのような幹部のおかしな言動が目に余るようになってきたので、「別にあんたらでなくたっていいんだよ、自民党の方が言うことを聞いてくれるんなら」とくぎを刺すという意味もあるのかもしれません。

 

『季刊労働法』2015年春号(288号)

288_h1768x1108 『季刊労働法』2015年春号(288号)の案内が労働開発研究会のサイトにアップされたようです。

https://www.roudou-kk.co.jp/books/quarterly/12853/

特集:社会的対話の時代

組織率の低下が続き、労働組合による団体交渉で労働条件の改善を図るという「労働組合システム」の揺らぎが指摘され続けています。今号では、その労働組合法のシステムを超えて、より広い範囲の「社会的パートナー」を巻き込み、より多角的な課題を射程とする「社会的対話」のシステム構想が不可欠な課題となっているという問題意識から、「社会的対話の時代」を特集します。
第2特集では、社会福祉法人滋賀県社会福祉協議会事件など、2024年に出された重要最高裁判例の検討をします。

目次は以下の通りです。

特集 社会的対話の時代

社会的対話とは何か―または雇用管理制度GPEC との交錯 九州大学名誉教授 野田 進

社会的民主主義論と社会的対話―「労働法と民主主義」の位相 名古屋大学教授 矢野 昌浩

団体交渉・従業員代表制度と社会的対話 大分大学准教授 小山 敬晴

企業内レフェランダムと社会的対話 弘前大学助教 渋田 美羽

安全衛生への就業者関与と社会的対話 九州国際大学助教 阿部 理香

【第2特集】2024年重要最高裁判例の検討

職種限定労働者に対する配転命令の違法性 社会福祉法人滋賀県社会福祉協議会事件(最二小判令和6年4月26日労判1308号5頁) 同志社大学教授 土田 道夫

私立大学専任講師に対する任期法上の10年特例の適用の有無 学校法人羽衣学園(羽衣国際大学)事件(最一小判令和6年10月31日裁時1850号7頁) 小樽商科大学教授 國武 英生

事業場外労働みなし時間制における「労働時間を算定し難いとき」への該当性 協同組合グローブ事件(最三小判令和6年4月16日労判1309号5頁) 北海道大学教授 池田 悠

労災保険給付支給処分取消訴訟におけるメリット制適用対象事業主の原告適格 国・札幌中央労基署長(一般財団法人あんしん財団)事件(最一小判令和6年7月4日労判1315号5頁・判タ1526号62頁) 神戸大学教授 興津 征雄

【特別企画】EU・ドイツの差別禁止法の新展開

本企画の解説 学習院大学教授 橋本 陽子

ドイツ及びヨーロッパ労働法における関連差別 ラインマイン大学教授 アレクサンダー・オイフィンガー (訳 名古屋学院大学准教授 佐々木 達也)

労働法における差別禁止と欧州連合基本権憲章(基本権憲章)の水平的第三者効 弁護士、デュッセルドルフ大学講師 カーステン・ハーゼ (訳 立正大学教授 高橋 賢司)

■集中連載■ 比較法研究・職場における健康と男女の性差

「比較法研究・職場における健康と男女の性差」の連載を始めるにあたって 福岡大学教授 所 浩代

月経による就労不能のための休暇の創出:男女の職業平等の論点? パリ第一大学准教授 ニコル・マギー=ジェルマン (訳 弘前大学助教 渋田 美羽)

■集中連載■ AI・アルゴリズムの導入・展開と労働法

EU法にみる労働のアルゴリズム管理をめぐる規制の視点 ~多元的規制を如何に整序するか~ 中央大学准教授 井川 志郎

■要件事実で読む労働判例―主張立証のポイント 第11回■

降格に伴う賃金減額をめぐる紛争の要件事実 ―住友不動産ベルサール事件(東京地判令和5・12・14 LEX/DB25599653)を素材に 東京大学講師 石黒 駿

■イギリス労働法研究会 第46回■

ILO151号及び154号条約における公務員の勤務条件決定手続き 早稲田大学名誉教授 清水 敏

■アジアの労働法と労働問題 第57回■

韓国最低賃金のあゆみと今日の課題 東京国際大学特任教授 日本ILO 協議会企画委員 熊谷 謙一

■労働法の立法学 第73回■

シングルマザーの労働法政策 労働政策研究・研修機構労働政策研究所長 濱口 桂一郎

■重要労働判例解説■

紹介予定派遣で就労していた産業保健師が期間満了後に直接雇用を求めた請求の可否 任天堂ほか事件(京都地判令和6・2・27労働判例1313号5頁、一部認容 大阪高判 令和6・10・18LEX/DB2562129、X 控訴棄却) 富山県立大学 教養教育センター 教授 大石 玄

船員を陸上職へと配置転換することの有効性 堂ヶ島マリン事件(静岡地裁沼津支判令和5・5・31LEX/DB25598444) 慶應義塾大学教授 南 健悟

面白そうな論文が並んでいますが、最後の堂ヶ島マリン事件てのは、船長を陸上職に配置転換したケースで、職種限定合意の成立を認めていないんですね。

周知のごとく、船員の世界というのは戦前以来陸上労働に遥か先駆けてジョブ型労使関係を確立してきた世界なわけですが、日本の海運の収縮の挙げ句に、陸上でジョブ型が流行り出したころに、海上も陸上も違いなんかねえだろ、船長だろうがそこらの労働者と変わりねえだろ、みたいな扱いを受けるところまで落ちぶれてしまったようです。いやいや海の上と陸地の上では所管官庁が国土交通省と厚生労働省で違うんだけど、そんなこともどうでもいいみたいです。

 

 

2025年3月 8日 (土)

待鳥聡史・宇野重規編著『〈やわらかい近代〉の日本』

5de999487e3446e8a37604106a882129 これは、たまたま本屋で見つけて買った本ですが、いくつか感じるところがあったので。

待鳥聡史・宇野重規編著『〈やわらかい近代〉の日本 リベラル・モダニストたちの肖像』(弘文堂)

伝統的秩序への回帰を志向しないという意味で保守主義でもなく、急進的な体制変革を志向しないという意味でマルクス主義でもない、自由民主主義体制内からの積極的な近代化の推進を特徴とする立場、それが「リベラル・モダニズム」。本書は、体制内改革派として左右の狭間にあったがために、これまで時に微妙な、あるいは正当でない評価しかされてこなかった「リベラル・モダニスト」たちを取り上げ、戦後思想の構図の中に位置付けるとともに、その思想的潮流がひいては55年体制崩壊後の政治改革の源流ともなったことをも示します。政治思想のマトリクスを書き換える一冊です。

この本、編者も執筆者もみんな政治学者なので、戦後自民党政権は「伝統主義」の一種としての「保守主義」に分類され、それとは異なる「近代主義」の一種として、「リベラル・モダニズム」が位置付けられるのですけれど、政策史の視点から見れば、戦後自民党政権のやってきた政策は、揺れはあっても基本的に一貫して「近代主義」であったと思われるので、この本が保守主義とマルクス主義の狭い狭間の人々という観点でリベラル・モダニストを位置付けようとするその手際が、非常に違和感を感じさせるものになっています。

おそらくそれは、個々の政策の中身よりも政治全体の動きをみる政治学者の眼に映る映像ゆえなのだと思うのですが、ところが本書の各章の中には、そういう政策の各論に立ち入って論じているものがあり(第5章の家族政策、第6章の教育政策)、そこで取り上げられている香山健一の位置づけが、せっかく「リベラル・モダニスト」という新しい概念でもって戦後政治史を切ろうという本なのに、第5章では伝統主義者に、第6章では新自由主義者に描かれてしまっており、この概念の意義が却ってよくわからなくなっている感があります。

序 章 リベラル・モダニストとは何か〔待鳥聡史〕   
第一章 「開国」をめぐるトリアーデ──和辻哲郎・小林秀雄・丸山眞男〔苅部 直〕
第二章 「柔構造社会」の若者たち──学園紛争期の永井陽之助〔趙 星銀〕
第三章 高度経済成長期における黒川紀章の思想と実践
     ──「やわらかい」建築から「かたい」カプセルへ〔山本昭宏〕
第四章 リベラル・モダニズムの二つの頂点──村上泰亮と山崎正和〔宇野重規〕
第五章 二つの近代家族像──香山健一とリベラル・モダニストの家族像〔德久恭子〕
第六章 早すぎた教育改革──体制内改革は可能か?〔青木栄一〕
第七章 改革の時代におけるリベラル・モダニストの肖像──佐々木毅〔待鳥聡史〕
終 章 リベラル・モダニストが残したもの〔宇野重規〕

このうち、特に第5章で取り上げられている1970年代後半から1980年代に流行した男女性別役割分業を前提とした「日本型福祉社会論」については、香山健一のみならず、本書でリベラル・モダニストとして取り上げられている人々が、むしろその前の世代の近代主義者の感覚を受け継ぎながら、むしろその先にそれを超える(それをポストモダンと呼ぶならば)脱近代主義的な発想を探っていたことが、却って前近代的な家族主義と接合してしまった面があるように思われます。

労働政策でいえば、1950年代から1960年代頃の、国民所得倍増計画などに活写されている欧米社会を見習おうという近代主義的発想が、マルクス主義的な思想をほぼ制圧した1970年代になって、むしろそれまで否定的な眼差しで見られてきた日本的なさまざまな特徴を、却って日本の急速な経済成長に寄与したものとして高く評価するようにシフトしてきたのであり、そういうそれまで否定的にみられてきた日本的な共同体を評価する発想の一つの現れが、本書第5章でいう家族主義が支える福祉社会なのであってみれば、それは単純に伝統主義故と斬って捨てられるものではなく、近代主義者が近代主義を越えようとするあまり陥った陥穽と見た方が良いように思われます。迂闊に「近代を超え」ようとすると伝統主義に陥るというのは、実はここかしこでよくみられる光景かも知れません。

もっとも、そもそも核家族型性別役割分業とは、決して「伝統的」なものではなく。むしろ20世紀後半に一般化したきわめてモダンなものであったことを考えれば、それを伝統主義に陥ったと批判すること自体が極めて皮肉な構図でもありますが。

一方、家族主義において伝統主義者とされた香山健一が教育政策では新自由主義者とみられるのも、やはりその前の世代の産業化に有益な教育政策という近代主義を超える道をそこに見ていたからなのでしょう。これもまた、(それをポストモダンと呼ぶならば)脱近代主義的な発想かもしれません。

正直、編者たちの構想する「リベラル・モダニズム」という概念にはあまり説得されなかったにもかかわらず、書かれていること以上に書かれていないことにいろいろと想像が膨らみ、本書はとても面白い読書経験を提供してくれました。

 

 

2025年3月 7日 (金)

野村浩子『地方で拓く女性のキャリア』

71f831e7e8334e7295fdbd4cbe7778d9 野村浩子さんから『地方で拓く女性のキャリア 中小企業のリーダーに学ぶ 』(光文社新書)をお送りいただきました。

https://books.kobunsha.com/book/b10131908.html

日本企業で女性総合職の本格採用が始まってから二十年あまりが経ち、地方の先進企業でステップアップするロールモデルがようやく誕生し始めた。地方で注目される女性は起業家や跡取り社長などが多く、地方女性の大半を占める「地元中小企業で働く女性」のロールモデルにはなりにくい。本書に収めたのは、地方でキャリアを拓いた女性たち、そして彼女たちを支える社長らから、筆者が直接集めた生の声。丁寧に分析したデータも多数収録した、本邦初、地方で働く女性のための「地元系キャリア指南書」である。地方で働き続けたいと思う女性たちにキャリアのヒントを届けたい。

というわけで、野村さんが取材した全国各地の女性たちの姿が描かれています。

 

 

2025年3月 6日 (木)

「能力」の正体

Cover_image_25197_cbf01f6821 勅使川原真衣さんの『格差の“格”ってなんですか? 無自覚な能力主義と特権性』(朝日新聞出版)をぱらぱらと読んでいたら、二重三重に皮肉な話が出てきて、思わず苦笑いが胸の奥からえぐく出てくる思いがしました。

第3章の「能力-二の句が継げない「カルチャーフィット」」に出てくる話ですが、勅使川原さんが働いていた某外資系企業での体験談。

「おいおい、この子、落とすところだったよ。プラチナ住所。気づかなかった?ダメだよ、こういうのをちゃんと見なきゃ」

プラチナ住所?意味が分からなかった。

「実家住所にさ、〇〇〇ヒルズって書いてあるでしょう?」

離れたところで作業していた人もいそいそと見えるところに集まる。不合格にすべきでない人をしていたのなら大変な落ち度だ。後学のために皆、真剣に確認する。

「わお、ほんとだ、失礼しました」と謝る人もいる。すかさず、「これは高級マンションの中でも最高級。ハイソの中のハイソ」と採用責任者。「賃貸でもファミリータイプならここは、家賃は月200万円はしますよね」と相場情報を付言する人までいる。そして、採用責任者はこう取りまとめ、「リーダーシップ」を発揮した。

「これは親がなにがしだ。ってことだよ。いいか。この『成功者』のご子息、落としちゃだめだよ。面接に呼ぼう。ウチ(の会社)ときっと合うと思うなぁ。評価項目の『カルチャーフィット』(企業文化との親和性)のとこそ、◎に変えておいて」

私もご多分に漏れず、恥ずべきことだが、その場にいた誰一人、「この採用プロセスって問題ないんでしょうか」とは言わなかった。

ふーむ、「カルチャーフィット」ですか。いかにも横文字風ぽいけれど、その実はまことにメンバーシップ型にふさわしい「官能性」そのものの概念ですが(要は「わが社の空気になじめるか」ってこと)、それがこの外資系企業の新卒採用の現場ではもう一ひねりして、ハイソなお金持ち階級のご子息様をお迎えするためのもっともらしい道具にされてるわけですね。

著者紹介によれば、勅使川原さんは東大院で教育社会学を学んだあとボストンコンサルティングやヘイグループで働いていたようですが、人さまの会社に偉そうにジョブ型がどうとかこうとか説いている外資系企業が、その中ではこういう採用方針でやってるってのは、なかなか興味深い話ではありますな。

 

 

 

 

 

『労働関係法規集 2025年版』

Houkishu2025 JILPTが毎年刊行している『労働関係法規集 2025年版』が近刊です。

https://www.jil.go.jp/publication/ippan/houkishu.html

近年の労働法制の拡大増加傾向を反映して、昨年版より100ページ以上も増量していますが、値段は税込み1980円で変わりません。

しかし、分厚くなりすぎると携帯版という本来の特徴が失われてしまうので、そろそろどれを削るか考えなければいけませんね。

2025年3月 5日 (水)

Eiji Oguma "The System of Japanese Society"

9781920850432 小熊英二さんの英文著書”The System of Japanese Society A Historical Sociology of Work and Employment”(Trans Pacific Press)をお送りいただきました。ありがとうございます。

The System of Japanese Society

タイトルからも分かるように、これは2019年に出た『日本社会のしくみ』(講談社現代新書)の英文版ですが、日本人向けに書かれた前著が外国人向けにかなり書き直されています。

小熊英二『日本社会のしくみ 雇用・教育・福祉の歴史社会学』

第1章 日本社会の「3つの生き方」
第2章 日本の働き方、世界の働き方
第3章 歴史のはたらき
第4章 「日本型雇用」の起源
第5章 慣行の形成
第6章 民主化と「社員の平等」
第7章 高度成長と「学歴」
第8章 「一億総中流」から「新たな二重構造」へ
終章 「社会のしくみ」と「正義」のありか

1 The Dual Structure of Japanese Society
2 The Japanese-style Employment System and Its Characteristics
3 Implanted Bureaucracy: The Origins of ‘Japanese-style Employment’
4 The Formation of Norms 
5 Democratization and Equality of ‘Shain’ (Company Employee)
6 High Growth and the Completion of the Japanese-style Employment System 
7 A New Dual Structure
8 Japan’s Employment System and Dual Structure 

2025年2月28日 (金)

雇用される精神障害者15万人強@『労務事情』2025年3月1日号

B20250301 『労務事情』2025年3月1日号に「雇用される精神障害者15万人強」を寄稿しました。

https://www.e-sanro.net/magazine_jinji/romujijo/b20250301.html

本誌で精神障害者の雇用数を取り上げるのは3回目になります。2018年3月1日号には「雇用されている精神障害者5万人超」を、2022年6月1日号には「雇用される精神障害者10万人弱」を寄稿しました。5万、10万とくると、次は15万ということになります。・・・・

 

2025年2月27日 (木)

右翼はいかにして文化戦争で労働者階級をハイジャックしたか?

U421983467603d3dbe852549f0bec7a10076ab57 久しぶりにソーシャル・ヨーロッパの記事を紹介。

How the Right Hijacked the Working Class for Culture Wars

右翼はいかにして文化戦争で労働者階級をハイジャックしたか?

The alliance between reactionary forces and the working class is not built on shared economic interests but on a manufactured sense of cultural identity.

反動勢力と労働者階級の同盟は経済利益の共有ではなく製造された文化的アイデンティティの感覚に基づいている。

In an age defined by culture wars, political divisions increasingly revolve around identity rather than material concerns. The focus has shifted from economic struggles to issues of recognition and status. Unlike the post-war era’s material politics—marked by fair wages, strong social safety nets, and democratic expansion—the culturalisation of politics does not lead to tangible material change. While cultural politics have achieved significant progress in advancing the rights of women and ethnic minorities, they also risk devolving into performative status battles, often driven by a longing for the comfort of tribal belonging.

文化戦争で定義される時代、政治的分断は次第に物質的利益よりもアイデンティティをめぐるものになってきた。焦点は経済的闘争から承認と地位の問題にシフトしてきた。公正な賃金、強力なセーフティネット、民主的拡大によって特徴付けられる戦後期の物質政治の時代と異なり、政治の文化化(カルチュラリゼーション)は目に見える物質的変化をもたらさない。文化政治は女性や少数民族の権利の伸長に顕著な進歩を達成したが、それはまたしばしば部族的所属の慰安を求めることによって、パフォーマンス的な地位の闘いに転化するリスクがある。

This transformation recasts political issues as cultural ones, not only diverting attention from material concerns like wages and social security, but also reshaping fundamentally economic matters into cultural narratives. The latest casualty of this shift is the worker—once defined by economic conditions, now reimagined as a cultural identity. In this process, the category has regained prominence, drawing renewed attention and recognition. Yet, this resurgence fails to deliver what is truly needed: a politically potent class consciousness.

この転換は政治問題を文化問題に最鋳造し、賃金や社会保障のような物質的関心から注意をそらすだけではなく、本質的に経済的な物事を文化的なナラティブに再形成する。このシフトの直近の災禍は労働者だ。かつては経済的条件によって定義されていたが、今や文化的アイデンティティとして再認識されている。このプロセスにおいて、このカテゴリーは再び目立つものとなり、注意と認識を新たにした。しかし、この再興は真に必要なもの:政治的に強力な階級意識を提供できない。

・・・

Under neoliberalism, the concept of the working class was first ignored, then dismissed. Economic classes were rebranded as “social layers,” and eventually, as merely individuals seeking success in the lottery of social mobility. Neoliberalism denies the fundamental contradiction between capital and labour.

ネオリベラリズムの下では、労働者階級の概念は最初は無視され、次いで退けられた。経済的階級は「社会階層」と呼び換えられ、遂には社会的移動の籤における成功を求める諸個人にすぎなくなった。ネオリベラリズムは資本と労働の基本的矛盾を否定する。

The right, however, has reintroduced the term “worker”—but only in a politically toothless, tribal sense. Where the left traditionally saw politics as a contest of material interests, the new right reduces it to a culture war.

しかしながら右翼は、「労働者」と言う用語を再導入する。ただし、政治的に無力な部族的意味においてだ、左翼が伝統的に政治を物質的利益の競争として見てきたのに対し、新右翼はそれを文化戦争に収縮する。

In right-wing discourse, the worker is not a structural position but a cultural figure: the honest, conservative, religious, often male labourer. He wears overalls, drinks beer, and rejects gender-neutral language. This nostalgic, populist ideal of the “common man” is a deliberate political construct—one designed to make material politics impossible.

右翼の議論では、労働者は構造的な位置ではなく文化的な形態である。正直で、保守的で、信仰厚く、しばしば男性の肉体労働者だ。彼はオーバーオールを着て、ビールを飲み、ジェンダー中立的な言い方を拒否する。このノスタルジックでポピュリスト的な「コモン・マン」の理想は、練り上げられた政治的工作物であり、物質的政治を不可能にするために構築されたものだ。

・・・・

という調子で続くのですが、正直、その通りと思う部分と、いやいやそもそも文化政治を持ち込んで物質政治を希薄化させたのは、右翼よりも先に文化左翼の側だったんじゃねえのか?という疑問がつきまとう部分があって、同意しきれないところが多い文章です。

それこそ、「労働者」を右翼側にハイジャックされたのは、左翼がそれを軽視し、あまつさえ否定的なまなざしで見たからであって、この文章はその時系列をわざとごっちゃにしているように思われます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

鎌田耕一・岡田直己・中野雅之・石川哲平『Q&A フリーランス法の解説』

9784385320373 鎌田耕一・岡田直己 編著 中野雅之・石川哲平 執筆『Q&A フリーランス法の解説』(三省堂)をいただきました。ありがとうございます。既に都心の書店には並んでいるようです。

https://www.sanseido-publ.co.jp/np/detail/32037/

公正取引委員会「特定受託事業者の取引の適正化に関する検討会」と厚生労働省「特定受託事業者の就業環境の整備に関する検討会」の委員であった研究者(経済法・労働法)が編著者となって、公正取引委員会と厚生労働省の実務に詳しい弁護士も執筆者となった「フリーランス法」(2024年11月施行)の解説書。Q&A方式により、フリーランス法の内容を法律・政省令・指針・ガイドライン等に基づいてわかりやすく解説(全51問)。独占禁止法、下請法、労働法と対比した記述も充実。実務家・フリーランス必読の書。

書店に行くと、フリーランス新法の解説書が所狭しと並んでいますが、本書は立法に関わった研究者と行政官から弁護士になった方々(労働法と経済法それぞれ)による解説書です。

鎌田先生が書かれているコラム1(フリーランスの労働者性を争った事例)では、最後に

・・・フリーランスの労働者性を争った裁判例は多いですが、フリーランスの職種・働き方は多種多様で、前述の労働者性の判断基準を当てはめても、結論を予測することは容易ではありません。

と語っています。実際、そうなんですね。

 

 

 

ヴィリ・レードンヴィルタ『デジタルの皇帝たち』@『労働新聞』書評

1863183_20250226225001 月1回の『労働新聞』書評。今回はヴィリ・レードンヴィルタ『デジタルの皇帝たち』です。

【書方箋 この本、効キマス】第101回 『デジタルの皇帝たち』 ヴィリ・レートンヴィルタ 著/濱口 桂一郎|書評|労働新聞社

 タイトルの「デジタルの皇帝たち」(原題は「クラウド・エンパイアズ」なので、正確には「クラウドの諸帝国」)とは、GAFAといわれるデジタル巨大企業だ。アマゾン、アップル、グーグル、ウーバーといったグローバルに展開するプラットフォーム企業によって、我われの生活は支配されている。本書はここ数十年のその展開の歴史を興味深いエピソードを交えながら語る。
 これら諸帝国の出発点は、しかしながら現実世界の権力を嫌い、サイバー空間に自由と互恵を求める草の根的な民主的電子マーケットにあった。第2章「互恵主義」のジョン・バーロウが思い描いたバーチャル理想社会は、デジタル巨人企業の急成長とともに、著者が「ソ連2.0」と呼ぶ中央計画自由市場へと変貌を遂げてゆく。かつてソ連型社会主義が失敗したのは、当時のコンピュータのデータ処理能力では到底間に合わなかったからだ。ところが今や、GAFAのアルゴリズムは独占企業による完全市場を創り出してしまった。「完全な市場を実現する夢を見ながら、アイン・ランド作品の愛読者であったシリコンバレーのリバタリアンが、結局はソ連2.0を生み出しているのだとしたら、皮肉以外の何物でもない」と著者は言う。
 だが、彼が「帝国」の語に込めた意味合いは、第Ⅱ部「政治的制度」で明確になる。現在、各国の裁判所で処理される訴訟の件数よりも、デジタルプラットフォーム企業内部で処理される紛争の件数の方が多いのだ。そして、共産主義革命によって創り出された共産主義帝国と同様、デジタル革命によって生み出されたデジタル帝国は、かつて救済すると言っていた人民(プラットフォーム利用者)を搾取収奪の対象としていく。ジェフ・ベゾスの父ミゲルはカストロのキューバから逃げ出し、アメリカという新天地で活躍できたが、今世界中の電子マーケットを支配するアマゾンから逃げ出しても、顧客を奪われて無一文で放り出されるだけだ。
 されば、万国のインターネット労働者よ、団結せよ!「集合行為」と題された第9章と第10章は、帝国に反抗するデジタルプロレタリア階級(アマゾン・メカニカル・タークの就労者)とデジタル中産階級(アップル・ストアの出品者)の姿を描き出す。だが前者は絶望的だ。クリスティ・ミランドの訴えに呼応したターカーはほんの僅かだった。一方後者には希望がありそうだ。アップルはアンドリュー・ガズデッキーらの訴えを受けて、テンプレートやアプリ生成サービスを使って制作したアプリを却下するという方針を変えた
 著者は、「プラットフォーム独裁政治からプラットフォーム民主政治へと至る道」はブルジョワ革命だという。労働者と貴族の間に位置するアプリ開発者、オンライン販売業者、フリーランス専門家等々が、中世の市民と似た非公式の制度を生み出し、もちろんそんな「歴史の法則はない」が、もしかしたら民主化を実現するかもしれない、と。

 

 

2025年2月26日 (水)

時間単位の年次有給休暇@WEB労政時報

WEB労政時報のHR Watcherに「時間単位の年次有給休暇」を寄稿しました。

https://www.rosei.jp/readers/article/88625

去る1月8日に公表された労働基準関係法制研究会の報告書は、労働者性や労使コミュニケーションと並んで、労働時間法制について多くの紙数を割いて論じていますが、その中で、労使間の激しい対立から少しずれた地点に位置しているのが、年次有給休暇に関する問題です。そこでは次のように、わざわざ「時間単位の年次有給休暇の日数について、現在の5日間から直ちに変更すべき必要性があるとは思われない」と言っているのですが、これは何を意識しての記述なのでしょうか。・・・・・

 

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