山本陽大『新興感染症と職場における健康保護をめぐる法と政策』
JILPTの研究報告書No.232として、山本陽大さんの単独執筆になる『新興感染症と職場における健康保護をめぐる法と政策―コロナ禍(COVID19-Pandemic)を素材とした日・独比較法研究』がアップされました。
https://www.jil.go.jp/institute/reports/2025/0232.html
山本さん得意の日独比較法研究ですが、取り上げたのは、コロナ禍でも(日本では)相対的に関心が乏しかった感染防止や健康保護といった安全衛生に関わる領域の法政策です。
彼は2022年頃からこの問題に関心を向けていくつかJILPTホームページ上にリサーチアイというエッセイを書き、2023年にはある程度まとまったところでディスカッションペーパーにしていましたが、それを包括的にとりまとめたのが今回の報告書ということになります。
彼自身による要約を貼り付けておきますが、出来れば報告書自体をダウンロードしてじっくりと読んで頂く値打ちがあります。
Ⅰ 序章・第一章について
本報告書においては、まず序章において、コロナ禍がわが国の労働法および労働政策に対して提起した課題について、大まかに課題領域A)(=コロナ禍に起因する事業の縮小・休業における労働者の雇用維持・所得保障)と課題領域B)(職場という空間における人々のウイルスへの感染防止と健康保護)に区分したうえで、各領域における先行研究の状況を概観することで、特に課題領域B)をめぐる解釈論および立法政策論については、外国法(ドイツ法)との比較を踏まえ、検討する余地が残されていることを明らかすることにより、本報告書の目的と構成を設定した。また、続く第一章においては、第二章以下の理解に必要な限りにおいて、労働関係や公衆衛生をめぐる日・独の法制度について概説するとともに、両国におけるコロナ禍の推移とそれに対応するための(法)政策の形成・展開について、整理を行った。
Ⅱ 第二章について
そのうえで、第二章においては、テレワーク(在宅勤務)とワクチン接種に関するものを除き、職場内における新興感染症への感染防止対策をめぐり(使用者がかかる対策を積極的に講じようする局面と、講じようとしない局面の双方を含めて)労働関係上生じる法的諸課題について、網羅的に検討を行った。このような課題には、大まかにいって、 ① 使用者による感染防止対策の実施に関するもの、 ② 使用者による職場内における感染者(無症状の病原体保有者も含む)の把握に関するもの、 ③ 使用者による感染疑いのある者に対する(感染防止対策としての)自宅待機命令の可否、 ④ 感染症蔓延(パンデミック)下における使用者の労働者に対する出社・出張命令の可否に、区分することができる。これら課題 ① ~ ④ に関する本報告書における検討結果の要点は、以下の通りである。
上記のうち、課題 ① についてはまず、使用者が各職場において感染防止対策を適切に講じているという状況を実現するための政策的対応のあり方が問題となる。この点、日本では立法による規制は行われなかったが、コロナ禍においては、何らの感染防止対策を講じなかった企業も相当数存在していたことに鑑みると、今後の新たなパンデミック下においては、ドイツ法においてみられたように、使用者に対して感染防止対策の実施を法的に義務付ける規制を導入することは、立法政策として十分検討に値する。但し、職場内において労働者がウイルスに感染するリスクは、産業・業種、従業員規模、地域等によって多種多様であることからすると、規制のあり方としては、ドイツのコロナ労働保護規則において最終的に採用されたような、オーダーメイド型(リスクアセスメント型)の規制とすることが望ましい。具体的には、使用者には感染防止対策を実施すべき義務を課しつつも、各職場内における感染リスクの所在を踏まえた対策のあり方については、衛生委員会等における労働者側との協議を通じて、個々の職場ごとに判断・決定させる規制を、労安衛法中に定めることが考えられる。なお、かかる判断・決定に際して現・場の労使が参照できるよう、国がありうる感染防止対策のオプションを指針等で定めることも、併せて検討すべきである。
また、課題 ① に関しては、使用者が実施を決定した感染防止対策の遵守を労働者に対して強制できるかも問題となるところ、日・独両国において特に議論となったのは、使用者の労働者に対する業務命令としてのマスク着用命令の可否である。この点、確かに飛沫・エアロゾル感染の防止対策としてのマスクの有効性は一般的に認められているが、ドイツにおけるこの問題をめぐる裁判例や立法政策も踏まえると、上記命令の有効性は無条件に認められるものではなく、マスク着用にかかる使用者側の業務上の必要性と労働者側の不利益との比較衡量により判断すべきである。これにより、例えば労働者が発達障害を有する等の理由でマスクの着用が日常生活に重大な支障を来し、またそのことについて医師の診断書があるようなケースでは、上記命令が指揮命令権の濫用として無効となる場合もありうる。
続いて、課題 ② に関しては、使用者による職場内における感染者の把握手段として、労働者に対し、コロナ検査(特にPCR検査)の受検、検温およびCOCOAのような接触確認アプリの利用をそれぞれ強制することができるかが問題となる。このうちまず、PCR検査の受検および検温の強制は、(法定外)健康診断の受診命令と問題状況が類似していることから、同命令の有効性に関する従来の最高裁の判断枠組みが、PCR検査・検温にかかる命令に関しても有用と考えられる。そのうえで、具体的判断に当たっては、医学的侵襲の程度等の観点だけでなく、ドイツにおいて議論されているように、PCR検査・検温が労働者としての健康情報の収集としての側面を有することは、日本でも看過されてはならない。従って、上記命令の有効性判断に当たっては、当該使用者において収集された健康情報が適正に取り扱われる状態にあるか否かという観点を摂取すべきである。また、接触確認アプリの利用強制(命令)に関しては、労働者の私物スマートフォンに対してダウンロードを命じることは認められないほか、業務用スマートフォンであっても、上記命令の可否については、接触確認アプリに内在するプライバシー・個人情報保護に対するリスクという観点から、厳格に判断すべきである。
更に、課題 ③ の使用者による感染疑いのある者に対する(感染防止対策としての)自宅待機命令の可否に関しては、業務命令としての自宅待機命令の有効性に関する従来の裁判例の判断枠組みが有用と考えられる。そのうえで、ドイツ法における議論も踏まえると、上記命令の有効性判断に当たっては、一方では、当該労働者の具体的症状や過去の行動履歴に照らし、使用者側において自宅待機を命じることに業務上の必要性があるか否かを考慮すべきであるが、他方では、上記命令により労働者側に生じる不利益の程度についても、特に当該自宅待機の長さや代替措置(特に在宅勤務)による就労可能性という観点から考慮する必要がある。
最後に、課題 ④ の感染症蔓延(パンデミック)下における使用者の労働者に対する出社・出張命令の可否については、最高裁の従来の判例に照らせば、出社による勤務や出張により、労働者が感染症に罹患し、生命・身体に危険が及ぶことが客観的に予想される場合には、労働者はこれらの義務から免れうる。そのうえで、かかる判断に当たり、具体的に考慮すべき事情としては、ドイツ法の議論も踏まえると、使用者による職場における感染防止対策の実施状況、労働者側における感染した場合における重症化リスク、(特に出張の場合には)対象国・地域における感染リスクが挙げられる。いいかえれば、単に労働者が主観的・抽象的に感染への不安を抱いているというだけでは、出社・出張の義務から免れることはできない。
Ⅲ 第三章について
続く第三章においては、テレワークのなかでも在宅勤務に関するコロナ禍固有の検討課題として、使用者の労働者に対する在宅勤務命令の可否(課題 ① )、労働者の使用者に対する在宅勤務請求の可否(課題 ② )、使用者の在宅勤務労働者に対する出社命令の可否(課題 ③ )について、検討を行った。これら課題 ① ~ ③ に関する本報告書における検討結果の要点は、以下の通りである。
これらのうち、課題 ① ・ ② に関して、パンデミックが生じていない平時の問題としてみると、ドイツと類似して、憲法上住居の不可侵および私生活の自由(プライバシー権)が保障されている日本においては、使用者は労働者に対し在宅勤務命令権を持たないと解される一方、労働場所の決定は使用者による指揮命令権の対象事項であること等からすると、原則として労働者が使用者に対し在宅勤務請求権を持つこともないと解される。従って、平時においては、在宅勤務を実施するためには、使用者と労働者との間での個別の合意が必要となる。また、上記課題 ② の例外として議論がある、障害を有する労働者に対する使用者の合理的配慮として在宅勤務請求権については、ドイツ法との比較からは、仮に認められるとしても実際の適用場面は相当限定的と考えられる。
一方、課題 ① ・ ② に関して、パンデミック(非常事態)下の問題としてみると、使用者および労働者の双方について相手方に対する配慮義務として、在宅勤務に関する命令権や請求権を認める解釈、あるいはそのような権利を定める立法政策も考えられなくはない。もっとも、この問題に関するドイツ法の議論や立法政策を踏まえると、仮にかかる命令権や請求権を認めたとしても、同時に相当広範囲に例外の余地も認めざるを得ないことからすれば、パンデミック下においてはむしろ、労働契約当事者をして在宅勤務の可能性を模索させ、個別合意による実施へと誘導するような立法政策を講じることが望ましい。具体的には、緊急事態宣言等が発出されている状況下においては、使用者と労働者の双方に対して、在宅勤務の実施について互いに協議を行うことを義務付ける規制を、労安衛法中に置くことが考えられる。
更に、課題 ③ に関しては、従来在宅勤務を行ってきた労働者に対する使用者の出社命令の有効性については、出社を命じる使用者側の業務上の必要性と、それに従った場合に労働者に生じうる不利益との比較衡量が重要な判断基準となると考えられる。また、その具体的判断に当たっては、ドイツ法も参考に整理すると、前者に関しては、職務の性質や労働者側の行為態様や環境変化に起因する、在宅勤務の円滑な実施の妨げとなる事由が、また後者に関しては、出社・通勤に伴う感染・重症化による生命・身体への危険を生じさせ、あるいは在宅勤務以外での就労を困難ならしめる事由が、それぞれ考慮されるものと解される。なお、ドイツ法との比較からは、上記出社命令の有効性判断に当たり、使用者が事前予告等の一定の手続を踏んでいるかという観点を摂取することも、十分検討に値する。
Ⅳ 第四章について
更に、第四章においては、新興感染症に対するワクチンの接種をめぐり、職場という空間のなかで、あるいは労働関係上生じうる解釈論上または立法政策上の諸課題について、ワクチン接種の「促進」(課題 ① )と「強制」(課題 ② )という2つのベクトルに区分したうえで、検討を行った。これら課題 ① ・ ② に関する本報告書における検討結果の要点は、以下の通りである。
このうちまず、課題 ① に関して、職場という空間を活用したワクチン接種を促進するための政策的対応としては、日本でもドイツでもコロナ禍においてはいわゆる職域接種が行われたが、そのほかにも、ドイツ法との比較からは、使用者に対し、例えば助成金等によってワクチン休暇制度の導入を積極的に促すことや、労安衛法上の安全衛生教育の枠組みのなかでワクチン接種についての周知・啓発を義務付けることが、今後日本でも検討に値する。
一方、課題 ② に関しては、ワクチン接種の医学的侵襲の程度や人体に及ぼす影響、副反応のリスクに鑑みると、接種するか否かの判断は、(労働者を含む)個々人の自己決定(憲法13条)に委ねられるべきである。従って、ドイツ法における一般的理解と同様、少なくとも労働者一般との関係では、使用者が労働者に対し業務命令としてワクチン接種を義務付けること(直接強制)はできないと解される。これに対し、今後コロナ禍と同等あるいはそれ以上のパンデミック下においては、感染した場合に重症化・死亡のリスクの高い「脆弱な人々」(高齢者や患者等)との接触が不可避な医療・介護等従事者に対する関係では、使用者によるワクチン接種命令や、ドイツでみられたようなワクチン接種を間接的に強制する立法政策が問題となる可能性は否定できない。この場合、ドイツ法における議論を参考にすると、かかる命令や立法の有効性・合憲性判断に当たっては、(その時点における最新の科学・医学的知見を前提に) ① 医療・介護等従事者がワクチンを接種した場合に生じる副反応等のリスク、 ② 上記の意味での脆弱な人々を感染から保護すべき必要性、 ③ ワクチン接種の感染拡大防止にとっての有効性(特に感染予防効果)、 ④ ワクチン接種の直接的・間接的強制に代替しうるその他の手段の有無を考慮すべきである。
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