松尾匡編『「反緊縮!」宣言』

898 松尾匡編『「反緊縮!」宣言』(亜紀書房)をおおくりいただきました。ありがとうございます。

https://www.akishobo.com/book/detail.html?id=898&st=4

世界の政治・経済を動かす新座標軸、「反緊縮」を知らなければ、これからの社会は語れない!

人びとにもっとカネをよこせ!
そう、これは新たなニューディールの宣言だ。


日本の経済・社会を破壊した「緊縮」財政主義を超えて、いまこそ未来への希望を語ろう。

松尾さんをはじめとする薔薇マークキャンペーンの方々によるマニフェストの書ですね。

反緊縮って何だ! ? 松尾匡
おすそ分けのすすめ 池田香代子
なぜ消費税を社会保障財源にしてはいけないのか 森永卓郎
他者を殴る棒 岸政彦
わたしにとっての反緊縮 生活から政治を語る 西郷南海子
政府の借金なくしてデフレ脱却なし 井上智洋
反緊縮経済学の基礎 朴勝俊
リベラル再装塡のために 宮崎哲弥
日本におけるポピュリズムの困難と可能性:「アジア」という視座 梶谷壊
ヨーロッパを救うひとつのニューディール ヤニス・バルファキス
世界中の革新派勢力への呼びかけ プログレッシブ・インターナショナル

この運動については、以前から本ブログでも述べているように、消費税に対する否定的姿勢があまりにも強すぎ、それがかえって財政拡大による再分配や生活向上の妨げになる危険性が高いと思ってきましたし、今でもそう考えています。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2019/01/post-02b2.html (バカとアホが喧嘩するとワルが得する)

・・・結論から言うと、社会保障費に充てるために消費税を上げるという触れ込みで始まったはずの政策が、「増税しないと財政破綻」論のバカ軍団と「増税すると経済崩壊」論のアホ軍団の仁義なき戦いのさなかに放り込まれると、「社会保障なんか無駄遣いやからやめてまえ」論という一番あってはならないワル軍団お好みの結論に導かれてしまうからです。

あえて表にすればこういうことになります。

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おそらく松尾さんたちはこの表の左下の欄、つまり増税反対だけど再分配賛成というところに属しているのでしょう。ところが、その主張がもっぱら増税反対というところに集約され、もっぱら右上の「増税しないと財政破綻」論を仮想敵国として戦っていくと、現在の政治的配置状況の下では、それは右下の社会保障なんか無駄やからやめてまえ論との共闘になり、本来の政策だったはずの「増税して社会保障に」というのは冥王星の彼方に吹き飛ばされてしまいます。
そんなに増税が嫌なら、これくらい面倒見てやろうかという軽減税率の財源にそもそもの目標であったはずの社会保障費があてられるというのが今の姿ですが、この先、米中対決その他の影響で経済情勢波高しということになって「めでたく」(皮肉です)増税が回避されたら、結局得をしたのは社会保障を目の敵にするワル軍団でしたということになりかねません。正直、その可能性は結構高いように思います。そうでなくても、今ではそもそも何のために消費税を上げるという話になったのか、だれも覚えていないという状況ですから、その目論見は達せられたというべきかもしれません。
バカとアホが喧嘩するとワルが得するという教訓噺でした。

いやもちろん、本書で言えば森永さんの章になりますが、薔薇マークの方々は増税自体には反対ではなく、むしろ、法人税率の引き上げとか、富裕層への課税とか、相続税の増税とか、分離課税の廃止とか、より「ソーシャル」な増税のメニューを提示しています。その議論そのものは私は大いに賛成です。しかしながら、政権の座にあってすら実現は極めて困難であろうそういった政策を、そこから極めて遠いところから今口先で転がすだけで、何か事態がいい方向に動くかのごとく論じるならば、それは正直言って自己欺瞞でしかないでしょう。

そういう、ソーシャルな価値基準からしてより望ましい増税策がほとんど実現の見通しがなく、その中で財源が無いからといって弱い立場の人々のための財政支出が削られていく中で、せめてものよりどころになりえたはずの消費税が、かくも「反緊縮」の旗印の下で叩き潰されてしまえば、それに代わる財源など追ってこれる政治力などあるはずもなく、これ幸いとますます緊縮財政に拍車がかかるだけになるでしょうね。この辺、現実の政治状況の中での政治的実現可能性を全く顧慮することなく、「できればいいな」のメニューだけを振り回すことが、かえってかろうじて細々と存在し得ていた改善の道を踏みにじることになるという、まあよくある話の一例なんですが。

という話ばかりではつまらないので、本書の中ではやや異質ですが大変興味深かった一章を。梶谷懐さんの「日本におけるポピュリズムの困難と可能性:「アジア」という視座」です。

ここで補助線として引かれているのは中国です。共産党一党独裁の資本主義経済という中国において、右派と左派が入違っているというのはよく言われることですが、それとポピュリズムとの関係がさらにねじれて、それが日本と欧米社会のねじれとある面で符合しているという、なかなかに複雑な話です。

 

 

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関島康雄『改訂チームビルディングの技術』

Bk00000543 同じく讃井さんからお送りいただいたのが関島康雄『改訂チームビルディングの技術』(経団連出版)です。

http://www.keidanren-jigyoservice.or.jp/public/book/index.php?mode=show&seq=543&fl=

みんなを本気にさせるマネジメントの基本18
◆強いチームが仕事をおもしろくする
◆一人ではつくり出せない変化をつくる
◆多様な意見が、新しい切り口をもたらす

企業は製品をどうつくるか(how to make)から、何をつくるか(what to make)に変化してからだいぶたつ。今日では、さらに進んで「どう変えるか」(how to change)が最大の課題となっている。環境条件が激しく変化する時代には、強いものが生き残るのではなく、環境変化に対応できたものが生き残るからだ。

どうやって変化にすばやく適応していくのか、という問いに、リーダーが答えをもっているとは限らない。そもそも、問題が複雑になると、組織の責任者がいつもリーダーとしてふさわしいとは限らず、問題ごと、問題解決のステップごとに違う人をリーダーとしたほうが効率がよい場合も生じる。このような複雑な問題に取り組む際にとられる方法の一つが、チームによる解決である。

しかし、いろいろな専門家を問題解決に向けて努力させ、一定期間のうちに、ひとつの結論を出すのは簡単なことではない。そこでは、「仕事を通して成長する仕掛け」が絶対に必要であり、「勝っても負けても一試合ごとに強くなるチーム」の存在が不可欠である。ここに、チームをつくる力、チームビルディングの技術が求められる。

本書では、「仕事は大変だが、おもしろい」と感じる人がふえ、行動に変化が生まれること、協力して仕事をする組織文化を生み出すこと、失敗からも多くを学び、チームで問題解決に取り組むことをめざす方法を具体的、詳細に解説する。

読んでいて面白かったのは、182ページからの「自分を何の専門家と考えるかが重要」という一節です。技術系の特定分野を専門とする人を前提に、自己認識をより抽象的なレベルに持った方がいいという、ある意味脱ジョブ型な発想を展開しています。

・・・その仕事が自分にとって適職と感じられるほど専門性が高まったとしよう。この時大切になってくるのは、自分を何の専門家と考えるかである。これによって進むべき方向は大きく変わってくる。

例えば自分はパソコンが作りたい、自分はパソコンの設計者であると考えたとしよう。・・・ところがある日、会社ガパソコン事業から撤退すると決定し、設計者はTV事業部門に異動を命じられたとしよう。さて、どうするか、である。

「パソコンが作りたくてこれまで努力してきた。どうしてもパソコンを作る仕事がしたい」と考えるのであれば、パソコンを作っている他社に転職するしかない。その場合、これまでのキャリア、仕事の経歴が助けになるはずである。

しかし自分は、画像処理技術のエンジニアであると思っていたとしよう。画像処理技術を使ってパソコンを作っていると考えている。・・・

自分は、電子技術の専門家で、ハードとソフトの両方の知識が必要な製品の設計が得意だと考えていた人は、TV部門に移って、テレビとパソコンが融合した新製品の開発を夢見るかも知れないし、・・・

このように、自分は何の専門家と考えるか、自分のこれまでの経歴は何であったかというキャリアに対する見方により選択の方向は変わってくる。・・・M&Aが普通のことであるような変化が激しい時代には、パソコンの設計者というよりは画像処理の技術者、さらにはハードとソフト融合製品の開発者といった、より抽象度の高い自己認識を持つ人の方が選択の自由度が高くなり、生き延びやすくなる。・・・

これは確かにそうとも言えますが、その抽象度をさらに上げていって、その会社の進む方向なら何でもみたいになっていくと、そもそも何の専門家でもなくなっていくわけで、ものごとは程度問題という感じもします。そんな抽象的な非専門家になるほど「生き延びやすい」というわけにいかないでしょうし。

 

 

 

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高仲幸雄『同一労働同一賃金Q&A』

Bk00000546 経団連出版の讃井さんより、高仲幸雄『同一労働同一賃金Q&A』をお送りいただきました。いつもありがとうございます。

http://www.keidanren-jigyoservice.or.jp/public/book/index.php?mode=show&seq=546&fl=

働き方改革関連法の成立により、同一労働同一賃金に係る法改正が行われました。
企業は、裁判例や「同一労働同一賃金ガイドライン」を踏まえて、非正規社員の待遇の見直しや待遇差に関して適切に説明できるよう対応が求められます。
本書では、改正法令をわかりやすく解説するとともに、各社の制度見直しに必要な情報や実務上の留意点をQ&A形式でまとめました。あわせて、均衡待遇・均等待遇をめぐる判例・裁判例を収集、整理し、問題となった待遇差のポイントを紹介します。

Q&A方式で細かく書かれていますが、そもそもガイドライン自体がいささか意味不明なところもあり、なかなかこうしたら間違いないと言いきれないところがつらいところかも知れません。

後ろ半分ほどが参考資料で、とりわけ有用なのが資料6の「均衡待遇・均等待遇をめぐる判例・裁判例の概要」です。

なにしろ、今年2月の大阪医科薬科大学事件やメトロコマースの高裁判決まで載っています。

 

 

 

 

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サラリーマンは、どこから来てどこへ行くのか  変わりゆく”雇用”のかたち@『Lifist』Vol.02

Image もう一つ、読みやすいインタビュー記事として2017年10月にミニコミ誌『Lifist』Vol.02に掲載された「サラリーマンは、どこから来てどこへ行くのか  変わりゆく”雇用”のかたち」というのをお蔵出ししておきましょうか。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2017/10/lifist02-6327.html

学校卒業と同時に企業や官公庁に就職し、そのまま定年まで勤め上げる。
日本の典型的な「サラリーマン」のライフスタイルだ。
しかし近年は、不安定な雇用の問題やサラリーマンの働きにくさが指摘されることも多くなってきた。
私たちが当たり前と考えてきた「サラリーマン的働き方」は、これからどうなっていくのだろうか。
独立行政法人 労働政策研究・研修機構 労働政策研究所長 濱口桂一郎さんに聞いた。
 
 
世界でも珍しい、“日本型”の働き方
 
長時間労働やパワハラなどが問題化し、サラリーマンの「生きづらさ」が話題になっています。
 
 こういった問題は単純化されて議論されてしまいがちですが、例えば「長時間労働」という、労働の中の一部の現象を取り出して善悪を論じるとしたら、あまり意味のないことです。雇用制度全体の中で考えてみることが重要です。
 
全体の中で考える、とは。
 
 まず、若者がこれほど就職しやすい国はほかにありません。日本以外の国は、そもそも学校を卒業しても就職口がないのが当たり前。よほど優秀でない限り企業は、仕事の経験も能力もない人間を好んで採用なんてしてくれません。日本には「新卒一括採用」という世界でもほとんど例のない仕組みがあり、「私にはこういう能力があります」と言わなくても、むしろ言わないほうが企業は採用してくれ、入社してから学ぶことができる。そこだけを見ればすごいメリットです。
 でもその裏返しとして、会社にすべてをゆだね命令に従わなければならない。長時間労働もこの一部でしょう。昔から長時間労働はありましたが、新卒採用や定年までの実質的な雇用の保証というメリットとパッケージになっていたから問題にならなかったのです。今はそのパッケージ全体が崩れてきたから問題化してきている。企業は一応正社員として迎えるけれど、ずっと働いてもらうという前提はなく、仕事ができないと言っては次々に人を入れ替える。そうなってくると、これはブラック企業です。でも、長時間労働だけを取り上げて、それはブラック企業だ、いや自分の若いころは徹夜もやっていたぞと議論することはナンセンスなんです。
 
 
日本型の雇用は、メリットが少なくなってきた
 
濱口さんは研究の中で、雇用システムを「ジョブ型」「メンバーシップ型」に分類しています。
 
 職務に対応して労働者を採用するシステムのことを「ジョブ型」と言っています。つまり、あなたにはこの仕事をしてもらいます、それに対していくら払います、ということを契約や協定で決めて雇用する。諸外国の多くのシステムです。対して「メンバーシップ型」は、企業が「職務を遂行する能力がある」と判断した人を「メンバー」として雇用する。これが日本型の雇用システムです。給料は年功制で、職務内容や勤務地は入社後に会社の命令によって決められます。
 
まさに、日本の象徴的なサラリーマンの姿ですね。なぜ日本にこのような雇用システムが出来上がったのでしょうか。
 
 第一次大戦後から、主に日本を牽引する製造業でこういった雇用システムが始まり広がってきました。完全に確立したのは第二次大戦後ですが、労働組合の後押しも大きかった。長く続いてきたということは、労使の両方にとってメリットが多く合理的だったということですね。そのころの典型である、妻が専業主婦という家庭なら、残業をどれだけしてもどこに転勤になっても、会社に従っていれば家族がずっと守られていて幸せでした。
 
今は家族構成も多様になり、夫婦共働きも当たり前になってきました。「日本型雇用システム」の転換期にあるのでしょうか。
 
 さまざまな面からこのシステムの合理性が低くなってきていることは確かですね。ここ数年来の一つひとつ政策の方向性を見ると、政策同士には関連性がないように見えるかもしれませんが、大きく見て「ジョブ型」へ移行しています。長時間労働の規制もその一つですし、職業能力の見える化を進めて労働移動をしやすくしたり、教育分野の中に職業教育的なものをつくっているのもその一環でしょう。
 
緩やかに変革しているということでしょうか。
 
「日本型雇用システムは悪だから叩き潰せ」というような話にするわけにはいきませんから。このシステムで恩恵を受けている人もいればそうでない人もいる。なくなっていくメリットに関しては、それに代替するような仕組みをつくっていかなければ、激変して大変なことになってしまいます。受け皿をつくりながら緩やかに変えていかないといけないのです。
 
「メンバーシップ型」と「ジョブ型」、どちらがよいというわけでもないのですね。
 
 「このシステムは日本にとっていいのか悪いのか」と議論を一律でしてしまうことは危険です。十把一絡げで議論してしまうと必ず何かが見捨てられてしまう。もっと慎重に、丁寧に考えていかなければなりません。「日本型雇用システムは素晴らしい」と言われていた時代だって、恩恵を受けていた人ばかりではなく、それに当てはまらない人はいたのですから。
 
女性は今度こそ活躍するのか
 
女性活躍が叫ばれていますが、なかなかうまくいきません。世界から見ても、日本の男女平等は進んでいないようです。
 
 よく誤解されるのですが、もともと、日本が特別に男性優位的な考え方を持っているわけではないと思います。1960年代頃に雇用システムが出来上がったころから、女性差別的な考え方は世界に同じようにありました。その後、「やはり男女平等にしなければ」という掛け声も世界で同じようにかかってきました。ただ、欧米のジョブ型の働き方は、男女の格差是正がスムーズにいきやすかったのに対し、日本はそうではなかった。男性が無限定に働いて女性が家庭を支えるという日本型雇用システムがうまく社会に合致してしまっていただけに、性別役割分担を変えていきたくてもブレーキがかかってうまく進んでこなかったという面があると思います。
 
1985年には男女雇用機会均等法もできましたが…。
 
 最初の10年間は努力義務時代で、実質は男女が同じように仕事をしていける環境ではありませんでした。多くの企業は、制度上は男女の差をなくして、基幹的な業務にかかわる「総合職」と、補助的な業務をする「一般職」という2つのコースを用意しましたが、実質は総合職が男性、一般職が女性。そこに女性総合職という砂粒をポロポロと落としただけのようなものです。90年代後半から2000年代にかけてようやく、一般職という言葉もなくなってきました。女性も基幹的な仕事をするようになり、仕事の能力に男女差がないことが証明されて、昔のように「女性だから補助的な仕事」という制限もなくなってきました。
 
今の多くの女性は、仕事と家庭の両立に悩んでいますね。
 
 女性が基幹的な仕事をするようになると、それまで男性がやってきたような無限定な働き方では当然やりにくい。仕事の内容そのものよりも、やり方がいま問題化してきているのでしょう。
 
「同一労働同一賃金」のまやかし
 
非正規の仕事しかなく、生活が苦しいという問題もメディアを賑わせています。
 
 非正規は会社のメンバーシップから外れている存在。必要な職務に応じて採用され、それがなくなれば雇止めとなってしまいます。しかし、昔は主婦と学生のアルバイトが中心で家計を担う存在ではないため、問題視されませんでした。今は、家計を担わなければならない人も非正規の枠に押し出されてしまっています。
 
「同一労働同一賃金」が進められていますが、これが導入されれば是正されるのでしょうか。
 
 「同一労働同一賃金」という概念は、「この仕事にいくら出す」という、ヨーロッパのようなジョブ型の雇用社会だから成り立つものです。日本はそもそもそういう雇用システムではないため、根本が違います。それをイメージで議論してしまっていて、結局誰も本質的な議論をしていません。
「非正規だから生活できない」というのは、複合的な問題を抱えています。家計を担わなければならない人が、家計補助を前提とした賃金体系で働かざるを得ず、困窮してしまう。この一つの問題としては、労働に対する賃金の客観的な指標がないこと、もう一つの問題として、仕事をする人には生活をしていけるだけの賃金が払われなければいけないという正義が欠落しているということ。その両方を解決しなければなりません。雇用システムをメンバーシップ型からジョブ型に変えれば解決するという問題ではないのです。ジョブ型の欧米でも、“ジョブ型だから”生活がなりたっているというわけではありません。最低賃金が生活できるレベルになるよう組合で交渉しています。
 
 
中高年サラリーマンがつらい
 
中高年のリストラも話題になりました。
 
 働く人の全体の中ではやはり、中高年が厳しい環境に置かれていますね。90年代以降に成果主義がかなり導入されて、それまでのようなよい処遇が得られなくなってきました。全般的には雇用の安定は守られていますが、昔のように毎年必ず給料が上がっていくわけでもありません。
 日本型雇用システムの中では、社員が若いときは会社の持ち出しですが、その後仕事ができるようになって年功序列の低い立場にいる段階になれば会社にメリットが出てきます。でもある段階以上になると、また逆転して会社の持ち出しになってしまう。そこの部分を成果主義にして、減らそうとしているわけです。
 
子どもの教育費などもかかる時期で、家族を養っている人たちは大変です。
 
 企業行動の変化がいまの教育問題にも影響してしまっています。一世代前は、大学生のアルバイトといえば遊ぶお金を稼ぐためでしたが、今は学費を稼ぐためという理由が主流です。奨学金を前提にしなければ進学できないとか、大学生がブラックバイトで疲弊するといった社会問題は、親世代である中高年の処遇が下がってきたことのインパクトが現れていると言えます。雇用システムが社会に及ぼす影響は大きいのです。
 
いまの若い人も同じ道をたどってしまうのでは。
 
 社員の入り口も育て方もこれまでと一緒では、また同じことになってしまう可能性が高いですね。日本の企業は、明確な未来の青写真がないまま動いているように思います。若者の育て方、動かし方は何十年来の歴史と伝統がありますから、どうしてもそのやり方で動いて行ってしまう。システムを変えてそこを何とかするには、ものすごくコストがかかります。ただでさえ企業間の競争が激しい中でそこにコストをかけていけるかというと、難しいでしょう。
 
メンバーシップに入っていない人々はどこにいる?
 
ところで、メンバーシップ型雇用と関係ない会社や個人事業は、やはり少数派なのでしょうか。
 
 これも大切なことなんですが、日本型システムというように「型」がわざわざついているものは、実は首尾一貫して日本社会のなかでは少数派なんです。影響力の強い大企業分野、かつての製造業とか今はサービス業などが日本型だからそう言われるんですね。中小企業で日本型じゃないところはたくさんあるし、高度経済成長期だって、数からいえば、実は日本型じゃない働き方の方が多かったんじゃないかと思います。
 
日本型雇用のサラリーマンでないと、どうしてもマイノリティに感じてしまいます。
 
 言論の世界に住んでいる人、つまり、こういった問題の議論を担っている人が日本型雇用の世界に住んでいるので、過大代表的になっているのだと思います。マスコミ、役所、裁判官、そしてカウンター・エリート的な立場にいる労働組合もそういうシステムの中にいますから。おそらくどんな時代をとっても、日本的でない働き方の人の方が数的には常にマジョリティだったんだと思いますよ。

 

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三種の神器を統べるもの@『Works』87号(2008年04月)

Works 今ごろになってまたも終身雇用がどうたらこうたらという議論が燃え上がっているようですが、特に目新しいネタもほとんどなく、改めて書くだけの意欲も湧かないので、今から11年前にリクルートの『Works』という雑誌のインタビューで喋った内容がほぼ今でもそのまま使えそうなので、お蔵出ししておきます。

ちなみに、この『Works』87号、荻野進介さんが主導して「三種の神器とは何だったのか」という大特集を組み、こういうそうそうたるメンツで日本型雇用システムについて論じています。このうち、私のインタビュー記事は32ページから34ページにかけて載っています。

はじめに 50年後の総括を
荻野進介(本誌)

第1章 鏡・曲玉・剣の本質と生成過程
終身雇用
日本は終身雇用の国ではない/野村正實氏(東北大学大学院経済学研究科教授)
諸説の交通整理/荻野進介(本誌)
終身雇用とは「組織との一体化」である/加護野忠男氏(神戸大学大学院経営学研究科教授)

年功序列
選抜の時期が遅いから年功に見える/小池和男氏(法政大学名誉教授)
諸説の交通整理/荻野進介(本誌)
実務家の眼(1) 日経連『能力主義管理』が目指したもの/山田雄一氏(明治大学名誉教授)
年功システムは敗戦とともに消滅した/楠田 丘氏(社会経済生産性本部 雇用システム研究センター所長)

企業別組合
GHQが企業別組合を促進した/竹前榮治氏(東京経済大学名誉教授)
実務家の眼(2) 企業別の強みを生かしつつ企業外へも目配りを/團野久茂氏(連合 副事務局長)
諸説の交通整理/荻野進介(本誌)
戦後の労働組合は企業内組織である/二村一夫氏(法政大学名誉教授)

第2章 雇用システムとしての三種の神器
三種の神器を統べるもの/濱口桂一郎氏(政策研究大学院大学教授)
雇用システムの日米独比較/宮本光晴氏(専修大学経済学部教授)
メンバーシップを基本に人事を考える/(本誌編集部)
日本企業 持続的成長の条件/川田弓子氏(リクルートマネジメントソリューションズ 組織行動研究所 主任研究員)
コラム 企業とは内部共同体かつ社会の公器である/野中郁次郎氏(一橋大学名誉教授)

ちょうど去る5月1日に新天皇が即位し、三種の神器の継承が行われたところでもあるので、神器つながりで三種の神器の話から始まります。

日本的雇用の根幹に位置するものが三種の神器だ、とよく言われる。しかし考えてみれば、神器とはそれを管理する
天皇がいてこそ、成り立つものだ。鏡や剣だけがあっても、それを統べる人がいなければ神器にはならない。
では、日本的雇用における天皇とは何なのか。それはメンバーシップ契約だ、というのが濱口桂一郎氏の論である。 

 日本型雇用システムの中核にあるのが「三種の神器」であるとよく言われますが、終身雇用、年功制といった“神器”そのものを詳しく見ても、本質はわかりません。問題は、その背後にいる“天皇”は誰か、ということです。私は、労働者と企業との雇用契約が欧米のようなジョブ(職務)に基づく契約ではなくて、メンバーシップ(構成員)契約であるところに、日本の雇用の本質(=天皇)があると考えます。

雇用契約とは労務と報酬の交換契約です。民法にもそう書いてありますが、日本企業の、特に正社員の場合は違います。雇用契約そのものに具体的な職務は定められておらず、その都度、書き込まれる空白の石版(blank slate)なのであり、そこから、雇用=会社という組織の構成員になること、という日本独特のシステムが導かれます。それを象徴的に表わしているのが「内定」です。雇用契約はあるものの、労務の提供も報酬の支払いもない状態ですが、他のどの国にもない制度です。

労働とは労務と報酬の交換である、と決めたのは古代ローマ法です。そこでは賃貸借と請負と雇用は、同じラテン語で「locatio conductio」といいます。これは中国でも同様で、賃という字で表わします。広範な市場が存在した古代文明の世界で一般的な言葉といえるでしょう。

世界には労働契約のもうひとつの考え方がゲルマンにありました。忠勤契約といわれ、主君と家臣の間の契約ですね。実はこれが日本にもありました。奉公です。面白いのは、ゲルマンでも日本でも主君と家臣の間の契約が徐々に民間にも拡大したことです。主君に仕えるのが奉公だったのに、伊勢屋や越後屋といった商家で働く行為も奉公になっていった。日本のメンバーシップ契約の源泉はこの奉公契約にあるのです。

副産物としての三種の神器

「三種の神器」も、雇用がメンバー契約であることから生まれた副産物なのです。まず終身雇用ですが、これは長期雇用と言ったほうがより実態を表わしています。日本企業では雇用契約で職務が決まっていないのですから、ある職務がなくなっても、別の職務で人が足りなければ、その人は異動して雇用を維持することができます。異動の可能性がある限り、解雇が正当化される理由はありません。長期雇用とはメンバーシップの維持を最優先し、解雇をできるだけ避ける行動様式なのです。

 またメンバーシップ契約のもとでは、賃金が職務に応じて支払われるわけではありません。しかし何らかの客観的基準は必要だ、ということで選ばれたのが年功、つまり勤続年数や年齢だったのです。ここから年功賃金制度の存在意義が導き出されます。

もし職務に応じて労働条件が決まる日本以外の社会だったら、労働者と使用者の交渉も職務ごとに行うのが理屈にあっています。同じ職務につく限り、企業によって条件が同じであるのが望ましいので、団体交渉は企業の枠を超え産業別になるでしょう。ところが日本では職務が決まっていないのですから、職務ごとの交渉は不可能です。賃金の決め方も職務ではなく年功ですから、企業の枠を超えて交渉しても意味がありません。よって、組合は企業別であるのが合理的になるのです。

日本の労働組合の最大の特徴はホワイトカラーとブルーカラーが同じ組合に入っていることです。これもメンバーシップ制の所産でしょう。賃金制度の面でもそうで、どちらも月給制です。しかも、ホワイトカラーも残業代が時給換算で出ますから、正確に言えば時給制に基づく月給制です。アメリカの場合は、ブルーカラーは時給制で週単位の支払い、ホワイトカラーは残業代がなく、純粋な月給制。そういう意味で、日本においてアメリカのブルーカラーと同じ待遇なのが非正規の世界です。

 ここまでお話するとお分かりかと思いますが、日本の場合、正社員はメンバーシップ契約ですが、非正規社員は欧米型のジョブ契約です。三種の神器が通用する世界と通用しない世界があるんです。

戦時中に確立したメンバーシップ雇用

こういう日本独特の契約の世界はいつ生まれたのでしょうか。そもそも明治時代の日本は非常に流動性の高い社会で、メンバーシップ契約は、ごく一部を除いて存在しませんでした。当然、いくつかの段階を経て生じてきたわけですが、ひとつ目のステップは第一次大戦の直後でした。当時、激しい労働争議がいくつも起こり、それに対応するため、大企業が学校を卒業したばかりの優秀な若者を雇い入れ、手塩にかけて子飼いの職工として養成することにしたのです。賃金は年功的で、不満があれば社内に設けた工場委員会で解決するから、外の組合なんかに入るな、転職もするな、とやったわけです。これがメンバーシップの原型ですが、対象はごく限られた人たちでした。

 ふたつ目は戦時中です。厚生省の労働局主導で、従業員雇入制限令(1939年)、従業員移動防止令(1940年)、労務調整令(1942年)などを制定して労働者の移動を防止し、企業も勝手な採用や退職、あるいは解雇をさせないようにしました。

また賃金統制令(1939年および1940年)で、初任給や定期昇給の額を細かく決め、最終的には地域別、業種別、男女別、年齢階層別に細かいマトリックスを作って指導したのです。それは皇国の産業戦士の生活を保障するという名目の年功賃金でした。さらに産業報告会という労使懇談会も企業ごとに作らせた。このように、戦時中、メンバーシップ型の仕組みが国家主導で大きく拡大したのです。

 ところが敗戦となって、アメリカ軍がやってきました。どう考えても、別のシステムに置き換わるはずですが、そうはならなかったのです。GHQにできた労働諮問委員会の委員や世界労連の代表らが異口同音に「年功賃金はおかしいから、やめて職務給にしなさい」と言ったんですが、政府はともかく、当時の組合代表がうんと言わなかった。「賃金とは生活を支える原資だ。だから、労働者の年齢と、扶養家族の数に基づいて決めるのが正しい」と主張し、できたのが電産型賃金体系だったのです。

この電産の初代書記長が、後に民社党の委員長にもなった佐々木良作という人で、戦時中は電力会社の人事にいました。つまり、長期雇用や年功制、労使協議システムなど、戦時中に国家主導で作られたメンバーシップ体制を先導した人が、敗戦を境に、今度は組合という立場から同じ路線を推し進めたのです。

大勢が捏ねて作った日本型雇用システム

 終戦直後は、労働組合が経営者に代わって生産活動を行い、生産業務を自主的に管理する、いわゆる生産管理闘争が頻繁におこり、労働条件だけでなく、人事や経理、さらに経営全般にわたって労使協議の対象とする経営協議会といった組織も雨後の筍のように生まれた。組合の力が非常に強く、経営側が押されていた時期でした。

経営側が主導権を取り戻そうと巻き返しを図ったのが1950年代です。この時期、トヨタ、東芝、日産など、大企業を中心に大規模な解雇反対闘争が起きており、その多くは企業側が勝っています。その結果、それまでの組合のリーダーが軒並み追い出され、今度は会社と協調路線を取る組合が生まれた。いわゆる第二組合で、労働運動の主導権が穏健派に移行しました。

彼らと経営者の間で、過激な組合指導者は別として、一般の労働者に対しては手厚い手当てを支給したうえで退職してもらうという合意が成り立ち、争議は終息に向かいます。これ以後、労働力の削減が必要な時も、企業は一方的な解雇は行わない、希望退職を募るのが原則となりました。裁判所も判例の積み重ねによって、これを認め、法的なレベルでも長期雇用がシステムとして確立されたのです。

こうやって最終的に成立した日本型雇用システムは、戦前期の経営側の意図、戦時期の官僚の理想、終戦直後の労働側の要求、その後の経営側の軌道修正など、さまざまな要素が有機的に組み合わさった精妙なシステムであり、さながら「織田が搗き羽柴が捏ねし天下餅、座して食らふは家康か」というざれ歌を髣髴とさせ、簡単に捨て去ることはできないと見るべきです。

非正規社員と女性社員の問題

ではこのシステムのまま、これからもずっと行くのでしょうか。メンバーシップに入った人と入れない人がいることはお話しました。全員がメンバーだったら、あまりに非効率です。非メンバーの人たちは、経営のフレキシビリティを担保しているクッション人材なわけです。

1950年代当時、臨時工と呼ばれた人がいました。今でいう非正規労働者です。本工と同じ仕事をするけれど、いつ解雇されるかはわからず、組合にも入れてもらえない人たちでした。「これは差別だ、みんな本工にすべきだ」という議論もあったのですが、企業もクッションがなくなると困るので、なかなか実現しませんでした。

この問題を解決した要因が3つありました。ひとつは高度成長です。圧倒的な人手不足が起こり、臨時工募集では誰も来なくなって、本工がどんどん増えていったのです。もうひとつは主婦パートです。好景気も手伝って、主婦が働きに出たわけですね。さらに進学率が高まる中で、学生アルバイトという存在が出てきた。主婦は家庭、学生は学校というメンバーシップの一員ですから、彼らは企業におけるメンバーシップの埒外に置かれても何ら問題ない人たちでした。まさに需要と供給が一致したわけです。

 ところが90年代以降のデフレ不況の過程で、本来ならばメンバーシップの一員になるべき人が、なれなくなってきた。フリーターや就職氷河期世代ですね。高度成長期の臨時工と同じ存在ですから、この人たちを救うには正社員に組み込めばすむのがてっとり早い解決法です。ところが1950年代はそれでよかったのですが、もうひとつの問題が出てきたのです。従来のシステムは男女の間で社会的役割を分けることで成り立っていたのですが、社会が成熟し、男は会社、女は家庭を守ればいい、という風には行かなくなったのです。実は先ほど意識的に取り上げなかったのですが、かつても女性の正社員という人たちがいました。彼女たちは短期のメンバーシップ契約だったのです。20代半ばで結婚退職するのが普通で、そうでない人は男性に比べた昇進差別や賃金差別が容赦なく行われた。つまり、日本企業の雇用体系は、長期メンバーシップ型で三種の神器があてはまる男性正社員、短期型で部分的にあてはまる女性正社員、全然あてはまらない、ジョブ型の非正規社員という3要素で成り立っていたのですね。それが具合が悪くなってきたのが今です。

メンバーシップに濃淡をつけよ

これからどうすればいいのか、というと、華々しい解決策があるわけではありません。欧米型の職務給に移行というのはかなり難しい。メンバーシップ型雇用にはさまざまな利点があるからです。労働者側からすれば、長期的な雇用が保証されていれば生活設計が楽になって安心感が高まる。企業側も、メンバーシップ制をとっているがゆえに、突発的な事態が起こっても柔軟に対応してくれる労働者がいるから安心できる。

といっても、今までのように、メンバーシップの人とそれがまったくない人とを完全に分けてやっていくのは難しいと思います。それに対する解決法は、転勤なしの正社員とか、メンバーシップの度合いを変えた人をいくつか作るしかない。今までの正社員モデルは、社員は会社にだけ大きなメンバーシップがあって、それ以外にはなかった。家庭へのメンバーシップがゼロの人は「会社人間」と呼ばれました。さすがにそれでは無理です。男性も地域や自社以外の企業社会でも、いろいろなメンバーシップをもつべき時代です。ゼロか百かのメンバーシップではなく、その間で濃淡をつけていかざるを得ないでしょう。

 

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教員の多忙化問題@『法学セミナー』6月号

08044 主として学生向けの法律雑誌である『法学セミナー』6月号が、何を思ってか「教員の多忙化問題ーー働き方改革のゆくえ」という特集を組んでいます。

https://www.nippyo.co.jp/shop/magazines/latest/2.html

教職員の『多忙化』をめぐる法的問題 ーー給特法の法構造問題を中心に……高橋 哲

[座談会]教職員の多忙化問題ーー法学と教育学から考える……石井拓児、内田 良、高橋 哲、堀口悟郎

中教審『答申』をどう読むか……萬井隆令 ーー「労働」の意義の分析を欠く、“底の抜けた樽”

『ジュリスト』や『法律時報』でもやっていないのに、『法学セミナー』でこの問題を取り上げた決断にまずは敬意を表したいですね。

この問題、原則の労働基準法を地方公務員法がねじれさせているのを、さらに給特法がねじれさせているという複雑な構造をしているんですが、高橋さんの論考も、内田さんらの座談会も、そのわけわかめになりそうな構造を見事に解説しています。

この問題については、わたしも今年2月に『労基旬報』でちょびっと論じてみたのですが、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2019/02/2019225-de99.html (「公立学校教師の労働時間規制」@『労基旬報』2019年2月25日号)

この中でも、労使対等原則に基づく規定は片っ端から否定しているくせになぜか労働基準法第36条は適用除外されていないということは指摘をしています。

そして、いわゆる超勤4項目に該当しない(「自発的」ということになっているけれども、実際にはやらざるを得ない)時間外業務については、読み替えの読み替えによる第33条第3項ではなくて、原則に戻って第36条による労使協定が必要になるはずというのは、法律を厳密に読めばそうなると思います。ただ、給特法によって読み替えられた地方公務員法によって第37条は丸ごと適用除外されてしまっているので、厳密には36協定を締結しなければならないけれども、それによる時間外勤務に残業代を払う必要はないということになるように思われます。

この点、萬井さんの論文では、

・・・給特法に関して言えば、37条の適用除外は、限定4項目に係る超勤を想定したもので、通常業務に係る36協定による超勤まで含むものではない。・・・

という(憲法27条から降りてくる)解釈をしているのですが、これはやはり読み替えられた明文の実定法規定に反していると思います。残念ながら、給特法の条文上、4項目以外に現実に労働基準法上の明らかな時間外労働があった場合については確かに法律の穴が開いていて(だから「自発的」というインチキを言い募らなければならなくなる)、法律上適用除外されていない第36条を使わないとその穴がふさがらないのですが、37条の適用除外は(たまたま同じ法改正で導入されたとはいえ)法文上その4項目に限定する形で規定されていないので、36協定による4項目以外の時間外労働でも、37条の適用はないとしか言いようがないでしょう。そこは「法律が欠けつしている場合」ですらないように思います。

 

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労働時間毎日把握義務@EU司法裁判所

EU司法裁判所が去る5月14日に、労働時間指令と労働安全衛生指令の解釈として、使用者は実労働時間を毎日把握しなければならない義務があるという判決を下したようです。

判決文自体はこちら:

http://curia.europa.eu/juris/document/document.jsf;jsessionid=D6C917E0219967825FA962C56FAE7624?text=&docid=214043&pageIndex=0&doclang=en&mode=lst&dir=&occ=first&part=1&cid=4097884

新聞発表資料はこちらです。

https://curia.europa.eu/jcms/upload/docs/application/pdf/2019-05/cp190061en.pdf

これ、原告はスペインの労働組合のCCOO、被告はドイツ銀行。

スペインの労働法では、使用者は毎日の実労働時間を毎日把握する必要はなく、月単位で時間外労働時間を把握すればよいとされているのですが、それはEU指令に違反すると。

Articles 3, 5 and 6 of Directive 2003/88/EC of the European Parliament and of the Council of 4 November 2003 concerning certain aspects of the organisation of working time, read in the light of Article 31(2) of the Charter of Fundamental Rights of the European Union, and Article 4(1), Article 11(3) and Article 16(3) of Council Directive 89/391/EEC of 12 June 1989 on the introduction of measures to encourage improvements in the safety and health of workers at work, must be interpreted as precluding a law of a Member State that, according to the interpretation given to it in national case-law, does not require employers to set up a system enabling the duration of time worked each day by each worker to be measured.

EU労働時間指令第3,5,6条と労働安全衛生指令第4条第1項、第11条第3項、第16条第3項は、国内判例法による解釈に従い使用者に各労働者が毎日労働した時間の長さを測定することを可能にする仕組みを設けることを要求しない加盟国の法律を排除すると解釈されなければならない。

判決文に引用されたスペイン法の条文(の英訳)を見ると、正確には使用者は毎日の労働時間を把握しなければならないけれども、労働者にはい単位で時間外労働の時間数だけ伝えればよいということのようですが、とにかく毎日何時間労働したかが確定しないまま1か月が過ぎるという状況のようです。

で、それはEU指令違反だと。EU法は労働者の安全衛生を目的として、1日単位の休息時間、1週単位の休日と最長労働時間を定めているので、それが守られているかどうかを1か月単位ではだめだということですね。日本では労働時間と言えば残業代と見込む人が多いですが、残業代の話では全然ありませんので、その点は誤解なきよう。

 

 

 

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日本労働法学会誌132号『労働法と知的財産法の交錯』

Isbn9784589040145 日本労働法学会誌132号『労働法と知的財産法の交錯』が届きました。昨年10月に早稲田大学で開かれた大会の記録が主です。

https://www.hou-bun.com/cgi-bin/search/detail.cgi?c=ISBN978-4-589-04014-5

改めて、ワークショップでも個別報告でもフランスの労働法改革が取り上げられていますね。

さて、巻末に今年の大会の案内が載っています。

10月19日,20日に立命館大学で、と書いてありますが、さて、この立命館大学というのはどこの立命館なのかさっぱりわかりませんね。滋賀県の草津なのか大阪の茨木なのか、京都の衣笠ではなさそうですが。

大シンポは「労働契約における規範形成の在り方と展望」ですが、昨年から始まったワークショップが7本並んでいます。

その中の「労働法学は労働法の歴史から何を学ぶか?」(提案者:石田眞)というワークショップでは、わたくしと石井保雄さんが報告をする予定です。

 

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70歳までの就業機会確保@未来投資会議

本日の未来投資会議で、70歳までの就業機会確保の方向性が示されました。

この資料「高齢者雇用促進及び中途採用・経験者採用の促進」の重要なポイントを見ていくと、

http://www.kantei.go.jp/jp/singi/keizaisaisei/miraitoshikaigi/dai27/siryou1.pdf

○ 人生100年時代を迎え、働く意欲がある高齢者がその能力を十分に発揮できるよう、高齢者の活躍の場を整備することが必要。
○ 高齢者の雇用・就業機会を確保していくには70歳までの就業機会の確保を図りつつ、65歳までと異なり、それぞれの高齢者の 特性に応じた活躍のため、とりうる選択肢を広げる必要がある。
○ このため、65歳から70歳までの就業機会確保については、多様な選択肢を法制度上許容し、当該企業としてはそのうちどのよ うな選択肢を用意するか労使で話し合う仕組み、また、当該個人にどの選択肢を適用するか、企業が当該個人と相談し、選択 ができるような仕組みを検討する必要がある。
○ 法制度上許容する選択肢のイメージは、
① 定年廃止 ② 70歳までの定年延長 ③ 継続雇用制度導入(現行65歳までの制度と同様、子会社・関連会社での継続雇用を含む) ④ 他の企業(子会社・関連会社以外の企業)への再就職の実現 ⑤ 個人とのフリーランス契約への資金提供 ⑥ 個人の起業支援 ⑦ 個人の社会貢献活動参加への資金提供
が想定しうる。
○ 企業は①から⑦の中から当該企業で採用するものを労使で話し合う。

70歳までの就業形態の選択肢はかなり広がります。65歳までの原則企業内継続雇用というのではとても回らないだろうという声は強く、実は、④の再就職援助や⑤の個人請負支援は想定していました。私も『生産性新聞』2019年3月15日号のインタビュー記事では、こう述べています。

・・・今後の高齢者雇用については、継続雇用や定年延長といった内部市場型による現政策の延長線上だけではなく、外部労働市場にも重点を置く必要がある。この一環として、再就職援助措置を雇用確保措置と一体化して義務化することも検討されてよい。外部労働市場という企業の枠を超えた雇用機会の提供は、高齢者と企業のマッチングを促進することもつながる。さらには今後、デジタル型非雇用就業(個人請負等)による就業機会拡大の可能性も視野に入ってくる。・・・

ただ、⑦の社会貢献活動というのはここでいう就業機会というのとはちょっと性格が違うような気がします。

さらに、法制度の進め方として二段階方式を提示しています。

○ また、70歳までの就業機会の確保を円滑に進めるためには、法制についても、二段階に分けて、まず、第一段階の法制の整 備を図ることが適切である。
○ 第一段階の法制については、
① 法制度上、上記の①~⑦といった選択肢を明示した上で、70歳までの雇用確保の努力規定とする。 ② 必要があると認める場合は、厚生労働大臣が、事業主に対して、個社労使で計画を策定するよう求め、計画策定につい ては履行確保を求める。
○ その上で、第一段階の雇用確保の実態の進捗を踏まえて、第二段階として、多様な選択肢のいずれかについて、現行法のよう な企業名公表による担保(いわゆる義務化)のための法改正を検討する。
この際は、かつての立法例のように、健康状態が良くない、出勤率が低いなどで労使が合意した場合について、適用除外規定 を設けることについて検討する必要がある。
○ 混乱が生じないよう、65歳(現在63歳。2025年に施行完了予定)までの現行法制度は、改正を検討しないこととする。
○ 70歳までの就業機会の確保に伴い、年金支給開始年齢の引上げは行わない。他方、年金受給開始年齢を自分で選択できる 範囲(現在は70歳まで選択可)は拡大する。
○ 手続き的には、今夏の工程表付きの実行計画に上記方針を盛り込む。さらに、労働政策審議会における審議を経て、2020年の 通常国会において、第一段階の法案提出を目指す。

第一段階は努力義務で第二段階は法的義務というのはこれまでの60歳定年や65歳継続雇用と同じなんですが、その中にちょっと意味がとりかねる部分がありました。「企業名公表による担保(いわゆる義務化)」というところです。いや、企業名公表は努力義務段階の間接強制手段であって義務化とは違うはずですが。義務化の際にまたぞろ労使協定による適用除外制度を持ち込もうというのも、そろそろ労使協定自体の見直しが必要でしょう。

 

 

 

 

 

 

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岸健二編『業界と職種がわかる本 ’21年版』

10021_1557813543 岸健二編『業界と職種がわかる本 ’21年版』(成美堂出版)をお送りいただきました。毎年ありがとうございます。

これから就職活動をする学生のために、複雑な業界や職種を11業種・8職種にまとめて、業界の現状、仕事内容など詳しい情報を掲載し、具体的にどのような就職活動が効果的か紹介。
最新の採用動向をデータとともに掲載。
自分に合った業界・職種を見つけ就職活動に臨む準備ができる。

例によって、編者の岸健二さんの最近のエッセイを、労働調査会のコラムから:

https://www.chosakai.co.jp/information/alacarte/22563/ (海外人材のことで余り触れられていない視点)

・・・・次にもう一つ、今「人手不足」と言われていても、自動化などのIT技術の進歩によってあっというまに変化してしまう「仕事の需給」の検証という見方が必要ではないか、という視点です。
 コンビニエンスストア業界の人手不足による、24時間営業の見直しの報道もよく目にします。実際コンビニエンスストア利用しても、アジアの各国から来日していると思われる若い人材の方がレジを操作している場面をよく見るようになっています。こちらは今回の入管法改正の「特定技能」や従来からの「技能実習」ではなく、日本語学校への留学生の「資格外活動許可」による「原則週28時間」のアルバイト就労によるものだそうです。
 しかし筆者の近所でも「無人レジ」「セルフレジ」が登場し始めています。これが(たぶんあっという間に)普及した時、「いいアルバイトもできる留学」として、留学を勧めている国や機関は、どのようなアルバイト仕事を自国の若者に紹介しようということになるのでしょうか。
 今「人手不足業界」とされている、今回の「特定技能」在留資格による就労可能な「産業分野」の「業務」が、ロボット技術の進歩、AI導入の促進によって生産性が向上し、省人力化の波が押し寄せたとき、「じゃあ母国に帰ってください。」とは、そう簡単に言えないことが、過去の日本人移民の歴史からも汲み取れるのではないでしょうか。

外国人労働問題については、将来人手不足でなくなったときにどうするの?という話についてきちんとした議論がされていないままですが、岸さんは的確に指摘しておられます

 

 

 

 

 

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被用者社会保険の適用拡大問題 @WEB労政時報

WEB労政時報に「被用者社会保険の適用拡大問題」を寄稿しました。先日、第3号被保険者問題に絡んで若干紹介した話ですが、最近の動向についても触れています。

https://www.rosei.jp/readers-taiken/article.php?entry_no=76032

 昨年12月から、厚生労働省の年金局と保険局により「働き方の多様化を踏まえた社会保険の対応に関する懇談会」が開催されています。厚生年金と健康保険という被用者社会保険の適用の在り方が論点の中心であり、そこで問題になっているのは第一には短時間労働者ですが、兼業・副業や雇用類似の働き方も論点に含まれているとなると、労働政策の観点からも関心を向けざるを得ません。このため、懇談会の構成員には、海老原嗣生、平田未緒、山田久といった雇用問題の専門家も加わっています。
 ただ、現在まで5回開催されていますが、関係団体からのヒアリングが続けられている段階で、何か方向性が示されているわけではありません。そこで今回は、この懇談会開催に至る被用者社会保険の適用拡大問題の経緯をざっと概観しておきたいと思います。
 
 まず、すでに2012年改正と2016年改正で一部拡大が図られている短時間労働者についてです。実は、もともと・・・・

 

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梅崎修・田澤実・佐藤一磨編著『学生と企業のマッチング』

9784588686092_0 梅崎修・田澤実・佐藤一磨編著『学生と企業のマッチング』(法政大学出版局)をお送りいただきました。ありがとうございます。

http://www.h-up.com/books/isbn978-4-588-68609-2.html

労働市場や就活スケジュールが変転し、働き方や将来ビジョンも不透明化し続けたこの10年を扱う総合的実証研究。学生の地域移動や女性のキャリア展望、インターンシップなど個別のテーマの分析とともに、大学入学から就職活動をへて離職・転職にいたる学生側の意識の変化や、企業側の採用行動などをアンケートをもとに検証し、就活市場の実態を明らかにする。『大学生の内定獲得』の姉妹編。

全10章からなる本書のうち、私が大変興味深く読んだのは、この2章です。いずれも、小林徹さんの執筆になります。

第8章 早期離職者はどこに転職したのか?
 1 問題の所在
 2 先行研究
 3 データ・分析手法
 4 分析結果
 5 分析の整理と拡張
 6 結論

第9章 企業は学生にどのような能力を求めているのか?
 1 問題の所在
 2 なぜ能力要請が変化したのか
 3 先行研究
 4 集計による特徴把握
 5 データと分析手法
 6 分析結果
 7 結論

第8章では、業種と規模で、「伝統的な日本型雇用システム」「門戸開放・使い切り型」「ふるい落とし選抜型」の3類型を析出し、後2者の拡大がブラック企業と呼ばれる現象の背景にあると説明します。191頁から195頁あたりの小林さんの叙述はとても明晰で引きつけられます。

次の第9章のキーワードはポ近能、ポスト近代的能力ですが、やはり業種や規模によって求められる能力が異なる姿が明らかになっています。

 

 

 

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日本型労働組合を考えるヒント(藤林敬三『労使関係と労使協議制』)

なんだか、ネット上で時ならぬ労働組合論ブームが巻き起こっているようです。と言ってもその主たる土俵ははてなダイアリー(いわゆる増田)で、それに対する反論を地下猫さんが書いているという状況です。

https://anond.hatelabo.jp/20190504184608 (労働組合はもっと他にやることがあるだろ )

https://anond.hatelabo.jp/20190507164856 (労組の件、左翼は案の定会話不能状態)

https://tikani-nemuru-m.hatenablog.com/entry/2019/05/09/021622 (なぜ労組は政治活動をしなくてはならないのか)

この議論そのものはややつまらない政治対立図式にはめ込まれやすい構図になってしまっているのであえて加わるつもりはありませんが、日本の労働組合というものがなぜ(1950年代まで、遅くとも1970年代まではは激しく)政治活動をやっていたのかという歴史的事態の解明のためには、もう少し日本の労働社会の実相に分け入った観察と分析が必要でしょう。

1 実は、ニッチモの『HRmics』32号に、原典回帰として藤林敬三『労使関係と労使協議制』を取り上げており、この本が上で議論になっている論点について、いささか、あるいはむしろかなりの洞察を与えてくれるように思われますので、ここでその全文を載せておこうと思います。

 「原典回帰」連載11回目にして、ようやく日本の古典の登場です。実を言うと、日本の労使関係に関する古典的な著作というのはかなりあるのですが、諸外国と比べた日本の労働社会の特徴を本当の意味で浮き彫りにするようなものはそれほどないのです。その中で、今ではほぼ完全に忘れられた本ですが、日本の労使関係の本質を深く省察した名著として挙げられるのが、半世紀以上前の1963年9月に出版された藤林敬三の『労使関係と労使協議制』です。
 藤林は戦前から活躍した労働経済学者ですが、戦後は神奈川地労委、そして長らく中労委の委員を務め、最後は中労委会長として1962年に亡くなり、その遺稿をまとめたのが本書です。同書の巻末には藤林が取り扱った膨大な数の争議事件が並んでいます。それだけのあっせん、調停、仲裁を通じて、日本の労使関係の本質というものを徹底して考え抜き、その精髄を本書に注ぎ込んだといってよいでしょう。
 本書の冒頭で、藤林は「労使関係は本来二元的関係である」といいます。そしてそのことが必ずしも明確に指摘されてきていない点に問題があるというのです。二元的関係とはどういうことなのでしょうか。藤林はILO第94号(労使協力)勧告を引いて、労使関係には団体交渉によって維持される関係と労使協議によって維持される関係があると説きます。ILOでは後に135号(労働者代表)条約が制定され、EU諸国では様々な従業員代表制が立法されていることを考えると、これは国際的な観点からは自然な考え方と言えます。
 藤林はこの二つの関係を第一次関係と第二次関係と呼びます。「私のいう第一次関係というのは、いいかえれば経営対従業員関係を意味し、第二次関係というのは経営対組合関係を意味している。そしてこの第一次関係と第二次関係をさらに別の見方からすれば、第一次関係すなわち経営対従業員関係は、元来が労使の親和、友好、協力の関係である。これに対して第二次関係すなわち経営対組合関係は、もともと賃金ならびに労働諸条件、すなわち団体交渉の中心的な事項を対象としている。これらの労働諸条件の維持・改善を中心にして考えれば、労使は明らかにここで利害が対立している。したがって労使の利害対立、時には労使が相争う関係がここで考えられなければならない。このように第一次関係、第二次関係を区別してみると、この二つの関係は性格上全く相異なるものであるといわなければならない。」(p8)
 「この第一次関係と第二次関係との性格上相異なる二元的な関係が、具体的には個々の企業の労使関係の中において、ときには明確に区別され分離された上で、労使関係が安定している場合もある。あるいは、この二つの関係が明確に区別され分離されることなく、からみ合って不分離の状態で存在している場合には、その労使関係は、ときに非常な曖昧模糊たる状態であり、また非常に矛盾した複雑微妙な関係を示すような状態である」(p9)というのが、藤林の洞察です。
 半世紀以上前の日本はまだまだ集団的労使紛争が多く起こっていた時代です。それに対して今日の日本は、いわゆる駆け込み訴えのようなものを除けば、純粋な意味での集団的労使紛争はほとんど跡を絶ってしまったような状態です。しかし、その両者を統一的に説明する原理として、この藤林の二元的関係論ほど有用なものはないように思われます。彼が曖昧模糊とか複雑微妙と評した当時の労使関係の姿を見てみましょう。
 当時も現在も、日本の労働組合の圧倒的大部分は企業内組合です。「わが国の場合は、その多くがいわば特定の会社ないし事業所の従業員だけで労働組合を形成している。したがってこのような労働組合は、名は労働組合であるが、明らかに形態上は従業員組合であり、あるいは1920年代にアメリカで多く存在したカンパニー・ユニオンと同じような会社組合であるというふうにみられるふしがある。・・・こういう形態上の相違は、これを労使関係上の問題としてみると、そこにいちじるしい特徴のある問題点が明らかにされることになる。」(p19)
 ここからが藤林理論の神髄です。「わが国の労働者が特定会社の従業員として形成している労働組合と経営との関係は、それが組合である以上は、私のいう経営対組合関係、すなわち労使関係の第二次関係であるようにもみえる。しかし、その組合が従業員の組織であるという点から見ると、それは経営対従業員関係を示すようにもみえる。すなわち第一次関係がそこに存在するようにもみえる。明らかに日本に普通みられる企業ないし事業所ごとに成立している労働組合と経営との関係は、このような第一次関係と第二次関係の両面を同時に含んでいるように思われる。また事実そう考えてよろしいと思う。したがって、このような労使関係は、私のいう労使関係の第一次関係と第二次関係とが混在し、いわば癒着し、不分離状態にある。」(p19-20)
 欧米社会では、横断的な産業別組合、職能別組合が団体交渉、すなわち労使の利害対立を前提とする第二次関係を担当し、労使協議制が労使の協力を前提とする第一次関係を担当するという形で両者が明確に分離されていますが、日本ではこの第一次関係と第二次関係が混在、癒着、不分離という状態にあることを指摘し、この点に日本の労使関係の(欧米社会との)最大の違いを見いだした点に藤林の洞察があります。「日本の労使関係、ことに経営と企業内組合との関係には、争う関係か争うべからざる関係か、そのいずれともつかないような事態の存在することは、極めて明瞭」なのです
 勘違いしてはならないのは、これは日本の企業内組合をアメリカのカンパニー・ユニオンと同一視するある種の左翼的議論とは全く違うということです。「しかしそれは必ずしも経営者が意図して御用組合的に暗に組合をつくらせた結果であるのではない。従業員自ら自主的につくった労働組合が、かくのごとき存在のしかたと、このような労使関係を維持しているのである。この点をわれわれは、かなり重要視して考えていかなければならないであろう。」(p37)
 藤林理論の真骨頂は、当時まで日本の労働運動を彩っていた激しい労働争議とそれにつきものの第二組合の発生を、この第一次関係と第二次関係の混在、癒着、不分離からみごとに説明していく点にあります。その手際を鑑賞していきましょう。
 さて、当時も今も、こうした企業内労組は産業別連合体の傘下組合であり、その上部団体として(当時でいえば総評等の、現在なら連合といった)ナショナルセンターがあります。こうした上部団体は「個々の企業にとってはまさに企業の外に厳然として存在する、いわば他人的存在としての労働組合」です。こうした「上部団体の意義はどこに存在するかといえば、そのまま放置すれば労使関係の第一次関係に傾こうとする経営対企業内労組関係を、その企業内労組を外部から指導支援することによって、経営対組合関係としての第二次関係の方向に事態を押しやろうとするところに、外部の上部団体としての労働組合の存在意義がある」(p41)のですが、「もちろんこのような上部団体としての産業別連合体組織の存在は、・・・この会社・工場の経営者を喜ばせはしない」し、むしろ「この上部団体の幹部が団体交渉の当事者として現れてくることを拒否している」(p42)のです。
 ここで、個々の企業内組合があえてストライキを行おうというような場合、上部団体の強い指導支援が行われますが、そこで企業内組合の自主性がどうなるかが問題です。
 欧米であれば、「個々の会社・工場の従業員は、特定の産業別労働組合の組合員であるかぎり、その従業員の組織は全国的な産業別労働組合の支部、あるいは単なる分会として存在するに過ぎない。すなわち全国的な大労働組合の組織の一部を形成しているにすぎない。組合運動ないしその活動の表れである団体交渉などは、原則として単一組織としての産業別労働組合がこれを行い、ストライキなどの場合にはこの組合の指示に従って支部ないし分会が行動を起こすだけのこと」(p44)です。しかし日本ではそうではありません。第一次関係にウェートが置かれた企業内労使関係が、上部団体の指導を通じて、第二次関係の方向に引っ張られるという事態になるのです。「したがってこの場合の労使関係は、第一次関係と第二次関係の緊張関係であるように思われる。」(p46)そうすると何が起こるのか?
 「いうまでもなく緊張の度は、上部団体が傘下組合をより強力に指導支援することによって、ますます強く盛り上がる。また反対に、経営者の方が上部団体の指導から企業内労組を引き離そうと陰に陽に努力を払う場合、この緊張が高まることも事実である。」「こういう緊迫の度合が非常に強くなった場合に何が生ずるか。企業内労組の分裂ということが起こる。これが第二組合の発生であることは、読者もよく知っておられると思う。」(p47)この「読者」とは、もちろん、1950年代の労働争議はなやかなりしころの読者です。
 当時の数多くの激烈な労働争議が、その多くにおいて第二組合の発生という形で収束していったことは、労働運動史を紐解けばほぼすべてのページに描かれています。しかし、それらの叙述の圧倒的大部分は、第二組合を立ち上げた反革命的右派への激しい呪詛に満ちた左派の歴史家によるものか、あるいは労働運動の原則を忘れた革命的左派を批判する右派の歴史家によるものであり、そこで彼らの価値判断の基軸とされている左右の対立軸は、その企業のその職場で現に起こっていた事態を性格に描き出すどころか、それとはかけ離れたイデオロギー闘争の素材として利用するものでしかないように思います。そう、そのとき現場で起こっていたのは、藤林にいわせるとこういうことだったのです。
 「この第二組合の発生を企業内労組自体の問題として考えてみると、その企業内労組は上部団体の指示指導を受けて、労使関係の第二次関係のほうにかなり強く働いていたことの反動であると考えられる。しかしその場合、いかなる根拠、いかなる歴史的な背景で企業内労組が誕生したのか、その企業内労組が産業別上部団体の傘下組合であったとしても、ある程度の独立性・自主性をもっているはずだからであるから、その独立性・自主性の側からの判断からすると、対経営関係はむしろ第一次関係の傾向を持っていたはずである。ところが、上部団体の指導にしたがってストライキ行動にはいった場合には、第二次関係のほうに強く傾くことになる。そして、労使関係の緊迫の度が非常に強くなるにしたがって、企業内労組の一部がこの緊迫状態の中から逃れ出て、第一次関係のほうにいわば里心を持つようになって、組合が分裂し、第二組合の発生をみるのである。」(p48)
 そう、第二組合とは「従業員」としての「里心」が生み出したものだったんですね。それゆえ、藤林は「企業内組合という組織が成立しているという事情と第二組合の発生とは、もともと不可分のものであって、企業内労組の存するところつねに第二組合発生の可能性あり、といわなければならない」といい、「左翼の組合運動家たちは、第二組合を雇主の意に従った御用組合であるといい、その第二組合をつくり出した人々を分裂主義者といい、これを非難することにはなはだしく急である」けれども、「事態はむしろ、本質的には企業内労組の成立事情にもとづくもの」(p48)だと冷静に指摘するのです。
 ここから藤林は、当時の日本の労働運動がやたらに左翼イデオロギーを振りかざす傾向のよってきたるゆえんを、これまた犀利に分析していきます。しばしその切れ味を味わってください。
 「一般的にいって、わが国の労働組合運動はきわめて政治的である。政治闘争は、わが国の労働組合運動にかなり重要な結びつきを持っている。と同時に、わが国の組合運動を推進する労働組合のすべてではないが、とかく左翼社会主義理論に指導されていることが多い。組合内において論争、たとえば組合大会などで展開されている左翼社会主義理論の論争がそれである。」「これのよしあしを論ずることは、本章における目的ではない。しかし、客観的な事態としてこれをながめてみると、このような左翼イデオロギーあるいは政治闘争的傾向が、日本の労働組合にとってどのような意義をもっているかについて、いちおう吟味しておく必要があると思う。そして率直にいって、私の理解するところでは、わが国の組合運動にこのような事態がたえず強くまつわりついているゆえんのものは、組合運動の末端が企業内労組であるからであると考えられる。」(p49)
 「すでに繰り返し述べたように、経営対企業内労組の関係は、むしろ労使関係の第一次関係に帰着するように思われる。この場合、第二次関係はごく影が薄くならざるをえないような事態にある。」「このような関係にたつ企業内労組を、第一次関係から引き離し、第二次関係の方向に引き上げていくためには、それだけに、かなり強烈な左翼理論を必要とするとも考えられる。わが国の組合運動に、必要以上に左翼理論、イデオロギーが横行しているゆえんのものは、まさにこの点に関連しているのではないかと私には思われる。」「政治闘争の場合もやはり同様である。卑近な例では、革新政党の支持をめぐる問題がある。民社党を支持するか、社会党を支持するか、共産党を支持するかという論議が、組合員間にかなり熱心に行われる。これは直接間接に組合員をして、労使関係における第一次関係の中に眠ってしまわないようにさせるという点において十分な意義があるものと考えてよい。」(p50)
 一言で言うと、「わが国の労働組合が、もともと企業内労組であることが、イデオロギー論争を非常に強く巻き起こしている」(p51)というわけです。逆に、日本社会には他にほとんど存在しない個人加盟による純粋の産業別単一組合である海員組合は、労働運動界における最右派であり、そして1972年の職種別労働協約改定交渉では92日間の長期ストライキを成功させています。ひるがえって、左翼ぶりっこの企業内組合の労働争議ではどういう事態が展開されるのでしょうか。
 今ではほとんど記憶されていないでしょうが、かつては「わが国の労働争議が年々労働組合の季節闘争として、そしてこの季節闘争は共同闘争、統一闘争、さらにまたしばしばいわれるようにスケジュール闘争の形において」(p106)行われていました。藤林は「なにゆえにこのような争議が発生するか」と問い、「これは一種の雰囲気闘争である」「ムード闘争である」と答えます。ではなぜ、そのような雰囲気闘争、ムード闘争が必要になるのか?再び藤林節が炸裂します。
 従業員組合「には本来、基本的に労使の対立が芽生えがたい。むしろ労使の協力一致の傾向が、その中に含まれていると考えざるを得ない。それゆえにこのような企業内労組対経営関係のままで、個々の企業の中に労使関係をとじこめておき、そのまま放置しておくということは、労働者側の要求の貫徹がそこでは容易でない、ということを意味する以外のなにものでもない。労働組合運動は、そのままでは盛り上がるはずがない。・・・雰囲気闘争は、まさにこのような企業内労組対経営関係、いわば個々の企業ないし事業所内の労使関係の中にとじこもろうとする労働組合と組合員を、この企業のワクの中から引き出し、引き上げ、広く一般の労働争議・労働運動の方向に持っていくためのものであると考えられる。ここに一段と強力な指導・啓発が必要であるが、その指導・啓発をより有利にするためには、まさに雰囲気闘争こそが重要な意味をこの際もつことになる。」(p108)また、前述したように「企業内労組の存するところつねに第二組合発生の可能性」がある以上、「雰囲気闘争、ムード闘争が、まさに第二組合的なものの考え方とその発生の可能性を抑圧しようとする機能をも」(p109)つことになるのも当然です。
 さらに、これは労働委員会で膨大な数の争議を取り扱ってきた藤林ならではの台詞でしょうが、「労働委員会がその一つの機能である争議調停の面において、年々わが国の労働争議のかなり多くのものをとりあげるということは、わが国の労使関係における労使双方の問題を自主的に解決する気構え、態度が比較的少ないことを意味している」と述べた上で、「しからば、なにゆえ日本の労使は、自らの問題として争議の解決のために自主的な努力を推し進めようとしないのか」(p112)と問います。もちろん、その答えも企業内労組にあります。
 「企業内労組を労働組合運動の中にくり入れていくためには、上部団体はかなり強い雰囲気闘争の中で、したがって強い要求、強い態度の中で問題をくり広げなければならない。日本人のよく口にする言葉でいえば、『死ぬまで戦う』などということがしばしば聞かれるところである。人々がこのような強硬な態度をゼスチュアとしても示す場合には、その反面をいえば、いささかの妥協の余地なしということを示している。いささかの妥協の余地なしという態度を示しながら、しかししょせん、なんといっても労働争議は、適当なところで適当な線で妥協をみざるをえないし、妥結に導かざるをえない。そしてそれはしょせん、私の考えでは妥協以外にはない。日本の労働組合の雰囲気闘争のゼスチュアは、妥協のない強い態度のようにみえる。しかし問題を終結するためには妥協以外にはない。自らは妥協できない。だれかがこれを妥協せしめる以外にはない。労働委員会がこの役割を演じていることはきわめて明瞭である。したがって日本の雰囲気闘争にとって、・・・その主張が強硬であればあるだけ、妥協を可能ならしめる機関としての労働委員会の存在は必要欠くべからざるものである」(p113)。
 さらに藤林は、目の前でくり広げられる企業内労組と経営側のやりとりの中から、企業内組合の労働争議にまつわるある種の匂いを敏感にかぎ取ります。「これは非常に妙な言い方であるが、われわれ日本人の人間的な関係からいうと、縁の近い者がもし互いに争うような場合には、他人同士が争う以上に激しい争いを起こす。これはよく日常生活の中にみられるところである。嫁と姑、あるいは親子兄弟等の関係において、もしひとたび争いが生ずれば、その結果はいわば血で血を洗うような争いが発生する。もしこれが他人同士の関係のなかならば、その争いはときに非常に激越なものがありえても、そう長続きし、本当に心から怨恨の情を示さなければならないようなことにはたちいらないだろうと思われる。この意味においては、ここに指摘するような過去の各種の争議は、ともにいかにも日本人的な労働争議であると考えられる。」(p115)
 さてしかし、ここまで読んでくると、なるほど当時の左右のイデオロギーばかりが表面を覆い尽くしていた労使関係の議論の中で、その隠された本質をみごとに摘出していることは分かったけれども、それはもう半世紀以上も昔の話であって、今日の日本の労働社会にとってはあまりレリバントな本じゃないね、という感想を持たれる方もいるかも知れません。なにしろ、そのいうところの雰囲気闘争、ムード闘争に充ち満ちていた頃とはうって変わって、現在の日本は争議行為を伴う争議件数が1年間で68件という世界的に見ても超争議レスな労働社会になってしまっているからです。ところがさにあらず。藤林が労働委員会で連日争議のあっせん・調停に汗をかいていた頃と、争議がほぼ完全に姿を消した今日とは、同じ企業内組合と経営の関係が違う現れ方をしているという意味で、実はコインの表と裏の関係にあるのです。
 残念ながら本書出版の前年に死去した藤林にはそれを目前の現実として語ることはできませんでした。しかし、本書の最終章にはなにやら予言者のごとき次のような一節が書き残されています。これは労働協議制の重要性を縷々説いた数章のあとに置かれた文章であるだけに、そのにじみ出るような苦渋が伝わってきます。
 「わが国の経営協議会をみると、その多くの場合に、そこは一面団体交渉の場であると同時に、他面労使協議の場でもあって、団体交渉と労使協議が必ずしも明確に区別されようとはしていない。しかし企業内労組と経営の関係としては、このような混合形態である経営協議会が多く存在することが、むしろ必然的であるともいえよう。」
 「すでにこのような一、二の点からみても、わが国の労使関係においては、経営者=従業員関係がいかに強く現れているかが明白であるのに、さらにそのうえに、経営者は経営参加を認めようとせず、産業平和と労使協力とを企図している。率直かつ端的にいってしまえば、今日の企業内組合をさらに会社組合にまで引き下ろそうというのが、明確にこれを意識すると否とを問わず、わが国の経営者の意図であるようにみえる。」
 「企業内組合が解消し、産業別単一組織が成立することが可能ならばもちろんこれを好ましいとしていいのであるが、すでに一言したように、このことは今のところ一般に望んでも容易には達せられない。そこで企業内労組とその上部団体である産業別連合体組織との関連において、経営者にははたして産業別連合体組織を中心に団体交渉を行い、また産業別労使協議制の確立を考慮するだけの積極的熱意があるだろうか。おそらくなんぴともこれを肯定するのには躊躇せざるをえないであろう。これが本当の真実であり、それがなにを意味するかは、すでに明白である。およそこのような労使関係へのクレッグ的な見解と論理を十分に味わうことも知らないままで、労使協議制をいちだんと大きく植えつけようとすることは、企業内労組をさらにhome unionismにいっそう転落せしめ、組合を去勢してしまうことにほかならないのではないだろうか。したがって、労使協議制の確立が労使関係の近代化あるいは民主主義化の方向を拒否するのではなく、むしろこれを前提とするか、あるいは少なくともこれと並行して推し進められるべきものであるとするならば、われわれの場合に今日まず考慮すべきことは、労使協議制の確立ではなく、労使関係の近代化であり、民主主義化である。言葉をかえていえば、企業内労組の存在を企業の内深く押しこめるのではなく、反対にそれを企業の外に向けしめることである。」(p210~211)
 藤林が死去してからの半世紀以上の期間に日本の労働社会で進行したのは、まさにこの懸念のどんぴしゃりともいうべき実現でした。政治闘争にばかりかまけて労働組合の本来の課題である労働条件の維持改善をないがしろにするのはけしからん、というこれ自体はまっとうな批判に基づいて労働組合主義が主張されると、そのことが労使関係における第二次関係を妙な妥協に追い込んでしまう懸念、ほっとくと第一次関係に埋没してしまう企業内労組を第二次関係の線に沿って引き上げようとする努力が弱まってしまうという懸念、労働組合主義が、その本来の目的である経営対組合関係をかえって弱め、経営対従業員関係を強化してしまうかも知れないというこの懸念は、本書出版の時点ではなおそれほど現実のものではなかったのでしょうが、その後半世紀以上経った現在の観点からすると、その予言の見通しは恐ろしいものがあります。
 藤林が皮肉たっぷりに描き出した「家族争議」がほぼ姿を消してしまった半世紀後の労使関係は、もはや一方的に従業員としての第一次関係に引っ張られるだけで、本来利害対立があるはずの第二次関係が限りなく希薄化してしまいました。今日保守政権主導でようやく十年ぶりに賃上げ闘争が行われるなどという事態を、安直な政治的説明でなくきちんと社会構造に踏み込んで説明できる理論は、半世紀以上前の藤林理論以外には見当たりません。

 

 

 

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斎藤幸平『大洪水の前に』、ナオミ・クライン『楽園をめぐる闘い』

昨日紹介した西口想さんの『なぜオフィスでラブなのか』と一緒に、同じ堀之内出版から刊行された斎藤幸平『大洪水の前に』とナオミ・クライン『楽園をめぐる闘い』もお送りいただいていました。

https://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784909237408

9784909237408 2018年度ドイッチャー記念賞(Deutscher Memorial Prize)を日本人初、最年少受賞。期待の俊英による受賞作邦訳増補改訂版。資本主義批判と環境批判の融合から生まれる持続可能なポスト・キャピタリズムへの思考、21世紀に不可欠な理論的参照軸として復権するマルクス研究。
マルクスのエコロジー論が末節ではなく、経済学批判において体系的・包括的に論じられる重要なテーマであると明かし、またマルクス研究としてだけでなく、資本主義批判、環境問題のアクチュアルな理論として世界で大きな評価を獲得。
グローバルな活躍をみせる著者による日本初の単著、待望の刊行。

実を言うと、マルクスとエコロジーというテーマには現時点で余り食指が動かないのですが、このテーマに関心のある方々には貴重な業績なのだろうと思います。

https://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784909237392

9784909237392 「これはプエルトリコで今まさに繰り広げられている典型的な「ショック・ドクトリン」をめぐる時宜を得た迫真の報道である。ナオミ・クラインは、プエルトリコの金融のメルトダウン、ハリケーンによる荒廃、そしてワシントンによってアメリカ合衆国の最も重要な植民地に押しつけられた、部外者で構成される管理委員会が引き起こした新自由主義的な民営化とウォール街の欲望に対する、プエルトリコの人びとの目覚しい草の根の抵抗を記録する」。

ナオミ・クラインといえば『ショック・ドクトリン』ですが、この小著はプエルト・リコを舞台にその姿を描き出しています。新書版で本文100ページ強なので、あっという間に読めます。

 

 

 

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西口想『なぜオフィスでラブなのか』

9784906708994 西口想『なぜオフィスでラブなのか』(堀之内出版)をお送りいただきました。ありがとうございます。

https://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784906708994

「なぜオフィスでラブなのか」。
「職場で出会った人とつきあっています/結婚しました」という話は一般的で、珍しいことではありません。
でも、冷静に考えてみると、仕事を目的とする場で、なぜそんなに恋愛が発生するのでしょうか。
小説を題材に日本の「オフィスラブ」について、労働にも造詣が深い新進気鋭の著者が論じます。

この本をお送りいただいたのは、本書の第2章の田辺聖子『甘い関係』を取り上げた「祖父母たちのオフィスラブ伝説」のところで、拙著『働く女子の運命』がちらりと引用されたりしているからでしょう。そう、この拙著で引っ張り出した60年代の女子たちというのは、西口さんたちからするとまさに「祖父母たち」の世代になるんですね。

実は、この本の元になったマネたまの連載のときに、本ブログで取り上げたことがありました。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2017/02/by-a993.html (祖父母たちのオフィスラブ伝説 by 西口想)

まえがきによると、

・・・本書の元になったウェブ連載のために、私は約1年半にわたって各時代の小説を漁りながらオフィスラブについて考え、調べ、経験談を蒐集して回った。連載を続けるうち、自然と周囲からオフィスラブの報告や相談が寄せられるようになり、気づけば「オフィスラブの専門家」になりかけている。

とのことですが、一方で西口さんは現在労働団体の職員でもあり、戦後日本の労働社会を背景にした日本的オフィスラブの諸相を見事に描き出しているなと思います。

112483 ここからは西口さんの本から若干離れて、オフィスラブの帰結の一つとしての社内結婚について、かつて『日本の雇用と労働法』(日経文庫)のコラムに書いた小文を。これ、西口さんの本と響き合っているんですよ。

社内結婚の盛衰
 OL型女性労働モデルには、女性正社員を男性正社員の花嫁候補者的存在とみなすという側面もあります。つまり、会社は長期的メンバーシップを保障する男性正社員に、「後顧の憂いなく」働いてもらえるように、安心して家庭を任せられる女性を結びつけるという機能も果たしていたわけです。女性正社員の採用基準に、「自宅通勤できること」といった職務とも人格とも直接関係なさそうな項目が含まれていたのも、花嫁候補という観点からすれば合理的であったのでしょう。
 社内結婚した女性は、結婚退職までは短期的メンバーシップで、その後は夫の長期的メンバーシップによって、会社とつながりを持ち続けます。これも一種の終身雇用かも知れません。逆に、社内結婚したのに妻が同じ会社で働き続けるなどということは、許されない雰囲気も強かったようです。
 日本人の結婚形態は、かつては親や親族などの介在する見合い結婚が中心で、その後本人同士の恋愛結婚が主流になったとされています。それに間違いはありませんが、ある時期までその中心は社内結婚でした。自分と釣り合いのとれた相手が多く存在し、しかも企業の採用基準によって選抜されているため、配偶者選択の効率性が極めて高かったのです。男性にとっては長時間労働に追われて相手に十分な時間が割けないことが結婚への阻害要因にはなりませんし、女性にとっては同じ社内にいることで相手の出世の見込みも大体分かります。
 やがて、男女平等と女性の非正規化が進む中で、こうしたOL型社内結婚モデルが次第に衰退していきました。しかし、それは他の形態による結婚が増えるのではなく、結婚しない男女が増えるということだったようです。この事態に、「就活」ならぬ「婚活」を唱道する向きもありますが、社内結婚のように低コストで高水準の配偶者を得られる場は、とりわけ会社以外のメンバーシップが極めて希薄な日本では数少ないため、なかなか難しいようです。

 

 

 

 

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«ある日突然訪れる「雇い止め」の仰天理由 by 荻野進介@プレジデント・オンライン