大室正志『産業医が見る過労自殺企業の内側』

0885iこれは本屋で見かけてすぐ買った本です。著者の大室さんは産業医科大学を卒業後、産業医として活躍してきた方で、現在30社の産業医を担当しているミスター産業医です。その人が、時代にどんぴしゃの本を出すというのは出版戦略として見事という感じです。

http://shinsho.shueisha.co.jp/kikan/0885-i/

時流に乗った本という印象ですが、第1章「産業医とは何をするのか?」で産業医についてきちんと説明し、会社と社員に挟まれた時にどう判断すべきなのかを正面から述べているなど、とてもしっかりした本でもあります。考えてみれば、産業医そのものを取り上げた新書本って今までなかったような。

「おわりに」で、残業上限規制批判論についてこう述べています。こういう冷静な議論が必要ですね。

・・・また残業上限規制を批判する人の中には、「好きでやっていること」を規制するのはナンセンスという意見も根強く存在します。この意見は一部賛同できる部分はありますが、制度というものは何を選択するにせよ必ずマイナス面を伴うものです。残業の上限規制にもマイナス面はあるが、しなかった場合のマイナス面と比較し、「どっちがマシか?」で判断する問題と考えるべきでしょう。これまで数多くの過労死・過労自殺を生んでしまった制度を改めることに対して、「好きでやっている人への抑圧になる」という意味で批判する意見には、社会全体の「どっちがマシか?」で考えた場合やはり賛同できません。・・・

・・・長時間残業もタバコと同様、エビデンスがはっきりしている「身体に悪い行為」です。タバコと同じく我々には一定程度、「身体に悪くとも行う自由」は保障されるべきだとは思います。一方でそれを公的に推奨したり、強制することを是とする雰囲気はあってはならないものであると考えます。

企業家が自分の意思で行う長時間労働はタバコと同じく、ある意味「嗜好品」ですが、公的に認められてしまった長時間労働は、非喫煙者に対して喫煙車両に乗ることを強制するようなものです。この辺りは「タバコのマナー」と同じく、今後、長時間労働に関しての「社会的相場感覚」が変化することを期待したいと思います。・・・

なお、大室さんが登場するこの記事も参照。

https://mirai.doda.jp/series/interview/masashi-omuro-2/(「好きで長時間働くのがなぜ悪い!」という人に産業医から伝えたいこと)

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勤務間インターバル導入企業2.2%@『労務事情』7月1日号

Jijo『労務事情』7月1日号に「気になる数字第4回」として「勤務間インターバル導入企業2.2%」を寄稿しました。

 去る3月28日に決定された「働き方改革実行計画」では、話題をさらった時間外労働の上限規制の導入に併せて、勤務間インターバル制度についても労働時間設定改善特別措置法に努力義務を規定することが決められました。そして「制度の普及促進に向けて、政府は労使関係者を含む有識者検討会を立ち上げる」ことも示されました。これはそれに先だって労使合意に盛り込まれたもので、2月の事務局案には影も形もなかったものですから、連合が頑張った結果だと言えましょう。 ・・・

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大湾秀雄『日本の人事を科学する』

321503大湾秀雄『日本の人事を科学する―因果推論に基づくデータ活用―』(日本経済新聞出版社)をお送りいただきました。ありがとうございます。

http://www.nikkeibook.com/book_detail/32150/

◆働き方改革の実行や、女性管理職の育成、労働生産性アップ、ストレスチェックなど、人事部門は、様々な課題について現状を正確に把握し、数値目標を立てて改善に取り組まねばならなくなった。本書は、多くの日本企業が抱えるこれらの人事上の課題を、データを使ってどのようなに分析し、活用すればよいのかを解説。

◆著者が、株式会社ワークスアプリケーションズや経済産業研究所(RIETI)と連携して行ってきた研究成果を活かし、具体的に、読者が自分の会社で使えるように解説する。

◆女性の管理職育成が候補者を選ぶところから行き詰まってしまうのはなぜか、早期退職者を減らすにはどうしたらよいか、労働時間管理をどのように行えば良いのかなど、具体的にいま日本企業が抱えている問題を取り扱う。

この本のタイトルでいうところの「科学する」とは、副題から明らかなように、統計学的なデータに基づく推論です。

読んでいくと、かなり懇切丁寧にデータ分析のやり方を解説していまして、最近話題の伊藤公一朗『データ分析の力 因果関係に迫る思考法』(光文社新書)の人事バージョンという趣もあります。

第1章 なぜ人事データの活用が必要か――人事部が抱える問題

第2章 統計的センスを身につける

第3章 女性活躍推進施策の効果をどう測ったら良いか

第4章 働き方改革がなぜ必要か、どのように効果を測ったら良いか

第5章 採用施策は、うまくいっているか

第6章 優秀な社員の定着率を上げるためには何が必要か

第7章 中間管理職の貢献度をどう計測したら良いか

第8章 高齢化に対応した長期的施策を今から考えよう

第9章 人事におけるデータ活用はどう発展するか

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残業禁止時代@東洋経済

06220954_594b154f0f9a6東洋経済に戻って健筆を振るっている風間直樹さんより、『週刊東洋経済』7月1日号をお送りいただきました。特集のタイトルはなんと「残業禁止時代」だそうです。

https://store.toyokeizai.net/magazine/toyo/20170626

いやなんぼなんでもこれは狙いすぎでしょ、という感じですが、

【第1特集】残業禁止時代 働き方改革のオモテと裏

日本の企業に当たり前だった長時間労働が大きく見直されようとしている。「働き方改革」でも、ニ本柱は「残業上限の法的規制」と「正規非正規の同一労働・同一賃金」。これで会社はよくなるのか、官邸主導の政策に課題はないのか。

■労基署が狙う企業
 大手企業でも是正勧告が続出 ブラック職場は改善できるか
 労基署はあなたの会社のココを見る 監察官覆面座談会
 若手官僚のぼやき「霞が関こそブラックだ」
■もう残業はいらない
 長時間労働しなくても成果は出せる!試行錯誤する企業たち
 なぜ残業はなくならないのか
 就活生・親必見!残業少なく有休多い「ホワイト企業」ランキング
■「働き方改革」の虚実
 法改正のエアポケット ブラック3業種 ドライバー、医者、建設労働者
 「同一労働・同一賃金」は実現できるか 派遣業界は淘汰の嵐
 安倍政権の本音はどこに 働き方改革の狙いは?

実は一番面白いのは、「若手官僚覆面座談会 霞ヶ関はよほどブラックだ!」だったりします。

あと、その前の「労基署はあなたの会社のココを見る 監察官覆面座談会」は、人事部必見です。

真面目な話として、「法改正のエアポケット ブラック3業種 ドライバー、医者、建設労働者」は重要なトピックで、とりわけそもそも今現在特例業種でも何でもないのに、最後の瞬間にするりと入ってきた医者の世界はなかなかディープなようです。

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子育て支援連帯基金@権丈善一

本ブログでは狭義の政局話はしないことにしていますが、小泉進次郎氏が次の厚生労働大臣になるとかならないとかいう話が漏れ聞こえてくる昨今、その論ずるところの「子ども保険」が世の注目を集めている中、社会保障論の導きの星こと我らが権丈善一氏が、東京新聞紙上で「子育て支援連帯基金」を展開しています。

http://www.tokyo-np.co.jp/article/culture/hiroba/CK2017062402000238.html(子育て支援の財源、誰が負担? 上坂修子論説委員が聞く)

Pk2017062402100118_size0少子高齢化への対応策として、小泉進次郎氏ら自民党の若手が提案した「こども保険」構想が注目を集めています。これをサポートする形で、権丈善一慶応大商学部教授は同党特命委員会で公的年金、医療保険、介護保険の三つの制度から拠出する「子育て支援連帯基金」創設の話をしました。子育て支援策の財源確保はどうあるべきか考えました。・・・

権丈 このご時世に財源調達の話を盛り上がらせたのは大したものですね。こども保険という賛否両論で白熱するネーミングが良かったんだと思います。みんなで大いに明るくアイデアを出し合えばいいと思う。

 彼ら若い人たちが年金保険料に上乗せして子ども保険をと提案していたので、この国最大の国難に立ち向かう大役を、年金ばかりに任せないで、医療や介護も加えてほしいんだけどと、自民党特命委で話をしてきました。年金にだけ良い格好させるわけにもいかないでしょう。それに高齢者からは自分たちも参加して、この国の未来のために貢献したいという声もある。

 上坂 小泉氏も「非常に意義のある提言」と言っていました。権丈さんの新構想は「少子化対策を進める→将来の給付水準が高まる」とした点が説得力があります。

 権丈 僕は説得力を高めるためにそう言ったのではなくて(笑)、単なる制度上の事実を言っただけ。構想自体は簡単な話で、公的年金保険、公的医療、公的介護という、主に人の生涯の高齢期の支出を社会保険の手段で賄っている制度から、自らの制度における持続可能性、将来の給付水準を高めるために子育て支援基金に拠出し、この基金がこども子育て制度を支えるという話です。

 よく、子育て支援は、本来、税でやるべきだという声もあるけど、「本来」とか「そもそも」に続く話で、世の中、役に立った話は聞いたことがない。・・・

いつもの権丈節もちらりと垣間見えていますが。

権丈 同友会とか経団連というのが、個々の企業の要望である短期的な利潤極大化を求める市場の声に拡声器をつけるだけの団体だったら、民主主義の力で市場の力を抑えていくしかないと思います。でも、経済界の大きな団体はそういう存在ではなく、大所高所、長期的な観点から合成の誤謬を調整・解決する役割を果たしてくれるのが存在意義でしょう。

 同友会が昨秋に出した「未来への希望を拓(ひら)く税制改革」などは、そうした観点からの提言だと高く評価しています。

 それに公的年金保険、医療保険、介護保険の存在理由を今さら論じる必要はないとも思います。これらの制度はこの国の人たち、労働者が尊厳をもって生涯を全うするために重要です。そしてこうした制度の将来の給付額、より充実したサービスは積極的な子育て支援によって高まる。だから日本人全員で連帯して支えようという話です。・・・

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日本人に「公正」概念がないだって?

うーーん、話がどんどんあらぬ方向に流れているようです。

http://ryojikaneko.blog78.fc2.com/blog-entry-472.html (公正な賃金はない)

私はこの日本で「公正」という概念を探求することに意味があるとは考えません。それは公正という概念が法学や思想の言葉であったり、あくまでヨーロッパ由来の概念で、それが多くの日本人の思考様式に定着しているとも思えないからです。もう少し範囲を限定した「公正な賃金」についても、それを原理的に探求することが重要だとはまったく思いません。ただし、これはあくまで日本では、という限定つきの話です。

3分の1くらいはものの言い方の問題、表現の問題と受け取ってあげてもいいのですが、いやでもこういう言い方をしてしまうとそれは明らかに間違いでしょう。

そもそも、ヨーロッパだって「公正」ははじめから法学や思想の言葉ではなく、現場の市井の人々の、あいつがあれほどなのに俺がこれだけなのはなんなんだ、という現場感覚(それを「モラルエコノミー」と呼ぼうが呼ぶまいが)に根ざした言葉なのであってみれば、それと同じ次元の不公正を怒る根拠となるある種の公正感覚がないなどというわけはありません。

そういう不公正を怒り、自分の考える公正さを実現すべきと感じる感覚自体は、別段ヨーロッパ由来でも何由来でもなく、およそ様々な人間が共存する社会ではどこでも存在するものでしょう。つーか、日本人に「公正」感覚がなかったら、言い換えればそれが実現していない不公正状態を怒る感覚がないのであれば、世の中こんなにトラブルだらけになってないはずでしょう。

何でこういう一見意味不明の言説が飛び出してきてしまうかというと、これは日本の知識人によくあるバイアスで、欧米型の「公正」だけが「公正」だという前提で語ってしまうから。

これは社会のいろんな分野で言えると思いますが、話の本題の労働問題、賃金問題に絞って言えば、西欧における公正な労働、公正な賃金というとき、それはまさに中世のギルド以来の伝統に基づくジョブ型社会の「公正」であるのに対し、日本ではそもそもその前提が存在しないために、不公正に怒るその根拠である公正さがジョブとは違うところにあるというだけのことでしょう。

連合の須田さんの言葉も、この切り取り方は大変ミスリーディングだと思うのは、

https://www.rengo-ilec.or.jp/seminar/saitama/2011/youroku05.html

確かに冒頭、学生たちをびっくりさせて傾聴させるためにわざと、

本日いただいたテーマは「公正な賃金処遇に向けて」ですが、実は個人的には、公正な賃金処遇はないと思っています。このように考える理由も含めて、納得できる賃金と処遇決定と労働組合が果たしている役割についてお話しさせていただきます。

と言ってますが、いやもちろん須田さん、埼玉大学の学生相手に、「公正な賃金なんてない。以上終わり」で済ませるなどという莫迦なことはしてないわけで、そのあと1コマまるまる使って、納得できる公正な賃金と処遇決定とは、企業内における公正な賃金の原則、と縷々語っていきます。当たり前ですが。

というようなことは、それこそ金子さんは重々承知の上のはずなのに、なぜわざとこんな明らかにミスリードだとわかるようなことを縷々書くのだろうかといささか不思議でなりません。

ヨーロッパ型のジョブ型公正賃金がなぜ受け入れられないかと言えば、それとはまったく異なる別の公正感覚が日本の現場の労働者に根強く存在しているからであって、そういう問題としてとらえなければならない話を、「公正」を予め切り縮めて、「公正な賃金はない」と言っちゃうのは、労働研究の自殺行為ではないかと感じますが。

以上が総論ですが、それに尽きます。その上で、その従来の年功や頑張りや生活やらといった公正さの基準が揺らぐ一方で、ジョブ型の公正基準に対する違和感も極めて強いという現状をどう考えるかという話が続くわけですが、今回の金子さんの話はその前の段階なので。

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EUの新たな労働法政策-多様な就業形態への対応

『労基旬報』2017年6月25日号に「EUの新たな労働法政策-多様な就業形態への対応」を寄稿しました。

 イギリスが国民投票でEU離脱を決め、大陸諸国でも反EU運動が政治の焦点になるなど、EUを取り巻く状況は厳しいものがあります。かつてのソーシャル・ヨーロッパが輝いていた時代は遠くなったようです。しかしその中にあっても、あまり目立たない形ではありますが、新たな労働法政策への萌芽が動き始めています。
 去る4月26日、欧州委員会は久しぶりに条約154条に基づく労使団体への第1次協議を開始しました。それも一度に2個もです。一つ目は書面通知指令(91/533/EEC)の改正であり、二つ目は「あらゆる就業形態の人々の社会保護へのアクセス」です。どちらも「欧州社会権基軸」(European Pillar of Social Rights)の枠組で提起されているので、まずその流れをざっと見ておきましょう。
 2016年3月8日、欧州委員会は「欧州社会権基軸」に関する一般協議を始めました。金融主導のグローバリゼーションの先兵とみられるに至った経済通貨統合に、今さらながら社会的側面を取り入れようというのがその狙いですが、それに対する諸組織の反応の中からいくつかの方向性が現れてきました。そのうち同年12月20日の欧州議会の決議では「あらゆる就業形態におけるディーセントな労働条件に関する枠組指令」を提案することを求めるとともに、書面通知指令(91/533/EEC)の改正を提起しています。そこで念頭に置かれている就業形態としては、まずインターンシップ、トレーニーシップ、アプレンティスシップといった学校から仕事への移行形態、そして近年拡大しているデジタル・プラットフォームの仲介による仕事や従属的自営業、さらにゼロ時間契約などのオンデマンド労働です。
 各方面からの意見を受けて、今年4月26日欧州委員会は一般協議のまとめとして「欧州社会権基軸の確立」(COM(2017)250)を公表するとともに、20項目にわたる「欧州社会権基軸勧告」を提示しました。この勧告の中には、今回の二つの労使協議に直接関わるような項目も含まれています。実は、今回の労使への協議はこの勧告と同時になされており、その意味ではその一環と見ることもできます。
 まず書面通知指令改正に関する協議ですが、同指令は適用対象たる「被用者」を加盟国の法令の定義に委ねています。これを改めて、EU共通の労働者の定義規定を設けるべきではないかというのが第1点目です。そして、オンコール労働者、バウチャーベースの労働者、ICTベースの移動型労働者、あるいはトレーニーやアプレンティスなど適用関係が明確でない新たな形態の非典型労働者にも適用されることを明らかにするというのが第2点目です。そして現行指令で雇用期間1か月以下や週労働時間8時間以下の雇用関係を加盟国が適用除外できるという規定も削除すべきではないかとしています。
 書面で通知されるべき情報項目に追加すべきものとして、まず濫用が指摘される試用期間が挙げられています。そしてオンコール労働者への適用拡大を前提として、その通常の週又は日の労働時間を通知することを提示しています。指令違反に対する救済や制裁が実効性に欠けることも問題で、書面通知をしなかった使用者に罰金を科すとか、書面通知がなかった場合は労働条件について労働者に有利な推定をするといった提起もしています。また書面通知の時期について現行指令は雇用開始後2か月以内としていますが、この期間を短縮すべきではないかという案とともに、そもそも遅くとも雇用開始時に通知すべきという選択肢も提起しています。
 上記欧州議会決議はこれらを超えて「あらゆる就業形態」の労働条件枠組指令を求めていましたが、こちらについては協議文書は書面通知指令の対象を拡大する可能性として協議しています。現行指令は使用者の通知義務を定めているだけですが、ここに規範的側面を持ち込み、あらゆる就業形態に共通の最低労働条件を規定するものに作り替えるという話です。欧州委員会が提示している項目は:試用期間がある場合の上限の権利、労働時間が変動する場合の参照時間の権利(予見可能性のため)、(オンコール労働における)前期の平均労働時間に設定された最低時間の権利、新たな就業形態に転換を求める権利(と使用者の回答義務)、訓練を受ける権利、解雇や雇止めの場合の理由を附した告知期間の権利、不当解雇や不当な雇止めの場合の適切な救済の権利、そして解雇や不当な待遇に対する有効で中立的な紛争解決制度にアクセスする権利です。大変包括的で、これらを入れたらもはや「書面通知指令」ではなく、まさに「一般最低労働条件指令」になってしまいます。
もう一つの協議文書はあらゆる就業形態の人々に対する社会保護と就業サービスを取り上げています。ここで「就業サービス」といったのは、職業指導、職業紹介、職業訓練等のことです。ただ、あらゆる就業形態といったときに、純粋の自営業者についてはそもそも条約154条に基づく労使協議への対象になり得ません。そこでやや技巧的ですが、非標準的な雇用形態の労働者の社会保護等については労使団体への第1次協議、自営業者等の社会保護等については任意協議だと説明しています。
 この文書で提示されているのは、契約類型、就業形態、労働法上の地位に関わらず、類似の労働に対しては類似の社会保護の権利と就業サービスが適用されるべきという原則です。これにより非標準的な雇用の労働者や自営業者が社会保護制度や就業サービスの適用を受けることができるというわけです。また社会保護の権利が就労当初から個人単位で蓄積され、転職、就業形態の変更、自営化などによって失われることのないようにすることを求めています。
 ただ、前者に比べてもこちらは困難性が高そうです。まず条約153条において、書面通知指令が属する「労働条件」は特定多数決事項となっていますが、「労働者の社会保障及び社会保護」は全会一致事項となっています。さらに上述のように、自営業者の社会保護はこれに含まれず、条約352条という一般条項に頼らなければなりません。現実に立法までこぎ着けることができそうかという点で見ると、可能性が高いのはせいぜい書面通知例の改正くらいで、欧州議会の求める実質新法としての一般最低労働条件指令はなかなか難しく、社会保護はほとんど不可能と言えるでしょう。
 とはいえ、こうした新たな就業形態に対する法的対応が試みられていることは、同じように就業形態の多様化への対応を迫られている日本にとっても、大変興味深い先行事例であることは間違いありません。今回の労使団体への第1次協議が、今後どのような展開を示していくことになるのか、労働関係者は注意深く見守っていく必要がありそうです。

 

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日置巴美『ビジネスシーンから考える 改正個人情報保護法』

1701例によって、経団連出版の讃井暢子さんより、日置巴美『ビジネスシーンから考える 改正個人情報保護法』をお送りいただきました。いつもありがとうございます。

http://www.keidanren-jigyoservice.or.jp/public/book/index.php?mode=show&seq=468&fl=2

 個人情報保護法の施行から10年余、当時は想定されていなかった問題が発生し、また、新たな情報利活用への期待が生まれています。これに対応し、情報利用環境を整備すべく、改正個人情報保護法が2017年5月30日から全面施行されました。
 改正法では、個人情報が明確化されるとともに、要配慮個人情報、匿名加工情報といった新たな類型が設けられ、それぞれに異なる取扱いを求めます。また、個人事業主・ベンチャー企業や、自治会などの非営利組織を含むすべての事業者が義務を負うこととされ、事業で個人情報を利用する限り、常に個人情報保護法を意識しなければなりません。
 本書では、企業モデルを設定し、モデル企業がビジネス活動を進める中で取り扱う個人情報について、「取得」「利用」「第三者提供」「本人対応」といった場面ごとに守るべきルールをわかりやすく解説しました。あわせて、中小規模事業者によくある事例への対応、不適正な取り扱いに対する監督、罰則などの解説も盛り込みました。
 この一冊で、個人情報保護法の改正ポイントに加えて、適切な個人情報の取扱い方法がわかります。

個人情報については、労働法でも大きな関心の対象になっており、去る5月の労働法学会でも、河野奈月さんがこの関係の報告をされていました。

とはいえ、その全貌はなかなかよくわからないところがあり、こういう解説書は有り難いです。

第Ⅰ章 企業が取り扱う情報と個人情報保護法
1 個人情報保護法のスコープ
  (1) 個人情報保護法制における公的部門と民間部門の相違
  (2) 個人情報取扱事業者と個人情報データベース等の除外規定
     個人情報取扱事業者/個人情報データベース等の除外規定
2 個人情報保護法が保護対象とする情報とは
  (1)個人情報
  「特定の個人を識別することができるもの」とは何か/容易照合性/1号個人情報の該当性判断/
  個人識別符号/個人情報該当性判断の手順
  (2)個人データと保有個人データ
  (3)要配慮個人情報
  人種/信条/社会的身分/病歴またはこれに準ずるもの/犯罪の経歴またはこれに準ずるもの/犯罪により害を被った事実
第Ⅱ章 個人情報取扱事業者と匿名加工情報取扱事業者の義務
1 利用目的に関する規律
  (1)利用目的の特定
  (2)取得の際に求められること
  通知、公表および明示の方法/通知等が不要とされる場合
  (3)新たな利用を行う際に求められること
  利用目的の変更と目的外利用/利用目的変更の手続/目的外利用のための手続
2 適正な手段による取得
  (1)適正取得
  (2)要配慮個人情報を取得するための本人同意
  本人同意/例外
3 適切な安全管理と従業者、委託先の監督
  (1)安全管理措置
  (2)従業者の監督
  (3)委託先の監督
  (4)個人データ漏えいへの対応
    発覚時に講ずべき措置/個人情報保護委員会等への報告
4 個人データの第三者提供
  (1)第三者提供と同意
    第三者提供とは何か/本人同意と例外
  (2)オプトアウト手続
  法定事項を本人に通知し、または容易に知り得る状態におくこと/個人情報保護委員会への届出
  (3)個人データの第三者提供の確認・記録義務
     確認・記録義務を不要とする個人データの第三者提供/第三者提供を行う個人情報取扱事業者/
  第三者からの提供を受ける個人情報取扱事業者/その他
  (4)「第三者」が外国に所在する場合の対応
     外国に所在する第三者/本人同意
5 本人からの請求等
  (1)保有個人データ
  (2)保有個人データの利用目的等の公表・通知
  (3)各種請求
     開示/訂正等/利用停止等/事前の請求/裁判外の請求手続
6 その他の個人情報の適切な取扱い
  (1)個人データの正確性確保と不要なデータの消去
     個人データの正確性確保/不要なデータの消去
  (2)苦情処理
  (3)域外適用
7 匿名加工情報制度
  (1)匿名加工情報
  (2)匿名加工情報の適切な取扱い
第Ⅲ章 中小規模事業者
1 中小規模事業者への配慮
  (1)新たに義務を課される「個人情報取扱事業者」
  (2)中小規模事業者と安全管理
2 主な個人情報の取扱い場面と適切性の担保
  (1)従業員の情報
  (2)取引先の従業員の情報
第Ⅳ章 認定個人情報保護団体
第Ⅴ章 個人情報保護法違反と行政・司法
1 行政規制としての個人情報保護法
  (1)個人情報保護委員会と監視・監督権限
  個人情報保護委員会の所掌事務/個人情報保護委員会の監視・監督権限/権限委任
  (2)不適正取扱いの是正と罰則
2 司法判断と個人情報保護法
  (1)データベース等不正提供罪
  (2)開示、訂正等、利用停止等の請求

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学問は就活か

神戸女学院大学の広告が核心を衝きすぎていると評判ですが・・・。

20170612094142

学問は就活か?

日本以外のジョブ型労働社会であれば答えはあまりにも明瞭です。

然り。

ある仕事に就きたいがゆえに、その仕事に必要な知識技能を身につけるべく学問に励む。

まさに、学校の勉強を一生懸命やることが、それこそが他のいかなることにもまして、最高最大の就「職」活動になるわけです。

Chuko拙著『若者と労働』でこう述べたとおりです。

ジョブ型社会の「職業能力」就活
 日本であれ、欧米であれ、学生が企業に対して、自分が企業にとって役に立つ人材であることを売り込まなければならない立場にあるという点では何の違いもありません。違うのは、その「役に立つ」ということを判断する基準です。
 欧米のようなジョブ型社会においては、第一章でみたように採用とは基本的に欠員補充ですから、自分はその求人されている仕事がちゃんとできるということをいかにアピールするかがもっとも重要になります。学生の場合、売りになる職業経験はないのですから、その仕事に必要な資格や能力を持っているということをアピールするしかありません。そのもっとも重要な武器は、卒業証書、英語で言うディプロマです。
 欧米では、一部の有名大学を除けば入学するのはそんなに難しくはありませんから、ある大学に入学したことだけでは何の説得力もありません。むしろ、日本と違ってカリキュラムはハードで、ついてこれない学生はどんどん脱落し、卒業の頃には同期の学生がだいぶ減っているというのが普通ですから、卒業証書こそがその人の能力を証明するものだと一般的に考えられています。
 そして、ここが重要なのですが、その能力というのは、日本でいう「能力」、つまり一般的抽象的な潜在的能力のことではなく、具体的な職業と密接に関連した職業能力を指すのです。卒業証書を学歴と言い換えれば、欧米社会とは言葉の正確な意味での学歴社会ということもできます。日本でいわれる学歴社会というのが、具体的にどの学部でどういう勉強をしてどういう知識や技能を身につけたかとはあまり関係のない、入学段階の偏差値のみに偏したものであるのに対して、欧米の学歴社会というのは、具体的にどの学部でどういう勉強をしてどういう知識や技能を身につけたかを、厳格な基準で付与される卒業証書を判断材料として判定されるものなのです。こういう社会では、言葉の正確な意味でのもっとも重要な就「職」活動は、必死で勉強して卒業証書を獲得することになります。
 ちなみに、こういうジョブ型社会ではあまりにも当たり前の行動を、日本社会で下手にやるととんでもない大騒ぎになることがあります。かつて、ある大学の法学部で、既に企業に内定している四年生の学生に対し、必修科目の民法で不可をつけた教授の行動が、マスコミで取り上げられ、世論を賑わしました。入学時の偏差値と面接時の人間力判定で十分採用できると企業が考えているのに、本来何の職業的意義もない大学の授業における教授の成績評価によってできるはずの卒業ができなくなり、「入社」の予定が狂わされるのは、本末転倒である、と、少なくとも当時の日本社会の大多数の人々は考えていたということでしょう。

では日本ではどうか?

まったく異なる文脈において、しかし結論は一緒です。

然り、学問は就活である。

とはいえその理路は全く正反対ではありますが。

どう正反対なのか、そしてそれなのに結論は同じなのか?

詳しくは上記拙著の「第3章 「入社」のための教育システム」をお読み下さい。

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下井康史『公務員制度の法理論』

280601 下井康史さんの『公務員制度の法理論 日仏比較公務員法研究』(弘文堂)をこの週末に読みました。

http://www.koubundou.co.jp/book/b280601.html

日本とフランスの公務員法を、「公務員の勤務条件決定システム」「身分保障」「多様な公務員と公務員制度の射程」という3つの視点から詳細に比較・分析した本格的研究書。日仏比較がもたらす大きな示唆を明らかにし、公務員制度改革の今後のあり方を探る。行政法と労働法を架橋する、本邦初の公務員法研究の集大成。

公務員法は行政法と労働法の交錯する領域です。かつては、公務員の労働基本権問題が労働法学においてもかなり大きなテーマであり、多くの人が喧々囂々論じたこともありますが、いまではすっかり寂れてしまいました。代わって最近じわじわと話題になりつつあるのが非正規公務員問題ですが、なおまだまだメジャーとは言えない状況のようです。

公務員法は制度の一つ一つが別立てになっているため、労働畑の人が真面目に勉強しようとすると結構手間がかかることもあり、どうしてもごく一部の人だけが取り組む傾向にありますが、下井さんは行政法から労働法に攻め込んで、非常に緻密な議論を展開しているので、とてもありがたい存在です。

序 公務員制度改革と公務員法

第1編 公務員の勤労条件決定システム

第1章 フランス法 

 第1節 地方公務員制度における給与決定システム 

 第2節 法令規律の仕組みと組合参加制度

第2章 日本法

 第1節 公務員の団体交渉権・協約締結権

 第2節 地方公務員制度における新たな労使関係の構築に向けて

 第3節 公務員法における法律・条例事項と協約事項

 第4節 公務員

第2編 身分保障

第1章 フランス法-官職分離原則の身分保障機能

第2章 日本法

 第1節 公務員法と労働法の距離

 第2節 公務員の守秘義務

 第3節 行政法における公務員倫理法の位置付け

 第4節 人事評価システムにおける制度的工夫

第3編 多様な公務員と公務員制度の射程

第1章 フランス法

 第1節 公務員制度の射程

 第2節 任用・勤務形態の多様化

第2章 日本法

 第1節 公務員の勤務形態多様化政策と公法理論

 第2節 任期付任用公務員の更新拒否をめぐる行政法上の理論的問題点

結――日仏比較公務員研究の意義

第1編の勤務条件決定システムは集団的労使関係システムの問題として一通りは勉強しましたし、第3編の勤務形態の多様化は非正規公務員の問題としていくつか文章を書いたりしていますが、本書の中でいままであまりよく知らずにいて、そうだったのか!!感が強かったのは第2編の身分保障に関わる部分でした。とりわけフランス公務員法制の任官補職のシステムが戦前日本と共通しているというのは目を開かれました。

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『働く女子の運命』に感想3つ

Img_752f5d874047328e26f434ce08fbda56月に入ってから読書メーターに、拙著『働く女子の運命』への感想が3つアップされています。

https://bookmeter.com/books/10070665

6/4 :inubo, 90年代後半に就職し、正規で働き続けて約20年、見渡すと同世代女子はほぼいない反面、若い女子が活躍している職場にいます。最近自分の居場所や生き方のモデルがなくなり、途方に暮れていたのですが、この本で脳内に見取り図ができてスッキリしました。日本の雇用の特徴は生活給をベースにした年功的昇給と職務が無限定のメンバーシップ制であり、バブル崩壊後様々な改革がなされたものの、生活給維持が大前提なためジョブ型に移行できないという…異分子たる女子としては、ジョブ型に活路を見出すべくスキルアップ!と思いを新たにしました。

6/14 :momo, 日本型の会社では給料はジョブに対するものではなく生活給という言葉に納得。2人で正社員なら2倍だ理論おじさんの考えの根拠はこれかと納得。 行政、企業はもちろんだけと、労働組合も一緒になって進めてきているから、固定的な価値観にできたんだろう。 学校で男女平等で学んできても、スタート切るときに大きな違いに直面する。性別が違うだけでなぜなのかと悩むけど、実は社会の固定観念を押し付けられてるだけだったんだ。 腑に落ちた。これからの働く戦略を考えようと思う。

6/18 :おかむら, 富岡製糸場時代から現代までの女性の雇用史。見下されの歴史でした。「28歳定年制」とか「結婚したら自発的に退職する」旨の念書とか。ひえー。そんな時代があったのか。 諸外国と比べて日本の雇用制度が独特なのもよくわかった。日本のお給料って「女房子どもを食わす額」ってのが基本なのね。そもそもからシステムや観念を変えないと変わって行けないのか…。だって今でも政府や経済界や会社のお偉いさんは働く女性のことを相変わらず職場の「女の子」って思ってんだろーからなー。

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公正な1日の労働に対する公正な1日の賃金を

公正な1日の労働に対する公正な1日の賃金を

Friedrich_engels1840cropped 労働組合の保守本流のこの思想を、古くさいと言って斬って捨てたのが周知の通りエンゲルスでした。

これは、これまで50年間も、イギリス労働運動のスローガンとなってきたものだ。・・・しかし、時代は移ることをやめず、そして、50年前には、否、30年間にさえ、望ましく、かつ、必要でもあった相当多くの事柄が、今や時代遅れになっており、やがて完全に居場所を失うだろう。この古く、かつ由緒あるスローガンもまた、その種の事柄に属するのだろうか?

公正な1日の労働に対する公正な1日の賃金を、というのか?だがそもそも、公正な1日の賃金とは何か、そして、公正な1日の労働とはなんなのか?・・・これに対する解答は、倫理学、あるいは、法と衡平法といった学問に求めるべきではなく、また、人間愛、正義、あるいは、慈善とか、一切の感傷的な感情にも求めてはならない。道徳的に見て公正なもの、法律上公正であるものでさえ、社会的に公正であることとは無縁な場合があり得る。何が社会的公正とか不公正とかいうことは、専ら、一つの科学-生産及び交換という物質的事実を取り扱う科学、経済学(political economy)という学問によってのみ、結論が与えられる。・・・

・・・公正な1日の労働に対する公正な1日の賃金を!・・・以上で明確にされたことからして、この古いスローガンは過去のものとなり、今日ではほとんど妥当性がなくなっていることは、全く明瞭である。・・・したがって、この古いスローガンを永久に葬り去って、別のスローガンと取り替えよう。

労働者自身による、労働手段-原料、工場、機械-の所有を。

(エンゲルス「公正な1日の労働に対する公正な1日の賃金」宮前忠夫訳『新訳・新解説 マルクスとエンゲルスの労働組合論』より引用)

労働運動がその活動の前提とする市場経済をそもそも否定するイデオロギーに立脚するのであれば、そのような言説になるのはある意味で当然でしょう。140年前に公正賃金を古くさいと罵った「最新」の思想が、今なお最新なのか、罵った相手よりも遥かに「古くさい」ものになっているかは別ですが・・・。

しかし、古い新しいという下らぬ話はともかく、あくまで市場経済の中で労働者の地位の向上を目指す労働組合にとっては、「公正な賃金」とは何よりも目指すべき目標でありました。というようなことは、労使関係論の教科書の最初の方に必ず出てきますね。

さて、先日のエントリに金子さんのリプライがありました。はじめから順番に並べると、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2017/06/post-9189.html (年功給か職務給か?@『労働情報』にコメント)

http://ryojikaneko.blog78.fc2.com/blog-entry-469.html (賃金水準を下げている「職務」概念について)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2017/06/post-fa0b.html (金子さんは誰を批判しているのだろうか?)

http://ryojikaneko.blog78.fc2.com/blog-entry-471.html (濱口先生の批判にお答えして)

わたしは、もちろん一方では現下の課題に対する戦術論にも関心はあります。しかし、賃金制度を論じる時にはやはり一歩も二歩も後ろに下がって、しっかりと歴史を踏みしめ、そもそも論のそのまたそもそもをきちんと踏まえた上で議論をするべきだと思っています。本来アカデミズムにいて役割が逆でなければならないはずなのに、金子さんの妙に今日的表層政治的関心ばかりが先にたったいささか前のめりな姿勢には、正直どうなのか?という思いが禁じ得ません。

前回私が「公正賃金」という言葉を出したのは、アリストテレス的な「交換の正義」という言葉では誤解を招いてしまうかも知れないと考えたから、あえて労使関係研究者にとってなじみのある言葉にしたのです。

繰り返しますが、200年前に産業革命の中から生まれてきた労働組合とは、ただ賃金が高ければ良いという存在ではありません。彼らなりの正しい賃金秩序-公正な格差の秩序を追い求める存在なのです。

それを古くさいと否定したエンゲルスにとっては、そもそも賃金制度自体が許すべからざる悪であり、公正とか不公正ということ自体がナンセンスだったのでしょう。それはそれでそういう理屈になるということはわかります。

しかし、戦後日本の労働組合は、その一見急進的めいた言辞にかかわらず、別段共産主義社会の実現に命をかけていたわけでもなく、賃労働の廃絶を目指して日々活動していたわけでもないでしょう。

その彼らが、自分の足下からの批判を抑えつつ、経営側の同一労働同一賃金を掲げた職務給攻勢に対抗しようとする時、前回引用したように、

総評は口先では「同一労働同一賃金の立場から格差をなくす闘いをいっそう強める」などといいながら、「職務給は・・・特に中高年齢層の賃金を引き下げ、労働組合を弱めるものであるから断固反対」という立場にたち、「職務給は年功序列に代わる必然的な賃金体系という宣伝で、青年労働者の低賃金や職種間の利害関係につけ込んでその拡大をねらっているのだから、職務給の理論的、実際的な分析を行い、反対して闘う」と述べていました。しかし、理論的反駁はどこにもなく、要は都合が悪いから反対しているだけだったようです。

という、わざと本質論を論じないで、目先の損得論戦術論だけでごまかそうとするしかなかったわけです。

なぜそういうことになるかと言えば、日本の労働組合は海軍軍人と国家社会主義官僚の構築した生活給以外に自分たちの「公正賃金」のロジックをついに持ちえなかったから、としか言いようがありません。

その後、小池和男氏が(事実に反する)論証で総評の(へ)理屈を支えてくれたのですが、この点についてはここでは省略しておきます(関心がある人は下記リンク先を参照。世の小池ファンの殆ど全ては完全に勘違いをしています)。

http://hamachan.on.coocan.jp/webrousei170116.html

http://hamachan.on.coocan.jp/webrousei170130.html

自分自身の「公正賃金」のロジックを持てない労働組合にとって、

職務給は同一労働同一賃金を実現するものだという宣伝によって労働者を巻き込もうとする。しかし、それは格差をちじめるだけで労働者の要求とはまったく違う」「われわれが要求しているのは、たんに、年功なり、男女なりの賃金格差が縮小すればよいということではなく、年配者、男子の賃金を引き上げながら、青年なり婦人なり、臨時工なりの賃金を一層大きく引き上げて短縮する。言い換えれば、同一労働同一賃金は賃金引き上げの原則であって、たんなる配分の原則ではない(総評1962年度運動方針)

と、賃金引き上げ「だけ」を論じ、賃金のそもそもの決め方などは論じないというのが、唯一可能な細道だったのでしょう。

そして、半世紀前は結局それで済んでしまい、以来半世紀にわたって、「公正な賃金」の原理を持たないまま賃金引き上げ要求をし、やがてそれもしないようになるという時を経て、いま半世紀ぶりに再び、労働組合は「お前たちにとって『公正な賃金』とは何か?」という問いを再度突きつけられてきているのではないかということです。

そのときに、これまた再び、かつての総評と、まったく同じような反応をしていて良いのか?と問うことこそが、すくなくとも賃金の歴史を知っている者の務めではなかろうかと、私は前回申し上げたつもりなのです。

金子さんのいう「現在では職能資格給が職務と限定なしの能力の伸長を促進する制度としてではなく、まったく逆に、職務が変わらないならば賃金は上げないという賃下げの道具として利用されるようになってきた」ということについては、私は事実認識としてもかなり疑問を持っていますし、そもそも職能資格制度を大本で維持しながらそれと矛盾しうる成果主義を導入したことによる矛盾があちこちに噴出しているという点こそ過去20年間の最大の問題点だと考えていますが、ここではそういうことを細かく論じるつもりもありません(必要があれば改めて論じますが)。

そもそもいまの賃金のあり方が公正ではないのではないか、と疑問を突きつけられている時に、いやこれこそが我々の考える「公正賃金」だ、と堂々と提示するのではなく、いやあそれじゃ下がるから云々ということしか言えないのでは、実はそもそもの段階で位負けしている、という話なのです。半世紀前の総評と同じロジックでは情けないよ、と。

いわんや公正さに疑問を呈する者に対して「利敵行為だ!」と怒鳴って黙らせれば済むというわけにはいかないでしょう。少なくとも今度は。

そして、そうはいっても実務家は現実の中で格闘しながらやらなければならないので、そう単純に批判して済むわけではないのに対し、そうではない研究者こそ、そこをきちんと論じ挙げなければならないのではないか、と、これはむしろ金子さんに刃を向けるつもりで申し上げたのです。

繰り返しますが、わたしは長く実務家の方に身を置いてきましたし、現実の重みはわかっています。いま現在の戦略論、戦術論をやれと言われれば、喜んでやる用意もあります。

しかし、ここではあえてそうではないこと-労働組合にとって「公正賃金」とは何か、というそもそも論のそのまたそもそものところを論じているのです。

(参考)

ちなみに、最近半世紀ぶりに逮捕されたとかで話題の中核派の機関誌「前進」に、こんな記事が載っていました。

http://www.zenshin.org/zh/f-kiji/2016/09/f27770302.html (年功賃金を解体する「同一労働同一賃金」)

これもまことに「古くさい」議論ですね。

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リバタリアンと民間警察

Libertarian たまたまこういう記事が目に入ったので、

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20170615-00010004-flash-peo (「任侠団体山口組」織田代表「民間軍事会社を作って国を守る」)

思わず、もう7年も前の本ブログのエントリを思い出してしまいました。

蔵研也さんというリバタリアンな方の発言をめぐって、こういうことを縷々書いたことがあります。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-143d.html (警察を民営化したらやくざである)

リバタリアンと呼ばれたがる人々はどうしてこうも基本的な社会認識がいかがなものかなのだろうかと思ってしまうのですが、

http://d.hatena.ne.jp/kurakenya/20100818警察を民営化したならば

警察とは一国の法システムによって暴力の行使が合法化されたところの暴力装置ですから、それを民営化するということは、民間の団体が暴力行使しても良いということを意味するだけです。つまり、やくざの全面的合法化です。

といいますか、警察機構とやくざを区別するのは法システムによる暴力行使の合法化以外には何一つないのです。

こんなことは、ホッブス以来の社会理論をまっとうに勉強すれば当たり前ではあるのですが、そういう大事なところをスルーしたまま局部的な勉強だけしてきた人には却って難しいのかも知れません。最近では萱野さんが大変わかりやすく説明してますから、それ以上述べませんが。

子どもの虐待専門のNPOと称する得体の知れない団体が、侵害する人権が家宅侵入だけだなどと、どうして素朴に信じてしまえるのか、リバタリアンを称する人々の(表面的にはリアリストのような振りをしながら)その実は信じがたいほど幼稚な理想主義にいささか驚かされます。そもそも、NPOという言葉を使うことで善意の固まりみたいに思えてしまうところが信じがたいです。

警察の民営化というのは、民主国家においてはかかっている暴力装置に対する国民のコントロールの権限が、(当該団体が株式会社であればその株主のみに、非営利団体であればそれぞれのステークホルダーのみに)付与されるということですから、その子どもの虐待専門NPOと称する暴力集団のタニマチがやってよいと判断することは、当然合法的に行うことになるのでしょうね。

国家権力が弱体化すると、それに比例して民間暴力装置が作動するようになります。古代国家が崩れていくにつれ、武士団という暴力団が跋扈するようになったのもその例です。それは少なくとも人間社会の理想像として積極的に推奨するようなものではないというのが最低限の常識であると思うのですが、リバタリアンの方々は違う発想をお持ちのようです。

(追記)

日本国の法システムに通暁していない方が、うかつにコメントするとやけどするという実例。

http://b.hatena.ne.jp/entry/eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-143d.html

>thesecret3 えええ、、実際暴力装置としての治安維持活動は日本では民間の警備会社の方が大きくないですか?現金輸送車を守ってるのは警察でもやくざでもありませんよ。

いうまでもなく、警備業者は警察と異なり「暴力装置」ではありませんし、刑事法規に該当する行為を行う「殺しのライセンス」を頂いているわけでもありません。

警備業法の規定:

http://law.e-gov.go.jp/cgi-bin/idxselect.cgi?IDX_OPT=2&H_NAME=&H_NAME_YOMI=%82%af&H_NO_GENGO=H&H_NO_YEAR=&H_NO_TYPE=2&H_NO_NO=&H_FILE_NAME=S47HO117&H_RYAKU=1&H_CTG=1&H_YOMI_GUN=1&H_CTG_GUN=1

(警備業務実施の基本原則) 

第十五条  警備業者及び警備員は、警備業務を行うに当たつては、この法律により特別に権限を与えられているものでないことに留意するとともに、他人の権利及び自由を侵害し、又は個人若しくは団体の正当な活動に干渉してはならない。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-2b5c.html (それは「やくざ」の定義次第)

松尾隆佑さんが、

http://twitter.com/ryusukematsuo/status/23919131166

>「警察を民営化したらやくざ」との言にはミスリードな部分があって,それは無政府資本主義社会における「やくざ」を政府が存在・機能している社会における「やくざ」とは一緒にできない点.民営化はやくざの「全面的合法化」ではなく,そもそも合法性を独占的に担保する暴力機構の解体を意味する.

http://twitter.com/ryusukematsuo/status/23919469693

>他方,民間保護機関や警備会社同士なら「やくざ」ではないから金銭交渉などで何でも平和的に解決できるかと言えば,そういうわけでもなかろう.やくざだって経済合理性に無縁でなく,無駄な争いはすまい.行為を駆動する合理性の中身は多少違っても,本質的に違いがあるわけではない.やくざはやくざ.

言わずもがなではありますが、それは「やくざ」の定義次第。

国家のみが正当な暴力行使権を独占していることを前提として、国家以外(=国家からその権限を付与されのではない独立の存在)が暴力を行使するのを「やくざ」と定義するなら、アナルコキャピタリズムの世界は、そもそも国家のみが正当な暴力行使権を独占していないので、暴力を行使している組織を「やくざ」と呼べない。

より正確に言うと、世の中に交換の原理に基づく経済活動と脅迫の原理に基づく暴力活動を同時に遂行する多数の主体が同一政治体系内に存在するということであり、その典型例は、前のエントリで書いたように封建社会です。

そういう社会とは、荘園経営者が同時に山賊の親分であり、商船の船主が同時に海賊の親玉である社会です。ヨーロッパ人と日本人にとっては、歴史小説によって大変なじみのある世界です。

こういう「強盗男爵」に満ちた社会から、脅迫原理を集中する国家と交換原理に専念する「市民」を分離するところから近代社会なるものは始まったのであって、それをどう評価するかは社会哲学上の大問題ですし、ある種の反近代主義者がそれを批判する立場をとることは極めて整合的ではあります。

しかしながら、わたくしの理解するところ、リバタリアンなる人々は、初期近代における古典的自由主義を奉じ、その後のリベラリズムの堕落を非難するところから出発しているはずなので、(もしそうではなく、封建社会こそ理想と、呉智英氏みたいなことを言うのなら別ですが)、それと強盗男爵社会を褒め称えることとはいささか矛盾するでしょう、といっているだけです。

多分、サヨクの極地は反国家主義が高じて一種の反近代主義に到達すると思われますので(辺境最深部に向かって退却せよ!)、むしろそういう主張をすることは良く理解できるのですが(すべての犯罪は革命的である! )。

http://b.hatena.ne.jp/entry/eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-143d.html

>tari-G , , , 国家の強制力を現在の検警察組織に独占させないという発想自体は、検警察入管等のひどさを考えれば極めて真っ当。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-037c.html (アナルコキャピタリズムへの道は善意で敷き詰められている?)

TypeAさんが、「民間警察は暴力団にあらず 」というタイトルで、わたくしの小論について論じておられます。

http://c4lj.com/archives/773366.html

いろいろとご説明されたあとで、

>しかし、これでも濱口氏は納得しないに違いない。何故なら、蔵氏やanacap氏の説明は、無政府資本主義社会が既に成立し、安定的に運用されていることが前提であるからだ。

と述べ、

>だが、「安定期に入った無政府資本主義社会が安定的である」というのは、殆どトートロジーである。

>現在の警察を即廃止したとしても、忽ちに「安定期に入った無政府資本主義社会」が出現するわけではないからである。これまでの無政府資本主義者は、(他の政治思想も大抵そうであるが)その主張を受け入れてもらうために、己の描く世界の安定性のみを強調し、「ここ」から「そこ」への道のり、現行の制度からその安定した社会に至るためのプロセスを充分に説明していない。「国家権力が弱体化すると、それに比例して民間暴力装置が作動するようにな」るというのは、成程確かにその通りであると認めざるを得ないだろう。

と認められます。

ところが、そのあと、こういう風にその理想社会に到達するという図式を描かれるのです。

>これまでの多くの政府機関の民営化がそうであったように、恐らく警察においても最初は特殊法人という形を採ることになるだろう。法制度の改定により、民間の警備会社にもそれなりの権限は許可されるが、重大な治安維持活動は特殊法人・警察会社に委ねられる。それでも、今よりは民間警備会社に出来る範囲は広くなる。

>特殊法人・警察会社は徐々に独占している権限を手放す。民間警備会社が新たに手に入れた権限を巧く使うことが出来ることを証明できたならば、それは更なる民営化を遂行してよいという証拠になる。最終的に、元々公的機関であった警察は、完全に民営化される。(勿論テストに失敗した場合はこの限りではない。)恐らく数年~十数年は、元々公的機関であった"元"警察を信頼して契約を結ぶだろう。ノウハウの蓄積は圧倒的に"元"警察株式会社にあるだろうからだ。しかし、市場が機能する限り、"元"警察株式会社がその優位な地位に胡坐をかく状態が続けば、契約者は他の民間警備会社に切り替えることを検討することになるだろう。

こういうのを読むと、いったいアナルコキャピタルな方々は、国家の暴力というものを、せいぜい(警備業法が規定する程度の)警備業務にとどまるとでも思っておられるのだろうか、と不思議になります。

社会は交換原理だけではなく脅迫原理でもできているのだという事実を、理解しているのだろうか、と不思議になります。

先のエントリでも述べたように、国家権力の国家権力たるゆえんは、法に基づいて一般市民には許されない刑事法上に規定する犯罪行為(住居侵入から始まって、逮捕監禁、暴行傷害、場合によっては殺人すらも)を正当な業務行為として行うことができるということなのであって、それらに該当しない(従って現在でも営業行為として行える)警備行為などではありません。「民間の警備会社」なんて今でも山のようにあります。問うべきは「民間の警会社」でしょう。

大事なのは、その民間警察会社は、刑法上の犯罪行為をどこまでどの程度正当な業務行為として行うことができることにするのか、そして、それが正当であるかどうかは誰がどのように判断するのか、それが正当でないということになったときに誰がどのように当該もはや正当業務行為ではなくなった犯罪行為を摘発し、逮捕し、刑罰を加えるのか、といったことです。アナルコキャピタリズムの理念からすれば、そういう「メタ警察」はない、としなければなりませんが、それがまさに各暴力団が自分たち(ないしその金の出所)のみを正当性の源泉として、お互いに刑事法上の犯罪行為を振るい合う世界ということになるのではないのでしょうか。

その社会において、「刑事法」というものが現在の社会におけるような形で存在しているかどうかはよく分かりません。刑事法とはまさに国家権力の存在を何よりも前提とするものですから、ある意味では民間警察会社の数だけ刑事法があるということになるのかも知れませんし、一般刑事法はそれを直接施行する暴力部隊を有さない、ちょうど現代における国際法のようなものとして存在するのかも知れません。これはまさに中世封建社会における法の存在態様に近いものでしょう。

この、およそ「警察の民営化」とか唱えるのであれば真っ先に論ずべき点がすっぽり抜け押してしまっているので、正直言って、なにをどう論じたらいいのか、途方に暮れてしまいます。

ちなみに、最後でわたくしに問われている蔵研也氏の第2のアイディアというのは、必ずしもその趣旨がよく理解できないのですが、

>むしろ公的な警察機構に期待するなら、警察を分割して「児童虐待警察」をつくるというのも、面白い。これなら、捜索令状もでるし、憲法の適正手続条項も満たしている。

というところだけ見ると、要するに、一般の警察とは別に麻薬取締官という別立ての正当な国家暴力機構をつくるのと同じように、児童虐待専門の警察をつくるというだけのはなしにも思えるので、それは政府全体のコスト管理上の問題でしょうとしかお答えのしようがないのですが、どうもその次を読むと必ずしもそういう常識的な話でもなさそうなので、

>さて、それぞれの警察部隊の資金は有権者の投票によって決まる。

はあ?これはその蔵氏のいう第2のアイディアなんですか。全然第2でも何でもなく、第1の民営化論そのものではないですか。

アイディア2というのが警察民営化論なのか、国家機構内部での警察機能分割論なのか、判断しかねるので、「濱口氏は如何お考えであるのか、ご意見を伺いたく思う。」と問われても、まずはどっちなのかお伺いした上でなければ。

(追記)

法システムの全体構造を考えれば、国家の暴力装置を警察だけで考えていてはいけません。警察というのはいわば下部装置であって、国家の暴力の本質は司法機関にあります。人に対して、監禁罪、恐喝罪、果ては殺人罪に相当する行為を刑罰という名の下に行使するよう決定するのは裁判所なのですから。

したがって、アナルコキャピタルな善意に満ちた人々は、何よりもまず裁判所という法執行機関を民間営利企業として運営することについての具体的なイメージを提示していただかなければなりません。

例えばあなたが奥さんを殺されたとしましょう。あなたは桜上水裁判株式会社に電話して、犯人を捕まえて死刑にしてくれと依頼します。同社は系列企業の下高井戸警察株式会社に捜査を依頼し、同社が逮捕してきた犯人を会社の会議場で裁判にかけ、死刑を言い渡す。死刑執行はやはり系列会社の松原葬祭株式会社に依頼する、と。

ところが、その犯人曰く、俺は殺していない、犯人は実は彼女の夫、俺を捕まえろといったヤツだ。彼も豪徳寺裁判株式会社に依頼し、真犯人を捕まえて死刑にしてくれと依頼する。関連会社の三軒茶屋警察株式会社は早速活動開始・・・。

何ともアナーキーですが、そもそもアナルコキャピタルな世界なのですから、それも当然かも。

そして、このアナーキーは人類の歴史上それほど異例のことでもありません。アナルコキャピタリズムというのは空想上の代物に過ぎませんが、近代社会では国家権力に集中した暴力行使権を社会のさまざまな主体が行使するというのは、前近代社会ではごく普通の現象でした。モンタギュー家とキュピレット家はどちらもある意味で「主権」を行使していたわけです。ただ、それを純粋市場原理に載っけられるかについては、わたくしは人間性というものからして不可能だとは思っていますが。

ちなみに、こういう法システム的な意味では、国際社会というのは原理的にアナーキーです。これは国際関係論の教科書の一番最初に書いてあることです。(アナルコキャピタリズムではなく)純粋のアナーキズムというのは、一言で言うと国内社会を国際社会なみにしようということになるのでしょう。ボーダーレス社会にふさわしい進歩的思想とでも評せますか。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-48c2.html (人間という生き物から脅迫の契機をなくせるか?)

typeAさんとの一連のやりとりについて、ご本人がご自分のブログで感想を書かれています。

http://d.hatena.ne.jp/typeA/20100911/1284167085(負け犬の遠吠え-無政府資本主義者の反省-。 )

いえ、勝ったとか負けたとかではなくて、議論の前提を明確にしましょうよ、というだけなのです。

おそらく、そこに引用されている「平凡助教授」氏のこの言葉が、アナルコキャピタリズムにまで至るリバタリアンな感覚をよく描写していると思うのですが、

>無政府資本主義の考え方にしたがえば,「問題の多い政府の領域をなくして市場の領域だけにしてしまえばいい」ということになるだろう.経済学でいうところの「政府の失敗」は政府が存在するがゆえの失敗だが,「市場の失敗」は (大胆にいえば) 市場が存在しないがゆえの失敗だからだ.

政府とか市場という「モノ」の言葉で議論することの問題点は、そういう「モノ」の背後にある人間行為としての「脅迫」や「交換」という「コト」の次元に思いが至らず、あたかもそういう「モノ」を人間の意思で廃止したりすることができるかのように思う点にあるのでしょう。

人間という生き物にとって「交換」という行為をなくすことができるかどうかを考えれば、そんなことはあり得ないと分かるはずですが、こんなにけしからぬ「市場」を廃止するといえば、できそうな気がする、というのが共産主義の誤りだったわけであって、いや「市場」を廃止したら、ちゃんとしたまともな透明な市場は失われてしまいますが、その代わりにぐちゃぐちゃのわけわかめのまことに不透明な「市場まがい」で様々な交換が行われることになるだけです。アメリカのたばこが一般的価値形態になったりとかね。

「問題の多い市場の領域をなくして政府の領域だけにする」という理想は、人間性に根ざした「交換」という契機によって失敗が運命づけられていたと言えるでしょう。

善意で敷き詰められているのは共産主義への道だけではなく、アナルコキャピタリズムへの道もまったく同じですよ、というのが前のエントリのタイトルの趣旨であったのですが、はたしてちゃんと伝わっていたでしょうか。

こんなにけしからぬ「政府」を廃止するといえば、できそうな気がするのですが、どっこい、「政府」という「モノ」は廃止できても、人間性に深く根ざした「脅迫」という行為は廃止できやしません(できるというなら、ぜひそういう実例を示していただきたいものです)。そして、「脅迫」する人間が集まって生きていながら「政府」がないということは、ぐちゃぐちゃのわけわかめのまことに不透明な「政府まがい」が様々な脅迫を行うということになるわけです。それを「やくざ」と呼ぶかどうかは言葉の問題に過ぎません。

「政府の領域をなくして市場の領域だけにする」という「モノ」に着目した言い方をしている限り、できそうに感じられることも、「人間から脅迫行為をなくして交換行為だけにする」という言い方をすれば、学級内部の政治力学に日々敏感に対応しながら暮らしている多くの小学生たちですら、その幼児的理想主義を嗤うでしょう。

ここで論じられたことの本質は、結局そういうことなのです。

(注)

本エントリでは議論を簡略化するため、あえて「協同」の契機は外して論じております。人類史的には「協同「「脅迫」「交換」の3つの契機の組み合わせで論じられなければなりません。ただ、共産主義とアナルコキャピタリズムという2種類の一次元的人間観に基づいた論法を批判するためだけであれば、それらを噛み合わせるために必要な2つの契機だけで十分ですのでそうしたまでです。

ちなみに「協同」の契機だけでマクロ社会が動かせるというたぐいの、第3種の幼児的理想主義についてもまったく同様の批判が可能ですが、それについてもここでは触れません。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-57fb.html (蔵研也さんの省察)

本ブログで少し前に取り上げて論じた「警察の民営化」あるいはむしろ「国家の暴力装置の民営化」に関する議論について、その発端となった蔵研也さんが、ある意味で「省察」されています。いろんな意味で大変興味深いので、紹介しておきます。

http://d.hatena.ne.jp/kurakenya/20100921無政府は安定的たり得るか?

>僕は自称、無政府資本主義者であり、実際そういったスタンスで本も書いてきた。

>しかし、slumlordさんの「なぜ私は無政府主義者ではないのか」

http://d.hatena.ne.jp/slumlord/20100917/1285076558

を読んで、遠い昔に考えていた懸念が確かに僕の中に蘇り、僕は自分の立場に十分な確信を持てなくなった。

>僕はあまりに長い間文字だけの抽象的な世界に住んできたため、無政府社会が論理的にもつだろうと考えられる美徳に魅せられたため、人間の他人への支配欲やレイプへの欲望、さらにもっとブラックでサディスティックな欲望を軽視するというオメデタい野郎になってしまっていたのだろうか??

>大学時代までの自分は、空想主義的、牧歌主義にはむしろ積極的な軽蔑、侮蔑を与えていたことは、間違いない。

>警察や軍隊が、それぞれのライバル会社の活動を許容し、ビジネス倫理にしたがって競争するというのは、この意味では、共産主義社会の空想と同じくらいに、オメデタい空想なのかも知れない。そういった意味では、僕は自分の考えを再思三考する必要があるだろう。

今この問題は、なるほど現時点では僕にとってのopen question としか言いようがない。

蔵さんご自身が「open question」と言われている以上、ここでへたに答えを出す必要もありませんし、それこぞリバタリアンの皆さんがさまざまに議論されればよいことだと思います。

ただ、かつて若い頃にいくつかリバタリアンに属するであろう竹内靖雄氏のものを読んだ感想を思い出してみると、社会主義的ないし社会民主主義的発想を批判する際には、まさしく「空想主義的、牧歌主義にはむしろ積極的な軽蔑、侮蔑」が横溢していて、正直言うとその点については大変共感するところがあったのです。(なぜか菅首相と同じく)永井陽之助氏のリアリズム感覚あふれる政治学に傾倒していたわたくしからすると、当時の日本の「さよく」な方々にしばしば見られた「空想主義的、牧歌主義」は大変いらだたせるようなものでありました。

その「リアリズム感覚」からすると、空想主義的「さよく」を批判するときにはあれほど切れ味のよい人が、どうして同じくらい空想的なアナルコキャピタルな議論を展開できるのかは不思議な感じもしたのですが、ある意味で言論の商人として相手を見て使い分けしていたのかな?という気もしています。

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『講座労働法の再生第6巻 労働法のフロンティア』

07464 『講座労働法の再生第6巻 労働法のフロンティア』がようやく届きました。

https://www.nippyo.co.jp/shop/book/7464.html

労働政策の展開とこれまでの理論・実務を踏まえ、今後の雇用社会の将来を展望しながら、その課題と方向性を論じる。

どれも論文として読んでおもしろいものです。

第1部 労働法の改革論議

第1章 労働法改革の理論と政策…………水町勇一郎

第2章 雇用社会の変化と労働法学の課題…………大内伸哉

第3章 労働法改革論の国際的展開…………濱口桂一郎

第2部 雇用政策と労働法

第4章 これからの雇用政策と労働法学の課題…………島田陽一

第5章 若年期・高年期における就労・生活と法政策…………小西康之

第6章 障害者雇用政策の理論的課題…………中川 純

第7章 外国人労働者…………早川智津子

第3部 非正規雇用と労働法

第8章 外部市場・非正規雇用と労働法制…………大木正俊

第9章 労働者派遣…………本庄淳志

第10章 有期雇用…………篠原信貴

第11章 パートタイム労働法…………阿部未央

第4部 労働法における学際的研究

第12章 企業法と労働法学…………土田道夫

第13章 ジェンダーと労働法…………黒岩容子

第14章 社会保障法学と労働法学…………菊池馨実

第15章 国際労働関係法の課題…………米津孝司

わたくしは「労働法改革論の国際的展開」というお題をいただいて、フレクシキュリティを取り上げて論じました。ご感想などいただければ幸いです。

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自営(個人請負)労働者の集団的労使関係

大内伸哉さんがアモーレブログで、

http://lavoroeamore.cocolog-nifty.com/blog/2017/06/post-5c5b.html(小嶌典明「労働組合法を越えて」を読み直す)

今から四半世紀前に小嶌典明さんが書かれた論文を引いて、個人請負的労働者の団結権、団体交渉権の議論の素材として、協同組合の団体交渉権を論じています。

これ、先のILOとJILPTの労働政策フォーラムで、わたしが最後にちらりと述べたテーマでもあります。

わたしの関心は最近のEUの動き、とりわけ欧州労連が昨年末に「自営労働者の新たな保護に向けて」という決議をし、

https://www.etuc.org/documents/towards-new-protection-self-employed-workers-europe#.WUMkxtG1u70

EU競争法による制約を乗り越えて、自営労働者の団結権、団体交渉権の確立を目指していくと言っていることに触発されていますが、

(参考)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2015/06/post-b4a9.html(「EU法における労組法上の労働者性」 『労基旬報』2015年6月25日号 )

ちなみに、この判決の判例評釈が、『労働法律旬報』1874号(2016年10月25日号)に、後藤究さんによって書かれています。

この手の議論をするとき常に念頭にあったのは、大内さんが持ち出している小嶌さんのかつての論文でした。その意味では、確かに、「憲法28条は,典型的な労働者以外にも,農民,漁民,中小企業者なども視野に入れて,団体交渉法制を立法化していくという壮大なプログラムをもつ規定だったのだと指摘」する「ロマンある解釈」だあったと思います。

恐らく時代に先駆けすぎていたために、誰もこれをフォローする研究者はおらず、小嶌さん自身もその後は派遣事業と有料紹介事業の専門家みたいになってしまいますが、世界的に雇用ではないが雇用類似の就労形態が急増している現在、改めて読み直されて然るべき論文であることは間違いないと、私も思います。

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