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2022年1月17日 (月)

ジョブ型学歴社会、メンバーシップ型学歴社会(複数まとめて再掲)

またぞろ学歴がどうたらこうたらという千年一日の如き噺が話題になっているという風の噂に、本ブログの過去エントリをいくつかサルベージ。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2016/09/post-3752.html(大学中退の社会的意味)

20140828121034_2

なんだか、大学中退すると言っている学生さんが話題のようですが、こういうのを見ていると、嗚呼、日本はほんとに学歴社会じゃないんだなあ、と感じます。

欧米ジョブ型社会では、基本的に学歴とは職業資格であり、その人間の職務遂行能力であると社会的に通用する数少ない指標です。なので、学歴で人を差別することがもっとも正当な差の付け方になります。

他の差の付け方がことごとく差別だと批判されるポリティカリーコレクトな世界にあって、ほとんど唯一何の疑いもなく堂々と人の扱いに差をつけられる根拠が、職業資格であり、職務遂行能力のまごうことなき指標たる学歴だからです。

みんなが多かれ少なかれ学歴そのものを直接の能力指標とは思っておらず、人間の能力ってものは学歴なんかじゃないんだよ、という言葉が半ば本音の言葉として語られ、そうはいってもメンバーとして受け入れるための足切りの道具としては使わざるを得ないねえ、と若干のやましさを感じながら呟くような、この日本社会とは全く逆です。

欧米での観点からすればあれもこれもやたらに差別的でありながらそれらに大変鈍感な日本人が、なぜか異常に差別だ差別だと数十年間批難し続けてきた学歴差別という奴が、欧米に行ってみたらこの世でもっとも正当な差の付け方であるという落差ほど、彼我の感覚の差を語るものはないでしょう。

そういう、人間力信仰社会たる日本社会のどろっとした感覚にどっぷりつかったまま、妙に新しがってかっこをつけようとすると、こういう実は日本社会の本音のある部分を局部的に取り出した歪んだ理想主義みたいな代物になり、それがそうはいってもその人間力というものをじっくりとつきあってわかるようになるために学歴という指標を使わないわけにはいかないんだよキミ、という日本社会の本音だけすっぽりと取り落としてしまうことになるわけです。

(追記)

ちなみに、よく知られていることですが、「大学中退」が、すなわち最終学歴高卒が、大卒よりも、況んや大学院卒なんかよりもずっとずっと高学歴として高く評価されている職場があります。

日本国外務省です。

日本国政府の中枢に、大学4年までちゃんと勉強してディプロマをもらった人よりも、外交官試験にさっさと合格したので大学3年で中退しためにディプロマを持たない人の方が、より優秀でより偉い人と見なされる組織が厳然として存在している(いた)ということにも、日本社会における『学歴』の意味が現れているのでしょう。

そして、それを見て、なるほど学歴なんか何の意味もないんだ、卒業するより中退した方が偉いんだと思って、自分の『能力』を証明する何もないままうかつに中退なんかすると、もちろん地獄が待ているわけですが。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2016/06/post-f1bb.html(メンバーシップ型学歴観)

中川淳一郎という方が、SEALDSの奥田愛基氏が一橋大学の大学院に入学(入院)したことに激怒している旨ツイートしています。

https://twitter.com/unkotaberuno/status/743462691973402625


さっき常見 @yoheitsunemi と一橋大学の先生と飲んでたけど、SEALDsの奥田愛基が一橋の院に入ったんだって? いやぁ……。すげー不快。

https://twitter.com/unkotaberuno/status/743463569358872576


文系国立大学の大学院さぁ、文科省の方針で院生増やしたいかもしれねぇけど、学歴ロンダリング狙いの連中が殺到するような状況をお前ら良しとしてるの? あぁ、ばかじゃねぇの? 一橋、うんこ食ってろ、てめぇら。バカ大学め、中にいる連中も含めててめぇらうんこ食ってやがれ

まだ続きますが、「一橋の院試がラクに入れるとの印象」とか「奥田氏も別に明学の院に行けばよかったんじゃないですか?」というあたりが、いかにも日本的なメンバーシップ型学歴観がよく現れているな、と感じました。

正直言って、社会的発言をする社会学の大学院生と言えば、最近も炎上を繰り返している某東大の院生タレント氏を見ればわかるように、それで大学の格がどうこうするようなものでもないのではないかと思いますが、そこはやはり、出身大学に対する愛着の度合いがここまで高いのでしょうね。

とはいえ、そもそも教育と雇用を貫く一次元的な「能力」、すなわち組織に入ってから厳しい訓練に耐えて様々な仕事をこなしていけるようになる潜在能力の指標としての大学入学時の高い勉強成績でその人をどう評価するかしないかという次元の話と、その研究内容をどう評価するかはともかく、ある問題意識を持って研究していくことができるタマかどうか、という次元の話とは、そもそもまったく違う話がやや感情レベルでごっちゃになっているのではないかという感が否めません。

研究者の卵がちゃんと立派な研究者に育つか、卵のまま潰れるのか、お笑いタレントの道を歩むのか、そのいずれであれ、当該大学院の指導教授と本人の問題であって、たまたま組織名を同じくする大学に昔入学できるほど賢かった人がいきり立つほどのことでもなかろうと思います。というか、そこで人をいきり立たせてしまうものが、まさにメンバーシップ型学歴観というものなのだろうな、と思うわけです。

(追記)

やや誤解があるようなので念のため。ここでいうメンバーシップ型学歴観とは、あくまでも「組織に入ってから厳しい訓練に耐えて様々な仕事をこなしていけるようになる潜在能力の指標としての大学入学時の高い勉強成績でその人をどう評価するかしないかという次元の話」であって、卑俗な言い方をすれば、「俺は18歳の時、こんなに偏差値が高かったのに、こんな偏差値の低い奴があとから院生として入ってきて○○大生みたいな面するな」という意識であり、だからこそ大学院に研究したくて入ってきた仲間同士のメンバーシップ感覚などとはまったく対極にある「学歴ロンダリング狙いの連中が殺到するような状況」という言葉が出てくるわけでしょう。

この学歴感覚については。もう30年以上昔の本ですが、岩田龍子氏の『学歴主義の発展構造』という本が大変示唆的です。

https://www.amazon.co.jp/%E5%AD%A6%E6%AD%B4%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E3%81%AE%E7%99%BA%E5%B1%95%E6%A7%8B%E9%80%A0-1981%E5%B9%B4-%E6%97%A5%E8%A9%95%E9%81%B8%E6%9B%B8-%E5%B2%A9%E7%94%B0-%E7%AB%9C%E5%AD%90/dp/B000J7UPVI?ie=UTF8&*Version*=1&*entries*=0

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2018/09/post-412f.html(大学の労働社会におけるレリバンスの違い)

なんだか、ネット上では大学に行くべきか行かざるべきかとかいうような話が盛り下がっているそうですが、本来教育と労働社会の鍵に関わるような話がかくも空疎なくだらないレベルに盛り下がるのは、やはり日本社会のありようが濃厚に反映しているように思われます。

まずある時期までの先進社会の一般的な構造をごく単純化していえば、労働社会は専門職や管理職として指揮するもの(ディレクター)、その下で能力を認められて働くもの(スキルドワーカー)、その下で能力必要なく下働きをするもの(ノンスキルドワーカー)の三層からなり、それぞれに教育制度のどのレベルを卒業したかによって、高等教育卒、中等教育卒、初等教育卒のものが割り振られるという仕組みでした。日本も戦前はこうでした。

日本以外の諸国は現在に至るまでこの三層構造自体は本質的に変わっていません。ただし、教育制度が全体として高等教育が拡大する方向に大きくシフトしました。その結果、かつてはディレクター階層の要員であった大学卒は普通にスキルドワーカー要員となり、ディレクター階層はその上の大学院卒によって占められるようになっていきました。一方、かつてはスキルドワーカー要員であった高卒は、その階層になだれ込んできた大卒に押し出されるようにしてノンスキルドワーカー要員になっていきます。あまりにもおおざっぱな描写ですが、すごくざっくりいうとこういうことです。

日本以外の社会は教育制度によって身に着けた(と社会的に認められた)スキルによって労働社会のポジションが付与されるジョブベースのシステムですから、公式的に言えば、現代労働社会におけるスキルドワーカー層に求められるスキルレベルは、かつての高卒レベルよりもはるかに高まって大卒レベルになったということになるはずです。これが欧米社会の揺るがすことのできない絶対的なタテマエです。

ところが、もちろんそういう面もないこともないでしょうが、本当にそのジョブに求められるスキルレベルということでいえば、そんなに上がっているわけではなく、実は教育内容だけでいえば高卒レベルで十分なんだけど、社会全体の学歴インフレのために、今の高卒者の(学んだ教育内容のレベルが、ではなく)社会全体におけるどのレベルの人材が来ているかという意味でのレベルが、つまりその人間の脳みその出来という意味でのレベルが、かつての中卒者レベルに下がってしまっているために、本当にそのジョブを遂行するスキルという意味では何ら必要ではない大卒者というディプロマによる能力証明が必要になってしまっている、というのが、上のタテマエの下から透けて見えるホンネの姿なのだろうと思われます。

ここから、そういう本当はその卒業者が就くジョブが求めるスキルという意味では過剰でしかない大学教育なんかやめてしまい、もっと現実に即したスキルドワーカー養成のための仕組みにシフトしていくべきではないかという議論が提起されてくるわけです。繰り返しますが、これはあくまでも教育制度で身に着けたスキルによって労働社会の地位が配分されるというジョブ型社会のタテマエを大前提にするからこそ、その建前と現実との乖離を突きつけて打ち出される議論であるということを忘れないでください。

ところが、戦後の日本社会は、この(戦前の日本社会は欧米と共有していたところの)ジョブ型社会の大前提が崩れ去ってしまっています。そもそも、会社内の構造が、その果たすべき役割によって三層に分けられるのではなく、ディレクター階層とスキルドワーカー階層が(正確にはそのうちの男性ですが)フルメンバーシップを付与されたメンバー層となり、ノンスキルドレベルからスキルドレベルヘ、さらにディレクターレベルへと「社内出世」するのがデフォルトモデルとなり、その外側にノンメンバー層が存在するというありようになってしまいました。

そこでは、管理職というのも管理という機能を果たす一職務ではなく、メンバー層のシニアに付与される処遇の一環となり、もともと想定されていたはずの高等教育を受けた者とのダイレクトなつながりは失われてしまいます。専門職すら(すべてとは言いませんが)専門的なジョブというよりも一処遇形態になるようなこの社会では、専門職の主要な供給源が大学レベルから大学院レベルに移行するというようなことも、なかなか起こりにくいわけでしょう。一方で、欧米であれば大学院卒が就くのがデフォルトであるような専門職が、それが専門的スキルを必要とするがゆえにメンバーシップを持たないノンメンバー層にあてがわれ、高学歴者ほど低処遇になるという、欧米であればこれ以上ないようなパラドックスが、特段不思議そうな意識もなくごく普通に受容されるという事態も現出するわけです。

そういう社会では、企業が大卒者を採用するのは、彼が企業内で遂行するべき管理的専門的職業のスキルを大学でみにつけてきたからではなく、人間の脳みその出来という意味で社会全体の中でこのレベルの人材だからという以上のものではないわけです。だからあの「シューカツ」なる社会現象があるわけで、その詳細は拙著『若者と労働』等にゆだねますが、まあ要するに、欧米社会のようなジョブ型社会のタテマエゆえの悩みは初めから感じなくて済むようになっています。教育制度で学んだことは初めからあまり関係ないのですから、「本当はその卒業者が就くジョブが求めるスキルという意味では過剰でしかない大学教育なんかやめてしま」えという議論が本気で提起されることもない。

それゆえ、高卒から大卒への教育レベルの一大シフトも、企業内階層構造との対応関係の大激変という事態を引き起こすわけでもなく、いわば欧米社会がいまだ掲げているジョブ型社会のタテマエの下でホンネとしてひそかに行っている人間力採用が、はじめから堂々たる正義として存在している以上、大学教育はその付与するスキルに対応するジョブがあるのかという本質的な意味での過剰論などはそもそも存在の余地はなく、人間力がどれだけ磨かれるか否かなどという次元でしか』論じられないのも当然かもしれません。

そういう社会では、大学に行くべきか行かざるべきかという議論も、労働社会の構造の本質如何という話とは無関係の、まともに相手にするだけの値打ちが全然感じられないような、なんだかふわふわとした能天気な話にならざるを得ないのも、またむべなるものがあるといえましょう。

 

 

 

 

 

 

2022年1月16日 (日)

人権は他人のもの?自分のもの?(改題の上再掲)

なんだか、人権は他人のためのものか、自分のためのものかが話題になっているという風の噂に、これまでそのテーマについて書かれたエントリを昨年まとめておいたので、改題の上再掲しておきます。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2021/05/post-3f8204.html(憲法記念日に人権を考える・・・hamachan版)

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本日、憲法記念日ということもあり、本ブログで過去、人権について書いたエントリをいくつかお蔵出しします。

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http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2012/09/post-baa7.html(りべさよ人権論の根っこ)

ユニオンぼちぼち リバティ分会(大阪人権博物館学芸課・教育普及課分会)のブログに、興味深い記述がありました。

http://unionbotiboti.blog26.fc2.com/blog-entry-308.html権利と聞いて何をイメージしますか?

・・・次に、今まで受けてきた人権教育、人権啓発の内容について質問します。
 被差別部落、在日コリアン、アイヌ民族、障害者、パワーハラスメント・セクシュアルハラスメント、ジェンダー、人種差別など、その特徴は個別の差別問題があげられることです。

権利に対して抱いているイメージが抽象的か具体的かについては、そのおよそ7割が抽象的だったと答えてくれます。身近かどうかについても、6~7割程度が「身近ではない」に手を挙げます。
 受けてきた人権教育・人権啓発を数多く書いてくれる人も中にはいるのですが、「働く権利」と書く人はほとんどいません。子どもでは皆無です。

この質問を考えたときに想像していた通りの結果にはなっているのですが、これが現状です。日本社会で権利がどのように受けとめられているかがよく分かりますし、状況はかなり深刻ではないかと感じています。
 人権のイメージが抽象的で自分に身近なものとは感じていないのですから、これではなかなか自分が人権をもっていると実感することはできません。まさに人権は、特別な場で特別な時間に学ぶものになってしまっています。
 最後に、「人権は誰のものですか?」と聞くと、多くの人は「全ての人のもの」と答えます。なのに、人権について繰り返し聞いたこれらの質問を考えるとき、自分に関わる質問だと感じながら考える人は多くないようです。「みんなのもの」なのに、そこに自分はいないのでしょうか。

まさにここに、世界でごく普通に認識されている人権とはかなり異なる日本における「人権」のありようが透けて見えます。

なぜこのような現状になっているのか。その問題を考えるとき、従来おこなわれてきた人権教育や啓発の問題を考えざるを得ません。
 質問に対する答えにも書いたように、人権教育や啓発でおこなわれている大半は、個別の差別問題に対する学習になっています。リバティに来館する団体が学芸員の解説で希望するテーマも、やはり多くは部落問題や在日コリアン、障害者の問題などになっています。
 もちろんこれらの問題も、被差別者の立場以外の人にこそ、自分自身が問われている問題だと考えて欲しいと思っています。しかし、リバティに来る子どもたちを見ていると、人権学習は固くて、重くて、面白くない、自分とは関係ないものだと感じていることがよく分かります。
 人権のイメージを聞かれて、「差別」と書くのも、人権学習は差別を受けて困っている人の話だと思っていることが影響しているのかもしれません。
 このような意識を変えていくためにこそ、労働に関する問題と働く権利の話を伝えていくことが必要だと思っています。

この異常に偏った「人権」認識が、例えば赤木智弘氏の「左派」認識と表裏一体であることはいうまでもありませんし、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2007/10/post_2af2.html(赤木智弘氏の新著その2~リベサヨからソーシャルへ)

男性と女性が平等になり、海外での活動を自己責任と揶揄されることもなくなり、世界も平和で、戦争の心配が全くなくなる。
で、その時に、自分はどうなるのか?<
これまで通りに何も変わらぬ儘、フリーターとして親元で暮らしながら、惨めに死ぬしかないのか?

をいをい、「労働者の立場を尊重する」ってのは、どこか遠くの「労働者」さんという人のことで、自分のことじゃなかったのかよ、低賃金で過酷な労働条件の中で不安定な雇傭を強いられている自分のことじゃなかったのかよ、とんでもないリベサヨの坊ちゃんだね、と、ゴリゴリ左翼の人は言うでしょう。

ニュースなどから「他人」を記述した記事ばかりを読みあさり、そこに左派的な言論をくっつけて満足する。生活に余裕のある人なら、これでもいいでしょう。しかし、私自身が「お金」の必要を身に沁みて判っていながら、自分自身にお金を回すような言論になっていない。自分の言論によって自分が幸せにならない。このことは、私が私自身の抱える問題から、ずーっと目を逸らしてきたことに等しい。

よくぞ気がついたな、若いの。生粋のプロレタリアがプチブルの真似事をしたってしょうがねえんだよ、俺たち貧乏人にカネをよこせ、まともな仕事をよこせ、と、あんたは言うべきだったんだ、と、オールド左翼オヤジは言うでしょう。

そして、人権擁護法案に対するこういう反応の背後にあるのも、やはり同じ歪んだ人権認識であるように思われます、

http://homepage3.nifty.com/hamachan/hirotakaken.html(ミニ・シンポジウム「教育制度・教育政策をめぐって(2)――教育と雇用・福祉」 )

数年前に、若者関係の議論がはやった頃に結構売れたのが、フリーターの赤木智弘さんが書いた本です。その中で、彼は「今まで私は左翼だったけど、左翼なんかもう嫌だ」と言っています。彼がいうには、「世界平和とか、男女平等とか、オウムの人たちの人権を守れとか、地球の向こう側の世界にはこんなにかわいそうな人たちがいるから、それをどうにかするとか、そんなことばかり言っていて、自分は左翼が大事だと思ったから一生懸命そういうことをやっていたけど、自分の生活は全然よくならない。こんなのは嫌だ。だからもう左翼は捨てて戦争を望むのだ」というわけで、気持ちはよくわかります。
 
 この文章が最初に載ったのは、もうなくなった朝日新聞の雑誌(『論座』)です。その次の号で、赤木さんにたいして、いわゆる進歩的と言われる知識人たちが軒並み反論をしました。それは「だから左翼は嫌いだ」と言っている話をそのまま裏書きするようなことばかりで、こういう反論では赤木さんは絶対に納得しないでしょう。
 
 ところが、非常に不思議なのは、彼の左翼の概念の中に、自分の権利のために戦うという概念がかけらもないことです。そういうのは左翼ではないようなのです
 
 もう一つ、私はオムニバス講義のある回の講師として、某女子大に話をしに行ったことがあります。日本やヨーロッパの労働問題などいろいろなことを話しましたが、その中で人権擁護法案についても触れ、「こういう中身だけど、いろいろと反対運動があって、いまだに成立していない」という話を、全体の中のごく一部でしました。
 
 その講義のあとに、学生たちは、感想を書いた小さな紙を講師に提出するのですが、それを見ていたら、「人権擁護法案をほめるとはけしからん」という、ほかのことは全然聞いていなかったのかという感じのものが結構きました。
 
 要するに、人権を擁護しようなどとはけしからんことだと思っているわけです。赤木さんと同じで、人権擁護法とか人権運動とか言っているときの人権は、自分とは関係ない、どこかよその、しかも大体において邪悪な人たちの人権だと思いこんでいる。そういう邪悪な人間を、たたき潰すべき者を守ろうというのが人権擁護法案なので、そんなものはけしからんと思い込んで書いてきているのです。
 
 私は、正直言って、なるほどと思いました。オムニバス講義なので、その後その学生に問い返すことはできませんでしたが、もし問い返すことができたら、「あなた自身がひどい目に遭ったときに、人権を武器に自分の身を守ることがあり得るとは思いませんか」と聞いてみたかったです。彼女らの頭の中には、たぶん、そういうことは考えたこともなかったのだと思います。
 
 何が言いたいかというと、人権が大事だとか憲法を守れとか、戦後の進歩的な人たちが営々と築き上げてきた政治教育の一つの帰結がそこにあるのではないかということです。あえて毒のある言葉で申し上げますが。
 
 少なくとも終戦直後には、自分たちの権利を守ることが人権の出発点だったはずです。ところが、気が付けば、人権は、自分の人権ではなく他人の人権、しかも、多くの場合は敵の人権を意味するようになっていた。その中で自分の権利をどう守るか、守るために何を武器として使うかという話は、すっぽりと抜け落ちてしまっているのではないでしょうか
 

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2014/08/post-3e81.html(自分の人権、他人の人権)

https://twitter.com/YuhkaUno/status/494839766626492419

人権教育というのは、まず「あなたにはこういう権利がある」ということを教えることだと思うんだけど、日本の人権教育は「弱者への思いやり」とかで語られるから、人権というのは「強者から弱者への施し」だと考えるようになるんだと思う。

もっというと、だから人権を目の敵にする若者たちがいっぱい出てくるわけです。

ということをだいぶ前から言い続けてきているわけですが・・・。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/hirotakaken.html

 残りの3分の1の時間で、想定される小玉先生の話に対するコメントをします。本田さんの言い方で言うと、「適応と抵抗」の「抵抗」になります。
 
数年前に、若者関係の議論がはやった頃に結構売れたのが、フリーターの赤木智弘さんが書いた本です。その中で、彼は「今まで私は左翼だったけど、左翼なんかもう嫌だ」と言っています。彼がいうには、「世界平和とか、男女平等とか、オウムの人たちの人権を守れとか、地球の向こう側の世界にはこんなにかわいそうな人たちがいるから、それをどうにかするとか、そんなことばかり言っていて、自分は左翼が大事だと思ったから一生懸命そういうことをやっていたけど、自分の生活は全然よくならない。こんなのは嫌だ。だからもう左翼は捨てて戦争を望むのだ」というわけで、気持ちはよくわかります。
 
 この文章が最初に載ったのは、もうなくなった朝日新聞の雑誌(『論座』)です。その次の号で、赤木さんにたいして、いわゆる進歩的と言われる知識人たちが軒並み反論をしました。それは「だから左翼は嫌いだ」と言っている話をそのまま裏書きするようなことばかりで、こういう反論では赤木さんは絶対に納得しないでしょう。
 
 ところが、非常に不思議なのは、彼の左翼の概念の中に、自分の権利のために戦うという概念がかけらもないことです。そういうのは左翼ではないようなのです。
 
 もう一つ、私はオムニバス講義のある回の講師として、某女子大に話をしに行ったことがあります。日本やヨーロッパの労働問題などいろいろなことを話しましたが、その中で人権擁護法案についても触れ、「こういう中身だけど、いろいろと反対運動があって、いまだに成立していない」という話を、全体の中のごく一部でしました。
 
 その講義のあとに、学生たちは、感想を書いた小さな紙を講師に提出するのですが、それを見ていたら、「人権擁護法案をほめるとはけしからん」という、ほかのことは全然聞いていなかったのかという感じのものが結構きました。
 
 要するに、人権を擁護しようなどとはけしからんことだと思っているわけです。赤木さんと同じで、人権擁護法とか人権運動とか言っているときの人権は、自分とは関係ない、どこかよその、しかも大体において邪悪な人たちの人権だと思いこんでいる。そういう邪悪な人間を、たたき潰すべき者を守ろうというのが人権擁護法案なので、そんなものはけしからんと思い込んで書いてきているのです。
 
 私は、正直言って、なるほどと思いました。オムニバス講義なので、その後その学生に問い返すことはできませんでしたが、もし問い返すことができたら、「あなた自身がひどい目に遭ったときに、人権を武器に自分の身を守ることがあり得るとは思いませんか」と聞いてみたかったです。彼女らの頭の中には、たぶん、そういうことは考えたこともなかったのだと思います。
 
 何が言いたいかというと、人権が大事だとか憲法を守れとか、戦後の進歩的な人たちが営々と築き上げてきた政治教育の一つの帰結がそこにあるのではないかということです。あえて毒のある言葉で申し上げますが。
 
 少なくとも終戦直後には、自分たちの権利を守ることが人権の出発点だったはずです。ところが、気が付けば、人権は、自分の人権ではなく他人の人権、しかも、多くの場合は敵の人権を意味するようになっていた。その中で自分の権利をどう守るか、守るために何を武器として使うかという話は、すっぽりと抜け落ちてしまっているのではないでしょうか。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2014/08/post-4543.html(リベサヨにウケる「他人の人権」型ブラック企業)

みなみみかんさんの鋭い直感:

https://twitter.com/radiomikan/status/505024778688684034

たかの友梨もワタミもそうなんだけど、児童養護施設に寄付したり東南アジアの子供ために力を入れたりしてるんだけど、自社の社員に対する扱いがアレで、もうなんかアレという他ない。

だから、そういう「他人の人権は山よりも高し、自分の人権は鴻毛よりも軽し」って感覚こそ、あの赤木智弘氏がずっぽりとその中で「さよく」ごっこしていた世界であり、そんなんじゃ自分が救われないからと「希望は戦争」になだれ込んでしまった世界であるわけです。

自分の人権なんかこれっぽっちでも言うのは恥ずかしいけれど、どこか遠くの世界のとってもかわいそうな人々のためにこんなに一生懸命がんばっているなんて立派なぼく、わたし、という世界です。

そういうのを讃えに讃えてきたリベサヨの行き着く果てが、末端の労働者まで社長に自我包絡されて、こんなに自分の人権を弊履の如く捨て去って他人の人権のために尽くすスバラ式会社・・・というアイロニーに、そろそろ気がついてもよろしいのではないかと、言うてるわけですけど。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

メンバーシップ型社会の量子力学的構造(改題の上再掲)

昨年6月にアップしたエントリをそっくりそのまま再アップしておきます。なにも付け加えるべきことはありません。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2021/06/post-a7954d.html(ジョブ型とメンバーシップ型のねじれた議論)

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みずほ銀行のシステム障害の報告書をめぐって、こういうツイートがあったのですが、

https://twitter.com/_innocent2017/status/1406076301153386498

Vliauirg_400x400 みずほ銀行のシステム障害に関する調査報告書が話題になってますね。
その中でも「声を上げて責任問題となるリスクを取るよりも、持ち場でやれと言われていることだけをやった方が組織内の行動として合理的となる企業風土」という趣旨の原因分析が、日本企業らしいとして話題になっています。

これは、本当に日本企業独特の企業風土なのでしょうか?
確かに「減点型」の人事評価をする組織ならそのようなことがあるかもしれませんが、いわゆる欧米型、ジョブ型雇用の組織こそ「自分の持ち場の外のことは口を出さない」という風土が強くなってもおかしくないと思います。

欧米型、ジョブ型雇用の組織で「あえて声を上げる」ことが組織の中で合理的な選択となるのか、ぜひ有識者の方に教えていただきたいです。

たぶん、世の多くの人もこの人も、みんな日本的な集団的に仕事をし、一人一人に権限と責務が明確に割り振られているのではない量子力学的メンバーシップ感覚のままであれこれ議論するからこうなるんだろうな、と。

いやいや、ジョブ型ってのは、何か問題を発見したらそれをきちんと報告せよというのが、その当該者に与えられたタスクである限り、それこそが「持ち場でやれと言われていることだけ」なのであり、そういうジョブにはめ込まれた人がそれをわざとやらないことは、それがばれたらそれこそどういう処分を受けても文句をいえない。他により重要な考慮すべきことがあり、それを守るためならば自分の首をかけてもいいと思えるのでない限り、自らの職責を粛々とこなすこと以外に合理的な選択などはない。

逆に、そういうタスクを課されていない人は、そもそも自分の職責にもないことで「あえて声を上げる」などという他人の仕事を奪うような真似をする理由などない。そんなバカなことはいかなる意味でも合理的な選択ではないが、それはそもそもそれが自分の仕事じゃないから。その意味では、まさしくこの人の言うとおり、ジョブ型雇用の組織こそ「自分の持ち場の外のことは口を出さない」世界だ。

という、自分の仕事と決まっていることはきちんとやる、自分の仕事ではないことには口を出さないという、ニュートン力学的なジョブ型の世界の感覚を欠落させて、誰がどの仕事にどういう責任を負っているのやらいないのやらよくわからないような量子力学的メンバーシップ型の世界で、誰もが少しずつその問題に持ち場として関わりつつ、誰も自分のみがその問題の責任者であるとは思っていないようなふわふわした状況下では、それに関わる全員が、自分もその部分的責任者であるのに、「あえて声を上げる」ことが組織の中で合理的な選択とならず、他の部分的責任者の誰かがやるだろうと考えてしまうことが合理的になってしまうのでしょう。

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(追記)

なにも付け加えないと言いながら、一言だけ付け加えておくと、要するにみずほ銀行には、システム障害についてきちんと声を上げることが、それこそが自分の最重要なタスクであると思っている人が一人もいなかったということなんでしょうね。他人事みたいに関わっている人はごまんといたけれども。

半年前に「量子力学的」という言葉を使ったけれども、考えてみれば、誰かが見つけて声を上げるまでは誰の職責かは不確定だけれども、誰かが声を上げた瞬間に不確定性が消失して、その声を上げた不運な奴の職責に確定してしまうという、日本のメンバーシップ型社会のありようを、よく表している表現のような気がしてきました。

そういう社会では、何かに気づいても見て見ぬふりをして、誰の職責だか明確でない不確定性を維持することが、誰にとっても最も合理的な行動様式になるわけです。そのうちにだれか馬鹿正直な奴が声を上げて、そいつに職責が確定されて、自分の不確定だった職責が解除されるのを待っているのが最も合理的。

2022年1月15日 (土)

スペインでプラットフォーム労働者の労働協約締結

Luzrodriguez115x115 久しぶりにソーシャル・ヨーロッパの記事から。筆者はラマンチャ大学の労働法の先生でロドリゲスさんという方。

https://socialeurope.eu/first-agreement-for-platform-workers-in-spain(First collective agreement for platform workers in Spain)

2020年9月にスペインの最高裁がプラットフォーム労働者を自営業者ではなく雇用労働者であると判決したことがもとになって、2021年に雇用契約を推定するライダー法が制定されており、今回の労働協約につながったということのようです。

スペイン語の原典に当たってないのでセコハン情報ですが、なかなか面白いのは、

Their annual wage is set in the agreement at €15,232, or €1,270 per month, to which supplements will have to be added for working at night or on holidays or for mileage if a worker uses their own vehicle.

年収約1万5千ユーロ、月収1270ユーロの保障給

Also according to the new agreement, platform workers will have a maximum working time of nine hours per day. Two uninterrupted days of rest a week must be respected, including one Sunday per quarter, in addition to a guaranteed 30 days holiday per year. 

1日9時間の上限に加えて、週休、さらに30日の年休。

The mobile phone used by a worker to connect to the application must be provided by the platform, as well as all other work tools (vehicle and food box). If a vehicle is the worker’s own, then the platform must pay corresponding compensation. The costs of the tools are thus to be assumed by the platform, not the worker as in most countries.

携帯電話はプラットフォームが提供しろとか、車が労働者の自家用車ならその費用をプラットフォームが負担しろとか、なかなかウーバーらにとっては厳しい内容ですね。

Those riders visible on the streets of Spain will now be workers who have rights.

スペインの道路で目にするライダーたちは、いまや権利を有する労働者なのだ。

 

 

 

2022年1月14日 (金)

事業を開始した受給資格者等に係る受給期間の特例

本日、労政審で雇用保険法等の改正案要綱が承認されましたが、その中にちょっと興味深い規定があります。

https://www.mhlw.go.jp/content/000881549.pdf

今回の改正案で一番注目されたのはいうまでもなく、雇用調整助成金が使われ過ぎてお金が無くなったのをどうするかという話で、保険料率を上げるけれどもそれを先延ばしするとか、いろいろ話題になりましたが、ここではそこじゃなくて、フリーランス対策の一環という面もあるある規定を。

それは、要綱の文言では

二 事業を開始した受給資格者等に係る受給期間の特例
受給資格者であって、基本手当の受給資格に係る離職の日後に事業(その実施期間が三十日未満のものその他厚生労働省令で定めるもの(注1)を除く。)を開始したものその他これに準ずるものとして厚生労働省令で定める者(注2)が、厚生労働省令で定めるところにより公共職業安定所長にその旨を申し出た場合には、当該事業の実施期間(当該期間の日数が四年から受給期間の日数を除いた日数を超える場合における当該超える日数を除く。)は、受給期間に算入しないものとすること。
(注1)当該事業により自立することができないと公共職業安定所長が認めるものとする予定〔省令〕。
(注2)離職前に当該事業を開始し、離職後に当該事業に専念する者とする予定〔省令〕。 

となっていますが、つまり一旦労働者から起業の道を選んで自営業者になった人が、夢破れてもう一遍労働者に戻って仕事を探そうというときに、元の勤務実績に基づいた失業給付をもらえるという話です。

これは、もちろん特定の場合に限ってですが、ある意味で元労働者のフリーランスにも雇用保険を拡大適用しているような面があり、昨年6月の骨太の方針で「フリーランスといった経済・雇用情勢の影響を特に受けやすい方へのセーフティネット・・・の在り方を検討」という要請に部分的に答えたという面があります。

労政審の安全衛生分科会では、例のアスベスト最高裁判決を受けて、一人親方へも安全衛生規定を拡大するという議論をしていますし、こういう割と地味な方面で、フリーランス対策がじわじわと膨らんでいるということも、頭の片隅にとどめておく必要がありそうです。

『ジョブ型雇用社会とは何か』の電子書籍が出たようです

71cahqvlel_20220114210901 amazonは依然として紙の本が払底して、鞘取り族が馬鹿高い値段をつけているようですが、kindleの電子書籍版が出たようなので、そちらでもお読みいただけます。

https://www.amazon.co.jp/dp/B09QBSJZTQ

(追記)

すごいな、kindle版が出たとたんに、amazonでの岩波新書売れ筋ランキングでこの電子版が2位になっている。

鞘取り族が馬鹿高い値段をつけてる紙の本がいまだに3位につけているというのもいささか不思議ではありますが。少なくとも、わざわざamazonで1,820円もの金を払って買う必要は全くありませんので、別のストアに行ってもらった方がいいと思いますよ。

https://www.amazon.co.jp/gp/bestsellers/books/2220219051/ref=pd_zg_hrsr_books

 

2022年1月13日 (木)

”採るべき人”と”採ってはいけない人”の間

毎度のことながらネット上はあちらでもこちらでも炎上ネタが転がっているようですが、その騒ぎをちょっと斜め後ろ方面から見ると、これもまたいろいろと興味深い視角が開けてきます。

https://kabumatome.doorblog.jp/archives/65990403.html

話の出発点は、某社人事部の方の

採用は"採ってはいけない人”を見極める仕事だ。最近意味が分かってきた。

というつぶやきで、これがなぜか大炎上したようですが、でも、ジョブ型じゃなくて、メンバーシップ型の採用の本質から言えば、これはなかなか本質を言い当てている感もあります。

もちろん、世界共通の雇用のベースラインモデルであり、日本以外の社会ではみなそうであり、日本だって法律の建前上はそうであるところのジョブ型雇用社会の原理からすれば、

採用は”採るべき人”を見極める仕事だ。

ということに尽きるのです。特定のスキルを要する特定のジョブに、もっともそれを的確に遂行しうると思われる人を当てはめることが採用であるならば、それ以外のことはすべてたわごとに過ぎない。

ごまんといる膨大な人の中から、特定のジョブを遂行しうる数少ない特定の人を選び出すという至難の業こそが採用だと思っている人からすれば、どんな仕事ができるかできないかなどとは何ら関係なく、ただトンデモな地雷を踏まないことが大事だなどというのは、採用の風上にも置けないはずでしょう。

でもね、それはジョブ型社会の話であって、メンバーシップ型社会ではそもそも特定のジョブを遂行しうる人を採用するんじゃないのだから、話の筋道がそれとは違うわけです。

会社の必要に応じてどんな仕事でも一生懸命取り組んでこなしていくような人材こそを求めているのである以上、そういう”採るべき人”とは、”採ってはいけない人”の補集合としてしか定義のしようがない。

そう、”採ってはいけない人”とは、採用から定年退職までの長期間会社のメンバーとしてやっていけそうもないトンデモな「地雷」のことを意味するのですから、この某社人事部の方のセリフはまさにメンバーシップ型採用の本質を言い当てているのであり、そう考えると「最近意味が分かってきた」というのも誠に意味深いものがありますね。

何なんだよ、あいつは。とんでもねぇ奴だな。誰だよ、あんな奴採用したのは。え?何年入社だって?そん時の人事課長は誰だよ。こんな奴だとわかって採用したのかね・・・

てなことの一つや二つが転がっていない会社はたぶんあんまりないはずです。みんな心当たりがあるでしょう。だって、みんなメンバーシップ型にどっぷり漬かってきているんだから。

何べんも言うけど、ジョブ型ってのは入口がアルファでありオメガであって、それ以外はすべてそのコロラリーに過ぎない。入口をそのままにして、賃金処遇だけジョブ型と称して成果主義にしてみたところで、”採ってはいけない人”を見極めることが人事部の最大の任務であるということには何の変りもないのですから。

 

 

 

2022年1月12日 (水)

『ジョブ型雇用社会とは何か』第5刷決定

71cahqvlel_20220112220601 おかげさまで、昨年9月下旬に出た『ジョブ型雇用社会とは何か』が、新年早々第5刷が決定しました。これもお買い求めいただいた皆様方のおかげと心からお礼申し上げます。

本書では特に初めのところで日経新聞を槍玉にあげて批判しているんですが、その日経新聞に昨年末経済書第4位に選んでいただいたうえに、今年は年始早々、例の日立が全社員ジョブ型化という記事で、みんながジョブ型を検索して、本書を見つけるという好循環のサイクルまで作ってくれているみたいで、有難いというか申しわけないというか不思議な感覚です。

ちなみに、東洋経済には経済書第2位に選んでいただいた上に、今年は年始早々、こういう記事で宣伝していただいていて、こちらはほんとに感謝です。

https://toyokeizai.net/articles/-/479368

でもって、みんな「ジョブ型」を検索して、amazonで本書を買う人が増えたためか、どうも品切れ状態をきたしたようで、amazonの本書のページを見たら、目を剝くような事態になっていました。

https://www.amazon.co.jp/dp/4004318947/

なんとおどろくべきことに、¥1,717という値段がついているんですよ。いやいやまだ出たばっかりの新刊書で、定価は¥1,122ですからね。例によってamazonを徘徊する鞘取り族がこういうべらぼうな値段をつけて売ってるんでしょうが、間違ってもこういう暴利屋のは買わないでくださいね。

 

 

2022年1月11日 (火)

大内伸哉『最新重要判例200[労働法] <第7版>』

594309 大内伸哉さんの『最新重要判例200[労働法] <第7版>』(弘文堂)をお送りいただきました。これも2年おきに版を重ねてはや7版ですか。

https://www.koubundou.co.jp/book/b594309.html

膨大な判例の中から新しいものを中心に一貫した視点で重要判例を選び、すべてを1人で解説することにより統一的に理解できる判例ガイド。
1頁に1判例、判旨の要点がひと目でわかるよう2色刷りにし、読者の学習に配慮した判例解説の最新版です。
この2年間に、有期・無期労働者間の労働条件格差に関する判例など、注目すべき判例が登場しました。それらの判例を収録しつつ、必要かつ十分な判例を読者に届けるという目標を念頭に厳選した結果、新規判例8件を追加、8判例を削除し、全面的に記述を見直した200判例を収録しました。また、読者の参考になるよう、著者の著作『人事労働法』の該当頁を解説の末尾に掲載しています。
法学部生をはじめ、各種国家試験受験生、社労士、企業の人事・労務担当者に最適の1冊。 

というわけで、いくつか追加された判例あれば、代って削除された判例ありで、メトロコマースと日本郵便の代わりに丸子警報器が消えてゆくのは一抹の寂しさがありますね。

 

 

2022年1月10日 (月)

「ジョブ型」祭りには一服の清涼剤としてこの一冊

ちょうど一昨年の今頃から日立製作所をネタに始まった日経新聞主導の「ジョブ型」祭りは、今年もますます燃料を投下しつつ続けていくようですが、

https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUC263I70W1A221C2000000/(日立製作所、全社員ジョブ型に 社外にも必要スキル公表)

 日立製作所は7月にも、事前に職務の内容を明確にし、それに沿う人材を起用する「ジョブ型雇用」を本体の全社員に広げる。管理職だけでなく一般社員も加え、新たに国内2万人が対象となる。必要とするスキルは社外にも公開し、デジタル技術など専門性の高い人材を広く募る。年功色の強い従来制度を脱し、変化への適応力を高める動きが日本の大手企業でも加速する。・・・・

さすがに、一昨年の頃のいい加減な記事に比べると、(さんざん批判されたからか)言葉の使い方に若干注意が払われた跡が見受けられますが、

https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUC07CB90X00C22A1000000/(ジョブ型雇用とは 職務明確化、専門性高める)

働き手の職務内容をあらかじめ明確に規定して雇用する形態のこと。事業展開に合わせて外部労働市場から機動的に人材を採用する欧米企業に広く普及している。会社の業務に最適な人材を配置する「仕事主体」の仕組みといえる。特定の業務がなくなれば、担当していた人材は解雇されることも多い。・・・・ 

それにしても、これからの新商品として売り込んでいきたいという商魂だけは見事ににじみ出ている記事ではありますね。

71ttguu0eal_20220110112101 祭りが始まってから2年たった今年には、もういちいち反応するんじゃなくって、大事なことはすべてこの本に書いておいたから、ぜひ読んでね、とだけ言っておきます。少なくともジョブ型ってのは古臭いベースラインモデルなんであって、新商品ネタとしてもてはやすようなものではなく、メンバーシップ型こそが少し前にやたらもてはやされていたが今は落ちぶれた古びた新商品なんだということくらいはわきまえて喋ることができるようになるはず。

ちなみに、この日経新聞が年末に経済図書ベスト4位に選んでいただいたおかげか、

https://www.nikkei.com/article/DGKKZO78742310U1A221C2MY6000/

年末時の岩波新書の売り上げベスト10の1位になっていたようで、

https://www.iwanami.co.jp/news/n45220.html

まあ、ありがたいことではあります。

 

2022年1月 9日 (日)

日本的特色のある「サービスしてよ経済化」「サービスしまっせ経済化」

過去数十年にわたって、世界でサービス経済化が進んできたけれど、日本におけるそれはかなり特殊なものだったのではないか。やや皮肉を込めて、日本的特色のあるサービス経済化とでも言いたくなるようなものだったのではないか。

それは、アカデミックな文章語ではあまり表面に現れないが、日常言語では極めてありふれた言い回しである「サービスしてよ」とか、「サービスしまっせ」という表現に滲み出ている、無料とか、安価といった意味合いが限りなく染み込んだ、そういう「サービス経済化」であったのではないか。

その結果、世界共通のサービス経済化が、日本においては、低価格、低賃金の、いわば「サービスしてよ経済化」「サービスしまっせ経済化」をもたらすことになったのではなかろうか。

2022年1月 7日 (金)

「日本流」ジョブ型雇用 何が問題か@『週刊東洋経済』1月15日号

51grzzg1l_sy344_bo1204203200_ 『週刊東洋経済』1月15日号が、昨年末に東洋経済オンラインに載ったインタビュー記事の縮約版(奥田記者によるまとめ記事)を載せています。

https://premium.toyokeizai.net/articles/-/29319

短くなって、やや意が通じにくくなっているところもありますが、言っている趣旨はいつも同じです。

・・・・欧米のジョブ型雇用も完璧ではない。

欧米では働きぶりや能力評価ではなく、公的な資格がモノをいう。会社で昇進するには、自分の実力を客観的に証明する資格を取り、それを武器に、より上の職務の公募に手を挙げるやり方が一般的だ。だが、資格があるからといって必ずしも実務で「使えるヤツ」なのかといえば、そうとも限らない。逆もまたしかりだ。

濱口氏は、「どの雇用制度が正解だと言うつもりはない。日本企業がこれまでの賃金処遇制度に問題意識を持ち、新たな人事制度を取り入れようとしていること自体は理解できる。ただ、制度の違いや中身を本質的によく理解したうえで考えるべきだ」と話す。

ジョブ型雇用は職務が固定化され専門性が高まる一方、「潰し」が利かなくなる一面を持つ。AI(人工知能)に取って代わられ、仕事が消えてなくなる可能性も否定できない。雇用の大転換期にある今、働く側が身の振り方を主体的に考えることが重要になる。

 

【本棚を探索】第1回:ブランコ・ミラノヴィッチ『資本主義だけ残った』

『労働新聞』に代わる代わる月1回連載してきた書評コラムですが、新年からは「本棚を探索」というタイトルで、引き続きやっていきますのでよろしく。

Img20210802_05433751 その第1回目が本日ネット上にアップされています。ブランコ・ミラノヴィッチの『資本主義だけ残った』です。

https://www.rodo.co.jp/column/119798/

 昔のキャラメルのCMではないが、1冊で2度おいしい本だ。1つ目はアメリカをはじめとする今日の西側の資本主義を「リベラル能力資本主義」と規定し、それがもたらすシステム的な不平等と、それがなまじ能力による高い労働所得に基づくがゆえに旧来の福祉国家的な手法では解決しがたいパラドックスを描き出す第2章である。

 19世紀の古典的資本主義では、資本家が裕福で労働者は貧しかった。20世紀の社会民主主義的資本主義では、社会保障や教育を通じてかなりの再分配が行われた。これに対して、21世紀のリベラル能力資本主義では、多くの人が資本と労働の双方から収入を得ており、金持ちの多くはその「能力(=人的資本)」に基づいて高額の給料を得ている。高学歴の男女同士が結婚(同類婚)することで階級分離が進み、相続税が高い社会でも学歴という形で不平等が世代間移転される。こうなると、課税と社会移転という20世紀的なツールの有効性が低下する。一番始末に負えないのは、勤勉で有能であるがゆえに高給を得、夫婦親子でエリート一族を形成する彼らを道徳的に批判することが(かつての「有閑階級」と異なって)困難である点だ。この章は、みんながうすうす感じていたことをあっさり暴露した風情がある。

 次の第3章は中国(とその眷属国家)の有り様を「政治的資本主義」と規定し、その世界史的位置付けを試みているが、これだけで十分一冊になる。著者によれば、共産主義は植民地化された後進国の資本主義化の手段である。そして優秀な官僚、法の支配の欠如、国家の自律性に特徴付けられる政治的資本主義には、腐敗と不平等という宿痾がまつわりつく。なぜなら、法の支配が故意に柔軟な解釈をされ、横領に手を染めることが可能となるからだ。これに対して一部評論家が提唱する法の支配の強化という処方箋は、官僚の自由裁量権をなくすことになるので採り得ない。

 そこで習近平政権は腐敗に手を染めた役人を片っ端から摘発する(ハエもトラも叩く)。とはいえ、それは腐敗の一掃が目的ではなく、「腐敗の川を川床内に留めおき、社会にあまり広がらないようにする」ことにすぎない。「洪水の如く溢れたら最後、腐敗を持続可能な程度まで押し戻すのは極めて困難」だからだ。

 以上だけでもおいしいが、第4章以下では、労働と移民のパラドックス、アンバンドリングとしてのグローバル化、世界に広がる腐敗、道徳観念の欠如、さらには人工知能とユニバーサル・ベーシックインカムなど、今日話題のネタもたっぷり詰め込まれている。だが、本文最後で語られる未来図はいささか心冷えるものである。それは、リベラル資本主義の下で形成されつつある新たなエリート層が、今よりはるかに社会から独立した立場につき、政治的領域を支配するようになる、つまり政治的資本主義に近づいていくというシナリオだ。人々の頭の中から政治を消し去り、国民を満足させておける比較的高い成長率をもたらすために、経済をすこぶる能率的に管理することが求められる。そして恐らくこのシステムに土着の腐敗が増え、長い目で見れば政権の存続の脅威となる、と。

 

 

2022年1月 6日 (木)

労働組合は利益団体(ほぼ再掲)

20220105at66s_p なんだかまたぞろ、岸田首相が連合の新年会に出席したというニュースをネタに、労働組合を政治団体か思想団体か宗教団体かと取り違えた発想がネット上で拡散されているようですが、あまりのデジャブに、以前のエントリに書いた文章をそっくりそのまま自分でコピペする以外に何とも言いようがない感が半端ない・・・。

どれくらいデジャブかというと、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2016/10/post-4e73.html(労働組合は利益団体)

なんだかまたぞろ、自民党の幹事長が連合の会長と会談したというニュースをネタに、労働組合を政治団体か思想団体か宗教団体かと取り違えた発想がネット上で拡散されているようですが、あまりのデジャブに、以前のエントリに書いた文章をそっくりそのまま自分でコピペする以外に何とも言いようがない感が半端ない・・・。 

ということで、そのデジャブの元のエントリはこちら:

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2015/06/post-07d6.html(首相、連合の次期幹部と会談)

まあ、政治部の記者が政治面に書く記事ですから、どうしても政局がらみの政治家的目線になるのは仕方がないのかも知れませんが、ここはやはり、労働組合とは政治団体でもなければ思想団体でもなく宗教団体でもなく、労働者の利益を最大化し、不利益を最小化することを、ただそれのみを目的とする利益団体であるという、労使関係論の基本の「キ」に立ち返ってもらいたいところです。
労働者の利益のために白猫が役立つのであれば白猫を使うし、白猫が役に立たないのであれば黒猫を使う、というのは、労働組合を政治団体か思想団体と思い込んでいる人にとっては原理的に許しがたいことかも知れませんが、利益団体としての立場からすれば何ら不思議なことではありません。
政権と対決して労働者の利益が増大するのであればそういう行動を取るべきでしょうし、そうでないのであれば別のやり方を取るというのも、利益団体としては当然です。
問題はむしろその先です。
利益団体としての行動の評価は、それによってどれだけ利益を勝ち取ったかによって測られることになります。それだけの覚悟というか、裏返せば自信があるか。
逆に言えば、政権中枢と直接取引してそれだけの利益を勝ち取る自信がないような弱小団体は、下手に飛び込んで恥をかくよりも、外側でわぁわぁと騒いでいるだけの方が得であることも間違いありません。しかしそれは万年野党主義に安住することでもあります。
上の記事は政治部記者目線の記事なので、政治アクターにとっての有利不利という観点だけで書かれていますが、労使関係論的に言えば、労働組合の政治戦略としてのひとつの賭であるという観点が重要でしょう。

まあ、こういうことを百万回繰り返しても、やっぱり労働組合を労働者の利益団体だとはかけらも思わず、政治団体か思想団体か宗教団体かと取り違える人々は尽きることがないようです。

 

 

 

2022年1月 4日 (火)

『改革者』等に書評

新年出勤すると、いくつかの雑誌が届いていて、そこに『ジョブ型雇用社会とは何か』の書評が掲載されておりました。

22hyoushi01gatsu まず、私も執筆したこともある政策研究フォーラムの『改革者』1月号には、梅崎修さんによる1頁の書評が載っています。

とりわけ、次の一節は嬉しい評価です。

・・・未読の方は、濱口氏本人がジョブ型改革の必要性を主張していると思われるかも知れない。ところがそうではなく、本書は、その改革がいかに誤解に満ちた迷走であるかを批判し、正し歴史認識の必要性を主張しているのである。
 本書が喝破したのは、ジョブ型改革が「成果主義」のリベンジになっているという事実であろう。・・・

Kaikaku

もう一つ、こちらは京都のNPO法人あったかサポートセンターの『あったか情報』に、同NPO法人の半田敏照さんがこれまた1頁の書評を書かれています。こちらの目の付け所は、次の一節にあります。

・・・この著書では、日本の雇用慣行がもつ多くの矛盾を、ジョブ型の切口から独特な語り口で指摘し、読者を納得させてくれるのである。・・・

Attaka

 

 

 

 

2022年のキーワード:フリーランス@『先見労務管理』2022年1月10日号

Senken2022 『先見労務管理』2022年1月10日号に「2022年のキーワード:フリーランス」を寄稿しました。

なお、この号では、警備員の欠格事由規定放置は国会の立法不作為だとして国家賠償をみとめた昨年10月の岐阜地裁判決の解説が興味深いものでした。

 

 

2022年1月 1日 (土)

新年明けましておめでとうございます

Imgp0782 昨年も世界中がコロナ禍に苦しみ、波乱に満ちた一年となりました。また前年に引き続き、マスコミを中心に「ジョブ型」という言葉が歪んだ形で流行し、この言葉の名付け親としては、きちんと始末をつけねばならないと考えました。
 わたくしは三月に『団結と参加ー労使関係法政策の近現代史』(労働政策研究・研修機構)を刊行した後、覚悟を決めて九月には『ジョブ型雇用社会とは何かー正社員体制の矛盾と転機』(岩波新書)を世に問いました。幸いにして多くの心ある方々の好評を得ることができ、『週刊東洋経済』のベスト経済・経営書にも選んでいただきました。
 今年こそは内外ともに良い年となり、皆様にとっても素晴らしい年となりますように心よりお祈り申し上げます

二〇二二年一月一日

2021年12月27日 (月)

今年1年間『労働新聞』で12冊を書評

今年は1月から、『労働新聞』紙上で毎月1回、「Go to 書店」という書評コラムを書くことになりました。12冊の選び方に対してはいろいろとご意見のあるところかもしれませんが、わたくしとしては毎回楽しく書評させていただきました。

松永伸太朗 『アニメーターはどう働いているのか』

07464本書は令和2年度労働関係図書優秀賞を受賞した作品だ。著者には昨年12月、私の司会で労働政策フォーラム「アニメーターの職場から考えるフリーランサーの働き方」の基調講演とパネルディスカッションにも出演していただいた。

 昨年来のコロナ禍で、フリーランス対策は政府の大きな課題になりつつあり、その中で注目を集めているのが、本書のテーマであるアニメーターである。何しろ、いまや日本の国策となったクール・ジャパン戦略の中核に位置するのが、最も競争力のある輸出財ともいわれる日本のアニメだからだ。

 アニメーターといえば、一昨年にNHKの朝の連続テレビ小説「なつぞら」で、広瀬すずが演じた奥原なつを思い出す人も多いだろう。モデルとなった奥山玲子は、東映動画で共働き差別に抗議して労働争議を繰り広げていた。しかし、今や日本アニメを支えるアニメーターたちの大部分はフリーランスという就業形態であり、出来高制の下で極めて低賃金で働いていることが、近年問題提起されつつある。上記フォーラムではアニメーターの職業団体や労働組合の方々も登壇し、解決策を論じた。

 本書で松永さんが調査研究し、論じようとしているのは、もう少し根が深い問題だ。彼は、ややもするとアニメーターの低賃金労働を「やりがい搾取」と評したがる向きに疑問を呈する。アニメの作画スタジオX社に164時間もの職場観察調査を行い、マネージャーやアニメーター一人ひとりの微細な動きまで精密に観察し尽くすことにより、彼らの働き方を背後で支える「当事者の論理」を浮彫りにしていった。

 その手法は社会学におけるエスノメソドロジーというもので、労働研究の世界では目新しいものだが、働く人々の一挙手一投足をその心のひだに分け入るように分析していく手つきは、間違いなく物事の背後にある真実を探り当てるのにふさわしいやり方と感じさせる。

 アニメーターたちにフリーランスとしてスタジオに集まって働くという働き方を選択させているものは何か?松永さんは、仕事の獲得とスキル形成という課題の解決をX社が手厚く支援している点を指摘する。フリーランサーは仕事を獲得したり、自らのスキルを高める取組みを、自助努力で行う必要がある。とくにアニメ産業では、仕事の契約期間が短いためしばしば「手空き」と呼ばれる仕事のない期間が生じ、また若手の育成にかかわる余力を持ちにくい。

 ところがX社では、マネージャーがこまめにアニメーターの仕事の進捗状況などを把握し、「手空き」になりそうなアニメーターがいれば、彼に合った仕事の情報を提供し、また中堅・ベテランアニメーターが一定期間若手の育成にかかわる慣行がある。こうしてX社は、フリーランサーのリスクを吸収する仕組みを作り上げている。

 若い労働研究者の渾身の力作を、是非読んでいただきたい。

『日本人の働き方100年-定点観測者としての通信社-』

07464本書は1月16日から東京国際フォーラムで開催される予定だった写真展の図録である。「予定だった」というのは、1月8日に再び発令されたコロナ禍の緊急事態宣言の煽りを食らって延期されてしまったからだ。そのため、本来なら会場で販売されるはずだった本書は、今は寂しく書店の片隅に並んでいる。とはいえ、この図録は単独の写真本としても大変興味深いものになっている。いわば、写真で語る近代日本労働史とでもいうべきものになっているのだ。

 まず劈頭を飾るのが今からほぼ1世紀前の1920年、大日本労働総同盟友愛会が主催した日本最初のメーデーの写真だが、その後は横浜市電の総罷業、日本ゼネラルモータースの越年争議、鐘紡争議で募金活動する女性たち、東京市電の罷業本部で炊き出しする女性車掌たち、女工哀史で有名な東洋モスリン亀戸工場の争議、住友製鋼所の争議への差し入れ風景、事務所に立てこもって気勢を上げる山岡発動機工作所争議団――などと、どれもこれも闘う労働者の姿ばかりが映っている。

 いや雇用されている労働者だけではない。相撲の力士たちが待遇改善を求めて中華料理店に籠城しているかと思えば、浅草松竹座のレビューガールたちも待遇改善を求めて気勢を上げている。平成、令和のすっかり争議を忘れてしまった日本人に比べれば、戦前の日本人の方がはるかに闘争心をむき出しにしていたのだ。

 敗戦後も日本人は労働争議に明け暮れた。東宝争議の写真に写っているのは鎮圧にやってきた米軍の戦車である。「来なかったのは軍艦だけ」といわれたこの争議では、組合側で黒澤明監督や三船敏郎らが活躍したことでも知られている。デパートでも「三越にはストもございます」と48時間ストライキに突入した。しかし、郵便、国鉄といった公共サービスのストライキは、民間労働者の共感を呼ぶどころか反発を招き、やがてこれら公共部門の民営化の遠因ともなっていくことになる。

 平成時代の労使紛争の写真は、2013年の大相撲の八百長問題をめぐる蒼国来の解雇紛争と、2004年のプロ野球選手会によるストライキだけである。大相撲とプロ野球。労働をめぐる紛争は、いまや華やかなプロスポーツの世界でしか表舞台に現れなくなってしまったかの如きである。

 その代わりにデモの写真はいっぱいある。しかし、デモは所詮デモに過ぎない。ストライキが会社と斬り合う真剣勝負であるとすれば、デモは広く世間一般に訴えかけているだけだ。そして、戦前や戦後のデモの写真が、メーデーにおける労働者の団結を誇示するデモンストレーションであったのに対し、近年のデモの写真は、労働時間規制や派遣切りといった労働政策テーマに対するマイノリティーグループのアドボカシー活動以上のものではない。そのプラカードに「原発反対」とか「海外派兵反対」とかあっても何の違和感もないだろう。それがたまたま労働運動を名乗っていたとしても、いかなる意味でも労働争議と呼ぶことはできない。

カール・B・フレイ『テクノロジーの世界経済史』

07464 2013年9月、オックスフォード大学のフレイとオズボーンは、アメリカでは今後労働力人口の47%が機械に代替されるという論文「雇用の未来」を発表し、世界中で話題を呼んだ。日本でも2017年に野村総研がJILPTの職業データを用いて、労働力人口の49%が自動化のリスクにさらされていると発表したことを覚えている人もいるだろう。近年、AIをはじめとする情報通信技術の急速な発展により雇用の行方がどうなるのか、多くの人々が熱心に論じているが、そのゴングを鳴らしたのがこの論文であった。

 その執筆者の一人であるカール・B・フレイが満を持して、技術革新と雇用の関係を歴史叙述として壮大に描き出したのが、邦訳で600頁を遥かに超える分厚い本書だ。話は産業革命前の幸福な「大停滞」の時代から始まり、18~19世紀の産業革命で生産性が急上昇し、同時にそれまでの職人たちが機械に仕事を奪われ労働者階級が悲惨な状況に陥った「大分岐」の時代を描き出したのち、20世紀の大量生産体制が確立し、労働者が豊かになり中産階級化した「大平等」の時代を経て、20世紀末からの「大反転」の時代に至る。

 この労働者階級の浮き沈みの歴史は、たとえばトマ・ピケティの『21世紀の資本』では、本来「資本収益率>経済成長率」ゆえに格差が拡大するのであり、20世紀は戦争と革命のお陰でそれが逆転しただけだとの説明になるのだが、フレイはこれを各時代の技術革新の性質によって説明する。「大分岐」の時代の新技術は「労働代替的」であった。つまり、新たな機械によってそれまでの熟練職人たちは仕事を追われ、無技能の女子供が雇用されたために、労働者階級は貧困に陥ったのだ。エンゲルスが『イギリスにおける労働者階級の状態』において怒りとともに描き出した世界である。ところが20世紀の自動車産業に典型的な大量生産体制における技術は「労働補完的」であった。つまり、成人男性の半熟練労働者が経済成長とともに拡大し、社会全体の所得分配も平等化したのだ。労働組合は自動化による生産性向上に協力し、その代わりに大幅賃上げを勝ち取った。マルクスの予言は嘲笑の対象となった。

 それが20世紀末から、コンピュータの登場とともに再び「労働代替的」な技術革新に反転した、というのがフレイの見立てである。この数十年間進んできたのは、かつて中産階級であったブルーカラーや事務職の没落であり、増えているのは上層の「シンボリック・アナリスト」と下層の対人サービス業なのだ。トランプ現象をはじめとするポピュリズムはそれに対する怒りの(ねじけた)噴出であろう。

 非常に長期的にみれば、現在の労働代替的技術による第2の大分岐の時代もやがて反転し、再び労働補完的な技術による第2の大平等の時代がやってくるのかもしれない。だがそれが何世代か先のことであるならば、今現在仕事を奪われつつある人々にとっては何の慰めにもならない。ケインズ曰く、「人は長期的にはみな死んでいる」のだから。

デヴィッド・グレーバー『ブルシット・ジョブ-クソどうでもいい仕事の理論』

07464コロナ禍さなかの2020年7月に刊行され、その直後の9月に著者が急逝したこともあり、かなり評判を呼んだ本である。そこで列挙されている取り巻き(flunkies)、脅し屋(goons)、尻ぬぐい(duct tapers)、書類穴埋め人(box tickers)、タスクマスター(taskmasters)というブルシット・ジョブの5類型をみて、そうだそうだ、こいつらみんなクソだと、心中快哉を叫んだ人も少なくないだろう。とはいえ、すべてのブーメランは自分のもとに戻ってくる。

 「被雇用者本人でさえ、その存在を正当化しがたいほど、完璧に無意味で、不必要で、有害でもある有償の雇用の形態」というその定義は、従事者本人がブルシットだと感じているという主観的要件にのみ立脚しているわけだが、この分厚い本におけるその立証はもっぱら、彼のもとに届けられた共感のお手紙に基づいている。

 グレーバーが目の仇にする“なんとかコンサルタント”の多くが、自分の仕事をブルシットだと思っているかどうかは定かでないし、おそらくご立派な仕事だと思っているだろう。グレーバー自身の文化人類学者という仕事と同様に。そして文化人類学者の中には、自分の仕事がいかにブルシットかを切々と訴える手紙を書いている人もいるかも知れない。グレーバー宛にではないにせよ。

 ブルシット・ジョブの対極に位置付けられる低賃金で労働条件も劣悪だが社会に有益な「シット・ジョブ(きつい仕事)」は、様ざまなケア労働、いわゆるエッセンシャルワークを意味する。彼にいわせれば、「人のためになる仕事ほど、賃金が下がる」のだ。改めて脚光を浴びたそれらの仕事が貴重なのは論を俟たないが、コロナ禍を経験した我われは、エッセンシャルでない不要不急の仕事はブルシットなのか? という問いにたじろがざるを得ない。むしろ、我われの多くがいかに不要不急の仕事で生計を立てているのかを思い知らされたのが昨年の経験ではなかったか。自分の狭い経験から人様の仕事の値打ちを裁断することにかくも大胆不敵であり得ることに、いささか驚かざるを得ない。

 という本格的な批判はいくらでも出てくるのだが、ここではややトリビアな話題を。近年流行の「ジョブ型」論でいえば、ブルシット・ジョブといえどもジョブ型社会の「ジョブ」なので、ジョブ・ディスクリプションが必要なのだ。本書88ページ以下には、中身のない仕事の職務記述書をもっともらしくでっち上げるという究極のブルシット・ジョブが描写されている。日本にも山のようにブルシットな作業やら職場やらがあるのだろうが、ただ一つ絶対に存在しないのは、ブルシット・ジョブのジョブ・ディスクリプションを事細かに作成するというブルシットな作業であろう。

 なぜなら、日本ではそんなめんどくさい手続きなど一切なしに、もっともらしい肩書き一つで「働かないおじさん」がいくらでも作れてしまうのだから。もっとも、それが良いことなのか悪いことなのかの評価はまた別の話ではある。

十川陽一『人事の古代史』

07464人事といっても古代日本、律令制を導入して左大臣だの中納言だのとやっていた時代の人事の本だ。ところがこれがめっぽう面白い。歴史書としてもそうだが、人事労務管理の観点からも大変興味深いのだ。

 律令制以前の日本はウジ社会。要するに豪族たちの血縁原理でもって世の中が動いていたわけだが、諸般の事情で中国化せねばならなくなり、身の丈に合わない律令制というやたらに細かな法制度を導入することになった、というのは読者諸氏が高校日本史で勉強したとおり。

 ところがその人事制度をみていくと、本家の中華帝国とは一味違う仕組みになっているのだ。日本の律令制では、官人にまず位階を付与する。正一位から少初位下までの30段階のあれだ。これとは別に官職というのがある。大納言とか治部少輔とか出羽守とかのあれだ。そして、これくらいの位階ならこれくらいの官職というのが大体決まっている。大納言は正三位、治部少輔や出羽守は従五位という具合だ。ところが元になった唐の律令制ではそういう風になっていない。吏部尚書は正三品、御史大夫は従三品とかいっても、それは官職のランクにすぎない。ヒトについたランクではない。逆にいえば、日本ではまず人にランクを付けて、それからおもむろに官職を当てはめるのだ。

 あれ? どこかで聞いたような話だと思わないだろうか。そう、古代日本の律令制は職能資格制であるのに対して、中国の律令制は(そういいたければ)ジョブ型なのだ。その結果何が起こるか。位階はあってもはめ込むべき官職のないあぶれ者が発生する。これを「散位(さんに)」と呼ぶ。仕事がないので散位寮に出仕させるのだが、六位以下では無給になる。正確にいうと、五位以上には位封など身分給があるが、六位以下は職務給だけなので、散位だと収入がなくなる。

 そこで、写経所でアルバイトをする。博物館に展示してあるあれだ。写経所は令外の官司(律令外の公的機関)であり、ある意味あぶれた官人のための公共事業という側面もあったようだ。これが出来高払いで、誤字脱字があると減給される。日本の課長になれない参事二級が「働かないおじさん」をやっても基本給はもらえるのに比べると、なかなか厳しい世界だ。

 ちなみに、ジョブ型の中国では、「散位」はないが「散官」がある。中身のない官職なのだが、開府儀同三司とか驃騎大将軍とかやたらに偉そうな名前が付いている。思い出すのは前回紹介した『ブルシット・ジョブ』に出てきたブルシット・ジョブのジョブ・ディスクリプションを延々と作る人の話だ。

 時は流れ、イエ社会が諸般の事情で近代化せねばならなくなってからも、似たようなことが起こっているのは御承知のとおり。まずヒトにランクを付けるというやり方は千年以上経っても変わらないようだ。「雇用問題は先祖返り」とは、数年前に『HRmics』誌に連載したときのタイトルだが、千数百年前のデジャビュを演じていたとは流石に知らなかった。

ウォルター・シャイデル『暴力と不平等の人類史』

074642006年末、朝日新聞社の雑誌『論座』2007年1月号に大きな議論を巻き起こした論文が載った。赤木智弘の「『丸山真男』をひっぱたきたい―31歳、フリーター。希望は戦争」だ。曰く「平和が続けば、このような不平等が一生続くのだ。そうした閉塞状態を打破し、流動性を生み出してくれるかも知れない何か―。その可能性の一つが、戦争である」、「戦争は悲惨だ。しかし、その悲惨さは『持つものが何かを失う』から悲惨なのであって『何も持っていない』私からすれば、戦争は悲惨でも何でもなく、むしろチャンスとなる」。

 これに対し左派文化人は、戦争がいかに悲惨かを説くばかりで、赤木の主張の本丸に正面から向かい合おうとするものはなかった。少なくとも同年11月に刊行された著書『若者を見殺しにする国』(双風舎)で赤木はそう慨嘆していた。その赤木の提起に正面から答える大著が、2019年6月に刊行された本書である。原題は「The Great Leveler」。レヴェラーとは近世イギリスの急進的平等主義者のことだ。700頁を超える本書は古今東西の史実を縦横に引用しながら、人類史において平等をもたらしてきたのは、戦争、革命、崩壊、疫病という「平等化の四騎士」であったことを論証する。

 そのトップバッターとして登場するのは日本だ。戦前、欧米諸国よりも所得分配が不平等だった極東の国が、国家総力戦体制の下で急激に平等化していった姿を克明に描き出す。1938年から1945年の7年間で、上位1%の所得シェアは19.9%から6.4%に下落している。その経緯の一端は、私も『日本の労働法政策』において「社会主義の時代」と呼んで論じた。日本では確かに戦争と戦後の混乱が平等をもたらし、平和はじわじわと不平等を招き入れてきたのである。それは他の多くの諸国でも同様であった。

 この歴史像はトマ・ピケティの『21世紀の資本』における「資本収益率>経済成長率ゆえに格差が拡大するのであり、20世紀は戦争と革命のおかげでそれが逆転しただけ」という主張とも響き合う。戦場の死屍累々に匹敵する平等化の旗手(レヴェラー)は、ソ連や中国のような革命という名の自国民への大虐殺だったというのも、さらに一層陰鬱な歴史像であろう。四騎士に代わる平和的平等化の企てをことごとく吟味した著者は、「暴力的衝撃と全く無関係に物質的不平等が少なからず軽減したという論理的かつ確実な裏付けのある事例を見つけるのは難しい」と結論付ける。

 著者は四騎士は馬から下りたという。そして正気の人間なら彼らの復帰を決して望まないだろうと。おおむね正しいが、一点だけ彼の予言は外れた。コロナ禍直前に刊行された本書は「疫病による大量死の可能性は低い」と述べていたが、今や世界中でコロナ死者は300万人を超えている。しかし過去1年余りの経験は、感染のリスクに身をさらす弱者を痛めつけ、リスクから身を引き離せる強者を守り、世界中で格差が拡大しつつあることを示している。疫病という第四の騎士はレヴェラーから用心棒に転身したのであろうか。

エリック・ポズナー&グレン・ワイル『ラディカル・マーケット 脱・私有財産の世紀』(

07464世間の一次元的な思想測定器では、左右のどこに位置付けたら良いのか頭を抱えるだろう一冊だ。ある面では本書はすべてを市場メカニズムに委ねるべきと主張する過激な市場原理主義の書である。しかし、ある面では私有財産を悪しき独占とみなし、それを共有化しようとする最も過激な平等主義の書でもある。絶対に混じり合いそうもない両者を一体化させているのがオークションという秘伝の妙薬なのだ。その結果、どこからみてもラディカルな主張が生み出される。

 本書の第1章のタイトルは「財産は独占である」という過激なスローガンである。ならばその独占を打破するためにどうしようというのか。彼らの処方箋は、世の中のすべての財産を共有化して、使用権をオークションに掛けるというものだ。具体的には、自分の財産評価を自己申告制にして税金を支払い、より高い財産評価をする人が現れたらその人に所有権が移転する。これは実はかつて孫文がヘンリー・ジョージの影響を受けて三民主義のなかで唱えたものなのだが、市場メカニズムの基底をなしている私有財産権自体をオークションという市場メカニズムによって突き崩してしまうというあっと驚くアイデアである。

 そのほかにも、1人1票の代わりに、投票しないで貯めておいた票をここぞという大事なときにまとめて投票できる二次投票システムとか、左右どっちからみても過激な、言葉の正確な意味でラディカルな提案が並ぶ。

 そのなかでも、労働の観点から興味をそそられるのは第3章の「移民労働力の市場を創造する」だ。ここで提唱されるのは、移民のビザをオークションに掛け、政府ではなく個人と共同体が移民の受入れを判断する仕組みである。これにより、「自国民と移民が個人的にコンタクトし、移住を成功させる責任は自国民が負」い、両者間に「建設的な関係が築かれる」だろうというのだ。

 第5章の「労働としてのデータ」では、今はやりのAI議論に一石を投ずる。現在グーグルやフェイスブックなどの巨大IT企業は、利用者からタダで得た膨大なデータ(ビッグデータ)を使い、人工知能の機械学習によって作成されたサービスによって巨万の富を得ている。これはかつてマルクスが描いた搾取の構図そのものではないか。この不払い労働の正当な対価を取り返すために、「万国のデータ労働者が団結」し、テクノロジー封建主義を打倒せよと著者らはいう。

 データ労働組合がデータに対する報酬を引き上げることを主張して多数を結集し、フェイスブックやグーグルにストライキを決行すると通告する。データ労働者はサービスの消費者でもあるので、ストライキはボイコットでもあるのだ。

 「ラディカル」という言葉には、「過激な、急進的な」という意味と、「根本的な、徹底的な」という意味がある。本書結論のタイトルどおり、まさに「問題を根底まで突き詰め」た結果としての過激・急進的な提案の数々は、我われの脳みそを引っ掻き回すのに十分な素材であろう。

ヤン・ド・フリース『勤勉革命』

07464「勤勉革命(Industrious Revolution)」といえば、日本の速水融が資本集約的なイギリスの「産業革命(Industrial Revolution)」に対して、江戸時代の労働集約的な経済発展を指す言葉として提唱したものだが、本書でいう勤勉革命はだいぶ趣が異なる。

 その性格付けはむしろ、最後の第6章で論じられる近年の第二次勤勉革命に近い。それは、妻や子供などが外で働いて稼ぐようになり(複数稼得世帯化)、稼いだ金で衣服や音楽を購入し、自宅で食事を作るよりも外食が増えるといった事態を指す。これに先立つ時期は、第5章のタイトルのとおり、大黒柱と内助の功(Breadwinner Homemaker Household)の時代であったわけだが、そういう男性稼ぎ手モデル確立以前の社会のありようを、今日の第二次勤勉革命のイメージを逆照射する形で描き出したのが本書である。

 なので、「勤勉」革命という標題は読者をまごつかせる。一世帯からの総労働時間数が増えることを指して「勤勉」といっているのだが、その主たる動機は消費なのだ。懐中時計、蒸留酒、コーヒー、白パン、陶磁器など様ざまな魅力的な商品を手に入れたい、そのためにもっと稼ぎたい、という欲望に牽引されて、妻や子供たちも外で働くようになったというのだ。男性稼ぎ手モデル時代の経済理論である低所得多就業のように、貧困ゆえに家族まで働きに出ざるを得なかったというわけではないという逆転の理論である。

 そのモデルは長い18世紀のオランダである。イギリス産業革命に先立つ時期に、オランダでは消費主導の勤勉革命が進行していたというのは、これまでの経済史観をひっくり返すものだ。消費という目的を達成するために、より多くのモノやサービスを市場から調達するようになり、市場向けの労働、とりわけ女性の子供の労働が拡大していったというのだ。著者はこれまでの通説である抑圧された労働者、栄養失調の労働者といったモデルを実証的に批判する。

 やがて19世紀半ば以降、工場立法によって妻や子供たちが労働から隔離され、男性稼ぎ手モデルが確立していくが、その背景にあるのも「消費願望の方向性の転換 購買不可能性」だったという。かつては悲惨な女子年少労働者の保護として(左右両派から)称賛され、近年は家父長制的な女子年少者の労働市場からの排除として(フェミニストから)批判されたこの動きを、市場で購入可能な財をより快適に消費するための世帯内行動パターンと捉えるのだ。

 こうして冒頭述べた第二次勤勉革命の時代に辿り着く。今日、かつての長い18世紀と同様、妻や子供たちが再び外で雇われて働くようになった。その原動力も新たな個人消費への欲求であった。家で食事を作るよりもレストランで外食をし、家で衣服を作るよりもファッショナブルな既製服を購入する。音楽や演劇などエンターテインメントにもお金が掛かる。そのためにも、妻や子供たちはますます長く働き、たくさん稼がなければならない。消費主導の勤勉革命再び、である。

ショシャナ・ズボフ『監視資本主義』

07464今日、私たちはグーグル、アップル、アマゾンなどのプラットフォームを使うことなく、1日たりとも過ごすことはできなくなっている。これらはとても便利だ。だが、私たちがこれらを使うたびに、その情報が蓄積され、加工され、利用されている。

 これらの側からみれば、私たちは便利さという餌に引き寄せられてきた原材料に過ぎない。検索したり、確認したり、購入したり、というクリック行動から抽出された「行動余剰」が、これらの営利の元になる。生産過程における剰余価値の搾取に産業資本主義の本質を見出したマルクスに対し、ズボフは21世紀にGAFAが作り出した新たな資本主義の本質をこの「行動余剰」の搾取に求める。

 ここで思い出すのが7月12日号で紹介したポズナー&ワイル『ラディカル・マーケット 脱・私有財産の世紀』だ。利用者からタダで得た膨大なデータを使い、AIの機械学習で作成されたサービスによって巨万の富を得ている巨大IT企業に対し、不払い労働の正当な対価を取り返すために「万国のデータ労働者は団結せよ」と論じていた。しかし、問題はデータ労働の不払い価値だけではない。そのデータが秘かに私たちに不利益に使われる恐れがあるのだ。

 日本の新卒就職市場という狭い範囲ながら、そのリスクを露わにしたのが一昨年のリクナビ事件であった。学生たちは便利さに引き寄せられて、というよりも、リクナビやマイナビを使わずに就職活動ができないような状況下で、そのクリック行動から推計された辞退可能性を秘かに求人企業に売り渡されていたのである。渡したつもりのない自分に関するデータが作り出され、商品化されている。これまでの個人情報やプライバシーの議論の想定外のほの暗い領域が垣間見えた一瞬であった。

 邦題の「監視資本主義」からは、常にビッグブラザーの監視の目が光っている『1984年』風の全体主義国家を想像するかもしれない。しかし、両者は対極的だ。暴力装置による恐怖支配ではなく、計測と予測に基づき行動修正(behavioral modification)が誘導される。「監視(surveillance)」しているのは全体主義的独裁者(ビッグブラザー)ではなく、道具主義的管理者(ビッグアザー)というわけだ。

 これに限らず、ズボフの用語法は鮮やかなものが多い。分業(division of labor)に対して知の分割(division of learning)とか、ポランニーの土地、労働、貨幣に続く第4の疑似商品たる「人間の経験(human experience)」とか、クーデター(国家の転覆)ならぬクーデ・ジャン(人々の転覆)とか。

 本書にもインスパイアされて、EUを先頭に世界的な動きとしてプラットフォーム規制やAI規制の声が高まりつつあり、労働法政策の観点からも無視し得なくなりつつある(その一端は筆者もJILPTのホームページなどで紹介している)。その思想的根拠を考えるうえでも、本書は必読の書だ。700ページを超す分厚さと、税込み6160円という高価さが唯一の欠点だが。

広田照幸『陸軍将校の教育社会史』

074641997年に刊行された学術書の24年ぶりの文庫版である。しかし、今読んでもワクワクするほど面白い。

 著者の広田照幸は教育社会学者で、その関心は軍人さんの「滅私奉公」イデオロギーは本気だったのか? を確認することにある。とはいえ、いやいや本音は「立身出世」主義だったんだよという結論を導き出すために次々に繰り出される、様ざまな歴史資料のディテールのあれこれがたまらなく面白いのだ。それは、著者の問題関心からは少しずれるかも知れないが、いわば「陸軍将校のキャリアデザイン史」としての面白さである。

 将校の地位が約束された陸軍士官学校、幼年学校は、いうまでもなく戦前期日本のエリートコースの一つだった。しかし、旧制高校→帝国大学というエリートコースと比べると、少し違いがあった。それは「大学を出るには少なくとも一万円は用意しなければなるまい。専門学校でも三千や五千の金はかゝる筈である。(中略)現在家貧にして身を立てる方面と言へば軍部方面、商船方面、教育界以外にはない。陸海軍ならば、いかに貧しくても家系が正しくて人間が良ければ思ふまゝに活躍できる」と当時の受験案内書にあるように、より低い社会階層の若者の上昇ルートであったという点だ。貴族や富豪が軍人になった欧州諸国と違うところである。

 将校という組織幹部の調達方式として、明治初期には下士官から将校への昇進という道があった。彼ら下士官上がりの将校は、尉官で終わっても嬉しいだけで文句はない。

 ところが1880年代以降はその道はほぼ閉ざされ、士官学校卒業生が初めから将校になるのが当たり前のコースになる。彼らにとって出世できずに尉官で終わるというのは面白くない。しかも軍人はかなり早期退職で、予備役になると元々資産がないものだから恩給だけでは生活が苦しくなる。ヨーロッパ各国の軍隊の将校は貴族や富豪が多いので、尉官で辞めても資産があるし、議員や重役になれるが、学力試験のみで選抜してきた資産なき日本の将校は辞めたら惨めなのだ。

 近代化の先生のはずのヨーロッパよりももっと近代的な人材選抜方式を採用したことが、彼らに現役としての地位にしがみつくことを強制する。これこそ軍国主義イデオロギーの形而下的実体である。広田は「これまで封建的後進性と批判されてきた軍隊組織の諸問題は、実は経済的基盤を欠いた将校の保身という観点から理解されるべき」と喝破する。

 そうした彼らが、軍縮と称して軍人のクビを切りたがる文官・文民エリートに敵意を持つのは当然だろう。そして彼らにとっての干天の慈雨が満州事変であったのもよく理解できる。

 昇進が停滞し、俸給水準が相対的に低下し、早期退職を迫られたら生活難に直面していた軍人たちは、満州事変から日中戦争、大東亜戦争と戦線が拡大するなかで、「天皇への献身」「聖戦」の名の下で野心を実現する機会を与えられたのだ。評者は本書を読んで、「日本版メリトクラシー(実力主義・能力主義)の興亡」と名付けたい衝動に駆られる。

柯隆『「ネオ・チャイナリスク」研究』

07464最近、「中国の動向がやばい」と感じる事件が多発している。香港、ウイグル、チベット、モンゴルといった民族弾圧問題は以前からだが、これまで中国経済を牽引してきた先端産業の経営者に対して弾圧とも取れる政策が矢継ぎ早に取られ、文革を礼賛するかの如き評論が掲載されるなど、中国はこれからどうなるんだろうと感じている人は多い。書店に行けば中国関連書籍は棚に溢れているが、その大部分はハイテク中国は凄いぞと煽るか、独裁中国は酷いぞと叫ぶかで、冷静に今日の中国の姿を論じたものは多くない。

 その中で、今年5月に出た本書は、日本の民間シンクタンクで30年以上中国経済の分析に携わってきた中国人による、中国人として育った実体験の吐露と経済研究者としての客観的な分析がほど良く混じり合って、極めて納得的な記述に仕上がっている。

 中華人民共和国の歴史は毛沢東の時代、鄧小平とその弟子の時代、習近平の時代に分けられる。大躍進と文革で数千万人が殺された毛沢東の時代に対し、改革・開放でGDPが100倍になった鄧小平らの時代は、しかし政治改革は断固拒否し、共産党独裁の下で腐敗と貧富の格差が拡大した。そして今日の「中国の特色ある習近平新時代」は、毛沢東の時代に逆戻りしつつあると著者は言い、その原因を習政権の紅衛兵世代としてのDNAに求める。

 …元紅衛兵たちは今、だいたい60代である。習政権執行部のほとんどは元紅衛兵である。彼らはそれまでの世代と比較して権力を人一倍崇拝する傾向が強い。結論をいえば、元紅衛兵出身の指導部が国家運営を主導している間は、中国社会が民主化する見込みはほとんどないと思われる。元紅衛兵たちは毛時代に憧れ、社会と知識人に対する統制を強めようとする傾向にあるからだ。…

 その結果、40年前に鄧小平らが始めた改革・開放、経済自由化路線に対しても、共産党指導体制を揺るがしかねないとの猜疑心から、経済統制を強化しようとしているのだという。アメリカのGAFAに対抗する中国のプラットフォーマー「BATH(バイドゥ、アリババ、テンセント、ファーウェイ)」は民営企業だが、これらが共産党直属の国営企業の分野にまで拡大しようとしてきたのを叩くため、独占禁止法違反と称して罰金を科された。

 その先にあるのは何か。著者は「国家資本主義から国家社会主義へ」舵が切られ、中国経済は成長が急速に鈍化する可能性が高いという。

 …中国社会において、これまでの40年間の経済成長の果実の一部が貯蓄として残っているため、当面は成長が少々鈍化しても、恐慌に陥ることはなかろう。しかし、改革・開放のレガシーが食い尽くされれば、1970年代の毛沢東時代末期のような状態の中国が再来する可能性は小さくない。…

 本書は中国共産党指導部に対しては極めて厳しい批判を投げかけるが、その底には(中共版ではない)真の愛国心がみなぎっており、祖国が再び衰退の道を辿ろうとしていることに対する憂国の思いが溢れている。

張博樹『新全体主義の思想史』

07464先月の本欄では、柯隆『「ネオ・チャイナリスク」研究』を取り上げた。最近のますます全体主義化する中国の姿を捉えるには、経済面だけでなく思想面からのアプローチも必要だろう。

 著者の張博樹は、中国社会科学研究院を解雇され、現在コロンビア大学で現代中国を講じている言葉の正確な意味でのリベラル派中国知識人だが、そのリベラル派から新左派、毛左派、紅二代、ネオナショナリズムに至るまで、現代中国の九大思潮を、時にはそのインチキなロジックを赤裸々に分析しながら描き出した大著である。

 著者を含むリベラル派については、訳者の石井知章、及川淳子らによる紹介がかなりされてきているし、妙にポストモダンめいたレトリックを駆使して中国共産党政権を必死に擁護する汪暉ら新左派についても、なぜか日本のポストモダン派にファンが多いようで、やはり結構翻訳されている(そのお筆先みたいな研究者もいるようだ)。しかし、それ以外の種々様々な思想ないし思想まがいについては、これだけ包括的に描き出したものはほかに見当たらない。そして、本書に描かれた、時に精緻めかした、時にやたらに粗雑な「左派」という名のロジックの数々を読み進んでいくと、何だか似たようなロジックを日本語でも読んだ記憶があるなという感想が浮かんでくる。

 それは、意外に思われるかもしれないが、『正論』、『WILL』、『hanada』などのいわゆる右翼系オピニオン雑誌によく出てくるあれこれの論説とよく似ていて、「そうか、中国の左翼というのは日本の右翼の鏡像みたいなものなんだな」ということがよく分かる。もちろん、それは不思議ではなく、普遍的な近代的価値観を欧米の文化侵略として目の仇にし、「万邦無比の我が国体」をひたすら褒め称えるという点では、日本の右翼と中国の左翼は全く同型的であって、ただどちらもそれがストレートに表出するのではなく、それぞれにねじれているのだ。

 日本の右翼は、本音ではアメリカ占領軍に押し付けられた憲法をはじめとする近代的価値観が大嫌いだが、(本当はそっくりな)中国共産党と対決するために、アメリカの子分になって、アメリカ的価値観に従っているようなふりをしなければならない。自由と民主主義のために共産主義と闘うといっているうちは良いが、ことが国内の個人の自由にかかわってくるとそのズレが露呈する。

 一方、中国の左翼は、本音は中華ナショナリズム全開で、欧米の思想なんて大嫌いなのだが、肝心の中国共産党が欧米由来のマルクス主義をご本尊として崇め奉っていることになっているので、論理めちゃくちゃなマルクス神学のお経みたいな議論をやらざるを得なくなる。

 それにしても、本書に出てくる張宏良の「中国の夢は三大復興であり、それは中華民族の偉大な復興、社会主義の偉大な復興、東方文化の偉大な復興」だという言葉は、我が大日本帝国において戦時中一世を風靡した「近代の超克」論を彷彿とさせる。現代中国の今の気分は中華版大東亜共栄圏なのかもしれない。

<来年も1月17日号から寄稿します。

07464新年1回目はブランコ・ミラノヴィッチの『資本主義だけ残った』です。

 

EUのプラットフォーム労働指令案@『労基旬報』2022年1月5日号

『労基旬報』2022年1月5日号に「22年新春特別寄稿」ということで、「EUのプラットフォーム労働指令案」を寄稿しました。

 数年前から世界中で労働問題の大きな焦点となり、昨年来のコロナ禍で日本でも注目されるようになってきたプラットフォーム労働について、EUは昨年初めからその立法化に向けた動きを加速化させてきました。本紙でも昨年3月25日号で「EUのプラットフォーム労働における労働条件に関する労使への第1次協議」を解説し、9月25日号では「EU諸国におけるプラットフォーム労働政策」を概観したところです。昨年12月9日にはいよいよ欧州委員会から「プラットフォーム労働における労働条件の改善に関する指令案」が提案され、立法への最終段階に入りつつあります。そこで今回は、本紙新年号向けにその世界的に注目されているプラットフォーム指令案の内容を詳しく見ていきたいと思います。
  第1条は趣旨と適用範囲を記述しています。本指令の目的はプラットフォーム労働者の労働条件を改善することですが、それを主に雇用上の地位(employment status)の正しい決定を確保することと、アルゴリズム管理の透明性、公正性及び説明責任を促進することによって達成しようとするところに特徴があります。前者はいわゆる労働者性の問題ですが、これが本指令第2章(第3条~第5条)で規定されます。後者は昨年提案されたAI規則案とも重なる問題意識ですが、プラットフォーム労働に特に顕著に現れるアルゴリズム管理について第3章(第6条~第10条)で規定されます。これに加えて、プラットフォーム労働の透明性(第4章)、救済と執行(第5章)に関する規定も盛り込まれています。
 適用対象は「その事業所の場所や適用法の如何を問わず、EU域内において遂行されるプラットフォーム労働を編成するデジタル労働プラットフォーム」です。つまり、アメリカのプラットフォーム企業でもEU域内のプラットフォーム労働者を使っていれば適用されるのです。
 第2条は用語の定義です。まず「デジタルプラットフォーム」とは、①ウェブサイトまたはモバイルアプリなどの電子的手段を通じた遠距離で、②サービス受領者の依頼に基づき、③必要不可欠の要素として、オンラインであれ特定の場所であれ、個人によって労働が遂行される、という要件を充たす商業的サービスを提供する自然人又は法人をいいます。「プラットフォーム労働」とは、デジタル労働プラットフォームを通じて編成され、デジタル労働プラットフォームと個人との間の契約関係に基づきEU域内で個人によって遂行される全ての労働を意味し、当該個人とサービス受領者の間に契約関係が存するか否かに関わりません。「プラットフォーム労働遂行者」とは、プラットフォーム労働を遂行する全ての個人を意味し、当該個人とデジタル労働プラットフォームとの間の関係の契約如何に関わりません。これに対し、「プラットフォーム労働者」とは、雇用契約を有するプラットフォーム労働遂行者です。定義上はそうですが、ここが第2章における主戦場になります。
・雇用上の地位の法的推定と反証可能性
 本指令案の最も注目を集める部分である第2章(雇用上の地位)について逐条的にみていきましょう。まず第3条(雇用上の地位の正しい決定)は、加盟国がプラットフォーム労働遂行者の雇用上の地位の正しい決定を確保する適切な手続きを有し、彼らが労働者に適用されるEU法上の諸権利を享受しうるようにすべきこと、雇用関係の存否の決定に当たっては、まずなによりもプラットフォーム労働の編成におけるアルゴリズムの利用を考慮に入れて、実際の労働の遂行に関する事実によるべきであり、その関係が当事者間でいかなる契約に分類されているかには関わらず、事実に基づき雇用関係の存在が確認されれば使用者責任を負うべき当事者が国内法制度に従って明確に措定されるべきことを述べています。これはまだ一般論を述べているだけで、本指令の本丸ではありません。
 次の第4条(法的推定)が本丸です。同条第2項に該当するような労働の遂行をコントロールするデジタル労働プラットフォームとプラットフォームを通じて労働を遂行する者との間の契約関係は、雇用関係であると法的に推定されます。この法的推定はあらゆる行政及び司法手続に適用されます。権限ある当局は、この推定に依拠しうるべき関係法令の遵守と執行を確認しなければなりません。
 その要件として同条第2項は5つの項目を挙げ、この5要件のうち少なくとも2つが充たされていれば、プラットフォーム労働遂行者については雇用関係であるとの法的推定がされるという法的構成となっているのです。
①報酬の水準を有効に決定し、又はその上限を設定していること、
②プラットフォーム労働遂行者に対し、出席、サービス受領者に対する行為又は労働の遂行に関して、特定の拘束力ある規則を尊重するよう要求すること、
③電子的手段を用いることも含め、労働の遂行を監督し、又は労働の結果の質を確認すること、
④制裁を通じても含め、労働を編成する自由、とりわけ労働時間や休業期間を決定したり、課業を受諾するか拒否するか、再受託者や代替者を使うかといった裁量の余地を有効に制限していること、
⑤顧客基盤を構築したり、第三者のために労働を遂行したりする可能性を、有効に制限していること。
 これらはいずれも、プラットフォーム労働の特徴として指摘されることですが、これら全てではなく、5つのうち2つが充たされれば雇用関係であると推定するというのは、かなり緩やかな要件であるといえます。
 同条第3項は加盟国に対して、この法的推定の有効な実施を確保する措置として、具体的に次の措置をとるべしとしています。
①法的推定の適用に関する情報が明確、包括的かつ容易にアクセスしうるやり方で一般に入手可能にすること、
②デジタル労働プラットフォーム、プラットフォーム労働遂行者及び労使団体がこの法的推定(後述の反証手続も含め)を理解し、実施するためのガイダンスを策定すること、
③遵守しないデジタル労働プラットフォームを積極的に追及する施行当局向けのガイダンスを策定すること、
④労働監督機関や労働法の施行に責任を有する機関による実地監督を強化するとともに、当該監督が比例的かつ非差別的であるようにすること。
 このように、プラットフォーム労働に対してはかなり包括的に雇用関係であるとの法的推定がまずなされるのですが、推定は「みなし」ではないので、当然事実を挙げて反証する(rebut)ことができます。それが次の第5条(法的推定を反証する可能性)です。
 加盟国は当事者のいずれもが第4条の法的推定に対して、司法ないし行政手続において反証する可能性を確保しなければなりません。デジタル労働プラットフォームの側が問題の契約関係を雇用関係ではないと主張する場合には、その挙証責任はデジタル労働プラットフォームの側にあります。そしてかかる手続が進行しているからといって、雇用関係であるという法的推定の適用が停止することはありません。これに対してプラットフォーム労働遂行者の側が問題の契約関係を雇用関係ではないと主張する場合には、デジタル労働プラットフォームは関係情報を提供することにより手続の解決を支援しなければなりません。
・アルゴリズム管理の規制
 本指令案のうち、プラットフォーム労働にとどまらない大きなインパクトを秘めているのが第3章(アルゴリズム管理)です。近年の人工知能(AI)の発展によって、採用から昇進、評価、退職に至るまで労務管理の広い分野にわたってアルゴリズムの活用が広がっています。この問題については、EUのAI規則案が昨2021年4月に提案されており、別途紹介もしています(「AI時代の労働法政策」『季刊労働法』275号)。本指令案はそのうちプラットフォーム労働に関して突出した形で法規制を提起していますが、同様の問題意識はプラットフォーム労働以外の労働者についても当てはまるところでしょう。とはいえ、ここでは指令案の文言に沿って見ていきます。
 まず第6条は自動的なモニタリングと意思決定システムの透明性について規定します。加盟国はデジタル労働プラットフォームがプラットフォーム労働者に対し、①電子的な手段によりプラットフォーム労働者の労働遂行を監視、監督、評価するために用いられる自動的なモニタリングシステムと、②プラットフォーム労働者の労働条件、とりわけ作業割当、報酬、労働安全衛生、労働時間、昇進、契約上の地位(アカウントの制限、停止、解除を含む)に重大な影響を与える決定をしたり支援するのに用いられる自動的な意思決定システム、について情報提供するよう求めなければなりません。
 提供すべき情報は、自動的なモニタリングシステムについては、①かかるシステムが用いられるか又は導入過程にあること、②かかるシステムにより監視、監督、評価される行動類型(サービス受領者による評価を含む)についてであり、自動的な意思決定システムについては、①かかるシステムが用いられるか又は導入過程にあること、②かかるシステムにより行われ又は支援される意思決定の類型、③かかるシステムが考慮に入れる主要なパラメータと、自動的意思決定システムにおけるかかる主要パラメータの相対的重要性(プラットフォーム労働者の個人データや行動がその意思決定に影響を及ぼす仕方を含む)、④プラットフォーム労働者のアカウントを制限、停止、解除したり、プラットフォーム労働者の遂行した労働への報酬の支払を拒否したり、プラットフォーム労働者の契約上の地位に関わる意思決定の根拠、です。デジタル労働プラットフォームは上記情報を電子媒体を含む文書の形で、遅くとも労働の開始日までに簡潔かつ分かりやすい文言で提供しなければなりません。この情報はプラットフォーム労働者の労働者代表や国内当局者にも要請に応じて提供されます。
 また、デジタル労働プラットフォームはプラットフォーム労働者に関する個人データのうち、両者間の契約の遂行に本質的に関係があり、厳密に必要なものでない限り、取り扱ってはなりません。とりわけ、①プラットフォーム労働者の感情的又は心理的な状態に関する個人データ、②プラットフォーム労働者の健康に関係する個人データ(一般データ保護規則による例外を除く)、③労働者代表との意見交換を含め、私的な会話に関する個人データ、を取り扱ってはならず、④プラットフォーム労働者が労働を遂行していない間に個人データを収集してはなりません。
 次の第7条は人間によるモニタリングの原則です。加盟国は、デジタル労働プラットフォームが定期的に労働条件に関する自動的なモニタリングと意思決定システムによってなされたり支援される個別の意思決定の影響をモニターし、評価するよう確保しなければなりません。労働安全衛生に関しても、デジタル労働プラットフォームは、①自動的なモニタリングと意思決定システムのプラットフォーム労働者の安全衛生に対するリスク、とりわけ作業関連事故や心理社会的、人間工学的リスクに関して評価し、②これらシステムの安全装置が作業環境の特徴的なリスクに照らして適切であるかを査定し、③適切な予防的、防護的措置を講じなければなりません。自動的なモニタリングと意思決定システムがプラットフォーム労働者に不当な圧力を加えたり、その心身の健康を損なうような使い方は許されません。加盟国はデジタル労働プラットフォームが上記個別の意思決定の影響をモニターするための十分な人員を確保するよう求めなければなりません。このモニタリングの任務を負った者は、必要な能力、訓練、権限を持たなければならず、自動的な意思決定を覆したことによって解雇、懲戒処分その他の不利益取扱いから保護されなければなりません。
 これとよく似た発想ですが、第8条は重大な意思決定の人間による再検討を要請しています。加盟国は、上述のプラットフォーム労働者の労働条件に重大な影響を与える自動的な意思決定システムによってなされたり支援されたいかなる意思決定についても、プラットフォーム労働者がデジタル労働プラットフォームから説明を受ける権利を確保し、特にデジタル労働プラットフォームがプラットフォーム労働者に対して当該意思決定に至る事実、状況及び理由を明らかにする窓口担当者を指名し、この窓口担当者が必要な能力、訓練、権限を有するようにしなければなりません。
 デジタル労働プラットフォームはプラットフォーム労働者に対し、そのアカウントを制限、停止、解除したり、プラットフォーム労働者の遂行した労働への報酬の支払を拒否したり、プラットフォーム労働者の契約上の地位に関わるいかなる自動的な意思決定システムによる意思決定についても、書面でその理由を通知しなければなりません。
 プラットフォーム労働者がその説明や書面による理由に納得しない場合や、その意思決定が自らの権利を侵害していると考える場合は、デジタル労働プラットフォームに対してその意思決定を再検討するよう要請する権利があります。デジタル労働プラットフォームはかかる要請に対し、遅滞なく一週間以内(中小零細企業は二週間以内)に実質的な回答をしなければなりません。その意思決定がプラットフォーム労働者の権利を侵害していた場合には、デジタル労働プラットフォームは遅滞なくその意思決定を是正しなければならず、それが不可能な場合には十分な補償をしなければなりません。
 第9条はプラットフォーム労働者の労働者代表への情報提供と協議を確認的に規定しています。その次の第10条は重要な規定で、以上第6条~第8条の諸規定は雇用関係を有するプラットフォーム労働者だけではなく、雇用関係のないプラットフォーム労働遂行者にも適用されます。これはもちろん、第4条の法的推定が第5条によって反証された純粋の個人請負業者ということになります。アルゴリズム管理の規制は、雇用労働者だけではなく自営業者についても適用すべき規制なのだということなのでしょう。ここは、厳密に言えば狭義の労働法の範囲を超えている部分だと言えます。
・その他の規定
 以上が本指令案の核心的な部分です。以下第4章(プラットフォーム労働の透明性)では、使用者たるデジタル労働プラットフォームが労働・社会保障当局にプラットフォーム労働を申告すべきこと(第11条)、プラットフォーム労働者数やその労働条件などの情報をこれら当局や労働者代表に提供すべきこと(第12条)を定めています。
 第5章(救済と執行)では、有効な紛争解決機関と権利侵害の場合の救済(第13条)、プラットフォーム労働遂行者のために活動する機関(第14条)、プラットフォーム労働遂行者のコミュニケーション・チャンネル(第15条)、証拠開示(第16条)、不利益取扱いからの保護(第17条)、解雇からの保護(第18条)、監督と罰則(第19条)などが規定されていますが、詳細は省略します。
 まだ指令案が提案されたばかりで、いつ指令として採択されるかは不明ですが、施行期日(正確に言えば国内法への転換期限)は公布の2年後なので、もし今年中に採択されれば施行は2024年ということになります。
 採択の見込みはどれくらいあるかですが、本指令案提案の数日前の11月29日、ベルギー、スペイン、ポルトガル、ドイツ、イタリアの労働相に加え、欧州労連事務局長、その他の国選出も含めた欧州議会議員らの連名による、フォン・デア・ライエン委員長宛の公開状が公表され、予定通りプラットフォーム労働指令案を提出するよう求めたことからすると、積極派の勢力はかなり大きいようです。EU労働立法には消極的な姿勢であったイギリスがEUを脱退してしまったことも考え合わせると、本指令案が採択される可能性はかなり高いようにも思われます。

 

2021年12月26日 (日)

トゥーランドットの「トゥーラン」とは

フィギュアスケートでよく使われるプッチーニのトゥーランドットの「トゥーラン」とは、汎ツラニズムの「トゥーラン」であったとは・・・

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1710402(今岡十一郎『ツラン民族運動とは何か』日本ツラン協会)

Turan

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