政策研究フォーラム講演の案内
政策研究フォーラムの2026年度・第2回「政研・政策懇談会」として、外国人労働政策について講演をします。案内が出たので、こちらでもご案内。
日 時 2026年6月26日(金) 9:30~10:30
場 所 友愛会館9階
講 師 濱口 桂一郎 氏 ((独)労働政策研究・研修機構労働政策研究所長)
テーマ 「外国人政策と日本的雇用慣行」
政策研究フォーラムの2026年度・第2回「政研・政策懇談会」として、外国人労働政策について講演をします。案内が出たので、こちらでもご案内。
日 時 2026年6月26日(金) 9:30~10:30
場 所 友愛会館9階
講 師 濱口 桂一郎 氏 ((独)労働政策研究・研修機構労働政策研究所長)
テーマ 「外国人政策と日本的雇用慣行」
『日本労働法学会誌139号 労働者の健康とウェルビーイング』(法律文化社)が届きました。
https://www.hou-bun.com/cgi-bin/search/detail.cgi?c=ISBN978-4-589-04492-1
昨年11月に、明治大学の中野キャンパスで開催された第142回日本労働法学会の大シンポと個別報告、ワークショップを収録したものです。
https://www.rougaku.jp/contents-taikai/142taikai.html
大シンポは、女性陣による
大シンポジウム報告統一テーマ:労働者の健康とウェルビーイング~女性の特性に着目して
会場:5階ホール
司会:浅倉 むつ子(早稲田大学名誉教授)、橋本 陽子(学習院大学)
報告:
個別報告は
会場: 5階ホール
- テーマ:「労働者に対するデジタル技術を活用した監視に関する規制の構築」
報告者:劉子安(神戸大学)会場: 311教室(3階)
- テーマ:「年次有給休暇の付与をめぐる解釈論的検討―法解釈の現状と働き方の多様化による新たな課題―」
報告者:平木 健太郎(沖縄大学)
会場: 304教室(3階)
テーマ:「フランスにおける職業訓練制度の再構築―職業訓練個人口座制度に見る個人主導の制度化と普遍性の追求―」報告者:岩堀 佳菜(労働政策研究・研修機構)
ワークショップは、
ワークショップ 第1部
- 会場: 5階ホール
- テーマ:「間接差別規制と構造的不利益」
司 会:黒岩 容子(弁護士)
報告者:石田 信平(専修大学)、長谷川 聡(専修大学)- 会場: 311教室(3階)
- テーマ:「障害者雇用率制度の法的課題」
司 会:柳澤 武(名城大学)
報告者:長谷川 珠子(岡山大学)、植木 淳(名城大学/非会員)- コメンテーター:池田 悠(北海道大学)
- 会場: 304教室(3階)
- テーマ:「芸能従事者に対する法的保護のあり方」
司 会:鎌田 耕一(東洋大学)
報告者:森崎 めぐみ(一般社団法人日本芸能従事者協会)、佐々木 達也(名古屋学院大学)、水島 郁子(大阪大学)
ワークショップ 第2部
会場: 5階ホール
- テーマ:「シフト制労働をめぐる実態と法理」
司 会:山本 陽大(労働政策研究・研修機構)
報告者:山本 陽大(労働政策研究・研修機構)、篠原 信貴(駒澤大学)、渡邊 木綿子(労働政策研究・研修機構/非会員)、
会場: 311教室(3階)
- テーマ:「人権デューディリジェンス立法の比較法的考察~労働法の観点から~」
司 会・企画趣旨:井川 志郎(中央大学)
報告者:井川 志郎(中央大学)、崔碩桓(ソウル大学校/非会員)、西畑 佳奈(岩手大学)
会場: 304教室(3階)
テーマ:「派遣労働者に対する直接雇用申込みみなし制度(労働者派遣法40条の6)をめぐる諸問題」司 会:沼田 雅之(法政大学)報告者:小鍛冶 広道(弁護士)、塩見 卓也(大阪公立大学・弁護士)
なお、ワークショップのシフト制では、JILPTでシフト制の調査を担当した渡邊木綿子さんがその調査結果を報告しておりますが、本書では2ページだけになっていますので、元の調査結果はこちらで読めます。
https://www.jil.go.jp/institute/research/2023/documents/0227.pdf
田村伸子編『ジェンダー法と要件事実』(日本評論社)をお送りいただきました。
https://www.nippyo.co.jp/shop/book/9697.html
裁判実務で磨かれているジェンダー法の領域に、要件事実論がいかに寄与しているのか。「ジェンダー法と要件事実」の現在を探る。
本書は、昨年送っていただいた『労働法と要件事実』と同様、創価大学法科大学院要件事実教育研究所が昨年11月に開いた「ジェンダー法と要件事実講演会」の講演、コメント、質疑応答を収録したものです。
はしがき
ジェンダー法と要件事実・講演会 議事録
[講演1]池田弘乃
ジェンダー法と基本的権利
1 性と法
2 3つの訴訟の検討
3 少数者と権利
[講演2]寺原真希子
ジェンダー関連訴訟において主張立証活動を行ってきた立場から
第1 はじめに
第2 選択的夫婦別姓訴訟の概要
第3 「結婚の自由をすべての人に」訴訟(同性婚訴訟)の概要
第4 実際の主な主張立証活動
第5 立法目的の認定方法について
第6 立法事実の評価要素としての国民の意識/社会的承認について
第7 不利益性の重大性の認定・評価手法について
第8 司法の立ち位置について
[講演3]松田和樹
平等・性別・家族
──自由への制約や、異なる取り扱いへの正当化可能性をめぐって
今日の話の流れ
理論枠組みとしての平等主義的リベラリズム
性別割り当ての行方
婚姻・家族の行方
[コメント1]三浦徹也
[コメント2]吉良貴之
[質疑応答]
[閉会の挨拶]
要件事実論・事実認定論関連文献
要件事実論・事実認定論関連文献2025年版……永井洋士・山崎敏彦
Ⅰ 要件事実論
Ⅱ 事実認定論
ここで大きく取り上げられている判例は、性同一性障害特例法違憲決定、「結婚の自由をすべての人に」訴訟、「セックスワークにも給付金を」訴訟です。
このうち最後のものについては、本ブログで何回もケチをつけてきたことはご存知の通りです。ただ、それは行政法上の「許可」と「届出」についての警察庁や裁判所の理解が全くひっくり返っているぞという話なので、ジェンダー法的観点からのものではなかったのですが。
・・・性風俗業がいかなるものであるかについてはここでは論じませんし、持続化給付金の対象にすべきかどうかもとりあえずここでの論点ではありません。
しかし、「本質的に不健全」であるがゆえに許可制ではなく届出制とするのだ、というこの政府が裁判所で論じたてているらしい論理というのは、どう考えてもひっくり返っているように思われます。
そもそも、行政法の教科書を引っ張り出すまでもなく、許可制というのは、一般的禁止を特定の相手方に対して解除するという行政行為です。なぜ一般的に禁止しているかといえば、それはほっとくと問題が発生する恐れがあるからであり、何か問題が起きたら許可の取り消しという形で対処するためなのではないでしょうか。
それに対して、届出制というのは一般的には禁止していないこと、つまりほっといても(許可制の事業に比べて)それほど問題は発生しないであろう事業について、でもやっぱり気になるから、念のために届出させて、何かあったら(届出受理の取り消しなとということは本来的にありえないけれども)これなりにちゃんと対応するようにしておこうという仕組みのはずです。
そして、労働法政策においても、たとえば有料職業紹介事業は許可制ですが、学校や公益法人等の無料職業紹介事業は届出制ですし、派遣も今は許可制に統一されましたが、かつては登録型派遣は許可制で、常用型派遣は届出制でした。これらはどう考えても、前者の方が問題を起こしやすく、いざというときに許可の取り消しができるように、後者はあんまり問題がないだろうから、届出でええやろ、という制度設計であったはずです。
それが常識だと思い込んでいたもんですから、このデリバリーヘルス運営会社の起こした持続化給付金訴訟において、政府が上述のような全くひっくり返った議論を展開しているらしいということを知って、正直仰天しています。
・・・うわぁ、東京地裁の裁判官は、警察庁の言う「このような営業について、公の機関がその営業を営むことを禁止の解除という形での許可という形で公認することは不適当であると考えて、届出制にし・・・」云々というわけのわからない理屈を全くそっくりそのまま認めてしまっているよ。
この裁判官は、法学部で行政法の総論をきちんと勉強したことがあるのかな。そもそもここにあるように、許可制というのは「一般的禁止の解除」なんだが、性風俗でないダンスホールやパチンコ屋のような風俗営業はそんなに悪いものじゃないから一般的に禁止して簡単に許さないけれども、ソープやヘルスのような性風俗産業はそもそもけしからんものだから一般的に禁止しないで誰でも認めるという大前提に立つことになるんだが、日本国の全分野で整合的であるべき法理論としてそれでいいのかな。
・・・大学の法学部で一通り行政法を勉強したはずの霞が関の役人だけではなく、日本国の法律のエキスパート中のエキスパートであるはずの最高裁判所の裁判官たちが揃いも揃って、
そして、本件特殊営業については、風営法において種々の規制がされているところ(第4章第1節第2款)、これは、本件特殊営業が上記の特徴を有することに鑑み、このような規制をしなければ、善良の風俗や清浄な風俗環境を保持し、少年の健全な育成に障害を及ぼす行為を防止することができないと考えられたからにほかならない(同法1条参照)。また、風営法が本件特殊営業を届出制の対象としているのは(31条の2)、本件特殊営業については、その健全化を観念することができず、風俗営業(同法2条1項)に対するものと同様の許可制をとること、すなわち、一定の水準を要求して健全化を図ることを前提とした規律の下に置くことは適当でないと考えられたことによるものと解される。
などという訳の分からない屁理屈を並べて満足しているように見えるさまは、些か唖然とせざるをえません。
類似の事業を営む者に対して、一方には許可制をとり、他方には届出制をとるという立法政策を説明するにあたって、行政法には統一的な基準というものはかけらも存在せず、そのときそのときに勝手にやっているのだ、それでいいのだ、と嘯くならともかく、日本国の行政について一般的に通用する許可制と届出制についての共通判断基準というのがあるのであれば、それはここで最高裁が堂々と謳い上げたこの基準ということになるはずですが、それでいいのですかね。
そうすると、最高裁の法理からすると、有料職業紹介事業は「一定の水準を要求して健全化を図ることを前提とした規律の下に置く」ために許可制にしているけれども、学校や公益法人等の無料職業紹介事業は「その健全化を観念することができ」ないから届出制にしているんですかね。思わず、「なるほど!」と言ってしまいそうですが。
山崎憲『ジョブ型の真実とAIと協働』(日本生産性本部)をお送りいただきました。
いま、日本では「ジョブ型」か「メンバーシップ型」か、という問いが繰り返し語られている。政府や経済界は、低成長などといった問題への処方箋として「ジョブ型」を掲げ、これまでの日本型雇用慣行の見直しを求めてきた。
しかし、そもそも「ジョブ型」とは何か。「メンバーシップ型」とは何のために成立し、どのような役割を果たしてきたのか。そして、AIやデジタル技術の進展は、この論争の意味そのものを、どう変えようとしているのか。
本書は、こうした問いを歴史・政策・現場の実態に即して、考え直すためのものである。
そもそも、「ジョブ型」という言葉は、私が日本の雇用システムを表わす言葉として創出した「メンバーシップ型」の対義語として、ほかにいい言葉もないので欧米のブルーカラーやクラーク層の有り様を主として想定してでっち上げた言葉なので、もともと高度成長期に完成した日本型雇用なんかよりも遥かに古くさくて硬直的なものであることは、言い出した本人が最初から強調していたはずなんですが、なぜかそれがこれから世界中が目指すべき世界最先端の超モダンな働き方であるかのような訳のわからないインチキコンサル連の商売トークが世間に広まってしまい、ある程度もののわかった人から見れば、何を訳のわからんこと言うてるねん、という状況になっていたわけで、それをふざけるな!と叱りつけたくなる気持ちはわからないわけではありません。
とはいえ、世のジョブ型論者がみんながみんなそういう新商品売りつけ業者なのかといえばそうでもなく、とりわけ今から10年以上も前頃に、鶴光太郎さん辺りが音頭を取っていたジョブ型正社員論なんてのは、まさに柔軟で競争力が高いスバラ式日本型雇用といわれていたもののマイナス面を埋め合わせるために、膏薬を貼るようにジョブ型を導入しては如何かといっていたわけで、そんな生ぬるいことを言うてるから日本は負けたんや!80年代の世界を制覇していた日本経済の秘薬たる日本型雇用を捨てたから日本はダメになったんや!と今でも思っている80年代の日本企業のおじさんはけっこういそうですが、でも90年代以降の動向は、誰かさんが思い込んでいるように欧米の悪辣な陰謀によってせっかくの日本型雇用が壊されたというわけではなく、80年代に完成した当時は世界最先端を誇っていた日本型システムが、女性、若者、中高年等等様々な社会領域で矛盾をはらみ、社会的持続可能性が乏しくなっていたから起った一種の社会的化学反応なのであって、それをけしからん云々と愚痴をこぼしてみても仕方がないし、それが維持できたとも思えないですね。
山崎さん自身が、アメリカのジョブ型を、ジョブコントロールユニオニズムという組合主導の硬直的な仕組みに加えて、男女平等等の労働人権法制の展開によってヘイ社などによって精緻化されてきたものだと歴史的展開を詳しく説明していて、その辺は遠藤公嗣さん辺りが最近も熱心に追求していますが、それも世の流れというものであって、同一労働同一賃金なんてアホなことばかりいうから日本が没落したんや!と内心思っているご老人はなおけっこういるかも知れませんが、とはいえそれが維持可能であったとも思えません。
一方、まさに新商品を売りつけてなんぼのインチキコンサル連にとっては、この「ジョブ型」ってのは、商売ネタが払底していたところに向こうから飛び込んできてくれた実に有り難いおいしいネタであったらしく、本屋さんの人事関係の棚に行くと、「ジョブ型」がどうたらこうたらという本が所狭しと並んでいるし、そういうセミナーもけっこう盛況なようです。
もともとブルーカラーやクラーク層の硬直的な雇用システムであるはずの「ジョブ型」が、なぜか世界最先端の柔軟な働き方に変身して、硬直的な日本型サラリーマンを叱りつけるという、攻守所を変えた訳のわからんおとぎ話にされてしまうのを見たら、山崎さんみたいにアメリカの労働のことをよく知っている人であればあるほど腹が立ち、「この莫迦者どもめが!」と切り捨てたくなるのはよくわかるところではありますが、とはいえ、そういうインチキ話に乗ってでも、40年前には世界で一番素晴らしいと脳天気にも自慢していた日本型サラリーマンにビンタを食らわせたくなる企業サイドの気持ちも、わからないではないのですね。
というのも、本書にもちらりとは出てきますが、日本ではよく言われるブルーカラーがホワイトカラー化しているとか、クラークがマネージャー化しているというのは、そこだけみれば欧米よりも競争力が高くて素晴らしいという話になりそうで、実際70年代や80年代にはそういう日本礼賛論が世に満ち溢れていたわけですが、でも両者が似通ってくるということは、裏を返せば、ホワイトカラーがブルーカラー化しているということであり、マネージャーがクラーク化しているということでもあるわけで、90年代以降は企業人事サイドからすれば、「てめえらはホワイトカラーなんだぞ!ブルーカラーみたいに時間なんぼで働いてるんじゃねんだぞ!」とか「ヒラ並のこともできないくせに偉そうに管理職づらしてんじゃねえ!」という鬱屈した思いが蓄積してきていて、それがその時々にいろんな形で噴出してきたというのがこの30年の歴史であったわけで、それの最新版が、言葉の選択がねじれにねじれきった「ジョブ型」であったとすれば、そう批判ばかりする気にもなれないというのが正直なところではあります。
実際、本書を読むと、『ジョブ型人事指針』に出てくる政府ご推薦の「ジョブ型」企業実例に対して、山崎さんは必ずしも非難の矛先をぶつけているわけでもなく、むしろ大変シンパシーを感じさせる記述が続いていたりするので、その辺の事情はわかっておられるのだろうとは思います。
一方、こっちの「一方」は、本書の構成上の「一方」ですが、本書の後半はむしろ本当に新しい話、AIによって旧来のジョブが分解してタスクになっていくみたいな話が書かれています。これも、日本ではインチキコンサルの驥尾に付してジョブ型商売人になっているマーサー社が、本国のアメリカでは「ジョブなんか古いぞ!」という新商品商売に熱心なことを考えれば、当然書かれるべきことではあるんですが、前半における議論と後半の議論とのつながりが、恐らく著者の頭の中では密接につながっているはずだと思うのですが、私のおぼつかない読解力ではきちんと追いかけることができませんでした。個々の情報は大変有用で、有り難いのですが、本書全体で何を言おうとされているのかが、理解力の乏しい読者にまで伝わるように親切に書かれていると、有り難かったと思います。
というわけで、「ジョブ型」に冷水をぶっかける本が出るのは大変いいことなので、是非多くの方に読まれるといいと思います。
とりわけ、本書の版元である日本生産性本部は、自らジョブ型人事制度に関する研修・セミナーを開催したりもしているので、
https://www.jpc-net.jp/seminar/detail/006663.html
是非そういう場で本書を宣伝されるとよろしいのではないでしょうか。
WEB労政時報に「「スキル」と「デキル」」を寄稿しました。
https://www.rosei.jp/readers/web_limited_edition
近年、日本政府は「リ・スキリング」を大々的に唱道しています。このリ・スキリングという言葉は岸田文雄政権下の2023年5月に「三位一体の労働市場改革の指針」で使われて以来、政府の政策文書におけるバズワードになっていますが、・・・・・・
例によって毎年恒例の岸健二編『業界と職種がわかる本 ’28年版』(成美堂出版)をお送りいただきました。2005年版から始まって、今回で24年目、第24版となったそうです。
https://www.seibidoshuppan.co.jp/product/9784415241456
これから就職活動をする学生のために、複雑な業界や職種を11業種・8職種にまとめ、業界の現状、仕事内容など詳しい情報を掲載し、具体的にどのような就職活動が効果的かを紹介。
実際の就職活動に役立つ就職活動シミュレーションや、最新の採用動向をデータとともに掲載。
自分に合った業界・職種を見つけ、就職活動に臨む準備ができる。
四半世紀近く学生の就職活動のために本書を出してこられた岸健二さんについて、もう7年前になりますが、こんなエントリを書いたことがあります。2019年といえば東京オリンピックが翌年に予定され(1年延期になりましたが)、その前祝い的にNHKの大河ドラマで『いだてん』が放送されていた頃で、来年入社を目指す若い人にとってはまだ中学生だった頃になるでしょうが、こんなエピソードがあったのです。
いやびっくりしました。「いだてん」の番組の最後に、いきなり岸健二さんが映ったのです。
え?それ誰?と思った方。本ブログで何回か登場していますよ。日本人材紹介事業協会の元事務局長で、いまは相談室長をされています。本ブログでは、だいたいは「労働あ・ら・かると」のエッセイの紹介ですが。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/post-4cf7.html (岸健二さん@『日本の雇用終了』)
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-a461.html (成功した起業家が陥る‘ブラック企業’への道)
また、毎年『業界と職種がわかる本』の各年版をお送りいただいています。ありがとうございます。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2019/05/post-d3a96a.html
で、その岸健二さんが画面に登場したのは、大河ドラマ「いだてん」で、戦前の東京オリンピック招致に向けて活動していたIOC委員の岸清一がちょうど亡くなって、これからどうするというところで回が終わって、登場人物の紹介に移ったところでした。その岸清一の孫として、岸健二さんの顔が大写しになったのです。
なるほど、さすがに祖父と孫だけあって、何か通じるものがありますね。
なんだか世間(ネット界)ではまたもFラン大学がどうのこうのという百万回聞き飽きた議論が流行っているようですが、なんで日本ではこの手の議論が繰り返されるのかという本質に分け入った議論はほとんど見かけないようです。
世界情勢に通じた人なら知っていることですが、世界共通に世代とともに学歴水準はどんどん上がってきていて、高校卒業後の中等後教育に進学する人の割合で見れば日本は決して高いわけではありません。
なのに何で、という話になるのですが、それにはちゃんと訳があります。
大学をはじめとした中等後教育がどんどん拡大していくのは世界共通ですが、それは主としてそれまでより低い学歴水準の者が就いていた職業の技能の高度化に伴って、より高度な職業技能教育を施す中等後教育が拡大してきたからというのが大きいのです。
実は、日本でもこの間着実に拡大してきた専門学校(高校卒業後に進学する専修学校)はまさにこれに対応しています。
ところが日本では、この間それ以上に「大学」が膨れ上がってきたのです。問題はこの「大学」です。
大学とは何でしょうか?
世界的に見れば、数多くの大学の大部分は高等職業教育訓練機関です。そういうものとして存在し、そういうものとして学生が進学し、そういうものとして卒業生がそれぞれの職場に就職していきます。
日本でも、実態というか、本音では大学は就職のために進学する機関です。だって、大学卒業後に大学院に進学する「進学組」よりも企業等に就職する「就職組」の方が圧倒的に多いのですから、いい大学というのは、本音ではいい会社に就職できる大学のことです。これは、世界的に見れば何らおかしなことではなく、むしろ極めて自然な事態です。
ところが、なぜか建前上はそうなっていないのです。日本では大学というのは、実態としてはもはや同世代人口の過半数が進学する就職組のための機関でありながら、建前上は学術研究のための神聖なるアカデミズムの機関であるということになっているのです。そんなものは世界中どこの国でもごく僅かです。いや日本でも実態からいえば大学の中の一部に過ぎないでしょう。
でも、戦後すぐの1947年に制定された学校教育法では、大学を「大学は、学術の中心として、広く知識を授けるとともに、深く専門の学芸を教授研究し、知的、道徳的及び応用的能力を展開させることを目的とする」(第83条)と定義しており、そこには職業という文字はでてきません。
戦後新制大学は、戦前の旧制大学、旧制高校、専門学校、師範学校をまとめて一本化したものであり、職業教育機関としての性格を有していることは明らかであったにもかかわらず、法文上からはそれが失われてしまいました。初発の段階から、現実に存在する職業教育機関としての側面を無視してあたかも純粋アカデミックな機関であるかのような幻想とともに出発したのです。
なぜそうなったのかについては、いろいろと研究もあり、別途書きたいと思いますが、これに対しては戦後はやい時期から見直しの声が繰り返されてきました。
たとえば、占領終了直後の政令諮問委員会の答申では、普通大学を学問研究を主とするものと高度の専門的職業教育を主とするものと教員養成を主とするものに分けるべきとしていました。
とりわけ高度成長期には、1963年の中教審答申「大学教育の改善について」において、高等教育機関には、(ア)高度な学問研究と研究者の養成を主とするもの、(イ)上級の職業人の養成を主とするもの、(ウ)職業人の養成および実際生活に必要な高等教育を主とするもの、の3つがあるとし、とりわけ学部レベルではこれら多様な使命を同じ目的・性格の大学学部で行っており、一律の規制を受けているため、十分にその使命を果たせていないと批判して、高等教育機関を次の5種類に分けるべきと提唱しました。
①大学院大学:高等の学術研究を行なうとともに、高い専門職業教育を行なうもの
②大学:主として高い専門職業教育を行なうもの
③短期大学:専門職業教育を行なうものまたは実際生活に必要な知識、技能を与えもしくは教養教育を行なうもの
④高等専門学校:義務教育修了者に対して専門職業教育を行なうもの
⑤芸術大学:音楽、美術等に関する専門家の養成を行なうもの
この類型論で注目すべきは、普通の大学を端的に職業教育機関と定義しようとしていた点です。現実の大学の姿から目を背けてアカデミズムの幻想に浸るのではなく、そこから脱却しようという動きが、60年前には確かにあったのです。
これは当時の日本政府が職務給やジョブ型雇用を推進しようとしていたことと論理内在的にはつながっているのでしょう。
これが実現していれば、職業的レリバンスの欠如だとか、「教育と職業の密接な無関係」だとかいった特殊な日本的教育・雇用ネクサスもより希薄になっていたかも知れません。
ただ同答申には大学の管理運営の強化等も盛り込まれていたこともあり、日本学術会議、日教組、社会党をはじめとした革新勢力が猛反発し、筑波大学や技術科学大学などごくわずかな改革が実現したにとどまりました。
その結果、今日においても未だに学校教育法上では大学は職業教育機関とは位置付けられず、最近できた専門職大学がごくわずか存在するほかは、あとは数百の大学がすべてあたかも純粋アカデミックな機関であるかの如き幻想が維持される状態が続いています。
そして、60年前にくらべても比較にならないくらい大学進学率が増加し、圧倒的多数の大学生が「就職組」であるにもかかわらず、ほとんど妄想に近いアカデミズム幻想をふりかざす人々が悪目立ちしてくると、Fラン大学がどうのこうのという、本質的にはあまり意味のない悪罵ばかりが飛び交うようになるのでしょうね。
(追記)
このエントリをツイートした常見陽平さんに対し、このエントリに対する意見をぶつける人がいっぱいいたようで、
大学は学術研究機関か職業教育機関か? hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳)
濱口桂一郎先生のブログだからね。 反対、異論を僕に叩きつけるの、どうなのかね
すみませんねえ、ご迷惑をおかけしたようで。
というか、私が謝る筋合いでもなさそうではあるんだけど。
まあ、この話題がある種の人々を興奮させるトピックであることだけは間違いないようです。
せっかく追記したので、上で「なぜそうなったのかについては、いろいろと研究もあり、別途書きたいと思いますが」と述べた点について、ちょっとだけ追加しておきますね。
上で述べたように、戦後すぐの1947年に制定された学校教育法では、大学を「大学は、学術の中心として、広く知識を授けるとともに、深く専門の学芸を教授研究し、知的、道徳的及び応用的能力を展開させることを目的とする」(第83条)と定義しており、そこには職業という文字はでてきません。
戦後新制大学は、戦前の旧制大学、旧制高校、専門学校、師範学校をまとめて一本化したものであり、職業教育機関としての性格を有していることは明らかであったにもかかわらず、法文上からはそれが失われてしまいました。初発の段階から、現実に存在する職業教育機関としての側面を無視してあたかも純粋アカデミックな機関であるかのような幻想とともに出発したのです。
このとき高等教育機関が一元化されたのは世上、米教育使節団報告に基づくものとされていますが、大崎仁『大学改革1945~1999』(有斐閣選書、1999年)によれば、同使節団報告自体は6・3・3制を要求しているだけで、大学への一元化を求めていなかったのです。では、なぜ一律一元化に至ったのかというと、日本の大学関係者による日本教育家委員会(委員長:南原繁)の非公表の報告書が秘かにGHQに渡され、これが翻って日本に強制されたからとのことです。同委員会は、①大学への系列と専門学校への系列に分かれていることが、専門学校進学者・卒業者を不利な立場に置き、弊害を生じているので、専門学校を充実して大学にする、②高等学校は、その卒業生だけが大学に進学する結果、彼らのみが将来国家社会の指導者となる特権を受けることになるから廃止する、③師範学校は改造して、他の大学と同じ地位を持つ教育大学にする、④学術研究を志す者のために、総合大学に大学院を設ける、ことを提起していました。
同書によれば、この発想の源流は戦時下の1937年に近衛文麿首相の私的研究会である教育改革同志会が取りまとめようとしていた学制改革案にあります。同案は「現在の大学、高等学校、専門学校は、その官公立たると私立たるとを問わず、総てこれ等を国家社会の需要に応じて適当に整理し、専門の職業教育機関としての新制の大学校に改造する」ことを提言していました。
こうした流れの中で考えれば、新制大学はむしろ正面から職業教育機関と位置付けられてしかるべきであったようにも思われますが、大学の目的規定が文部省の法案の「高等の学術技芸を教授研究すること」から上記現行規定へGHQにより修正されてしまい、職業教育的色彩が希薄になりました。そしてGHQの指示による大学基準により一般教育重視と専門教育軽視のカリキュラムが生み出されていくことになります。日本側では専門学校の大学化というイメージでとらえられていた大学一元化が、GHQからは旧制高校・大学予科の大学化として捉えられたことから生み出された制度設計の悲劇といえましょう。
浦田誠さんの『どうなる? ライドシェア 交通と労働の未来』(岩波ブックレット)をお送りいただきました。
https://www.iwanami.co.jp/book/b10166252.html
2024年に「日本版ライドシェア」が始まり、将来的な全面解禁も目されている。画期的なサービスとしてライドシェアを推進する動向に注目が集まる一方で、このビジネスモデルは様々な問題を内包している。先行して導入された世界各国の実態を検証し、ライドシェアの基本知識や課題を示すと共に、交通と労働の未来を見通す。
ライドシェアというのは、ウーバーのようなタクシー型のプラットフォームビジネスですが、浦田さんは長く私鉄総連と国際運輸労連にいてこの問題に取り組んできました。
はじめに
第一章 日本とライドシェア
コラム①日本版ライドシェアとは
第二章 究極の規制緩和
第三章 安全よりもビジネス優先
第四章 ライドシェアの労働実態
第五章 裁判で争い、規制に抗う
第六章 公共交通のオルタナチブ?
終 章 どうなる? ライドシェア
コラム②連立政権でライドシェア導入
ちょうど来月には、ILO総会でプラットフォーム労働に関する条約・勧告が審議され、おそらく何らかの文書が採択されることになると思われます。そういう時期に、そもそもライドシェアにはどんな問題点があるのかをきちんと押さえておくことは重要なことでしょう。
旧民社系のシンクタンク政策研究フォーラムの『改革者』5月号に、神林龍さんが拙著『外国人労働政策』の書評を寄稿されています。1ページを充てて拙著の意のある所をくまなくくみ取っていただいており、ありがたい限りです。
https://www.seiken-forum.jp/publications-top/reformer/
濱口桂一郎著『外国人労働政策』
評者 神林 龍
……本書は、日本の外国人政策がいかに労働(雇用)政策として形成されてき(こなかっ)たのかを、政策形成過程と雇用慣行の関係から体系的に描いた点で、意外に類例の少ない書籍である。とりわけ制度の表層的な記述にとどまらず、その背後にある政策主体の力学と制度的制約に光を当てている点に特色がある。
内容は大きく二点に整理できる。第一に、外国人政策が省庁間の綱引きの中でどのように形成されてきたのかという点である。著者の官僚経験を背景に、法務省と旧労働省の間の権限争いが具体的に描かれ、政策決定過程のケーススタディとしても読み応えがある。第二に、日本的雇用慣行との整合性という観点から外国人政策を読み解いている点である。……
外国人政策を労働政策として捉え直すことの重要性と同時に、その内実をいかに構想すべきか、本書はこの難問を鋭く提起する。外国人問題に関心を持つ読者にとって、研究的にも政策的にも示唆に富む一冊である。
ボリス・ビズミック著・石部尚登訳『エスノセントリズム 〈集団〉と〈境界〉を理解するための統合的視座』(明石書店)をお送りいただきました。
https://www.akashi.co.jp/book/b676335.html
自らの民族集団がきわめて重要で、他のどの民族集団よりも優れ、価値があるという信念や態度は、どのように形成され、何をもたらすのか。心理学、政治学、社会学、人類学、生物学、マーケティング研究など、学際的なアプローチによる統合的な視点からこの概念の本質、要因、帰結を明らかにする。
ほとんど日常用語になっているエスノセントリズムですが、その概念をここまで緻密に分析した本は初めてです。
第1章 エスノセントリズム研究の歴史と背景
第1節 社会科学成立以前のエスノセントリズムに関する記述
第2節 エスノセントリズムに関する社会科学的記述
第3節 本章の総括と結論
第2章 エスノセントリズムの概念
第1節 エスノセントリズムの定義における主要テーマ
第2節 外集団否定とは区別されるエスノセントリズム
第3節 外集団否定を伴わない内集団肯定とは区別されるエスノセントリズム
第4節 内集団肯定と外集団否定の結びつきとは区別されるエスノセントリズム
第5節 エスノセントリズムの諸次元
5.1 献身性
5.2 集団凝集性
5.3 選好性
5.4 優越性
5.5 純粋性
5.6 搾取性
第6節 再概念化されたエスノセントリズム
第7節 再概念化されたエスノセントリズムの測定
第8節 エスノセントリズムの概念化に関する補足的整理
8.1 エスノセントリズムと民族集団―民族性がもつ重要性
8.2 エスノセントリズムの対概念
第9節 本章の総括と結論
第3章 エスノセントリズムの近接的要因――恐怖と自己誇大化
第1節 恐怖に起因するエスノセントリズム
1.1 現実的脅威に基づく説明
1.2 象徴的脅威に基づく説明
1.3 内的心理的脅威に基づく説明
第2節 自己誇大化に起因するエスノセントリズム
2.1 自尊感情に基づく説明
2.2 搾取と支配に基づく説明
第3節 理論的検討
3.1 二重過程の認知・動機づけモデル
3.2 価値観を基盤とする理論的枠組み
第4節 本章の総括と結論
第4章 エスノセントリズムの遠隔的要因――社会的要因と生物学的・進化的要因
第1節 社会的要因に基づく説明
1.1 社会化と社会的規範
1.2 無知と集団間接触の欠如
1.3 社会的カテゴリー化
1.4 社会的要因に基づく説明への批判
第2節 生物学的・進化的要因に基づく説明
2.1 生物学的アプローチ
2.2 進化論的アプローチ
2.3 生物学的・進化的要因に基づく説明への批判
第3節 理論的検討
第4節 本章の総括と結論
第5章 エスノセントリズムの帰結
第1節 エスノセントリズムの帰結としての人種主義とナショナリズム
第2節 エスノセントリズムの帰結としての行動
第3節 エスノセントリズムの帰結としての偏見と外集団忌避
第4節 エスノセントリズムの帰結としての非人間化、正当性否認、道徳的排除
第5節 エスノセントリズムの帰結としての民族紛争、民族浄化、民族大量虐殺
第6節 エスノセントリズムの特定形態とその帰結
第7節 本章の総括と結論
第6章 エスノセントリズムの要因と帰結の統合
第1節 再概念化されたエスノセントリズムの要因と帰結に関する実証研究
第2節 再概念化されたエスノセントリズムの要因と帰結の統合的考察
第3節 エスノセントリズムの集団強度モデル
第4節 本章の総括と結論
第7章 心理学におけるエスノセントリズムとその影響
第1節 心理学へのエスノセントリズムの影響
1.1 研究テーマ
1.2 理論的枠組み
1.3 研究手法
1.4 心理学史の表象
1.5 心理学における制度的枠組み
1.6 学術的社会ネットワーク
1.7 引用パターン
第2節 エスノセントリズムにとらわれない心理学への障壁
第3節 今後の方向性
第4節 本章の総括と結論
付録A エスノセントリズムの定義とテーマ分析
付録B エスノセントリズム尺度1(36項目版)
付録C エスノセントリズム尺度2(36項目版および12項目版)
エスノセントリズムは大きく分けて内集団志向(ex.ニッポンスゲェ)と外集団志向(ex.支那朝鮮ヒデェ)からなり、それぞれがさらに献身性と集団凝集性、先行性・優越性・純粋性・搾取性からなり、それぞれごとにその尺度となる6項目ずつのテーゼが巻末付録に並んでいます。
本文は必ずしも読みやすくないのですが、この巻末の36尺度はなかなか楽しく、昨今の政治情勢に照らし合わせて考えるといろいろな感想が湧いてきます。
それぞれのはじめの項目を並べてみると以下のようになります。
献身性
1 どのような犠牲を払ってでも、自分の文化や民族集団の価値観や生活様式、信念は守らなければならない。
・・・・・・
集団凝集性
1 私たちは、自分たちの文化集団の中で、より強固な一体感や共同体意識、連帯感を育むことに全力を注ぐべきだ。
・・・・・・
選好性
1 私はたいてい、自分の文化の人々の方を、他の文化の人々より好む。
・・・・・・
優越性
1 世界中の他の全ての文化集団や民族集団が私の文化を手本にすれば、世界ははるかに良い場所になるだろう。
・・・・・・
純粋性
1 異なる民族集団や文化集団に属する人々は、結婚しない方が良いと思う。
・・・・・・
搾取性
1 私たちは常に自分たちの利益を最優先すべきであり、他の文化や民族集団の利益に過度に配慮すべきではない。
・・・・・・
『労務事情』2026年5月1日号に「労災保険特別加入の一人親方等 約64万人」を寄稿しました。
https://www.sanro.co.jp/book/b10169023.html
労災保険制度は労基法の災害補償責任に基づく強制保険で、保険料は使用者のみの拠出ですが、1965年改正で中小事業主等、一人親方等、特定作業従事者について、本人拠出による任意の特別加入制度が設けられていることは周知の通りです。このうち、・・・・・・
本日の朝日新聞の論壇時評で、吉弘健介さんが『中央公論』5月号に寄稿した拙論「日本型雇用システムと労働時間規制、40年の相克「働きたい改革」の本丸、裁量労働制拡大は実現するか」を挙げていただいています。
https://x.com/tenten368631212/status/2049300156567404912
これ、現在進行形の高市首相の労働時間規制緩和策の謎解きというだけではなく、そもそも裁量労働制、ホワイトカラーエグゼンプション、高度プロフェッショナル制度と繰り返される労働時間規制緩和政策がなぜ繰り返し提起され、なぜ繰り返しうまくいかないのかを、雇用システム論的に解きほぐして説明しております。
あまりにも表層的な議論ばかりが空中を飛び交う傾向にあるトピックであるだけに、物事をきちんと日本の労働の現実に根差して議論する上で有用なのではないかと思います。
裁量労働制か上限規制か、経団連と日商で異なる「緩和」策・・・・・・・これに対し、裁量労働制については、働き方改革の議論の中で野党や一部マスコミから「定額働かせ放題」等との批判を受けて提出予定の法案から削除した経緯があるものの、上級ホワイトカラーの働き方として世界共通の性格を有しており、その対象業務拡大は政策としての正当性がある。もっとも、その理路が素直に通らないのには理由がある。日本のホワイトカラーのありようは、欧米や他のアジア諸国とは異なる特徴があり、日本社会で労働時間規制の問題が繰り返し議論されながらいつも袋小路に陥ってしまうのは、日本独特の雇用システムにその原因があるからだ。管理職兼専門職兼事務職の日本型サラリーマン・・・・・・・一言でいえば、日本のホワイトカラー職場には、管理職兼専門職兼事務職の総合職サラリーマンという一種類の職種しか存在せず、上から下までマネージャー的、スペシャリスト的、アシスタント的なタスクがその割合を少しずつ変えながら連続的に分布しているのである。これは戦時体制と戦後改革によって作り上げられた戦後日本独自の雇用システムであって、戦前に存在した「入社時から管理職」というエリート層はいなくなり、みんなヒラ社員として入社し同期で猛烈に競争して管理職に出世していくという仕組みである。専門職とは多くの場合、管理職になれない者の処遇のためのポストの名称であった。この競争的平等主義システムは、猛烈サラリーマンを生み出し、日本の高度成長に貢献した一方で、過労死を始めとする様々な社会問題の要因ともなった。しかしここでは、それが欧米型の労働時間規制との間にどのような矛盾を生むかについて見ていこう。管理職とスタッフ管理職日本型サラリーマンは裁量的であり裁量的でないなぜ、裁量労働制をめぐる議論は40年近くにわたって続けられているのか、それは、職務の性質に基づいて労働時間規制の適用のあり方を変えるべきだという労働基準法の基本的考え方(それは世界共通の発想なのだが)と、日本の、とりわけ総合職サラリーマンの働き方の間に大きな乖離があるからである。世界中どこでも、管理職や専門職のような裁量性の高い働き方をしている労働者は労働時間規制が適用除外され、事務職、販売職、生産職等の裁量性の低い働き方をしている労働者は労働時間規制が厳格に適用される。日本の法制も、建前上は世界共通のこの考え方に立脚している。したがって、専門業務型裁量制は専門職ゆえの裁量性の存在が根拠となる。では企画業務型裁量労働制はどうか? そもそも専門職と並ぶような「企画職」など存在するのか? 少なくともそのような職種は形式的にすら存在しない。そのかわりに、「企画業務」という概念が持ち出される。・・・・・・・・ホワイトカラーエグゼンプションと高度プロフェッショナル制度しかし、彼らは実際にはマネージャー的、スペシャリスト的業務ばかりをやっているわけではない。むしろその相当部分はアシスタント的業務であり、そこに裁量性はほとんどない。「業務」で企画業務のみを切り出すというやり方は、そもそも日本企業の現実と全く対応していなかったのである。健康確保のための「上限規制付き裁量労働制」という選択肢
朝日の記事ですが、
原田泰・名古屋商科大教授も、「すべての減税は善である。政府が民間から取り上げたお金を返すのはすべて良いこと」などと主張。・・・・・・
ほんまかいなと見に行くと、
https://www.cas.go.jp/jp/seisaku/kokuminkaigi/contents/20260424/03_siryou3.pdf
税についての基本的考え方
• すべての減税は善である。政府が民間から取り上げたお金を返すのはすべて良いこと
ほんまに書いてあったわ。
全ての減税は善であるということは、論理必然的にその善の善なる最善の国家というのは:

『日本労働研究雑誌』2026年5月号は「生活時間と休み方から読み解く労働」が特集です。
https://www.jil.go.jp/institute/zassi/backnumber/2026/05/index.html
提言
「働くことのデフォルト」を問い直す─生活時間から見た労働(PDF:119KB)黒田 祥子(早稲田大学教授)
解題
生活時間と休み方から読み解く労働(PDF:212KB)
編集委員会論文
生活時間の貧困研究─測定手法と課題 要約浦川 邦夫(九州大学教授)
時間のジェンダー不平等─研究の現状とその課題・展開の方向性 要約
柳下 実(佛教大学准教授)
テレワークの評価と課題─「全国就業実態パネル調査」の経年変化からの示唆 要約
久米 功一(東洋大学教授)
萩原 牧子(リクルートワークス研究所主幹研究員)
非典型時間帯就労と不健康行動 要約
高見 具広(JILPT主任研究員)
勤務間インターバルをめぐる議論の検討─労働からの解放の保障 要約
石﨑 由希子(横浜国立大学教授)
労働時間性の判断における職務性/業務性の内容─非職務的活動(自己研鑽,研修,会食等)に関する裁判例を中心に 要約
富永 晃一(上智大学教授)
日本における「休み方・働き方」の課題と改善策 要約
柴田 悠(京都大学教授)
いずれも大変興味深い論文ですが、このうち石崎さんの勤務間インターバルの論文は、今から20年前にこの問題を提起したころのことが脳裏によみがえりました。
当時、世間ではホワイトカラーエグゼンプションが大問題になっており、私は残業代ゼロなどということではなく、労働者の健康確保のための実労働時間規制こそが重要で、そのためにもEU指令の休息時間規制を導入すべきという論陣を張っておりました。懐かしい思い出ですが、20年たってもまだ課題であり続けているのですね。
有斐閣のサイトに、『ジュリスト』の次号(2026年6月号)の予告が出ましたので、こちらでも広報しておきます。
https://www.yuhikaku.co.jp/jurist/next
法律実務のパートナー
ジュリスト 2026年6月号(No.1624)
2026年05月25日 発売
予定価 1,760円(本体 1,600円)
特集 育成就労制度の展望
〔座談会〕育成就労制度の導入と外国人労働法制の課題/山川隆一・指宿昭一・早川智津子・山脇康嗣
日本の外国人労働政策/濱口桂一郎
育成就労制度と国際労働力移動政策/是川 夕
育成就労制度と労働法/斉藤善久
外国人労働者と社会保障/島村暁代
連載
民事訴訟手続のデジタル化のこれから⑩・完「研究者の視点から」/工藤敏隆
広報と法務⑮「危機管理広報(6)記者会見」/鈴木悠介
〔書評〕中筋智規著『株式会社の資本制度の研究』/伊藤雄司
〔書評〕森田 修著『「民法と労働法」講義』/志水深雪
判例詳解
最判令和7・10・30(保険金請求事件)/山下徹哉
最判令和7・12・23(残存費用等請求事件)/丸山絵美子
最判令和8・1・26(固定資産税及び都市計画税賦課決定処分取消請求事件)/髙橋祐介
もう今から20年近くも昔のエントリですが、たまたま読み返して、改めてそうだよなあ、と思ったので、再掲しておきます。コメント欄も大変示唆に富むので、すべて再掲します。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2007/12/post_0e4e.html
「最低賃金引上げは悪くない」というエントリーに大坂先生が興味深いコメントをされていますので、エントリーを改めて論じてみたいと思います。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2007/10/post_7d29.html
資本主義というのは大変ダイナミックなものであって、常に既存の熟練を解体しながら新たな熟練を創り出していくものと捉えるべきではないかと思います。
既存の熟練が解体するところだけ見ていると、複雑労働力生産が消えていくという風に見えるのですが、そう単純なものではないのではないか。
むしろ、純粋資本主義の時代とか単純労働力生産の時代とされる典型的な産業革命の時代というのは、重工業系の現実の生産活動の現場は職人的労働者による請負生産がなお主流の時代であって、女子年少者に代表される軽工業系の単純労務がこれと併存していたと見るべきではないか。
重工業化による複雑労働力生産への移行というのは、当該分野においては経営者が口を挟めない間接管理による請負生産が直接管理による生産に移行していくことであり、生産技能が親方の手から工場主の手に移っていくことであり、つまり単純であれ複雑であれ、労働力生産そのものが資本によって包摂されていくプロセスであったというべきではないか。
したがって、これは熟練のメタモルフォーズであり、熟練形成を可能にする一定の仕事共同体が資本や工場といった枠組みとはまったく別個に労働者集団の共同性の上に成立し得た時代から、現実に仕事を一緒に行う資本や工場の職場共同体として成立するようになる時代への転換と見るべきではないか。
現在、情報産業化によって進みつつある労働力生産のメタモルフォーズをどう捉えるかについても、基本的には熟練形成の中味や在り方の変容と捉えるべきであって、複雑労働力生産が単純労働力生産に移行していくという風には捉えない方がいいのではないか。
という風に、まあおおざっぱに言うと考えております。
で、これと正規雇用、非正規雇用の議論をどう接合するかなんですが、まず複雑労働力生産には一定の熟成期間が必要であり、促成栽培で粗製濫造できるものではないという点については、熟練の中味が変わってもそれが熟練である限りは変わらないのではないでしょうか。その意味で、人生前半期におけるある程度安定した形での教育訓練期の必要性にはそれほど変化はないように思われます。それを最低限の「正規雇用」性と呼ぶならば、それは今後とも求められる要件であろうと思います。
ただ、その熟練形成が20世紀システムにおけると同様、職場共同体という形を必ずとらなければならないかについては、必ずしもそうではない可能性が高まるであろうと思います。つまり、情報産業時代においては、あちこちの職場を渡り歩きながら熟練形成していくという19世紀的な職人モデルも一定の存在意義を有するようになる可能性があると思います。ただ、19世紀的な職人モデルは、親方の支配する「組」というメンバーシップの中に包摂された形で、それがなされたわけであって、市民法が前提とするばらばらの個人が契約自由原則で市場取引を行っていたわけではないのと同様、新たな職人モデルも職場を超えた何らかのメンバーシップに包摂された形でなければ、安定した熟練形成システムにはならないでしょう。
そういうモデルのプロトタイプとしては、例えば常用型派遣のようなものが考えられるのかも知れません。派遣元企業の正規労働者として常用雇用されながら、様々な職場を遍歴して技能を磨いていくという仕組みは、熟練の性格によっては、私はむしろ望ましいものである可能性が高いと思っています。
私は、ベッカーが云うような企業特殊的人的資本形成の相対的地位が今後下がっていくことはあり得るのだろうと思っています。ただ、企業特殊的であれ普遍的であれ、生身の人間が技能形成プロセスを適切に遂行していくためには、その間社会的に安定した地位の確保が必要であることは変わりはないのであり、今日若年非正規労働問題が提起している問題は、まさにその問題であるはずだと思うのです。
コメント
『労基旬報』2026年4月25日号に「欧州経団連はEU賃金透明性指令の見直しを要求」を寄稿しました。
EUの賃金透明性指令、正確には「賃金透明性と施行機構を通じた男女同一価値労働原則の適用強化に関する指令」については、欧州委員会から指令案が提案された段階で本紙2021年4月25日号に「EUの賃金透明性指令案」を寄稿し、その概要を紹介したことがあります。その後、2023年5月10日に本指令が正式に成立し、加盟国は2026年6月7日までに国内法への転換が求められています。ということは、もうまもなく本指令が実際に施行され始めるということになります。この段階に至って、EUレベルの経営者団体である欧州経団連(ビジネス・ヨーロッパ)が、その見直しを求める文書を公表しました。2026年2月に出された『社会問題分野における簡素化を向上させる』という文書のうち、半分くらいをこの賃金透明性指令の見直し要望に充てているのです。その冒頭には、「時計を止めろ(Stop the clock)」という悲鳴のような言葉が出てきます。曰く、「ビジネス・ヨーロッパは賃金透明性指令の国内法化に関して「時計を止めろ」と呼び掛ける。加盟国と使用者の両方にとって、釣り合いがとれ、筋が通り、実行可能な実施を確保するためには、追加的な時間が必要だ。」国内法化期限は上述のように今年6月7日ですが、欧州経団連はあと2年先延ばしすべきだと主張します。そしてその間に、指令の中身を見直すべきだというのです。一体、ヨーロッパの経営者たちはこの指令の何をそんなに問題視しているのでしょうか。その最も重要なポイントは、労働協約に関わる問題です。欧州経団連にいわせれば、多くのEU加盟国では団体交渉を通じた労働協約により職務分類(job classification)がされており、それらは既に技能、責任、努力、労働条件といった客観的で性中立的な基準により確立しています。それゆえ、かかる労働協約を適用している企業については、本指令に基づく諸義務に関して法遵守の推定がされるべきだというのです。これは、煩瑣な行政手続の簡素化に役立つだけではなく、団体交渉の促進というEU労働政策の大きな目標にも資するではないかというわけです。これは確かに、私がこれまで紹介してきたEU労働政策の琴線に触れる問題です。1991年のマーストリヒト条約以来、EU労働政策は労働に関わることはできるだけ労使団体間の協議交渉によって決めることが望ましいという立場に立ち、それを促進するような仕組みをあれやこれやと設けてきました。現在も労働関係で新たな政策を立案しようとする際は、まずはEUレベル労使団体への2段階の協議が不可欠になっています。ところが、その考え方とは異なる思想もあります。男女平等を始めとする人権関係の政策においては、むしろ労使団体も既存の偏見にまみれた団体とみなし、あるべき平等の姿を追求すべきという考え方が強まってきて、かつては男女平等関係もこの2段階の労使団体への協議の対象に入っていたのに、現在ではそこから排除されています。前回(2021年)の紹介でも書いたように、この賃金透明性指令も、その立法過程において、労使団体への協議は一切行われていません。賃金問題である以上、労使への協議も必要なのではないかと感じるところですが、女性担当部局はそもそも労使団体をあまり信用していないようなのです。このため、賃金透明性指令には、労働協約の法遵守推定などという規定は一切含まれていません。労働協約に基づくものであろうがなかろうが、等しく指令の要求することを実施しなければならないのです。では、具体的に何が問題になるのでしょうか。本指令第4条、第6条、第7条、第9条、第10条において、反証されない限り労働協約を適用する企業は遵守しているとみなされ、その場合第18条において立証責任は使用者側ではなく、非遵守の証拠を示すべきは労働者の側になることを求めています。以下、条文ごとに見ていきましょう。まず第4条(同一労働及び同一価値労働)です。第4条 同一労働及び同一価値労働1 加盟国は、使用者が同一労働又は同一価値労働に対する同一賃金を確保する賃金構造を有することを確保するために必要な措置をとるものとする。2 加盟国は、均等機関と協議して、本条に規定する基準に則って労働の価値の評価及び比較を支援し指導するための分析用具又は方法論を入手できるようにしかつ容易に利用できるようにすることを確保するために必要な措置をとるものとする。これら用具又は方法論は、使用者及び/又は労使団体が性別に基づくいかなる賃金差別をも排除する性中立的な職務評価及び職務分類制度を容易に確立し利用することができるようなものとする。3 適当な場合は、欧州委員会は欧州男女均等機構(EIGE)と協議して、性中立的な職務評価及び職務分類制度に関するEUレベルの指針を更新することができる。4 賃金構造は、労働者が労働の価値に関して比較可能な状況にあるかどうかを、存在する場合には労働者代表と合意した客観的かつ性中立的な基準に基づいて評価することができるようなものとする。これら基準は直接であれ間接であれ労働者の性別に基づかないものとする。これら客観的な基準は技能、努力、責任及び労働条件、並びに適当であれば特定の職務又は職位に関連する他のいかなる要素をも含むものとする。これら基準はまた、性別に基づく直接または間接のいかなる差別も除き、客観的かつ性中立的な方法で適用されるものとする。とりわけ関連する対人能力(ソフトスキル)が過小評価されないものとする。この第4条に、次の1項を付け加えることを求めています。前各号で要求されるあれこれを、労働協約に基づくという一言で回避したいということです。5 使用者が労使団体によって共同して確立され、性中立的な基準に基づいている職務分類または賃金構造を含む労働協約を適用している場合には、当該使用者は本条を遵守していると推定するものとする。次に第6条(賃金決定及び昇給方針の透明性)です。第6条 賃金決定及び昇給方針の透明性1 使用者は、労働者の賃金、賃金水準及び昇給を決定するのにいかなる基準が用いられるのかを労働者が容易に入手可能にするものとする。これら基準は客観的かつ性中立的であるものとする。2 加盟国は、第1項の昇給に関する義務から労働者50人未満の使用者を適用除外することができる。これは個々の労働者から賃金決定基準や昇給方針を示せと言われたら見せなければならないという規定なので、使用者側からすれば面倒くさいことこの上ないのは確かでしょう。そんなのは全部労働協約に書いてあると答えられれば楽になります。そこで欧州経団連は、次の1項を追加せよというのです。3 賃金決定、賃金水準及び昇給について第4条に規定する労働協約を適用する使用者は、第1項に規定する情報提供の要件を遵守しているものと推定するものとする。この場合において、使用者はこれらの基準を確立している労働協約の関係する規定に言及することによりその義務を果たすことができる。以下、賃金透明性指令のほぼ各条ごとに項を追加することを求めていますが、元の各条をいちいちここに示しているとあまりにも煩雑なので、以下では追加を求める項だけを引用していきましょう。まず、第7条(情報入手権)です。これも個別労働者に極めて細かな情報を入手する権利を与えている条文で、労働協約がちゃんとしているんだからそれでいいじゃないかと言いたくなる気持ちは分からないではありません。欧州経団連が追加を求める1項は次のようなものです。7 第4条を遵守していると推定される労働協約を適用する使用者は、第1項に規定する個別の情報提供義務から免除されるものとする。この場合において、労働協約の関係する規定への言及は賃金水準に関する情報を提供する使用者の義務を果たすのに十分であるとみなされるものとする。次は第9条(男女賃金格差の報告)です。これは公的機関への報告義務ですが、これも使用者にとっては大きな負担になるので、労働者への情報提供と同様に労働協約適用企業には大部分を免除したいというわけです。11 第4条の下で遵守が推定される労働協約を適用する使用者は、全体の男女賃金格差(第9条第1項第a号)の報告に限定し、第9条第1項第b号から第g号までは免除するものとする。本条については、第6項の修正も求めています。労働組合との労働協約によって方法論は問題ないのだから、企業内の労働者代表と協議する必要はないということです。6 情報の正確性は、労働者代表との協議を経て、使用者の経営陣によって確証されるものとする。労働者代表は使用者によって適用された方法論にアクセスできるものとする。労働者代表への協議は、労働協約を適用する企業には求められないものとする。次は第10条(共同賃金評価)です。これも、企業によっては大変面倒くさい仕組みになっていますので、労働協約の適用で済まされるのであればありがたいはずです。5 第4条の下で遵守が推定される労働協約を適用する使用者は、本条第1項及び第2項に規定する義務を遵守したものと推定する。この場合において、使用者は労働協約の関係する規定に言及することによって、及び/又は男女労働者の間の平均賃金水準の正当化されない差異を予防し、確認し及び是正することを目的とする同等の比較手続を通じて、共同賃金評価を実施する義務を果たすことができる。最後に、第18条(立証責任の転換)の再転換です。労働協約を適用している使用者には遵守の推定が及ぶのであれば、論理的帰結として立証責任も使用者側ではなく、元に戻って労働者側にあるべきだということになります。6 使用者が第4条の下で遵守が推定される労働協約を適用する場合は、立証責任は使用者に転換しないものとする。この場合において、原告はまず、労働協約の規定又は適用が同一賃金の原則に従っていないことを示唆する十分で、正確で、整合性のある証拠を提示するものとする。以上が、欧州経団連が求める賃金透明性指令に対する修正条項の数々ですが、以上を集約するような形で、指令前文にこういう一節を追加せよと言っています。これが欧州経団連の言いたい主張の集約ということでしょう。多くの加盟国では、労働協約が既に労使団体によって共同に交渉された性中立的な職務分類及び賃金構造を含んでいる。これらの仕組みは透明性、公正性、及び技能、責任、努力及び労働条件のような性中立的な基準に基づく客観的賃金決定を確保する。かかる仕組みの有効性を認識するため、かかる労働協約を適用する企業は、そうでないことが証明されない限り、本指令の義務を遵守していると推定されるべきである。この推定は反証可能で、労働者の差別事件を訴える権利を妨げるものではない。さて、今になってこんなことを言われても、既に時計の針は進んでおり、今年の6月7日には欧州経団連の主張にもかかわらず、本指令がフルに適用されることになるはずです。ここまで経営側が懸念している本指令が現場でどのような混乱を招くことになるのかあるいはならないのか、しばらくEUの状況を注視する必要がありそうです。
『労働新聞』5月4日号に、ダニエル・サスキンド『GROWTH 「脱」でも「親」でもない新成長論』(みすず書房)の書評を寄稿しました。
https://www.rodo.co.jp/column/218098/
2023年7月3日号の本コラムで取り上げた『WORLD WITHOUT WORK』の著者であるサスキンドが、成長という大テーマに取り組んだ(関連記事=【書方箋 この本、効キマス】第24回 『WORLD WITHOUT WORK』ダニエル・サスキンド 著/濱口 桂一郎) 。成長至上主義者と脱成長派が激しく対立するこの分野に、各方面に目配りが効き、まことに中庸を得た議論(邦語副題にいう「『脱』でも『親』でもない新成長論」)を展開している。のだが、正直言って、その「かくあるべき」を論じている後半は、やや平板で面白みに欠ける。それよりもむしろ前半に記されている、著者としては恐らく持論を展開するための予備的な歴史的事項の確認であったと思われる部分こそが、多くの読者にとっては通念をひっくり返す「え?そうだったのか!」が次から次に現われて、ページをめくる手が止まらなくなる部分なのだ。大体、成長至上主義者も脱成長派も経済が成長することを当然のことのように考えているが、人類の歴史上それは極めて例外的な現象-ほんの200年前の産業革命によって始まったことに過ぎない。それまでの長い長い停滞期(ロング・スタグネーション)を通じて、生活水準はほとんど上昇していない。古代ミノア文明でも18世紀ヨーロッパでも平均寿命は30歳代なのだ。人類の歴史を1時間とすれば、この運命の逆転は最後の数秒で起ったのである。これこそが、その停滞期の最末期にマルサスが「陰鬱な科学」としての『人口論』を書いた理由である。「成長」という現象がほんの200年程度の歴史しかないことに驚いている暇はない。今現在その是非を巡って侃々諤々の議論の基盤となっている「成長」の測定器たるGDP(国内総生産)という概念自体、まだ100年の歴史もない人類史の新参者なのだ。かつては、マクロ経済を把握しようと試みた者は政府に睨まれ、悲惨な運命をたどっていた。今から97年前に世界大恐慌が発生したとき、政府は一体何が起っているのかを理解するすべをほとんどもっていなかった。そこに登場したのが経済学者サイモン・クズネッツ。彼は国内の全経済活動を総計するというとてつもないことをやってのけた。第二次世界大戦では軍事費も計算に含められ、ケインズの弟子たちによってGDPの原型が作られていった。戦後は、ソ連との冷戦下において、西側陣営の正当性を示す最大の指標としてGDPが用いられていくことになる。こういう波瀾万丈の「成長」の歴史を踏まえて、サスキンドは中庸を得た成長論を展開していく。まず「有限の地球上で無限の成長ができるはずがない」と主張する脱成長論者に対して、「いや、アイディアは無限だ」と反論する。有限な物質は競合し、奪い合うものだが、無形の情報は競合せず、誰もが使える。彼のスタンスは、GDPの役割を最小限に留め、環境破壊や格差拡大といった弊害を押しとどめながら緩やかな成長を目指していこうというものだ。もっともだけれども、やや退屈ではある。
全基連が刊行している『中央労働時報』の3月号に、長谷川真一さんが「国際交流の現場経験から考える労働の論点」というエッセイを寄稿されています。
長谷川さんは労働省の大先輩であり、労働行政における国際派のリーダー格の方ですが、ここでは、若き日のILOに派遣された頃の思い出を書かれていて、ジョブ型とメンバーシップ型の教科書的なエピソードになっているので、紹介しておきたいと思います。
・・・私は労働省に入省して4年間「メンバーシップ型」の発想に染まりきったところで「ジョブ型」のILOに行ったので、彼我の違いに戸惑い、ストレスも大きく、慣れるのに時間がかかった。その時印象が強かった点をいくつか書いてみたい。
私がILOに派遣されることが決まったとき、労働省人事当局から仕事についての希望を聞かれた。労働省は2年間のILO勤務で国際経験を積んでくれば良いと考え、ILOでの仕事の成果については何も期待していなかったわけである。私も「留学」のようなつもりで考え、「労働省の今までの4年間で雇用政策と労働基準の仕事をしたが、ILOなら中心は労使関係だ。この機会に労使関係の仕事の経験をしよう」と考え、ILOの中心的部局である「労働法・労使関係部」を希望したところ、それが通って末席の専門家として配属された。
一方、ILO側の私の直属上司のアメリカ人の課長は、私が4年間日本で労働法・労使関係の行政経験を経ていると考えて、いろいろな仕事を依頼してきた。ここに最初のミスマッチがあった。
初めて国際機関にいって私が強く感じたことは、「最初から一人前で扱われる」「他人は訓練してくれない。頼れない」ということである。
日本の官庁に限らず、会社も含めた組織では、大学を出た若者は、先輩が指導的助言して育てていくことが普通で、入省(入社)する若者もそれを予想(期待)しているのであるが、国際機関は、そもそも「空席」があって人を採用するときに「職務(job)と責任、それに見合う労働条件」は明確であり、採用される若者はそれをこなせることが前提である。即戦力であることが当然なのである。
日本の組織では、他人が困っていたり、忙しかったりすると、自発的に助けたり、手伝ったりすることがあるが、国際機関ではまずそういうことはないと思った方がいい。それぞれの職員の役割、職務と責任は明確であり、他人の領域には手を出さない。自分の仕事をきちんとやれば、後は何をしようが関係はない、ということである。
先輩だからといって訓練指導をしてはくれないし、むしろ競争相手となる。もちろん上限関係はあるが、日本のような先輩後輩関係はない。
ILOに行って、同僚との関係のよそよそしさに、最初は戸惑った。こちらから尋ねなければ、仕事のアドバイスは得られない。日本なら当然先輩が注意をしてくれる問題を知らないで失敗し、あとで同僚に不平を言ったとき、「それはあなたが質問しなかったのだから仕方がないでしょう」といわれて愕然としたものである。
一方、自分の職務に属する仕事については、干渉を受けたりすることもなく、尊重される。自分は自分、他人は他人で、慣れてしまえば、それはそれでやりやすい面はある。付き合い残業などが起こりにくい世界である。・・・・
こうしたことは、恐らく山のような人々が経験してきたことでしょう。でも、そういう方々が日本に戻ると、日本型組織に順応して生きていくことになるのです。
菅野和夫[編著]荻野登・永田有・尾形强嗣[著]『バブル崩壊後の雇用システムの適応と変貌─政策との関連で─』がJILPTから刊行されました。
https://www.jil.go.jp/publication/ippan/koyosystem2026.html
これはどういう本かというと、2021年に刊行された故草野隆彦さんの『雇用システムの生成と変貌─政策との関連で─』の続編です。亡くなった草野さんの遺志を継いで、草野本の原動力であった菅野JILPT元理事長のもとに、荻野登・永田有・尾形强嗣の3人がバブル崩壊以後の約30年余の時代を4区分して分担執筆したいわば「現代史」ということになります。
そのはしがきに、本書の趣旨が書かれています。
・・・しかしながら、草野書の分析が及んでいない 1990 年代に入ってからは、日本経済は同年代当初のバブル経済崩壊に始まって、2010 年代までの長いスランプに陥り、日本的雇用システムも、雇用の不安定化、賃金の伸び悩み、非正規労働者の増加、長時間労働の蔓延、女性活躍の停滞、等々の諸問題に直面することとなった。そして、それら諸問題を通じて日本的雇用システムそのものが、この間の日本経済停滞の基本的要因の一つとして指摘されるようになった。
本書は、日本的雇用システムをめぐる上記のような情勢変化に鑑み、草野書の続編として、1990 年代当初のバブル崩壊後、日本経済が停滞して労働市場と雇用労使関係上の様々な問題に直面し、企業も労使も政府も雇用システムの改革に取り組むようになった 2020 年代当初までの時期における同システムの様相を、その間の政府の政策との関連で詳しく描写し分析しようとする試みである。
3人はそれぞれ、
第1章 バブル崩壊後の暗中模索期(1990~97年):荻野
第2章 デフレ下の構造改革と雇用システムの変質(1997~2006年):永田
第3章 行き過ぎた市場主義からの揺り戻し(2006~12年):尾形
第4章 アベノミクス下における経済社会改革(2012~20年):尾形
とそれぞれの時代区分ごとに執筆していますが、それぞれに専門性を有し、いい意味での「クセ」のある方々なので、各章はそれぞれの執筆者のクセが滲み出る文章になっています。荻野さんは労使関係を追いかけてきた旧協会派(JILPTにおける旧日本労働協会出身者)、永田さんは労働白書にも関わった労働エコノミスト、尾形さんは法制度を中心とした政策形成に関わってきたというわけで、その匂いが漂います。
とりわけ、尾形さんの執筆になる第3章ととりわけ第4章は、あちこちに「尾形節」とでもいうべき政策批評がちりばめられていて、関係者は読んでいくと、「その通り」「我が意を得たり」「いやいや、そこまで言うか」「それは言うていいんか」等々と、内心で声を発しながら読むことになるのではないかと想像されます。ていうか、私自身がそうでした。
ある意味で全ての節や項に尾形節が鳴り響いていると言ってもいいのですが、例えば障害者雇用に関わる次の一節は、ややもすれば他の分野のような雇用システムとの関連を考えずに進められてきた障害者雇用政策に対する反省の言葉とも読めましょう。
・・・わが国の場合、同じ発達障害でもアメリカ等で多数派となっているADHD(注意欠陥多動性障害)類型ではなく、いわゆる高機能広汎性発達障害の類型に属する者が中心となっている。こうしたタイプの発達障害者は、多くの場合、採用に当たって企業がもっとも重視する協調性、コミュニケーション能力などにおいてハンデを有しており、実際に手帳所持者の大半は、就職活動における挫折や職場での不協和などのエピソードを特徴としている。日本的雇用システムの下、まさにその障害特性ゆえに職業適性を欠くとして従業員集団(企業コミュニティ)から排除された者とも言える。こうした障害特性を補完して受け入れるということは、当該特性を「不適格」と評価するような採用(能力評価)基準、ひいては雇用システムの在り方自体の見直しにまで影響する要素があり、そこまで踏み込まずに対応が可能な身体・知的などの障害と決定的に異質なものといえる(逆さまに考えれば、発達障害とは、いわば雇用システムによって「炙り出された」障害といえ、故に日本においては上記のような発達障害類型が中心的な存在となるのだと考えられる。各国において中心となる発達障害のタイプは、ある意味でその国に支配的な雇用社会システムの「映し鏡」であるともいえよう)。
知名度のある大企業などが法改正後も依然として発達障害者の採用に慎重なのもそうした事情からかとも推測されるが、従来の障害類型と根本的に異質の発達障害をも雇用義務対象とした(正確には対象となることを明示した)ことで、こうした伝統的な雇用システム(企業コミュニティ)に本質的に馴染みにくい者をいかに受容するかという極めて困難な問題が改めて惹起されたのである。ただ、精神障害者を雇用義務対象とするか否かで大議論になった労政審も含め、本問題については、今回法改正の検討プロセスにおいて必ずしも突っ込んだ議論は行われなかった。また、就労支援を担当する公的機関も、法改正後においても、そこまで自覚的に受入れ先企業等を助言指導しておらず、的泣くな問題意識を持って受け入れる企業は極めて少数であったと言えよう・・・。こうした展開を振り返れば、経産相が提唱する「ダイバーシティ経営」が現実の壁に阻まれ、行き詰まりを見せていることもある意味で自然な成行きと言え、日本的雇用システムのコアにある寄贈文化的要素が如何に強靱化が、改めて印象づけられる。
いや、こういう本格的に議論すべきところもあるんですが、たとえば安倍政権の「同一労働同一賃金」に対するこういう突っ込みなんかは、大喜利で「座布団2枚!」といいたくなるような「そうやけど」「そこまでいうんか」の寸言であります。
・・・こうした運動論的な色彩を色彩を纏った施策をあえて保守本流と言える安倍政権が採用し、いわば寝た子を起こす形で再燃させることについては、経営側の強い反発も予想された。にもかかわらず、そうした議論を呼ぶ問題をこのタイミングであえて取り上げた背景には、やはり2016年夏に予定されていた参議院選挙に向けた女性・若者向けのアピールという政治的要素が第一に想起される。
つまり、本施策の本質は、労政審を中心とした労働系インナーサークルに強いアレルギーのあるこの「国際標準」を導入し、旧態依然たる日本的雇用システムを改革するという一種のプロパガンダ戦略であった。「改革派」若手労働法学者を知恵袋に、専門外の有識者らをも動員して、「守旧派」の厚い壁を破り、男性中心の古い体質を改革する、という女性・若者向けの一種の「演出」であり、当初から労使合意の上導入された従前のルールを覆す意図はなかったといえる。
同じ働き方改革の看板であった時間外労働の上限規制についても、ここでは引用しませんが(445頁)、なかなかにきつい皮肉の効いた寸言が溢れています。単にこの30年余の歴史的事実を回顧するだけにとどまらず、その頃にあれこれと感じていたことが蘇ってくるという意味で、熟読に値する本です。
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