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2025年12月 7日 (日)

マシナリさんが拙著を2冊まとめてガッツリ書評

マシナリさんが久しぶりにブログを更新しておられて、なんと拙著を2冊まとめて書評していただいております。

互いに補助線となる良書(両書)

Asahishinsho_20251207172601 まず、昨年の『賃金とは何か』についてですが、

実は『賃金とは何か』は発売後すぐに購入して雑ぱくな感想をメモしていましたが、それはどこかに散逸してしまったので改めて読み返すと、終章に出てきて帯にもでかでかと書かれていて「上げなくても上がるから上げないので上がらない賃金」というパワーワードが本書の真骨頂だなと思います。それに先立つ各章は、いかにこの呪文が日本型雇用の一部でありながらその運用に大きく影響しつつ頑健なシステムとして形成され、その結果どのような問題を抱えてしまったのかを丁寧に解き明かすために書かれたようなものと理解することもできそうです。

Asahi2_20251207173201 そしてこの賃金の問題と密接不可分なのが、もう一冊で取り上げた管理職問題になります。

日本型雇用においては新卒で「白地の石板」として採用されて異動しながら職能資格を積み上げてきた正社員の進化形が管理職であって、その進化の境目は極めてあいまいです。日本型雇用の正社員はポケモンよろしく全く違う形態に「進化」(まあ生物学的には変態でしょうけれども)するのではなく、新卒でヒラの正社員として入社し、何年かまっとうに勤務を継続すれば主任とか係長の役職が付いて、同じように課長とか部長とかの「管理職」となっていくような進化を遂げます。もちろんその前提として、自分の担当業務に加えて、平社員のうちから新卒一括採用で毎年入社してくる後輩に対して指導を行うことを「管理的」業務の経験として評価するシステムがあります。つまり、新卒から管理職に至るまで全員が評価対象となるシステムがあり、そこで職能資格が上がったと評価されると管理職に進化=昇進するのが日本型雇用であり、その運用は経験年数による年功的昇進となっているわけですね。

1年を隔てて出した2冊の本が、「散逸」のせいとはいえ、こうして有機的につながった形で論じられるのは嬉しい限りです。

日本型雇用的「管理職」が職種として認識されうる経路として過半数代表者制を法定するというのは有効そうですが、「罰ゲーム」「無理ゲー」化している管理職への風当たりは強くなることはあっても弱くなることはなさそうにも思えるところでして、その現状を考える上で歴史的経緯を学ぶために必読の書であることはいうまでもありませんね。この分野になじみのない方も朝日新書から続けて刊行された良書(両書)を互いに補助線として読まれるとよろしいのではないかと思うところです。

ありがとうございます。

 

 

 

 

2025年12月 6日 (土)

健康保険法には「哺育手当金」が残ったのはなぜか?

先日『労基旬報』に寄稿した「「育児時間」は本来「哺育時間」であった」に対して、社会保険労務士の大河内満博さんから、健康保険法には戦後もちゃんと「哺育手当金があったぞ」という指摘をいただきました。

「育児時間」は本来「哺育時間」であった@『労基旬報』2025年11月25日号

・・・しかしながら当時の状況を考えると、これはおそらくその直前の1946年11月5日に国語審議会が答申し、同月16日に内閣が告示した当用漢字表の1850字の中に、この「哺育」の「哺」の字が含まれていなかったためではないかと思われます。政府が提案する法律の文言の中に、政府が定めたばかりの当用漢字表にない字を使うわけにはいかないという判断だったのでしょう。

 しかしながら、哺乳類という言葉があるように、哺育とは母乳を与えて育てることです。これに対して、育児とはそれよりはるかに広い意味の言葉なので、立案者の趣旨は全く変わらなかったとはいえ、字面の上では誤解を招きかねないものになってしまいました。・・・

■hamachanブログに「出産育児一時金」を追加します。 健康保険法においては、昭和23年8月1日から、立法当初からあった「分娩費」に加えて、新たに「哺育手当金」を創設します。その後、昭和36年6月15日に「哺育手当金」を「育児手当金」と改称、そして、

平成6年10月1日以降は、現行法にあるように、子どもが健やかに生まれ育つ環境づくりを図る観点から、「分娩費」と「育児手当金」を包括化し、「出産育児一時金」として大幅な給付改善を図ることとなりました。

※ なお、労働基準法第67条の規定による「育児時間」については、歴史的経緯を踏まえたうえ、今後は男性労働者にも取得が可能になるような法改正を妨げるものではないと思われます。

[注] 昭和23年8月1日から健康保険法に新設された「哺育手当金」は、正確には「哺育手當金」という旧字体表記でした。昭和21年11月16日に内閣が告示した当用漢字表の1850字の中に「哺」の字が含まれていなかったとしても、その直後の改正健康保険法において「哺育」という漢字表記が用いられています。

2017年と少し古くなりますが、出産育児一時金と埋葬料に関するニッセイ基礎研究所の資料になります

はい、その通りで、1947年に作られた労働基準法では「哺育時間」という表記を避けて「育児時間」に書き換えているのに、その翌年の1948年には(労働省と別れた厚生省の保険局によって)「哺育手当金」という表記が行われているんですね。

実は、私はこれを知っていました。

278_h1768x1086_20220916085401_20251206111301 『季刊労働法』2022年秋号に載せた「育児休業給付の法政策」の中で、関連制度としてこれにも言及しており、ちゃんと「哺育手当金」という表記も引用しています。

育児休業給付の法政策@『季刊労働法』2022年秋号(278号)

 一方少し遡りますが、戦時中1942年3月の勅令改正により哺育手当金が任意給付として創設され(第87条の8)、これが戦後1948年法改正により法律上の必須給付に格上げされました。
第50条の2 被保険者ガ分娩シタル場合ニ於テ其ノ出生時ヲ哺育シタルトキハ哺育手当金トシテ分娩ノ日ヨリ起算シ引続キ六月間哺育期間一月ニ付百円ヲ支給ス但シ其ノ期間一月ニ満タザルトキハ之ヲ一月トス
 1961年6月の法改正により哺育手当金は育児手当金という名称になり、金額は2000円となりました。いずれにしても微々たる額であって、「育児手当金」という名称に勘違いしそうになりますが賃金補填的性格は全くありません。この「育児」という言葉は、労働基準法67条の「育児時間」と同じく、まさに「哺育」つまり授乳のための手当金とみるべきでしょう。なおこれは1994年6月の法改正で廃止され、分娩費とまとめて出産育児一時金となりました。

なぜ労働基準法と異なり、こちらは当用漢字でない「哺」の字が残ったのかといえば、労基法は(内容的には工場法を引き継ぐとはいえ)形式的には全くの新規立法であるのに対して、健康保険法という文語旧仮名遣いの法律に既にある用語をそのまま引き継ぐだけだったからではないかと思われます。

実際、健康保険法もそうですが、かつての民法も当用漢字にない見たこともないような難しい漢字が結構残っていましたよね。

ただ、上記の通り、労働基準法の影響を受けたのかそうでないのか定かではありませんが、1961年に「哺育手当金」は「育児手当金」に変わってしまいました。

 

 

 

 

 

2025年12月 5日 (金)

今年の『労働新聞』書評で取り上げた本

今年も、『労働新聞』で計12冊の本を紹介しました。もし読み落としの向きがありましたら、これからでも遅くはありませんから、是非ご一読のほどをお願いします。読む値打ちは保証します。

エマニュエル・トッド『西洋の敗北』@『労働新聞』書評

71tzv7pjh6l276x400_20251205161301 本欄でエマニュエル・トッドを取り上げるのは約2年ぶりだが、前回(参考記事=【書方箋 この本、効キマス】第4回 『我々はどこから来て、今どこにいるのか?』エマニュエル・トッド 著/濱口 桂一郎)の本がトッド人類史の総括編であったのに対し、今回の本はロシア・ウクライナ戦争について世の常識と正反対の議論をぶちかまし、返す刀で米英をはじめとする西側諸国をめった斬りにするすさまじい内容である。なにしろ、ロシアは勝っているというのだ。ウクライナに対してだけではない。ウクライナを支援しているアメリカや西洋諸国に対して現に勝ちつつある。むしろ崩壊の寸前にあるのは米英の方であり、それに巻き込まれているヨーロッパ諸国だというのだ。

 トッドは別にプーチンが正義だなどといっているのではない。トッド流の家族構造による世界各国の絵解きからすると、ロシアは中国と同じ共同体家族だが、ウクライナは東欧では数少ない核家族型社会であって、ウクライナがロシア支配を嫌がるのは当然だ。しかし、地政学的にウクライナをロシアから引き剥がそうとする企てはウクライナに悲劇をもたらす。

 そこから話は西洋諸国への批判に向かう。西側の政治家や知識人はロシアの専制主義に対して西洋の自由民主主義が闘っていると思い込んでいるが、実は西洋のリベラル寡頭制とロシアの権威主義的民主主義との闘いなのだ。そして今崩壊の危機に瀕するのは西側諸国の方だ、というのが彼の主張である。彼が描き出すアメリカの姿は、不正義の勝利、知性の崩壊、そして能力主義の終わりによる寡頭制とニヒリズムの世界である。

 それゆえに、とトッドはいう。西洋(west)ではないその他(rest)の世界はみんなこの戦争でロシアの側に立っている。正義の西側ではなく大悪党のはずのロシアを支持しているのは、正義面している西洋が今までさんざんぱらその他の諸国を搾取してきたからだ。そして世界的には少数派に過ぎない家族構造の米英仏が、LGBTQなどの思想を強制することに苛立っているからだ。西側から見ればスキャンダラスに見えるプーチンの反LGBTQ政策は、世界の大部分の諸国にとってはあまりにもまっとうな考えであり、これこそがロシアの「ソフトパワー」だという。共産主義のソビエトが敵に回していたユーラシアの大部分の諸国にとって、プーチンの保守主義ロシアは何の心配もなく仲良くやれる「いい国」というわけだ。いや直系家族の日本でも、ラーム・エマニュエル駐日米国大使によるLGBTQの押しつけが保守主義の反発を生み出しているではないか、と。

 本書の原著は2023年7~9月に執筆されたが、邦訳はそれから1年以上経って刊行された。「日本語版へのあとがき」の中で彼は、本書は「未来予測の書」として書かれたが、今やウクライナの敗北は明確になり、本書はより古典的な意味で「歴史を説明する書」となったと語っている。これに反発する人も多いであろうが、喧伝された反転攻勢はうまくいかず、遂にアメリカでプーチンに親近感を隠さないトランプ大統領が再選した今、彼の本はいかに不愉快であろうが読まれなければならないはずである。

楊海英『墓標なき草原』@『労働新聞』書評

 81sk8qgzhkl_ac_uf10001000_ql80__20251205161601 5938613_20251205161601 日本の相撲界にはモンゴル人がたくさんいるが、そのなかには中国国籍の内モンゴル人もいる。蒼国来(現・荒汐親方)や大青山がそうだ。彼ら内モンゴル人が、中国の文化大革命時に死者5万とも10万とも言われる大虐殺(ジェノサイド)を被ったことをご存じだろうか。口を開けば人権を叫ぶ戦後進歩主義者たちがだんまりを決め込んできた、戦後世界で最大規模の大虐殺の詳細な姿が本書で描き出される。

 著者楊海英の両親をはじめとする親族の体験談から始まり、そのさまざまな縁者の経験が彼らへのインタビューを中心に展開されていく。これでもかこれでもかと繰り返される虐待、虐殺の描写はあまりにも凄惨なので、時々それ以上読み進められなくなる。たとえば下巻の第7章に登場する奇琳花は、モンゴル貴族の家系に生まれ、延安民族学院で学んだ筋金入りの中国共産党員であった雲北峰と結婚し、内モンゴル自治区政府直属機関の幹部となっていたのだが、自治区主席のウラーンフーの一味として激しい暴力にさらされた。

 「駅で降りた瞬間、無数の漢人農民たちが洪水のように襲ってきました。私は下半身が完全に破壊されて、血だらけになって歩けなくなりました。漢人農民たちは磨いたことのない黄色の歯を見せて笑っていました」。「拷問が毎日のように続いたため、一九六六年になると奇琳花の子宮が脱落してしまった」。「モンゴル人というだけで、女性たちは言葉ではいいつくせない虐待を日常的に漢人たちから受けていました。世界でほかにこんな残忍非道な例がありますか」。

 だが奇琳花はかろうじて生き残った。ほとんど全滅に近い虐殺が行われたのは下巻第10章以下で描かれるトゥク人民公社だ。何しろ生き残ったのは当時7歳の幼児だけなのだ。本書の章題にも「モンゴル人がいくら死んでも、埋める場所はある」とか「中国ではモンゴル人の命ほど軽いものはない」とか「モンゴル人が死ねば食糧の節約になる」といった漢人たちの捨て台詞が用いられている。

 なぜこんな虐殺が行われたのか。当時の中国はソ連と激しく対立し、その侵攻を恐れていた。同族の国モンゴルはソ連の先兵として攻めてくるかもしれない。そのとき、独立を希求しながら中国に無理やり併合された内モンゴル人たちは中国を裏切って敵と結託するかもしれない。だから、先手を打って内モンゴル人、とりわけその指導者となり得るエリート層を叩き潰しておかねばならない。物理的に。かくして、偉大な領袖毛沢東の命令によって、20世紀後半最大の虐殺劇が繰り広げられたというわけだ。今日新疆ウイグルやチベットで行われていることの源流は、半世紀前に内モンゴルで予行演習済みだったわけである。

 いまや、内モンゴル自治区人口2500万人のうち、モンゴル族は500万人と圧倒的少数派だ。本書から離れるが、最近の習近平政権下では、モンゴル語の授業を削減し、漢語教育を義務化する教育改革が行われ、抗議活動は徹底的に弾圧されたという。

ヴィリ・レードンヴィルタ『デジタルの皇帝たち』@『労働新聞』書評

1863183_20250226225001_20251205161701  タイトルの「デジタルの皇帝たち」(原題は「クラウド・エンパイアズ」なので、正確には「クラウドの諸帝国」)とは、GAFAといわれるデジタル巨大企業だ。アマゾン、アップル、グーグル、ウーバーといったグローバルに展開するプラットフォーム企業によって、我われの生活は支配されている。本書はここ数十年のその展開の歴史を興味深いエピソードを交えながら語る。
 これら諸帝国の出発点は、しかしながら現実世界の権力を嫌い、サイバー空間に自由と互恵を求める草の根的な民主的電子マーケットにあった。第2章「互恵主義」のジョン・バーロウが思い描いたバーチャル理想社会は、デジタル巨人企業の急成長とともに、著者が「ソ連2.0」と呼ぶ中央計画自由市場へと変貌を遂げてゆく。かつてソ連型社会主義が失敗したのは、当時のコンピュータのデータ処理能力では到底間に合わなかったからだ。ところが今や、GAFAのアルゴリズムは独占企業による完全市場を創り出してしまった。「完全な市場を実現する夢を見ながら、アイン・ランド作品の愛読者であったシリコンバレーのリバタリアンが、結局はソ連2.0を生み出しているのだとしたら、皮肉以外の何物でもない」と著者は言う。
 だが、彼が「帝国」の語に込めた意味合いは、第Ⅱ部「政治的制度」で明確になる。現在、各国の裁判所で処理される訴訟の件数よりも、デジタルプラットフォーム企業内部で処理される紛争の件数の方が多いのだ。そして、共産主義革命によって創り出された共産主義帝国と同様、デジタル革命によって生み出されたデジタル帝国は、かつて救済すると言っていた人民(プラットフォーム利用者)を搾取収奪の対象としていく。ジェフ・ベゾスの父ミゲルはカストロのキューバから逃げ出し、アメリカという新天地で活躍できたが、今世界中の電子マーケットを支配するアマゾンから逃げ出しても、顧客を奪われて無一文で放り出されるだけだ。
 されば、万国のインターネット労働者よ、団結せよ!「集合行為」と題された第9章と第10章は、帝国に反抗するデジタルプロレタリア階級(アマゾン・メカニカル・タークの就労者)とデジタル中産階級(アップル・ストアの出品者)の姿を描き出す。だが前者は絶望的だ。クリスティ・ミランドの訴えに呼応したターカーはほんの僅かだった。一方後者には希望がありそうだ。アップルはアンドリュー・ガズデッキーらの訴えを受けて、テンプレートやアプリ生成サービスを使って制作したアプリを却下するという方針を変えた
 著者は、「プラットフォーム独裁政治からプラットフォーム民主政治へと至る道」はブルジョワ革命だという。労働者と貴族の間に位置するアプリ開発者、オンライン販売業者、フリーランス専門家等々が、中世の市民と似た非公式の制度を生み出し、もちろんそんな「歴史の法則はない」が、もしかしたら民主化を実現するかもしれない、と。

71bgexdemzl_ac_uf10001000_ql80__20251205161801  ロッキード事件と言っても、多くの読者にとっては歴史上の事件だろう。筆者は当時高校生であったが、田中角栄元首相が逮捕されるに至る日々のテレビや新聞の報道は今なお記憶に残っている。田中が逮捕された頃、『中央公論』に田原総一朗の「アメリカの虎の尾を踏んだ田中角栄」というルポが載った。父が買ってきたその雑誌を読んで、ロッキード事件がアメリカの仕掛けた罠であり、独自の資源・エネルギー政策を試みた田中をアメリカが憎んだからだという見立てに感心したことを、半世紀後の今でも覚えている。

 ロッキード事件の真実とは何なのか? 今日に至るまで繰り返しロッキード本が刊行されてきていることからしても、それは日本人が常に問い続けてきた問題であった。これに対して、アメリカ政府が秘密指定を解除して公開された文書を徹底的に読み込んで、アメリカ側からの視点でロッキード事件を再構成してみせたのが、原著が刊行された2016年当時、朝日新聞記者であった奥山俊宏による本書である。彼は、ワシントンDCの国立公文書館や全米各地に散らばる各大統領図書館などで、膨大な資料の密林に分け入り、当時のアメリカ政府の中枢で何がどのように行われていたのかをリアルに再現する。

 その結果浮かび上がってきた姿は意外なものであった。アメリカ政府、とりわけニクソン、フォード政権で外交を担っていたキッシンジャーは田中角栄を嫌っていた。その嫌いっぷりは本書冒頭で繰り返し出てくる。ただし、それは田原の言う資源・エネルギー外交ゆえではなく、田中の粗野で粗雑なスタイルへの嫌悪感であった。とくに、日中国交回復に伴う日米安保条約の台湾条項問題で、「台湾条項は事実上消滅したということか」というメディアの問いに、勝手に「字句にこだわる必要もない」と答えたことに激怒したという。

 しかし、ロッキード事件そのものに対しては、アメリカ外交の闇を暴こうとする上院外交委員会多国籍企業小委員会(とりわけジェローム・ロビンソン)と、それを抑えようとするキッシンジャーらアメリカ政府とのせめぎ合いが激烈であった。田原の「虎の尾」説が成立する余地はない。もっとも、田中の名前はあるが中曽根の名前がないことを知って、心置きなく文書を日本の検察に渡したという可能性は否定しきれない。

 ところが、ロッキードで名前が出ながら無事だった他の政治家にとっては、「虎の尾」説はずっと心の中にわだかまっていたのではないか、というのが著者の見立てだ。とりわけ中曽根康弘は、三木武夫政権で自民党幹事長として真相解明を掲げながら、陰でアメリカ政府に対し「私は、合衆国政府がこの問題をもみ消すこと(MOMIKESU)を希望する」とのメッセージを送っていた。若き日には民族主義的であった中曽根が、アメリカ世界戦略の下で日本を「不沈空母」と呼ぶに至ったのは、アメリカの「虎の尾」を踏まないようにその行動に追従する道を選んだからではないか、というのだ。

J.D.ヴァンス『ヒルビリー・エレジー』@『労働新聞』書評

817owjuk5pl_uf10001000_ql80__20251205161901  今年2月、ホワイトハウスに招かれたウクライナのゼレンスキー大統領はアメリカのトランプ大統領と口論を繰り広げて合意が破談になったが、そのきっかけはヴァンス副大統領の「失礼だ」「感謝しないのか」という発言であった。トランプに輪をかけた暴れん坊っぷりを世界に示したヴァンス副大統領とはどういう人物なのか? それを語る彼自身による半生記が本書だ。2017年に第一次トランプ政権が発足したときに単行本として刊行され、その後文庫化された。その内容はすさまじいの一言に尽きる。

 彼の故郷オハイオ州ミドルタウンはかつて鉄鋼メーカーの本拠地だったが、その衰退とともにいわゆるラストベルトとなり、失業、貧困、離婚、家庭内暴力、ドラッグが蔓延する地域となっていた。彼の両親は物心のついたときから離婚しており、看護師の母親は、新しい恋人を作っては別れ、そのたびに鬱やドラッグ依存症を繰り返す。そして、ドラッグの抜き打ち尿検査で困ると、息子に尿を要求する。登場人物表には、「筆者の父親、および父親候補(母親の彼氏)たち」という項目があり、実父を始め6人の名前が列挙されている。おおむねろくでなしばかりだ。

 母親代わりの祖母ボニーが、彼の唯一のよりどころであり、窮地に陥った彼を助けてくれる全編を通しての天使役だが、彼女自身も十代で妊娠してケンタッキーから駆け落ちしてきた女性であり、貧困、家庭内暴力、アルコール依存症といった環境しか知らない。彼の育った環境を彼はこう描写する。

 「どこの家庭も混沌を極めている。まるでフットボールの観客のように、父親と母親が互いに叫び声を上げ、罵り合う。家族の少なくとも一人はドラッグをやっている。父親の時もあれば母親の時もあり、両方のこともあった。特にストレスが溜まっているときには、殴り合いが始まる。それも、小さな子どもも含めたみんなが見ているところで始まるのだ」。「子どもは勉強しない。親も子どもに勉強を求めない。だから子どもの成績は悪い。親が子どもを叱りつけることもあるが、平和で静かな環境を整えることで成績が上がるよう協力することはまずあり得ない。成績がトップクラスの一番賢い子たちですら、仮に家庭内の戦場で生き残ることができたとしても、進学するのはせいぜいが自宅近くのカレッジだ」。

 そんな環境で育ったヴァンスが、一念発起して海兵隊に入隊し、イラクに派兵され、帰国後オハイオ州立大学に入学し、さらにエリート校中のエリート校であるイェール大学ロースクールに進学するというのだから、絵に描いたようなサクセスストーリーともいえる。だが、彼はイェールで居心地の悪さを禁じ得ない。恋人ウシャに対して突発的にとってしまう暴言や乱暴な振る舞いの中に、彼は母親の姿を見てしまう。逆境的児童体験によるトラウマから脱却しようと試みる。とはいえ、彼は祖母の生き方に息づいているヒルビリー(田舎者)の精神が大好きだ。上流階級の匂いをプンプンさせている民主党が大嫌いなのだ。

ユヴァル・ノア・ハラリ『NEXUS 情報の人類史』@『労働新聞』書評

9784309229430_200in01_20251205162001 9784309229447_20251205162101  世界中がおかしい。とりわけアメリカがおかしい。おかしいトランプ大統領が世界を振り回している。日本もおかしい。とりわけ大統領型で選ばれる知事や市長がおかしい。これは一体何が起こっているのか? 著者は、その近い原因をAI(人工知能)に、遠い原因を人類が生み出した共同主観に求める。だから本書は、アクチュアルな現代社会論であると同時にグローバルヒストリーでもあるのだ。

 情報とは、多くの人が誤解するように真実を映し出すものではなく、人々を共同主観的な虚構によって秩序付けるものだ。後から考えれば何の根拠もない虚構に踊らされて、多くの人の命を奪った事例は人類史に山のように見付けられる。近世初期のヨーロッパで『魔女への鉄槌』というデマ文書によって多くの人々が魔女として焼き殺された事例や、社会主義に敵対するクラーク(富農)という名のもとにスターリン体制下のソビエトで莫大な人々の命が奪われた事例は、共同主観的虚構の恐ろしさを物語る。

 だが、そういう蒙昧な時代は終わった、今や自由民主主義の天下が始まった、と、ソ連崩壊後の知識人は傲慢にも考えた。とんでもない。共同主観的な虚構の暴政は、人間が作る(紙や電波といった)メディアに頼って人間が意思決定する段階から、意思決定そのものを非有機的な存在――AIが担う段階に進みつつあるのだ。ここで注意しなければならないのは、知能は意識ではない点だ。AIは通俗SFで描かれるような意識はもたないが、決まったアルゴリズムに基づいて意思決定をする。真に恐るべきは、「ロボットの反乱」ではなく「魔法使いの弟子」なのだ。

 ミャンマーでロヒンギャの虐殺が行われた最大の原因は、フェイスブック上で、ロヒンギャへの憎悪を掻き立てる事実無根のヘイト動画が繰り返し閲覧され、拡散したことだという。なぜそうなったのか。フェイスブックの経営陣は、多くの閲覧数を獲得するようなコンテンツを優先して表示するアルゴリズムを組んでいた。ミャンマーで一番人気を博したコンテンツはロヒンギャ憎悪もので、AIは素直にヘイト動画ばかりを推奨した。検索するとヘイトコンテンツが並び、見る気のなかった人々も繰り返し見るうちにロヒンギャはとんでもない連中だと思うようになっていく。新興印刷術によって膨大な部数がまき散らされた『魔女への鉄槌』を読んだ近世人のように。事実に即してロヒンギャを擁護する投稿は、ずっと下位に位置付けられ、ほとんど見られなかった。かくして、ミャンマー人の共同主観は、フェイスブックのAIの意思決定によって、ロヒンギャ憎悪へ、虐殺へと動かされていった。これはアメリカ大統領選で、そして日本の昨今の知事選などで見られた現象を予告していたように見える。

 著者は希望を失わない。人類は自己修正メカニズムによって正道を保ってきた。しかし、それは人間が真実を認識し得る限りのことだ。AIにおいては、意思決定の理由が外から見えない。我われが直面しているのは、そういう時代なのだ。

湊一樹『「モディ化」するインド』@『労働新聞』書評

9784121101525_1_4274x400_20251205162201  インドといえば、我われ日本人には偉大なガンディーが作った国・・・というイメージが強い。「ガンディーが助走をつけて殴るレベル」というネットスラングも、非暴力主義でインドの独立を果たしたガンディーの高潔さを前提としている。そのガンディーを暗殺した右翼結社の民族奉仕団(RSS)で頭角を現し、グジャラート州知事として「実績」を挙げて、今日インドの首相として絶対的権力を振るっているのが、ナレンドラ・モディその人だ。
 ロシアや中国といった権威主義国家が近隣にある日本は、どうしても「世界最大の民主主義国家」という触れ込みのインドに点が甘くなりがちだ。だが、モディ政権の実態を細密な写実画のように描きだした本書を読み進んでいくと、ロシアや中国も顔負けの権威主義国家の姿が浮かび上がってくる。
 政権党であるインド人民党(BJP)は、RSSが母体となって作られたヒンドゥー至上主義の政党であり、少数派(といっても13億人中2億人弱だが)のイスラム教徒を目の敵にしている。貧家に生まれたモディはRSSで頭角を現し、グジャラート州の知事の座をつかむ。知事時代に同州で起こったのがグジャラート暴動といわれるイスラム教徒の虐殺事件だ。当時の英国政府の報告書から浮かび上がってくるのは、州政府が意図的にイスラム系住民の情報を流し、暴徒による虐殺を容易にしていたという疑惑だ。
 しかし、モディは制裁を受けるどころか「暴力の配当」としてその権力を強化する。そして、グジャラート経済を活性化した「モディノミクス」をひっさげて、2014年の総選挙で大勝し、インド首相の座についた。本書に溢れるモディのイスラム教徒に対するヘイトスピーチは、ヒンドゥー教徒の多数派によって支持されているのだ。
 もう一つ、我われが知らなかったモディの真実は、ロシアや中国並みの情報統制で、国民を知らしむべからず由らしむべしの状態に置いていることだ。膨大な予算をつぎ込んでモディを礼賛する映画や番組を流す一方で、マスメディアに対しては脅迫と妨害、時には権力による抑圧の限りが尽くされる。インド国内ではもはやモディ礼賛以外の報道は不可能だ。その力が及ばないBBCが23年、グジャラート暴動やイスラム教徒への差別・攻撃政策を描きだしたドキュメンタリーをイギリスで放送したとき、インド政府はBBCの現地支局に家宅捜査に入り携帯電話まで押収した。
 20年にインドを訪問したトランプ米大統領が「自由、解放、個人の権利、法の支配、そして、一人ひとりの尊厳を誇りを持って尊重する国、それがインドです」と褒め称えたとき、地元デリーでは与党系のヒンドゥー至上主義勢力がイスラム教徒を「国賊」と叫んで暴行を呼びかけ、暴動が起きていた。今年起こったカシミール州での事件も、イスラム教徒が多数を占める同州の自治権を19年に剥奪したことが原因だ。モディのインドは、我われが学んできたガンディーのインドとは正反対の存在になり果ててしまっているようだ。

ヤニス・バルファキス『テクノ封建制』@『労働新聞』

9784087370089_110_20251205162301  著者はギリシャの政治家・学者で、経済危機時に財務大臣になり、債務帳消しを主張したことで有名だ。本書の語り相手に設定されている父親譲りの左翼で、資本主義がやがて社会主義にとって代わられることを夢見ていた。ところがあに図らんや、確かに資本主義はとって代わられたのだが、とって代わったのは社会主義ではなくテクノ封建制であった。
 テクノ封建制とは何か。資本主義とどう違うのか?資本主義は、資本家が資源や労働力を活用(搾取)して生産活動を行い、利潤を生み出す。だから、資本家と労働者の対立が社会の基本対立図式になるし、生産活動の場で労働者が団結して資本家と対決し、労働者の利益を拡大する社会を目指すことも可能であった。ところが、テクノ封建制ではすべてがひっくり返ってしまう。
 テクノ封建制を支配するのは生産手段を所有する資本家ではなく、プラットフォームと呼ばれる需給をアルゴリズムでマッチングする「場」を独占するクラウド領主たちだ。GAFAMと呼ばれるごく少数の領主たちは、そこに商品を出品する封臣資本家に対しても、労務サービスを提供するクラウド農奴に対しても、絶対的な権力を持っている。プラットフォームへのアクセスをスイッチオフするだけで、彼らはあらゆる商品・サービス需要へのアクセスから遮断されてしまうのだから。売るためには領主さまに従わなければならないのだ。その絶対的権力を駆使して、クラウド領主たちは莫大な「利用料」を巻き上げる。これはもはや資本主義的な「利潤」ではなく、経済学的には「レント」(地代)に属する。「利潤」が(労働者を使った)資本家による生産活動によって生み出されるのに対し、「レント」は他人に生産活動を行わせて、その上がりを我がものにするだけだ。その姿は、かつて中世封建社会で、武力を振りかざして年貢を巻き上げていた領主たちと変わらないではないか、というわけだ。
 筋金入りの社会主義者のはずのバルファキスが、資本主義の大明神たるアダム・スミスを引っ張り出してこんな愚痴を語らせるというのが、何とも皮肉の極みであろう。曰く、「スミスがスコットランド訛りで嘆く声が聞こえてきそうな気がする。2008年以降、資本主義救済の名目で、中央銀行は資本主義のダイナミズムとその利点を抹殺した。有害な封建的地代まがいのものが蘇って、実り豊かな資本主義的利潤に対する歴史的な復讐を果たす機会を得たことに、スミスは落胆しているだろう。利潤の追求は哀れなプチ・ブルジョワに委ねられる一方で、本当の金持ちは、『負け犬が利潤を追い求めているぞ』と嬉しそうに囁き合っている。」
 いまや世界でクラウド領主がいるのはアメリカと中国だけだ。EUも日本も、利潤追求の資本主義時代にはアメリカを追いつめるほどに威勢が良かったが、現在は哀れな負け犬として、一生懸命生産活動で稼いだ利潤を領主さまに巻き上げられる一方だ。彼に言わせれば、米中対立の真の姿は、どちらのクラウド領主が世界を支配するかという死闘なのだ。 

内務省研究会編『内務省』@『労働新聞』書評

71mcy2cmphl240x400_20251205162401  新書としては異例の550頁を超える分厚さで、オビの惹句に曰く、「なんだ?この『怪物』は…現在の警察庁+総務省+国土交通省+厚生労働省+都道府県知事+消防庁…」。戦前存在した巨大官庁を、総勢25人の研究者たちが、通史とテーマ別とコラムを分担執筆した本格的歴史書だ。比類ない巨大官庁でありながら、2度の被災に加えて敗戦前の資料焼却、戦後の解体といった事情から、内務省については資料的制約が大きいため、日本近代史には必ず出てくる登場人物なのに、主人公にした著作は極めて少ない。私も、戦前の労働行政史ではその主役は内務省社会局なのに、社会局以外の内務省のことはよく知らなかった。

 内務省のコアに当たるのは地方行政と警察行政だ。前者は藩閥政府による選挙干渉から、政党内閣による局長や知事ポストの争奪戦など、まさに政治闘争そのものの世界であるし、後者は特高警察による左翼や右翼の取締りで有名だ。とりわけ後者は、それが理由で戦後GHQによって内務省が取り潰されたという都市伝説が広まっていた。しかし本書を読むと、内務省には神社行政、衛生行政、土木行政、社会政策、防災行政などなど、実に広範な領域が含まれていたことが分かる。

 意外だったのは通史の第4章(米山忠寬)で、通念とは異なり、既に戦前から内務省の地位は低下していたのであり、占領期の突然の解体も「最後にとどめを刺したのがアメリカ・GHQというだけのことであって、すでに戦時日本の状況の下で弱体化が進んでいたというのが実態」とした。「内務省解体による民主化」という古典的構図から脱却すべきとの指摘は新鮮だ。

 テーマ編第2章の神社行政(小川原正道)では、南方熊楠が批判した神社合祀政策が、欧米型田園都市構想に基づくものであったことを明らかにしている。「床次次官も、欧米で視察した荘厳なキリスト教会に比して、全国に散在する由緒のない小規模な村社や無格社を問題視したようで、一町村一社を原則として壮麗な社殿を備えた礼拝体系を整備するよう期待し、内務省は小規模の神社を中心に合併を進め」たという。

 さて、本書は内務省の膨大な所管分野をほぼカバーしているが、そこから見事に脱落している領域がある。まことに残念ながら労働行政だ。テーマ編第6章の社会政策(松沢裕作)が取り上げているのは、恤救規則から救護法に至る社会福祉行政であって、内務省社会局の第二部の担当に限られる。第一部が所管していた工場法改正や労働組合法案など労働分野が本書で取り上げられていないのは、取り上げるに値しないと思われたためか、担当できる研究者がいなかったためか。いずれにせよ、そこを掘り下げてきた私としては、もう20ページほど増やしてでも書いてほしかったと思わざるを得ない。

 実は正確にいうと、社会局第一部の話題はちらりと出てくる。日本女子大学校を卒業後雇員として働いた後、工場監督官補に任用され、連日工場を臨検したダンダリン第1号の谷野せつが、女性官僚の源流として紹介されている。

ティモシー・スナイダー『ブラッドランド』@『労働新聞』

71ze8uoht9l_uf10001000_ql80__2025120516260161ntvvln2ol_ac_uf10001000_ql80_  1933~45年までの10年余の間に、スターリンのソ連とヒトラーのドイツに挟まれた流血地帯――ウクライナ、ベラルーシ、ポーランドおよびバルト三国――では1400万人が殺害された。ただしこの数字には、独ソ戦で戦死した膨大な兵士たちは含まれない。20世紀でもっとも凄惨と言われる独ソ戦の傍らで、戦闘行為としてではなく、階級や民族といったあるカテゴリーに属する人びとを、そのことを理由として、殺すために殺した数を積み上げると1400万人になるのだ。

 もちろんその一部は我われにホロコーストやスターリンの大テロルとして知られている。だが本書を読むと、我われの知識がいかに局部的であったかを思い知らされる。ホロコーストというと、アウシュビッツ収容所のガス室が思い起こされるが、それはそのうちもっとも「近代的」な氷山の一角に過ぎない。アウシュビッツのガス室が嘘だというデマが繰り返されるのは、みんなそれしか知らないからだ。

 だが、東欧のユダヤ人の圧倒的大部分は収容所でガスで殺されたのではなく、各集落で裸に剥かれ、穴の上で銃殺され、そのまま埋められたのだ。その多くは戦後ソ連領となったベラルーシとウクライナであり、膨大な死者はソ連人としてカウントされてきた。偉大な大祖国戦争の語りに、米帝の手先のユダヤ人の悲劇はそぐわないからだ。

 スターリンの大テロルというと、ジノヴィエフをはじめとする見せしめ裁判や軍人の粛清が思い起こされるが、それはそのうちもっともエリート層の氷山の一角に過ぎない。クラーク(富農)というでっち上げの階級に属することを理由に、多くの真面目な農民たちが収容所に送られ銃殺されたのだ。だがそれはまだ専門家の間ではそれなりに知られている。階級の敵の撲滅はマルクス・レーニン主義の真骨頂であり、栄光の歴史として語られたからだ。

 本書で初めて知ったのは、独ソ戦が始まる前に、ソ連当局がポーランド人をその民族的帰属を理由に、組織的に大量虐殺していたことだ。スターリンはポーランドと日本による挟み撃ちを恐れていたからだという。ジェノサイドはナチスの登録商標ではない。それより先にスターリンがポーランド人相手に大々的に行っていたにもかかわらず、戦後長らくタブー視されてきた。ポーランドの軍人が2万人以上銃殺されたカティンの森事件はその氷山の一角に過ぎない。

 本書を読み進むのはとてもつらい。ページをめくるごとにこれでもかこれでもかと殺害の記述が続く。そのなかにときどき、殺される直前の少女のあどけない言葉が挟まれる。

 著者スナイダーは、ソ連崩壊以後、この流血地帯の文書館を渉猟し、入手可能になった膨大な殺人の記録を拾い集めて、本書に結実させた。ああ、ホロコーストね、大テロルね、知ってるよ、と済ませずに、是非全巻読み通してほしい。プーチンのロシアが、自国の虐殺行為に言及することを刑罰で禁止する今日だからこそ、それが必要だ。

シュロモー・サンド『ユダヤ人の起源』@『労働新聞』書評

61zcff2fuyl_ac_uf10001000_ql80__20251205162801  202310月、ガザを支配するハマスがイスラエル領内を奇襲し、1,400人を殺害するとともに240人の人質を拉致した後、イスラエル軍はガザ全域に侵攻し、空襲で多くの建物は瓦礫となり、戦闘は未だに続いている。イスラエル政府はますます強硬になり、ヨルダン川西岸も含めパレスチナとの共存はますます遠のいている。

 こういう絶望的な時期にこそ、改めて読み返されるべき大著がイスラエル在住の歴史家シュロモー・サンドによる『ユダヤ人の起源』だ。邦語タイトルは「起源」だが、表紙に書かれた英語タイトルは「The Invention of the Jewish People」である。以前似たようなタイトルの本を紹介したことをご記憶だろうか。本紙24年3月4日号掲載のビル・ヘイトン『「中国」という捏造』だが、その英語タイトルは「The Invention of China」である。つまり、本書は「ユダヤ人という捏造」とも訳せるわけだ。

 彼によれば、現在のユダヤ人の祖先は別の地域でユダヤ教に改宗した人々であり、古代ユダヤ人の子孫は実は現在のパレスチナ人である。そもそも、ユダヤ人は民族や人種ではなく、宗教だけが共通点に過ぎない。第二次世界大戦中に約600万人のユダヤ人を虐殺したナチス・ドイツが、ユダヤ人は民族や人種であるという誤解を広めたのであり、イスラエル政府が標榜する「ユダヤ人国家」には根拠がないという。シオニズム運動は欧州で迫害された19世紀末に起こり、「ユダヤ人国家の再建」を目指した。運動の根拠になったのは、ユダヤ人が紀元後2世紀までにローマ帝国に征服され、その地から追放されて放浪の民となったという「通説」だったが、彼は「追放を記録した信頼できる文献はない。19世紀ユダヤ人の歴史家たちが作った神話だった」と主張する。彼曰く、古代ユダヤ人は大部分追放されず農民として残り、その後キリスト教やイスラム教に改宗して今のパレスチナ人へと連なっているのだ。

 古代ユダヤで生み出された宗教に改宗した人びとの子孫が、ユダヤ人という人種・民族に属する者として憎まれ、迫害され、虐殺された挙げ句に、その虚構の「血」の論理を自らのアイデンティティとして民族国家を「再建」し、かつてその宗教を生み出した地に永年住み続けて、キリスト教やイスラム教に改宗した人びとの子孫を、異邦人として憎み、迫害し、虐殺するに及ぶ。何という皮肉極まる姿であろうか。殺す側も殺される側も、いずれもユダヤ人であり、いずれもユダヤ人ではないのだ。

 最後の第5章には、もともと人種ではなかったユダヤ人の「種族化」を試みる現代イスラエルで流行のイデオロギーが紹介される。そこでは生物学的、遺伝学的なユダヤ人の「特徴」があれやこれやと「発明」されているのだ。そのロジックを振りかざしてユダヤ人の殲滅を図ったナチス・ドイツによってではなく、それによってほとんど殲滅されかけた人びとの子や孫であるイスラエルのユダヤ人自身によって。

斉藤光政『戦後最大の偽書事件「東日流外三郡誌」』@『労働新聞』書評

91rqz5vqixl_ac_uf10001000_ql80__20251205162901  「東日流(つがる)外三郡史」とは、青森県五所川原市の和田喜八郎という炭焼き農家の屋根裏から落ちてきた行李2つに詰められたという古文書である。そこには、古代の大和王権から迫害された民が津軽に繁栄していた歴史が書かれていた。
 旧市浦村から『市浦村史資料編』として刊行されたこの「古文書」は、1980年代の古代史ブームの中で注目され、多くの関連書が刊行されるとともに、高橋克彦の東北史関係の伝奇小説にも取り上げられ、多くの人がこれを半ば歴史的真実だと信じるようになった。
 地元紙東奥日報でサツ回り記者をしていた著者は、たまたま和田に対する盗作民事訴訟の取材から、この「古文書」をめぐる奇奇怪怪の人間模様に巻き込まれていく。素直に奇妙なことを奇妙と思い、その周辺を地道に取材して記事を書くと、猛烈な反発を受けるようになる。和田の口車に乗って、東北各地の自治体が根拠のない資料や遺物を買い取らされたり、立派な施設を作ったりしていたのだ。しかし、その肝心の「古文書」はおかしなことだらけだった。
たとえば、東日流外三郡誌を執筆したのは江戸時代の秋田孝季ということになっているけれども、その中には明治時代以降、いや戦後になってから作られた言葉すら頻出していた。
 その極めつけは「天は人の上に人を作らず人の下に人を作らず」という名文句が登場することだ。いやそれは福沢諭吉の言葉だと批判されると、和田は曾祖父和田末吉宛の福沢諭吉の手紙なるものを出してくる。ところがこれは、福沢が自著を「学文之進め」と表記し、(門外不出のはずの)古文書を見せてもらった中にあった台詞を引用させてもらったと謝意を示すものだった。これをめぐって、当時慶應義塾福沢研究センター長を務めていた労働経済学者の西川俊作まで振り回された。
和田はその膨大な古文書の原本を絶対に見せようとしなかった。しかし、そのコピーをみれば、字体や誤字の癖などすべてが、和田喜八郎自身の書いた字とそっくりだった。
 筆跡鑑定からすれば、秋田孝季とは和田喜八郎自身以外の何者でもなかった。さらに古文書と言いながら、戦後生産された版画用の和紙が使われ、墨を塗りつけて古めかしくしていた。
 こうした事実を一つひとつ積み上げて、著者は多くの記事を書いていき、和田やその擁護者から憎まれていく。その代表が、昭和薬科大学教授の古田武彦だった。そして著者と二人三脚で真実を明らかにしていったのは、古田の下で助手をしていたが、偽書に固執する師匠に決別した原田実だった。
 多くの主流の歴史学者があえて言及を避け続けるなかで、大衆文化の中で異様に繁殖していき、地域興しのネタに飢えた自治体が次々に引っ掛かっていくという悲喜劇に対して真正面から取り組んだのは、心ある在野の歴史研究者と地元紙の新聞記者だけだったのだ。

東京の最低賃金1,226円@『労務事情』2025年12月1日号

8afffa30f9574da2b57a1bf5a193e417 『労務事情』2025年12月1日号に「東京の最低賃金1,226円」を寄稿しました。

https://www.sanro.co.jp/book/b10154276.html

今回の数字は統計数値ではなく、法律に基づく最低賃金額そのものです。この東京都の最低賃金1,226円という数値自体というよりも、過去20年近くにわたってそれが急激に上昇してきたことがここでの問題です。・・・・・・

 

 

2025年12月 2日 (火)

各種学校、専修学校から専門職大学へ@WEB労政時報

WEB労政時報に「各種学校、専修学校から専門職大学へ」を寄稿しました。

https://www.rosei.jp/readers/article/90055

かつて本連載で、10年ほど前に、後に専門職大学として立法化される新たな学校種の検討段階について何回か論じたことがあります。
2014年11月14日付『「G型大学、L型大学」論の炎上を受け、議論していくべきこと』
2015年12月14日付『実践的な職業教育を行う新たな高等教育機関の制度化』
 この問題の淵源を探っていくと、実は“各種学校”“専修学校”という学校教育法上の「非一条校」(同法1条で挙げられている小中学校や高等学校、大学等に該当しない学校のこと)の悲願が背景にあったことが分かってきます。今回は、各種学校、専修学校の歴史をたどりながら・・・・・

2025年11月27日 (木)

本田一成『〈クミジョ〉を考える』

B2d0f25aa6084025933d33bc7bd17b64本田一成『〈クミジョ〉を考える』(信山社)をお送りいただきました。

https://www.shinzansha.co.jp/book/b10153582.html

労働組合の力をみんなで全開させて、労働者の幸福を高めるためにどうすればよいのか。労働界で活躍する女性(クミジョ)の現状と課題を考察し、労働組合の活性化を図る。労働組合の力を、みんなで全開させるために必読!

この本の表紙を見てください。本田さんの名前の上の肩書は、武庫川女子大学経営学部教授じゃなくって、「クミジョプロデューサー」となっています。

さらに、本文の冒頭では「これは恐らく日本でただ一人だけの職業だと思います」とまで言っていますので、これはもう本気ですね。ムコジョのセンセであるよりはクミジョのオルグだと。

本田さんが芳野連合会長と「クミジョ」について対談しているページはこちらです。

https://www.jtuc-rengo.or.jp/rengo_online/2023/09/20/1888/

・・・授業で労働組合の話をすると「クミジョになりたい!」という学生がたくさんいる。「なってどうするの?」と聞くと「先生の話を聞いてると、クミダン、めっちゃハラタツ。それはあかんやろ」って(笑)。私のゼミにはクミジョ予備軍がひしめいています。・・・

 

 

 

 

 

斉藤光政『戦後最大の偽書事件「東日流外三郡誌」』@『労働新聞』書評

91rqz5vqixl_ac_uf10001000_ql80_ 恒例の『労働新聞』書評、今回は斉藤光政『戦後最大の偽書事件「東日流外三郡誌」』(集英社文庫)です。

https://www.rodo.co.jp/column/209527/

 「東日流(つがる)外三郡史」とは、青森県五所川原市の和田喜八郎という炭焼き農家の屋根裏から落ちてきた行李2つに詰められたという古文書である。そこには、古代の大和王権から迫害された民が津軽に繁栄していた歴史が書かれていた。
 旧市浦村から『市浦村史資料編』として刊行されたこの「古文書」は、1980年代の古代史ブームの中で注目され、多くの関連書が刊行されるとともに、高橋克彦の東北史関係の伝奇小説にも取り上げられ、多くの人がこれを半ば歴史的真実だと信じるようになった。
 地元紙東奥日報でサツ回り記者をしていた著者は、たまたま和田に対する盗作民事訴訟の取材から、この「古文書」をめぐる奇奇怪怪の人間模様に巻き込まれていく。素直に奇妙なことを奇妙と思い、その周辺を地道に取材して記事を書くと、猛烈な反発を受けるようになる。和田の口車に乗って、東北各地の自治体が根拠のない資料や遺物を買い取らされたり、立派な施設を作ったりしていたのだ。しかし、その肝心の「古文書」はおかしなことだらけだった。
たとえば、東日流外三郡誌を執筆したのは江戸時代の秋田孝季ということになっているけれども、その中には明治時代以降、いや戦後になってから作られた言葉すら頻出していた。
 その極めつけは「天は人の上に人を作らず人の下に人を作らず」という名文句が登場することだ。いやそれは福沢諭吉の言葉だと批判されると、和田は曾祖父和田末吉宛の福沢諭吉の手紙なるものを出してくる。ところがこれは、福沢が自著を「学文之進め」と表記し、(門外不出のはずの)古文書を見せてもらった中にあった台詞を引用させてもらったと謝意を示すものだった。これをめぐって、当時慶應義塾福沢研究センター長を務めていた労働経済学者の西川俊作まで振り回された。
和田はその膨大な古文書の原本を絶対に見せようとしなかった。しかし、そのコピーをみれば、字体や誤字の癖などすべてが、和田喜八郎自身の書いた字とそっくりだった。
 筆跡鑑定からすれば、秋田孝季とは和田喜八郎自身以外の何者でもなかった。さらに古文書と言いながら、戦後生産された版画用の和紙が使われ、墨を塗りつけて古めかしくしていた。
 こうした事実を一つひとつ積み上げて、著者は多くの記事を書いていき、和田やその擁護者から憎まれていく。その代表が、昭和薬科大学教授の古田武彦だった。そして著者と二人三脚で真実を明らかにしていったのは、古田の下で助手をしていたが、偽書に固執する師匠に決別した原田実だった。
 多くの主流の歴史学者があえて言及を避け続けるなかで、大衆文化の中で異様に繁殖していき、地域興しのネタに飢えた自治体が次々に引っ掛かっていくという悲喜劇に対して真正面から取り組んだのは、心ある在野の歴史研究者と地元紙の新聞記者だけだったのだ。

 

 

 

2025年11月25日 (火)

常見陽平『日本の就活』

D0561c87c7db42f1adac36035c3895c2 常見陽平『日本の就活 新卒一括採用は「悪」なのか』(岩波新書)をお送りいただきました。

https://www.iwanami.co.jp/book/b10151795.html

何社にもエントリーシートを提出し、厳しい面接を繰り返し、ひたすら内定を追い求める。この就職戦線には学歴フィルターにオワハラ、学業の阻害といった様々な問題が山積みだ。財界も学者もその原因は「新卒一括採用」にあるという。しかし本当にそうなのか? 就活の現実を直視し、労働社会の根幹にメスを入れる。

副題にあるように、またオビにでかでかと書かれているように、新卒一括採用が「悪」なのかという問いに徹底的に向き合った本です。

ただ、私からすると、新卒一括採用というのは、終身雇用とか年功序列とか企業別組合とか、はたまた定期人事異動とか解雇回避努力義務とか定年後再雇用だとか、全て諸々と同じように日本型雇用システムがもたらす不可避的な現象です。その現象の一つだけと取り上げてあれこれあげつらってみても、あんまり意味がないんだよと言うことを私自身は繰り返し語ってきましたし、とりわけ本書の対象である若者の学校から仕事への移行については、もう12年前の『若者と労働』で嫌というほど論じ、新卒一括採用のメリットもデメリットも全て表裏がピッタリと張り付いているのであって、都合のいいところだけつまみ食いができるようなものではないと論じてきたことなので、正直あんまり目新しいことが書かれている感じはしませんでした。

 

 

朝日新聞の枝葉末節症候群

本日の朝日新聞の1面トップは「裁量労働制は上限規制の「適用外」 厚労省が自民会合で不正確な説明」という記事ですが、正直言って、何がそんなにけしからんのかよく分からないというか、労働時間の一番大事な肝心要の話をそっちのけにして、法形式論の枝葉末節にばかりこだわっているかの如き印象を受けました。この記事を礼賛している「識者」諸氏に対しても以下同文です。

裁量労働制は上限規制の「適用外」 厚労省が自民会合で不正確な説明

 実際に働いた時間ではなく、一定時間働いたとみなして賃金を払う裁量労働制について、厚生労働省が自民党の会合で、残業など時間外労働の上限規制が適用されるにも関わらず、「適用されない」との文書を示し、制度を不正確に説明していたことがわかった。適用外との説明は「働かせ放題」との誤解を広げる恐れがある。

 朝日新聞が入手した資料や関係者への取材で明らかになった。今回の説明には、経済界や政府・自民党で労働時間の規制緩和を求める動きが強まる中、裁量制を適用外と説明することで、時間外労働の上限規制そのものの見直し圧力をかわす意図があったとみられる。 

いや確かに、法学部やロースクールの授業であれば、裁量労働制を適用除外などと言ったら「馬鹿者」と叱られます。労働時間規制が適用除外の管理監督者と異なり、裁量労働制とは労働時間規制の適用除外ではなく、みなし労働時間制であるというのは、最も重要なことだからです。みなし労働時間制というのは適用除外ではなく、労働時間規制の適用の仕方が実労働時間ではなく、あらかじめ何時間とみなした時間数で規制するだけだからです。

しかしながら、あえて言えばそれは法律家の頭の中だけで峻別されているのであって、実際に何時間働こうがそれとは関係なくあらかじめ何時間とみなしておいた時間だけ働いたものと看做すというのは、現場の感覚から言えば適用除外と何ら変わりはありません。

そのみなされるべき時間数にはもちろん、適用除外じゃないので上限規制とやらはかかりますよ。でも、その上限はあくまでもみなし時間にかかるんであって、実際に働いた時間にかかるわけではないのであって、だからみなし労働時間制ってのは実のところ適用除外の看板を書き換えたものにすぎないとも言えるわけです。

この新聞記事は何に対してかくも激高しているのかよく分かりかねるのは、裁量労働制に上限規制がかかっているじゃないかぁ!たとえば1日10時間とみなしているんだから、適用除外じゃないじゃないかぁ!と叫ぶことにどういう意義があるのかさっぱり分からないことです。だから裁量労働制はいいじゃないか、といいたいのかと思いきや、全く逆で、裁量労働制はけしからんと言いたいらしい。気分だけは伝わるけれども、怒るポイントがあまりにも的外れで、ここは法学部やロースクールのお勉強の場じゃないんだけど、とつい言いたくなります。

ちなみに、裁量労働制には健康福祉措置というのがあり、また労働安全衛生法上の労働時間の状況把握義務というのはかかりますが、いうまでもなくそれらは適用除外であるかどうかとはまた別の話です。働き方改革の時にあれだけ大騒ぎをした高度プロフェッショナル制度にも、同様の制度がありますが、こちらは労基法上はみなし労働時間制ではなく適用除外です。

そして、何よりも訝しいのは、一番肝心要の管理監督者の適用除外ということに対して、この記事を書いた記者の方々はほとんど関心の外であるらしいことです。東京管理職ユニオンが騒いだり、マクドナルド事件で判決が出たりすると、急に思い出したように「名ばかり管理職」がどうたらこうたらと山のように書き立てるわりに、そうでないときにはほとんど関心がないのだということがよく分かります。

そもそも、名ばかり管理職が問題になるのも、非管理職が裁量労働制とかホワイトカラーエグゼンプションとして(事実上ないしは法律上)適用除外が目指されるのも、日本のメンバーシップ型雇用社会が上は経営者から上級管理職、中間管理職、現場監督者、ベテランのヒラ社員、普通のヒラ社員、末端のヒラ社員に至るまで、どこにも明確な線引きができないずるずるとつながった連続体を成しているからで、そういう本質論から目をそらして、法学部やロースクール向けの法形式論だけで議論してみても、何ら事態の解決にはつながらないと思いますがね。

Asahishinsho2_20251125105301 というわけで、日本の労働時間規制の本質論に切り込んだ拙著『管理職の戦後史』(朝日新書)でも読んでいただけると有り難いです。

 

 

 

 

 

 

 

2025年11月24日 (月)

『管理職の戦後史』にぼつぼつネット書評が

Asahi2_20251124175801 11日前に発売された『管理職の戦後史』ですが、ぼつぼつネット書評サイトでも取り上げられてきています。

読書メーターでは、本ブログでもおなじみのFrancisさんが、ご自分の職業人生とも重ねながらぼやき気味の感想を書かれています。

https://bookmeter.com/reviews/131702303

「ジョブ型」「メンバーシップ型」なる雇用形態の名称を定着させた労働省出身の労働法研究者濱口桂一郎先生の新著です。第4章2「管理職ユニオン」以降で展開される議論は同時代を生きた私にとって既視感ありまくりです。私も最初の公務員時代○○専門官なる係長待遇のスタッフ職をあてがわれ、長時間残業に勤しむも年功給故にコスト削減のためリストラ要員となり法人化して8年後退職に追い込まれた経験があります(^^;今の職場も管理職は部下の残業時間管理など本当に大変そうです。管理職は日本的雇用問題の極北であると言えましょう(^^;

この本は「新卒一括採用」「年功給」「新卒一括採用された正社員であれば(一応は)誰でも役員まで出世できる(はず)」と言うガラパゴス的な日本的「メンバーシップ型雇用」の馬鹿馬鹿しさがこれでもか、これでもかとばかり活写されておりまする。私もいわばその「メンバーシップ型雇用」の被害者…(^^;なので「ジョブ型雇用」への改革を強く願っているのですが、その改革への道のりもこれまた真に険しいと尊敬する濱口先生の本を読んで思うのであります(^^;

ブクログでは、テクノグリーンさんが、「読み応えは十分ある反面、一般読者には難解すぎるかもしれない」と懸念をされています。

https://booklog.jp/users/1890vincentgogh/archives/1/4022953454

 管理監督者や企画業務型裁量労働時間制、ホワイトカラーエグゼンプションなどの法制度の変遷、政策決定の舞台裏について、行政文書などを引用しつつ、丁寧に解説している。
 読み応えは十分ある反面、一般読者には難解すぎるかもしれない。
 ヒラ社員から中間管理職、上級管理職、経営陣に至るまで、連続的に管理職的性格が強まっていくのが日本の雇用システムの特徴であるがゆえに、管理監督者とそうでない者の線引きが曖昧になっているというのが筆者の主張である。
 そうであるにも関わらず、労基法の建前がジョブ型雇用であるがゆえに、管理監督者とそうでない者との間に大きな溝があり、これが様々な問題を生んできた。
 管理職一歩手前の者への適用を想定した企画業務型裁量労働時間制や高度プロフェッショナル制度が厳格な手続きを敷いているのに対して、管理監督者は何らの行政官庁の認可も届出もなく、使用者の胸三寸で決まってしまう。
 わざわざ要件も手続も複雑な裁量労働制や高度プロフェッショナル制を利用しなくても、管理監督者扱いにしてしまった方がはるかに楽である。
 管理監督者の定義に関する記載は法文上存在せず、行政通達で「経営者と一体の立場にある者」と語られているだけである。
 労基法には罰則規定があり、労基法に違反した場合には送検されるおそれもあるのだが、こと管理監督者に関しては、罪刑法定主義に反しているのではなないかと思う。
 また、最後のパラグラフにあるパワハラ問題については身につまされる思いがした。近年、何でもかんでもパワハラだと言ってくる労働者が増加しており、上司が必要な権限の行使をおそれてしまい、職場秩序が崩壊寸前に陥っている。その結果、モンスター社員と何もしない上司だけが残り、真面目な労働者は会社を辞めていくという悪循環が起きている。
 果たして、日本の雇用社会はどうなっていくのか。

 

2025年11月21日 (金)

「育児時間」は本来「哺育時間」であった@『労基旬報』2025年11月25日号

『労基旬報』2025年11月25日号に、「「育児時間」は本来「哺育時間」であった」を寄稿しました。

 労働基準法第67条には「育児時間」の規定が置かれています。
 
(育児時間)
第六十七条 生後満一年に達しない生児を育てる女性は、第三十四条の休憩時間のほか、一日二回各々少なくとも三十分、その生児を育てるための時間を請求することができる。
② 使用者は、前項の育児時間中は、その女性を使用してはならない。
 
 これを見て、“育児休業は男女両方が取れるのに、育児時間のほうは女性しか取れないのはおかしいのではないか”と思った人はいませんか?この規定ぶりを素直に読めば、そう思う人が出てくるのは不思議ではありません。今の日本で「育児時間」といえば、父親であろうが母親であろうが、その子どもの世話をするための時間だと考えるのが当然だからです。ところが、実はこの労基法上の「育児時間」というのは、そういう日常言語で想像されるような意味ではなく、母乳による「哺乳時間」のことなのです。
 あらためて労基法第67条の置かれている場所を確認してみると、「第六章の二 妊産婦等」という章に含まれています。もともと女子保護規定と母性保護規定が含まれていた章から、男女雇用機会均等法の差別禁止法化改正に伴って女子保護規定が削除されて、母性保護規定だけになった章です。そこに残っているということは、この規定は産前産後休業などと同様のマタニティに関する規定であることが分かります。
 労働法の論文を検索してみても、この規定についてあれこれ論じている人はほとんど見たことがありません。労基法制定以来ほとんど変わらず存在し続けているにもかかわらず、かなりな程度忘れられた規定であるようです。そこで、今回はこの規定の歴史を振り返ってみましょう。実は、この規定の淵源は労基法よりも古く、1923年の改正工場法に基づく改正工場法施行規則に登場しています。そこではこれは「哺育時間」という名称でした。
 
第十二条 主務大臣ハ病者又ハ産前産後、若ハ生児、哺育中ノ女子ノ就業ニ付制限又ハ禁止ノ規定ヲ設クルコトヲ得
則第九条ノ二 生後満一年ニ達セサル生児ヲ哺育スル女子ハ就業時間中ニ於テ一日二回各三十分以内ヲ限リ其ノ生児ヲ哺育スヘキ時間ヲ求ムルコトヲ得此ノ場合ニ於テ工業主ハ哺育時間中其ノ女子ヲシテ就業セシムルコトヲ得ス
 
 担当の監督課長であった吉阪俊蔵の『改正工場法論』(大東出版社、1926年)では、この新たに設けられた哺育時間の規定は「嬰児保護」という見出しの下に置かれています。その趣旨は、「蓋し嬰児は生母の乳の出ない場合又は病気の場合の外は自然の命ずるところに従ひ母乳にて哺育せらるるを以て最良の方法とする」からであり、「乳児死防遏のため産後母体と乳児とを比較的長く接触せしめ、且母乳を以て養育することが有効であると謂はねばならぬ」と断言しています。
 終戦直後に労働基準法が制定される時も、この1日2回各30分という「哺育時間」の規定は1946年4月12日の第1次案から同年12月24日の労務法制審議委員会答申に至るまでずっと変わらず維持されていました。
 
哺育時間
第六十五条 生後満一年に達しない生児を哺育する女子は、第三十三条の休憩時間の外一日二回各三十分その生児を哺育するための時間を求めることができる。
 使用者は前項の哺育時間中にその女子を使用してはならない。
 
 戦前の工場法施行規則第9条の2を口語体にしたほかは「休憩時間の外」を追加しただけでほとんど変わっていません。ところがこれが、翌1947年1月20日付の答申修正案になるときに、内容は全く変わっていないにもかかわらず、用字だけが次のように修正されていたのです。削除された字は下線付で、挿入された字は【 】で挟まれた形で表示されています。
 
育【児】時間
第六十【六】条 生後満一年に達しない生児を【て】る女子は【、】第三十【四】条の休憩時間の外【、】一日二回各【〃少くとも】三十分【、】その生児を【て】るための時間を請求することができる。
 使用者は【、】前項の育【児】時間中【は、】その女子を使用してはならない。
 
 細かいところを別にすれば、要するに「哺育」という用語が「育児」に、「哺育する」が「育てる」に変わっています。なぜそんな改変をしたのかは、渡辺章編集代表『日本立法資料全集 労働基準法(1)~(4下)』(信山社、1996‐2011年)に残された資料のどこにも出てきません。しかしながら当時の状況を考えると、これはおそらくその直前の1946年11月5日に国語審議会が答申し、同月16日に内閣が告示した当用漢字表の1850字の中に、この「哺育」の「哺」の字が含まれていなかったためではないかと思われます。政府が提案する法律の文言の中に、政府が定めたばかりの当用漢字表にない字を使うわけにはいかないという判断だったのでしょう。
 しかしながら、哺乳類という言葉があるように、哺育とは母乳を与えて育てることです。これに対して、育児とはそれよりはるかに広い意味の言葉なので、立案者の趣旨は全く変わらなかったとはいえ、字面の上では誤解を招きかねないものになってしまいました。
 
(育児時間)
第六十六条 生後満一年に達しない生児を育てる女子は、第三十四条の休憩時間の外、一日二回各〃少くとも三十分、その生児を育てるための時間を請求することができる。
② 使用者は、前項の育児時間中は、その女子を使用してはならない。
 
 もっとも、法制定時に担当課長名で書かれた解説書では、これが哺乳時間であることが明確に書かれています。寺本廣作『労働基準法解説』(時事通信社、1948年)の解説です。
 
 母乳で育てられる乳児の死亡率と人工栄養で育てられる乳児の死亡率の比較又は一般の乳児の死亡率と女子労働者の乳児の死亡率の比較に関する研究の結果として乳児を持つ女子労働者の為に特別の育児時間が必要であることは既に立証されてゐるところである。国際労働条約案(第一回)で哺乳時間に関する規定を設けてゐる。工場法施行規則(第九条ノ二)鉱夫就業扶助規則(第十六条)でも同様の規定を設けてゐたが、従来の規定では普通の休憩時間を哺育時間に充当し得ることになつてゐたので本法では普通の休憩時間の外に育児時間を請求し得ることを規定した。国際労働条約案でも労働時間中に哺乳時間が与えらるべきことを規定してゐる。立法当時、休憩時間と哺育時間は同一時間で可なりと主張した女医の人もあつたが、従来の工場法でもさうであり又本法の規定でも同様であるが休憩時間は食事時間に充てられ得るので、休憩時間を哺育時間に充て得ることを認めると、実際上は乳児を持つ女子労働者にとつては休憩時間は休憩時間であると共に食事時間であり且つ哺育時間であることとなり、到底休憩時間としての意味をなさないことになるので、本条では休憩時間の外に育児時間を請求し得ることとした。
 然し、本条でも育児時間が有給たるべきことを規定してゐない。育児時間は請求によつて得られるものであるからその時間が無給であれば、結局貧しい母たる女子労働者の休憩時間は自己の食事と乳児の保育のための時間とならざるを得ない。
 
 短い文章中に「哺育時間」「哺乳時間」「育児時間」という言葉が入り乱れていますが、これらはすべてここでは同義語で、乳児に母乳を哺乳する時間を意味しています。当用漢字表のせいとはいいながら、実に紛らわしい用字法であり、制定に関わった人々がいなくなり、次の世代の人々がこの規定を論ずるようになると、字面に引きずられた議論が出てくるようになります。それは、1978年11月の「労働基準法研究会報告(女子関係)」です。男女雇用機会均等法の立法プロセスの出発点に位置するこの報告書の中では、育児時間について、本来授乳等のための時間だが、近年は通勤時間の延長のため作業場所を離れて直接授乳等をすることは困難になっており、現在では就業時刻の始めと終わりに生児を保育所に送り迎えするのに使われていると、制度の趣旨と異なっていることを認めつつも、法文上は「生児を育てるための時間」となっているので問題はないと述べています。「哺」の字が当用漢字になかったために、「哺育」を意味が広すぎる「育児」に変えてしまったことが、意外な効果をもたらしたようです。
 いずれにしても、男女雇用機会均等法(努力義務法)に伴う1985年改正でも、男女雇用機会均等法(差別禁止法)に伴う1997年改正でも、この規定は(条文番号が第66条から第67条にシフトしただけで)ほとんど変わることはありませんでした。1997年改正で「女子」が「女性」になった程度です。ただ、1985年改正では別の規定に「哺育」という用字が登場しています。それは、旧第63条の女子年少者に対する危険有害業務の就業制限規定が、新第64条の5で妊産婦等に係る危険有害業務の就業制限に置き換えられたことによるものです。
 
(妊産婦等に係る危険有害業務の就業制限)
第六十四条の五 使用者は、妊娠中の女子及び産後一年を経過しない女子(以下「妊産婦」という。)を、重量物を取り扱う業務、有害ガスを発散する場所における業務その他妊産婦の妊娠、出産、哺育等に有害な業務に就かせてはならない。
②前項の規定は、同項に規定する義務のうち女子の妊娠又は出産に係る機能に有害である業務につき、命令で、妊産婦以外の女子に関して、準用することができる。
③前二項に規定する業務の範囲及びこれらの規定によりこれらの業務に就かせてはならない者の範囲は、命令で定める。
 
 ここで昔懐かしい「哺育」という言葉が再登場しています。これは、1981年に当用漢字から常用漢字に移行し、法令における表外漢字の使用も可能になったことが背景にあると思われます。それなら第67条の育児時間も、戦前の工場法施行規則から戦後の労務法制審議委員会答申に至るまで一貫して用いられてきた「哺育時間」に戻してしかるべきだったのではないかと思われますが、そちらは意味が紛らわしい「育児時間」のままです。そのため、この「育児時間」が本来母乳による哺育時間であることがますます分かりにくくなってしまいました。これははっきり言って、立法ミスというべきでしょう。哺乳をしない一般的な育児時間でもいいというのであれば、これを女性専用の制度として設けておく理由がなくなるはずですが、そういう問題意識は当時の文献には見当たらないようです。
 また、1997年改正時の解説書(労働省女性局編『詳説 男女雇用機会均等法』労務行政、2000年)では、育児時間を「授乳その他の種々の世話のために要する時間」と解説していますが、母乳による哺育以外の生児の世話であれば女性に限定する必要はないはずです。せっかく男女平等を実現した法改正時にも、そういう問題意識は全く見られなかったようですし、その後も誰も指摘していません。
 その後、「哺」の字は2010年11月には常用漢字表に加えられていますが、それを受けてこの育児時間の規定の表記を見直そうという動きも全くないようです。そもそも、これが本来は「哺育時間」であり、終戦直後に当用漢字表に「哺」の字がなかったために仕方なく意味が大幅に広すぎる「育児時間」になってしまったのだといういきさつを知っている人が、厚生労働省の担当部局も含め、今の日本にはおそらく一人もいなくなってしまったためなのでしょう。
 ちなみに、2010年11月に「哺」の字が常用漢字表に追加されたのは、その直前の2009年4月に日本哺乳類学会が求めたからのようです。その意見書を見ると、「保育」と「哺育」は意味が違うのだというようなことが縷々書かれており、文科系の研究者よりも理科系の研究者のほうが漢字の用字法に対して敏感であるかのようで、複雑な思いがします。

 

2025年11月19日 (水)

労務屋さんの拙著評

Asahi2_20251119232001 労務屋さんがさっそく拙著『管理職の戦後史』にコメントされています。

https://roumuya.hatenablog.com/entry/2025/11/19/154727

さすが労務屋さんだけあって、こういうところに着目されています。

とりわけ、まさに様々な場面でこの「範囲がどこまでなのさ」が大問題となり、それをいかに法令として表現するのかをめぐって政労使のせめぎ合いがあったわけで、まあ私もその一言一句をああでもないこうでもないとやってきたわけなので、どうしても法令をそのまま紹介しないと解説も評価もできないというのが新書としては苦労されたのではないかな、とは思いました。行政文書の密教的なノウハウの部分であって一般読者にはなかなか消化しにくいと思う一方で、かといって要約したり簡略化したりできるものでもないわけですが、そこを読み飛ばしてもなんとか議論の大筋がつかめるよう苦労して書かれているな、と感心した次第です。

全体を通じるテーマは日本では管理職と非管理職が連続的で、どこで線引きしても問題が残るという話なんですが、それを法律改正のプロセスの中に明らかにしようという部分は、確かに普通の新書本にしてはやたらに行政文書の引用が長々とされていて、そういうのに慣れている人でないと読み飛ばしたくなるだろうな、とは思います。

とはいえ、そのディテールの中に、日本の管理職と非管理職のありようがにじみ出ているのも確かなので、なかなかざっくりと簡略化できないのですね。

その分、下世話な週刊誌の記事も結構引用したりして、バランスをとっているつもりではあるんですが。

 

 

 

2025年11月18日 (火)

労政審労働条件分科会に解雇に係る調査結果が提出

本日14時から開催されている労働政策審議会労働条件分科会に、解雇に係るJILPTの3つの調査結果が提出されています。

https://www.mhlw.go.jp/stf/newpage_65974.html

一つ目は、「労働局あっせんにおける解雇型雇用終了事案の分析」(概要)で、今まで2008年度と2012年度の2回やってきた労働局あっせんの3回目の調査です。これは私が担当しました。

https://www.mhlw.go.jp/content/11201250/001595980.pdf

二つ目は、「解雇等に関する労働者意識調査」(概要)で、WEBアンケート調査により、解雇経験者と未経験者双方に、解雇の金銭救済制度等について聞いています。これは調査部の上村聡子主任調査員が担当しました。

https://www.mhlw.go.jp/content/11201250/001595984.pdf

三つ目は、「諸外国における解雇の金銭救済制度に関する有識者に対するヒアリング調査」(概要)で、ドイツ、フランス、イギリスにおける解雇の金銭救済制度の運用の実情を詳しく聞いています。これは、労使関係部門の山本陽大主任研究員が担当しました。

https://www.mhlw.go.jp/content/11201250/001595985.pdf

 

 

 

 

 

 

海老原嗣生『外国人急増、日本はどうなる?』

9784569860237 海老原嗣生さんの『外国人急増、日本はどうなる?』(PHP新書)をお送りいただきました。

https://www.php.co.jp/books/detail.php?isbn=978-4-569-86023-7

日本社会において長らくタブーとされてきた「外国人問題」が、2025年参議院選を機に突如として主要な政治テーマとなった。背景には、クルド人による事件や不法滞在者の存在がクローズアップされたことがあるが、議論の多くは全体のわずか2%に過ぎない「不法在留外国人」に集中している。しかし、残り98%の正規在留外国人の存在こそ、今後の日本社会にとって本質的な論点であると著者は指摘する。

 日本は深刻な人口減少と労働力不足に直面している。2030年代後半には、年間約100万人規模で労働人口が減り続けるといわれる中で、外国人の受け入れは避けて通れぬ国家的課題である。外国人労働が賃金低下や治安悪化を招くという通念についても、著者はデータをもとに再検証を試みており、感情論ではなく事実に基づいた議論を呼びかけている。

 また、難民認定制度の運用の歪みや、就労目的の偽装申請問題にも触れ、リベラルな性善説にも冷静な視点を持ち込む。一方で、在留外国人との共生を拒み続ければ、将来日本が危機に陥った際、支援を申し出てくれる国が現れないかもしれないという、地政学的リスクにも警鐘を鳴らす。

 本書の後半では、日本で学び働いた外国人が帰国後に“親日派”として各国に影響力を持つ可能性を取り上げ、その存在を活用した外交・安全保障戦略を提案する。さらに、日本語を世界に広める構想をも含み、外国人政策を「守り」から「攻め」へと転換すべきであると論じている。

 本書は、外国人問題に関する論点を幅広く網羅しつつ、冷静かつ実証的に考察した実用的な一冊である。極端な排外主義でも、性急な受け入れ論でもない、中庸かつ未来志向の政策ビジョンがここにある。感情ではなく、理性と戦略で外国人問題に向き合うべき時が来ている――その現実を突きつける書である。

海老原さん流の外国人労働者問題へのアプローチが展開されているのは第3章で、ここは『HRmics』誌で繰り返し論じていた話が出てきますが、全体としては、昨今の外国人「問題」に対する話が中心になっています。特に、第1章は例のクルド人問題から不法滞在者や難民申請者、送還忌避者をめぐる話が主で、確かに昨今の過熱気味の外国人フォビアへの冷水としては有用ですが。

また、第4章は海老原さんらしい大風呂敷を広げて見せていて、帰国する外国人労働者の社会保険の企業負担分を財源にして、いろんな政策を打てるぞ、という話で、面白いは面白いのですが、実際にはどうかなという感じもします。

本書自体が、新書本としてはやや薄い作りなのですが、肝心の外国人労働者問題を取り上げた第3章が、ちょっと薄くて、やや大づかみな議論になっていて、もう少し個別制度に立ち入って細かく論じてほしかったな、という感じがしました。

まあでも、これだけ外国人問題が話題になっているからこそ、最近立て続けに外国人関係の本が出版されているのでしょうね。

Chukogaikoku_20251118134301 ちなみに、わたくしも来年早々、『外国人労働政策』(中央公論新社)というのを出します。

 

 

 

2025年11月17日 (月)

初岡昌一郎『回想のライブラリー』

Auto0ktnfc 初岡昌一郎さんのエッセイ集『回想のライブラリー』(オルタ出版室)をお送りいただきました。

初岡さんとは、以前、本書にも出てくるソーシャルアジアフォーラムで、2010年に台湾に行った特に、ご一緒したことがあります。

というか、そのときに書いたこの記事で、本書に収録されているメールマガジンオルタの初岡さんの説明をそのまま引用していたのでした。

ソーシャルアジアフォーラムの由来

今週の木・金と、台北でソーシャルアジアフォーラムに出席することは本ブログで申し上げましたが、このフォーラムの由来について、初岡昌一郎さんご自身が書かれた文章をネット上に見つけました。ちょうど5年前に同じく台北で第11回のフォーラムが開かれたときに「メールマガジン オルタ」の22号に、「回想のライブラリー(4)」として書かれたものです。・・・・

このエントリは、初岡さんの文章を大量に引用していますので、関心のある方は是非読んでみてください。

本書は、冒頭の「岡山県の山間僻地から広い世界へ」から始まって、初岡さんの社会民主主義者、労働運動家としての人生の諸相が、関係する書物と一緒に描き出されています。

結構興味深いのが、60年安保闘争の同志であった香山健一さんと終生友情を保ち、中国の胡啓立さんとのつながりに関わっていたこととか、ソ連、ポーランド、ユーゴスラビアなどの話です。

また、107ページにはシュトルムタールの『ヨーロッパ労働運動の悲劇』が次のような文脈で紹介されています。

共産党批判のもう一つのソースは読書だった。大学時代に読んだ本で、社会民主主義に傾斜する契機を与えてくれたのは、アドルフ・シュトルムタールの『ヨーロッパ労働運動の悲劇』Ⅰ・Ⅱ(岩波書店)だった。それから少し後に読み、大きな影響を受けたE,H.カー『危機の二十年』(岩波書店)しも同じ時代、すなわち第一次世界大戦・第二次世界大戦の間を対象としていた。しかし、社会民主主義者としての自覚を持つのは、青年学生運動時代より後、労働組合の仕事を始めてからのことであった。あの当時は「社民」という言葉は左翼の中で特別な蔑称であり、人を中傷するために広く用いられていた。

Sturmthal_2 わたしは、もはやその「社民は蔑称」の時代は知らない若い世代ですが、このシュトルムタールの本は、少し違う文脈で読まれるべき本として紹介したことがあります。

『ヨーロッパ労働運動の悲劇』を復刊して欲しい

昨日のエントリでも引用したシュトルムタールの『ヨーロッパ労働運動の悲劇』は、日本では1958年に岩波書店から岩波現代叢書の一環として、神川信彦・神谷不二両氏の翻訳により2冊組で刊行されています。

これは今こそ読み返されるべき名著だと思うのですが、今ではほとんど知っている人も少なく、amazonでも中古品が1円とかいう値段がついてしまっています。

巻末の同叢書の一覧を見ると、カーの『危機の二十年』、ノーマンの『日本における近代国家の成立』、ヒックスの『価値と資本』、カッシーラーの『人間』、ハヤカワの『思考と行動における言語』など、その後岩波文庫に収録された名著が結構並んでいますが、シュトルムタールのこの本も決してそれに劣らない値打ちがあると思うのですよ。

岩波書店の中の人が見てたら、是非一度書庫から取り出して、半世紀以上前に出版された本書を読んでみて、今の時代に何らかの示唆を与えるものであるかどうか検討してみて欲しいと思います。

残念ながら、他の名著は軒並み岩波文庫に入っているのに、このシュトルムタールは放置プレイのままです。

なお、15年前の台北でのソーシャルアジアフォーラムの報告は次の通り

亜洲社会論壇報告

先ほど、台北から戻って参りました。

ソーシャルアジアフォーラムは、結局直前に中国からの参加予定者が許可が出なかったということで出席しないことになり、中国側の報告は台湾の出席者が代読することになりました。その内容は、現在の中国の労使関係状況をきわめて的確かつ犀利にえぐり取るもので、わたくしには戦前の日本の進歩的な官僚や学者が無理解な体制の中で労使関係システムの確立を説いた姿を想起させるものでした。

わたくしが興味を惹かれたのは台湾からの報告で、今年ようやく労使関係3法が全面改正され、来年施行されることになったということです。実は中華民国工会法は1930年に制定されており、日本よりも古い労働組合法なのですが、日中戦争、国共内戦、その後の戒厳令体制のもとで、自由な労働組合運動は許されなかったのですね。ようやく民主化とともに労働組合運動も国民党の支配下から脱し、古い工会法も改正されるに到ったようです。このあたり、わたくしもあんまりよく知らない分野であったのですが、じっくり勉強してみたいと強く感じました。

韓国からは労使共同の訓練事業についての報告があり、日本からはわたくしが雇用システムの話、連合総研の龍井さんがもっと広い視野の話をしました。

フォーラム以外では、いろいろと興味深いことがありましたが、とりあえず一つだけ。会場の近くの「紫藤廬」という茶館で、高山茶をじっくりと楽しみましたが、この茶館、日本植民地時代の海軍宿舎で、奥の方には畳の座敷があり、何とも言えないいい雰囲気でありました。

台湾の労働尊厳教育

亞洲社会論壇(ソーシャルアジアフォーラム)では、各国からの報告討議に先立って、ホスト側の台湾の行政院労工委員会副主任(労働副大臣に相当)である潘世偉さんが基調講演をされました。潘さんは労働法の先生から政府に入った方ですが、自ら携わっておられる最近の労働法、労働政策の動きについて包括的に語られました。

その中で一つ、最後の方で述べられた労働尊厳教育の話が興味深いものでした。ディーセントワークの考え方を教育段階から国民に浸透させていこうというものですが、ご多分に漏れず台湾でも教育部はきわめて消極的なんだそうですが、それでも中学校段階から労働尊厳教育を実施しつつあるということでした。

そもそも今回の工会法改正でも、教師の労働基本権には大変否定的で抵抗したそうで、韓国でもそうですし、教師は聖職にして労働者に非ずというのは東アジアに共通の感覚なのでしょうかね。

 

 

 

 

 

 

 

 

2025年11月16日 (日)

遠藤公嗣「ILO100号条約第3条第3項の不審な政府公定訳(1967年)と劣化する解釈」(『労働法律旬報』2091号)への政策過程論的コメント

Rojun2091670059 『労働法律旬報』2091号に、遠藤公嗣さんの「ILO100号条約第3条第3項の不審な政府公定訳(1967年)と劣化する解釈」というたいへん長い論文が載っています。

https://www.junposha.com/book/b670059.html

その趣旨は、ILO100号条約が批准される間際に、それまでのまともな邦訳が、意味不明の悪訳に差し替えられ、そのためにその後の労働法学者は全く間違った解釈を繰り広げてきている、というもので、浜田富士郎、浅倉むつ子、木村愛子といった研究者に対する舌鋒は極めて激烈ですが、それは研究者同士の論戦としては当然とも言えます。

ただ、前半部で、邦訳改悪の下手人として当時の高橋展子婦人少年局長を名指しして批判しているところについては、当時の婦人少年局の置かれていた状況についての認識が薄いのではないかという感想を持ちました。

目次
一 課題
二 労働省による和訳作業
 1 三つのILO公式報告書の和訳
 2 一〇〇号条約の労働省仮訳
 3 一〇〇号条約の労働省定訳とその普及
 4 一〇〇号条約の批准案件と政府公定訳
三 第三条第三項の政府公定訳
 1 悪訳への改変:
   労働省定訳との比較考察
 2 政府公定訳でなく労働省定訳を国会答弁で引用する労働省幹部
 3 労働省幹部の国会答弁における第三条第三項の回避
 4 高橋展子と早川崇の国会審議外における「宣言」見解
 5 経緯の仮説
四 第三条第三項の解釈史⑴:労働省定訳のもとでの過去
 1 四つの文献
 2 石松亮二﹇一九六八﹈による高橋展子﹇一九六七a﹈の批判
五 第三条第三項の解釈史⑵:
  政府公定訳のもとでの現在
 1 浜田富士郎﹇一九八八﹈の五つの誤り
 2 浜田富士郎﹇一九八八﹈の時代背景
 3 浅倉むつ子﹇二〇〇四﹈への三つの疑問
 4 木村愛子﹇二〇一一﹈の荒唐無稽
六 結語

これは本論文にも書かれていることですが、この1967年という時点でILO100号条約が急に批准されることになったのは、外部からの圧力、すなわちILOから国際人権年に併せてILO条約を批准するように求められて、国内法を改正する必要がないからという理由で、この条約が選ばれたという経緯があります。労働省婦人少年局が、男女平等のためにぜひ批准してくれと言い出したわけではありません。

しかし、国内法を改正する必要がないからというのは、正確には正しくありません。これも本論文に書かれていますし、拙著でも繰り返し書いてきたことですが、労基法第4条は、労務法制審議会に出された原案では「男女同一価値労働同一賃金」であったのが、労働側の西尾末広委員の「労働の価値によつて賃金を払ふといふよりは、その労働者の家族が多ければその家族に手当を与へる、いはゆる生活賃金、生活をし得る程度の賃金を与へるといふ考へ方と、男女同一価値労働に対する同一賃金といふ観念とには矛盾がある」という批判を受けて、吉武労政局長から「まあ女だからといつて当分低くしてはいかんぞ、といふくらゐに解釈して貰はなければならんか」と答え、これを受けて「同一価値労働」が削除されて、現行のただの「男女同一賃金」になったという経緯があります。

もちろん、1947年に労基法ができた時には、ILO100号条約はまだできていないので、この「同一価値労働」の中身は厳密な意味でILO100号条約と同一であるわけではありませんが、とはいえ、そもそも職務給を否定して生活給を認めるために修文された規定なのですから、その規定があるからILO100号条約が批准できるというのは、かなりインチキな議論であったことは確かです。

率直に言えば、ILOの人権関係条約はどれもこれも難しい問題がてんこ盛りで、簡単に国内法を改正できるような代物はほとんどない中で、例外的に婦人少年局が所管している労基法第4条だけが関わる100号条約は、ILOへの「おみやげ」に差し出すにはちょうど手ごろなものだと、官房国際労働課を中心とした労働省幹部たちは考えたのでしょう。

それまで細々と勉強を続けてきたこの条約を、瓢箪から駒で急に批准することになったからよろしくといわれた婦人少年局はどう思ったか。もちろん、厳密には労基法第4条では不十分であり、せめてそれを「男女同一価値労働同一賃金」に改正しなければ、条約と不整合が生じます。なにしろ、「男女同一賃金」とは「まあ女だからといつて当分低くしてはいかんぞ」という程度の規範なのですから。

とはいえ、ほかの条約は法改正が必要だから難しいので、それなしでちゃちゃっと批准できる100号条約にしようというのに、やはり法改正が必要だから無理です、なんて婦人少年局が言えるかといえば、そんなこと言えるわけはありません。当時の婦人少年局は、労基法のごく一部を所管するだけで、自前の法律一本もなく、毎回のようにその存在意義に疑義を呈され続けていた弱小部局で、せっかく飛び込んできたILO条約批准の機会を自分から蹴飛ばすなんてことは不可能です。

とないえ、100号条約を批准してしまうと、そこに書かれていることをちゃんとやっているのかと問われることになります。労基法第4条があるから大丈夫という理屈で批准しても、国内法の労基法第4条は上記の通りであって、同一価値労働なんて発想はそもそも削除されていて、いまさら法改正もなしに急にでっち上げられるわけにもいきません。

つまり、婦人少年局は、批准せざるを得ないILO100号条約と改正できない労基法第4条の矛盾を引き受けなければならないのです。それが当時、高橋展子婦人少年局長が置かれていた立場だったのです。

本論文で、高橋展子局長がこの条約は宣言に過ぎないと強調していたことが批判的に引用されていますが、いやそれは、そう言わなければ、100号条約の細かな規定の一つ一つがいちいち労基法第4条との関係でどうなのかとギリギリ詰められては、とてももたないから、もたないことが予測できたから、わざとそういう細かな議論に陥ることのないように、宣言に過ぎないと言っていたのでしょう。

この経緯を見てくると、なんだか労働省の官房と他局がぐるになって、弱小の婦人少年局をいじめているようにも見えます。立場上批准を拒むことはできないし、法改正を打ち出すこともできないという足元を見透かして、「ほれほれ条約を批准できるぞ」と恩に着せながら、矛盾はお前の局で始末しろ、といわんばかりです。

もうひとつ、これはおそらく遠藤さんは気づいていないのではないかと思いますが、ちょうどこの時期、佐藤内閣の一省庁一局削減という行革の嵐が労働省にも押し寄せ、どの局を廃止するかで大揉めに揉めていたのです。率直に業務量でみれば、男女均等法や育児介護休業法等々ができる以前の婦人少年局というのは、普及啓発活動が主で、実体的な権利義務に関わる行政機能は極めて乏しく、20年にわたって繰り返し廃止論が唱えられ続けてきたのを、婦人団体などの外部の応援団や、その象徴的意義から辛うじて維持してきていたのですが、ここにきて再度婦人少年局廃止論がクローズアップされてきました、結局紆余曲折の末、新設されたばかりの安全衛生局をもとの安全衛生部に戻すということで決着したのですが、この時期の婦人少年局の行動を考えるうえで、この状況は念頭に置かれる必要があります。

遠藤さんの筆致にかかると、この高橋展子婦人少年局長というのは誠実性に欠けたいい加減な役人であったかのように見えますが、彼女がそのように行動せざるを得なかった状況も踏まえて見ていく必要があるのではないかと、感想を抱いた次第です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『管理職の戦後史』発売開始

Asahi2_20251116090901 木曜から土曜まで、ソウルで北東アジア労働フォーラムに出席し、昨晩ようやく帰ってきましたが、その間に拙著『管理職の戦後史』が書店の店頭に並び、すでに読まれて感想を書かれた方も出てきています。

そのうちyamachanさんは、

帰宅すればhamachan先生の「管理職の戦後史」が届いているのだが、ひと足先に書店でパラ読み。 ワイが十数年前に書いたレポートで引用した金融業の管理監督者通達に関するあれこれや、大昔の労働法学者松岡三郎も出てくるっぽいな。

そういえば、yamachanさんは2013年度の法政大学公共政策大学院で雇用労働政策研究の授業に出ていたのですね。実はその時のyamachanさんの期末レポート「労働行政からみる労基法上の管理監督者〜通達を中心に〜」がパソコンのハードディスクの奥にあったので、読み返してみたら、想像していた以上に今回拙著とターゲットが重なっていたんですね。

ちなみに、これが分かる人はかなりの「通」です。

hamachan先生は、情け容赦なく、M氏の素性を新著でバラしてましたwww

 

 

2025年11月15日 (土)

『外国人労働政策 霞が関の権限争いと日本型雇用慣行が招いた混迷の30年史』(中央公論新社)

Chukogaikoku

◆労働省vs法務省の権限闘争と、
特殊な日本型雇用システムにあった!
労働政策研究の第一人者が解き明かす、驚きの真実

「開国論」vs「鎖国論」という知識人たちの浅薄な議論の陰で
起きていたこととは……

日本は外国人労働者に極めて差別的、技能実習制度は「現代版奴隷制度」など、国内外から批判されてき日本の外国人労働政策。80年代には、「開国論」対「鎖国論」が論壇を賑わせたが、日本の制度が歪んだのは、排外主義的な政治家や狭量な国民のせいとは言い難い。本当の原因は、霞が関の権限争いと、日本型雇用慣行の特殊性にあった。労働政策研究の第一人者で、元労働省職員でもあった濱口桂一郎が、驚きの史実を解き明かす。

 

2025年11月12日 (水)

そんな本は書いてない!が続々

書いた覚えのない本が続々と出てくるんですが、一体何が起っているんですか?

ケアテック(介護ロボット)と在宅利用者の心理

ロボットが動作を助ける瞬間に、
「人の存在」が感じられるように設計されること。
それこそが、人と機械のあいだに“倫理”という温度を保つ条件なのでなないだろうか。

ほとんど私の書いてきた領域と重ならないような話が続いた挙げ句、「参考文献・引用元(考察の裏づけ)」として、こんな著者のこんな本が明記されているんですが、

  • 濱口桂一郎(2022)『ケアの倫理と労働の未来』岩波新書

いやいやいやいや、わてはそんな本出しておまへんがな。どこでどう混線して、こんなでっち上げが生み出されたのか不明ですが、かくしてネット上には私の著書と称する実在しない本が積み重ねられていくことになるようです。

 

2025年11月11日 (火)

EU最低賃金指令はOK@EU司法裁判所

今年1月に法務官がEU最低賃金指令は条約違反で無効だという意見を発表して大騒ぎになっていたことについては、その時に本ブログで紹介しており、

EU最低賃金指令は条約違反で無効@欧州司法裁法務官意見

その後『労基旬報』にやや詳しい解説を書きましたが、

EU最低賃金指令は条約違反で無効!?@『労基旬報』2025年2月25日号

その行方を関係者がかたずをのんで見守って10か月経って、ようやくEU司法裁判所の判決が出されたようです

なぜかまだ裁判所のHPにはアップされていないのですが、欧州委員会のHPに、最低賃金指令の有効性を認めた判決を喜ぶ旨の記事が載っています。

Commission welcomes the judgment of the EU Court largely confirming the validity of the Directive on adequate minimum wages

In its judgment, the EU Court of Justice dismissed the request to annul in its entirety the Directive on adequate minimum wages. The Court confirmed the validity of the provisions of the directive relating to collective bargaing on wage-setting.

その判決において、EU司法裁判所は十分な最低賃金に関する指令を全面的に無効とすることを求める請求を棄却した。裁判所は賃金決定に関する団体交渉に関する指令の規定の有効性を確認した。

そのうち裁判所のHPに判決文がアップされると思いますので、詳細はその上で。

 

 

 

 

 

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