アラン・シュピオ『法的人間 ホモ・ジュリディクス』

345550 この本、今年の3月に翻訳が刊行されていたようですが、全然気が付かず、先日たまたま本屋の哲学書の棚に置いてあるのを見つけて慌てて買い、夏休みの友として読み終わったところです。

http://www.keisoshobo.co.jp/book/b345550.html

アラン・シュピオの本をなんで労働法の棚に置かないんだ!といいたいところですが、たしかに冒頭のプロローグが、

人間とは形而上学的な動物である。生物学的な存在としては、まず感覚器官によって世界に存在している。しかし人間の生は単に事物の世界だけではなく、記号の世界でも繰り広げられる。この世界は言語を超えて、理念を具体化するもの全体にまで広がり、物理的には不在のものを、精神に対して顕現させる。・・・・

といった、いかにもおフランスの現代思想っぽい文章なので、この手のわけのわからない文章の本をわざわざ読むのは哲学おたくの類に違いないと、哲学書の棚に放り込んだのは、書店員としてはまことに合理的な行動様式であったのでしょう。

労働法の世界では結構有名なシュピオですが、労働法学者が翻訳に怠惰なためか、本書が彼のまともな翻訳書第1号なんですね。

EUの労働社会政策に具体的提言を投げかける労働法学者アラン・シュピオは、絶大な影響力を誇る実務家であると同時に、西洋の人間形成において法が果たす役割という原理的な問いに対峙する理論家でもある。全面化する競争社会で法を単なるゲームのルールに還元しようとする流れに抗して、法学者が真正面から「正義」を問う異色の書。

前半がより一般哲学書っぽいのに対し、後半はより労働法や社会保障のトピックを哲学的に突っ込むところが多くなります。

気になったところをいちいち全部書き出していると大変なので、そのごく一部だけですが、例えば第4章の技術革新と労働法を扱ったところでは、

・・・社会学者や経済学者や情報処理技術者にとっては、ネットワークは非常に現代的であるようだ。法学者にとっては、ネットワークとはむしろ、封建制の構造、とりわけ自由人を一人あるいは複数の封建君主に仕える身に置いた封臣関係を、否が応でも想起させる。企業が新たな労働組織形態に求めているのは、まさにこれなのだ。従属だけではもはや不十分であり、単に従順な労働者は求められていない。製品の品質とコスト削減という要請の結果、あたかも自分が独立した責任者であるかのように振舞う労働者が求められるようになったのだ。逆に従属が勢力を拡大したのは、企業同士の関係である。本来の事業に再び集中するようになった各企業は、自分の製品の品質を左右する、納入業者や請負業者の貢物の質や納期を厳しく管理しなければならないのだ。

と、労働者の(疑似)自営業者化と自営業者の(疑似)労働者化のトレンドを、中世封建制のメタファーで見事に描き出していますし、

近年のいわゆる法の手続き化についても、

・・・手続きという概念はコンピュータの発明において決定的な役割を果たした。コンピュータの発明者ジョン・フォン・ノイマンの基本的なアイディアは、アルゴリズムの形で計算を処理する可能性を機械にまで広げること、すなわち計算可能なすべての問題を、機械に記録済みの明確な命令の作用に還元することであった。こうして情報科学の言語がプログラムという隠喩(経営学や遺伝学にも波及した)に基づいて発達し、いかなる内容も取り扱えるもろもろの手続き規範のシステムとなった。<法権利>においても、手続き化というテーマが同時期に出現し、以後も新たな領域を獲得し続けている。ユルゲン・ハーバーマスによる理論的定式化は最も著名なもののひとつであり、・・・・。彼の同時代人であり同邦人であるニクラス・ルーマンの著作には、このような希望は不在である。・・・・・労働法とて例外ではなく、情報科学のプログラムが企業に広まるよりはるかに前から、手続き化の進行が確認できた。とりわけ目覚ましいのは1973年以降の解雇に関してである。雇用者の経済的決定を判決という実体的規範に従わせることが出来ずに(それをすれば良好な企業経営の責任を裁判官に転嫁することになってしまう)、立法府が解雇手続きを増大させた結果、マイクロソフト社のソフトのように、ファイルは積み重なり、プログラムの実行を遅らせ(「ロード時間」の慢性的増大)、メモリーはいくらあっても足りず、システム停止のリスクが高まるのである。だが情報科学において非難されるべきものは、法的観点からすると正しいのかもしれない。つまり解雇法の手続き化の実質上の根源的な意義とは、ひょっとすると手続きを遅らせ、引き延ばし、そうすることで雇用喪失に直面する被用者に転職の準備時間を与えることにあるかもしれないのだ。

と、誠に才気煥発な皮肉に満ちた文章を綴るのです。

プロローグ

Ⅰ 法的ドグマ──私たちを基礎づける信条

第一章 人間存在の意味づけ──神の似姿
 人間存在の規範的構成
 人の法的な基盤
 唯一にして同一の個人
 従属した君主、主体
 受肉した精神としての人格
 アイデンティティを保証する〈第三項〉
 全面的解放の先にあるもの──解体した人間

第二章 法の帝国──厳たる法、されど法(dura lex, sed lex)
 ある一つの考え方の様々な化身
 法の人間的な統御
 法により説明される人間

第三章 言葉の強制力──合意は拘束する(pacta sunt servanda)
 契約という「文明化のミッション」
 契約の起源へ
 合意の保証人としての国家
 契約関係の再封建化

Ⅱ 法の技術──解釈の素材

第四章 諸々の技術を統御する──禁止の技術
 技術革新から生じる〈法権利〉
 制度からネットワークへ
 規制から調整へ
 技術を人間化する〈法権利〉
 遍在性の限界
 透明性の限界
 生殖技術に直面する出産

第五章 権力を考察する──統治から「ガバナンス」まで
 主権の衰退
 国家の変容
 権力と権威との分離
 立法権の解体
 自由を従属させる
 行動の標準化
 法源の道具化

第六章 人間を結ぶ──人権の正しい使用法
 人権の信条
 西洋的原理主義の三つの姿
 メシア思想
 共同体主義
 科学主義
 解釈の扉を開く
 人権という人類の共通資源
 連帯原則を再訪する
 新たな解釈装置のために


訳者あとがき
人名索引

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『若者と労働』第7刷決定

Chuko 中央公論新社から、拙著『若者と労働』(中公新書ラクレ)の第7刷が決定したと連絡をいただきました。

これも、拙著を熱心に読んでいただいた読者の皆様のおかげと心より感謝申し上げます。

http://hamachan.on.coocan.jp/chukobookreview.html

なお、amazonレビューにも昨日、koheinet608さんによる『若者と労働』に対する大変熱のこもった長大な書評が載ったようです。電子版でお読みいただいたようで、やはり電子版を出すと新たな読者が広がるのでしょうか。

https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R2ZX69WDSOKYKD/ref=cm_cr_getr_d_rvw_ttl?ie=UTF8&ASIN=4121504658

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『新しい労働社会』電子書籍化

131039145988913400963 拙著のうち、『若者と労働』と『働く女子の運命』はすでに電子書籍化していますが、それらよりも早く2009年に刊行した『新しい労働社会』(岩波新書)も、今月電子書籍化されるようです。

https://twitter.com/Iwanami_Shinsho/status/1027471378843234304

【毎月4点配信している電子書籍、8月は16日に配信開始です】
見田宗介『現代社会の理論――情報化・消費化社会の現在と未来』
濱口桂一郎『新しい労働社会ーー雇用システムの再構築へ』
池上俊一『フィレンツェ』
見田宗介『現代社会はどこに向かうか――高原の見晴らしを切り開くこと』

電子書籍化によって、また新たな読者を得られることになるならば、うれしいことです。

http://hamachan.on.coocan.jp/bookreviewlist.html

 

 

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医学部は病院附属職業訓練校

東京医科大学の問題が盛大に炎上中ですが、労働問題の観点から見ると、これはまさに

事情を知る関係者は「女性医師は結婚や出産で職場を離れたり、深夜勤務ができなくなったりして、偏在の問題が起きる。これを避けるため、女子合格者を三割程度になるよう調整していたようだ」と話した。

女性の職業生活と家庭生活の両立の問題に由来する採用差別なんですね。

もちろん、世の中のあらゆる部面に差別現象はあるのですが、今回の問題は狭義の教育問題というよりは、労働問題が職業教育訓練の入り口の選別において露呈したものと見た方がいいでしょう。

そして、実はこれが逆に、他の学部、とりわけ文科系の学部ではこのような女性差別が行われてこなかったのはなぜかという見えざる問題を照射します。実を言えば、同じような男性中心の長時間労働を当然視するマッチョイズムは他の職業分野でも同じように存在するはずなのに、そして企業や組織への「入社」の段階においては、有形無形のさまざまな差別が現に行われているにもかかわらず、大学入学段階ではそのようなことが行われていないのはなぜかというと、要するに、大学入学がいかなる意味でも職業教育訓練の入り口であるとは認識されていないということを表しているのでしょう。

大学までは男女平等なのに、会社に入る段階では差別が横行しているというのは、裏返していうと、そういう差別的な雇用社会の選別機能を、(少なくとも文科系の)大学は果たさなくてもいいと思われていたということを意味しているのでしょう。

それに対して医学部はそうではない。言葉の正確な意味でのジョブ型職業教育機関であり、言ってみれば医師養成職業訓練校です。とりわけ今回の東京医科大学というのは、東京医科大学病院の附属職業訓練校という色彩が強いようで、そうであればこそ、その本体たる病院の人事労務管理上の(男女差別的)要請が、ストレートにその訓練生選抜基準にのしかかってきたのでしょうね。

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『HRmics』30号

1海老原さんちのニッチモの『HRmics』30号をお送りいただきました。今号の特集は「戦略的人材育成なんて、要らない!」です。SHRMごっこはいい加減にやめとけ、と。

http://www.nitchmo.biz/hrmics_30/_SWF_Window.html

1章 十年一日の「戦略的人材育成計画」なぜそれが出来ないのか?

§1.おうべいはそれが必須で、日本には不要な理由

§2.日本型人事ができていること、いないこと

§3.そんな選抜教育なんて、本音を言えば、無用!

2章 やばいぞ、足りないものだらけだ!日本の次世代育成

§1. 国内ルールを脱すること。型より本質を重視すること

§2.「借り物」「汎用」でHRMを済ませるな

§3. 国際的なエリートと伍するには、人格・教養があまりに足りない

§4. Gゼロ時代の経営者が備えるべき国際政治への洞察力

3章 クロトンビル・ジャパンの責任者に聞く 本物の戦略的人材育成術

例によって、特集の最後のコラムの海老原さんの言葉が皮肉を効かせています。

・・・・特集中、何度も使わせていただいた経済産業省の戦略的人材育成ガイドは、「詳細に作り込むべし」論に力点を置いて構成されている。果たして経産省はこのガイドに沿って、事務次官育成に取り組んでいるのだろうか。

私の連載「原典回帰」は、エドモン・メールの『自主管理への道』です。

えっ?何それというのが99.9%の反応でしょうが、その昔1970年代には、マルクス主義に夢破れた社会主義者の理想像として、自主管理社会主義というのがえらく流行したことがあったんです。

実は、今は立派な労働研究者の大御所になっている方々の中にも、若き日に自主管理の夢を掲げた方もいます。

その自主管理の理論が花開いていたフランスの話を、日本の戦後史を振り返りつつ、例によってやや斜に構えた感じでサルベージしてみました。

・・・・ CFDTの自主管理思想が現実政治の中で労働法制として現実化したのは、ミッテラン政権下でオルー法として制定された企業内労使関係システムの強化でした。そしてその後も政権交代を繰り返しながらも、この企業内労使関係の強化という方向性は今日に至るまで変わっていません。一番最近の、2017年のマクロン政権による労働法改革も、企業別協定を産業別協約の上位に置き、企業レベルの従業員代表機関を統合するなど、企業別主義を貫いています。今やフランスでも自主管理という言葉はほとんど使われませんが、自主管理思想がもたらした企業内労使関係の確立という方向性は強まる一方です。

 ところが皮肉なことに、その企業内労使関係こそが、戦後日本労使関係システムの基盤であり、1970年代から90年代にかけての時期に日本型雇用システムの柱の一つとしてもてはやされたものなのです。その背景には、戦後確立した日本型労使関係の出発点に終戦直後の生産管理闘争などのある種の強烈な労働者自主管理思想があり、それをうまく取り込む形で、労働者の小集団が職場の主人公として経営改善に取り組んでいくという仕組みが作り上げられたという経緯があります。そしてむしろそういう労働者自主管理的なまでの企業中心主義が1990年代に左右両派から批判を浴びるようになる中で、やや無気力に維持され続けているのが企業内労使関係というのが今日に至る状況です。このあたりの、日本独自の文脈における自主管理思想の持った意味については、もっと広い観点から分析される必要があるとは思いますが、とりあえず本書を紹介することで、その糸口をつけてみたいと思います。・・・・

・・・・・

・・・・ここまで読んでくると、自主管理思想の理想郷は戦後日本社会だったのか?と思わず言いたくなります。あるいは、前々回取り上げたG.D.H.コールの『労働者 その新しい地位と役割』における「パートナーシップ」の称揚を思い出した人もいるかもしれません。

 いずれにしても、フランス自主管理思想はフランスなりの文脈において、学歴がそのまま職業資格として権威的指揮命令関係を正当化し、集団的労使関係は企業の外側にのみ活発に存在し、企業内には入り込めないような労働社会のあり方を根本から変革するという問題意識に基づいて発展してきたものです。しかしそれを労働運動の政治的枠組みの都合で出羽の守よろしく輸入した先の日本の労働社会は、それとは全く別の文脈で動いている社会でした。集団的労使関係はほとんど企業内にしか存在せず、それも具体的な職場レベルでの人間的なつながりが大きな役割を持ち、企業内での経験による知識が企業外教育による知識よりも重視されるような、あべこべの世界です。そのあべこべの世界では、フランスでは上述のような労使関係の企業内化という革新的な役割を果たした自主管理思想は、現に存在する日本型労使関係の正当性を弁証するという保守的な役割以外を果たせる可能性はなかったのかもしれません。

 1990年代以降、日本社会における言説の主流は、労働者が自主管理的に企業に一体化し、猛烈に働く有り様を、「企業人間」とか「社畜」と批判する(左派的な)思想と、企業が労働者集団によって自主管理企業まがいに経営されている状況を市場原理から厳しく批判する(右派的な)思想になりました。そういう時代には、労働者自主管理などという考え方は、(実のところ労使のかなり多くの部分が内心は支持しているとしても)とても恥ずかしくて表立って主張しにくい代物になってしまった感があります。1970年代に労働者自主管理に関する論文をいくつも書いていた中谷厳氏が、1990年代には竹中平蔵氏と並んで市場原理主義のイデオローグとして活躍したことは、2008年頃から再び180度転換したこととも併せ、時代の変遷を感じさせます。

 おそらく今の若い世代は、40年前に「労働者自主管理」が論壇のホットトピックであったことすらほとんど知らないでしょう。今となっては当時の熱を偲ぶよすがもほとんどありませんが、思想と文脈という問題を考える上で、大変興味深い実例であることだけは間違いないと思います。   

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野村正實『「優良企業」でなぜ過労死・過労自殺が? 』

51erfvdvbel__sx342_bo1204203200_野村正實さんより新著『「優良企業」でなぜ過労死・過労自殺が?』(ミネルヴァ書房)をお送りいただきました。ありがとうございます。

http://www.minervashobo.co.jp/book/b371946.html

昨今,多くのブラック企業対策本が出版され,ブラック企業の見分け方なども指南されている。だが電通をはじめブラック企業の定義に当てはまらない「優良企業」での過労死,過労自殺,長時間労働によるうつ,心疾患,精神障害などが相次いでいる。日本の大会社の大半は,ブラックな部分とホワイトな部分をあわせ持っているのである。その成立と存在条件を明らかにすることこそ,いま求められているのではないか――本書は,日本に遍く存在する「ブラック・アンド・ホワイト企業」を分析し,日本企業の本質を読み解く書。

野村さんの著書にはこれまでも啓発されることが大変多く、とりわけ大著『日本的雇用慣行』については、本ブログでも何回も取り上げたことがあります。

その野村さんが、東北大学を辞められた後、国士舘大学で教鞭を執られている間に書かれた本です。トピックは今風ですが、もちろん、野村さんらしい日本的雇用の本質からブラック企業を論じています。

ただ、正直言ってやや違和感があったのは、序章で

これまでブラック・アンド・ホワイト企業という概念が提起されたことはない。本書がブラック・アンド・ホワイト企業に関する最初の研究である。

と言われているんですが、いや確かに言葉としてはそうですが、ブラック企業という現象の本質にそれ自体としてはホワイトだと思われてきた日本的企業のあり方があるという指摘は、それこそ今野晴貴さんの『ブラック企業』以来、かなり繰り返し指摘されてきたことではないかと思われます。

同書は「ブラック企業に定義はない」といい、「日本型雇用の悪用」がブラック企業現象を生み出すのだから、「全ての日本企業はブラック企業になり得る」と述べていました。

まあ、その周辺の運動論において、ややもすれば「一方の極にブラック企業が、他方の極にホワイト企業があるというような二分法」めいた言い方があったとしても、日本的なホワイトこそがブラックの要因であるという認識は、少なくとも表層的なマスコミは別にすれば、かなり存在していたように思われます。

全体としてはむしろ、ブラック企業というトピックを補助線にして、日本型雇用のあり方に批判的に迫る本になっていて、それは確かに有益なのですが、上述のような疑問を感じさせたのも確かです。

なお、これはたまたまですが、一昨日のエントリで「メンバーシップ型採用と差別」について若干コメントしましたが、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2018/07/post-6a23.html

まさにそれと重なる問題意識の記述が本書の第1章の「採用差別」という項に書かれていました。

日本では採用差別が横行している。もっといえば、採用差別が当たり前のこととして行われている。・・・

採用差別が当たり前のこととして行われているという判断は、先進国の基準に基づいている。それに対して、採用差別は一部にとどまっているという反論は、日本の基準に基づいている。つまり先進国の基準によれば採用差別と判定されることが、日本では採用差別と思われていないのである。・・・

・・・日本という国は、外に向かってはILO第111号条約を批准しないという形で、内に向かっては三菱樹脂事件の最高裁大法廷判決という形で、会社は採用差別を行ってよい、と公に宣言している。日本は採用差別を公認している唯一の先進国である。

本書の内容は以下の通りです。

序 章 ブラック企業論への疑問

第1章 特異な日本の採用・就職
   「定期採用」と「中途採用」    
   ウソがまかり通る定期採用の世界
   採用スケジュール
   「初任給」  
   学歴フィルター  
   採用差別  
   過剰な自己PRの強要
   1990年代以降のいっそうの苛酷化  
   身元保証という江戸時代からの悪習
   定期採用の本質

第2章 入社式と新入社員研修
   入社式  
   戦前の新入社員  
   ドーアによる新入社員研修の観察
   ローレンによる新入社員研修の観察  
   「ウエダ銀行」の新入行員研修
   伊藤忠商事の新入社員研修  
   ローレンによる日米比較  
   新入社員研修の日本的特色
   会社の修養主義

第3章 会社の共同体的上部構造
   ゲマインシャフトとゲゼルシャフト  
   共同体的上部構造と利益組織的土台
   共同体的上部構造としての「社風」  
   松下電器産業と本田技研工業の交流研修会
   尾高邦雄の日本的経営=共同体論  
   「経営家族主義」の「実証的」根拠
   戦前における「終身雇用制」?  
   経営家族主義イデオロギーの不存在
   高度成長期における「終身雇用制」の成立  
   戦前の会社身分制  
   俸給と賃金
   身分制下の目に見える差別

第4章 従業員組合——「非常に非常識」な「労働組合」
   敗戦後における従業員の急速な組織化  
   戦後に結成された組合を何と呼ぶべきか
   従業員組合の特徴  
   従業員組合の成立根拠にかんする二村説  
   従業員組合の原形
   末弘厳太郎による観察  
   藤林敬三による観察  
   従業員組合の自然な感情
   労働組合として「非常に非常識」な行動様式  
   争議中の賃金の後払い
   改正労組法と従業員組合への利益供与・便宜供与  
   従業員組合の本質
   従業員組合による共同体的上部構造の形成  
   従業員組合の興隆と衰退
   「労働組合」の重層的定義  
   会社による共同体的上部構造の維持・展開
   トヨタにおける「労使宣言」

第5章 会社による従業員の全時間掌握
   利益組織的土台に奉仕する共同体的上部構造  
   労働時間とは何か
   戦前における工場労働者の労働時間  
   ILO条約と8時間労働制
   トマス・スミスの指摘  
   官吏の執務時間  
   社員の執務時間
   労働時間をめぐる戦前の負の遺産  
   社員の執務時間と労働者の労働時間の「統一」
   軟式労働時間制  
   執務時間と労働時間の融合  
   長時間の不払労働
   「自主的な」QCサークル  
   低い有給休暇の取得率  
   トヨタ過労死事件
   名古屋地裁の判決  
   会社による共同体的上部構造把握の行きつく先
   過労死・過労自殺とジェンダー

終 章 自己変革できないブラック・アンド・ホワイト企業
   ブラック企業の指標  
   ブラック・アンド・ホワイト企業への道  
   時代は働きすぎに向かう


参考文献
あとがき
索  引

あとすみません、すごくつまらないことですが、末弘厳太郎がいくつか「末広」になってました。こういうのって、自分でいくらチェックしても見落としてしまうんですよね。

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「文系大学教育は仕事の役に立つのか」という問いに意味があるのか?

20180731114127二宮祐さんのブログで、二宮さんも寄稿しているという本田由紀編『文系大学教育は仕事の役に立つのか』(ナカニシヤ出版)が紹介されています。

http://sakuranomori.hatenablog.com/

中身も読まずにコメントするのも大胆不敵と言うべきですが、このタイトルを見て思わず、「いや、そういう問いの立て方に意味があるのだろうか?」とつぶやいてしまいました。

いやもちろん、世の中の圧倒的に多くの人々がそういう問いの立て方で論じている方こそ、こういうタイトルにならざるを得ないのでしょうけど、それではなんだか、「文系大学教育」という実体そのものがあたかも役に立ったり役に立たなかったりするものであるかのように見えます。

でも、各国間で文系大学教育それ自体に若干の違いはあってもほぼ似たような内容であるのに、それがある国で役に立っていて別の国で役に立たないのは、つまるところ、前者の国では社会全体にそれが役に立つものであり、それゆえにそれを学んで資格を得た者を当該専門分野における一定の能力を有するものとして処遇すべきというコンセンサスが成り立っているのであり、後者の国では社会全体にそんなものはそれ自体は役に立たないものであり、それゆえにそれを学んだものはそれを学ぶ資格を得たという点においてその能力が認定されるにとどまり、それ以上の専門的能力を証明する資格とはみなされるべきではないというコンセンサスが成り立っているという違いに過ぎないのではないか、と思われるからです。

20140828121034という話は、今から7年前の広田さんの科研研究会で喋って、それがこういう本になったりもしていますけど、なんだかあんまり進歩していませんね。同じことを繰り返している気がします。

 私は実は、どういうジョブについてどういうスキルを持ってやるかで仕事に人々を割り当て、世の中を成り立たせていくジョブ型社会の在り方と、そういうものなしに特定の組織に割り当て、その組織の一員であることを前提にいろいろな仕事をしていくメンバーシップ型社会の在り方の、どちらかが先験的に正しいとか、間違っているとは考えていません。
 
 ある意味ではどちらもフィクションです。しかし、人間は、フィクションがないと生きていけません。膨大な人間が集団を成して生きていくためには、しかも、お互いにテレパシーで心の中がすべてわかる関係でない限りは、一定のよりどころがないと膨大な集団の中で人と仕事をうまく割り当てることはできません。
 
 そのよりどころとなるものとして何があるかというと、ある人間が、こういうジョブについてこういうスキルがあるということを前提に、その人間を処遇していくというのは、お互いに納得性があるという意味で、非常にいいよりどころです。
 
 もちろん、よりどころであるが故に、現実との間には常にずれが発生します。一番典型的なのは、スキルを公的なクオリフィケーションというかたちで固定化すればするほど、現実にその人が職場で働いて何かができる能力との間には必ずずれが発生します。
 
 ヨーロッパでいろいろと悩んでいるのは、むしろその点です。そこから見ると、日本のように妙な硬直的なよりどころがなく、メンバーとしてお互いによく理解しあっている同じ職場の人たちが、そこで働いている生の人間の働きぶりそのものを多方向から見て、その中でおのずから、「この人はこういうことができる」というかたちで処遇していくというやり方は、ある意味では実にすばらしいということもできます。
 
 ただし、これは一つの集団組織に属しているというよりどころがあるからできるのであって、それがないよその人間との間にそうことができるかというと、できるはずがありません。いきなり見も知らぬ人間がふらりとやってきて、「私はできるから使ってくれ」と言っても、誰も信用できるはずがありません。そんなのを信用した日には、必ず人にだまされて、ひどい目に遭うに決まっています。だからこそ、何らかのよりどころが必要なのです。
 
 よりどころとして、公的なクオリフィケーションと組織へのメンバーシップのどちらが先験的に正しいというようなことはありません。そして、今までの日本では、一つの組織にメンバーとして所属することにより、お互いにだましだまされることがない安心感のもとで、公的なクオリフィケーションでは行き届かない、もっと生の、現実に即したかたちでの人間の能力を把握し、それに基づく人間の処遇ができていたという面があります。
 
 おそらくここ十数年来の日本で起こった現象は、そういう公的にジョブとスキルできっちりものごとを作るよりもより最適な状況を作り得るメンバーシップ型の仕組みの範囲が縮小し、そこからこぼれ落ちる人々が増加してきているということだろうと思います。
 
 ですから、メンバーとして中にいる人にとっては依然としていい仕組みですが、そこからこぼれ落ちた人にとっては、公的なクオリフィケーションでも評価してもらえず、仲間としてじっくり評価してもらうこともできず、と踏んだり蹴ったりになってしまいます。「自分は、メンバーとして中に入れてもらって、ちゃんと見てくれたら、どんなにすばらしい人間かわかるはずだ」と思って、門前で一生懸命わーわーわめいていても、誰も認めてくれません。そういうことが起こったのだと思います。
 
 根本的には、人間はお互いにすべて理解し合うことなどできない生き物です。お互いに理解し合えない人間が理解し合ったふりをして、巨大な組織を作って生きていくためにはどうしたらいいかというところからしかものごとは始まりません。
 
 ジョブ型システムというのは、かゆいところに手が届かないような、よろい・かぶとに身を固めたような、まことに硬直的な仕組みですが、そうしたもので身を固めなければ生きていくのが大変な人のためには、そうした仕組みを確立したほうがいいという話を申し上げました。

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今野晴貴『ブラック企業から身を守る!会社員のための「使える」労働法』

618w8btxl今野晴貴さんより新著『ブラック企業から身を守る!会社員のための「使える」労働法』(イーストプレス)をお送りいただきました。ありがとうございます。

http://www.eastpress.co.jp/shosai.php?serial=3022

新著と言いましたが、正確には旧著『マジで使える労働法』の大幅加筆修正版です。

旧著は実は今野さんの単行本としては処女作なんですね。『ブラック企業』以来の労働社会学徒としての著作とは違い、徹底的に実務的な労働法の早わかり本に徹しています。実務的というのはもちろん、

パワハラ・セクハラ、サービス残業、休暇取得、解雇、転職・副業。過酷な労働環境から自分の身を守るためにはどうすればいいのか?ベストセラー『ブラック企業』の著者が教える、「労働法」で仕事の悩みを解決する方法。意外と知らないノウハウが満載!

という意味です。

はじめに 労働法を武器に自分を守れ!

第1章【セクハラ・パワハラ編】非常識な上司につける薬とその効用

第2章【サービス残業代編】毎日の「証拠収集」が強力な武器になる!

第3章【休暇・労災編】辞めずに休んで、手当と給付をゲット!

第4章【給料アップ編】ブラック企業でも可能! 労働法で年収を増やす方法

第5章【「辞めろ!」と言われたとき編】逆境をチャンスに変えるテクニック

第6章【転職・副業編】損をしない辞め方&働き方!

おわりに よりよい社会を作るツール

前著に第6章の転職・副業編が付け加わっているのは今風ですが、私としてはむしろ「辞めろと言われたとき編」に対になる形で「辞めさせないぞと言われたとき編」というのが必要じゃないかと思いました。

第6章の始めのところに、円満退社なんてする必要はない、という形で、民法627条の話がちらりと出てくるのですが、前著が出てから世間で問題になってきたのは、辞めさせてやらない型のトラブルなので、今出すのであれば、そこをもっと突っ込んだ方が良かったんではないかと思ったわけです。

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メンバーシップ型採用と差別

ネット上にこういう記事がありましたが、

https://note.mu/atnote/n/na7ad7dce0304(就職面接で生い立ちを聞いても良いのですか)

先日,学生を話をしていたときのことです。すでに就職は決まっている学生なのですが,面接で自分の両親のことや生い立ちのことを聞かれて,「そんなことを聞いていいのか」と疑問に思ったそうなのです。

なぜなら,苦しい生い立ちの学生がいるかもしれません。特殊な境遇で育った学生がいるかもしれません。苦しい子ども時代のことを回答したくない,という学生もいることでしょう。もしも何らかの思想信条が絡んできたとして,それで就職できない,というのは大きな問題でしょう。

このような可能性があるのに,生い立ちを聞いてしまっていいのか,という疑問を抱いていたのでした。・・・・

ここから、話は例のジョブ型、メンバーシップ型に広がっていき、

このように考えると,明らかに日本の就活というのはメンバーシップ型で行われていることが分かります。

そして,事前に職務の範囲が定まっていないのですから,採用が「人物重視」になるのです。・・・・

・・・・日本の就職は「就社」と揶揄的に言われることもあります。
職に就くのではなく,会社に入るのです。そして入ってしまえば,たいていどのような仕事もこなすことが求められます。

だから,生い立ちを聞いてしまうのです。
何ができるかよりも,どのような人物であるかが会社にとって重要だと考えてしまうような枠組みが,社会の中にあるからです。

と進んでいきます。労働法学に詳しい人なら、ここで例の三菱樹脂事件最高裁判決を思い出すでしょう。

Chuko拙著『若者と労働』から、その解説部分も含めて引用すると、

 しかしながら、日本の最高裁判所は一九七三年の三菱樹脂事件判決において、信条を理由として雇入れを拒否することを違法でもなければ公序良俗違反でもないと容認しました。これは日本における広範な採用の自由を認めた先例であり、その後の裁判はすべてこの枠組みの中にあります。これは、学生運動に従事していたことを隠して採用された労働者が試用期間満了時に本採用を拒否された事案ですが、最高裁は次のような理屈で信条による採用差別を正当化しています。

「企業者において、その雇傭する労働者が当該企業の中でその円滑な運営の妨げとなるような行動、態度に出るおそれのある者でないかどうかに大きな関心を抱き、思想等の調査を行うことは、企業における雇傭関係が、単なる物理的労働力の提供の関係を超えて、一種の継続的な人間関係として相互信頼を要請するところが少なくなく、わが国におけるようないわゆる終身雇傭制が行われている社会では一層そうであることにかんがみるときは、企業活動としての合理性を欠くものということはできない。」

 ここに現れているのは、特定のジョブに係る労務提供と報酬支払いの債権契約ではあり得ないような、メンバーシップ型労働社会における「採用」の位置づけです。それは、新規採用から定年退職までの数十年間同じ会社のメンバーとして過ごす「仲間」を選抜することであり、その観点から労働者の職業能力とは直接関係のない属性によって差別することは当然視されるわけです。

ところが、これだけだと、「自分の両親のことや生い立ちのこと」まで聞くのも当たり前だということになりかねません。しかし、それに対してはむしろ行政機関は長年にわたって就職差別をしないようにと指導をし続けてきているのです。さて、この両者はどういう関係にあるのでしょうか。

https://www.mhlw.go.jp/www2/topics/topics/saiyo/dl/saiyo-01.pdf(公正な採用選考をめざして)

理屈の上で厳密に言えば、上記最高裁判決の発想と「公正な選考採用を目指して」は矛盾するはずですが、それが露呈しなかったのは、かつての日本型高卒採用の世界では、学校がその卒業して就職する生徒の(能力のみならずその人格に至るまで)保証することによって、会社が個々の生徒にプライバシーに関わることをいちいち聞かなくても、大丈夫だという安心感を与えていたからなのでしょう。

逆に言えば、そういう個人レベルの差別を露呈させない組織間関係に基づく社会的メカニズム(本田由紀さんの言うところの「赤ちゃん受け渡しモデル」)が希薄化し、とりわけ大卒者の就職(「就社」)においては、そのような保証メカニズムが乏しく、求職者個人が労働市場でその能力や人格を吟味されてしまうようになってくると、その間の矛盾が露呈せざるを得なくなるのでしょうか。

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OECDの『日本の教育政策』

Djf51hcwsaauvh8 何だか文部科学省が炎上状態のためなのか、マスコミではあまり取り上げられていないようですが、OECDが昨日『日本の教育政策』の評価報告書を発表したようです。

http://www.oecd.org/education/education-policy-in-japan-9789264302402-en.htm

http://www.oecd.org/education/Japan-BB2030-Highlights-Japanese.pdf

日本の教育制度は、児童生徒と成人の両方において、OECD 諸国でトップを争う高い成果を生ん でいます。しかしながら、軽視できない経済的および社会人口学的な問題によって、この卓越 したモデルの維持可能性が疑問視されています。

それはどういうことかというと、

日本の教育制度の成功を語る上でひとつ極めて重要な特徴が、子どもたちに非常に包括的(全人的)な教育 を効果的に行っているということです。即ち、教員が熟練した能力を持ち、総体的に生徒のケアをよくして いること、生徒が身を入れて協力的な姿勢で学習していること、保護者が教育を重視し、学校外の付加的学 習(学習塾)に支出していること、そして、地域社会が教育を支援しているということです。この独特なモ デルが、日本の教育制度の全側面を基盤として一体となって機能しているのです。

というと、すごくいいことのようですが、その裏面にあるのが、

しかし、このシステムの代償として、教員に極度の長時間労働と高度な責任があり、それによって教員は研 修を受け、新学習指導要領に適応することを困難にしています。現行の学校組織(「チーム学校」)は、教 員の負担を減らし、学校で生徒向けの付加的サービスを提供することを目指しています。一方、学校と地域 社会間の連携・協働関係を強化するという政府の意気込みは、社会人口学的および経済的な変化が日本の教 育モデルのあり方の課題となる一方で、教育への全人的アプローチを維持しようという試みを意味していま す。

このトレードオフは、そう簡単に答えが出せるものではないということのようです。

Oecd1

も一つのグラフは、「日本の技能システムに寄与する教育の成果を高める: 日本社会に求められる急務」という項目に出てきますが、

Oecd2

成人力調査を見ると、日本の生涯学習への参加率は低く、同国における成人の学ぶ意欲は、調査参加国中で 最下位に近いことが分かります。そうした学習率の低さに繋がっている要因の中には、日本の成人の時間的 および経済的な制限、教育内容が労働市場との関連性に欠ける点や、関心または動機の欠如があります。日 本での生涯学習率を高めるためには、学習が労働市場のニーズに沿ったものであること、失業者または積極 的に労働市場に関わっていない者の就職支援につながること、そして仕事をしていて学ぶ時間が限られてい る労働者が参加できるようにすることが求められます

という内容の報告書なんで、本来ならもっと取り上げられてもいいはずですが、共同通信系以外にはあまり報じられていないようです。文部科学関係の記者がみんな違うネタに集中しているからで泣ければ幸いですが。

 

 

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先生と様

いやそりゃ、hamachan先生なら愛称になるけれども、hamachan様では人をおちょくっとんのかということになるわな。それならただのhamachanと言え、と。

あれ、そういう話じゃなかったのか。

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(生物学的)生産性向上には婚外子促進

経済同友会のサイトに小林代表幹事の記者会見要旨が載っています。

https://www.doyukai.or.jp/chairmansmsg/pressconf/2018/180724_1824.html

外国人労働者問題について、移民積極派としての議論をしているのは予想通りですが、そのついでに婚外子に言及していたのに興味が惹かれました。

Q : 外国人労働者問題について、本日、政府の関係閣僚会議が開かれ、5業種以外にも拡大するよう、かなり準備作業が急がれている。人権、移民の問題も含めて外国人労働者のあり方をどう考えているか。

小林: いわゆる保守政治の中で、移民や婚外子の問題はタブーとされてきた。婚外子をフランスのような形でサポートして出生率を増やす、あるいは労働力が減っていくから移民を受け入れていくことまではできないにせよ、やはり今の日本の現状や将来を見越すと、外国人、それも高度なタレントを持った外国人以外にも助けてもらわないとやっていけないというのが、厳然たる事実である。農業に限らず、建設業やサービス業も含めて、そのような段階にきている。移民とは本質的には違うにせよ、一般労働者も許容していくことは自然の流れではないか。言葉の問題として、海外からの労働者に日本語を学んでいただくのも一つだが、英語を話せるのならば、オリンピックもあることだし、日本人ももっと英語を勉強して、共通語でコミュニケートするのも一つだと思っている。

なにやら世間では(経済学的意味とは全く別の、ちなみにこちらの意味でも論ずるべきことはいっぱいありますが、本ブログでも山のように取り上げてきたのでここでは省略)生物学的意味における生産性が高いとか低いとか言う議論がかまびすしいようですが、いやいや先進国で出生率が高い国というのは、軒並み結婚していない男女間でぼかすか子供が生まれているんであってね。フランスがその典型ですが。

もし本気でそういう生物学的意義における生産性を向上させたいと思っているんであれば、未婚の母を大いに奨励してその育児コストを財政的に援助すべきでしょうしl、とりわけ生物学的生産性の高いと思われる十代後半で妊娠出産しようという偉大な少女たちには、国家英雄として全面的に惜しみない支援をつぎ込むべきでしょう。間違っても、女子高生の分際で妊娠するとはけしからんと退学させるなどという亡国的政策は採ってはいけません。なにしろ、ほっとくと民族が滅亡するかも知れない危機的状況に、自らの体を張って立ち向かおうとしているわけですから。

いやもちろん、そんなふしだらを許すくらいなら民族が滅びてもよいという思想もあってもいいでしょう。それは選択の問題。ただまあ、生物何十億年の歴史に照らして首尾一貫していないと、おかしな議論になることだけは間違いないわけです。

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労働政策フォーラム「働き方改革とテレワーク」

9月26日に労働政策フォーラム「働き方改革とテレワーク」を開催しますのでお知らせ。

http://www.jil.go.jp/event/ro_forum/20180926/index.html

ICTの進展や働き方の見直しに伴い、時間や場所にとらわれない柔軟な働き方であるテレワークに対する関心が高まっています。働き方改革の推進のためにテレワークを導入し、労働時間の削減やワーク・ライフ・バランスの向上などに役立てている企業がある一方、テレワークをめぐっては労働時間の管理や社内コミュニケーションの機会の減少などの課題も指摘されています。

本フォーラムでは、先行企業の運用事例を踏まえ、働き方改革につながるテレワーク・在宅勤務のあり方について議論します。

Telework

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『ジュリスト』9月号は「人材獲得競争と法」特集

まだひと月先に出る雑誌の話ですが、これは面白そう。

http://www.yuhikaku.co.jp/jurist/nextジュリスト 次号予告

特集 人材獲得競争と法

[座談会]人材獲得競争と法の接点/泉水文雄・荒木尚志・川井圭司・多田敏明・中村天江

「事業者」の意義,発注者の共同行為と独占禁止法上の問題点/武田邦宣

発注者の単独行為と独占禁止法上の問題点/滝澤紗矢子

労働法からみた人材獲得競争/土田道夫

プロスポーツにおける人材獲得と独占禁止法/齊藤高広

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「働き方改革関連法の放置された論点」@『労基旬報』2018年7月25日号

『労基旬報』2018年7月25日号に「働き方改革関連法の放置された論点」を寄稿しました。やや辛口の批評になっていますが、実のところは、一部の人々を除き、まっとうな労働関係者、労働研究者の多くは、多かれ少なかれ、こういう思いを心中にお持ちなのではないかと拝察しています。

 去る6月29日にようやく働き方改革関連法が成立に至りました。しかし、国権の最高機関のはずの国会におけるその審議は目を覆うようなひどいものでした。

 この法案は本来、時間外労働の上限規制と同一労働同一賃金が二本柱ですが、国会ではそのいずれについてもまともに議論が行われず、法案の中で議論が集中したのは2015年に国会に提出されていた高度プロフェッショナル制度についてであり、しかもそれすら中身の議論がまともに始まったのは参議院に行ってからで、衆議院では厚生労働省の労働時間調査がいい加減でデータが間違いだらけだと責め立てたり、野村不動産で過労自殺した労働者に裁量労働制が適用されていたのにそれを隠していたのがけしからんとなじったりと、はっきり言って枝葉末節の事柄にのみ全精力を集中しているとしか思えない状況が続いていました。残された議事録の大部分を占拠しているそうしたやりとりのほとんどは、法案成立後にそれが具体的にどう施行されるべきなのかを検討する上で全く役に立たない代物です。

 そのせいで、国会論戦で詰められるべくして全く詰められないまま放置された論点は数多いのですが、その中でも重大なのは同一労働同一賃金に関わる部分です。なぜなら時間外労働規制に係る労働基準法の施行は、厚生労働省労働基準局が細かいところまで詰めて現場の労働基準監督官に指示しなければならず、基本的にはそれを受けて対応することになるからです。これに対して、同一労働同一賃金の方は基本的には民事上どういう格差は許されてどういう格差は許されないかという判断基準が未だ極めて不明確なままであり、一昨年末のガイドライン(案)や今年6月1日の最高裁判決との関係も曖昧なままだからです。本来、そういう民事上の微妙な判断基準を行政機関が勝手にあれこれと決めることはできないはずであることを考えると、そういう論点を詳細に突っ込んで質疑することこそ国民の代表の任務だったはずですが、国会議員がそれを放棄してしまった結果、ボールは再び企業の人事管理サイドに投げ込まれてしまいました。

 その上で、最後に付けられた付帯決議では、その実施方法についてこういう意味深長な条項が含まれています。

三十二、パートタイム労働法、労働契約法、労働者派遣法の三法改正による同一労働同一賃金は、非正規雇用労働者の待遇改善によって実現すべきであり、各社の労使による合意なき通常の労働者の待遇引下げは、 基本的に三法改正の趣旨に反するとともに、労働条件の不利益変更法理にも抵触する可能性がある旨を指針等において明らかにし、その内容を労使に対して丁寧に周知・説明を行うことについて、労働政策審議会において検討を行うこと。

 これは、同一労働同一賃金を口実にした「各社の労使による合意なき通常の労働者の待遇引下げ」を抑止しようとするものですが、裏返していえば、通常の労働者の待遇引き下げをやるのであれば「各社の労使による合意」でもってやれという意味でもあります。しからばその「各社の労使」の「労」とは何か、労働組合だけか、といえば狭すぎますし、36協定の過半数代表者みたいなものでもいいのか、となると余りにも緩すぎるでしょう。実はここに、集団的労使関係システムをめぐる大問題-新たな従業員代表制を創設すべきか否か?という問題-が孕まれているのですが、残念ながら肝心の国会はその点を掘り下げて論じてくれてはいないようです。

 この論点こそ、この欄でもこれまで何回か取り上げてきた、非正規労働問題の解決の道筋として集団的労使関係システムを活用しようという議論の中核に位置します。2013年7月に労働政策研究・研修機構の「様々な雇用形態にある者を含む労働者全体の意見集約のための集団的労使関係法制に関する研究会」(座長:荒木尚志)の報告書が提起した、新たな従業員代表制の整備という政策課題を、働き方改革関連法の実施に向けた議論の中で、改めて提起していく必要があると思われます。

 

 

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