2017年9月24日 (日)

「何となく文学部」よりもっとヤバいのは・・・

「BEST T!MES」(ベストタイムズと読むのでしょうか)というサイトの「新・教育論」というコラムに、「「何となく文学部」はヤバすぎる。大学選びの新常識」という記事が載っています。

http://best-times.jp/articles/-/6895

副題に「もう「つぶしの効く」学部など存在しない。「ジョブ型」への転換を」とあるので、ジョブ型教育への転換を訴えているのは確かだと思うのですが、正直言って、文学部って、もともと「つぶしの効く学部」だとは思われていなかったように思います。

メンバーシップ型雇用慣行にベストフィットして繁殖してきたのは、それ以外の一見職業レリバンスがありそうで、実は単なる一般的サラリーマン養成以外ではなかった文系学部、とりわけ経済学部だったんじゃないの?と思いますが。

その意味では、この記事は、文学部という叩きやすい犠牲の羊を血祭りに上げて見せているだけで、問題の本質からむしろ目を逸らせてしまっているのではないかと。

いうまでもなく、法学部だって法曹や法務担当者になる一部の人にとっては職業レリバンスがあるし、経済学部だって、内閣府で経済分析をする人や一部シンクタンク等で活躍するエコノミストになる人にとっては意味のある職業教育機関でしょう。しかし、当該学部を卒業する学生の大部分、経済学部の場合には殆ど全てにおいては、そうではないから、そしてそうではないにもかかわらずそれが一般的サラリーマン養成ギプスとして通用してきているからあれこれ論じられるわけです。

それに対して、文学部はそれなりに立派です。まず、文学部卒業生にとってもっとも良好な雇用機会は当該専門分野におけるアカデミックな研究職であって、これは法学部や経済学部と大きく異なるところです。これは裏返していえば、メンバーシップ型の日本の労働社会において、個々の学んだ内容はともかく、文学部に行こうなどという性向自体が、必ずしも適合的ではないと見なされてきたことがあるのでしょう。

実を言うと、にもかかわらず高度成長期に文学部がこれほど異常に肥大化したのは、嫁入り道具としての文学部という特殊事情があったからですが、これはこれで(皮肉ですが)一種の永久就職への職業レリバンスだったと言えないことはありません。それを抜きにしていうと、文学部卒というのは少なくとも法学部や経済学部に比べれば一種のスティグマを受けるものであったことは確かなので、それをつかまえて「「何となく文学部」はヤバすぎる」というのは、いささか見当外れの感が否めないわけです。

本当にヤバいのは他の文系学部、とりわけ法学部のように法律専門家になるか細い道があるところと比べても、経済分析を職業とする人になる可能性は絶無に近い経済学部ではないかと思うのですがね。

(参考)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_c7cd.html (哲学・文学の職業レリバンス)

一方で、冷徹に労働市場論的に考察すれば、この世界は、哲学や文学の教師というごく限られた良好な雇用機会を、かなり多くの卒業生が奪い合う世界です。アカデミズム以外に大して良好な雇用機会がない以上、労働需要と労働供給は本来的に不均衡たらざるをえません。ということは、上のコメントでも書いたように、その良好な雇用機会を得られない哲学や文学の専攻者というのは、運のいい同輩に良好な雇用機会を提供するために自らの資源や機会費用を提供している被搾取者ということになります。それは、一つの共同体の中の資源配分の仕組みとしては十分あり得る話ですし、周りからとやかく言う話ではありませんが、かといって、「いやあ、あなたがたにも職業レリバンスがあるんですよ」などと御為ごかしをいってて済む話でもない。

職業人として生きていくつもりがあるのなら、そのために役立つであろう職業レリバンスのある学問を勉強しなさい、哲学やりたいなんて人生捨てる気?というのが、本田先生が言うべき台詞だったはずではないでしょうか。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_bf04.html (職業レリバンス再論)

哲学者や文学者を社会的に養うためのシステムとしての大衆化された大学文学部システムというものの存在意義は認めますよ、と。これからは大学院がそうなりそうですね。しかし、経済学者や経営学者を社会的に養うために、膨大な数の大学生に(一見職業レリバンスがあるようなふりをして実は)職業レリバンスのない教育を与えるというのは、正当化することはできないんじゃないか、ということなんですけどね。

<追記>

http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20060417

「念のために申しておきますとね、法律学や会計学と違って、政治学や経済学は実は(それほど)実学ではないですよ。「経済学を使う」機会って、政策担当者以外にはあんまりないですから。世の中を見る眼鏡としては、普通の人にとっても役に立つかもしれませんが、道具として「使う」ことは余りないかと……。」

おそらく、そうでしょうね。ほんとに役立つのは霞ヶ関かシンクタンクに就職した場合くらいか。しかし、世間の人々はそう思っていないですから。(「文学部に行きたいやて?あほか、そんなわけのわからんもんにカネ出せると思うか。将来どないするつもりや?人生捨てる気か?なに?そやったら経済学部行きたい?おお、それならええで、ちゃあんと世間で生きていけるように、よう勉強してこい。」・・・)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_722a.html (なおも職業レリバンス)

歴史的にいえば、かつて女子の大学進学率が急激に上昇したときに、その進学先は文学部系に集中したわけですが、おそらくその背景にあったのは、法学部だの経済学部だのといったぎすぎすしたとこにいって妙に勉強でもされたら縁談に差し支えるから、おしとやかに文学でも勉強しとけという意識だったと思われます。就職においてつぶしがきかない学部を選択することが、ずっと仕事をするつもりなんてないというシグナルとなり、そのことが(当時の意識を前提とすると)縁談においてプラスの効果を有すると考えられていたのでしょう。

一定の社会状況の中では、職業レリバンスの欠如それ自体が(永久就職への)職業レリバンスになるという皮肉ですが、それをもう一度裏返せば、あえて法学部や経済学部を選んだ女子学生には、職業人生において有用な(はずの)勉強をすることで、そのような思考を持った人間であることを示すというシグナリング効果があったはずだと思います。で、そういう立場からすると、「なによ、自分で文学部なんかいっといて、いまさら間接差別だなんて馬鹿じゃないの」といいたくもなる。それが、学部なんて関係ない、官能で決めるんだなんていわれた日には・・・。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/05/post_8cb0.html (大学教育の職業レリバンス)

前者の典型は哲学でしょう。大学文学部哲学科というのはなぜ存在するかといえば、世の中に哲学者という存在を生かしておくためであって、哲学の先生に給料を払って研究していただくために、授業料その他の直接コストやほかに使えたであろう貴重な青春の時間を費やした機会費用を哲学科の学生ないしその親に負担させているわけです。その学生たちをみんな哲学者にできるほど世の中は余裕はありませんから、その中のごく一部だけを職業哲学者として選抜し、ネズミ講の幹部に引き上げる。それ以外の学生たちは、貴重なコストを負担して貰えればそれでいいので、あとは適当に世の中で生きていってね、ということになります。ただ、細かくいうと、この仕組み自体が階層化されていて、東大とか京大みたいなところは職業哲学者になる比率が極めて高く、その意味で受ける教育の職業レリバンスが高い。そういう大学を卒業した研究者の卵は、地方国立大学や中堅以下の私立大学に就職して、哲学者として社会的に生かして貰えるようになる。ということは、そういう下流大学で哲学なんぞを勉強している学生というのは、職業レリバンスなんぞ全くないことに貴重なコストや機会費用を費やしているということになります。

これは一見残酷なシステムに見えますが、ほかにどういうやりようがありうるのか、と考えれば、ある意味でやむを得ないシステムだろうなあ、と思うわけです。上で引いた広田先生の文章に見られる、自分の教え子(東大を出て下流大学に就職した研究者)に対する過剰なまでの同情と、その彼らに教えられている研究者なんぞになりえようはずのない学生に対する見事なまでの同情の欠如は、この辺の感覚を非常に良く浮かび上がらせているように思います。

・・・いずれにせよ、このスタイルのメリットは、上で見たような可哀想な下流大学の哲学科の学生のような、ただ研究者になる人間に搾取されるためにのみ存在する被搾取階級を前提としなくてもいいという点です。東大教育学部の学生は、教育学者になるために勉強する。そして地方大学や中堅以下の私大に就職する。そこで彼らに教えられる学生は、大学以外の学校の先生になる。どちらも職業レリバンスがいっぱい。実に美しい。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/post-f2b1.html (経済学部の職業的レリバンス)

・・・ほとんど付け加えるべきことはありません。「大学で学んできたことは全部忘れろ、一から企業が教えてやる」的な雇用システムを全面的に前提にしていたからこそ、「忘れていい」いやそれどころか「勉強してこなくてもいい」経済学を教えるという名目で大量の経済学者の雇用機会が人為的に創出されていたというこの皮肉な構造を、エコノミスト自身がみごとに摘出したエッセイです。

何かにつけて人様に市場の洗礼を受けることを強要する経済学者自身が、市場の洗礼をまともに受けたら真っ先にイチコロであるというこの構造ほど皮肉なものがあるでしょうか。これに比べたら、哲学や文学のような別に役に立たなくてもやりたいからやるんだという職業レリバンスゼロの虚学系の方が、それなりの需要が見込めるように思います。

ちなみに、最後の一文はエコノミストとしての情がにじみ出ていますが、本当に経済学部が市場の洗礼を受けたときに、経済学部を魅力ある存在にしうる分野は、エコノミスト養成用の経済学ではないように思われます。

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2017年9月22日 (金)

全基連メルマガで労働基準監督官を描いた実録風小説「気迫の31DAYS」が連載

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全国労働基準関係団体連合会(全基連)のメルマガで、労働基準監督官を描いた実録風小説「気迫の31DAYS」が連載されるそうです。

その連載のお知らせに曰く:

不慮の事故で両親を失い、支え合って生きてきた妹真理を心配する姉恵理からの「真理は7時には出勤、毎日終電帰りで休日も出勤し、この6か月間に体調を壊した日を含め3日しか休めていない」旨のSOSの手紙を受けて、若井第一方面主任労働基準監督官、労働基準監督官遥、同浦口五郎は異例の3人という陣容で定期監督を装って10月5日に(株)JOCを臨検監督した。しかし、呈示を求めた書類上は、残業時間、休日出勤や割増賃金のいずれにも、不審な点はなく格別の問題は発見されなかった。
恵理からの手紙との違いに怪しいと踏んだ3人は、当然、それで引き下がったわけではなく、翌日からJOC本社への深夜に及ぶ張り込みを交替で始めた。そして、10月10日(日)の夕刻、翌日の面談に備えて恵理と連絡を取ろうと姉妹の自宅に掛けた遥の電話に応対したのは所轄警察署の既知の須崎係長だった。
「こちらのお嬢さんが亡くなっていてどうも自殺らしいんですが?」
「自殺?」
「ええ、お姉さんが帰宅してみると書置きがあったと。」
「書置き?」
「ええ、『お姉さん、ごめんなさい。父さんや母さんに会いたい』とだけ!」
「お姉さんは?」
「それが・・・妹は会社に殺されたというだけで要領を得ないのですよ。」
「須崎さん、その話はこちらも情報を持っています。後で、情報交換しましょう。妹さんはどんな状況でしょうか?」
「ええ、風呂場でのリストカットです。お姉さんは泣くばかりで何を聞いても同じことを繰り返すだけなんです。」

その日のうちに、過特(かとく)を総動員して所轄労働局に捜査本部を設置するとともに、深夜の内定を継続することが決定された。
被疑会社へのガサ(強制捜索)、被疑者企画課長・参考人の取調べの状況やマスコミ対応、所轄労働局や厚生労働本省の動きなどが時を追って臨場感あふれるタッチで小説は進みます。
感働きの鋭い園田署長の指揮の下、呻吟しながら捜査を進める監督官とそれぞれの思いに、行きつけの藍染め暖簾の「おふくろ」では見目麗しい労働局長との触れ合いなどを織り込みながら、11月5日(金)に書類送検するまでを描いたドキュメンタリー風小説「気迫の31DAYS」の連載が始まります。ご期待ください。

というわけで、メルマガの配信申込みはこちらから

https://www.zenkiren.com/mailmag/new-form.html

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労働行政の新たな動きなどのほか他に類例のない情報として、労基署による送検事例を収録しています。

とのことです。

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「日本はなぜここまで教育にカネを使わないのか」への答え

ニューズウィーク日本版に、舞田敏彦さんによる「日本はなぜここまで教育にカネを使わないのか」という文章が載っています。

http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2017/09/post-8491.php

本ブログでも再三取り上げてきたOECDのデータ等を使って、「日本はいかに教育にカネを使わないのか」を提示しているのですが、文章を最後まで読んでも、「日本はなぜここまで教育にカネを使わないのか」という問いかけもなければ、「それは・・・・だからだ」という答えも書かれていません。

まあ、タイトルは編集部が勝手につけたのかも知れないので、舞田さんの責任とは言えないかも知れませんが、タイトルを見て答えが書かれていると思った人の欲求不満を、僭越ながら拙文を引用して少しでもなだめてみたいと思います。

Hyoshi32昨年『POSSE』32号に載せた「日本型雇用と日本型大学の歪み」からです。

・・・矢野眞和さんは『「習慣病」になったニッポンの大学』(日本図書センター、2011年)で、日本型大衆大学を日本型家族と日本型雇用と三位一体のシステムと捉え、その諸外国に類をみない18歳主義、卒業主義、親負担主義という3つの特徴を指摘しています。ここで言う日本型家族というのは大学の授業料を親が負担するという点に着目したものですから、それを可能にするような年功的な生活給を企業が労働者に支払うことを含意しています。かつては大学進学率自体が極めて低かったのですから、子どもが成人に達した後まで親の生活給で面倒をみるのが当たり前というのは、1970年代以降に確立したごく新しい「日本型」システムであることに留意すべきでしょう。

 そして、「日本型」システムが常識化していくとともに、それ以前に世界標準に近い形で形成されていた制度は、非常識なものとして急速に「日本型」に適合するような形に変形されていきます。国立大学の授業料は1975年の3.6万円から1980年に18万円に上昇し、21世紀には50万円を超えるに至りました。私立大学は80万円を超えています。親がそれだけの給料をもらっていることを前提とすれば、まことに常識に沿ったやり方だったのでしょう。

 一方、本号の特集との関係でいえば、奨学金制度を有利子による金融事業へと大きく転換させた1984年日本育英会法改正は、学校卒業後誰もが日本型雇用システムの中で年功賃金を受け取っていくことを前提とした仕組みです。1980年代の改革を後の新自由主義につながるものとして解釈することも可能ですが、日本型雇用システムへの賞賛が最盛期に達していた時代であり、その時代の精神的刻印を濃厚に受けているということを忘れてはならないでしょう。授業料の引き上げも、奨学金の金融化も、少なくともその始まった時代には「常識」に合わせるための改革だったのです。しかし、その「常識」はやがて周辺部から崩れていきます。

・・・日本型雇用の収縮は年功賃金を享受してきた中高年層にも及びます。拙著『日本の雇用と中高年』(ちくま新書、2014年)では、90年代以降のリストラが中高年労働者、とりわけ管理職クラスを狙い撃ちしたこと、追い出し部屋に送り込まれ、意に反して「希望」退職を強いられたことを述べました。しかしより広範で重要なのは、ヒト基準の職能給制度を維持したまま、(本来は職務を明確に定義することが前提であるはずの)成果主義賃金制度を大幅に導入し、「成果が上がっていない」という理由で年功的に高賃金になる多くの中高年労働者の賃金カーブを引き下げようとしたことです。そのこと自体は、(手法の是非を別とすれば)合理的と評価しうる面もあります。

 しかしながら、日本型雇用における中高年の高賃金とは、西欧諸国であれば公的な社会保障で賄われているはずの教育費や住宅費といった必然的生活コストを個別企業の賃金で賄うという意味がありました。だからこそ、70年代以降先進諸国と同様に高等教育進学率が急速に上昇していったにもかかわらず、その費用の大部分を公的負担ではなく私的負担で賄うことができたのです。その私的負担を可能にしたのは、学生の親(父親)の年功的高賃金でした。矢野眞和さんのいう「親負担主義」の雇用システム的基盤です。それが90年代以降企業の経営合理性を理由に攻撃対象となったにもかかわらず、それを公的負担にシフトさせていこうというような声はほとんど上がることはありませんでした。こちらもやはり、90年代以降世の中を席巻したネオリベラリズムが原理的に私的負担を正当化する方向に働いたからです。

 親の年功賃金が徐々に縮小していく中で、等しく私的負担といってもその負担主体は次第に学生本人にシフトしていかざるを得ません。こうして、かつては補完的収入であった奨学金やアルバイト収入が、それなくしては大学生活を送ることができないほど枢要の収入源となっていきます。学生本人の現在の労働報酬と将来の労働収入(を担保にした借入)によって高等教育費を賄うべきという考え方は、それ自体は市場原理主義という一つの思想から正当化され得ます。しかし、それはそういう形で正当化されて成立した仕組みではありません。日本型雇用に基づく年功賃金を所与の前提とする親負担主義に立脚して作られた仕組みです。それがいつの間にか、ネオリベラリズム的な本人負担主義にすり替えられていたのです。

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長野県が勤務間インターバル制

01dc_banner01既に各紙で報じられていますが、長野県が休息時間制度、いわゆる勤務間インターバル制を試行実施するとのことです。

http://www.pref.nagano.lg.jp/jinji/0921press.html

県庁において「勤務間インターバル制」の試行を実施します

県では、働き方改革による総労働時間の短縮や職員のワークライフバランスの推進に取り組んでいます。

 この一環で、職員が十分な生活時間や睡眠時間を確保し、健康を維持しながら生産性の高い働き方を可能とするため、仕事を終えてから次に働き始めるまでの休息時間(インターバル)を一定時間確保する新たな視点からの取組「勤務間インターバル制」を試行します。

1 実施期間・所属

 ○ 平成29年10月2日(月)から12月28日(木)までの3ヶ月間

 ○ 県警本部を除く本庁所属(知事部局、教育委員会、企業局等)において実施[対象約1,800人]

   (本庁試行の状況を踏まえて現地機関の試行を検討)

2 実施内容

 ○ 災害などの臨時業務を除き、休息時間は最低でも11時間を確保します。

 ○ やむを得ず21時30分以降の時間外勤務を行う場合は、原則遅出勤務を実施します。

   ※遅出勤務:X勤務(9:00~17:45)、Y勤務(9:30~18:15)、Z勤務(10:00~18:45)を活用

     10時の勤務開始が再遅であることから、11時間前である23時以降の時間外勤務は原則NG

 ○ 試行の状況等を踏まえ、試行後の対応について検討します。

   ※行政サービスが低下しないよう執務時間(8:30~17:15)や窓口の開設時間は変更しません。

突然の解散風で、今年中の労働時間設定改善法改正による努力義務の規定はちょっと先に伸びたようですが、いずれにしても世間の気運の醸成という意味では、こういう地方自治体の試みはもっとあっていいと思います。

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個人請負(contractor)を「契約社員」と訳してはいけない

ウォール・ストリート・ジャーナル日本語版に、英文記事の邦訳が載っていて、内容はなかなか興味深いのですが、タイトルが完璧に間違っているのでどうしようもない。

http://jp.wsj.com/articles/SB10663294989566513588704583403403159054028 (米国の契約社員、キャリアには遠い「二流」)

Bnvc773_0914tw_p_20170914071520 え!?アメリカに「契約社員」だって?

副題を見ると、「社員ではない非正規労働者は数百万人、その知られざる実態は」とあって、やはり日本人、というか労働問題の普通の日本語の用法に慣れた日本人を惑わせます。

ジョージア州アトランタに住むマイケル・プレイスさん(59)は、2001年に IBM から解雇されたとき、社内のつまらない仕事から解放されることを喜んだ。それからさまざまな企業と契約し、業務の迅速化やコスト削減を手助けする仕事を請け負うようになった。仕事が途切れることはなく、彼の稼ぎは年収10万ドル(現在のレートで約1100万円)を超えた。

 だがそのうちに仕事がぱったりと来なくなった。過去10年間は企業のアウトソーシング(外部委託)業務の職を転々としたが、収入は減る一方だ。いつ首になるかという不安にかられ、たとえ机を並べていても正社員は別世界に生きていることを思い知らされた。プレイスさんはあるマネジャーに叱責(しっせき)を受けたが、原因は自分の笑い声が大きすぎるという社員の苦情だった。

 「私のキャリアはぼろぼろだ」とプレイスさんは話す。「もう何の意味もない」・・・

ちょっと待てよ、それって契約社員とか非正規労働者とかじゃなくって、非雇用の個人請負じゃないのか?

確かに先を読み進めていくと、そう書いてあります。

・・・米国には現在、重労働や事務処理などの作業を引き受ける契約社員(訳注:米国では業務請負契約を結んだ個人事業主など)が数百万人いる。企業は社員の一部をこうした委託労働者に交代させている。今後4年以内に米国の民間セクターの労働者の半数近くが、少なくとも一定期間は契約社員や派遣社員などの非正規労働者を経験することになると、専門職の個人事業者にサポートサービスを提供するMBOパートナーズは見込んでいる。

おいおい、それを「契約社員」という、法律用語ではないけれども労働関係ではもっともポピュラーな直接雇用有期契約労働者を指す日本語で呼ぶんじゃないよ。

無期契約労働者といえども解雇自由なアメリカでは、わざわざ期間を定めたれっきとした労働者を雇う意味はあんまりありません。有期だから斬りやすいわけではないとはいえ、雇用労働者としての労働者保護や社会保険負担はかかってくるので。なので、労働者じゃない個人請負にしたがるインセンティブが働くわけです。

そういう話を全部すっ飛ばして、いきなりタイトルから「契約社員」と言われたのでは情けなくって涙が出ます。

というか、この「契約社員」という言葉、単に原文の「contractor」に引っ張られただけのようですが。

http://jp.wsj.com/articles/SB10663294989566513588704583403403159054028 (The Second-Class Office Workers)

副題に曰く:「For millions of Americans who work as contractors, real careers are out of reach and each day brings reminders that they live in a different world than the employees sitting nearby.」

いや、contractorというのは請負人という意味であって、日本語の契約社員とは全く別だから。

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2017年9月20日 (水)

労働4・0と労働法制@『労働法律旬報』9月上旬号

1895 『労働法律旬報』9月上旬号が「労働4・0と労働法制」という大変面白そうな特集を組んでいます。

http://www.junposha.com/catalog/product_info.php/products_id/1195?osCsid=09u3cqk3a28prsmf1jo3jlnco7

[特集]労働4・0と労働法制・・・06

デジタル化とAIの労働市場と労働法への影響=高橋賢司・・・07

日本における労働者概念と労働契約―「労働4・0」において「労働者」の定義は変わるのか?=橋本陽子・・・13

プラットホームエコノミーと労働法上の使用者=浜村 彰・・・18

日本における職業安定法と労働力の需給調整に関わる事業の法規制―現状と課題=有田謙司・・・25

日本における労働世界のデジタル化と労使関係(法)=榊原嘉明・・・30

やや出遅れ気味であった日本でも、最近になっていくつかの雑誌でこの手の特集が組まれてきています。

H1300x404 今年だけでも、金属労協の『JCM』が「第4次産業革命とものづくり産業の未来」を、

http://www.jcmetal.jp/news/kouhou/kikanshi2/20809/

20170809 JILPTの『ビジネス・レーバー・トレンド』が「働き方の未来」を、

http://www.jil.go.jp/kokunai/blt/backnumber/2017/0809/index.html

それぞれ特集しています。ちなみに、いずれにも私と山本陽大さんが登場しており、山本さんはドイツの労働4.0を紹介しています。

今回の『労旬』の特集号は、日独労働法協会が今年5月にドイツで行った日独シンポジウムにおける日本側報告とのことで、やや日本の現状報告という色彩が強いですが、上記諸論文の中では、最後の榊原さんの労使関係(法)にあえて論及したものが一番面白く読めました。

私も、労働のデジタル化に関わる諸問題の中で、現在の日本で一番論じられるべくして論じられていないテーマは、集団的労使関係システムに関わる問題だと思っているからです。

榊原さんが提起する論点はいくつもあるのですが、中でも他に殆ど誰も論じていないと思われるのは、労働組合の労働者供給事業の可能性を論じている部分です。

Show_image 実は今から5年前の『労旬』で労組労供事業についてのシンポジウムに出たとき、わたしはこういうことを述べたことがあるのですが、

・・・・労組労供の法制そのものについては、行政当局も何も考えずに、戦前の労務供給事業を見て「労働者供給とは事実上の支配関係だ」とか言っているだけで、そもそも労組労供とは一体何であるかをきちんと定義していない。私は、独自の見解を持っております。だれも賛成してくれないんですが、労組労供は労働者協同組合(労協)であるという意見です。

労働者協同組合もまた法制化しようとして、いろいろもめているんですが、物的な事業そのものを労働者が集まって労力を出し合って協同組合でやるというものです。そして、その事業の中身が労働力の供給であるのが労組労供であると考えるのが、法制的には一番素直なのではないかと思っています。

そう説明すれば、労組労供が今まで悩み苦しんできた事業主体性の問題や、誰がどう支払うかといった問題を、一刀両断できるのではないでしょうか。・・・

その時にはまだデジタル化というような話は全然想定外でしたが、この議論は意外に繋がってくるのではないかという気がしています。

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「労働契約法9条『合意』の出所」@『労基旬報』2017年9月25日号

『労基旬報』2017年9月25日号に「労働契約法9条『合意』の出所」を寄稿しました。

 おそらくここ数年間の労働法学の世界で最もホットな論争点の一つになっているのが、労働契約法第9条の反対解釈をめぐる議論でしょう。同条は「使用者は、労働者と合意することなく、就業規則を変更することにより、労働者の不利益に労働契約の内容である労働条件を変更することはできない。ただし、次条の場合は、この限りでない。」と規定しています。この「労働者と合意することなく」という文言を反対解釈して、労働者と同意すれば就業規則を変更して不利益変更することができると解釈するのか(合意基準説)、次の第10条に基づいて合理性審査が必要と解釈するのか(合理性基準説)をめぐる論争です。詳細は労働法の教科書や論文に書かれていますのでここでは解釈論には一切踏み込みません。ここで論じたいのは、確立した判例法理を「足しもせず、引きもせず」立法化したはずの労働契約法の文言からなぜこうした問題が飛び出してきてしまったのか、という立法学的検討です。
 この「労働者と合意することなく」という文言が初めて登場するのは、2007年1月25日の労政審労働条件分科会(以下「分科会」)に諮問された労働契約法案要綱においてです。しかし同日の議事録を見ても、「原則としてできない、ただし・・・」という点については議論になっていますが、この「合意」自体は議論になっていません。そもそも法案作業では通常、法案要綱として諮問される前にほぼそれに対応する中身が建議/答申としてまとめられるもので、これについても2006年12月27日に「今後の労働契約法制の在り方について」答申がされています。そこでは「就業規則の変更による労働条件の変更」として「就業規則の変更による労働条件の変更については、その変更が合理的なものであるかどうかの判断要素を含め、判例法理に沿って、明らかにすること。」と書かれていました。「労働者と合意することなく」という文言は、少なくとも厚生労働省当局は「判例法理に沿っ」たものと理解しており、分科会の委員も特に異議を唱えていなかったことがわかります。
 しかし問題はむしろ、それまでの諸判決には明確にそういう文言が存在しないにもかかわらず、「労働者と合意することなく」という文言が判例法理に沿ったものとして立法過程に入り込んできたのはなぜかという点にあります。それを理解するには、それに先立つ分科会の審議において、労働側委員が繰り返し合意原則の重要性を主張したことを認識する必要があります。詳しくは「集団的労使関係法としての就業規則法理」(『季刊労働法』2007年冬号(219号))に書きましたが、分科会の議事録を読んでいくと、労働側委員が「契約法上は、契約というのは当事者双方の合意であり、合意がなければ法的効果は何も発生しないはず」とか「市民社会のルールの基本的な契約のルールというのは当事者の合意」といった、学者や弁護士ならいざ知らず、労働組合の意見とは到底思えないような発言を繰り返しており、民法の私的自治原則を強調する方向に引っ張っているのです。西村分科会長が皮肉混じりに「就業規則法制・・・ああいうものはもう古いモードなので、脱ぎ捨ててやめてしまったらどうかとおっしゃるのだったら、奥谷委員もすごく喜ぶのではないか」、「我々が労働法の授業をやるときには、市民社会のルールというところから出発するわけで、まずは出発点なのですが、その出発点は21世紀ではなく、18世紀と言うか、19世紀と言うか。それは労働者にとってはハッピーではなく、どちらかというと不幸ですよね」というほど、労働組合は市民法の合意原則を高く掲げていたのです。
 実は、今後の労働契約法制の在り方に関する研究会が2005年9月にまとめた報告書では、判例法理を維持するのではなくあえて集団的合意原則を加え、「過半数組合が合意した場合または労使委員会の委員の5分の4以上の多数により変更を認める決議があった場合には、変更後の就業規則の合理性が推定される」という立法を提案していたのです。分科会でも、2006年4月11日の「検討の視点」や6月13日の「在り方について(案)」ではさまざまなバリエーションを含みつつ同様の提案がされていたのですが、9月11日の「今後の検討について(案)」では「わが国では就業規則による労働条件の決定が広範に行われているのが実態であることにかんがみ、就業規則の変更によって労働条件を集団的に変更する場合のルールや使用者と当該事業場の労働者の見解を求めた過半数組合との間で合意している場合にルールについて検討を深めてはどうか」とかなり後退し、11月21日の「今後の労働契約法制について検討すべき具体的論点(素案)」では、集団的合意原則は完全に影を潜め、判例法理そのままに現行第10条の原型が示されています。

イ 使用者が就業規則を変更し、その就業規則を労働者に周知させていた場合において、就業規則の変更が合理的なものであるときは、労働契約の内容は、変更後の就業規則に定めるところによるものとすることとしてはどうか。
ロ  上記イの「合理的なもの」であるかどうかの判断要素は、次に掲げる事項その他の就業規則の変更に係る事情としてはどうか。
ⅰ  労働組合との合意その他の労働者との調整の状況(労使の協議の状況)
ⅱ  労働条件の変更の必要性
ⅲ  就業規則の変更の内容

 しかしこれに対しても、労働側は判例法理そのままではないと批判します。原点の秋北バス事件最高裁判決は「就業規則の変更により、一方的労働条件の変更は、原則できない」と言っているではないか、できないのが原則であって例外が変更法理なのだから、その通り書け、と。この時の労働側の議論は、判断要素の冒頭に労働組合との合意が出てくるのがおかしい、「労働組合による変更、プロセスが際立って第1番目に出てきますので、そこは重視されるという裁判所の判断が出てこないかと危惧」するなどという、到底労働運動の言葉とは思えないような労働組合不信論を振り回すに至っています。
 かくも集団的合意原則を否定し、労働者個人の市民法的合意原則の明記を強く要求した労働側の努力の結実が、上記労働契約法案要綱であったわけです。とりわけ、答申案が示される直前の12月12日に、多くの労働法学者が「就業規則変更法理の成文化に再考を求める労働法研究者の声明」(『季刊労働法』216号所収)において、「たとえ合理性の要件に制約されるとはいっても、使用者による一方的な労働条件決定・・・を認める法理は、契約法としては極めて特異であり、契約原理に悖るものといわざるを得ない」と批判し、「個別契約当事者間における契約変更方法の検討のための努力」を求めていたことが重要です。12月27日の分科会では労働側からこの声明が「理屈としては全くそのとおり」と紹介されています。判例法理に「何も足さない、何も引かない」と言いつつ、その判例法理を「契約原理に悖る」と批判する議論に対して、厚生労働省が出した答えが、判例法理に「労働者と合意することなく」という市民法的合意原則の文言を「足す」ことであったわけです。そして上述したように、この「足」した部分に対して、いまや市民法原理の守護神となった労働側はなんら文句をつけようとはしなかったのです。
 市民法的合意原則への熱狂が収まると、もともと労働法がそこから生まれてきた労働者個人の弱さという原点が再び露呈してきます。19世紀的市民社会のルールは、必ずしも労働者にとってハッピーではなく、不幸の元でもありうるという、労働法の教科書の冒頭に必ず書かれている常識が戻ってきます。労働者の個別合意を使って就業規則を変更するという事例がいくつも出現し、それをめぐって労働法学者が論争するという現在の状況が生み出されてきたのです。ただ、いかにも皮肉なのは、判例法理に「足」された「労働者との合意」を現在批判している学者の多くが、それを生み出した判例法理を「契約原理に悖る」と批判していた人々であることでしょう。
 そして、私の目から見て最大の問題は、就業規則の問題が結局市民法的個別合意原則と使用者の一方的決定プラス裁判所の合理性判断という二者択一の袋小路に閉じ込められたままであるということです。「労働条件の集合的処理、特にその統一的かつ画一的な決定を建前とする就業規則の性質」に即した集団的労使関係を活用した集団的合意原則の可能性は、その旗手であるはずの労働側によってほとんど全面的に否定されて以来、復活の兆しすら見えません。「集団的労使関係法としての就業規則法理」は未だに論文のタイトルのままです。

 

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2017年9月19日 (火)

八代尚宏『働き方改革の経済学』

07539 八代尚宏さんより近著『働き方改革の経済学』(日本評論社)をお送りいただきました。いつもありがとうございます。

https://www.nippyo.co.jp/shop/book/7539.html

八代さんの今までの本と同様、日本型雇用システムを過度に前提とした法制度や政策の見直しを主張するもので、タイトルは今風ですが、中身はまったくぶれはありません。

そして、とかく一知半解の諸氏によく見られる、日本は世界で一番解雇法制が厳しい国だとかいうたぐいの、雇用システムと法制度との相互作用関係を見落とした議論ではなく、まさにわたくしの議論とよく響き合うような理論展開を、各章ごとに見事に示している点も、私が本ブログで紹介するたびに高く評価してきた点でもあります。

たとえば、第2章の解雇の金銭解決を取り上げた章でも、この目次を見ればわかるように、

第2章 解雇の金銭解決ルールはなぜ必要か

 1.日本の雇用契約の特殊性

 2.日本の雇用規制の現状

 3.解雇の紛争解決の手段

 4.解雇無効時の取り扱い

 5.解雇の金銭補償ルールをめぐる政治的対立

まずは「日本の雇用契約の特殊性」からきちんと論じていきます。ここを抜きにして日本は解雇できない云々というのはナンセンスであるということを、ちゃんとわかって論じているのかそうでないのかで、論者のレベルを測ることができます。八代さんはちゃんとこう論じた上で、法制のあり方を論じています。

・・・すでにみたように日本の大企業では、雇用保障の代償として広範な人事権を前提とした業務命令が労働者に受け入れられている。この無限定な働き方は裁判上も尊重されており、家族の事情等から頻繁な配置転換や転勤命令に従えない社員の解雇が裁判所で有効と判断される事例もある。これは同時に企業の広範な人事権に従ってさえいれば、懲戒事由に相当する場合以外で、単なる「仕事能力の不足」程度で解雇することは、社会的に妥当ではないという裁判官の判断とも整合的である。・・・

その意味で、表層だけ見て八代さんは自分と同じ意見だと思っている一知半解諸氏と八代さん自身との距離は大きいものがあります。

さらに、第3章の同一労働同一賃金を取り上げた章を読んでいくと、官邸主導のガイドラインに対して大変厳しい批判の矢を向けていて、その論調はほとんど遠藤公嗣さんや木下武男さんと極めて近いものがあることがわかるはずです。

第3章 竜頭蛇尾の同一労働同一賃金改革

 1.年功賃金を維持したままでの「同一賃金」は論理矛盾

 2.働き方改革ガイドライン

 3.同一労働同一賃金は賃下げを意味するか

 4.同一賃金実現のために必要な法改正

 5.労働契約法の2018年問題

これはかつて本ブログで取り上げたことがありますが、賃金制度論に関していえば、メンバーシップ型の正社員型年功賃金制に対する批判の厳しさという点で、うかつな人々がつい政治的コンパスで両極に置きがちな八代さんと遠藤さんらが、その主張はほとんど同型的であるということを、せめてマスコミで労働問題を報じるような立場にある人はきちんとわきまえておく必要があると思われます。

この両者の共通性は、世間の同一労働同一賃金論が、正社員の賃金引下げには曖昧ないし否定的な姿勢であるのに対し、正面から正社員の賃下げを提起する点にもあります。たとえば八代さんは、

・・・第3に、正社員の賃金が家族の生計費とともに引き上げられる生活給が「人間らしい働き方」という論理がある。これについては、職務給が大部分の欧米の労働者は非人間的な働き方かという反論がありうる。年功賃金は企業の恩恵ではなく、途中で退職すると不利になることで労働者を企業内に閉じ込める手段であるとともに、欧米にはない人事権の裁量性の高さの代償でもある。・・・

と語りますが、一方遠藤さんは前に紹介した『労働情報』への寄稿で、

・・・ 「同一価値労働同一賃金をめざす職務評価」によって賃金額を決めると、大企業の正規労働者の賃金額は現在より低くなる可能性がある。現在の賃金額は職務基準で決まっていないからである。この点で、・・・属人基準の賃金が低くなるべきでないかのように述べる(II(957号)の禿発言)のは、理論的に失当だと思う。そうではなくて、大企業の正規労働者の賃金額が低くなる可能性は、利点(1)と(4)で代償される、トレードオフされると考えるのが正当である。正規労働者の賃金額が低くなるとの懸念は、暗黙の内に、男性稼ぎ主型家族を前提とした男性稼ぎ主の懸念である。だから(1)と(4)は利点にみえない。しかし、共働き家族や母子家族や単身などを含む多様な家族構造を前提とすると、(1)と(4)は大きな利点である。労働者側には、社会全体を視野に入れる「費用便益計算」が求められている。

と、かなり明確に社会全体の利益のために正社員の賃下げを唱道しています。このあたり、労働問題をスローガンレベルでしか見ていない人にはなかなか見えにくいのでしょう。

その他、第4章の物理的労働時間規制の必要性、第5章の年齢差別禁止という観点を貫く高齢者雇用論、さらに日本型雇用システムが女性活躍を縛っているという認識の第6章など、八代さんの議論は常に言葉の真の意味でラディカルであり、しかもそれを支える事実認識はかなり的確です。

第4章 残業依存の働き方の改革

 1.日本の長時間労働の現状と問題点

 2.労働時間規制の問題点

 3.時間に囚われない働き方へ

 4.テレワークの活用

 5.労働法違反への監督体制強化を

第5章 年齢差別としての定年退職制度

 1.高齢者就業の現状

 2.定年退職制度はなぜ必要か

 3.付け焼刃の高年齢者雇用安全法

 4.定年退職再雇用者の賃金格差問題

 5.年齢差別をどう克服するか

第6章 女性の活用はなぜ進まないか

 1.女性就業の現状

 2.夫婦共働きという働き方を基本に

 3.男女間賃金格差の現状と要因

 4.女性が働くと損になる仕組みの改革

 5.ワーク・ライフ・バランスと矛盾する日本の雇用慣行

本書で興味深かったのは、最後の第7章です。これは20年近く前の『人事部はもういらない』を書き直したものとのことですが、問題の本質を鋭くえぐる筆致はますます冴え渡っています。

第7章 人事制度改革の方向

 1.日本の人事部の特徴

 2.政府の働き方改革への対応

 3.人事評価の3点セット

 4.女性の管理職比率引上げの意味

 5.市場原則で決める管理職ポスト

 6.人事部は人材サービス事業部へ

たとえば、

・・・日本の大企業では、人事部は強大な権限を持っている。・・・

・・・この人事部の権限の大きさは、日本の雇用契約のあり方が、特定の職務に縛られない「配置の柔構造」(熊沢1977)に基づいているためである。・・・日本企業では、個人の職務範囲が弾力的で、いわば軟体動物のように柔軟に変化する。・・・

濱口(2009)では、こうした特定の職務を単位として働くことを明確に定めた雇用契約のもとで、その範囲内の業務について労働者は一定の労働の義務を負う反面、使用者は働かせる権利を持つ、いわば機械の部品のような働き方が「ジョブ型」と定義される。他方で、こうした職務概念が特定されず、具体的にどのような業務に従事するかは使用者の命令次第で決められる融通無碍な仕組みを「メンバーシップ型」と定式化した。日本的雇用慣行の三本柱といわれる、長期雇用・年功賃金・企業別組合は。実はこの軟体動物型の働き方を支える道具に過ぎない。・・・

と、熊沢誠さんの著著まで引用しつつ、「軟体動物」という独自の比喩まで飛び出してきます。

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2017年9月18日 (月)

「無期雇用派遣」と働き方のこれから

Index_main_01 アデコの「Power of Work」というサイトに、「「無期雇用派遣」と働き方のこれから」という記事が載っており、そこに私もちょっと登場しています。

http://www.adecco.co.jp/power-of-work/023.html

「労働契約に期間の定めのない派遣労働という意味での『無期雇用派遣』は、以前からありました。それ自体が新しい働き方というわけではありません。ただ、今回の改正労働者派遣法において重要なのは、『有期』と『無期』の区別を明確にすることで、これまで曖昧にされていた派遣労働者の保護を強化したことです」

こう語るのは、独立行政法人 労働政策研究・研修機構の労働政策研究所長、濱口桂一郎氏だ。

はじめ、無期雇用派遣という新しい働き方が始まった、みたいな感じで聞いてきたので、いやいやそうではないよという話から始めています。

「派遣労働を含む雇用契約において、『無期雇用』と似て非なる考え方として『常時雇用(常用)』があります。同じ会社・職場に継続的に働いている点は同様ですが、常用の中には、有期契約なのに反復更新している結果として、事実上常用的に働いている人々が含まれます。彼らは、同じ職場に長く働いているにもかかわらず、契約期間の定めがあるため、ある日突然、契約更新を打ち切られるかもしれないという不安感があります。この状態は、労働者保護の観点からは望ましくありません。2015年の改正でこの点を改めて無期・有期という考え方を明確に取り入れ、労働者派遣法が派遣労働者の保護のための法律であることを明確に位置づけた。これこそが今回の改正の要諦だと考えられます」(濱口桂一郎氏)

別段新しい話はしていませんが、頭の整理にはなると思います。

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2017年9月17日 (日)

女性活躍と生殖適齢期

Dio 連合総研から『DIO』329号が届きました。

http://www.rengo-soken.or.jp/dio/pdf/dio329.pdf

特集は「女性の活躍は進んだか」です、

女性の活躍は進んだか 〜女性たちが直面する課題を考える〜 男性をふくめた働き方改革の必要性 大沢 真知子 …………………4

「生殖適齢期をふまえた」女性活躍推進企業への転換が急務 天野 馨南子 …………………8

女性の活躍推進になにが必要か~職場の要因から考える~ 大槻 奈巳 …………………14

女性活躍推進法に対応する企業の取組みと労働組合の役割 神尾 真知子 ………………19

この4人のうち、大沢さん、大槻さん、神尾さんについてはこの手のトピックでよく登場するのでだいたい中身も予想が付くでしょうが、2番目の天野さんのは「生殖適齢期」といういささかむつくけな言葉もあり、興味をそそられます。引用したい箇所が多すぎるので、やや長々と引用。

・・・ここで一点、大切な視点を提示しておきたい。

 読者の企業は、女性の(結婚・)妊娠・出産といったライフイベントが30代後半に設定せざるを得ないような人材育成・雇用管理制度が当たり前となってはいないだろうか。図表3で示されるように、女性が自然に妊娠を希望する場合、30代後半では3人に1人が年齢的な不妊にすでに陥っている。5年前であれば妊娠できたはずの同じ女性が年齢上昇することだけによって、不妊になる割合が30代後半で大きく増加する。・・・

・・・少し前までは少子化対策は子育て支援策である、と考えている世論が大半であった。しかし、日本の合計特殊出生率は1.44(2016年)であるものの、完結出生児数(結婚後15年から19年の初婚夫婦が最終的に授かる子ども数)は2015年で1.94であり、政府が掲げる希望(を叶える)出生率1.8よりも多い数値となっている。

 この差はなぜ生じるのか、というと、合計特殊出生率は分母に既婚女性だけでなく、未婚女性が含まれているからである。・・・

つまり、計算上、分母の未婚女性(特に生殖適齢期)の割合の増加が合計特殊出生率を引き下げていることになる。日本の少子化問題はまさに生殖的適齢期男女の「未婚化問題」の様相を呈していることがデータ的には指摘できる。・・・

・・・結婚や子どもをもつことは個人の勝手、ではあるものの、約7割の女性が仕事をもちつつ子どもをもつことを希望し、また、日本という社会が結婚をステップとして出産に踏み切る社会である以上、思うようにカップリングや妊娠出産が出来ない環境を企業が生み出しているならば、企業が次世代育成の実現に果たす役割(責任)はあまりにも大きいといえるだろう。

・・・先に述べた筆者のもとに訪れた「妻の妊娠希望にまったをかけたことを後悔する優しい夫たち」と同じことを、雇用する女性たち、もしくは雇用しようとする女子学生たちの「女性活躍」を期待するが故に、求めてしまってはいないだろうか。

・・・現状を見る限り、日本の働く母は「スーパーウーマン」を期待され、それに応えて戦っている。晩産化は女性の身体にとって、心身ともに母体リスクを引き上げる現象である。しかしながら日本における女性の出産年齢の上昇は止まる様子がない(図表9)

・・・母体のリスクはそのまま、赤ちゃんの将来のリスクである。母親の笑顔なくして、その子どもの、そのパートナーの幸せなどあるはずもない。

 スーパーウーマン頼みの企業経営は女性の身体にも、次世代育成にも、決して優しくない。労働組合は日本のお母さんを、お母さん候補を守る「最後の砦」ではないだろうか。夫であっても、親であっても、「お母さん(候補)」とそのパートナー(候補)の仕事年齢 のコントロールには力が及ばない。

 約7割の未婚女性が仕事も子育てもしたいとの理想を描く日本。

 10年後、20年後、「モノやサービスを提供する人もいなければ相手もいない」そんな経営に企業が嘆く前に、今、労働組合がその企業に提言できる「生殖適齢期をふまえた経営」は、まさに日本の未来を大きく変えるのではないだろうか。

Img_752f5d874047328e26f434ce08fbda5 この問題、ご記憶の方もおられるでしょうが、拙著『働く女子の運命』の最後のところで、海老原嗣生さんの議論を意識的に敵役に仕立てて論じたところです。

・・・ところが、そういう男女の対称性が破れる領域があります。いうまでもなく、生物学的に女性しかやれない妊娠、出産をめぐる領域です。・・・

・・・この問題が本書の一貫したテーマである日本型雇用と交差するのが、出産時期の問題です。・・・

・・・しかし、にもかかわらず、この問題を女性という第三の変数を含む三元連立方程式として解こうとすると、この解は女性に高齢出産を要求するというかなり問題含みの解になってしまうのです。海老原氏の『女子のキャリア』(ちくまプリマー新書)は、その最終章「「35歳」が女性を苦しめすぎている」で、「出産は20代ですべき」という論調に反発し、さまざまな医学的データまで駆使して、30代後半から40代前半で子供を生んでいいではないかと、高齢出産を余儀なくされる女性たちを擁護します。

・・・・・・・

働く女性を応援しようという海老原氏の意図はよく伝わってきます。しかし、それで正しい解になっているのか、正直、私には同意しきれないものがあります。・・・

マタニティという生物学的な要素にツケを回すような解が本当に正しい解なのか、ここは読者の皆さんに問いを投げかけておきたいと思います。

女性にハイリスクの高齢出産を強制するような形でしかやらないような女性活躍でいいのか?という問題意識を提起したつもりだったのですが、残念ながらあまり取り上げられることはありませんでした。

この問題を、あえて「生殖適齢期」という、うかつに男性が使うと批判が集中しかねない用語をあえて用いて提起した天野さんの議論には、やはり敬意を表したいと思います。

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G型もL型も拒否し、全員一律J型を求める人々

その同じ毎日新聞の同じ経済観測という欄に、宮本太郎さんの前日に載っていた冨山和彦さんのこれも大変面白い。

https://mainichi.jp/articles/20170915/ddm/008/070/079000c (文科省有識者会議の反「人づくり革命」答申=経営共創基盤CEO・冨山和彦)

文部科学省の有識者会議が「エリート校化した国立大学付属校は教員養成機能を果たせない。入試をくじ引きにして引きずりおろせ」という答申を出した。・・・

・・・1世紀は人的資本の時代だが、東大の世界ランクが40位台に低迷するなど、グローバルトップ人材の育成力強化は我が国の極めて重要な課題だ。学問、芸術、スポーツ等々、トップ人材育成競争のスタート地点は世界的に若年化が進んでいる。高い潜在能力の子どもたちが伸び伸びと過ごしている貴重な中学や高校が目の前にあるのに、それを「教員養成の役に立たない」という本末転倒な理由で潰すのか。むしろ優れた才能を伸ばし、豊かな人間性を育むスーパー中等教育機関として国を挙げて強化すべきではないのか。

この「ゆがんだ行政」を政治の力で正すことができるか。安倍政権の「人づくり革命」の本気度が問われている。

冨山さんといえば「G型、L型」ですが、どちらかといえばこれまでは職業教育を志向するL型論が目立っていましたが、当然のことながらG型論も重要なわけです。

それにしても、こういう冨山さんの議論を見てきて思うのは、日本社会がグローバルに専門分野で活躍するハイエンドのエリートたるG型も、ローカルに職業世界で生きてゆくノンエリートのL型も毛嫌いして、エリートでもなければノンエリートでもないグローバルでもなければローカルでもない、全員一律のJ型が大好きであるらしいということです。

まあ、その「人づくり革命」がどこまでこの全員一律J型イデオロギーを変えることができるのか、よくわかりませんが。

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子ども保険と老齢年金保険はどっちがより社会保険的か?

ソウルに行っている間に毎日新聞に載った記事が目にとまりました。社会保障を真面目に考えている学者である宮本太郎さんが、同じく社会保障を真面目に考えている数少ない学者である権丈善一さんと同様、子ども保険構想に一定の理解を示しています。

https://mainichi.jp/articles/20170916/ddm/008/070/050000c (「こども保険」の可能性=中央大教授・宮本太郎)

生まれてくる子どもの数が年に100万人を切り、需要減を見越して保育サービス拡充に本腰が入らず子どもを育てる困難がさらに増す。こんな悪循環が進む中で、「こども保険」をめぐる議論が始まっている。子育て支援に社会保険をという考え方には反発もあるが、私はこども保険という考え方は「あり」だと思う。

こども保険に反発する人は、社会保険は病気や失業など望まずして起こる社会的リスクに対処するものと強調する。出産と育児は、子どもが欲しい人が望んですることで、しかも老後には子どもに扶養されうる。そのような他人の便益に、なぜ皆が保険料を負担するのかというわけだ。・・・

この想定批判に対して宮本さんはこう温厚に論じるのですが、

だが、いまや子どもを持つことは一つの「リスク」だ。教育費などの実費コスト、母親が仕事を辞めて生涯賃金が減る機会コストを合わせると2億円を超える。それでいて生まれてくる子どもは、自分の親だけでなく、膨れあがる高齢世代全体を支えねばならない。・・・

たしかにそうなのですが、そもそも「社会保険は病気や失業など望まずして起こる社会的リスクに対処するものと強調する」人々があえて見えないふりをしていることがあります。

それは、法制度を作ったときには確かに間違いなく老齢による貧窮のリスクに対して社会的に対処するための社会保険制度であったはずの、そして法制度の基本構造は現在でもまったくそのまま社会「保険」であるはずの老齢年金制度が、しかしながら、現実の圧倒的多数の人々、とりわけ年金を受給している高齢者たちからは、保険どころか、若い頃に積み立てた貯金を返してもらっていると認識されてしまっているという事実です。

この問題については、本ブログでも何回か取り上げてきましたが、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/07/post-f716.html (年金世代の大いなる勘違い)

・・・公的年金とは今現在の現役世代が稼いだ金を国家権力を通じて高齢世代に再分配しているのだということがちゃんと分かっていれば、年金をもらっている側がそういう発想になることはあり得ないはずだと、普通思うわけです。

でも、年金世代はそう思っていないんです。この金は、俺たちが若い頃に預けた金じゃ、預けた金を返してもらっとるんじゃから、現役世代に感謝するいわれなんぞないわい、と、まあ、そういう風に思っているんです。

自分が今受け取っている年金を社会保障だと思っていないんです。

まるで民間銀行に預けた金を受け取っているかのように思っているんです。

だから、年金生活しながら、平然と「小さな政府」万歳とか言っていられるんでしょう。

自分の生計がもっぱら「大きな政府」のおかげで成り立っているなんて、これっぽっちも思っていないので、「近ごろの若い連中」にお金を渡すような「大きな政府」は無駄じゃ無駄じゃ、と思うわけですね。・・・

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2014/11/post-7e36.html (「ワシの年金」バカが福祉を殺す)

・・・いや、駒崎さんをクローニー呼ばわりする下司下郎は、まさに税金を原資にするしかない福祉を目の敵にしているわけですが、そういうのをおいといて、マスコミや政治家といった「世間」感覚の人々の場合、福祉といえばまずなにより年金という素朴な感覚と、しかし年金の金はワシが若い頃払った金じゃという私保険感覚が、(本来矛盾するはずなのに)頭の中でべたりとくっついて、増税は我々の福祉のためという北欧諸国ではごく当たり前の感覚が広まるのを阻害しているように思われます。・・・

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2016/12/post-d4d3.html (「ワシの年金」バカの脳内積立妄想)

・・・ニッポンという大家族で、子どもと孫の世代が一生懸命耕して田植えして稲刈りして積み上げたお米を、もう引退したじいさまとばあさまも食べて生きているという状況下で、その現役世代の食えるお米が少なくなったときに、さて、じいさまとばあさまの食う米を同じように減らすべきか、断固として減らしてはならないか。

多分、子どもや孫が腹を減らしてもじいさまとばあさまの食う米を減らしてはならないと主張する人は、その米が何十年もむかしにそのじさまとばあさまが現役で田んぼに出て働いていた頃に、自分で刈り取ったお米が倉の中に何十年も積み上げられていて、それを今ワシらが食っているんじゃ、と思っているのでしょう。

いろいろ思うに、ここ10年、いや20年近くにわたる年金をめぐるわけの分からない議論の漂流の源泉は、そもそも現実の年金が仕送りになっているということを忘れた「ワシの年金」バカの脳内積立妄想に在るのではないか、というのが私の見立てです。・・・

制度上はほかならぬ社会「保険」であるはずのものが、ここまで保険じゃなく貯金だと思われてしまっているこの日本において、今更のごとく(さりげなく年金を隠して)「社会保険は病気や失業など望まずして起こる社会的リスクに対処するものと強調する」人々の偽善性は指摘するに足ると思われます。

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2017年9月16日 (土)

青瓦台からイムジン河へ

昨日の日韓ワークショップは、大変興味深い議論になり、もっと韓国についていろいろ勉強する必要を痛感。

日本と韓国の雇用システム、賃金制度の類似と相違については、近く簡単なエッセイで書くつもり。

今日は、呉学殊さんの案内で、青瓦台に行ったあと、

Img_0474

北朝鮮を目の前に見るイムジン河沿いのオドウサン統一展望台へ。

川の向こう側は、もう北朝鮮。いくつか建物が見えますが、呉さんによれば、全部フェイクで、人は住んでいないそうです。

川幅は、細いところで500メートル足らずですが、砂が溜まって、流れはごく細く、北朝鮮の民衆がその気になったら、すぐに渡れそうな距離ですが、遥かな距離があるのですね。
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ところで、イムジン河といえば、ある年齢以上の人はこんな歌を思い出すかも知れません。

ちょうど、水鳥が川の上空を飛んでいく姿を見て、思わず口ずさむ人もいましたが、でもイこの歌、よく聞くと、「北の大地から南の空へ、飛びゆく鳥よ、自由の使者よ」と、まるで、北朝鮮が自由の国で、南の韓国が独裁に呻吟する国みたいな歌だったんですね。

今となってはあまりにも皮肉ですが、半世紀前にはそういう認識が知識人の間では結構普通で、だから在日朝鮮人(在日北朝鮮人ではない)を「この世の天国」と称して凍土の共和国に送り込んだりしてたんでしょうね、自分では正義感に燃えて。

 

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2017年9月15日 (金)

ソウルの夜

北朝鮮がまたミサイルをぶっ放したようですが、ソウルの街は至って平静です。
夜のミョンドンも、賑やか。とはいえ、昨晩は、日本ではあまり見かけることのない光景を目にしました。
飲んでたら、一人が、なんかハチマキ締めて騒いでるぞ、と。
で、見に行ったら、確かにハチマキ締めて拳を振り上げて、何か糾弾しています。
国民銀行の人たちのようで、日本では数十年絶えて見たことのない光景だなあ、と感じた次第。

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2017年9月13日 (水)

『季刊労働法』2017秋号

258_hp 『季刊労働法』2017秋号が届きました。特集は「働き方改革はどこに向かうのか」です。

特集記事は4本。まず内閣府の参事官だった武田康祐さん(現在は厚労省に戻って賃金課長ですが)の「働き方改革の実現に向けて」。これはもう事務局として淡々と書かれています。

次がわたくしの「労働時間の上限規制とインターバル規制」。戦前の工場法から紐解いて、時間外労働の上限規制が実現に至らなかった歴史を詳しく述べています。なお、原稿を送ってから例の連合の要請事件があったので、若干の追記をしています。

三つ目は和田肇さんの「いつになったら先進国並みの年休制度に」。冒頭の「はじめに」で、日本的年休感覚にどっぷり浸かった人からからかわれたり批判されたりした経験を書かれていて、その気持ちがとてもよくわかります。

四つ目は監督官出身の社労士の北岡大介さんの「労働時間規制と行政上の履行確保」。実務家の注目する今年の新ガイドラインを初めとして、現場目線でいくつもの論点を取り上げています。

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