経済同友会の「Japan 2.0」

いやまあ、インダストリー4.0とか、ソサエティ5.0とかいうのをいつも目にしていると、ジャパン2.0って、えらく控えめな感じがしますが、さにあらず。総論部分は大変飛ばしてます。

https://www.doyukai.or.jp/policyproposals/articles/2018/181211a.html

https://www.doyukai.or.jp/policyproposals/uploads/docs/fa762c713fc890b38fcf18c427566f9aa9922165.pdf

Japan 2.0 最適化社会の設計-モノからコト、そしてココロへ-

どれだけ飛ばしているかは是非リンク先をご自分でお読みいただければ、と。

その問題意識のいくつかは共有する面もありますが、議論が滑っているところが気になるとなかなか素直に頭に入ってきません。

「モノ」から「コト」へ、という話をするのに、こういうフランス現代思想がやらかしそうな議論をわざわざ展開する必要があったんだろうか、とか。

・・・今後、リアルとバーチャルの融合、相互作用により、既存の産業構造の変革が進むと共に新たな産業の創出が期待される。このリアルとバーチャルの関係性は、量子力学の重要な特性である光の粒子と波動の二重性になぞらえて考えることができる。

リアルとバーチャルの関係性は数学的に複素空間で表現するとz=a+bⅰとなる。「重さのある経済」は、モノや物質のa(atom)、重さのない経済はコト・情報のb(bit)、複素数ⅰはinternet のⅰとすれば、経済のリアルとバーチャルの関係性を簡潔に表現できる。これは、一般的に言われるサイバー・フィジカル・システム(CPS)20と同意である。・・・

Doyukai

正直、アラン・ソーカルあたりに批評してもらいたい感がありますね。

一方、具体的な政策論を労働問題についてみていくと、

①労働法制改革の継続

・裁量労働制の対象を拡大する。

・解雇無効時における金銭解決制度を導入し、補償金の算定方法や水準を具体的に法定する。

・自立型プロ、高度フリーランサー等の雇用を前提としない就労形態と働き方を支える権利保護を整備する。

②多様な働き方の選択肢の増加

・多様な正社員制度の導入・活用、働く場所や時間のフレキシビリティの向上(テレワークの推進、一律的管理からの脱却)を推進する。

・個人の専門性を多様な場で活かし、組織の枠を越えて技能や人脈を培うために、企業などにおける兼業・副業の禁止規定の緩和とガイドライン策定を推進する。

③雇用流動化の仕掛けづくり

(a)メンバーシップ型雇用からジョブ型雇用への段階的移行

・企業は、時代に合わなくなった雇用慣行の打破に向けて、「新卒・既卒ワンプール/通年採用」の定着、一律的な定年退職制度の見直し、市場価値ベースの人事制度の構築などに取り組む。

・退職金税制について、廃止も含めた今後の方向性を検討する。

(b)デジタル化(AI 化)に対応した労働移動の支援

・労使による支援や、企業単位ではなく特定の職業・スキルを軸に就労を可能にする仕組みを検討する。

・キャリア変更(再就職支援)にかかる費用を、労働者、国、企業等が共同でファイナンスする仕組みを検討する。

④外国人材受け入れのための戦略的で開かれた制度の創設・運営

・中長期視点に立った外国人労働者受け入れに関する方針、包括的政策の策定、および政策実行の司令塔的役割を果たす組織の強化を行う。

・受け入れ対象の業種・職種、および受け入れる人材の質と規模について、客観的な分析・判定を行う仕組みを構築する。

・外国人材の受け入れについて実効性のある監理を行うために、送り出し国における選考、受け入れから帰国支援までのプロセスに国(政府)が直接関与する仕組みや、外国人材を雇用する企業を管理する仕組みを検討する。

・家族帯同への対応も含めた、外国人材受け入れの環境整備の拡充を図る。

・外国人が多く集住する地域の地方自治体に、日本語教育支援等、社会統合政策の強化に必要な予算を配分する。

まず最初に、④の外国人労働者の話は、少なくとも改正入管法が成立した現時点ではもっともまともな提言なので、是非考慮されるべきだと思います。

しかしその前は、あれだけ壮大な話をぶち上げる必要があったのかよく分からないような毎度おなじみの話ですね。

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ソーシャル・ヨーロッパにピケティ登場

Piketty_bio本ブログで時々紹介がてら抄訳している「ソーシャル・ヨーロッパ」に、日本でも有名になったピケティが登場しています。曰く:「欧州民主化宣言」(Manifesto For The Democratization Of Europe)。おぅおぅ、マニフェストだってさ。

https://www.socialeurope.eu/manifesto-for-the-democratization-of-europe

さすがにピケティなので、いちいち訳さなくてもリンク先の英語を一生懸命読もうとしてくれるでしょう、ということで、今回は抄訳はなし。

Manifesto for the democratization of Europe

We, European citizens, from different backgrounds and countries, are today launching this appeal for the in-depth transformation of the European institutions and policies. This Manifesto contains concrete proposals, in particular a project for a Democratization Treaty and a Budget Project which can be adopted and applied as it stands by the countries who so wish, with no single country being able to block those who want to advance. It can be signed on-line (www.tdem.eu) by all European citizens who identify with it. It can be amended and improved by any political movement.・・・

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国際自動車労供事件

水谷研次さんの「シジフォス」で、国際自動車労供事件の東京都労委命令が取り上げられていて、

https://53317837.at.webry.info/201812/article_8.html(国際タクシー労協事業での不当労働行為が断罪)

その都労委命令がこちらですが、

http://www.metro.tokyo.jp/tosei/hodohappyo/press/2018/12/10/03.html

話の中身は、私が一昨年に東大の労働判例研究会で評釈したものとほぼ同じですね。

これは『ジュリスト』には載せなかったのですが、理路自体はこの通りだといまでも思っているので、関係者の参考までにお蔵出ししておきます。

http://hamachan.on.coocan.jp/rohan161007.html

労働判例研究会                             2016/10/07                                    濱口桂一郎

 

国際自動車事件(東京地判平成27年1月29日)

(労働経済判例速報2241号9頁)

 

Ⅰ 事実

1 当事者

・原告X:Yに雇用されてタクシー運転手として勤務し、平成25年1月17日に64歳の定年を迎えた労働者。

・被告Y:タクシーによる一般旅客自動車運送事業を業とする株式会社。なお、Xを採用時は国際自動車という同一商号の別会社で、平成21年4月に会社分割により旧ケイエムタクシーにタクシー事業が承継されるとともに国際自動車に商号変更され、これが現在の国際自動車である。紛らわしい上に判旨に関係ないので、本評釈では法人格にかかわらず全てYで通す。

 

2 事案の経過

・平成17年、XはYに雇用され、タクシー乗務員の業務に従事。

・YにはU1という多数組合、U2という少数組合、U3という新設組合(平成22年11月結成)がある。Xは入社時はU1に加入したが、その後U2に加入し、そこでU3の結成に関与し、その委員長を務めた。なおU3の上部団体がU3’である。

・Yは従前、就業規則25条2項の定めに基づき、嘱託という形式で定年後再雇用を行っていたが、平成10年下記U1との合意で凍結され、以後同項に基づく嘱託職員としてタクシー乗務員を雇用する運用はしていない。

・Yは平成10年、定年に達したタクシー乗務員について労働者供給事業を利用する形を採用することとし、同年9月U1と労働者供給に関する基本契約を締結した。平成18年2月にはU2とも同様の基本契約を締結した。いずれも労働協約ではない。

・定年の近づいた乗務員は所属組合で登録され、Yによる選定の上、定年後は組合からの供給労働者として業務に従事する。

・平成24年11月頃、XはYから、U3は労働者供給事業の許可を有する労働組合に所属していないので定年後雇用できないとの回答を受け、U3’は平成25年3月1日付けで労働者供給事業の許可を得た。

・平成25年1月7日、U3’とU3はYに対してU1、U2と同様の労働者供給に関する労働協約の締結とそれに基づくXの再雇用を求めたが、1月11日Yは拒否した。1月13日再度要求したが、1月17日再度拒否した。

・Xは平成25年1月17日に定年に達してまもなくU3の組合員資格を喪失した。

・U3は平成26年6月1日付けで労働者供給事業の許可を得たが、YとU3の間に労働者供給に関する基本契約は締結されていない。

・Xは「定年後もYによる雇用が継続するとの労使慣行、又は黙示の合意の成立、若しくは合理的な雇用継続に対する期待があるにもかかわらず合理的な理由なく再雇用を拒否されたこと、のいずれかの事情の下、Yに再雇用されていると主張し」、主位的に労働契約上の地位確認、予備的に再雇用拒否を不法行為として損害賠償を請求して提訴した。

 

Ⅱ 判旨

1 定年後乗務員を再雇用する労使慣行の有無

(上記労働者供給事業を利用する枠組みを採用していたことから)「Yが、定年後の雇用継続を希望する乗務員を原則として再度雇用するという取扱いを行っていたとの事実を認めることはできない。したがってXのこの点に関する主張は、慣行と評価すべき事実自体が存在せず、前提を欠くものとして理由がない。」

2 Xを再雇用するとの黙示の合意の有無

「Yにおいて、定年後乗務員のうち、希望した者は特別な事情のない限り、再雇用されることが長期間にわたり反復継続して行われていたとの事実が認められないことは、前記2(本評釈Ⅱ1)で判示したとおりであり、Xの前記主張は前提を欠くものである。」

3 解雇権濫用法理の類推適用の可否

「定年退職後の再雇用は、それまでの雇用契約とは別個の新たな契約の締結に外ならない。すなわち、使用者は労働者を再度雇用するか否かを任意に決めることができ、新たな雇用契約の内容については、労働者及び使用者双方の合意(申込み及び承諾)が必要であり、労働者において、新たな雇用契約が締結されるはずであるとの期待を有して契約の締結を申し込んだとしても、使用者において、当該期待に応ずるべき義務が生ずる基礎がなく、それゆえ、申込みに対する承諾なくして労働者と使用者間に新たな雇用契約が締結したというべき法的な根拠はない。」

「Yにおいては、事実上、定年後の乗務員の再雇用は労働者供給事業によるとの運用が確立しており、就業規則25条2項に基づく再度の雇用など、労働者供給事業以外の枠組みによる再雇用は、XがYに入社した時点では既に行われていなかった・・・ところ、Xも、遅くとも平成24年11月上旬の時点では、Yからの回答により、このことを認識していた・・・上、Xが定年に達した時点では、Xの所属組合であるU3及びU3’のいずれも、Yとの間で労働者供給に関する基本契約の締結に至らず、かつ、労働者供給事業の許可も取得していなかった・・・ことを踏まえると、Xの期待が、Yにおける具体的な状況に照らして合理的なものであったとはいえない。」

4 YのXに対する不法行為の成否及び損害額

「本件は、定年退職後の新たな雇用契約の締結(雇入れ)の問題であるところ、雇入れの拒否は、それが従前の雇用契約関係における不利益な取扱いにほかならないとして不当労働行為の成立を肯定することができる場合に当たるなどの特段の事情がない限り、労働組合法7条1号本文にいう不利益な取扱いには当たらないと解するのが相当である(=JR北海道・JR貨物採用差別事件最高裁判決)。」

「Yの運用・・・に照らせば、YがU3及びその上部団体であるU3’のいずれとも労働者供給に関する基本契約を締結しない場合、U3に所属するYの乗務員は、就業規則25条2項の規定にかかわらず、事実上、Yに再度雇用される可能性がないことは、Xの指摘するとおりである。しかし、U3’がYとの間で労働者供給に関する基本契約を締結し、これに基づき所属組合員であるXの再雇用を実現するには、前提として、労働者供給事業の許可を取得していることが必要であるところ、U3’が当該許可を取得したのは、Xが定年に達し、Yを退職した後の平成25年3月1日・・・である。したがって、Xの定年退職時における再雇用の問題に限っていえば、Yが両労働組合と労働者供給に関する基本契約を締結しなかった結果、Xの再雇用がなされなかったという関係にはない。」

「Yが、U3’との間で労働者供給に関する基本契約を締結しなかったことについては、U3’はいわゆる一般労組であるため、仮にU3’と労働者供給に関する基本契約を締結した場合、いかなる組合員が労働者供給を申し込むことになるのか、Yにおいて把握できなかったことから、上部団体又は外部組合とは契約の締結ができない旨回答しており・・・、Yの対応として無理からぬ面があるともいいうるところ、X本人の供述によれば、U3’は、この点に関してYに格別説明を行っていないことがうかがわれる。以上の経過に照らせば、Yが、U3’からの労働者供給に応じなかったことには、相応の理由があったものといえ、Xに対する不利益取扱い・・・に当たるとまではいえない。」

「また、Xは、定年退職後まもなくU3の組合員資格を喪失している・・・ので、その後の出来事である、YがU3からの基本契約の締結の申込みに応じていないことを、Xに対する不当労働行為として問題にする余地はない。」

 

Ⅲ 評釈 

1 本件労供事業による再雇用制度の高年齢者雇用確保措置該当性

 本件においてX側は、「定年後もYによる雇用が継続するとの労使慣行、又は黙示の合意の成立、若しくは合理的な雇用継続に対する期待があるにもかかわらず合理的な理由なく再雇用を拒否されたこと、のいずれかの事情の下、Yに再雇用されていると主張したため、判旨はそのそれぞれに対して否定的な結論を導いている。しかしながら、本件は64歳定年後の再雇用が問題となっており、高齢法9条の高年齢者雇用確保措置の義務づけの対象に含まれる以上、その点を全く論じないで結論を導いている本件判決には問題がある。なお高齢法平成24年改正は平成25年4月1日に施行されているので、本件定年退職はその直前の平成25年1月17日であり、同改正前の規定、すなわち労使協定により対象者選定基準を定めることができるという規定が適用される。

 その意味で、X側が主張しなかったからとはいえ、判決が漫然と「定年退職後の再雇用は、それまでの雇用契約とは別個の新たな契約の締結に外ならない。すなわち、使用者は労働者を再度雇用するか否かを任意に決めることができ」るなどと論じているのは、既に定年後再雇用に係る判決が多数蓄積されている状況下ではいささか問題がある。

 同規定それ自体は直接私法的効力を有さない公法上の規定であるとしても、同規定に基づく継続雇用制度を導入していれば当該制度の効果として再雇用の可否が論じうる。本件においては、労働組合による労働者供給事業を通じた再雇用という特殊な形態をとっているが、それが高齢法9条の高年齢者雇用確保措置に該当するのであれば、当然当該労供制度の合理的解釈によって問題を決すべきである。もし、当該労供制度が高齢法9条の高年齢者雇用確保措置に該当しないというのであれば、就業規則25条2項による再雇用が「XがYに入社した時点では既に行われていなかった」と認定している以上、高齢法9条違反ということになる。そのことが直ちにXの地位を左右するものではないとしても、もしその旨が公式に認定されれば、同法10条の勧告、公表等の対象となりうる状態であることが明らかになるはずであるから、X側がこの論点を全く主張しなかったことは不思議である。仮に当該労供制度ではなく就業規則25条2項の存在だけで高齢法9条の公法上の義務は果たしているという解釈をとるのであれば、今度は当該就業規則の私法上の効力として「XがYに入社した時点では既に行われていなかった」との認定でその適用を排除することは困難であろう。本判決でも、労供事業による再雇用が制度として確立しているから当該就業規則の適用を否定しているのであり、そうすると結局、労供事業による再雇用が高齢法9条の高年齢者雇用確保措置に当たるからということに帰着する。

 実際、本件労供事業による再雇用は、①Yから定年が近づいた乗務員に定年到達日を通知、②当該乗務員が雇用継続を求めた場合は所属組合で労供登録、③登録の通知を受けてYは乗務員に健康診断を受けさせ、定年後雇用するか否かを決定し、所属組合に供給申込、④Yと当該所属組合は当該乗務員の供給契約を締結、⑤Yは当該乗務員と労働契約を締結、という手続になっており、形式上は高齢法9条の雇用確保措置を満たしている。しかしながら、所属組合による労供事業という迂回路を挟むことで、再雇用を求める労働者の希望が制度的に排除されるようになっているとすれば、それが法の趣旨に沿ったものであるかどうかを論ずる必要がある。その際、継続雇用制度の導入を義務づける高齢法の趣旨と、労供事業を労働組合のみに認めた職業安定法の趣旨と、当該事業の主体である労働組合に関する労働組合法の趣旨を総合的に考える必要があろう。

2 平成24年改正前継続雇用制度としての法適合性

 上述のように、本件定年退職は平成25年1月17日であり、平成24年改正前の継続雇用制度の規定、すなわち労使協定により対象者選定基準を定めることができるという規定が適用される。本件労供事業による再雇用制度はこの規定に適合していると言えるであろうか。両者の間にはいくつものずれがある。そもそも高齢法上の労使協定は過半数組合又は過半数代表者が締結するものであり、これに該当する組合はU1のみである。また、高齢法が認めているのは対象者選定基準を定めることのみであって、上記①~⑤の手続がこれに適合しているかどうかは微妙である。

 しかしながら一方で、定年後再雇用の可否を労働者の集団的意思にかからしめる仕組みという意味ではその趣旨に反するものとは言えないし、そもそも労働者の集団的意思の代表性という点で、法が認める過半数代表者との労使協定よりも多数少数にかかわらず労働組合との合意の方が高く評価されるべきともいいうる。仮に本件労供事業による再雇用制度が平成24年改正前高齢法に適合しないことを理由に高年齢者雇用確保措置に該当しないとすると、Yは高齢法違反の状態にあるか、又は就業規則25条2項による再雇用制度が高年齢者雇用確保措置に該当すると解さざるを得ず、現実に大多数の定年退職者が労供事業による再雇用制度で再雇用されている実態と乖離することになり、適当とは思われない。従って、法の想定する制度とはずれがあることを認めつつ、高齢法の高年齢者雇用確保措置として認めた上で、それが労働組合による労働者供給事業という職業安定法上特に認められた制度として適切であるかどうかを検討し、仮に不適切な部分があれば、当該部分に限って修正する形で解釈することが適当であろうと思われる。

3 労働組合による労供事業としての法適合性

 本件定年退職時点でU1及びU2の両組合は労働者供給事業の許可を得、Yと基本契約を締結して労働者供給事業を行っていたのであるし、その後U3’及びU3も労働者供給事業の許可を得ていることからすると、少なくとも取締法規としての観点からはこれら労働組合による労働者供給事業は職業安定法に適合するものと認められていると言ってよい。

 ただし、少なくともU1及びU2の現に行っている労働者供給事業は、もっぱらYの定年退職者のみを登録し、Yにのみ供給するというビジネスモデルであり、同法が本来想定する労働者供給事業とはかなりずれがあると思われる。労働者供給事業業務取扱要領では、「過去に労働者供給事業が果たしていた労働力需給調整機能を民主的な方法によって発揮できる」と述べており、労働力需給調整機能があることが前提であるが、Yの内部労働市場に閉ざされた労供事業において労働力需給調整機能がどれだけあるか疑問である。

 なお、同様に労働力需給調整機能を期待されて認められている労働者派遣事業においては、法制定以来企業グループ内に派遣会社を設立して特定企業の退職者を登録し、当該企業に派遣するというビジネスモデルがかなり広がっていたため、平成24年改正によっていわゆるグループ企業内派遣の8割規制(23条の2)及び離職後1年以内の派遣禁止(35条の5)が設けられている。

 職業安定法上にはかかる規制は存在しないので、U1及びU2の労働者供給事業は職業安定法に適合するものといってよいが、そのビジネスモデルのみが適正なものであるということはできない。本件においては、Xの定年退職時点でU3’及びU3は労働者供給事業の許可を得ていなかったので仮想的な議論になるが、仮にこれら組合がその時点で許可を得ていた場合に、Yが「U3’はいわゆる一般労組であるため、仮にU3’と労働者供給に関する基本契約を締結した場合、いかなる組合員が労働者供給を申し込むことになるのか、Yにおいて把握できなかったことから、上部団体又は外部組合とは契約の締結ができない旨」を主張したとすれば、それは職業安定法、労働者派遣法を通じる労働力需給調整機能のための法制度全体の趣旨に反するものといわざるを得ず、少なくとも本件判決が漫然と「Yの対応として無理からぬ面がある」などと述べるのは、労働市場法制に対する理解の欠如を示している。労働者派遣法であれば規制されるビジネスモデルが労働者供給事業では特に規制なく認められているというだけであって、それ以外のビジネスモデルを排除する論拠となるものではなく、むしろそれ以外のビジネスモデルこそが職業安定法の本来想定するモデルであるというべきである。

 もっとも、本件においてはU3’及びU3の労働者供給事業許可の取得もXその他のU3所属のY定年退職者のYへの供給を目指したものであるので、この趣旨論はそれとも内在的には反するものがあるといえるが、少なくとも上記理由によってYが基本契約締結を拒否したことについては問題があることを指摘する根拠とはなり得るであろう。そして、そうだとすると、このYによる基本契約締結拒否はU3に所属する労働者を再雇用しないことを目的とした行為であり、労働組合への所属を理由とした不利益取扱いあるいは支配介入として不当労働行為に該当するのではないかという論点が提起されうる。

 以下U3’又はU3がXの定年退職時に労供事業の許可を得ていたにもかかわらずYが基本契約の締結を拒否したと反実仮想した上で検討する。

4 労働者供給事業と不当労働行為該当性

 U3’ないしU3もU1及びU2と同様に労働者供給事業の許可を得ていたとするならば、YがU3’ないしU3との間で労働者供給事業の基本契約の締結を拒否することは、U3に所属する労働者に対する不利益取扱いあるいは支配介入として不当労働行為に該当するのではないか、というのがここでの論点である。

 国・中央労働委員会(近畿生コン)事件(東京地判平成21年9月14日*1)では、原告企業が「労働組合の労働者供給事業は、純然たる事業活動で取引行為であるから、企業や他の労働組合と対等、平等に経済的原理に従って行うことが予定されており、労働組合法で保護される組合活動には当たら」ず、「純然たる取引行為に関して、原告がどの労働組合と労働者供給に関する契約を締結しようが、特定の労働組合との労働者供給活動を停止しようが、労働組合法7条3号の「支配介入」が問題となる余地はな」く、「労働者供給事業は、労働組合法の対象外であり、使用者がどの労働組合に供給を依頼するかは経営判断だから併存組合平等扱いの範疇外であり、組合間での異なった取扱いから不当労働行為意思を推認することはできない」との主張を退け、「原告は、補助参加人弱体化の意思をもって、補助参加人と連帯労組との間で、労働者供給事業における差別的な取扱いを行ったことが強く推認される」として「労働組合法7条3号の支配介入に該当する」と認定している。

 本件とは若干状況が異なるとはいえ、まさに労働組合の労働者供給事業に係る不当労働行為事件についての先行裁判例があるにも関わらず、それを一切顧みることなく、国会の制定した国鉄改革法によってJR各社への採用方式が定められていた特殊な事案であるJR関係事案の最高裁判決のみを引用して、漫然と「雇入れの拒否は・・・特段の事情がない限り、労働組合法7条1号本文にいう不利益な取扱いには当たらない」と論ずるのは、いささか突っ込み不足のそしりを免れないと思われる。

5 本件への当てはめ(反実仮想)

 まず、引き続きU3’又はU3がXの定年退職時に労供事業の許可を得ていたにもかかわらずYが基本契約の締結を拒否したと反実仮想した上で、あるべき議論の組立を考える。4で論じたように、かかる契約締結拒否行為はU3に対する不当労働行為を構成すると考えられるが、しかしながらだからといってYとU3’ないしU3との間で労供事業の基本契約が締結されていない以上、U3’ないしU3からXがYに供給されたものとみなすことはできない。この場合、2で高齢法の高年齢者雇用確保措置として認めつつも、不適切な部分があれば、当該部分に限って修正する形で解釈すべきとした考え方に立脚して、次のように考えることが適当と思われる。

 すなわち、Yの高年齢者雇用確保措置としては、U1及びU2についてはその労供事業による再雇用制度をそれに該当するものと認めつつ、U3’ないしU3についてはYの不当労働行為によって労供事業による再雇用制度が高年齢者雇用確保措置としては認められず、その結果、労供事業による再雇用制度が十全に機能していれば活用する必要のない就業規則25条2項による再雇用制度が現存する高年齢者雇用確保措置として起動されることとなり、同規定に基づき再雇用されたものとして地位確認を求めることができると考えられる。

 この段階に立ち至って初めて、本件でYが繰り返し主張しているXの勤務状況の問題点(本評釈では省略)が論点になり、YがXを再雇用しなかったことの合理性が争われることになる。なお、本判決は直接論点ではないにもかかわらず、黙示の合意の有無のところでXの勤務態度に言及しているが、判決で認定されているXの勤務態度は必ずしも良好と言えるものではなく、それに基づいて再雇用を拒否することもありうるようなものであったとはいえよう。

6 非労供組合組合員の再雇用可能性

 ここまではU3’ないしU3もU1及びU2と同様にXの定年退職時に労働者供給事業の許可を得ていたとする反実仮想に基づく議論であるが、実際にはU3’ないしU3はXの定年退職時に労働者供給事業の許可を得ていなかったのであり、そうである以上その時点でYがU3’から求められた労供事業に関する労働協約を締結することはできないといわざるを得ず、その後U3’やU3が許可を得たときにはXはU3の組合員資格を失っていたのであるから、Xに関する限り上述のような理路で地位確認を求めることはできないし、損害賠償を求めることもできないといわざるを得ないであろうか。

 これは、Xがいずれの組合にも属さない非組合員であり、そのため労供事業を通じた再雇用の道が閉ざされているとした場合において、再雇用される権利が認められるかという問題とほぼ同次元に位置する。X側はこれを労使慣行、黙示の合意、雇用継続への期待といった茫漠たる一般論でのみ主張したため一蹴されてしまったが、上記1で述べたように本件再雇用が高齢法9条の高年齢者雇用確保措置の義務づけの対象に含まれる以上、その観点からの緻密な議論が必要である。

 1で論じたように、本件労供事業による再雇用制度は高齢法の想定する高年齢者雇用確保措置とはずれがある。制度設計として最も重大な問題は、労供事業を行う労働組合に加入している労働者でなければ、そもそも再雇用を求めることができないという仕組みになっている点である。このような特定範疇の労働者の再雇用対象からの一括排除は、平成24年改正後の継続雇用制度に反することは言うまでもない。その場合、Yの有する再雇用に関する諸制度全体として高齢法の趣旨に沿うように解釈されるべきこととなり、U1との労供事業による再雇用の合意とともに「凍結」された状態にある就業規則25条2項の規定により直接再雇用されたものとして地位確認を請求することができるものと解すべきであろう。この状況は、ちょうどユニオンショップ協定に基づく非組合員又は当該ユシ協定組合以外の組合の組合員の解雇の是非の議論とパラレルな面がある。

 本件定年退職は平成25年1月17日であり、平成24年改正以前の継続雇用制度が適用されるが、本件におけるような非組合員又は労供事業組合以外の組合の組合員の包括的な再雇用制度対象からの排除は、当時の労使協定による対象者限定基準を満たすであろうか。当時の施行通達(平成16年11月4日職高発第1104001号)は、「ただし、労使で十分に協議の上、定められたものであっても、事業主が恣意的に継続雇用を排除しようとするなど本改正の趣旨や、他の労働関連法規に反する又は公序良俗に反するものは認められない」と述べ、「適切ではないと考えられる例」として「組合活動に従事していない者(不当労働行為に該当)」が挙げられている。本件は正確にはこれとは状況が異なるが、特定の組合への所属如何が継続雇用の対象となりうるか否かに直結しているという点で見れば、当時の労使協定による対象者限定基準としても許容範囲を超えていると言わざるを得ないであろう。

 かように考えると、実際にはU3’ないしU3がXの定年退職時に労働者供給事業の許可を得ていなかったため本件再雇用がされなかったという状況下においても、Xについては労供事業による再雇用制度が高年齢者雇用確保措置としては認められず、その結果、労供事業による再雇用制度が十全に機能していれば活用する必要のない就業規則25条2項による再雇用制度が現存する高年齢者雇用確保措置として起動されることとなり、同規定に基づき再雇用されたものとして地位確認を求めることができると考えられる。

*1http://web.churoi.go.jp/han/pdf/h10255.pdf

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旧商法の辞職規定

退職代行業などというおかしなビジネスが横行する今日、いまから120年近く前に作られた旧商法のこの規定が復活したらいいんじゃないかという気もしてきます。

商法(明治23年法律第32号)

第1編 商ノ通則

第5章 代務人及ヒ商業使用人

第64条 商業主人カ商業使用人ニ相当ノ給料ヲ与ヘス又ハ之ニ違法若クハ不善ノ業務ヲ命シ又ハ其身体ノ安全、健康若クハ名誉ヲ害シ若クハ害セントスル取扱ヲ為ストキハ使用人ハ何時ニテモ辞任スルコトヲ得

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国立国会図書館『EUにおける外国人労働者をめぐる現状と課題』

Ndl国立国会図書館の調査及び立法考査局より『EUにおける外国人労働者をめぐる現状と課題―ドイツを中心に― 平成29年度国際政策セミナー報告書』をお送りいただきました。

http://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_11192835_po_201811.pdf?contentNo=1

国会図書館が今年2月、ちょうど安倍総理が経済財政諮問会議で外国人材の受入を宣言した直後に開いた国際政策セミナーの基調講演とコメント、パネルディスカッションを収録したものです。

基調講演者はオスナブリュック大学のアルブレヒト・ウェーバー博士で、コメンテーターは広渡清吾、中坂恵美子の両氏です。

中村民雄氏の司会でパネルディスカッションがされていて、そこでウェーバー氏の議論を広渡さんがかみ砕いて日本人の聴衆向けにこう説明しているのが重要です。

「移民政策ではない」という建前で外国人材を導入することの帰結がわかりやすく語られています。

<広渡教授>
 私もドイツの外国人法の制度と政策をかなりフォローしてこれまでやってきたのですけれども、元々ドイツの外国人受入政策の基本は、先ほどヴェーバー先生がおっしゃいましたように、「ドイツは移民国ではない」ということ、つまりアメリカやオーストラリア、ニュージーランドといった古典的な「移民を受け入れて成り立っている国」ではないのである、というのが大前提だったのですね。ですから、ゲストとして受け入れるけれども、それ以上のものではない、お客さんはいつか帰るものである、そういう前提でやってきた。
 ところが先ほどヴェーバー先生がおっしゃったように、これは理論とか制度とかの問題ではなく、人間がやってきたら、その人たちが生活の本拠としてその国に住み着くわけですから、これはドイツがどんな法原理を持っていたとしても、彼らがここを生活の本拠にして、もう出身国には帰れないという現実を受け止めるしかない。そこから、ドイツの外国人労働者問題、こういうテーマについての議論を始めなければいけないということになったのが2010 年前後で、「転換があった」とヴェーバー先生は先ほどおっしゃいました。
 ですから、移民は法的定義の問題ではないと盛んにずっとおっしゃっているわけですね。これは現実だと。ドイツの歴史的な現実を受け止めた「考え」なんですね。入国の時にはもちろん、ドイツの場合は制度として滞在許可をもらって入国するわけです。滞在許可を与えるところではきちんと要件が厳格に定められているので、もちろん誰でも入ってくるというわけではない。ひとたび滞在許可を得てドイツで滞在するようになれば、合法的に滞在許可を得て一定期間生活をしていると、永住許可をもらう権利ができるというシステムになっているので、先ほど先生がおっしゃった「入った時から移民だ」というのはそういうことなんですね。ですから途中で帰らせることができるという形で受け入れるということは、これはドイツが遭遇した歴史的リアリティから外れてしまう。このリアリティから外れないということになるまで、実に様々な議論があった。ドイツは1950 年代の半ばからずっと積極的に外国人労働者を受け入れて、そしてドイツの戦後の高度経済成長は、この外国人労働者の貢献なしには成り立たなかったということをドイツ人自身が認めた。つまりドイツの経済成長は、外国の人たちがやってきて助けてくれたおかげなんだ、ということも含めて、これが歴史認識になった。

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同一労働同一賃金を掲げて均等・均衡処遇を売る@WEB労政時報

WEB労政時報に「同一労働同一賃金を掲げて均等・均衡処遇を売る」を寄稿しました。

https://www.rosei.jp/readers-taiken/hr/article.php?entry_no=816

今年6月に働き方改革推進法が成立し、その大きな柱である「同一労働同一賃金」に係る具体的な省令や指針が、去る11月27日の労働政策審議会で了承されました。国会提出直前の修正により、施行は大企業が2020年4月、中小企業は2021年4月と後ろ倒しになっていますが、今後施行までの間に賃金制度の見直しを迫られる企業の人事担当者にとっては、長い苦闘の日々となりそうです。
 さて、今回の働き方改革は徹頭徹尾官邸主導で行われました。そのことの評価は立場によってさまざまであり得ますし、また事項によっても評価は分かれる可能性があります。中でも、やや不完全な形とは言え、これまで実現できなかった時間外労働に法律上の絶対上限を設定することが実現に至ったことは、官邸主導で強い政治的圧力がかかる中で立法政策が進行したことがその大きな要因であることは間違いないでしょう。それに対して「同一労働同一賃金」の方は、官邸主導でなければ「同一労働同一賃金」などという政策スローガンが国の最優先課題に祭り上げられなかったであろうことは間違いないですが、・・・・・

 

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『生活経済政策』263号

Img_month『生活経済政策』263号をお送りいただきました。特集は「職場における性的マイノリティの権利保障」なのですが、私にとって大変興味深かったのは住沢博樹さんの「立憲主義と社会的保護のグローバル秩序のために — 西欧社会民主主義の21世紀の存在意義」でした。

http://www.seikatsuken.or.jp/monthly/

明日への視角

  • シビックテックと政治家の役割/辻由希

特集 職場における性的マイノリティの権利保障

  • はじめに—身近な職場の問題として考えるために/杉浦浩美
  • 職場におけるLGBT/SOGIと人権 ― 国際社会が求めていること —/谷口洋幸
  • 連合の性的指向・性自認(SOGI)に関する取り組みと職場の実態/佐藤太郎

論文

  • 立憲主義と社会的保護のグローバル秩序のために — 西欧社会民主主義の21世紀の存在意義/住沢博紀

連載 地域づくりと社会保障[6]

  • 学生と地域づくりと社会保障/森周子

書評

  • 中野晃一著『私物化される国家―支配と服従の日本政治』/石澤香哉子

本ブログでもときどき「ソーシャル・ヨーロッパ」の記事を紹介していますが、住沢さんはヨーロッパの社会民主主義がなぜこれほどまでに落ちぶれてしまったのかを幾つもの論考を引きながら論じています。

「進歩主義の21世紀との不幸な遭遇」という見出しが意味深ですが、こういう話が展開されていきます。

・・・社民政党からの本来の支持者であるブルーカラー労働者の離反を、以下のように説明する。ギデンスの提言の根底には、それまでの「不平等の克服」という社会民主主義の基本的目標を、「すべての人を包摂する、包摂としての平等」という概念に転換したことにあるという。その現実的な帰結として、労働市場と教育への公平な機会均等が最大の政策課題となり、結果として市民社会民主主義に陥ったとする。つまり平等とは、もはや分配の平等ではなく、労働市場に参入できる機会の平等となり、労働市場がグローバル化や情報化により、高度な資格や専門性を要求される現在、自律した高学歴な労働者と、より未熟練で起業規律に従う、あるいは失業にさらされる労働者への二極化を招いたとされる。・・・

・・・それまでの分配をめぐる闘争は、女性イシュー、環境、マイノリティなど、現在の「リベラル」といわれる政策ユニットとなり、それまで穏健なリベラルと穏健な権威主義(労働者階級)の両者を代表していたアメリカ民主党は、「金融資本主義と反権威主義的な個人の解放の聖ならざる同盟」という、進歩的ネオリベラルに到達したという。・・・

・・・彼の結論は驚くべきもので、ブレアの労働党がブルーカラー労働者を政治社会から排除したというものである。・・・

住沢さんはこうした議論を紹介した上で、「これからの社民政党の独自性とは、・・・Democracy with Right and Social Protectionということになるだろう」というのですが、その中身こそが問題なのです。

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「見えざる」低賃金カルテルの源泉

なんだかまたも低賃金カルテルの話題が一部で盛り上がっているそうです。

いうまでもなく、労働組合とは市場に任せていたら低くなりすぎてしまう賃金を団結の力で人為的に高くするための高賃金カルテルであり、そうはさせじとそれを抑える使用者団体がこれまた団結の力で人為的に賃金を低くするための低賃金カルテルであることは、(純粋経済学の教科書の世界ではなく)現実の産業社会の歴史から浮かび上がってくる厳然たる事実ですから、そもそも低賃金カルテルが経済学理論上どうとかこうとかというのは筋がずれている。経済学の教科書からすればアノマリーかもしれないが、現実の産業社会ではそれがノーマルな姿であったのですから。

問題は、今現在どこにも「こいつらにこれ以上高い賃金を支払わないようにしようぜ」と主張したり運動したり組織したりする連中が見当たらないのに、結果的にみんなあたかも低賃金カルテルを結んでいるかの如く賃金が上がらないのはなぜかという話であって、それを直接的に労働者に賃金を支払っている企業の経営者の心理構造に求めるのか、彼らが財サービス市場で直面する消費者という名の人々の行動様式によってもたらされているものなのか、もしそうならその原因はどこにあるのか、というようなことこそが実は重要なポイントであろうと思われます。

現在の日本では労働組合の力が弱体化してほとんど高賃金カルテルの役割が消え失せているため、わかりにくいのでしょうが、その現代日本でいまなお高賃金カルテルと低賃金カルテルが正面から目に見える形でぶつかり合っている世界があります。数少ないジョブ型労働市場において医療という労務を提供する人々の報酬を最大化しようとする医師会と、その報酬の原資を支払っており、それゆえその報酬をできる限り引き下げようとする健保連が、中医協という場で三者構成の団体交渉する世界です。個々の診療行為ごとにその価格付けをするという意味において、個々のジョブの価格付けをする欧米の団体交渉とよく似ており、逆にこみこみの「べあ」をめぐる特殊日本的労使交渉とは全く違います。

私の子供時代には、診療報酬の引き上げを求めて医師会が全国一斉にストライキ(保険医総辞退)なんてことすらありました。それくらい医師会という高賃金カルテルが強かったわけです。

面白いのは、他の分野では高賃金カルテルとして使用者側と対立しているはずの労働組合が、こと医療分野に関してはお金を出す側、医療という労務の供給を受ける側として、使用者団体と一緒に低賃金カルテルの一翼になっていることです。連合と経団連は足並みをそろえて「こいつら(医師)にこれ以上高い報酬を払わないようにしようぜ」と何十年も言い続けてきました。

私が思うに、この労働者側が(自分の属さない他の産業分野に対しては)低賃金カルテル的感覚で行動するという現象が、医療分野だけではなく他の公共サービス分野にも、さらには非公共的サービス分野にもじわじわと拡大していったことが、この「見えざる」低賃金カルテル現象の一番源泉にある事態だったのではないか。

もちろんその背後には、労働組合という高賃金カルテルが組織しやすかった製造業が縮小し、サービス経済化が進んだということがあるわけですが、普通の労働者が金を受け取ってサービスを提供する側、つまり高賃金カルテルになじみやすい感覚よりも、金を払ってサービスを受ける側、つまり低賃金カルテルになじみやすい感覚にどんどん近づいて行ったことは間違いないのではないかと思います。

(追記)

若干言葉が足りないところを補っておきます。

上記で、医師を「数少ないジョブ型労働市場において医療という労務を提供する人々」と呼んだことに、少なからぬ人が違和感を感じたかも知れません。社会階級論的に言えば、医師は弁護士と並んで最上級知識権力を享受する人々であり、実際所得階層的に見ても金持ちがいっぱいいるじゃないか、と。まさにその通りですが、しかしその高所得の源泉がその提供する「医療という労務」であり、金のあるなしを一切捨象した労務提供側か金銭提供側かという二分法で言えば労務提供者側として市場に立ち現れる人々であるという一点において、労働組合に団結して高賃金カルテルを遂行する労働者たちと何の違いもありません。

その最上級労働貴族層の高賃金カルテルを、普通の労働組合に組織される中間層的労働者たちが、より親近感を感じているのであろう使用者側と一緒になって、低賃金カルテル的に叩くという行動様式は、上か下かという階層論的にはよく理解できるとはいえ、労務提供側の高賃金カルテル叩きを当の労務提供側がやるという皮肉であったことも確かです。

この労務提供側の高賃金カルテルを、自分も別の市場では労務提供側であるはずの人々がそこではサービスを受ける側として叩きに走るというパターンが、限りなく低賃金層まで対象を下げてきたのが、いまの姿ではないのかというのが、上記だらだらした議論の言いたいことでした。

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「許されない!」と宣言する法律

共同通信によると、

https://this.kiji.is/443697016644600929 (パワハラ「許されない」と法律に明記へ)

厚生労働省は7日、職場のハラスメント対策を巡り、パワハラやセクハラは「許されないものである」と法律に明記する方針を固めた。労働組合などが求めていた「行為自体の禁止」は見送るが、抑止効果につなげる狙い。

え?「許されない」と法律に書くって?

少なくとも労働法制でそんなの見たことないな、と思って調べてみたら、こういう法律に例があったんですね。

部落差別の解消の推進に関する法律 (平成二十八年法律第百九号)

(目的) 第一条 この法律は、現在もなお部落差別が存在するとともに、情報化の進展に伴って部落差別に関する状況の変化が生じていることを踏まえ、全ての国民に基本的人権の享有を保障する日本国憲法の理念にのっとり、部落差別は許されないものであるとの認識の下にこれを解消することが重要な課題であることに鑑み、部落差別の解消に関し、基本理念を定め、並びに国及び地方公共団体の責務を明らかにするとともに、相談体制の充実等について定めることにより、部落差別の解消を推進し、もって部落差別のない社会を実現することを目的とする。

ちなみに、部落差別解消法では本則第1条で「許されない!」と宣言していますが、前文でそう宣言しているのがこちらの法律です。

本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組の推進に関する法律 (平成二十八年法律第六十八号)

我が国においては、近年、本邦の域外にある国又は地域の出身であることを理由として、適法に居住するその出身者又はその子孫を、我が国の地域社会から排除することを煽せん動する不当な差別的言動が行われ、その出身者又はその子孫が多大な苦痛を強いられるとともに、当該地域社会に深刻な亀裂を生じさせている。 もとより、このような不当な差別的言動はあってはならず、こうした事態をこのまま看過することは、国際社会において我が国の占める地位に照らしても、ふさわしいものではない。 ここに、このような不当な差別的言動は許されないことを宣言するとともに、更なる人権教育と人権啓発などを通じて、国民に周知を図り、その理解と協力を得つつ、不当な差別的言動の解消に向けた取組を推進すべく、この法律を制定する。

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『DIO』342号

Dio3421_2 『DIO』342号は、「少子化・人口減少の中で縮む「地域社会と教育」」が特集ですが、ここでは「働き方の多様化と公正な分配 −第31回連合総研フォーラム−」を紹介しておきたいと思います。

https://www.rengo-soken.or.jp/dio/dio342.pdf

このフォーラムの基調講演をした吉川洋さんの「日本経済の現状と 課題」の最後の部分から:

デフレの鍵は賃金デフレ

 日本経済の問題として、デフレがよくあげられます。 今の日本の物価の変化率はプラス0.7%くらいですが、 私は、少し前に(日本経済が)経験したマイナス0.8% くらいのデフレが日本経済の一丁目一番地の問題だと は思っていません。ですから、この5年半余りの黒田 緩和について、私は当初から批判的ですが、二重の意 味で間違っていると思います。デフレこそが一丁目一 番地の問題であると安倍政権が位置づけましたが、そ れが正しくない。2つ目は、仮にそうだとして、デフレ を止めるのは、マネーさえ増やせばすぐ止まると考えた こと。これも間違えています。これは5年半の経験を 見てみれば、マネーは増やしたけれども、物価は動か なかったということでしょうから、実証済みだと思いま す。ですから二重の意味で問題です。  日本がなぜデフレに陥ったのか。戦後、先進国の 中でデフレに陥った国はほとんどないのに、なぜ日本 だけが陥ったのか。その答えは賃金の動向にあると思 います。名目賃金が下がりにくいのは、戦後、先進国 に共通したことでした。この名目賃金が下がりにくいこ とこそが、デフレストッパーだったのです。ところが、 先進国の中で日本だけがこのデフレストッパーが止まっ た、壊れてしまったということです。1997〜98年、ち ょうど金融危機の頃です。労働組合もかなり守勢に回 って、そういう中で賃金が下がり始めるという傾向が 見られた。名目賃金が上がらない、ややもすると下が るということこそが、日本のデフレの最大の問題だと 思います。  この20年を通観しますと、賃金というのが一つの大 きな日本経済の問題ではないでしょうか。冒頭、消費 が6年経って、2%しか累積で増えない先進国は他に ないと言いました。なぜ、消費が増えないのか。要す るに可処分所得が上がらないということも一つの重要 な問題でしょう。もう一つの原因は、社会保障の将来 像がはっきりしない、将来不安もあると思います。賃 金が正当に報酬として払われる社会にならなければい けないと思います。

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経団連の「今後の採用と大学教育に関する提案」

経団連が「今後の採用と大学教育に関する提案」をアップするだけではなく、その最後のところで、大学側に対して「採用と大学教育の未来に関する産学協議会」の設置を呼び掛けています。これがなかなか面白い。

http://www.keidanren.or.jp/policy/2018/113_honbun.html

経団連はまず自分たち企業側の新卒採用のありようについて、率直にこのように述べます。

文系の総合職採用(オープン採用)では、入社後に複数の職務を経験するジョブローテーションを前提としたジェネラリストとしての採用が一般的である。個々人の将来性を総合評価する「ポテンシャル採用」であるため、採用時の学修成果に応じた入社後の職務内容やキャリアパスを具体的に示すことは難しいとする企業がほとんどである。学生に対しては、先輩社員の入社後のキャリアパスなどの事例(ロールモデル)を紹介することを通じて、大まかなイメージを持ってもらおうとしている企業が多い。

いわゆる典型的なメンバーシップ型の採用ですね。

しかし今後の方向性は大きく変えなければならないという意向を示します。

Society 5.0時代に適する人材育成を担う大学が教育改革を進めることはもちろん、企業もまた、時代に適合した人材活用、評価・処遇のあり方を考える中で、様々な採用・選考機会を提供し、様々な知識や経験を持つ多様な人材の獲得を図ることが求められる。そのために企業は、4月の一斉入社による集合研修を前提とした新卒一括採用のほか、卒業時期の異なる学生や未就職卒業者、留学経験者、外国人留学生などを対象に、夏季・秋季の採用・入社なども柔軟に行うべきである。
さらに今後、専門的な知識・技能や職務経験を有する高度な人材を採用するには、長期雇用を前提とした年功序列・横並びの賃金体系にうまく当てはめることができない事態も生じうる。このような人材に関して、職務の内容や成果に応じた人材活用、評価・処遇を行うジョブ型雇用の仕組みを構築する中で、採用においても、新卒・既卒や文系・理系の垣根を設けない、通年採用・通年入社等の多様な選択肢を設けていく必要がある。

そこで、大学に大きく変わってもらわなくてはいけない、という話の流れになります。

いくつもあるのですが、ポイントだけ引いておくと、

多様な価値観が融合するSociety 5.0時代の人材には、リベラルアーツといわれる、倫理・哲学や文学、歴史などの幅広い教養や、文系・理系を問わず、文章や情報を正確に読み解く力、外部に対し自らの考えや意思を的確に表現し、論理的に説明する力が求められる。さらに、ビッグデータやAIなどを使いこなすために情報科学や数学・統計の基礎知識も必要不可欠となる。
そのため大学は、例えば、情報科学や数学、歴史、哲学などの基礎科目を全学生の必修科目とするなど、文系・理系の枠を越えて、すべての学生がこれらをリテラシーとして身につけられる教育を行うべきである。理系とされる学部でも語学教育を高度化する必要があるし、文系とされる学部でも基礎的なプログラミングや統計学の学修が求められる。さらに、近い将来には、文理融合をさらに進め、法学部、経済学部、理学部、工学部といったこれまでの学部のあり方や学位のあり方、カリキュラムのあり方などを根本から見直すことが必要になると思われる。

デコレーションを抜いて率直に言えば、ベースラインとして数学、統計学はみんなできるようになれよという話、

大学教育改革の前提として、高大接続の円滑化に向けた取り組み#8をさらに推進し、高校卒業時に、大学で学ぶ最低限の基礎的学力が備わっているようにすることが重要である。また大学入試では、原則として、文系でも数学を、また理系でも国語を課すことを検討すべきである。

入試に数学のない私立文系の学生は採らないよ、ということでしょうか。

ほかにもいくつかの提起をしており、それらを踏まえて、

大学と経済界が直接、継続的に対話する枠組み(仮称:採用と大学教育の未来に関する産学協議会)を設置し、本提言で掲げた大学教育改革や新卒採用に関して企業側に求められる取り組みについて、双方の要望や考え方を率直に意見交換し、共通の理解を深めるとともに、具体的な行動に結びつけることを提案する。あわせて、当面、大学と経済界が共同で取り組むべき事項についても提案する。

と、大学側への呼びかけをしています。

これが面白いのは、この手の話は今までいつも、「そうは言っても現実の企業の採用行動がこうこうじゃないか」「大学側はそれに合わせているだけだ、文句があるなら、自分たちの採用行動を変えてからにしろ」という反発でごじゃごじゃになってきたわけですが、そこをきちんとすり合わせるような議論ができるのかどうかですね。

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リベラルの欺瞞@マルク・ザクサー

Marcsaxer 例によって、ソーシャル・ヨーロッパに昨日アップされた記事の紹介です。フリードリヒ・エーベルト財団のマルク・ザクサー氏による「リベラルの欺瞞」。

https://www.socialeurope.eu/the-liberal-delusion

There’s this prevalent idea that we have to take a firm stand against right-wing populism. Yet all the anti-populist hashtags, public un-invites, and goodwill gigs of recent years have done nothing to halt its rise. Clearly, we need a more effective strategy, and the path to finding it begins by asking a simple question: whose values are actually being defended here?

我々は右翼ポピュリズムに対して論陣を張っているという考えが広がっている。しかし、近年の反ポピュリストハッシュタグ、公衆機関からの締め出し、そして善意のギグは、ポピュリズムの興隆を全く止められなかった。明らかに、我々はより効果的な戦略が必要であり、それを見出す道は単純な問いを問うことから始まる:誰の価値がここで実際に守られているのか、と。

For as long as it is part of cultural class warfare, the fight against the far right will never be won. The frontline runs between middle-class groupings, which is why – even in these times of extreme inequality – the debate focusses on questions of morals and identity, not wealth distribution.

それが文化的階級闘争の一部である限りにおいて、極右に対する戦いは決して勝つことはできない。前線は中間階級のグルーピングの間を走っており、それゆえ極端な不平等の時代にあってさえ、論争はモラルとアイデンティティの問題に集中し、富の分配には及ばない。

For much of recorded human history, questions about who we are and where we are going have been the domain of priests and philosophers. Today, however, it is academics and creatives who are providing answers.

記録に残る人類の歴史のほとんどにおいて、我々は何者であり、どこに向かうのかといった問題は、僧侶や哲学者の領域であった。ところが今日、その答えを提供するのはアカデミックな学者やクリエイティブな人々だ。

According to sociologist Andreas Reckwitz, these winners in today’s post-industrial knowledge economy share values of cosmopolitanism, openness, and diversity, with a strong focus on the self and its needs. These values have become society’s yardstick and holy grail. In other words, people with academic degrees decide which lifestyles are considered valuable and which are not.

社会学者のアンドレアス・レクヴィッツによれば、今日の脱工業知識経済の勝ち組たちはコスモポリタニズム、公開性、ダイバーシティといった価値観を共有しており、とりわけ自己とそのニーズに強い関心をもっている。これら価値観は社会の価値基準や聖杯となった。言い換えれば、アカデミックな学位を持つ人々がいかなるライフスタイルが価値あるものであり、どれがそうではないかを決定するのである。

Many people, however, are unable to keep up in this permanent struggle for visibility, respect, and success, yearning instead for more protection, recognition, and belonging. It is primarily small-business owners, white-collar staff, and skilled workers – i.e. the backbone of the traditional middle class – who feel drawn towards communitarianism, toward a more homogenous society in which the values of duty and solidarity are reinstated.

しかしながら多くの人々は、この可視性、尊敬、成功への絶え間ない戦いに追いついていくことはできず、むしろもっと多くの保護を、承認を、そして帰属を渇望するのである。それは主として小企業主、ホワイトカラー職員、技能労働者であり、伝統的な中間階級の中核であり、彼らがコミュニタリアニズムに、義務と連帯の価値が復活したより同質的な社会に引き付けられるのである。

In order to create such communities, however, there needs to be a clear idea of who’s part of it and who isn’t. In political terms, this means responding to the liberal agenda of opening up societies, of removing borders and deregulating the economy with demands to close the frontiers and re-establish the primacy of national identity.

しかしながら、そのような共同体を作り出すためには、誰がその一部であり、誰はそうではないかについての明確な考えが必要だ。政治的用語でいえば、これは社会を開放し、国境を撤廃し、経済を規制緩和するリベラルなアジェンダに対抗して、国境を閉ざし、ナショナルなアイデンティティの優越性を再確立することを意味する。

Right-wing populists have taken on the leading role in this rebellion against liberalism. They were the first to find a way to express the feelings of insult and insecurity plaguing the old middle classes. And it is the members of these old middle classes who vote in higher numbers than the precariat, who are disenchanted with politics and more unlikely to cast a ballot. This solves the riddle of why voters of hard-right parties are not statistically poorer or less educated than the average.

右翼ポピュリストはこのリベラリズムに対する反逆において指導的役割を果たしてきた。彼らは真っ先に旧中間階級を悩ませる屈辱と不安定の感覚を表現する道を見つけた。そして政治に関心をなくし投票する気のないプレカリアートよりも、多くの投票をするのが彼ら旧中間階級である。これで、極右政党荷投票するものが統計的に必ずしも平均よりも貧しく教育水準が低いわけではないという謎が解ける。

The new middle classes, meanwhile, are in no mood to simply surrender the sway they hold over societal values and objectives. They respond to this attack on their cultural hegemony with cultural means and drawing a firewall between ‘decent people’ on one side and misogynist, xenophobic, racist authoritarians on the other. Using ‘virtue signalling’, they assign their cosmopolitan lifestyle a higher value than that of their opponents. The latter experience #noplatform, #refugeeswelcome or #metoo as cavalry charges pressed by culture class-warriors on their high horses.

一方、新中間階級は彼らが社会的価値観や目的に対して有している影響力を放棄する気など全くない。かれらは彼らの文化的ヘゲモニーに対する攻撃に対し文化的手段をもって対応し、一方の「上品な人々」と、他方における女性差別的で排外主義的で人種差別主義の権威主義者との間に防火壁を築こうとする。「美徳のシグナリング」を用いて、彼らは彼らのコスモポリタン的なライフスタイルを相手方のそれよりも高く価値づける。後者の人々は、#noplatform, #refugeeswelcome  #metoo といったハッシュタグを文化的階級戦士による高い馬上からの騎士の突貫として経験している。

Why is this class civil war between factions of the middle classes being fought over culture, though? In today’s post-industrial economy, it’s education and creativity which are decisive factors in living a successful life – more so than ever. Thanks to its cultural capital, the creative class is upwardly mobile while the former middle classes tumble down the social hierarchy.

しかし、この中間階級の党派間の階級的内戦はなぜ文化を巡って戦われるのだろうか。今日の脱工業経済においてはかつて以上に、成功した生活を送る決定的要素は教育と創造性である。その文化的資本のおかげでクリエイティブ階級が上方に移動する一方、旧中間階級は社会のヒエラルキーを転がり落ちる。

The fallen are now rebelling against this feeling of cultural downgrading. But because the new middle class owes its success to its cosmopolitan lifestyle, it is not prepared to accept any limitations to its moral authority. The culture war which has erupted between the cosmopolitans and the communitarians will decide who sets the tone in tomorrow’s politics, media, arts, and academia. The fact that the battles are being fought over cultural hegemony explains why political rifts are currently opening up along questions such as sexuality, identity, and language rather than wealth distribution.

墜ちたものは今やこの文化的格下げの感覚に対して反逆する。しかし新中間階級はその成功をコスモポリタン的なライフスタイルに負っているため、その道徳的権威にいかなる制限も受け入れる気はない。コスモポリタンとコミュニタリアンの間で勃発した文化戦争は、誰が明日の政治、メディア、芸術、そしてアカデミズムの基調を設定するかを決めるであろう。この闘争が文化的ヘゲモニーを巡って戦われるという事実は、なぜ現在政治的分断が富の分配よりもセクシュアリティ、アイデンティティ、言語のような問題に沿って開いているかを説明する。

Fights about moral issues and identity are a typical feature of the neoliberal age: many citizens have lost confidence in the state’s ability and, indeed, will to shape society. Change is now only possible on a grand scale if enough individuals see a need to change their behaviour.

道徳的問題やアイデンティティを巡る戦いは、多くの市民が国家の社会を形成する能力と意思に信頼を失ったネオリベラル時代の典型的な特徴である。変化はただ十分な個人が彼らの行動を変える必要を認めてのみ可能である。

Viewed from this perspective, resistance to rational movements such as the struggle to halt climate change or normative demands such as equality between the sexes can only be irrational (or just plain evil). As such, political disagreements between citizens become moral rear-guard actions against advancing barbarians who are therefore excluded from public debate: the battle cries are ‘No right to speak for old white men!’ or ‘By giving them airtime, the media is making the far-right socially acceptable!’

この視角から見ると、気候変動を止める戦いのような合理的な運動や両性間の平等のような規範的な要求への抵抗は不合理(ないし邪悪)なだけである。そのようなものとして、市民間の政治的不同意は、公共の議論から排除された野蛮人の進出に対抗する道徳的後衛行動となり、戦いの叫びは「高齢白人男性のための論する権利はない!」とか「彼らに放送時間を与えるのは極右を社会的に認めることだ!」となる。

The brutality – and the tragedy – of this cultural confrontation is that both sides are scared that society will crumble. This fear makes them all the more aggressive against those who they consider to be the enemies of all that is good and true. People who discern a threat to their way of living retreat ever more into tribalism.

この文化的衝突の野蛮性-と悲劇-は両方ともが社会が崩壊することを恐れていることだ。この恐怖は彼らすべてを、彼らが善と真実の敵とみなすものに対してより攻撃的にする。自分たちの生き方への脅威を感じる者は部族主義にこもっていく。

・・・There’s a second reason why ‘taking a stand against the far right’ isn’t effective. In this era of Trump, society has been reordered. While, previously, identity served primarily for minority groups as a rallying call, the identitarian movement has been successful in convincing the societal majority that it too is a minority under threat: White Americans, ‘Biological Germans’ (Biodeutsche), ‘True Finns’. This works in a way not so different to Hindu nationalists, Salafists, or fundamentalist Buddhists.・・・

「極右に対して論陣を張る」のが有効でない二番目の理由がある。このトランプの時代には、社会は再編された。かつては、アイデンティティは主としてマイノリティ集団の結集の呼びかけとして使われたが、アイデンティタリアン運動が社会の多数派を彼らも脅威の下にあるマイノリティだと納得させるのに成功した。白人アメリカ人、「生物学的ドイツ人」、「真のフィンランド人」と。これはヒンドゥナショナリストやサラフィストや仏教原理主義者も同様である。

For anyone attempting to save social democracy from this existential threat, the lesson is urgent: trying to draw a moral and linguistic cordon sanitaire around right-wing populists does not work – and indeed only serves to make them stronger.

社会民主主義をこの実存的脅威から守ろうとする者はだれでも教訓は喫緊である。右翼ポピュリストの周りに道徳的言語的防疫線を張ろうとしてもうまくいかず、実際にはむしろ彼らをより強大にするだけだ。

It is high time that progressive forces snap out of their moral panic and initiate a real political shift. Instead of staying catatonically fixed on the authoritarian extremists, democratic politics must shore up the centre; doing so means taking ordinary people’s concerns seriously rather than insulting them.

今や進歩的勢力が道徳的パニックから目覚め、真の政治的シフトを遂行すべき絶好の時期である。権威主義的極端主義に緊張病的に固着するのではなく、民主政治はセンターを支えなければならない。そうすることは、普通の人々の関心を侮辱するのではなく、真剣に取り上げることを意味する。

Those who, in view of the epoch-making shifts of globalisation, automation, climate change, and mass migration, are left feeling insecure are by no means automatically neo-Nazis. Far-sighted policy would address this feeling of insecurity and return to citizens some degree of control over their lives and their communities.

時代を画するようなグローバリゼーション、オートメーション、気候変動、大量移民の中で、不安定の感覚に放擲されている人々は決して自動的にネオナチになるわけではない。先見的な政策はこの不安定感覚をとりあげ、市民に自分たちの生活と共同体へのコントロールを取り戻すことが出来る。

Concretely, this means offering more job security and an improved social safety net, means a return to the state’s provision of public utilities, and means limiting and managing migration. It also means a consistent implementation of the rule of law and a spirited fight against criminality.

具体的には、これはより多くの雇用安定と社会的セーフティネットを提供し、国家が公共施設を提供する能力を取り戻し、移民を制限管理することを意味する。それはまた、法の支配と犯罪に対する精力的な戦いを実施することを意味する。

・・・Now, however, a new political force is feeding of this hubris, and converting popular anger over the ‘globalist elites’ into political capital. The neoliberal idea that societal problems can only be solved by individuals making changes to their behaviour has reached the end of the road. As a matter of fact, moralising categories (right/wrong, good/bad) make the search for workable compromises more difficult, so rather than arguing about language and values, we must go back to discussing strategies and politics.

いまや、新たな政治勢力がこの傲慢をえさとして成長しており、「グローバリストのエリート」に対する怒りを政治資本に転換している。社会問題は個人がその行動を変えることによってのみ解決されるというネオリベラルな思想は行き止まりに逢着した。実際、正/邪、善/悪といった道徳化されたカテゴリーはうまく働く妥協を求めることを困難にするのだから、われわれは言語や価値について論ずるのではなく、戦略と政治を論ずることに戻らねばならない。

Against the moralistic fury of the middle classes, we must erect a model of political thinking which sees change as the productive result of societal struggles. Yet these arguments cannot be won if societies dissipate into tribes. The genuine strength of big-tent parties is to build alliances between groups of citizens with varying identities which produce consensus, and struggles for recognition and redistribution can be combined as long as their agendas are aware of their impact on different classes. This means going beyond symbolic token politics and modifying structural conditions so that everyone can enjoy equal opportunities. Historically, it has been the role of social democracy to bring together these struggles: its political future, too, lies in renewing this alliance.

中間階級の道徳的怒りに対して、我々は変化を社会闘争の生産的結果とみなす政治的思考モデルを構築しなければならない。しかしこれらの議論は社会が部族に分断されれば勝てない。包括政党の純粋な長所は、様々なアイデンティティを持つ市民グループの間にコンセンサスを生み出す同盟を建設することであり、承認と再分配への闘争はそのアジェンダが様々な階級に及ぼす影響を認識する限りにおいて結合されうる。これは象徴的なトークン政治を超えて、構造的状況をだれもが平等な機会を享受できるように修正することを意味する。歴史的には、これら闘争を結びつけるのは社会民主主義の役割であった。その政治的未来もまたこの同盟を刷新することの中にある。

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前田正子『無子高齢化』

378359前田正子『無子高齢化 出生数ゼロの恐怖』(岩波書店)をおおくりいただきました。ありがとうございます。

https://www.iwanami.co.jp/book/b378359.html

現在約1.3億人の日本の人口は,2040年代に1億人を割るとされる.そしてその時日本は65歳以上の高齢者が4割の超高齢国となる──.「少子化対策」が叫ばれながら,なぜ日本の出生率は下がり続けるのか? そのカギは景気後退と雇用の劣化に翻弄された団塊ジュニアの未婚化にあった.一貫して少子化,子育てを研究してきた著者による「少子化対策失敗の歴史」と渾身の対抗策.

実は、目新しいことは何も書いてありません。前田さんをはじめとして、多くの心ある人々が口が酸っぱくなるほど繰り返し語り続けながら、きちんと対応されることなくいままでずるずると来てしまったこの国の姿を、改めてこれでもかと見せつけてくるような本です。

はじめに
 どんどん減っていく現役人口/“溶けない氷河”世代を社会に組み戻す

第1章 少産多死ニッポン 人口が減ると何が起こる?
 日本は少産多死の国/毎年五〇〇の学校が閉校している/合計特殊出生率一・四四で何が起こるか/問題は生産年齢人口 一・四人の現役で一人の高齢者を支える日/サービスもセーフティネットも成立しなくなる/もうミカンは食べられない?/水道事業は維持できるか/九〇歳はめでたくない? いまや約二一九万人/高齢者四割社会は未体験ゾーン/すでに地方では急速な人口減少が始まっている/生産年齢人口は激減していく/二〇四〇年,三人に一人が七五歳以上になる秋田県/出生数ゼロ地域の出現/無子高齢化は「今ここにある危機」

第2章 なぜこんなにも少子化が進むのか
 なぜ少子化が進んでいるのか──直接的な三つの要因/分水嶺は団塊ジュニアの未婚化/一生結婚しない人たち 生涯未婚率の上昇/晩婚化・晩産化はどんどん進む/ワンオペ育児とダブルケア/夫婦の平均子ども数の低下/いずれは結婚したいけれど……/コミュニケーション能力と経済力が必要/結婚・出産はぜいたく品?/若者の非正規化が未婚化を招く/非正規雇用の結婚へのハンディは女性にも/結婚の形が自由になればいいのか?

第3章 少子化対策失敗の歴史――混迷の霧の中を進む日本
 人口が増えては困る時代があった/一九七三年まで続いた移民送り出し事業/一九六〇年代からすでに若年人口は減少していた/一九六九年には生産年齢人口減が予測されていた/第二次ベビーブームの到来と「成長の限界」/一九七〇~九〇年代は人口ボーナスの時代/日本型福祉社会と「ジャパン・アズ・ナンバーワン」 成功体験の足かせ/「一・五七」はなぜショックだったのか/「産めよ殖やせよ」の呪縛で及び腰/少子化という「女子どもの問題」は後回し/広がらなかった危機感/なぜ効果を上げられなかったのか 小出しの施策/変わらない政治家の姿勢/担当職員ですら子育て支援には無理解/結婚・出産は「自己責任」か/次世代育成こそが高齢者福祉を支えるはずなのに/「子育てなんか他人事」のツケ/政治の混乱,リーマンショック/司令塔がいない少子化対策・子育て支援/世代再生産の最後のチャンスを逃す/霧の中を人口減少へと進み続ける日本

第4章 第三次ベビーブームは来なかった 「捨てられた世代」の不幸と日本の不運
 保育園だけが子どもの問題ではない/そして,第三次ベビーブームは来なかった/破綻した「学校と職業の接続」/企業は生き残り,国は滅びる──少子化を招いた「合成の誤謬」/「パラサイト」「ひきこもり」が覆い隠した雇用の劣化/非正規にしかなれない現実/見えない「もう一つの社会」/間に合わなかった支援/日本の不運 失われた二〇年と団塊ジュニア,そしてポスト団塊ジュニア/学校卒業時の景気で人生が決まる/溶けない氷河 残り続ける世代効果/親と子の世代が仕事を奪い合う皮肉な構造/次世代と仕事を分かち合ったオランダ/片働き社会から脱却できなかった日本/高卒者の場合 世帯の経済力によるハンディ/進路ルートから漏れていく若者たち

第5章 若者への就労支援と貧困対策こそ少子化対策である――包括的な支援が日本の未来をつくる
 人口減少は止められるのか/婚活支援より先にやるべきこと/結婚したいけれど…… ずれる理想と予定/男性の収入 女性の期待とその現実/男性の賃金は低下し続けてきた/子育て世代の家計も厳しい/奨学金が少子化を招く?/いま必要なのは人生前半への支援/就労支援と貧困対策こそ少子化対策/緩少子化と超少子化の国は何が違う?/家事・育児を一緒に担う共働きの方が総労働時間が増える/人材をムダにするな 放置される未婚無業女性/深刻化する八〇五〇問題/必死で働いて貧乏になった「安くておいしい日本」の限界/「日本は何もかもが安い」/競争原理と地方創生のどちらを取るのか?/もう新しいタワマンもダムも道路もいらない/社会のOSを変えよう 総合的な社会保障の再設計を/外国人労働者はモノではなく人間である/受け入れ体制をつくっていく覚悟と努力/体制整備のコストは行政に転嫁される/移民は人口問題を解決するか?

〈対談〉それでも未来をつくっていくために 常見陽平×前田正子
 「処置」しかなかった日本/構造的な変化であることを理解できなかった/「就職氷河期」という言葉の初出は一九九二年/ほんとうに凍り付いたのは二〇〇〇年代前半,ポスト団塊ジュニアを直撃/フリーターはほんとうに「究極の仕事人」か/みんなでこの国を貧しくした/日本は世界の中堅中小企業/国民に目を向けていない政治/誰もが付加価値を生み出せる産業で働けるわけではない/「若者を耐えろ」/「日本人再生プラン」を/希望格差,文化格差が広がる若年層/少子化対策・若年支援庁をつくれ/行政は仕事の再配分を/「労働とは何か」が問い直されなければならない/子どもにどのような未来を手渡すのか

おわりに

それにしても、こうしてまとめて通読すると、あそこでああしていれば、とか、ここでこうしていればという歴史のターニングポイントになり得た時代がそれなりにあったことが分かります。日本人は自分たちの意識的無意識的政治選択によって、それらをすべて潰してここに至ったわけです。

たぶん、わたくしにお送りいただいた趣旨は、最後の常見陽平さんとの対談を紹介しろよ、ということなのだろうと勝手に理解して、いくつか重要な発言をピックアップ。

常見 こうして俯瞰して明らかになるのは、そもそも構造が変わっていることに気づかず、政治家も経営者も、学者でさえも短期的な景気の循環の一側面であると認識していたことですね。日本社会全体が、構造変化についてあまりにも無頓着だった。・・・

本書の文脈からすると誤解のしようのない発言なのですが、ある種の人々(あえて「りふれは」とは言わない)にとって、構造的という言葉はもっぱら経済学という狭隘な世界の中における循環的と対に理解される以外のいかなる含意もないため、その狭隘な経済学的意味の『構造的』の外側には生身の人間たちが形作っている膨大な社会学的な『構造的』があるということを全く理解しないまま、「なにぃ?構造的?ふざけるな、循環こそがすべてだ、構造なんて叩きつぶせ」とばかりやってきたことの一つの社会的帰結がここにあると、常見さんは示しているわけです。まあ、ある種の『社会学者』の『構造』もひどいものではあったにせよ、それと一緒くたに捨ててはいけないものがあるということが分からなかった。

そして、本ブログで定期的に取り上げている生産性の話に繋がる話。

前田 私も学生と話しながらも本当に迷うのは、賃金の低さが未婚化に繋がり、少子化、無子高齢化をもたらしているんだと教えたら、学生はみんな最低賃金を上げるべきだと言います。でも、「そうするとユニクロのフリースが3990円とか4990円になるけど、みんな買うよね?」と聞くと、「それは困る」となってしまう。・・・結局安くても高い品質やサービスを追い求めることが、回り回って自分の首を絞めていると思うのです。・・・

消費者として「安くていい物」を追い求めていくと、自分たち労働力もどんどん「安くていい物」へのラットレースに追い込まれていくという逆説も、もう何回繰り返された話でしょうか。

繰り返します。本書には目新しいことは何も書いてありません。でも、だからこそ読まれるべき本です。

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『月刊連合』12月号

Covernew『月刊連合』12月号は「若者の「働く」を考える」が特集です。

https://www.jtuc-rengo.or.jp/shuppan/teiki/gekkanrengo/backnumber/new.html

今年10月、『30代の働く地図』と題する本が出版された。全労済協会が2017 年6月から1 年をかけて開催した「これからの働き方研究会」の成果をまとめたものだ。研究会の主査であり、本の編者である玄田有史東京大学教授は「若者の働くことへのイメージが急速に変わりつつある。希望を持って働いていくためには何が必要なのか。その道標を求めて議論を重ねた」と振り返る。
さて、どんな道標が示されたのか。玄田教授と神津会長が語り合った。

というわけで、玄田さん、神津会長に村上陽子さんも揃って親指立てている見開きページがこちらになります。

201812_p23

この冒頭のところで、玄田さん曰く、

私は、研究が中心の社会科学研究所の所属なので、学部生とはふだんあまり接点がないんですが、3年前から去年まで法学部と経済学部で労働経済を教えることになりました。授業の感想や質問には必ずメールで答えるようにしていたのですが、多くの内容に驚かされた。「いつから働くことがこんなに怖いことになったのか」と…。ちょうど東大を卒業して電通に入社した高橋まつりさんの過労自殺が明らかになったりして、学生たちは他人事とは思えなかったのでしょう。寄せられるメールからは、「働くことが怖い」という思いが強烈に伝わってきた。

東大法、経の学生でも働くのが怖いのでは、ほかの大学の学生は恐ろしくてガクブルではないか、というところから、この話は始まります。

「連合2019春季生活闘争中央討論集会を開催」の記事では、総合労働局長の富田珠代さんが「賃金の『上げ幅』のみならず『賃金水準』を追及する闘争を強化」を論じています。一部マスコミが表層的に揶揄的な報道をしたあれです。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2018/10/post-adca.html(「べあ」から賃金水準へ)

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サンフォード・ジャコービィ『会社荘園制』@『HRmics』31号

1 『HRmics』31号。特集は「M&Aがあるじゃないか」ですが、私の連載「原典回帰」の第10回目は、サンフォード・ジャコービィの『会社荘園制』(北海道大学図書刊行会)です。

http://www.nitchmo.biz/hrmics_31/_SWF_Window.html

51w7pkhg2l_sx340_bo1204203200_  「原典回帰」連載開始以来、初めて現在なお活躍中の方の本を取り上げます。アメリカのサンフォード・ジャコービィ氏です。氏の『雇用官僚制』(Employing Bureaucracy)は、「アメリカの内部労働市場と“良い仕事”の生成史」という副題にあるように、アメリカ型の「ジョブ」に立脚した内部労働市場システムの歴史を描いた大著です。「アメリカに内部労働市場?」と思うかもしれませんが、内部労働市場という言葉はそもそもアメリカで生み出されたもので、それまでの「トレード」(職種)に立脚した外部労働市場型の社会のあり方から、20世紀前半に新たに登場しました。企業の事業を細かく分けていった管理単位としての「ジョブ」(職務)に立脚した仕組みは、20世紀アメリカ産業社会が生み出したものなのです。有名なドリンジャー&ピオリの『内部労働市場とマンパワー分析』がそのメカニズムを分析したものだとすれば、『雇用官僚制』はその生成の歴史を細かく跡づけた本と言えます。

 しかし、今回取り上げるのは誰もがジャコービィ氏の代表作と認める同書ではありません。『会社荘園制』(Modern Manors)というやや奇妙なタイトルのもう一冊の本です。『雇用官僚制』が20世紀アメリカのメインストリームとなった労働組合を組み込んだジョブ型内部労働市場を描いているのに対し、『会社荘園制』はその裏側でひっそりと生き延び、やがて組合の弱体化とともに勢力を拡大してきたノンユニオン型あるいはむしろ会社組合型の内部労働市場の歴史を描いているのです。なぜそっちを取り上げるのか?それは、それがいくつかの点で、日本的なメンバーシップ型の内部労働市場と似通った性格を示しているからです。 ・・・

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