水町勇一郎『「同一労働同一賃金」のすべて』

L24307水町勇一郎さんより『「同一労働同一賃金」のすべて』(有斐閣)をお送りいただきました。ありがとうございます。

http://www.yuhikaku.co.jp/books/detail/9784641243071

「同一労働同一賃金」の実現へと改革が進む。労使それぞれに衝撃を与え,大きな変革を迫るが,確かな理解に基づきあるべき方向へと進めるために,どのように向き合い取り組むべきか。第一線に立つ著者が,経緯をたどり,現在位置と今後の方向性を強く指し示す。

この間の経緯を知っている人であればあるほど、「真打ち登場!」と声を掛けたくなるであろう、水町さんの同一労働同一賃金本です。

ただ、中身は水町節全開というよりは、この間の経緯と改正内容を、やや第三者的立場からのように淡々と語っている感じです。

はじめに 「同一労働同一賃金」の衝撃
第1章 法改正の経緯──「一億総活躍」「働き方改革」と「同一労働同一賃金」
第2章 法改正の前史──「正規・非正規格差」とこれまでの法的対応
第3章 法改正案の内容──改革の趣旨と改正法案・条文案解説
第4章 法改正の基礎──外国法(フランス法,ドイツ法)の概要と日本との異同
むすび 「同一労働同一賃金」の実現に向けて

という感想を読者が持つであろうと思ったのでしょう。最後の「あとがき」では、

・・・この本は、全国各地で聞き取ったこの疑問や悩みに対し、なるべく私見や偏見を差し挟まず、原資料に基づいて誠実にお答えしようという思いから、書いたものである。

とありました。いやいやその「私見」が聞きたかったりするんですが。

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上野国久『ホンダ、フォルクスワーゲン プジョーそしてシトロエン 3つの国の企業で働いてわかったこと』

635b この本は、たまたま古本屋の店頭にあったものを見つけて、面白そうなので買ったものです。出版されたのは2015年ですが、そのときには私は全然気が付きませんでした。

http://www.mikipress.com/books/2015/02/-3.html

日本、ドイツ、フランスの自動車メーカーで働いたからこそ知り得た各企業文化の特徴、そこで働くために何が必要か、それがどのように「クルマ」に反映されるのかなどを詳細に綴る。

新卒でホンダに入社、その後セガ等を経て、フォルクスワーゲンに、そしてプジョー、シトロエンに転職した著者の、半生記自体も大変興味深いものですが、やはり日独仏という3か国の、同じ自動車製造企業でありながらその企業文化がいかに違うか、を論じたところが、とても面白かったです。

これは、自動車製造企業の話であるとともに、それが代表するそれぞれの産業社会のありようを表してもいるのでしょう。

・・・フォルクスワーゲンの組織にはいかにもドイツらしい勤勉、規律、秩序を尊重する気風がある。全体の統制が良くとれており、より良いものを追求する姿勢の日本企業のそれに似た風土がある。しかしながら、組織内の指揮系統と意思伝達の仕方は、多分に暗示的な日本企業のそれに比べるとはるかに明示的、明確かつ厳格であって、殊に上意下達の仕方は大きく異なる。一般に日本の企業組織においては、現場の意思統一を前提に意思決定がなされるから、下意上達を尊重する風潮があって意思決定と意思統一がしばしば同義語でありさえする。上下双方向の意思疎通が図られる一方で、組織内の同じ階層や部門内での横の意思疎通と意識のすり合わせが恒常的に行われる。・・・予定調和にない意思決定は組織内に軋轢と摩擦を生じさせる。

それに比べるとドイツ企業の組織内の意思伝達は、上意下達の一方通行のようなものである。役職者の役割、責任と権限は厳格に規定されているから、その裁量権の範囲では小気味よく物事を判断して、下に向かって的確に指示を下す。しかもその指示は絶対的なものである。日本の企業組織によくみられるような調整型の役職者など必要ないのだ。また日本の企業組織にはまれに、本社の言うことなんか聞いていられるか、などといって暴れる現場隊長なども出現することがあり、それがまた組織上層部に認められて何かの拍子に偉くなったりする。ドイツの企業組織においてそういう人物の存在は想像しがたい。・・・

経験的に言えば、ドイツの企業組織にも忠誠心と規律と団結力が、日本企業に負けず劣らず見られるのだが、その土台となる価値観を形成するのは暗黙知ではなく、原則、規則、規格、基準、規程などの形式知によるものである。伝統的な日本の企業組織においては、その組織に何年もどっぷり浸かってその組織空間で共有される暗黙知を体得しなければ一人前とみなされないが、ドイツの企業組織の行動原理は明示的に形式知として厳格に定義されているから、日本の曖昧な組織原理のように何年もどっぷりと浸かって経験的に体得しなくても、教育と訓練によって効率的に身に付けられはするものの、私などにはいささか窮屈に感じられる。

これに対して、フランスはむしろ暗黙知の世界なのですが、これまた一筋縄ではいきません。ドイツが「窮屈」なのに対して、フランスは「面倒」だという著者の説明を聞きましょう。

・・・むろん、フランスの企業組織にも、忠誠心そして規律も団結力もある。しかしながら、フランス人は徹底した個人主義で育っているせいか、組織的枠組みや型にはめられるのを嫌がって、それを素直に認めようとしない。個人も組織もその行動原理や性格がややこしいのである。そのややこしさはフランス人の間では共有されているから、曖昧でも通じる日本人のそれと同じで、彼らの暗黙知なのである。

・・・私はfrancophileではあるけれども、別にドイツが嫌いなわけではないから、両国に対する公平を期して、フランス企業で働く日本人が往々にして感じることを要約しておけば、「面倒」ということになる。・・・

フランスとフランスの企業組織のわかりにくさは彼らが共有する暗黙知にあるのだろう、とあるときから私は割り切ることにした。・・・

日本の社会は暗黙知の働きで曖昧なままに運ばれることがあるけれども、形式知すらも曖昧になってしまうことがある。暗黙と形式知との総量が社会の価値観と文化を形成し、組織の在り方と仕事の進め方を性格づけるのであるが、フランスの社会と企業組織においては暗黙知として共有されたものが、ひとたび原則、規則、規格、基準、規程などの形式知で明示されると、ドイツと同じように、あるいはそれ以上に厳密かつ厳格に守られる。日本人ならば契約書に書かれたことでも、「そうは言っても」とか「そこを曲げて何とか」と頼み込んだり拝んだりして、相手方も「そこまで言うのなら、いつもお世話になっていることだし、特別な計らいを」などということがあるけれども、フランス人同士ではありえないことで、文章や書面の形式をとって契約や規則になるとそれは絶対的なものとなる。いかなる取り決めも、紙に書かれ、書面で合意してしまうと、たとえそれが理不尽に思えても、絶対的な効力を発揮する。それが口約束ではどんな関係にあってもあてにはならないし、なんの役にも立たないということがままある。

フランス人は、社会人として働き始めるとまずその洗礼を受けるらしい。例えば、取引先との商談を、上司に口頭で確認をとりながら取り決めをして、いざとなったときは上司から「そんなことは許可していない」と、日本でいうはしごを外されるというようなことである。

「そんな、任せたって言ったじゃないですか」

「どこにそんなことが書いてある?」

そういうことを彼らは何度となく経験しているから、仕事で一人前になって何かを取り決めをするときは、議事録や覚書や契約書にしようとせっせと書いて書面にする。そうして然るべき立場になると、かつて自分がやられたように、部下に向かって

「私はそんなことは許可していない。どこに書いてある?」

と、やるのである。・・・

 

 

 

 

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「人材と競争政策に関する検討会」報告書

本ブログでも何回かその動きを紹介してきましたが、公正取引委員会の「人材と競争政策に関する検討会」が本日報告書を取りまとめたようです。

http://www.jftc.go.jp/houdou/pressrelease/h30/feb/20180215.html

報告書の本文は:

http://www.jftc.go.jp/cprc/conference/index.files/180215jinzai01.pdf

その要約は:

http://www.jftc.go.jp/houdou/pressrelease/h30/feb/20180215.files/180215_02.pdf

とりあえず、要約版をコピペしておきます。

発注者(使用者)の共同行為に対する独占禁止法の適用

○ 複数の発注者(使用者)が共同して役務提供者に対して支払う対価を取り決めることは,原則, 独占禁止法上問題となる。

○ 複数の発注者(使用者)が共同して役務提供者の移籍・転職を制限する内容を取り決めること は,独占禁止法上問題となる場合がある。

○ 移籍・転職を制限する内容を取り決める行為が役務提供者の育成に要した費用を回収する目 的で行われる場合であっても,通常,当該目的を達成するための適切な他の手段があることから, 違法性が否定されることはない。

○ 例えば,移籍・転職を制限する内容を取り決める行為が,複数のクラブチームからなるプロリー グが提供するサービスの水準を維持・向上させる目的で行われる場合,そのことも考慮の上で, 独占禁止法上の判断がなされる

発注者の単独行為に対する独占禁止法の適用

発注者(一部行為は使用者)により役務提供者に対してなされる,①秘密保持義務,②競業避止 義務,③専属義務,④役務提供に伴う成果物の利用等の制限,⑤事実と異なる取引条件を提示す る行為について,従来の判断枠組みに基づき,自由競争減殺,競争手段の不公正さ,優越的地位 の濫用の観点からの考え方を整理。

○ 自由競争減殺の観点からは,一般的には,商品・サービス市場において高いシェアを有する発 注者の制限行為が,同市場において競争関係にある他の発注者の供給や参入を困難とするお それを生じさせる場合に独占禁止法上問題となる。

○ 自由競争減殺の観点での独占禁止法上の評価においては,問題の行為について,競争促進 効果・社会公共目的の有無,手段の相当性の有無などについても総合的に考慮の上で判断され る。

○ 競争手段の不公正さの観点からは,発注者が役務提供者に対して実際と異なる条件を提示し て,又は役務提供に係る条件(例えば,他の発注者への役務提供の制限)を十分に明らかにせ ずに取引することで,他の発注者との取引を妨げることとなる場合に,独占禁止法上問題となり 得る。

○ 優越的地位の濫用の観点からは,役務提供者に対して取引上の地位が優越している発注者 が役務提供者に不当に不利益を与える場合に独占禁止法上問題となり得る。発注者が通常企業 であるのに対して役務提供者が個人で事業を行っていることが多いという人材獲得市場の事情 は,役務提供者の優越的地位の認定における考慮要素となる。

○ 優越的地位の濫用の観点での独占禁止法上の評価においては,問題の行為について,代償 措置が採られている場合には,そのこと及び代償措置の内容・水準の相当性なども考慮の上で 判断される。

競争政策上望ましくない行為

○ 対象範囲が不明確な秘密保持義務又は競業避止義務は,役務提供者に対して他の発注者 (使用者)との取引を萎縮させる場合があり,望ましくない。対策として,関係分野ごとに,範囲の 明確化に資する考え方を周知すること等が考えられる。

○ 発注者は,書面により,報酬や発注内容といった取引条件を具体的に明示することが望まれる。

○ 発注者が,合理的理由なく対価等の取引条件について他の役務提供者への非開示を求めるこ とは,役務提供者に対する情報の非対称性をもたらし,また,発注者間の競争を起こらなくし,望 ましくない。

○ 役務提供者の獲得をめぐって競争する発注者(使用者)が対価を曖昧な形で提示する慣行は 発注者が人材獲得競争を回避する行動であり,望ましくない。

この手の雇用類似の働き方に対する関心はここ1,2年の間に急激に高まりました。厚生労働省でもいま「雇用類似の働き方に関する検討会」を始めたところですが、労働法の武器をその外側に広げていくやり方と、労働法以外の武器をうまく組み合わせて使っていくやり方と両方あり得て、その後者の一つの戦略として、こういう独占禁止法を使うやり方もあるというわけです。

 

 

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メンバーシップ幻想

たまたまネット上に、こういうブログ記事を見つけたのですが。

http://have656.hatenablog.com/entry/2018/02/02/095509((その他)メンバーシップ幻想が根源的理由)

なんだか話が微妙にねじれている感がありました。

もうかなり前のことになるが、『日本の雇用と労働法』(濱口桂一郎著:日経文庫)という本を読んだとき、そこで提唱されている「メンバーシップ雇用」という概念に瞠目させられた。日本の会社では、社員全員が、「会社」という看板によって同定される共同体の「メンバーの一員」という幻想をもってこれにコミットすることを求められる。こういう共同幻想の社会では、「メンバーシップを与えられる」ということがすなわち「雇用される」ということだと考えられている。

夫がそういう体質を色濃く持った会社に長く浸かっていると、いつのまにか家庭という共同体もメンバーシップ幻想がその本質だと錯覚するようになる。だから、例えば夫は妻に対して「お前も『我が家』の一員なのだから、その役割を果たせ」のような考え方を持つようになると考えられる。

だが、家族(家庭)の本質は、もっと生身の男と生身の女がむき出しになって向き合う場だと思う。「生身の男と生身の女がむき出しになって向き合う」ということになんらかの妙味があるためには、どんな工夫が必要か。そういう問題意識を男も女も持ち続けることが必要なのではないだろうか。

いや、そういう考え方がありうるということはよくわかります。

ただ、少なくとも、日本の会社をメンバーシップ型と呼んだときの発想というのは、それこそ夫婦や家族といった本来的に共同体的な人間の作る集団とは異なる機能的集団として、まさに企業の構成要素たるジョブに当てはめられる労働者はメンバーなんかじゃないという、日本以外の諸国では当然視されているありようとは異なるものというインプリケーションなので、その夫婦が、家族が、メンバーシップだというのは幻想だといわれると、いやまさに本質的にはその通りだと思いますが、なんだか話の次元が一つずれた感が湧いてきます。

本質論としては、家族のような共同体の典型的な集団であっても、その共同性はある種の幻想の上に成り立っているというのはその通りだと思うのですが、話がそこまでいってしまうと、日本の会社をメンバーシップ型だという意味がかなり薄れてしまう気もします。

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矢吹晋『沖縄のナワを解く』

先日のエントリで紹介したように、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2018/02/100-a24f.html(社会主義理論研究会(池袋)『ロシア革命100年を考える』 )

本ブログのコメント欄に時たま「希流」というハンドルネームで書きこまれる情況出版の服部さんという方から、雑誌『情況』の最新号と、情況選書ということで出版された本を二冊お送りいただきました。

1505097011221staff01_imgそのもう一冊が、矢吹晋さんの『沖縄のナワを解く』(世界書院)です。『情況』は人も知るとおりブント系の新左翼雑誌ですが、一緒に送られてきた同誌の最新号にも朝鮮総連系の人が北朝鮮の弁護論みたいなのを書いていて、この辺の日本的新左翼の妙なアジア的専制主義への共感体質みたいなのは、少なくとも欧米の新左翼系には見られないもので、正直あんまり感心しません。

ここでいう話ではないですが、最近某美人系国際政治学者のテレビ発言が炎上しているそうですが、そもそも北朝鮮を地上の楽園と称賛しまくってきた人々の決算はどこかできちんとされているのか、それと韓国におけるナショナリズムの発露としての歴史問題の議論をない交ぜにするような議論の横行には、ある時期からの泥サヨ(泥臭いマイノリティへの憑依を正義の徴とする)の理論構築における規律のなさみたいなのが感じられます。

アジア的専制主義への奇妙な媚態と、それに抵抗する(本来の新左翼のイデオロギーからすればもっとも支持すべき)人々へのこれまた奇妙な冷酷さを示すこの周辺の匂いは、どうも受け入れがたいものがあります。

という話は、この本とは直接関係ありませんね。

本書は、幕末のペリーが琉球を「発見」したときの話、サンフランシスコ講和条約時に沖縄がどう弄ばれたかの話、その後「残存主権」という概念をめぐる話、そして、沖縄返還前後に中華民国国民政府が(そもそも本当は沖縄に対する主権を主張したかったのだけれども)尖閣列島の問題を主張し、それがその後ねじれにねじれて、今日の日中間の問題に至っているという話を、外交資料を丹念に駆使して分析した歴史書で、大変面白く読みました。矢吹さんのスタンスに同意するかどうかはともかくとして、こういう歴史的事実にきちんと立脚して議論をしていくことが何より重要だと思います。

私にとって本書で一番面白かったのは、終戦前後の時期に蒋介石が(清朝時代の琉球の朝貢を根拠として)執念深く沖縄への領土欲を示していたことです。結果的にアメリカの施政権から日本への「返還」となったのは、皮肉な話ですが、蒋介石政権が台湾に追われ、国共両方とも講和条約に呼ばれることがなかったからですが、それでも沖縄返還直前まで蒋介石はアメリカに文句を言っていたのですね。

尖閣問題というのは今では余りにも大きな話になってしまっていますが、もともとはそのついでみたいな話として中華民国が提起したものに、中共政府がついでに乗ったみたい話だったというのが、国際政治の面白さというべきでしょうか。

(追記)

本物のマルクス主義者が現代中国をきちんと分析したこんな本をかつて紹介したこともあります。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2014/09/post-16fd.html(區龍宇『台頭する中国 その強靭性と脆弱性』)

著者は香港のマルクス主義者です。中国に何千万人といる共産党員の中に誰一人いないと思われるマルクス主義者が、イギリスの植民地だったおかげで未だに何とか(よろよろしながらも)一国二制で守られている思想信条の自由の砦の中で生き延びていられるマルクス主義者ですね。

だからこそ、中国共産党という建前上マルクス主義を奉じているはずの組織のメンバーが誰一人語ることができない「王様は裸だ」を、マルクス主義の理論通りにちゃんと分析して本にできているのですから、ありがたいことではあります。

それにしても、資本家が労働者を抑圧するのに一番良い方法は、資本家自身が労働者の代表になってしまうことだというのは、マルクス様でも思いつかないあっと驚く見事な解法でありました。

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「雇用類似の働き方に関する検討会設置の目指すもの」@『月刊人事労務実務のQ&A』2018年3月号

Image1『月刊人事労務実務のQ&A』2018年3月号に「雇用類似の働き方に関する検討会設置の目指すもの」を寄稿しました。

厚生労働省は、昨年10月24日に、「雇用類似の働き方に関する検討会」(座長・鎌田耕一東洋大学法学部教授)を発足させました。「雇用類似の働き方が拡大している現状に鑑み、その働き方について順次実態を把握し、雇用類似の働き方に関する保護の在り方について、法的保護の必要性を含めて中長期的に検討する必要がある。このため、まずは雇用類似の働き方に関する実態等を把握・分析し、課題整理を行う」ということから発足させたとあります。昨年3月28日に決定した政府の「働き方改革実現会議」の「働き方改革実行計画」でも「柔軟な働き方がしやすい環境整備」のために「非雇用型テレワークをはじめとする雇用類似の働き方が拡大している現状に鑑み、その実態を把握し、政府は有識者会議を設置し法的保護の必要性を中長期的課題として検討する」とあります。雇用類似というものがどのようなものを指しているのか。今後の労働政策としてどのような問題が検討されていくのか。労働政策研究・研修機構の濱口桂一郎労働政策研究所長にこれまでの経緯とそのめざすものについて解説してもらいます。

・・・

 

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佐藤博樹・矢島洋子『新訂 介護離職から社員を守る』

1660162x240佐藤博樹・矢島洋子『新訂 介護離職から社員を守る ~ワーク・ライフ・バランスの新課題』(労働調査会)をお送りいただきました。ありがとうございます。

http://www.chosakai.co.jp/publications/20294/

団塊の世代が75歳以上に到達する2025年には、団塊ジュニア層が親の介護に直面することが予想されます。介護離職による優秀な人材の流出を防止することは、企業にとって今後ますます重要な課題となってきます。本書は、仕事と介護の両立を企業がどうやって支援していくべきか、統計調査や個別事例を基に「事前の情報提供」「制度の見直し」「柔軟な働き方」という視点から解説しています。新訂版では育児・介護休業法、介護保険法の改正を反映するとともに、著者二人による対談を追加し、介護離職と企業の対策をめぐる最近の状況を見渡しています。

ということで、冒頭の対談が見通しをよくしてくれるいい導きになっています。

序章 対談・介護離職を防ぐ取組みは広まったか
Ⅰ章 なぜ企業に仕事と介護の両立支援が求められるのか
Ⅱ章 介護が必要になる前の情報提供が重要に
Ⅲ章 両立支援制度の設計・見直し
Ⅳ章 両立に直面した人への支援
Ⅴ章 ワーク・ライフ・バランスを実現するための働き方改革
Ⅵ章 企業だけでなく~社会で支える仕事と介護の両立

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奨学金破産の雇用システム的根源

朝日新聞が昨日、「奨学金破産、過去5年で延べ1万5千人 親子連鎖広がる」という記事を一面トップで報じたようですが、

https://www.asahi.com/articles/ASL1F7SBXL1FUUPI005.html

国の奨学金を返せず自己破産するケースが、借りた本人だけでなく親族にも広がっている。過去5年間の自己破産は延べ1万5千人で、半分近くが親や親戚ら保証人だった。奨学金制度を担う日本学生支援機構などが初めて朝日新聞に明らかにした。無担保・無審査で借りた奨学金が重荷となり、破産の連鎖を招いている。

この問題については、やはりその雇用システム的根源に遡ってものごとを考えないと、表層的な良い悪い論だけではなかなか本質的な解決には至らないでしょう。

9784906708314_2002016年9月に『POSSE』32号に載せた「日本型雇用と日本型大学の歪み」が、この問題について最低限考慮すべきことを簡潔に論じていますので、お蔵出ししておきたいと思います。

1 日本型雇用システムと雇用政策の変転

2 日本型雇用適合的教育システムと教育政策の変転

 ジョブ型雇用システムを前提とすれば、労働者は採用されるために必要な資格や技能を予め身につけておく必要があります。新規学卒者が特定の職業に必要な資格や技能を身につけるためには、学校はそのための教育、すなわち職業教育を用意しなければなりません。それに対して、メンバーシップ型雇用システムを前提とすれば、具体的な職業のための資格や技能は重要ではなく、むしろどんな仕事を命じられても素直に取り組み、技能を高めていける「能力」こそが重要になります。職業教育で身につけられる具体的な職業の能力ではなく、いかなる職務にも対応できる一般的抽象的な「能力」を求める日本型雇用に応えようとすれば、その教育システムは(将来就くことになる職業の多様性に対応した)教育内容の多様性を指向するのではなく、一元的な物差しで高いか低いかのみが測られる普通教育をひたすら指向することになります。これが、乾彰夫さんが『日本の教育と企業社会』(大月書店、1990年)で「教育と社会を貫く一元的能力主義」と呼んだものであり、本田由紀さんが日本の教育における職業的レリバンスの欠如として批判してきたものです。
 しかし、そうした日本型雇用に適合した教育システムは、上記雇用政策の変転に対応して構築されてきたものであるということも確認しておく必要があります。1950年代から60年代の日本政府は、ジョブ型志向の雇用政策と軌を一にして、ジョブ型志向の教育政策を唱道していたのです。上記1963年の『人的能力政策に関する経済審議会答申』は、職業に就くものは全て何らかの職業訓練を受けることを慣行化するという目標を掲げ、職業教育の重点化、多様化を求めています。当時は高校進学率が急上昇していた時期であったこともあって、焦点は後期中等教育にあり、職業高校では企業現場での実習を行うとか、普通科高校でも職業科目を教えることなどが提起され、高等教育については理工系学部における技術者養成の重要性が説かれる一方、文科系学部には言及すらされていません。
 教育界はこれに対して冷ややかで、特に進歩派は職業教育を産学協同につながると毛嫌いしました。政府の職業教育主義は国民の反発で蹉跌したのです。一方、企業側は高卒者に対するOJTを中心とした養成システムを確立していき、それが日本的な「能力」主義の基盤となっていきます。1970年代以降になると、上でみたような雇用政策の転換と軌を一にして、メンバーシップ型雇用システムを所与の前提とする教育システムが確立していきます。学校で何を学んだか、何を身につけたかが問題にされず、偏差値という一元的なモノサシで評価される時代がやってきました。多様な選別を拒否した報酬は一元的な選別でしかありませんでした。
 そしてその時代精神のただ中で、今度は大学への進学率が次第に上昇していきます。後期中等教育へ、高等教育へという進学率の上昇傾向は先進国共通です。これは言い換えれば大学が少数エリートのものから大衆化していくプロセスです。しかしそれが社会のさまざまな職業に対応する多様化ではなく、一元的価値観で貫かれる形で進行した点に、日本型大衆大学の特徴があると言えるでしょう。
 矢野眞和さんは『「習慣病」になったニッポンの大学』(日本図書センター、2011年)で、日本型大衆大学を日本型家族と日本型雇用と三位一体のシステムと捉え、その諸外国に類をみない18歳主義、卒業主義、親負担主義という3つの特徴を指摘しています。ここで言う日本型家族というのは大学の授業料を親が負担するという点に着目したものですから、それを可能にするような年功的な生活給を企業が労働者に支払うことを含意しています。かつては大学進学率自体が極めて低かったのですから、子どもが成人に達した後まで親の生活給で面倒をみるのが当たり前というのは、1970年代以降に確立したごく新しい「日本型」システムであることに留意すべきでしょう。
 そして、「日本型」システムが常識化していくとともに、それ以前に世界標準に近い形で形成されていた制度は、非常識なものとして急速に「日本型」に適合するような形に変形されていきます。国立大学の授業料は1975年の3.6万円から1980年に18万円に上昇し、21世紀には50万円を超えるに至りました。私立大学は80万円を超えています。親がそれだけの給料をもらっていることを前提とすれば、まことに常識に沿ったやり方だったのでしょう。
 一方、本号の特集との関係でいえば、奨学金制度を有利子による金融事業へと大きく転換させた1984年日本育英会法改正は、学校卒業後誰もが日本型雇用システムの中で年功賃金を受け取っていくことを前提とした仕組みです。1980年代の改革を後の新自由主義につながるものとして解釈することも可能ですが、日本型雇用システムへの賞賛が最盛期に達していた時代であり、その時代の精神的刻印を濃厚に受けているということを忘れてはならないでしょう。授業料の引き上げも、奨学金の金融化も、少なくともその始まった時代には「常識」に合わせるための改革だったのです。しかし、その「常識」はやがて周辺部から崩れていきます。

3 日本型雇用の収縮に取り残される教育

 先述したように、日本型雇用の全盛時代は1980年代を中心とした前後20年ほどに過ぎません。1995年の『新時代の「日本的経営」』を合図に、1990年代半ばにはメンバーシップ型雇用システムの収縮が始まります。
 拙著『若者と労働』(中央公論社、2013年)では、バブル崩壊後学卒労働市場が急激に縮小し、そこからこぼれ落ちた若者たちが不本意に非正規雇用に追いやられたこと、それにもかかわらず、バブル時代の延長で「フリーター」という名で呼ばれ続けたために問題意識が抱かれず、2000年代になって彼らが年長フリーターと呼ばれるようになって初めて政策対応が始まったことを説明しました。勤続とともに賃金が上昇していくメンバーシップ型正社員と異なり、前時代の主婦パートや学生アルバイトといった家計補助的労働者モデルを引き継いだ彼らは、年齢を重ねても生活ぎりぎりの低賃金のままです。
 しかしながら、日本型雇用の全盛時代たる1980年代に時代精神に合わせる形で有利子金融化された奨学金制度が、そこからこぼれ落ちた彼らに襲いかかります。彼らは学生時代に、メンバーシップ型正社員としての自分たちの未来を担保に入れる形でお金を借りていたわけです。しかしその未来は不確実なものでした。不確実なものを確実であるかのように見せていたものは何か。日本型雇用への信仰としかいいようがありません。その不確実性が露呈したとき、奨学金という名の(本来教育分野における社会保障政策であるはずの)制度が、乏しい収入から毎月かなり高額の利子つき返済を強いられる制度に転化していきます。
 重要なのは、これがもともと悪意で作られた制度ではない、ということです。若者がほとんどみんな正社員として「入社」でき、その後メンバーシップ型正社員として年功的な生活給を享受できるはずという「常識」が国民の多くに共有されていたからこそ、その正社員としての悠々たる未来を担保に学生に多額の金を貸すというビジネスモデルが受け入れられたのです。確かに80年代改革を主導したイデオローグには、当時アングロサクソン諸国で有力であったネオリベラリズムの影響がかなり強く見られましたが、80年代改革が広く国民に受け入れられたのはそれが日本型雇用を所与の前提にしていたからです。そして皮肉なのは、90年代以降日本型雇用が収縮し、むき出しのネオリベラリズムが唱道されるようになると、学生に自分の将来を担保に利子付きの金を貸し付けるというビジネスモデルが、原理的に正しいものとして正当化されるようになります。80年代に国民的合意の根拠となった日本型雇用の収縮と入れ替わるように、今度は市場主義的な自己責任論が正当化の根拠になっていきます。経済アクターは常に合理的な計算をして行動すべきであって、いつまでもフリーターをしていて借りた金もまともに返せないような者が悪いということになるのです。
 日本型雇用の収縮は年功賃金を享受してきた中高年層にも及びます。拙著『日本の雇用と中高年』(ちくま新書、2014年)では、90年代以降のリストラが中高年労働者、とりわけ管理職クラスを狙い撃ちしたこと、追い出し部屋に送り込まれ、意に反して「希望」退職を強いられたことを述べました。しかしより広範で重要なのは、ヒト基準の職能給制度を維持したまま、(本来は職務を明確に定義することが前提であるはずの)成果主義賃金制度を大幅に導入し、「成果が上がっていない」という理由で年功的に高賃金になる多くの中高年労働者の賃金カーブを引き下げようとしたことです。そのこと自体は、(手法の是非を別とすれば)合理的と評価しうる面もあります。
 しかしながら、日本型雇用における中高年の高賃金とは、西欧諸国であれば公的な社会保障で賄われているはずの教育費や住宅費といった必然的生活コストを個別企業の賃金で賄うという意味がありました。だからこそ、70年代以降先進諸国と同様に高等教育進学率が急速に上昇していったにもかかわらず、その費用の大部分を公的負担ではなく私的負担で賄うことができたのです。その私的負担を可能にしたのは、学生の親(父親)の年功的高賃金でした。矢野眞和さんのいう「親負担主義」の雇用システム的基盤です。それが90年代以降企業の経営合理性を理由に攻撃対象となったにもかかわらず、それを公的負担にシフトさせていこうというような声はほとんど上がることはありませんでした。こちらもやはり、90年代以降世の中を席巻したネオリベラリズムが原理的に私的負担を正当化する方向に働いたからです。
 親の年功賃金が徐々に縮小していく中で、等しく私的負担といってもその負担主体は次第に学生本人にシフトしていかざるを得ません。こうして、かつては補完的収入であった奨学金やアルバイト収入が、それなくしては大学生活を送ることができないほど枢要の収入源となっていきます。学生本人の現在の労働報酬と将来の労働収入(を担保にした借入)によって高等教育費を賄うべきという考え方は、それ自体は市場原理主義という一つの思想から正当化され得ます。しかし、それはそういう形で正当化されて成立した仕組みではありません。日本型雇用に基づく年功賃金を所与の前提とする親負担主義に立脚して作られた仕組みです。それがいつの間にか、ネオリベラリズム的な本人負担主義にすり替えられていたのです。

4 職業訓練の視角からものごとを考え直す

 表面の政策イデオロギーはネオリベラル化しながら、制度の基本思想はそれが作られた時代の日本型雇用に過剰適応したままというねじれ構造の下で、もはや少数エリートではなく同世代人口の過半数を占める大衆となった大学生たちは、学生本人の現在の労働報酬と将来の労働収入(を担保にした借入)によってその教育費用を賄わざるを得ない状況に追いやられています。それを増幅するのは、依然としてエリート教育時代の夢を追って、大学とは「学術の中心として、広く知識を授けるとともに、深く専門の学芸を教授研究し、知的、道徳的及び応用的能力を展開させることを目的とする」(学校教育法83条1項)のであるから、職業教育訓練機関のような低レベルのものにしてはならない、と頑固に主張するアカデミズム思想です。

 同世代人口の過半数が進学する高等教育機関が、職業教育訓練とは無関係の純粋アカデミズムの世界を維持できていたとすれば、それはその費用が親の年功賃金で賄われていたからであり、しかも、「入社」後は会社の命令でどんな仕事でもこなせるような一般的「能力」のみが期待されていたからでしょう。大学で勉強してきたことは全部忘れても良いが、それまで鍛えられた「能力」は重要であるという企業側の人事政策が、その中身自体は何ら評価されていないにもかかわらず大学アカデミズムがあたかも企業によって高く評価されているかのような(大学人たちの)幻想を維持していたわけです。

 しかしその結果、ジョブ型社会であれば当然であるはずの、大学生が卒業後多様な職業に就き、社会に貢献することになるがゆえに、その費用も社会成員みんなが公的に賄うべきという発想が広がることが阻まれました。なぜなら、大事なのはどういう教育を受けたかによって異なる個別的な職業能力ではなく、何でも頑張ればこなせる個人の「能力」である以上、教育の中身自体を公的に賄うべき筋合いはないからです。

・・・・日本型雇用に基づく親負担主義に支えられていた幻想のアカデミズムは今やネオリベラリズムの冷たい風に晒されて、有利子奨学金とブラックバイトという形で学生たちを搾取することによってようやく生き延びようとしているようです。そのようなビジネスモデルがいつまで持続可能であるのか、そろそろ大学人たちも考え直した方がいい時期が来ているようです。 

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ガイ・スタンディング『ベーシックインカムへの道』

71rzjfa9ysl ガイ・スタンディング『ベーシックインカムへの道―正義・自由・安全の社会インフラを実現させるには』(プレジデント社)をお送りいただきました。ありがとうございます。

帯の文句に曰く:

シリコンバレーから北欧まで、左派から右派まで
世界で爆発的な関心を集める所得再分配の手法
AI失業も経済格差も克服できるのか?
世界的論客による必読の一冊

そして、帯の後ろ側に載っているセリフは:

この本は、ベーシックインカム(BI)への賛成論と反対論を一とおり読者に紹介することを目的としている。
BIとは、年齢や性別、婚姻状態、就労状況、就労歴に関係なくすべての個人に、
権利として現金(もしくはそれと同等のもの)を給付する制度のことだ。
本書ではBIとはどういうものか、この制度が必要とされる根拠であるところの三つの側面、
すなわち正義、自由、安全について論じ、経済面での意義にも触れる。
また、BIに対して唱えられてきた反対論、とくに財源面での実現可能性と、
労働力供給への影響について考えたい。
さらに、制度の導入を目指すうえでの実務的・政治的な課題も見ていく。

Isbn9784589037800ガイ・スタンディングの本としては、一昨年に『プレカリアート』をいただいたときに本ブログで紹介していますが、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2016/05/post-2314.html (ガイ・スタンディング『プレカリアート』)

著者のスタンディング氏はILOに勤務したこともあり、ベーシックインカム地球ネットワーク(BIEN)の創設者の一人でもあるということで、世界のいろんな諸国の動向に目配りをしながら、プレカリアートを生み出した新自由主義-リバタリアン・パターナリズムからの脱出口はベーシックインカムだという最後の結論にもっていくまで、現代世界の実にさまざまな局面を描写していく手際はなかなかすごいものがあります。内容において結構ずっしりと重い本です。

前著ではプレカリアートを解決するための結論であったベーシックインカムをテーマに据えて、実に様々な側面から論じつくそうとする本です。

本ブログとしてはやはり、第8章の「仕事と労働への影響」を論じたところがたいへん興味深いものでした。

本書に限らず、ベーシックインカムについて論じたものは、おおむね生活保護のような社会扶助との関係での合理性に注目する議論が多いのですが、本書を読みながら、むしろ自分なりの最近の問題関心に引き寄せつつ考えていたことは、第4次産業革命といわれるような技術変化に伴う労働市場の変化に対応する労働市場のセーフティネットを考える上で、ベーシックインカムというものを考えてみる必要があるのかも知れないということでした。

以下はどちらかというと本書自体とはやや離れたわたしの思考ということになりますが、最近の日本では、AIで仕事そのものが絶対的に減るからBIだというようなやや粗雑な議論が流行りがちですが、そこには私は大変懐疑的ですが、しかし仕事はなくならなくてもそのありようがかなり大幅に激変するだろうという見通しはあって、たとえば「ジョブからタスクへ」というようなイメージを前提とすると、そういう断片的間歇的にタスクという形で仕事が来たりう来なかったりする(労働者側に自律性がない)自営的労働市場が一般化した社会において、ある程度中長期的に「ジョブ」が継続することを前提とした失業保険的な労働市場のセーフティネットというのはあまり力を発揮できなくなるであろうと思われるわけですが、ではどうするか?に対するまともな答えはほとんど存在していないわけです。

とすると、明確なジョブがある間に保険料を払い、そのジョブが失われた狭間の時期に給付を受けるというジョブ型労働市場に即したジョブ型失業保険制度とは異なる、ジョブの存在確率が不確定的な汎自営的労働市場における給付の在り方という観点から、ベーシックインカムというコンセプトを練り直してみるということも考えていいのではないか、と、これは読みながらその傍らで脳内に盛り上がってきた空想ですが。

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『DIO』334号

Dio 連合総研の機関紙『DIO』334号をお送りいただきました。今号の特集は「ディーセント・ワークの実現に向けた 労働権の再構成 」です。

www.rengo-soken.or.jp/dio/pdf/dio334.pdf

ディーセント・ワークと仕事の未来 田口晶子

労働権の再構成と「就労価値」論 −「分かち合い」社会の実現のために−  有田謙司

集団的労使関係の再生と法の役割  植村新

ここでは、植村さんの論文を紹介しておきます。「集団的労使関係を再生するために そもそも法はいかなる役割を果たしうるか、 果たすべきか」という問いに対して、植村さんが補助線として持ち出してくるのは、近年のドイツの法政策の動きです。

これについては、山本陽大さんが精力的に紹介しているのでわたしもかなり読んでいますが、その動向を踏まえて、植村さんは日本に対するメッセージとしてこう述べます。

 以上、協約能力と協約単一原則という2分 野における連邦労働裁判所判例の展開を概観 してきた。両分野の展開に共通するのは、集 団的労使関係の前提となる社会・経済状況が 変化し集団的労使関係の核心を成す協約自治 が機能不全に陥った場合に、連邦労働裁判所が 協約自治の機能を回復させるために積極的に法 的手当てを講じているということである。集 団的労使関係の機能を修繕・補完しようとす る積極的な姿勢は、判例法理のみならず立法 分野にも明確に認められるドイツ集団的労使 関係法の特徴である。

・・・・・しかし、ドイツ における集団的労使関係をめぐる判例・立法 の展開と比較すると、わが国における集団的 労使関係に対する法的支援・手当ての不十分さが浮き彫りになる。上記の指摘に即して言 えば、労働組合の発展に対する法の限定的な 寄与すら十分になされていないということで ある。いかなる労使関係の構築を目指すにせ よ、集団的労使関係の将来像を具体的に構想 したうえで、その効果的な実現に向けた法的 支援・手当てが積極的に講じられるべきと解 される。

もちろん、植村さんが引用する西谷敏さんの

そもそも「労 働法は、労働組合をつくり出したり、それを 発展させることはでき」ず、「労働法の改正 が労働組合の発展に対してなしうる寄与は限 定的」なのかもしれない

という言葉にあるように、こういう集団的労使関係における司法積極主義的発想には異論も多いと思われますが、でもこういう議論は必要ですよね。

あと、本号には連合総研30周年シンポジウムの記録も載っていますが、そのパネルディスカッションの中で記憶にとどめておきべき禿さんの発言を引用しておきます。

禿  「無限定」に働くことと平等を達成 しようという観点が結びつきやすかったと いう歴史的経緯があったのではないでしょ うか。能力に応じて賃金を払うことが平等 であるという考えです。ただし男性正社員 を前提にした平等主義であり、この狭い中での平等主義の問題が、いま深刻になっているのではな いでしょうか。しかし今では「無限定」に働くことが社 会の分断の要因になっています。能力主義の「能力」と して、「頑張り」とか、企業の要請に応える「姿勢」も 能力評価の対象としたことも留意すべきです。

・・・

禿   組合が企業別に組織されているのが日本の労働運 動にとって難しい問題になっています。退職した人は、 組合員ではなくなってしまいます。組合の決めたメンバ ーの外に非正規の人がいれば、組合員ではなくなる。高 い基準の中で生き残った人だけでメンバーシップを維持 されやすいのが企業別労組の特徴です。企業を超えた行 動や団結力を組合自身が強化していかないと、組合の存 在感は低下していくと思います。生活保障のシステムを 日本で拡充していこうという話になったとき、昔ながら の生産モデルを前提とした組織や運動では、限界があり ます。貨幣より希少なのは時間です。賃金のみならず時
間への取り組みを組合は強化すべきです。それが「片稼 ぎ」ではない生産の場作りにつながっていきます。

 

 

 

 

 

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小野塚知二『経済史』

L16515 小野塚知二さんより『経済史』(有斐閣)をお送りいただきました。ありがとうございます。早速通読させていただきました。大変面白かったです。 

http://www.yuhikaku.co.jp/books/detail/9784641165151?top_bookshelfspine

経済はなぜ成長するのか? 人類はいかにして生存してきたのか? 経済はいかに成長してきたのか? これらの問いを入口として,近代前から,分業,市場,貨幣といった経済学の用語のみならず,権力,文化,共同体等人文科学の基本的な概念も用いて俯瞰する歴史。

一応教科書的な本なのですが、中身はそれをかなり超えて、現代社会を歴史的に考えてみようという人にとって、いろんなところで考えるヒントを提供してくれるような本だと思います。

「はじめに」に「本書の使い道」が3つ書かれていて、第1は経済学部、経営学部の経済紙、経営史の講義用教科書で、そこでも

本書は経済史への「入門」-その反対は「破門」-という大げさなことではなく、ちょっと経済史という分野を齧ってみようという方のための教科書・・・

と、やや韜晦気味の言い方をしていますが、いやいや下手すると「破門」かもしれませんよ。

第2は大学の様々な学部の一般教養における経済学、歴史学の教科書ないし副読本だといって、まあ確かに労働法をはじめとする法学を勉強する人は、これくらいの知識は頭に入れておいてほしいという感じです。

第3は、著者がひそかに重視しているというもので、学校教育をすでに終えて、現在は社会人として生きている方々に、現在を知り、未来を切り開くために読んでもらいたいという使い道で、そういう意味で本書はよくできていると思いました。

序章 経済史とは何か
Ⅰ 導入──経済,社会,人間
 1 経済成長と際限のない欲望/2 欲望充足の効率性と両義性
Ⅱ 前近代──欲望を制御する社会
 3 総説:前近代と近現代/4 共同体と生産様式/5 前近代社会の持続可能性と停滞/6 前近代の市場,貨幣,資本
Ⅲ 近世──変容する社会と経済
 7 総説:前近代から近代への移行/8 市場経済と資本主義/9 近世の市場と経済活動/10 近世の経済と国家/11 近世の経済規範/12 経済発展の型
Ⅳ 近代──欲望の充足を求める社会・経済
 13 産業革命/14 資本主義の経済制度/15 国家と経済/16 自然と経済/17 家と経済/18 資本主義の世界体制
Ⅴ 現代──欲望の人為的維持
 19 近代と現代/20 第一のグローバル経済と第一次大戦/21 第一次大戦後の経済/22 第二次世界大戦とその後の経済/23 第二のグローバル化の時代
終章 「現在」「未来」をどう生きるか

読む人の関心によって、取り上げたくなる部分も実に様々でしょうが、ここではいささか斜め横的な視点から、いくつか気になったところを、

なんというつまらないところに目をつけるのか、と思われるかもしれませんが、私が読み進めながらやたらに気になったのは、「労指関係」という字面でした。「労資関係」でも「労使関係」でもなく「労指関係」。「指」は指揮命令者の「指」なんですね。なまじ労働法的感覚からすると、それは「使用者」の「使」とどこが違うのかということになるのでしょうし、日本型雇用システムを前提とすると、「使」は」結局個別企業の使用者であって、「指」と大して変わらないことになりますが、「労使関係」を英語に直すと「Industrial Relation」であって、企業を超えた使用者サイドと労働者サイドの関係なんですね。ただ、そこのところをきちんと説明してくれていないので、読者がどこまでこの字面の意味を理解できるのかな、という感じもしました。

あと、最後近くのところで、ネオ・リベラリズムについて論じているところで、こう述べているのは、本ブログでも何回か指摘してきたところです。

介入的自由主義への忌避感の蔓延こそが、ネオ・リベラリズムの支持基盤を形成してきたのです。この忌避感は、「個人の尊厳」「自立・自律する個」・・・「自分の生き方は自分で決めたい」・・・などの言説に表現されてきました。そして、この忌避感は、じつは1980~90年代に初めて表明されたのではなく、1960年代末の世界同時多発的な学生・労働者反乱において原初的には表明されていました。この反乱・暴動の直接的な原因は各国の状況に応じて多様ですが、共通点は介入的自由主義の社会における主体性の形骸化への反発でした。しかしこの時の異議申し立ての論拠となった諸種の左翼言説も、また介入的自由主義の指導者原理の色彩を強く帯びていたため、提起された問題を解決できずに「挫折」しました。その後を引き取る形で、ネオ・リベラリズムは徐々に支持基盤を拡張し、1970~90年代に先進諸国が高い成長率を維持する可能性を喪失する過程で、大きな影響力を発揮したのです。

本ブログでは、もう10年近く前ですが、トッドの議論に触発される形で、こんなことを書いたことがありました。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2008/10/post-3b5a.html (1968年がリバタリアンの原点)

 

 

 

 

 

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入社後に社員を育成するのが企業の本来の姿・・・そう、メンバーシップ型社会では

2月9日に朝日新聞に載った投書を巡っていろいろと議論がされているようですが、

https://togetter.com/li/1197869 (『入社後に社員を育成するのが企業の本来の姿である』という投書に「即戦力とかいう考え方滅びろ」など色々な意見)

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これもまた、本ブログで何回も論じてきた日本型雇用システムにあまりにも適応しすぎた日本型教育システムの病理みたいな話で、懐かしさがいっぱい溢れてきます。

表層的な善悪論の周りをぐるぐる回っているばかりで、なかなか問題の本質である雇用システムに論究することにならない点だけは、あまり変わっていませんが。

Chuko これもまた、もう5年前に出版した拙著『若者と労働』(中公新書ラクレ)から、やや皮肉な視点から論じた一節を引用しておきましょうか。

第3章 「入社」のための教育システム

4 職業的意義なき教育ゆえの「人間力」就活

ジョブ型社会の「職業能力」就活

 日本であれ、欧米であれ、学生が企業に対して、自分が企業にとって役に立つ人材であることを売り込まなければならない立場にあるという点では何の違いもありません。違うのは、その「役に立つ」ということを判断する基準です。
 欧米のようなジョブ型社会においては、第一章でみたように採用とは基本的に欠員補充ですから、自分はその求人されている仕事がちゃんとできるということをいかにアピールするかがもっとも重要になります。学生の場合、売りになる職業経験はないのですから、その仕事に必要な資格や能力を持っているということをアピールするしかありません。そのもっとも重要な武器は、卒業証書、英語で言うディプロマです。
 欧米では、一部の有名大学を除けば入学するのはそんなに難しくはありませんから、ある大学に入学したことだけでは何の説得力もありません。むしろ、日本と違ってカリキュラムはハードで、ついてこれない学生はどんどん脱落し、卒業の頃には同期の学生がだいぶ減っているというのが普通ですから、卒業証書こそがその人の能力を証明するものだと一般的に考えられています。
 そして、ここが重要なのですが、その能力というのは、日本でいう「能力」、つまり一般的抽象的な潜在的能力のことではなく、具体的な職業と密接に関連した職業能力を指すのです。卒業証書を学歴と言い換えれば、欧米社会とは言葉の正確な意味での学歴社会ということもできます。日本でいわれる学歴社会というのが、具体的にどの学部でどういう勉強をしてどういう知識や技能を身につけたかとはあまり関係のない、入学段階の偏差値のみに偏したものであるのに対して、欧米の学歴社会というのは、具体的にどの学部でどういう勉強をしてどういう知識や技能を身につけたかを、厳格な基準で付与される卒業証書を判断材料として判定されるものなのです。こういう社会では、言葉の正確な意味でのもっとも重要な就「職」活動は、必死で勉強して卒業証書を獲得することになります。
 ちなみに、こういうジョブ型社会ではあまりにも当たり前の行動を、日本社会で下手にやるととんでもない大騒ぎになることがあります。かつて、ある大学の法学部で、既に企業に内定している四年生の学生に対し、必修科目の民法で不可をつけた教授の行動が、マスコミで取り上げられ、世論を賑わしました。入学時の偏差値と面接時の人間力判定で十分採用できると企業が考えているのに、本来何の職業的意義もない大学の授業における教授の成績評価によってできるはずの卒業ができなくなり、「入社」の予定が狂わされるのは、本末転倒である、と、少なくとも当時の日本社会の大多数の人々は考えていたということでしょう。

まあ、なんにせよ、「入社後に社員を育成するのが企業の本来の姿」という、日本的なメンバーシップ型労働社会を当然の前提として、(特定の企業に関わらない)職業人材養成をするのが自分の使命だなんて全然思っていない特殊日本的大学教授の認識のありようが、ものの見事に露呈している騒ぎではあります。

大学教育が本当に重要なものであり、その重要性に着目して企業が卒業生を採用しているのであるのであれば、卒論をないがしろにするような学生に卒業証書を出さなければそれでいいだけの話であり、大学が品質保証をしていないような学生を採用するのはその企業の自己責任ということになるだけでしょう。

それがジョブ型社会の常識というものであり、それに付け加える話など何もないはずなのですが、もちろんこの日本というメンバーシップ型社会で、それに最適化された(「就職」ではなく「入社」のための)教育をしている大学には、そういうジョブ型社会の常識を振り回す余地などかけらもないから、こういう事態になるわけですが。

(追記)

ちなみに、こういう自省なき議論に比べて、よっぽど物事を深く考えている学生さんのブログ記事がこちらにありました。

https://faraspice.com/book/133/ (「大学生は何をすればいいのか」について考えてみよう! )

では、なぜ大学で勉強をしなくても就職できるのか?という問いにつながります。
企業が育ててくれる
はい、これです。企業が育ててくれるから。

 

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懐かしの40歳定年論

日経ビジネスオンラインに、東大の柳川範之さんのインタビュー記事が載って、それがおそらくは日経BP記者が勝手につけたからだと思われますが、「日本人は全員40歳で定年退職すればいい」という炎上必至なタイトルだったもので、ツイッター上やブクマ等で早速炎上し、慌ててタイトルを「日本人に40歳定年の選択肢を」と変えたようですが、

business.nikkeibp.co.jp/atcl/report/16/020600201/020600002/

http://b.hatena.ne.jp/entry/business.nikkeibp.co.jp/atcl/report/16/020600201/020600002/

201212 実は正直言うと、柳川さんが40歳定年論を唱えたときに、雑誌『中央公論』で海老原嗣生さんとの対談でしゃべったことに付け加えることは特にないという感じです。

これももう、今から5年以上も前になりますね。『中央公論』の2012年12月号でした。

http://www.chuko.co.jp/chuokoron/2012/11/201212_1.html

四十歳定年制の真意は誤解されている 柳川範之

「四十歳定年制」より大事なこと 管理職を目指さない自由を 対談 濱口桂一郎×海老原嗣生

実のところ、海老原さんも私もそうですが、柳川さんが40歳定年という大変ミスリーディングな言葉で表現しようとしていること自体については、よく理解できる面があるのですが、それを日本型雇用システムのニュアンスのたっぷり付着した「〇〇歳定年制」などという言葉で表現することの危なさにあまりにも無自覚でありすぎるだろうとは思っています。

この対談における私の発言からいくつか引用しておくと、

濱口 企業のミクロの人事管理のロジックからすれば、年金支給の時点まで賃金カーブを持続することは不可能です。結果的に、六十歳定年後は再雇用で、賃金を半分以下に落とすということにならざるを得ない。賃金の基本構造を変えずに、五十五歳なり六十歳から先は変えていいですよ、というのは木に竹を接ぐような対応です。でも、現実に多くの企業が欧米のような賃金制度に変える気がない以上、これが唯一可能な対応になる。
 
濱口 でも、それは局所的な合理性に過ぎないとも言える。働いている側からすれば、やはり不合理でしょう。とりわけ五十代の人が自分をどう認識しているかを考えたらわかります。他人からは大して働いていないのに高い給料貰っているように見える人であっても、主観的には自分はそれだけの値打ちのある仕事をしていると思っているものです。そういう人の処遇を落とせば、自分の本来あるべき地位から許し難い水準に落とされたと思うでしょう。数日前に高齢者の雇用状況報告が発表されましたが、再雇用を会社に拒否された人は一・六パーセントしかいません。経済学者たちは高齢者雇用義務化によって失業が増えるなどと言っていましたが、すでに六十五歳までの再雇用は量的にはほとんど達成されています。会社に拒否された一・六パーセントは、その賃金でも会社として雇いたくない人なのです。ところが同時に二〇パーセント以上が自主的にやめている。もちろんそこにはさまざまな理由があるでしょうし、自分からもう働きたくないと思ってもいいわけですが、たぶんその多くは、そんな賃金水準だったら働きたくないという理由だったのではないでしょうか。それによって二〇パーセント以上の人たちが労働市場から退出してしまっているのだとすれば、マクロ社会的にはマイナスをもたらしている可能性があると思います。

濱口 四十歳定年制という提言は、政府が進めている六十歳定年後六十五歳までの再雇用、子会社や関連会社への転籍という政策と正反対に位置するものに見えて、実は同じことをより低い年齢でやろうとしているだけではないでしょうか。提言した側は、これまでの日本の在り方を変えるつもりかも知れませんが、むしろ本質的には何も変わらないことを前提にした議論のような気がします。
 
濱口 日本は正社員であればエリートがデフォルト(初期設定)という特異な国です。欧米はノンエリートがデフォルト。そこを認識しておかないと、おかしなことになります。四十歳定年制に限らずそうですが、ここ数年の諸々の議論の基本的なイメージは、日本のサラリーマンはもっと欧米のエリートを見習って頑張れ、というものです。最近はそこにアジア諸国、特に中国のエリートが加わった。そんな階級社会の上澄みだけ取ってきて、同世代の半分以上を占める日本の大卒がすべてエリートであるかのように比較する。日本の正社員はノンエリートがエリートまがいの期待を背負わされて無茶苦茶に働かされているのです。でも、係員島耕作がみんな課長島耕作になって、社長島耕作になれるわけではない。

濱口 人間の職業人生を、ある時期までは一種の育成期と捉え、それ以降をフラットなノンエリートとして粛々と七十五歳ぐらいまで働けるよう生きていくというイメージで考えるのであれば、それはこれからの働き方を考える上で非常に意味があると思う。みんなが管理職にならなくてもいいのです。
 
濱口 私なら、最初からエリートがデフォルトではなくて、ノンエリートが途中でエリートになりうる社会の方がいい。つまり、特に何もなければノンエリートの道だけれど、本人が思い立ってがんばればエリートになる道も開かれているもっとも、本当に世界レベルのグローバルエリートは入り口から分けた方がいいかも知れませんが。係員島耕作は大体係長島耕作止まりだが、中には課長島耕作、部長島耕作と階段を駆け上っていく者もいるというイメージです。そこが今までと違う。要は人事管理の多様化であり、それが年とともに明確化されるのです。
 
濱口
 日本はこれまでみんなをエリートにすることでホワイト化してきました。これからはホワイトなノンエリートを作っていくことを考えた方がみんなが幸せになるのではないでしょうか。

ふむ、読み返すと懐かしいですな。

26184472_1 この対談がある意味もとになって、『日本の雇用と中高年』(ちくま新書)ではより詳細にあれこれ論じることになったわけですが・・・。

http://hamachan.on.coocan.jp/chikumabookreview.htm

 

 

 

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PHP総研の提言『経営者が日本の働き方を変える』

Prl1802081534124p1 PHP総研が『経営者が日本の働き方を変える ―メンバーシップ型雇用から日本式ジョブ型雇用へ―』という提言を発表したようです。

https://thinktank.php.co.jp/policy/4495/

https://thinktank.php.co.jp/wp-content/uploads/2018/02/180208.pdf

一番最初にところにコアメッセージとともに、提言のポイントが載っているので、それもやや長いですが、こちらにコピペしておきます。

【コアメッセージ】

1、社会情勢や産業構造の変化に合わせ、弊害の大きい日本特有の雇用慣行の見直しを

2、生産性の高い諸外国の雇用システムを参考に、「日本式ジョブ型雇用」への移行を

3、政策や規制緩和を待たずに、経営者の責任として雇用システムの転換を

問題意識

● 昨今の働き方改革の議論が本質をとらえていないように感じられる。

● 生産性向上のため、政府任せ、現場任せにせず、経営者主導でできること、すべきことがもっと あるのではないか。

● 日本企業が稼ぐ力を高め、グローバル化の波の中で闘い続けるためには、残業削減やリモートワー クの推進など勤務制度を整えるだけでなく、その前提となる雇用システムの見直しが必要なので はないか。

メンバーシップ型雇用の弊害

● 日本特有の雇用慣行は新卒一括採用、年功序列賃金、終身雇用を前提としており、「メンバーシッ プ型雇用」と呼ばれる。

● とくに総合職と呼ばれる正社員は、会社の命令に応えて「いつでも、どこでも、なんでもやる」 無限定な働き方が求められる。仕事の内容ではなく人を基準に給与が支払われるので、同じ仕事 でも誰が担当するかによって支払われる給与が異なることが多い。

● 生産性カーブと給与カーブが一致せず、年功序列賃金と退職金は、定年まで在籍することを前提 とした賃金の後払いの性質をもつ。

● 急な異動や転勤命令に代表されるように、キャリアは会社主体で形成される。

● 従来の日本の雇用慣行は雇用保障と引き換えにメンバーと価値観を固定化し、組織の柔軟性と多 様性を失わせる面があるため、社会の変革スピードに対応できない。

オルタナティブとしてのジョブ型雇用

● 日本以外の多くの国では「ジョブ型雇用」システムが採用されている。

● ジョブ型雇用システムでは、労働者一人ひとりのジョブの内容、責任範囲などが明確に定義され ていて、そのジョブに必要なスキルをもった人材がポストにつく。採用は欠員補充型で、新卒一 括採用は行われない。

● 給与はジョブに対して支払われるため、誰が担当しても支払われる給与は同じになる(同一労働 同一賃金)。

● 仕事の内容は企業と労働者の合意によって決まるので、キャリアは労働者主体で形成される。

● ジョブ型雇用へ転換することで、各人材の専門性が明確になって適材適所が実現しやすくなる、 転職を含む労働者の主体的なキャリア形成とワークライフバランスが実現しやすくなるなど、日本の社会、企業、労働者が直面している課題の多くの解決の糸口が見つかることが期待できる。

「日本式ジョブ型雇用」の提言

● 一方でジョブ型雇用では採用の段階でスキルが求められるため、経験やスキルに乏しい若手は職 を求める上で不利であり、ジョブ型社会では若年失業率が高い。

● 日本社会への適合を図るため、メンバーシップ型雇用の利点である新卒採用と社内育成システム を取り入れた「日本式ジョブ型」への転換を提案する。

● 日本式ジョブ型雇用では、新卒を採用して一定レベルまで育成しながら適性評価を行い、育成期 間終了後はジョブ型雇用へと切り替える。

● 「日本式ジョブ型雇用」を機能させる4つの取り組み

①評価には社外(転職市場)で通用する客観的指標を採用すること

②ジョブとの適合・不適合をはじめ、個々の人材の適性を丁寧に評価し、本人に伝えることで主 体的なキャリア形成を促すこと

③退出を促す際には、本人の適性に合致した転職先の探索・紹介を原則とすること

④ジョブ型雇用社会に適した教育システムを確立し、労働市場への入口を多層化すること

● ジョブ型雇用では従業員一人ひとりの個別評価を行い、適性に合った職務内容と適正な報酬を設 計する必要があるため、マネジメントの役割が非常に重要となる。

● 降給に際しては減額制限をかけるなどのガイドラインをつくることで、ジョブ型雇用への心理的 ハードルを下げる。

● メンバーシップ型雇用の維持・強化につながる副業禁止と定年制を廃止し、ジョブ型雇用への移 行にきっかけにする。

● メンバーシップ型の雇用慣行は法令で定められているものではなく、経営者の力量と覚悟次第で 変えられる。

● 新しい産業であるIT業界を中心に、旅館業界や理美容業界のような伝統的な業界でも、ジョブ 型雇用で成長している事例はすでに存在する。

本文は約20ページにわたるものですが、その後に参加経営者からのメッセージというのが載っています。その参加経営者というのはこういう人々です。

座長:冨山和彦(株式会社経営共創基盤 代表取締役CEO)
座長代理:青野慶久(サイボウズ株式会社 代表取締役社長)
磯山友幸(経済ジャーナリスト)
北野泰男(キュービーネット株式会社 代表取締役社長)
郷治友孝(株式会社東京大学エッジキャピタル 代表取締役社長)
寺田親弘(Sansan株式会社 代表取締役社長)
永久寿夫(政策シンクタンクPHP総研 代表)
西村総一郎(株式会社西村屋 代表取締役社長)
日比谷尚武(Sansan名刺総研 所長)
山田花菜(政策シンクタンクPHP総研 研究コーディネーター)

中曽根康弘世界平和研究所よりもだいぶ前ですが、このPHP総研にも呼ばれてお話させていただいたことがあったと思って、調べてみたら、2015年2月でした。

 

 

 

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石山恒貴『越境的学習のメカニズム』

348638 石山恒貴さんより『越境的学習のメカニズム 実践共同体を往還しキャリア構築するナレッジ・ブローカーの実像』(福村出版)をお送りいただきました。ありがとうございます。

https://www.fukumura.co.jp/book/b348638.html


会社等の枠を越境して学びの場を求める越境的学習が個人と組織にもたらす効果について事例研究をもとに検証。

越境的学習という概念自体がなかなかつかみにくいのですが、OJTやOffJTのような企業主導でもなく、自己啓発のような個人的なものでもなく、企業の枠を超えた人のつながりで学んでいく学習モデルということのようです。

序章 曖昧な越境的学習という概念への注目
第1章 越境的学習の定義
第2章 越境的学習における境界
第3章 ナレッジ・ブローカー
第4章 越境的学習とナレッジ・ブローカーに関するリサーチクエスチョンの設定
第5章 二枚目の名刺の概要と調査分析の全体像
第6章 社外活動に関する定量調査
第7章 二枚目の名刺・サポートプロジェクトに関する事例分析
第8章 越境的学習の効果(醸成される能力)の尺度化の試み
終章 組織と個人が越境的学習をいかすために(理論的意義と実践的意義)

第5章のタイトルに出てくる「二枚目の名刺」というのはNPO法人の名前で、それがその前に出てくるナレッジブローカーというわけです。

本書のうち、第2章第1節では、日本型雇用システムと越境的学習との関係についていろいろと考察されています。

第2章 越境的学習における境界
 第1節 内部労働市場という境界
  1 内部労働市場という概念
  2 日本型雇用慣行と内部労働市場
  3 越境的学習と内部労働市場という境界

ここは、読む人によっていろんな意見があるところでしょう。

 

 

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«小峰隆夫・豊田裕「「ジョプ型雇用」への転換推進に関する考察」