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2025年5月22日 (木)

経済同友会の「雇用型自律労働契約」

本日、経済同友会が「経済成長と多様な個人の活躍を支える「雇用型自律労働契約」の導入を~労働法制の令和モデルへの見直し~」という提言を発表しています。

https://www.doyukai.or.jp/policyproposals/2025/250522a.html

https://www.doyukai.or.jp/policyproposals/uploads/docs/20250522c.pdf

流動化する労働市場において、イノベーション創出に取り組む企業や多様な働き方を求める個人の活躍を後押しするためには、「働き方のOS」である労働法制の改革が不可欠です。これまでの画一的・硬直的な時間管理による働き方とは別に、意欲ある人材が自律性を発揮し、成果に応じた報酬を前提に柔軟に働ける新しい雇用の選択肢が求められています。
 本提言では、労働時間と成果・賃金が結びつく業務を対象とする労働基準法に基づいた従来通りの雇用に加え、労働時間と成果が比例しない業務に従事する意欲ある人材を対象に、自律性・柔軟性・成果責任に基づいた新しい雇用契約である「雇用型自律労働契約」の導入を提言しております。「令和モデル」の労働法制として、選択可能な二つの雇用が併存する労働法制へと転換を図ることで働く個人の潜在力を引き出し、企業と社会の持続的な成長を実現できると考えます。
 また併せて、不当解雇時の金銭解決ルール、会社分割時の労働契約継承に関する課題への解決策についても検討を行い、データベース整備など透明性・予見性を向上すべきと提言しています。

要するに、新しいエグゼンプションの提案なのですが、今までのと違うのは、労働基準法だけでなく、根っこの労働契約法に根拠規定を設けようという点です。

 • 労働契約法:雇用型自律労働契約の位置づけを明確化
 • 労働基準法
:第41条に新たに第四号を追記し、労働時間等規定の適用除外
 • 労働安全衛生法
:新たな健康確保措置の導入

労働契約法をどうしようというのかというと、

⚫ 雇用型自律労働契約の位置づけを明確にするため、労働契約法の見直しを行う。具体的には、就業規則と雇用契約の関係を定める同法7条などを見直すとともに、雇用型自律労働契約の標準的なルールとなるガイドラインの整備などを行う。

労働契約法第7条はこれですが、

第七条 労働者及び使用者が労働契約を締結する場合において、使用者が合理的な労働条件が定められている就業規則を労働者に周知させていた場合には、労働契約の内容は、その就業規則で定める労働条件によるものとする。ただし、労働契約において、労働者及び使用者が就業規則の内容と異なる労働条件を合意していた部分については、第十二条に該当する場合を除き、この限りでない。

やや意味がとりにくいところがありますが、就業規則という集団的な枠組みが適用されない個人別の労働契約という趣旨なのでしょうか。ただ、それと労働基準法の労働時間規制の適用除外とは直ちに論理的にはつながらないようにも思えます。就業規則の義務のない10人未満事業所の労働者にも、労働基準法自体は普通に適用されます。

もしかしたら、労働協約が適用されない協約外職員みたいなイメージなのかもしれませんが、就業規則はそういうものではないでしょう。

なお、文中に何箇所も「ジョブ型」という言葉が出てきて、それがこの「雇用型自律労働契約」に近いようなイメージがふりまかれているのですが、いや近ごろインチキなコンサルが売り歩く「じょぶがた」はともかく、欧米諸国のごく普通の労働者たちのごくふつうのジョブ型ってのは、自動車工場のブルーカラー労働者が典型的なガチガチの働き方であって、ノンエグゼンプトの典型なんですがね。

そういうガチガチのジョブ型からむしろ遠いのが、マネージャーやスペシャリストのようなエグゼンプトであって、そういうのをもっと拡大しようとしているんじゃないんでしょうか?そちらはむしろそれなりに筋の通った話だと思いますが。

この手の話を見るたびに、話がねじれにねじれて、まるで逆転してしまっているので、まことに憑かれます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

鈴木恭子さんの「「非正規雇用」とは誰のことか」@『中央労働時報』

Jihou202505 全基連(全国労働基準関係団体連合会)の『中央労働時報』5月号に、JILPTから先月中央大学に移られた鈴木恭子さんの「「非正規雇用」とは誰のことか」という文章が載っています。

<2025年5月号(第1331号)>
・労使関係と人事管理の論点(第50回)
  「非正規雇用」とは誰のことか
   中央大学文学部准教授 鈴木 恭子

短いですが、とてもスリリングな文章です。是非ご一読を。

 

 

企業価値担保権の創設と事業譲渡指針見直し@『労基旬報』2025年5月25日号

『労基旬報』2025年5月25日号に「企業価値担保権の創設と事業譲渡指針見直し」を寄稿しました。

 去る3月25日、厚生労働省は労働政策審議会労働条件分科会に「組織再編に伴う労働関係の調整に関する部会」(公5名、労使各4名、部会長:山川隆一)を設置し、検討を開始しました。設置の趣旨によると、2024年6月7日に成立し、同月14日に公布された「事業性融資の推進等に関する法律」に対して、国会の附帯決議で「「事業譲渡又は合併を行うに当たって会社等が留意すべき事項に関する指針」については、政府において、専門的な検討の場を設け、新たな企業価値担保権の創設を踏まえて必要な見直し等を行うこと。加えて、合併・事業譲渡をはじめ企業組織の再編に伴う労働者保護に関する諸問題については、その実態把握を行うとともに、速やかに検討を進め、結論を得た後、必要に応じて立法上の措置を講ずること」とされたことが理由です。この法律はどういう内容で、なぜ事業譲渡指針の見直しが必要なのか、ごく簡単に見ておきましょう。
 同法で創設された企業価値担保権とはいかなるものか?まず、(法学部出身の方は)むかし民法の授業で習った担保法制を思い出して下さい。担保には物的担保と人的担保がありました。前者は不動産の抵当権とか動産の質権といったもので、借りた金の担保にモノを使います。債務者が金が返せなければその不動産や動産を売却して、その代金を返済に充てます。後者は保証人とか連帯保証人といったもので、借りた金の担保にヒトを使います。債務者が金を返せなければ連帯保証人が代わって返済します。今の日本では、経営者自身が会社の連帯保証人となって、会社が返せなければ私個人が払いますという歪んだ仕組みが一般的です。
 こういった担保制度では、今日の融資実務の課題に対処できないのではないか、というのが、今回の立法の出発点です。それは、まず2022年6月7日閣議決定の「新しい資本主義のグランドデザイン及び実行計画」に次のように書かれています。
 DXやGX等に伴う産業構造の変化が生じている中、工場等の有形資産を持たないスタートアップ等にとっては、不動産担保や個人保証なしに融資を受けることは難しく、また、出資による資金調達だけでは経営者の持分が希薄化するため、成長資金を経営者の意向に応じて最適な方法で調達できるよう環境整備することが必要である。こうした観点から、金融機関には、不動産担保等によらず、事業価値やその将来性といった事業そのものを評価し、融資することが求められる。スタートアップ等が事業全体を担保に金融機関から成?資金を調達できる制度を創設するため、関連法案を早期に国会に提出することを目指す。
 現実の日本社会では、担保権の対象は土地や工場といった有形資産が中心で、ノウハウ、顧客基盤といった無形資産が含まれず、事業価値と乖離している上に、事業価値への貢献を問わずに担保権者が最優先されています。また、不動産のような有形資産を持たない者への融資が困難であり、スタートアップなど有形資産に乏しい企業の資金調達に支障があることや、不動産担保や個人保証による価値に目が向きがちで、融資先の経営改善支援につながらず、貸出先の事業改善・再生の着手が遅れる恐れがあります。そこで、個々のモノやヒトを担保にするのではなく、事業全体を丸ごと担保にしようという発想が登場してきたのです。
 これを受けて2022年11月2日、金融庁の金融審議会に「事業性に着目した融資実務を支える制度のあり方等に関するワーキング・グループ」(学識者16名、座長:神田秀樹)が設置され、翌2023年2月10日に報告書を取りまとめました。その内容は、新たな担保制度として「事業成長担保権」というものを創設しようというものです。この段階では名称が若干異なりますが、内容は同じです。上述の問題意識に基づき、個々のモノやヒトを担保にするのではなく、事業全体を丸ごと担保にしようというのが、この事業成長担保という発想です。担保権の対象は無形資産を含む事業全体なので、ノウハウ、顧客基盤などの無形資産も含まれ事業価値を一致しますし、事業価値の維持・向上に資する者を最優先するので、商取引先や労働者、再生局面の貸し手等を十分に保護できるというわけです。また、無形資産を含む事業の将来性に着目した融資を促進するので、創業や第二創業を容易にすると期待されますし、融資先の経営改善支援を促進するので、経営者保証等に依存せず、事業のモニタリングに基づく経営悪化時の早期支援を実現できるというわけです。
 そんないいものならすぐにでも実現したらいいではないかと思うかも知れませんが、ここに大きな問題が浮かび上がってきます。それは、丸ごと担保にされるその事業全体の中には、その事業に従事して働く労働者たち(法律的には彼らとの労働契約)も含まれるからです。そもそも論としては、これは日本労働弁護団が2022年12月26日に発した声明「「事業成長担保」の拙速な制度化に反対する声明」の中で述べているように、「労働契約は、他の契約関係とは異なり、働く人間と切り離すことのできない労働力を取引の対象とするものである。その労働契約も含めて担保を設定することができるような制度は、働く人間を担保にとることを可能とするものであり、そのようなことが許されるのかという根本的な疑問があ」りますし、少なくとも「事業成長担保制度を設計するのであれば、その設定時において、担保の対象となる生身の人間である労働者の個別同意を必要とすべきである(同意にあたっては、後述するような実行時の問題等も含めた十分な説明を行い、さらに同意しない労働者を不利益に取り扱うことを禁止する制度設計が必要である)。この個別同意は、設定後に労働契約を締結する労働者にも必要とすべきである。そして、個別同意が得られない労働者については、その労働契約は担保目的財産の対象外とすべきである」という理屈がでてきます。
 とはいえ、せっかく金を貸してやろうという時に、そこで働く労働者全員の同意を取り付けてこい、その後新たに採用した労働者の同意も必要だ、さもなければその労働者の分は担保にならないぞ、というのでは、そんな担保では危なっかしくってそもそも融資しようということにならないでしょう。そこで、このワーキンググループでは、この事業成長担保制度をいかに円滑に回すかということと、その事業で働く労働者の保護をどう確保するかという連立方程式を解くべく、連合の村上陽子副事務局長と労働法学者の水町勇一郎東大教授も委員に加わり、報告書の第4節には「労働者保護に係る論点について」6ページ以上にわたってこまごまと論じられているのです。
 同報告書では、事業成長担保権の制度設計に関する労働者保護に係る論点を次のように列挙しています。
・事業成長担保権の設定を契機とした伴走型支援による事業の継続及び成長を実現するためには、労働者の協力は不可欠であること
・事業成長担保権の設定自体は、設定者と労働者の間の労働契約の締結・変更等について追加的な制約を加えるものではないこと
・実行手続について、個別資産への担保権の実行手続のように個別資産の売却によって事業を解体させるものではなく、事業そのものを承継させるものとすることで、事業価値を維持するのみならず、労働者の雇用の継続にもつながるものとなること
・後述のとおり、実行手続における管財人は、労働組合法上の使用者に該当すると解されることから、その権限に関し労働組合99からの団体交渉に応じるなど同法上の義務を遵守する必要があること
・実行手続における労働契約の承継においても、労働契約の承継に係る労働法制上のルール等が適用されること
 具体的な制度設計としては、まず事業成長担保権の範囲・効力が問題になりますが、実行手続開始後も事業を継続する観点からは、総財産の管理処分権が設定者から管財人に移り、スポンサーに事業が承継された後も、労働者が継続して事業に従事できる必要があります。これを実現し、労働者保護に資する制度とするためには、事業成長担保権の担保目的財産に労働契約の使用者の地位も含まれるものとすることと整理することが望ましいというわけです。こうした整理により、実行手続の開始決定があった場合においても、管財人は財産の管理処分権に基づき事業を継続し、スポンサーに労働契約上の使用者の地位を承継させることにより、雇用を維持することが可能になります。
 次に、実行時の未払賃金債権等の優先性です。通常の民事執行手続の枠組みにおいては、労働者が有する未払賃金債権等を担保権の被担保債権に優先させる枠組みは存在しませんが、事業成長担保権の実行手続においては、労働者が有する未払賃金債権等を、随時・優先弁済するものと位置づけることを提示しています。つまり、事業成長担保権は既存の担保制度に比べ、労働者保護をより強く図るものにしようというわけです。
 大きな論点が、実行手続における事業の承継先への労働契約の承継のあり方です。ここで留意すべき点として、報告書は次の2点を挙げています。
・労働者を手厚く保護することにより、労働者の流出を防止し、事業価値の維持につながる可能性
・現行の倒産法下の窮境状態にある会社における考え方を前提とした上で、裁判所の監督の下、管財人に一定の裁量により、事案に応じた対応をすることで、早期のスポンサー選定を可能とし、結果として事業価値の維持、ひいては労働者保護にもつながる可能性
 これを踏まえて、報告書は実行手続における事業の承継先への労働契約の承継のあり方について、次のように整理しています。
① 労働者・労働組合等を含めた利害関係人全体から見て公正な実行手続を実現するため、
・実行手続における管財人は、担保権者のみならず労働者も含めた利害関係人全体に対して善管注意義務を負い、
・加えて、事業を解体せず雇用を維持しつつ承継することを原則とする(個別財産の換価は、事業の譲渡が困難である場合における例外とする)こととし、
・上記の事業の承継等については、裁判所が、労働組合等の意見を聴取した上で許可することとする。
② 労働者が実行手続に不安を抱く状況では、労働者の流出による事業価値の毀損を防止できないと考えられることから、実行手続におけるスポンサー選定における上記原則を含め、実行手続の進め方について労働組合等を通じて労働者の理解と協力が得られるよう、
・裁判所が、実行手続の開始を決定するに際して、労働組合等にその旨を通知する手続や、
・裁判所が、事業の承継先・条件の決定(許可)に当たって、労働組合等の意見を聴取する手続、
・管財人が、開始決定後、遅滞なく、労働組合等に対し、担保権実行手続の概要や事業承継先選定に当たっての原則、実行後における譲渡会社での破産手続の開始の見込みや破産手続の概要等、必要な情報を提供する手続
を設けるなど、管財人が可能な限り高い事業価値を維持することができるスポンサーを選定した際に、管財人やスポンサーが意図しない形で労働者が流出することにより引き継がれない労働者が出ることを防止することが考えられる。
 以上が実体法的部分であるのに対して、個別・集団的労使関係上の情報提供・周知徹底に係る手続法的部分も重要です。まず、実行手続における労働組合等への情報提供のあり方については、以下のように整理しています。
① これまでの倒産手続等における規定を参考に、以下の手続を設ける。
・裁判所は、実行手続の開始に際して、労働組合等にその旨を通知することとする。
・裁判所は、事業の承継先・条件の決定(許可)に当たって、労働組合等の意見を聴取(意見聴取を通じて、不当労働行為の禁止などの労働法制上のルール等に照らして一部の労働者が承継から不当に排除されてないかどうか等も検討)するものとする。
② 加えて、労働者には、労働法制上の各種権利(団体交渉等)が保証されているところ、こうした権利を必要に応じて適切に行使できるようにするため、
・管財人は、開始決定後、遅滞なく、労働組合等に対し、担保権実行手続の概要や事業承継先選定に当たっての原則、実行後における譲渡会社での破産手続の開始の見込みや破産手続の概要等、必要な情報を提供する手続を設けるものとする。
・管財人は、労働者との合意に向けて、労働者が各種権利を適切に行使できるよう、情報提供に際して事業譲渡又は合併を行うに当たって会社等が留意すべき事項に関する指針等の留意事項を参考にするものとする。
 最後に、事業成長担保権に関する正しい理解を促す観点から、制度の全体的な情報提供等のあり方について、以下のように整理しています。
① 事業成長担保権を巡る労使間の紛争を予防するためには、事業成長担保権の制度について、関係者に正確に理解してもらうことが必要と考えられる。そのため、
・事業成長担保権の目的に労働契約上の使用者の地位が含まれるとしても、事業成長担保権者は労働条件等について決定する等の権限を有するものではないことや、
・事業成長担保権設定の目的は事業成長担保権者が労働条件等に影響を及ぼすことではないこと、
・労働者の理解と協力を得て、紛争を防止する観点から、設定の際における労働組合等への説明を行うことが望ましいこと、
について、政府において積極的に周知・広報を図ることとする。
② 労働組合法上の使用者性の論点については、
・通常、担保権を設定すること又は与信を提供することのみをもって、労働組合法上の使用者に該当するとはいえないものの、担保権者や与信者が「基本的な労働条件等について、雇用主と部分的とはいえ同視できる程度に現実的かつ具体的に支配、決定することができる地位にある」場合には、労働組合法上の使用者性を有する可能性がある旨を、金融機関等に対して周知することが考えられる。
 この後、金融庁は法案作業をすすめ、2024年3月15日に「事業性融資の推進等に関する法律案」を国会に提出し、同年6月7日に成立し、同月14日に公布されました。上述のように、ワーキンググループ報告書で「事業成長担保権」と呼ばれていたものは、法律では「企業価値担保権」と名称が変わっていますが、内容に変化はありません。その際、国会で次のような附帯決議が付されました。
「事業譲渡又は合併を行うに当たって会社等が留意すべき事項に関する指針」については、政府において、専門的な検討の場を設け、新たな企業価値担保権の創設を踏まえて必要な見直し等を行うこと。
加えて、合併・事業譲渡をはじめ企業組織の再編に伴う労働者保護に関する諸問題については、その実態把握を行うとともに、速やかに検討を進め、結論を得た後、必要に応じて立法上の措置を講ずること。
 なお、同法の成立時に、連合は次のような事務局長談話を出しています。この問題に対する労働側の考え方を端的に示していますので、全文紹介しておきます。
1.企業価値担保権における労働者保護の実効性確保が不可欠
 6月7日、参議院本会議で「事業性融資の推進等に関する法律案」が可決・成立した。本法は、不動産担保や経営者保証等に依存しない融資を進めるため、労働契約を含む企業の総財産を一体として担保にとる「企業価値担保権」を創設するものである。成立した法律には担保権を実行する際に事業継続に必要な労働債権などを優先して弁済する仕組みや、倒産時に労働債権などのために財産の一部を取り置く仕組みなどが盛り込まれた。これらの仕組みが実効性あるものとなるよう、今後、労働者保護の観点から下位法令やガイドラインなどの整備が不可欠である。
2.雇用などの懸念の払しょくに向け附帯決議を踏まえた対策を
 企業価値担保権の設定や実行などにおいては、借り手企業の労働者の雇用や労働条件への影響が懸念される。法案の国会審議では、連合フォーラム議員の尽力によって、事業譲渡の際は「事業を解体せず雇用を維持しつつ承継することを原則」とする考え方を示すこと、適切な伴走型支援が行われるよう担保権者等に対するモニタリングを行うこと、事業性融資推進本部の構成員に厚生労働大臣を新たに指定することなどの答弁が引き出された。さらに、倒産・事業譲渡全般をも射程に入れた労働者保護の強化を求める附帯決議も付された。これらを踏まえて、「設定時や実行時における労働組合等への情報提供、協議のあり方」「倒産時等に備えて一般債権者のために取り置く部分の水準」を下位法令等で定めるなどの対策が重要である。
3.倒産・事業再編時における雇用および労働債権の保護ルールの強化が急務
 今回の法案審議においても、事業再編時における労働者保護の課題が改めて浮き彫りになった。近年、企業の事業再編が活発化するとともに、倒産件数も増加傾向にある中で、労働者が会社側の都合によって一方的に雇用や賃金・退職金などを失い、苦しい生活を強いられる事態を招いてはならない。連合は、附帯決議の確実な履行とともに、倒産・事業再編時における雇用および労働債権の保護ルールの強化を求め、構成組織・地方連合会と一体となって全力で取り組みを進めていく。
 上記附帯決議を受けて、今回「組織再編に伴う労働関係の調整に関する部会」が立ち上げられたわけです。今後の予定については、第1回会合に示された「組織再編部会の進め方(案)」によると、秋頃までを目途に、
・組織再編を経験したスタートアップ企業についての調査報告
・労使関係団体、有識者等からのヒアリング
・事業譲渡等指針の必要な見直し等に向けた議論
・事業譲渡等指針の必要な見直し等
を実施していくとともに、2026年度からは実態把握(海外)を踏まえ、企業組織の再編に伴う労働者保護に関する諸問題について議論していくという二段構えになっているようです。会社法と労働法が絡み合う複雑な領域ですが、今後どのように議論が進んでいくことになるか、注目していく必要がありそうです。

 

欧州労使協議会指令改正案に閣僚理事会と欧州議会が合意

昨日、EUの立法機関である閣僚理事会と欧州議会が、昨年1月に欧州委員会が提案していた欧州労使協議会指令の改正案に合意したということです。

閣僚理事会の発表では、

https://www.consilium.europa.eu/en/press/press-releases/2025/05/21/strengthening-representation-of-eu-workers-in-multinational-companies-council-and-parliament-reach-agreement-on-the-revision-of-the-european-works-council-directive/

The Council and the European Parliament have reached a provisional agreement on a new revising directive that seeks to make the representation of workers in large multinational companies more effective. This revision will amend the existing directive on European works councils (EWCs), making them easier to set up, better funded and better protected.

欧州議会の発表では、

https://www.europarl.europa.eu/news/en/press-room/20250512IPR28373/deal-to-improve-worker-consultation-on-transnational-matters

Parliament and Council negotiators have reached a provisional agreement to improve the functioning of European Works Councils and strengthen their role.

 

 

2025年5月20日 (火)

戦後80年を問う(8) 戦後日本型雇用システムの諸問題@日本記者クラブ

今から10年前、日本記者クラブで「戦後70年 語る・問う」の一環として、「戦後の雇用問題の変遷 いま何が問われているか」というお話をしたことがありますが、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2015/02/post-927b.html

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今回、「戦後80年を問う」の一環として、「戦後日本型雇用システムの諸問題」についてお話しすることになりました。

https://www.jnpc.or.jp/archive/conferences/36979/report

2025年06月03日 15:30 〜 17:00 9階会見場
「戦後80年を問う」(8) 戦後日本型雇用システムの諸問題 濱口桂一郎・労働政策研究・研修機構(JILPT)労働政策研究所長

申し込み締め切り

 ウェブ参加:2025年06月03日13:30
 会場参加: 2025年06月03日13:30

 

 

公益通報者保護法の2025年改正と兵庫県齋藤知事問題@WEB労政時報

WEB労政時報に「公益通報者保護法の2025年改正と兵庫県齋藤知事問題」を寄稿しました。

公益通報者保護法の2025年改正と兵庫県齋藤知事問題

現在国会で審議中の公益通報者保護法の改正案には、興味深い一条が含まれています。それは、公務員に対する同法違反の行為に対する刑事罰の規定です。なぜそのような規定が挿入されたのかというと、ちょうど同法の改正の議論が行われていた2024年から2025年にかけての時期に、兵庫県の齋藤元彦知事による公益通報者保護法違反の疑いの濃い行為が連日マスコミをにぎわせていたことが背景にあります。しかし、今回の改正はその齋藤知事関係の規定だけではなく、同法の実効性を高めるためのさまざまな条項が盛り込まれています。その内容を簡単に見ていきましょう。・・・・

 

専従職員は“職業革命家だから”月90時間残業しても残業代ゼロ@デイリー新潮

1296036_1714x476 デイリー新潮に「「専従職員は“職業革命家だから”月90時間残業しても残業代ゼロ」日本共産党 の“違法残業”を暴いて除籍された30歳&26歳の元女性党員が実名告発」という興味深い記事が載っています。

「専従職員は“職業革命家だから”月90時間残業しても残業代ゼロ」日本共産党 の“違法残業”を暴いて除籍された30歳&26歳の元女性党員が実名告発

先日の記事で、福岡の共産党が就業規則と36協定を労基署に届け出たことの背景事情が書かれています。

・・・昨年まで福岡で、共産党の下部組織である日本民主青年同盟の県委員として活動に従事していた砂川絢音さん(30)と羽田野美優さん(26)。2人は県委員長A氏の「パワハラ言動」や専従職員の違法残業問題を中央に直訴しても取り上げてもらえなかったことに業を煮やし、実力行使に打って出る決意を固めた。・・・

・・・かくして決起は鎮圧されたのだが、砂川さんたちは諦めずに次の手に討って出た。昨年9月、組織内で横行していた専従職員の違法残業について、福岡中央労働基準監督署に告発したのである。

「もうこの組織に自浄作用は期待できないと考えたからです。私たちと行動を共にしていた福岡民青の元専従職員Bさんの月90時間以上の残業が常態化していました。厚労省が過労死ラインとして定めているのは月80時間で、大きく超えています。さらに調査を進めると、福岡共産党では就業規則がなかったばかりか、従業員を残業をさせる際に必要な『36協定』を締結していないこともわかった。明らかな労働基準法違反です」(羽田野さん)

 羽田野さんはこのような違法残業は、福岡ばかりでなく全国の組織でも同じ状況ではないかと考えた。そこで、SNSで共産党の労働環境を調査したいと呼びかけると、32人の共産党と党関連団体の専従職員が協力してくれたと語る。
 
「回答者の47パーセントが80時間を超えた残業を強いられていると回答し、残業代不払いは100パーセントでした。共産党内部では『専従者論』という考え方があり、そこでは専従者は労働者ではなく『職業革命家』とされ、労働法令には縛られないとされていたのです。言うまでもなく、恣意的かつ時代錯誤的な考え方です。他の政党が専従職員をどう扱っているかについても電話するなどして調べましたが、日本の主要な8政党のうち、労基法を遵守せず、職員を労働者として扱っていないのは共産党だけでした」(羽田野さん)

 砂川さんたちの訴えで福岡中央労働基準監督署は動いた。昨秋、同署は日本共産党福岡県委員会に対して、労基法で義務付けられた就業規則の提出を怠り、労働安全衛生法で義務付けられた労働時間の管理もずさんだったとして、是正勧告を出したのである。

でも、「わしが法律じゃ」型中小零細企業ワンマン社長に逆らうと、あまりにもよくあるパターンが続きます。

だが、2人は告発の代償として、党と民青から除籍処分を受けることになった。

「1月に行った県委員長を決める役員選挙での落選運動について『民青県委員会を破壊し、乗っ取ることを狙った分派的活動』とされました。福岡県委員会で私たちと同じように党の方針に異を唱えただけで党職員を解雇されてしまった仲間の解雇撤回を訴える活動に加わったことについても除籍理由の一つにされました」(砂川さん)

 除籍を通知する文書にはこう書かれていた。

〈党機関は教育的援助の努力をつづけてきましたが、あなたはそれを理解しようとせず、党規約に反する行為をつづけました。以上のことから、あなたは、党規約を守って活動する意思がなく、みずから党員の資格を失ったものと判断します〉

ちなみに、学校教師の給特法の関係で、さいたま地裁や東京高裁は「教員の自律的な判断による自主的、自発的な業務への取組みが期待されるという職務の特殊性」だの「教員には、一般労働者と同様の定量的な時間管理を前提とした割増賃金制度はなじまない」だのと屁理屈を並べていますが、それを言うなら、職業革命家(!?)なんてのは遥かに「自律的な判断による自主的、自発的な業務への取組みが期待されるという職務の特殊性」があり、「一般労働者と同様の定量的な時間管理を前提とした割増賃金制度はなじまない」はずですよね。

これは揶揄ではなく本心からの激励ですが、マルクス主義に基づくプロレタリア革命の実現に一生を賭ける職業革命家は、金融商品の開発業務だのアナリストの業務などという低俗な仕事よりも百万倍「高度にプロフェッショナルな業務」であるから、労働基準法の労働時間規制などと言う低俗な規制が及ぶべきものではないのだ、という高邁な主張を高々と掲げていただきたいものだと思います。多分、経団連も大いに賛成してくれることでしょう。

(追記)

中小零細企業のワンマン社長が労基やユニオンへの反論で(固有名詞だけ入れ替えればすぐに)使える見事なテンプレを熱烈な支持者の方が提供してくださったようです。

https://posfie.com/@OOEDO4/p/22G9F8K

私怨が勝つ人はこうして堕ちていく。
権力に使われるだけの存在になる。
残念だけど、さようなら、
砂川さん。

労働環境の改善は当然必要。
だけど様々な制約の中で
権力からの攻撃の中で
理念を通すべく
政党助成金も企業団体献金も受け取らず
9時5時労働で社会を変えられるなら
そんなものとっくに社会は変えられてる。
変えられないから必死で闘っている。
それがわからない人間に
なにができようか。

そもそもね、
残業代だって出したいし
専従だってもっと雇いたいけれども
反共攻撃の中で赤旗の拡大も厳しく、
亡くなる高齢党員も多く、
職員を減らしてでも
未来社会のために闘ってる組織なんですよ。
そんな必死で闘う同志を横目に
こういう行為が出来る神経が
人間として信じられない。

 

 

 

 

濱口先生の予想通り

Sdnvb8i4_400x400_20250520084901 長崎で活躍されておられる労働弁護士の中川拓さんが、こんなつぶやきを

濱口先生の予想通り、この裁判の答弁書で学校法人は埼玉県事件判決を引用し 「以上は、公立学校教員に関して述べたものであるが、基本的に公務員か否かで教員の業務内容が異なるわけではないから、上記の理は基本的に私立学校にも妥当する」と主張している

中川さんが担当されているのは、私立高校の教師の残業代訴訟であって、いうまでもなく給特法がびた一文も適用されない労基法100%適用事業所の私立学校の事件である以上、法理の筋道はわかりきっているのですが、でもやっぱり言ってきているようです。そりゃそうですよね、天下の裁判官があそこまで教師という職種について謳い上げちゃっているんだから。私がその私立高校の担当者だったら、当然引用しますよ。

(公立学校)教師の労働法政策@『季刊労働法』2022年冬号(279号)

13 埼玉県事件の地裁・高裁判決
 
 こうした中で、改めてこの問題をややトリッキーな形で問い直したのが埼玉県事件でした。さいたま地裁の判決が2021年10月1日、東京高裁の控訴審判決が2022年8月25日に出され、現在最高裁に上告中です。
 埼玉県の私立小学校の教師であった原告は、時間外労働に対する割増賃金の支払を求めて訴えたのですが、その理屈の立て方がひとひねりされていたのです。
(原告の主張)
ア 給特法は、教育職員(同法2条2項。以下「教員」ということがある。)に対して時間外勤務手当を支払わない旨を定め、労基法37条を適用しないものとしているが、以下の給特法等の定めによれば、教育職員に同条が適用されないのは、平成15年政令2号イからニまでに掲げられた項目に係る業務(以下「超勤4項目」という。)についての時間外勤務命令があった場合に限られ、それ以外の業務について時間外勤務命令を受けこれに従事した場合には、原則どおり労基法37条が適用されるものと解すべきである。
 すなわち、給特法6条1項及び平成15年政令は、教育職員に対しては原則として時間外勤務を命じないものとし、時間外勤務を命ずる場合には、超勤4項目に従事する場合であって臨時又は緊急のやむを得ない必要があるときに限るものとしている。これを前提として、同法3条は、教育職員に対しては教職調整額を支給し(1項)、時間外勤務手当及び休日勤務手当を支給しないこと(2項)としており、同法5条1項及び同項による読替え後の地公法58条2項により、教育職員には労基法37条を適用しないものとしている。以上の定めからすると、給特法は、超勤4項目の時間外勤務については、教職調整額を支給することによって、同法32条や同法37条の義務違反を問われないという免罰効を与えたものと解すべきである。
 他方で、超勤4項目に該当しない業務について時間外勤務命令がされた場合は、給特法上特に定めがないことからすると、原則どおり労基法が適用され、時間外勤務を行わせるためには、同法36条1項の定める手続が必要となり、時間外勤務に従事した場合には、同法37条により時間外割増賃金の支払が必要となるというべきである。
 以上のことからすると、給特法は、超勤4項目について、時間外勤務命令がされた場合にのみ、労基法37条の適用を排斥しているのであって、それ以外の業務について時間外勤務命令がされた場合には、原則どおり同条が適用されるというべきである。給特法の制定趣旨に教育職員の超過勤務防止が含まれている以上、同法が、基本給の4パーセントにすぎない教職調整額を支給することのみをもって、本来予定されていない超勤4項目以外の業務に係る時間外勤務についてまで時間外勤務手当の支払を免除することを許容しているとは到底解し得ない。
 要するに、給特法上の超勤4項目、教職調整額の規定と、労働基準法第37条の適用除外とは密接不可分の牽連性があるという前提に立ち、それゆえ超勤4項目以外の時間外労働に対しては、適用除外されたはずの労働基準法第37条が蘇って適用される、というわけです。原告側としては知恵を振り絞って提起した理屈だったのでしょうが、残念ながらそれは成り立たないと思われます。実を言えば、(文部省の意に反して)労働基準法第36条は適用除外されなかったので、超勤4項目以外の時間外労働は(現に生きている同条に基づき)時間外・休日労働協定の締結が必要であり、それなしに行われた時間外・休日労働は労働基準法第32条違反になるという理屈は十分成り立ちえたと思われますが、地方公務員法第58条第3項を通じてなんの附帯条件もなく適用除外されてしまっている第37条は復活のしようがないのです。
 そのことは、給特法の本体規定と地方公務員法を通じた労働基準法の読み替え規定とが密接不可分ではない事例が存在することからも明らかです。恐らく圧倒的に多くの人々の目には映っていないと思われますが、上述の通り2003年の地方独立行政法人法により非公務員型の公立大学法人が設置され、その附属学校の教師は、公立学校の教員として給特法が適用されるので、超勤4項目への限定や教職調整額の支給は義務づけられる一方で、公務員の身分を有さないために地方公務員法第58条第3項は適用されず、従って同項を通じた労働基準法の読み替え規定も空振りとならざるを得ず、それゆえに労働基準法第33条第3項による時間外・休日労働命令は不可能であり、第36条による時間外・休日労働協定が不可欠であり、第37条による割増賃金の支払を免れることはできません。給特法の法構造自体が、両者が密接不可分の牽連性を有していないことを示しているのです。
 結局、たまたま地方公務員の身分を有するところの原告に関するかぎり、超勤4項目以外の時間外・休日労働を行わせたことが給特法違反の問題を生じさせることは格別、また適用除外されていない36協定無締結の問題を生じさせることはあり得ても、少なくとも完全適用除外されている第37条に基づく割増賃金の請求は不可能であると言わざるを得ません。
 繰り返しますが、これは原告がたまたま地方公務員の身分を有しているからであって、それ以外のいかなる理由によるものでもありません。もし原告が私立学校の教師であったり、国立学校の教師であったり、公立大学法人附属学校の教師であったりしたら、教師としての職責には全く何の違いもないにもかかわらず、原告の訴えは認められていたはずです
 しかしながら、さいたま地裁の裁判官も東京高裁の裁判官も、そのような深く突っ込んだ考察は一切ないまま、恐らく教育委員会側から提出された資料を何も考えずに丸写しにするような判決文を書いています。
・・・教員の職務は、使用者の包括的指揮命令の下で労働に従事する一般労働者とは異なり、児童・生徒への教育的見地から、教員の自律的な判断による自主的、自発的な業務への取組みが期待されるという職務の特殊性があるほか、夏休み等の長期の学校休業期間があり、その間は、主要業務である授業にほとんど従事することがないという勤務形態の特殊性があることから、これらの職務の特質上、一般労働者と同じような実労働時間を基準とした厳密な労働管理にはなじまないものである。例えば、授業の準備や教材研究、児童及び保護者への対応等については、個々の教員が、教育的見地や学級運営の観点から、これらの業務を行うか否か、行うものとした場合、どのような内容をもって、どの程度の準備をして、どの程度の時間をかけてこれらの業務を行うかを自主的かつ自律的に判断して遂行することが求められている。このような業務は、上司の指揮命令に基づいて行われる業務とは、明らかにその性質を異にするものであって、正規の勤務時間外にこのような業務に従事したとしても、それが直ちに上司の指揮命令に基づく業務に従事したと判断することができない。このように教員の業務は、教員の自主的で自律的な判断に基づく業務と校長の指揮命令に基づく業務とが日常的に渾然一体となって行われているため、これを正確に峻別することは困難であって、管理者たる校長において、その指揮命令に基づく業務に従事した時間だけを特定して厳密に時間管理し、それに応じた給与を支給することは現行制度下では事実上不可能である(文部科学省の令和2年1月17日付け「公立学校の教育職員の業務量の適切な管理その他教育職員の服務を監督する教育委員会が教育職員の健康及び福祉の確保を図るために講ずべき措置に関する指針」〔文部科学省告示第1号〕においても、教育職員の業務に従事した時間を把握する方法として、「在校等時間」という概念を用いており、厳密な労働時間の管理は求めていない。甲82)。このような教員の職務の特殊性に鑑みれば、教員には、一般労働者と同様の定量的な時間管理を前提とした割増賃金制度はなじまないといわざるを得ない。
 これら判決によれば、労働基準法第37条の適用除外は「教員の自律的な判断による自主的、自発的な業務への取組みが期待されるという職務の特殊性」によるものであり、それゆえ「教員には、一般労働者と同様の定量的な時間管理を前提とした割増賃金制度はなじまない」のだそうです。そうした教員の職務の特殊性は、いうまでもなく私立学校や国立学校の教員にもあるはずですが、これら判決を書いた裁判官の目には彼らの存在が映っていなかったのでしょうか。令和2年度の学校基本調査によれば、給特法の対象に相当する高校までの教員数は、私立学校は158,758人、国立学校は4,618人です。公立学校の834,191人に比べれば若干少ないとはいえ、無視していい数ではありません。
 しかも、当然のことながら労働基準法がフルに適用されている彼らについては、労働基準監督機関が法違反を容赦なく摘発しに来ます。2022年8月に厚生労働省労働基準局監督課が発表した「監督指導による賃金不払残業の是正結果(令和3年度)」には、賃金不払残業の解消のための取組事例として私立学校のケースが載っています。

Koukou

 公立学校にでもなったつもりで4%の教職調整額を払い、時間外割増賃金を払わなかった私立学校が、部活動の時間も含めて不払い残業代を払わされています。現行法上当然のことではありますが、もしこの私立学校の経営者が上記さいたま地裁や東京高裁の判決文を読んだらどう思うでしょうか。我が校の教師たちも、「教員の自律的な判断による自主的、自発的な業務への取組みが期待されるという職務の特殊性」はなんら変わることはなく、「教員には、一般労働者と同様の定量的な時間管理を前提とした割増賃金制度はなじまない」のではないのか。労働基準監督署の監督指導は不当だ!と思うのではないでしょうか。そして、そう思った私立学校が、上記判決文を根拠として、職種としての教員にはなじまない割増賃金制度を、法律に書いてあるからといって押しつけてくるのは違法だと言って訴えを提起してきたら、これら判決を書いた裁判官たちは一体どういう判決を下すつもりなのでしょうか。恐らく、そんなことはかけらも脳裡に浮かばなかったのでしょう*8。

 

 

2025年5月19日 (月)

ジョセフ・ナイの遺言「アメリカのソフトパワーの未来」

Josephnye150x150 去る5月6日に亡くなったジョセフ・ナイの最後のエッセイが、ソーシャル・ヨーロッパに載っています。

The Future of American Soft Power

内容的には、本ブログで良く取り上げる労働関係のものではないのですが、トランプ外交への憂慮の気持ちの溢れたこのエッセイは、今紹介されるべきだと思うので、彼の冥福を祈りつつ紹介しておきます。

Soft power helped America lead the world. Trump’s wrecking ball diplomacy risks handing that role to China

ソフトパワーはアメリカが世界をリードすることを助けた。トランプの破壊鉄球外交はこの役割を中国に渡してしまう危険性がある。

Power is the ability to get others to do what you want. That can be accomplished by coercion (“sticks”), payment (“carrots”), and attraction (“honey”). The first two methods are forms of hard power, whereas attraction is soft power. Soft power grows out of a country’s culture, its political values, and its foreign policies. In the short term, hard power usually trumps soft power. But over the long term, soft power often prevails. Joseph Stalin once mockingly asked, “How many divisions does the Pope have?” But the papacy continues today, while Stalin’s Soviet Union is long gone. ・・・・

パワーは他者にあなたの望むことをさせる能力である。それは強制(鞭)、支払(人参)及び魅力(蜜)によって遂行されうる。最初の二つは、ハードパワーの方法だが、魅力はソフトパワーである。ソフトパワーは国の文化、その政治的価値、そしてその外交政策から生み出される。短期的には、ハードパワーがいつもソフトパワーを踏み潰す(trump)。しかし、長期的には、ソフトパワーがしばしば圧倒する。ヨシフ・スターリンはかつてふざけて問いかけた。「教皇は何個師団持っているのか?」しかし教皇庁は今日も続いているが、スターリンのソビエト連邦は消え去って久しい。

American soft power recovered after low points in the Vietnam and Iraq wars, as well as from a dip in Trump’s first term. But once trust is lost, it is not easily restored. After the invasion of Ukraine, Russia lost most of what soft power it had, but China is striving to fill any gaps that Trump creates. The way Chinese President Xi Jinping tells it, the East is rising over the West. If Trump thinks he can compete with China while weakening trust among American allies, asserting imperial aspirations, destroying USAID, silencing Voice of America, challenging laws at home, and withdrawing from UN agencies, he is likely to fail. Restoring what he has destroyed will not be impossible, but it will be costly.

アメリカのソフトパワーはベトナム戦争やイラク戦争での低得点から復活したように、トランプの第1期の下落からも復活した。しかしいったん信頼が失われると、それを取り戻すのは容易ではない。ウクライナ侵攻後、ロシアは有していたソフトパワーのほとんどを失ったが、中国はトランプが作り出したいかなる隙間をも埋めようと努めている。中国習近平主席の言い方では、東風が西風を圧倒するのだ。もしトランプが、アメリカの同盟国の間の信頼を弱め、帝国主義的欲望を宣明し、対外援助局を破壊し、ボイス・オブ・アメリカを沈黙させ、国内で法律に挑戦し、国連機関から撤退しながら、中国と競争できると考えているなら、彼は失敗するだろう。彼が破壊したものを回復するのは不可能ではなかろうが、それは大変な費用が掛かる。

 

 

 

 

 

 

 

「新時代の日本的経営」から30年 雇用システムはどう変わったのか?@『情報労連REPORT』5月号

2505_cover 今朝届いた『情報労連REPORT』5月号は「「新時代の日本的経営」から30年 雇用システムはどう変わったのか?」を特集しています。

http://ictj-report.joho.or.jp/2505/

2505_sp01_face その冒頭で、小熊英二さんが「日本型雇用システムは変わったのか? 」についてこう語っています。

http://ictj-report.joho.or.jp/2505/sp01.html

──日本型雇用システムの今後はどうなるでしょうか。

日本型雇用システムのコア部分を、新卒と同時に就職し、企業内で教育訓練を受け、年功的な賃金を保障しながら長期勤続すると定義して考えてみましょう。

経営にとってこのシステムの長所は、会社の方針に従って柔軟な配置転換ができることです。マイナス面は、年齢が上がるほど人件費も上がっていくことや、専門職が育たないことです。

ただ、そうした人材育成が時代の経過とともに難しくなっている。背景の一つは技術の発展です。技術の進化に伴って仕事の内容が標準化されると、企業独自の技術の必要性が下がる。一方、一社で技術革新と技術教育を行うのは難しくなる。そうなると長期育成のコストが、メリットを上回ることになる。

日本型雇用システムが今後も続くかはわかりません。ただ、それを本気で変えるのは相当な労力が必要になります。多くの経営者や人事担当者は、どう変えるべきか見当がついていないし、変えるためのビジョンもないように思います。

マスコミやそこで活躍するコンサルタントたちは、表層的なあれこれの現象を捕まえて毎年のように激変激変と言い続けていますが、戦後日本の雇用社会の流れを見続けてきた目からすると、こういう冷静な言い方にならざるを得ないのでしょう。

それだけではいくら何でも希望がなさ過ぎと思ったのか、そのすぐ後のところで、こんな小さな理想像みたいなことを口走りかけますが、

──労働組合にできることは?

一つ挙げるなら、専門職の人材評価の基準を、企業を横断した産業単位で作ることではないでしょうか。

例えば労働組合が「専門職でこれくらいの資格や学位や経験がある人には、これくらいの賃金を支払うべき」という基準を提示する。それが業界標準になれば、企業間の賃金格差は縮小します。人材の移動やキャリア形成も広がるし、非正規雇用の待遇改善にもつながる。実際にこれは、欧州の産業別労働組合が産業別使用者団体と一緒にやってきたことです。

とはいえ、そんなことこそが日本の労働組合にとっては一番難しいことであるという現実も、小熊さんの目にはちゃんと映っているのです。

しかし日本の労働組合にとっては、これを実行するのに大きな問題がある。職種ごとに賃金を決めようとすると、企業別労働組合の内部で利害の対立が起きてしまうことです。つまり職種別に賃金の基準を労働組合が提示すると、一つの労働組合の中にさまざまな職種の組合員がいる企業別労働組合の場合、職種間で不公平感が生まれてしまいかねない。そのため戦後日本の企業別労働組合は、組合としての一体性を保つために、職種別の基準ではなく、勤続年数を基準に賃上げを要求する方法を取ってきました。

さらに、職種を単位に賃金額を同じにしようとすると、大企業の方が有利になり、中小企業では交渉が難しくなります。そのため日本の労働組合は、賃上げ額よりも、賃上げ率をできるだけそろえるという戦略を取ってきました。加えて交渉の対象を総額人件費として、その中でどういう職種にどう配分するかは経営に任せるという方法が取られてきた。

こうした労働組合の選択も影響して、今の日本型雇用システムができています。このシステムは良い面もありましたが、女性と非正規の犠牲の上に成り立っていましたし、時代とともにマイナス面が目立つようになってきた。労働組合は次代の変化に主体的に取り組む必要があると思います。その方法として、専門職の処遇基準の提示はあり得るでしょう。

まあ、最大限希望的観測を振り絞ってこんなところでしょうね。

2505_sp06_face その他、守島基博、三山雅子、仲修平、藤村博之、中村天江、緒方桂子といった方々の論考やインタビューが載っていますが、ここでは先月JILPTから中央大学文学部に移られた鈴木恭子さんの「労働組合は誰の賃金を守ってきたのか 「二重労働市場論」と日本の課題 」を紹介しておきます。

http://ictj-report.joho.or.jp/2505/sp06.html

鈴木さんはまず二重構造論を説明した上で、

「二重労働市場論」は、労働市場に異なる仕組みや制度が存在することを強調します。これは主流の経済学とは異なる考え方です。労働経済学の考え方を非常にシンプルに説明すれば、すべての人に同じルールが適用されると考えます。賃金は限界生産性に応じて決まるのであり、労働市場は生産性が高い人と低い人に分かれたとしても、生産性で賃金が決まるという原則は同じです。

しかし、現実はしばしばそのようにはなっていません。例えばスキルや生産性が同じであっても(こうした要因を測定するのは容易ではないのですが)、所属する企業や雇用形態の違いで大きな賃金格差が生じています。これは賃金が決して生産性だけで決まるのではなく、さまざまな仕組みや制度によって決まることを意味します。このように、企業や雇用形態など、労働市場のどこにいるかによって適用される制度が異なる点を重視するのが、「二重労働市場論」の主張です。

いまの日本では、正規と非正規でまったく異なる制度が適用され、その処遇は隔絶しています。そうした処遇差はこれまで、「正規と非正規では担っている仕事や、求められるスキル・責任が違うため当然」と受け止められてきました。しかし実際には、仕事内容やスキル、責任といった内容を客観的に測ることはとても難しく、十分な分析が行われないままに、処遇差が正当化されてきました。

それと雇用ポートフォリオ論との関係を次のように説明します。

日経連の「雇用ポートフォリオ」にひもづけていえば、「長期能力蓄積型」と「雇用柔軟型」とが、水平的な意味で異質なカテゴリーとしてではなく、正規雇用と非正規雇用という形で、垂直的に序列があるカテゴリーとして位置づけられ、それが性別と強く結び付いてしまったところに問題があったといえます。

さらにいえば、「高度専門能力活用型」が育たなかったことも課題です。とりわけ問題なのは、専門的なスキルが日本の労働市場の中で正当に評価されていないことです。本来であれば「高度専門人材」として位置づけられるべき人々も、現状では「雇用柔軟型」として処遇されてしまっています。特に近年は公務職場においてその問題が顕在化しています。

同じような仕事をしているにもかかわらず、正規と非正規の間に大きな処遇格差が存在する現状は、社会の公正さが大きく損なわれ、社会を停滞させています。非正規雇用が広がった国では、公的セクターでサービスの質が低下する問題が深刻化し、処遇格差を是正しようとする動きが広がっています。日本でも同様の取り組みが求められると思います。

正確に言えば、「新時代の日本的経営」以前から、パートやアルバイトのような雇用柔軟型はそれなりの分量存在しており、そこのところに大きな変化があったわけではありません。

むしろ、そこで大きく打ち出された高度専門能力活用型がほぼ不発に終わり、本来そこに所属すべきであったはずの人々がひっくるめて雇用柔軟型に放り込まれたしまったことが、この30年の歴史の最大の問題点であったのでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2025年5月18日 (日)

「ホワイトすぎてゆるブラック」の雇用システム的要因

6199zeoxlpl_sl1000__20250518211101 最近、またぞろホワイトすぎて若者が辞める云々という話が流行っているようですが、なぜそういうまともな理屈から言えば奇妙奇天烈な話が成り立ちうるのかということについて、昨年『Voice』という雑誌の7月号に寄稿した「日本の労働者は「守られ過ぎ」か」の最後のところで解説していますので、その部分だけ載せておきます。

なお、『Voice』誌にはそのちょうど1年後の今年7月号にも寄稿をしておりますので、来月発行時には御笑覧下さい。

断言できない「複雑な問い」
「労働者は守られ過ぎ」の歴史
「日本型雇用」の基本構造
日本の解雇規制は厳しすぎる?
日本の若者は守られ過ぎか?
「ホワイト化」の功罪
 最後に、最近よく耳にする「ホワイト過ぎてゆるブラック」企業について考えたい。「ゆるブラック企業」とは、ブラック企業のように過度な残業やパワハラなどはないものの、仕事で成長できない会社を指す。
 繰り返しになるが、日本企業は多くの場合、若者を採用する際に、「ジョブに紐づいたスキル」があるかどうかは、重視しない。入社時点では何のスキルもないが、入社後に上司や先輩の指導のもとで一生懸命に仕事を覚え、できるようになっていく(はずの)者を採用する。
つまり、マクロ社会的に描写すれば、ジョブ型社会では「教育訓練」が雇用に先行するのに対し、日本では「雇用」が教育訓練に先行するのだ。あるいは、欧米型の企業に当てはめれば、日本企業の多くは「インターンシップ生」をわざわざ社員として採用した後に、一人前の給料を払いながら教育訓練を行なっている、ともいえる。
以上のことに鑑みれば、日本の若者は、「守られ過ぎ」とさすがに断言してもよさそうに思えるが、「雇用システム」の問題はやはり一筋縄にはいかない。
これは、日本の若者が「自立した労働者」ではなく、会社という「先生」の指導下に置かれた「生徒」と見なされている、ということでもあるからだ。
日本企業の場合、入社したばかりの若者の多くは、「何もできない」のがデフォルトだ。何もできないのに、会社は一人前の労働者として給料を払ってくれる。その給与は、上司や先輩のいうことを若者が聞き、一生懸命仕事を覚え、できるようになることの対価である。
 裏を返せば、何もできない状態でヒトを採用する以上、
上司や先輩は若者を厳しく鍛えなければならない。「こいつは仕事ができないから首にしてください」などと泣き言を言うことは許されない。それをできるようにするのがお前の任務だ、と会社に言われるだけだ。
 そのような背景から、上司や先輩は、ときには厳しい言葉を若手社員に投げかけながら、仕事ができるようになるまで時間外労働を行ない、休日も返上して、何回も指導する。「俺も若い頃は鬼軍曹の課長にしごかれた。そのおかげでここまで成長できたのだ」などと回想する中高年社員は多かろう。このような指導が、わが国の雇用システムの麗しき美風であったはずなのだが、それがいまや過重労働や、パワハラに当たるという糾弾が飛び交うようになった。
その結果、「守られ過ぎ」のはずの日本の若者は、西欧社会の若者と比べても、人権が守られていない可哀想な存在となった。若者が長時間労働と上司のパワハラにいじめ抜かれて自殺するブラック企業が、諸悪の根源とみなされるようになった。かくして、日本の雇用システムの根幹は何も変わっていないにもかかわらず、若者の労働環境の「ホワイト化」が進行した。鬼軍曹はもはや許されない。
仮にジョブ型社会であれば、この「ホワイト化」は、企業がめざすべき「正常な道」への復帰であり、何ら問題はない。
なぜならば、若者といえども社会的に「ジョブ」のスキルを認められた一人前の労働者であり、年齢や年次に関係なく、対等な関係であるべきだからだ。
ところが、それが日本社会の文脈では、鍛えれば仕事ができるようになるはずの若者を、鍛えることなく放置する事態を生む。昨今多くの日本企業で進む、若者の労働環境の「ホワイト化」は、若者が一人前の労働者になれる機会を奪ってしまうという意味では、何よりも「ブラック」な状況ではないか。
かくして、「ホワイト過ぎてゆるブラック」という、ジョブ型社会の人にとっては意味不明な世迷い言が、日本社会では意味のある言説になってしまう。
「古典的ブラック企業」と「ホワイト過ぎてゆるブラック」のどちらが守られ過ぎでどちらが守られなさ過ぎなのか、すなわち「旧世代」と「現在の若者」のどちらが守られ過ぎと言えるのか――。一筋縄ではいかないことが、これでおわかりいただけたであろうか。

 

 

 

 

 

 

2025年5月17日 (土)

日本社会はスキルベースじゃなくてデキルベース

近頃なんだかスキルベースがどうとかこうとか流行ってるみたいで、それを日本的な職能ベースに近いもののように理解している向きもあるみたいだけど、スキルってのはジョブごとに定義されてるのに対して、ジョブのない日本社会では、当然ジョブごとに定義されたスキルなんてのもなく、何でもかんでも命じられたことはあれこれ手を尽くし死に物狂いでやりぬく一般的な人間としての「能力」が問題なのである以上、それはやっぱり違うんだよね。あえて言えば、日本社会はスキルベースじゃなくてデキルベース。「いやぁ、あいつはできる奴じゃ!」って言わせることが大事。

遺族補償年金の男女差の原点(再掲)

本日の朝日新聞に、「遺族補償年金、支給要件の男女差を解消へ 夫の年齢制限なくす案」が載っていますが、

https://www.asahi.com/articles/AST5J3JPGT5JULFA027M.html

 労働災害(労災)で死亡した人の配偶者などが受け取れる遺族補償年金をめぐり、厚生労働省は、性別による支給要件の違いを解消する方向で検討に入った。共働き世帯の増加を踏まえ、配偶者を亡くした妻は年齢制限なく受け取れる一方、夫は55歳未満だと受け取る権利が発生しない――といった男女差をなくす方向で検討を進める。
 複数の厚労省関係者が明らかにした。厚労省は来年の通常国会を視野に、夫の年齢制限をなくす案を軸に検討を進め、労災保険法の改正法案の提出を目指す。

この問題については、昨年2月に『労基旬報』に短い解説を書いていましたので、再掲しておきます。

 労働者災害補償保険法第16条の2は、遺族補償年金を受給できる者について、次のように夫と妻で年齢要件の格差をつけています。
第十六条の二 遺族補償年金を受けることができる遺族は、労働者の配偶者、子、父母、孫、祖父母及び兄弟姉妹であつて、労働者の死亡の当時その収入によつて生計を維持していたものとする。ただし、妻(婚姻の届出をしていないが、事実上婚姻関係と同様の事情にあつた者を含む。以下同じ。)以外の者にあつては、労働者の死亡の当時次の各号に掲げる要件に該当した場合に限るものとする。
一 夫(婚姻の届出をしていないが、事実上婚姻関係と同様の事情にあつた者を含む。以下同じ。)、父母又は祖父母については、六十歳以上であること。
二 子又は孫については、十八歳に達する日以後の最初の三月三十一日までの間にあること。
三 兄弟姉妹については、十八歳に達する日以後の最初の三月三十一日までの間にあること又は六十歳以上であること。
四 前三号の要件に該当しない夫、子、父母、孫、祖父母又は兄弟姉妹については、厚生労働省令で定める障害の状態にあること。
 一言で言えば、同じく労働者の配偶者であっても、男性労働者の妻であれば年齢要件がかからないのに対し、女性労働者の夫であれば60歳以上という年齢要件がかかるのです。いや、妻以外であれば、父母であれ祖父母であれ子や孫であれ兄弟姉妹であれ18歳未満か60歳以上という要件がかかるのに、妻だけそれがなく、18歳から60歳までの間であっても「労働者の死亡の当時その収入によつて生計を維持していた」のであれば、遺族補償年金の対象になるといった方がいいかもしれません。
 同様の規定は国家公務員災害補償法第16条や地方公務員災害補償法第32条にもあり、後者については、地公災基金大阪府支部長(市立中学校教諭)事件の大阪地裁判決(平成25年11月25日)が違憲判決を下したのに対し、大阪高裁判決(平成27年6月19日)が合憲判決を下し、最高裁が平成29年3月21日に合憲判決を下して決着したことは周知の通りです。とはいえ、男女共同参画社会が進展する中で、こういう男女役割分業を前提とした規定がいつまで正当性を主張しうるのかは、議論のあるところでしょう。本稿では、そうした法解釈論に深入りするつもりはありませんが、そもそもなぜこうした男女異なる規定が設けられたのかを、立法の歴史を遡って確認しておきたいと思います。
 
 まず、この男女異なる要件は、労働者災害補償保険法上のものであって、労災保険が担保すべきとされている労働基準法上の災害補償規定には存在しません。1947年に労働基準法が制定されたときの規定ぶりはこのようになっていました。
 労働基準法
(遺族補償)
第七十九条 労働者が業務上死亡した場合においては、使用者は、遺族又は労働者の死亡当時その収入によつて生計を維持した者に対して、平均賃金の千日分の遺族補償を行わなければならない。
 労働基準法施行規則
第四十二条 遺族補償を受けるべき者は、労働者の配偶者(婚姻の届出をしなくとも事実上婚姻と同様の関係にある者を含む。以下同じ。)とする。
② 配偶者がない場合には、遺族補償を受けるべき者は、労働者の子、父母、孫及び祖父母で、労働者の死亡当時その収入によつて生計を維持していた者又は労働者の死亡当時これと生計を一にしていた者とし、その順位は、前段に掲げる順序による。この場合において、父母については、養父母を先にし実父母を後にする。
 そして、同時に制定された労働者災害補償保険法においては、遺族補償受給者の範囲もその額も労働基準法のそれと全く同じでした。今日のような年金制度ではなかったからです。この点は、戦前の工場法時代もそうでした。工場法施行令第10条は「遺族扶助料ヲ受クヘキ者ハ職工ノ配偶者トス」と規定していたのです。この点で、労働基準法上の災害補償規定は本質的に変わっていません。「又は労働者の死亡当時その収入によつて生計を維持した者」が削除されただけで、男女間に差をつけていないのです。
 では、いつから男女に差をつける規定が盛り込まれたのかといえば、それまで一時金であった遺族補償給付が年金化された1965年改正によってです。労災補償給付の年金化の問題は、炭鉱労働者の珪肺や脊髄損傷をめぐって大きな政治課題となり、紆余曲折を経て1965年改正で実現に至ったことは周知の通りですが、その立法過程を見ていくと、1964年7月25日の労働者災害補償保険審議会の答申「労働者災害補償保険制度の改善について」において、次のように示されたのが出発点になります。
(4) 遺族補償費
(イ) 遺族年金
 遺族補償費は、年金として支給することとし、受給権者の範囲及び順位については、労働者の死亡当時生計維持関係にある者を中心とし、国際慣行等を勘案して定めることとする。
(ロ) 遺族一時金
 労働者の死亡当時遺族年金の受給権者がない場合又は労働者の死亡後短期間のうちに遺族年金の受給権者がなくなった場合には、遺族のうち一定の範囲の者に、ある程度の額の遺族一時金を支給することとする。
 これをもとに同年10月12日に同審議会に諮問され、12月12日におおむね了承された法律案要綱は、現行法とほぼ同じ規定ぶりで、妻のみ年齢要件がなく、夫やそれ以外の遺族は18歳未満ないし60歳以上という年齢要件が付せられていました。この改正には労使双方からいろいろな意見がついていますが、この点については誰も何も文句を言っていません。そういう時代であったということでしょう。
 1965年改正時の解説書(労働省労災補償部編『新労災保険法』日刊労働通信社(1966年))は、この遺族補償年金について「妻以外の遺族については、独立の稼得能力がある者にまで年金を支給するに及ばないということである」と、はっきり断言しています。興味深いのは、「国際慣行」を根拠に挙げていることで、男女異なる扱いは国際的に見ても妥当なものだと考えられていたわけです。同書の末尾には、諸外国の労災保険制度の概要が掲載されていますが、その遺族給付のところを見ると、まずILO第17号条約が「適用を受ける事故は、扶養者の死亡の結果その寡婦又は子が被る扶養の喪失を含み」と、第67号勧告が「寡婦には寡婦たる全期間、子女には18歳まで、又はその一般教育若しくは職業教育を続行しているときは21歳まで補償を行わなければならない」と、第102号条約が「扶養者の死亡に関する定期払い金は、少なくともその寡婦及び子に対して確保しなければならない」と規定しているように、明確に寡婦と鰥夫で異なる扱いにしていました。各国の現状を見ても、寡婦は無条件で受給資格がありますが、鰥夫は通常被扶養者であるか労働不能である場合にのみ受給資格があると書かれています。当時の労災保険担当者は、これが半世紀以上後に大きな問題となるなどとは全く考えていなかったのでしょう。
 この1965年改正を中心とした労災保険独自の給付の拡充は、「労災保険の社会保障化」とか「労災保険の一人歩き」等と呼ばれています。労働基準法上の災害補償規定は使用者の無過失補償責任に基づくものであるので、労働者が男であるか女であるかによって差がつけられるべきではありませんが、それを超えて労災保険制度が独自に設けた年金給付については、使用者の補償責任を担保するものではなく国が福祉国家の理念に基づいて行う給付なのだから、その社会的実情に即して給付をするのが当然だ、という訳なのでしょう。その意味では、この部分の見直しが議論されるようになってきたのは、2012年国民年金法改正により、妻が死亡した夫にも遺族基礎年金が支給されるようになり、男女で支給要件に差がある遺族厚生年金についてもその見直しが議論されるようになってきたことが背景にあります。

 

「就活に喝」という内田樹に喝(何回目かの再掲)

またぞろ、似たような話が盛り上がっているようなので、

「うちの大学終わってんな」講義を欠席してインターンに行った学生が単位を落とす→教授の対応とインターンを設定した企業、どちらが問題?

またぞろもう15年も昔のこれを再掲しなくちゃいけないようですね。

「就活に喝」という内田樹に喝

神戸女学院大学文学部総合文化学科教授の内田樹氏が、就活で自分のゼミに出てこない学生に呪いをかけているようですな。

http://blog.tatsuru.com/2010/04/14_1233.php(就活に喝)

>ゼミに行くと欠席が9名。
ほとんどの四年生は最終学年はゼミしか授業がないはずであるので、ゼミに来ないということは、フルタイムで就活に走り回っている、ということである。
気の毒である。
だが、浮き足立ってことをなして成功するということはあまりない。

>それに、私に「ろくな結果にならない」というようなことを言わせてはいけない。
私の言葉はたいへん遂行性が強いからである。
私が「そんなことをすると、ろくな結果にならない」とうっかり口走ってしまうと、それはきわめて高い確率で現実化するのである。
だから、君たちがわが身の安全をほんとうに案ずるなら、私を怒らせてはいけない。

>追伸:と書いたら、就活でゼミを休んだ学生から「先生の呪いのせいで、ものもらいができました」と泣訴してきた。「生き霊は先生のゼミのある日に試験なんかやる企業のほうに飛ばしてください」というので、了解する。「ものもらい」ぐらいで済んでよかったね。

現代の「学校の怪談」、あなおそろしや・・・

という話じゃないでしょうが。

こういうものの道理の分かっていない大学のセンセにこそ、日本学術会議の大学と職業の接続分科会の報告を読んでいただきたいのですが、残念ながらまだ調整中で正式発表に至っていないこともあり、その分科会でわたくしが喋った議事録から、内田樹氏にふさわしい部分を再度引用してみたいと思います。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/hamachan-20db.html(日本学術会議大学と職業との接続検討分科会におけるhamachan発言録)

>濱口 労働の問題をやっていると、一方に経済理論の方がいて経済効率性に関する意見を言い、反対側に市場メカニズムではだめだ、と世の中にないようなことをいう人がいて、常にそれをどういう運営するか、ということがある。教育問題にはそういう悩みがあるのか、ないのかわからない。一方で経済合理性がないような形で議論が行われて、その結果ゆとり教育や偏差値をやめろということが出てきて、経済合理性の前に倒れていく。実は就職活動の問題は、数十年来、当時の労働省と日経連と文部省が私が入った頃まで議論をしていて、やめたり再開したりを繰り返している。なぜそうなるかというと、要は規制したところで企業にとってあるいは学生にとって、そのやり方が合理的だったからである。当事者にとって合理的であるものを、システムをそのままにして、行為だけを規制すればいいということで、やっては失敗し、という繰り返しになっている。そういう意味で、システムの問題として論ずるべきことを、倫理の問題にしてはならないと思う。

>濱口 逆に言うと、大学ができないことのマイナスを企業側・学生側がたいしたマイナスだと感じていないがゆえに、こうなっているのだろうと思う。合理的だといったのはそういう意味である。システムの問題だ、というのは、それが大学の授業を4年生、下手をしたら3年生が受けられないということが、企業にとっても学生にとってもマイナスであるようなシステムにするためにはどうしたらいいか、という議論なしに、そんなものは受けなくてもいい、と企業も学生も思っている状態でただ規制しても、それをすり抜ける方向にしか行かないと思う。

>濱口 おかしいと判断する価値基準そのものの議論をしないで、価値判断だけが出てきても、うまくいかないのではないか。あえて言うと、もしそういうことがあれば単位を与えなければいい話である。現に20年位前に、ある先生がそういうことをやったところ、大学側が「なぜ単位を与えないのか」と大騒ぎになった、という話になった。つまり、そこを抜きで議論して何になるのか。逆に言うと、なぜ大人ということを強調するか、というと、ある会社にいて、働いている労働者がこの会社を辞めて別の会社に転職しよう、ということもある。ただ、その就活のために雇用契約上就労義務があるのに勝手にさぼって活動する、というのは、違法であるため当然制裁が加えられる。そうすれば当然有給をとるなりしなければならない。大人の世界ではそうなっている。大学教育がそれと同等のものである、と考えるならば、そういう形で整理すればいいし、逆に社会的に整理されていないがゆえに、休んでも全然問題ないと大学も見ているから、今のようになっている。その場合、いかなる立場から、誰を非難しているのか、という話になる。学生ではない。なぜならば大学教育はそれを容認している。企業はそれを求めている。学生は、それをしないと落ちこぼれてしまって、機会を失してしまうかもしれない。そういう状況に置かれた、少なくとも合理的な計算ができる人間は、そちらをしないわけにはいかない。

内田氏のゼミの学生と企業の担当者が、内田氏の教えている学問の内容が卒業後の職業人生にとってレリバンスが高く、それを欠席するなどというもったいないことをしてはいけないと思うようなものであれば、別に内田氏が呪いをかけなくてもこういう問題は起きないでしょう、というのがまず初めにくるべき筋論であって、それでも分からないような愚かな学生には淡々と単位を与えなければそれで良いというのが次にくるべき筋論。

もちろん、そういう筋論で説明できるような大学と職業との接続状態になっていないから、こういう呪い騒ぎが起きるわけですが、そうであるからこそ、問題は表層ではなく根本に立ち返って議論されるべきでありましょう。

哲学者というのは、かくも表層でのみ社会問題を論ずる人々であったのか、というのが、この呪い騒ぎで得られた唯一の知見であるのかも知れません。

(参考)

ちなみに、報告書自体は未発表ですが、その内容は既に公開され、本ブログでも紹介しておりますので、ご参考までに

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-a8fe.html(「卒後3年新卒扱い」というおまけよりも本論を読んでほしい)

また、最終会合に提出されたほぼ最終版に近いバージョンは:

http://www.scj.go.jp/ja/member/iinkai/daigaku/pdf/d-17-1-1.pdf

(追記)

Tsuboshさんの「Random-Access Memory(ver.2.0)」で、内田氏の元エントリとわたくしの本エントリを取り上げて、

http://d.hatena.ne.jp/tsubosh/20100417

>内田さんの関心が、ミクロな人間関係にあり、

ミクロな人間関係の背後にある社会システムにはないことは、

昔からよく知っています。

だからこのエントリを批判する濱口さんとは、

全く議論の土俵が違っていてその食い違いからもいろいろ学べます。

と述べた上で、

>私はこのエントリを読んで感じたのは、まずは、

「ゼミ教授-ゼミ学生の関係は、全面的師弟関係なのか」

という点です。

>次に、「内田先生には、師弟関係であっても、

ゼミ内で、こういう感じで、ミクロな権力を行使してほしくないな」

という点を感じました。

と述べています。

おそらく、内田氏は自分とゼミ生の関係を、哲学者の師匠と哲学者たらんとする弟子との関係と捉えているのでしょう。それにしても、こういうミクロ権力の行使は嫌らしいものですが、まあそこは認めるとしても、そもそも現代産業社会の中で大学という高等教育機関がどういう位置づけをされ、その中で内田氏が給料をもらっているのかという社会システム論的認識が欠如したままのミクロ権力行使は、学生をどうしようもない窮地に追い込むだけなのですね。

もちろん、なぜそうなるかという理由もはっきりしていて、日本の企業が少なくとも文科系学部については「大学で勉強したことなんて全部忘れろ、これから全部仕込んでやる」という人材養成システムであったことが、大学で学ぶことに職業的レリバンスをほとんど不要とし、結果的に内田氏のように、卒業したら企業に就職するしかない学生たちをつかまえて、あたかも哲学者の師匠が哲学者たらんとする弟子たちを鍛える場所であると心得るような事態を放置してきたからであるわけです。

「大学に何にも期待しない企業行動の社会的帰結としての企業に役立たない大学教育」が、自己完結的な価値観に基づいて行動することによる矛盾は、企業でも大学教師でもなく、その狭間で苦悩する学生たちに押しつけられることになるわけですが。

(ついでに)もしこれが、内田氏のゼミ生が哲学教師の口を求めての就職活動でゼミをさぼったことに対し、「俺のゼミをさぼるような奴に哲学教師になる資格はない!」というのなら、そういうミクロ権力行使は、少なくとも職業的レリバンスの観点からは是認されましょうが。

(再追記)

これは哲学とかの人文系のことだよな・・・と安心しないでね、経済系の方々。

池尾和人氏が

http://twitter.com/kazikeo/status/12039641738

>しかし、就職の面接だといってゼミを欠席する4年生が少なくない。平日に大学生を呼びつける企業には、大学教育を批判する資格はない。そういう企業は大学での勉強を評価しないというシグナルを送っているわけで、こんな企業ばかりだから、いまの大学の惨状がある。

とつぶやいていますが、企業から「大学への勉強を評価しないというシグナル」を送られているということは、つまり大学の経済学教育に職業的レリバンスがないと判断されているわけで、そこをどうするかという問題意識もなく、ただ企業の責任を叫ぶだけでどうにかなると思うのは、少なくとも社会科学的思考にはふさわしくないと思いますよ。

もちろん、これは個別企業や個別大学、個別教師の問題ではなく、いわんや個別学生の問題などではなく、まさに職業的レリバンスなき教育とそれを前提とした企業社会が見事に噛み合って動いてきた社会システムの問題であるわけです。

(ちなみに)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/post-f2b1.html(経済学部の職業的レリバンス)

>ほとんど付け加えるべきことはありません。「大学で学んできたことは全部忘れろ、一から企業が教えてやる」的な雇用システムを全面的に前提にしていたからこそ、「忘れていい」いやそれどころか「勉強してこなくてもいい」経済学を教えるという名目で大量の経済学者の雇用機会が人為的に創出されていたというこの皮肉な構造を、エコノミスト自身がみごとに摘出したエッセイです。

何かにつけて人様に市場の洗礼を受けることを強要する経済学者自身が、市場の洗礼をまともに受けたら真っ先にイチコロであるというこの構造ほど皮肉なものがあるでしょうか。これに比べたら、哲学や文学のような別に役に立たなくてもやりたいからやるんだという職業レリバンスゼロの虚学系の方が、それなりの需要が見込めるように思います

(さらに追記)

世の中には問題をはき違えている人がいかに多いか・・・。

hyoro hyoro  難解でぼくにはよくわからんが、大学というものをどうにも履き違えているように思える。大学に行く目的が「就職に有利であるから」というなら、それこそ「表層でのみ社会システムを論」じているんじゃないの?

「就職に有利」という言い方が既にして、学ぶ内容のレリバンスではなく、表層の見せかけしか考えていないわけで。何のために大学に行くの?ただのカルチャーセンターなら、それにふさわしいやり方がある。

突き詰めると、大学が職業訓練校であるならば、教師には訓練を勝手に休んで就活する生徒を叱る権利がある。就活で訓練を休むような者を、ちゃんと訓練修了というディプロマを付けて送り出すわけにはいかない。大学がカルチャーセンターならば、就活と天秤にかけてより有利な方を選択する「お客様」を叱る権利はない。いや、叱ってもいいけど、それを社会的正義として自慢げに語られても困る。

たぶん、ある種の人にとって、大学はそのいずれでもなく、師匠と弟子が形作る理想のアカデミアであるべきという考え方があるのでしょうが、だったらそういう規模でやってくれという話でしょう。学生の圧倒的大部分が就職していってくれることを前提にして、今の大学システムは回っているのであって、それに受益している人が師匠・弟子モデルを振り回すのは単純に偽善です。それなら最後まで弟子の面倒みろよな。

(も一つさらに追記)

RIP-1202 RIP-1202 合理性だけ追い求めてこのざまなんでしょ。なにをえらそうに。

えらそうなのはどっちだろうか。自分は大学教授として安定した地位を楽しみつつ、就職できなかったら生活に困るかもしれない学生の身の上に思いをはせることもない方じゃないの?

会社と教授の板挟みで悩む自分のゼミ生をぎりぎりいじめ抜くのがそんなに楽しいのだろうか。

それなら初めから「就職希望の人はお断り」というべき。

・・・・・でも、考えてみると、神戸女学院文学部というのは、もともと就職なんていう下賤な進路じゃなく、花嫁修業としてお茶、お花と同列でお文学をやるお嬢様御用達のところだったのかも知れない。たしかに「合理性だけ追い求めてこのざまなんでしょ」って云いそう。

そういうお嬢様じゃない就職希望の女性がなまじ入ってしまったのが間違いだった、というのがオチ?まあ、いまどきそういうオチはないでしょうけど。

(まだまだ追記)

トラバを送られたようですが、失敗されたようなので、ここにリンクしておきます。

http://d.hatena.ne.jp/the_end-of_the-world/20100420(合成の誤謬)

>いや本当に昨今の就職事情はひどいことになっているという実感があって、それも単に「学生がシステムの犠牲になっていてかわいそう」などという話ではなく、この選抜の仕方では「馬鹿であることが合理的な社会」を作りかねないだろうという危惧があるからだ。

 そして、そのような社会こそ保守が懸念すべき未来予想図であるはずなのだが、内田氏の真意はどこにあるのだろうか。・・・

 

2025年5月16日 (金)

田村伸子編『労働法と要件事実』

09496 田村伸子編『労働法と要件事実』(日本評論社)をお送りいただきました。

https://www.nippyo.co.jp/shop/book/9496.html

労働法の領域で、要件事実論における考え方がどのように現れるか。当該分野の第一人者が集い「労働法と要件事実」を論じる。

本書は、創価大学法科大学院要件事実教育研究所が昨年11月に開いた「労働法と要件事実講演会」の講演、コメント、質疑応答を収録したものです。

講演者は、この問題の第一人者である山川隆一さんに加え、神戸地裁の植田類裁判官、明治学院大学の植田達さんですが、あれ?もしかしてこのお二人は兄弟とか?

はしがき
◾️労働法と要件事実・講演会 議事録
[講演1]山川隆一
地位確認訴訟における解雇権濫用をめぐる要件事実
 1 解雇権濫用法理の概要
 2 「客観的に合理的な理由を欠き」と
   「社会通念上相当であると認められない」の関係
 3 地位確認訴訟と解雇権濫用法理の要件事実(整理解雇の事案)
 4 就業規則上の解雇事由の意義
 5 整理解雇の4要素(要件)の要件事実
[講演2]植田 類
労働契約における労働者の自由意思の要件事実的位置付けに
関する若干の検討
 1 問題の所在
 2 自由意思要件の意義・根拠
 3 最高裁判例の概観
 4 自由意思要件の位置付けについての検討
 5 自由意思要件の射程
 6 おわりに
[講演3]植田 達
労働契約における競業避止特約をめぐる要件事実
 Ⅰ はじめに
 Ⅱ 競業避止特約に基づく請求
 Ⅲ 競業行為を理由とする退職金の不支給
 Ⅳ おわりに
[コメント1]大平健城
[コメント2]倉重公太朗
[質疑応答]
[閉会の挨拶]
◾️講演レジュメ
◾️コメント
◾️要件事実論・事実認定論関連文献
要件事実論・事実認定論関連文献2024年版
  ……永井洋士・山﨑敏彦
 Ⅰ 要件事実論
 Ⅱ 事実認定論
 

コメンテーターに我らが倉重公太朗さんの姿も見えます。

 

 

(公立学校)教師の労働法政策@『季刊労働法』2022年冬号(279号)

昨日、給特法改正案が修正のうえ衆議院を通過したようですが、

給特法改正案が衆院通過 教員給与アップ、残業減目標も明記

この問題を考えるうえでは、給特法制定に至る、また制定後の様々な経緯をきちんと知っておく必要があります。

279_h1_20250516074501 2年半前に書いたこの季労論文はおそらくあまり知られていないことも含めて解説していますので、(悪口を言いつのることだけを目的とした大日本五毛党の手合いは別として)この問題を真面目に考える方々には参考になるのではないかと思われます。

 

『季刊労働法』2022年冬号(279号)
「労働法の立法学」第66回
「(公立学校)教師の労働法政策」
 
はじめに
 
 初めに断り文句を明記しておかなくてはなりませんが、日本国には教師という職種に着目した特別の労働法政策はほとんど存在しません。そのようなものが存在するという思い込みは、さいたま地裁や東京高裁の裁判官の脳内にも濃厚に漂っているようですが、それはいかなる実定法上の根拠も有していません。もちろん社会学的には、教師は医師と並んで一般的に「先生」と呼ばれる尊敬すべき高度専門職とみなされ、場合によっては「聖職」と呼ばれることもありますが、それに対応するような実定法上の特別扱いは存在しないのです。
 にも関わらず、教師は特別な職種であるから労働法上の特別な扱いが存在するという思い込みが実定法に基づいて判決を下すべき裁判官たちにも瀰漫してきたのには理由があります。現在もなお学校教師の大多数を占める公立学校の教師は地方公務員という身分を有しており、この地方公務員たる公立学校教師という特定の法的地位を有する教師についてのみ、地方公務員法を経由した労働法の特別扱いが存在しているからです。この特別扱いは、かかる身分を有さない私立学校や国立学校の教師には全く適用されないものである以上、それはいかなる意味でも職種としての教師に着目したものではありえませんが、これらの存在を脳内で消去してしまうことによって、地方公務員という身分に着目した特別扱い-給特法-を、あたかも教師という職種に着目した労働法であるかのように誤認してしまう者が絶えないのでしょう。
 本稿では、こうした誤認を生み出す元となっている給特法-現時点における正式名称は「公立の義務教育諸学校等の教育職員の給与等に関する特別措置法」-をめぐる法政策の推移を、それに先立つ時期に遡って概観していきたいと思います。話がややこしいのは、給特法は1971年5月に制定されたときには「国立及び公立の義務教育諸学校等の教育職員の給与等に関する特別措置法」であり、(労働基準法がまったく適用されない)国立学校の教師に係る規定がメインで、(労働基準法が原則適用される)公立学校の教師はそれが準用されるに過ぎなかったのに、2004年度から国立大学法人化して民間人となった前者が適用対象から外れたため、後者だけが適用対象となったことです。このことが、給特法をめぐる奇怪なねじれを生み出しています。
 
1 労働基準法制当時の経緯
 
 労働基準法は1947年3月に成立しましたが、戦前の工場法等と異なり、官民を問わず、全ての業種、全ての職種、全ての規模の事業に適用される一般的労働条件立法として生み出されました。ただしその制定過程においては、文部省から異論が提起されていたようです。
 当時の厚生省労政局労働保護課が繰り返し作成した法案には、教師という職種に着目した特別扱いの規定は一切含まれてはいませんでしたが、1946年9月11日付で文部大臣官房文書課長から厚生省労政局長宛に出された「労働基準法草案について」は、次のように適用除外を求めていました*1。
 本月3日貴省に於て労働基準法草案について関係各省の打合会開催の際、本省係員から申出を致しました意見を左記の通り文書を以てお届け致します。

 労働基準法草案中次のやうに修正をお願ひします。
一、第七条第十二号「教育、研究又は調査の事業」の下に次のやうに加へる。
 「(教職員を除く)」
理由 教育、研究又は調査の事業に従事する者の中教職員は労働条件其の他について質的に本法に依る労働と相違する点があるからこれらの事業に従事する教職員は官吏と同様に本法の趣旨に準じて別途保護、保障の措置を考慮したいからである。
 「質的に本法に依る労働と相違する」という主張の中身が不明ですが(教職員でさえなければ、教育、研究、調査に従事しても質的に相違することはないようなので、少なくとも職種に着目しているのではなさそうです。)、自省が所管する教職員に対しては労働法の介入を嫌がっていたことだけはよく伝わってきます。しかしながらこのような意見が受け容れられることはなく、教職員も含む教育、研究又は調査の事業は労働基準法がフルに適用される業種として今日まで続いています。
 労働基準法の適用範囲が変わったのは、こうした業種や職種とは別の次元で、公務部門の過激な労働運動に業を煮やしたマッカーサー元帥のいわゆる「マッカーサー書簡」に基づく1948年11月の国家公務員法改正により、労働組合法と労働関係調整法に加えて労働基準法まで全面適用除外となってしまったことによります。公務員にかかる集団的労使関係システムを変更するという目的からすると、この労働基準法全面適用除外はどこまで正当性があったか疑わしいものですが、70年以上にわたって維持され続けています。
 しかし、1950年12月に成立した地方公務員法では、少し冷静になって規定の仕分けがなされ、労働組合法と労働関係調整法は全面適用除外ですが、労働基準法については原則適用、部分的に不適用という形になりました。ここで、教育・研究・調査以外の現業職員(公立病院など)については、労使対等決定の原則(第2条)及び就業規則の規定(第89-93条)を除きすべて適用されるのに対して、狭義の非現業職員(労働基準法旧第8条第16号の「前各号に該当しない官公署」)及び教育・研究・調査に従事する職員については、上の二つに加えて、労働基準監督機関の職権を人事委員会又はその委員(人事委員会のない地方公共団体では地方公共団体の長)が行うという規定(地方公務員法第58条第3項)が加わり、労働基準法の労災補償の審査に関する規定及び司法警察権限の規定が適用除外とされました。人事委員会がない場合には、自分で自分を監督するという労働基準監督システムとしてはいかにも奇妙な制度ですが、これも今日までなんの変化もなく維持されています。
 ちなみに、1946年9月に制定された労働関係調整法の立法過程においても、同年5月の労務法制審議会答申を経て法案が作成され、それを国会に提出する直前の閣議で、田中耕太郎文相の強い主張により、官公立及び私立学校の校長及び教員の争議行為が禁止されるという修正が加えられるというアクシデントがありましたが、GHQが「教員が争議行為をしても、直ちに国家が崩壊する虞はない」として、これを撤回させるというドタバタ劇が演じられています。教育関係者に根強い「教師は労働者に非ず」論があっさり否定されたわけですが、その後も現在に至るまで私立学校教員の争議権が否定されたことは一度もありません。
 なお、教育と医療という2分野については、労働条件法制(労働基準法)においては現業として扱われているのに、労使関係法制(国公法と旧公労法)においては非現業扱いされるという不整合が存在してきたことも、教師に係る労働法政策の歪みをもたらした大きな原因です。これは、民間にも私立学校や私立病院が存在し、国公立学校や国公立病院とまったく同じサービスを提供している点に着目し、民間事業所が存在し得ない官公署と区別して現業と扱う労働基準法の方が整合的であり、団体交渉権を認める職域を政治的経緯から断片的に3公社5現業として切り出した労使関係法制の方が理論的にはおかしいのですが、長らく国立病院や国立学校は非現業として人事院の所管とされてきたため、人事院がどこまで権限を有するかについて認識の歪みが生じてしまったように思われます。それでも、医療の世界は医師のプロフェッショナリズムによる独自の職業世界が構築され、それが大学の医局を中心とする官民を貫通した例外的なジョブ型空間を形成してきたために、人事院が医師の職業的専門性を云々する余地などなかったのに対し、教育の世界は(大学教授の世界は別として)そうではなかったため、国家公務員法を所管するだけの人事院があたかも私立学校の教師の職種としての専門性についてまで論じることができるかのような誤解が生み出されてしまったのでしょう。この点が、後に述べる給特法のボタンの掛け違いのそもそもの原因と言えます。
 要するに、終戦直後に構築され、若干の紆余曲折で修正された日本国の基本的労働法制においては、国家公務員ないし地方公務員という身分に着目した適用除外は存在しますが、教師という職種に着目した特別扱いはほとんど存在しない形で出発したのです。公務員という身分を有さない私立学校の教師は、戦後75年間にわたって一度も教師という職種であるが故の労働法上の特別扱いを受けたことはありません。これが、日本における教師の労働法政策の大原則です。これを忘れた議論は全て歪んだものとならざるを得ません。
 
2 教職員の給与をめぐる経緯*2
 
 戦前には高等官等俸給令、判任官俸給令、公立学校職員俸給令等によって官吏及び待遇官吏とされた教師の給与が法定されていましたが、終戦直後これらが廃止され、1946年の官吏俸給令を経て、1948年3月の政府職員の俸給等に関する法律により暫定俸給が支給されることになりました。これは、勤務時間差に応ずる俸給という勤労の対価としての俸給の概念を確立したものといわれており、1週間の拘束時間の段階によって給与の割増切替率に差を設けましたが、教員はその勤務の特殊性から一応48時間以上勤務する者として、最高割増の17割に切り替えられました。
 さらに同年5月の「政府職員の新給与実施に関する法律」により、職務の級と号俸によるいわゆる職務給制度が確立し*3、教員については一般職員より約1割高い俸給が受けられることとなりましたが、その過程で、新本俸切替審議会教員分科会は「教育職員には超過勤務手当を支給しない」としていました。既に労働基準法が施行され、教育職員にも適用されているのに、それとは矛盾する法政策をとったことになります。
 文部省は、1949年2月から3月にかけて、次のような通達を発し、労働基準法の規定と矛盾する指導をしていきます。もっとも、この時期は上述のように公務員への労働基準法の適用について揺れ動いていた時期なので、最終的な決着点はよく見えなかったからということもできます。
○教員の勤務時間について(昭和24年2月5日発学第46号)
 今般政府職員の勤務時間は、昭和二十四年総理庁令第一号によって定められたので、教員の勤務時間についても、その趣旨に基づいてこれを実施すべきであるが、教育の特殊性にかんがみ教員の勤務については一律に同令第一項の勤務時間に拘束するときは、かえって教育の能率低下をきたす虞ある場合も多いと考えられるので、特に教員の勤務時間について文部省告示を制定したから、一般職員の勤務時間が厳正に実施せられる事情に照らし、その運用に当たってはあくまで教育的効果を上げ、教員の素質低下をきたさないよう万遺憾なきを期せられたい。
 なお運用に当っては、左記の点を十分ご留意の上処理せられるよう念のため申し添える。

一、勤務時間一週四十八時間の割振について
 学校全体を一律に定めることを要せず、教員個人についてこれを定め得ること。
二、勤務の態様について
 勤務は必要に応じ必ずしも学校内ばかりでなく、学校外で行い得ること。尚教育公務員特例法第二十条の規定による研修の場合は当然勤務と見るべきであること。夏季休暇等の職員の勤務については、教員の教育能率を向上せしむるため、休暇を研究、講習及び校外指導等に利用せられるよう学校の長は特に配慮すべきであること。
三、超過勤務について
(1) 勤務の態様が区々で学校外で勤務する場合等は学校の長が監督することは実際上困難であるので原則として超過勤務は命じないこと。
(2) ある一日において実働八時間以上勤務する必要がある場合にはその勤務を命ずることはできるがその勤務は原則として一週四十八時間の勤務に含まれるものとして勤務する如く命ずるものとすること。
四、教員の勤務の管理について
 教員の勤務についてその管理は一般政府職員の勤務時間が厳正に実施せられている事情に鑑み、出勤簿その他学外勤務に対する承認等については適宜の方法により整理しその勤務の実績を明確にしておくこと。
○教員の超過勤務について(昭和24年3月19日発学第168号)
 教員の勤務時間については、二月五日文部省告示第十一号をもってこれを定め、同日付発学第四十六号をもって超過勤務は原則として命じない旨を含めて通知しましたが、例外としてその日に割り振られた正規の勤務時間をこえて左記の勤務を行う必要がある場合には、これを超過勤務として命じ、政府職員の新給与実施に関する法律第二十一条の規定に基づき、超過勤務手当を支給して差し支えありませんから運用要領をお含みの上、しかるべくお取り計らいを願います。

一、宿直
二、日直
三、入学試験事務
四、身体検査(委員に限る)
五、学位論文審査
 運用要領(略)
 この通達をよく読むと、入学試験事務や学位論文審査などというものがあることからしても、大学教授を主として念頭に置いて書かれているような印象があります。それならば、現在専門業務型裁量労働制が適用されていることを踏まえれば、「一律に・・・勤務時間に拘束するときは、かえって教育の能率低下をきたす虞ある場合も多い」というのも頷ける面があります。しかしそれは、後に給特法の適用対象となる「義務教育諸学校等」とは別の世界の話です。いずれにしても、「その勤務は原則として一週四十八時間の勤務に含まれるものとして勤務する如く命ずるものとする」などと、法律の根拠もないまま勝手に労働時間規制の弾力化を通達レベルで図っていたことになり、実定法たる労働基準法とのバッティングが生じてくるのは当然でした。
 
3 教員超勤訴訟
 
 上述のように、1950年地方公務員法により、地方公務員たる公立学校教師には労働基準法が原則適用されることとに決着したにもかかわらず、文部省は漫然と上記通達による運用を続けていたため、各地の教職員組合は所謂超勤訴訟を提起し、1960年代後半に入ると各地の地裁、高裁から超過勤務手当を支給すべしとする判決が相次ぎました。
 このうち、最高裁の判決に至ったのは静岡県教組事件(昭和47年12月26日最三小判民集第26巻10号2096頁)で、判決自体は給特法の成立後ですが、当局側の上告を棄却し、ほぼ全面的に原告側の訴えを認めています。この判決文は、給特法以前の法状況に対する判断であるとはいえ、日本国の労働法の適用の基本原則について的確な認識を示しており、間違った認識を主張している教育委員会(文部省)側をたしなめる内容となっています。そして、その点については給特法制定以後といえどもなんら変わるものではない(ということが一部裁判官からは忘れられているようですが)以上、改めてじっくりと読み返される必要があるように思われます。
・・・論旨は、また、教職員の勤務は他の職種のように労働時間をもつてこれをはかることが困難であるという特殊性を有するところから、教職員に対しては、一般職員と同様な意味における時間外勤務手当を支給しないとする制度が確立されて現在に至つているのであり、このことは、所論が妥当であることを裏付けるものである、という。
 しかし、教職員といえども無定量の職務専念義務を負うものではないし、教職員が現実にした時間外勤務の時間を事後において明確にすることが常に不可能であるわけでもない。義務教育費国庫負担法二条、市町村立学校職員給与負担法一条は教職員に対する時間外勤務手当については規定していないけれども、右各法条は、公立の義務教育諸学校の経費、あるいは市町村立の小学校等の職員の給与の負担者について定めているにすぎないものであるし、給与ベース切替えの際に教員に対して優遇措置がとられた事実はあるとしても、当該措置の趣旨が所論のようなものであることが法令上明確にされているわけではないのであつて、前述のように、被上告人ら公立学校の教職員に対しても労働基準法三七条を適用することとされていることから考えれば、右のような点から、被上告人らに対しては時間外勤務手当を支給しないとする制度が確立されていたとすることはできない。
・・・ところで、労働基準法三七条が、例外的に許容された時間外労働に対して割増賃金の支払を義務づけているのは、それによつて、労働時間制の原則の維持を図るとともに、過重な労働に対する労働者への補償を行なおうとするものであると解すべきところ、前述のように、本件各時間外勤務がされた当時、被上告人らにも右法条が適用されていたのであるから、これを受けた規定である給与条例一五条の解釈にあたつては、その定める時間外勤務手当の支給が、労働基準法三七条による割増賃金の支払と同様の役割を果たすものであることを考慮しなければならないのである。もつとも、勤務時間条例八条二項は、被上告人ら教職員に対して時間外勤務を命じうる場合を特に限定しており、それが、右労働基準法三七条の保護しようとする労働者の利益以上の公益上の要請に基づくものであるとするならば、これを無視することはできないけれども、それは、教職員の職務の性質上、時間外勤務に対する監督に困難が伴うので、原則として時間外勤務は命じないこととし、かたがた国および他の地方公共団体との関係において、その教職員との間の待遇上の均衡を考慮し、かつ、その財政に累を及ぼすことのないようにとの配慮から、そのような制限を設けているものと解されるのであつて、そこには、具体的の場合に、上司の違法な命令に事実上拘束されて、勤務時間条例、同規則の定める正規の勤務時間以外の時間にわたつて、本来の職務の範囲に属することがらについて勤務した個々の教職員に対する労働基準法による保護を無視してまでも維持しなければならないほどの公益上の要請があると解することはできない。このような点を考えれば、静岡県の公立学校において、校長の時間外勤務命令に基づき、教職員が正規の勤務時間以外の時間にわたつて本来の職務の範囲に属することがらについて勤務をした場合には、校長に右命令の権限がなかつたとしても、それが教職員に対して事実上の拘束力をもつものであるかぎり、上告人としては、右命令の行政法上の効力のいかんは別として、その瑕疵を主張して右時間外勤務に対する所定の時間外勤務手当の支給を拒むことは許されないものと解するのが相当である。
 そして、本件における各学校行事、職員会議等に参加することが被上告人ら教職員の職務の範囲に属するものであり、また、被上告人らに対する各所属学校長の本件時間外勤務命令の拘束力につき、右命令がされた当時客観的に法規に反し明白に無効なものであるとまではいいえない以上、被上告人らは上司の職務上の命令としてこれに服従せざるを得ないような立場に置かれているものと解すべきか当然であるとした原判決の認定判断は、正当として首肯することができる。
 してみると、校長の違法な時間外勤務命令によつて本件時間外勤務をした被上告人ら教職員についても時間外勤務手当請求権は認められるべきであるとした原審の判断は、結局正当である。
 なお、同判決の最後には、当局側の「本件で問題とされるような時間外勤務に対しては、時間外勤務手当を支払わない、あるいは、これを請求しないという慣習は、かりにあつたとしてもその効力を有しないとした原判決は、民法九二条の解釈を誤つたものである」というやけくそ気味の主張に対しても、「労働条件の基準を定める労働基準法の規定が強行法規であることは、同法一三条の規定によつて明らかであ」り、「これに反する慣習は効力を有しないとする原審の判断は、正当である」とたしなめています。
 
4 1968年教育公務員特例法改正案
 
 上記静岡県教組事件の第一審は1966年1月29日静岡地判であり、原審は1970年11月27日東京高判でしたが、これに先立って、人事院は1964年8月の給与勧告の附属報告において、「現行制度のもとに立つかぎり、正規の時間外勤務に対しては、これに応ずる超過勤務手当を支給する措置が講ぜられるべきは当然であるが、他方、この問題は、教員の勤務時間についての現行制度が適当であるかどうかの根本にもつながる事柄であることに顧み、関係諸制度改正の要否については、この点をも考慮しつつ、さらに慎重に検討する必要がある」と述べていました。
 この問題について、自民党文教部会は教員の労働基準法適用除外の方向で解決との方針を打ち出しましたが、1968年新春早々から自民党・文部省が労働省・人事院と折衝し、教員のみ労働基準法適用から除外することは法制上困難であるとの結論が出され、その結果、教員を労働基準法37条に関してのみ適用除外する方針を固めるに至りました*4。こうして教育公務員特例法改正案が同年3月に国会に提出されました。その内容は後に給特法として成立するものとほとんど変わりませんが、教育公務員特例法上に4%の教職特別手当を規定する(第25条の4)とともに、同法第25条の7として公立の義務教育諸学校等の教員に関する読替え規定を置くというものでした。ただし、いずれにも「当分の間」という4文字が付いていました。おそらく、そもそも教師は聖職であるから私立学校教師も含めて適用除外すべきという政治的な圧力の下で、暫定的な措置だと言い訳しての法案作成であったからだと思われます。
 国会では参考人として石井照久中基審会長が呼ばれ、他法で労働基準法の手直しを行うときも中基審の審議を経るべきと述べ、これを受けて同年5月に中基審の臨時総会が開かれましたが、結論は出ず、結局審議未了廃案となりました。
 
5 1969年の自民党案
 
 1969年8月には自民党文教部会・文教制度調査会から「教職員の給与等に関する特別措置法案」が提示されましたが、これは教員の専門職としての地位を確立するという長期的な課題を見据えつつ、当面の施策として特別措置法を制定するというものでした。
・・・党としては、教職員の専門職としての地位を確立するため、基本的な制度の樹立を期するものであるが、さし当り、当面の施策として、このたび、文教部会及び文教制度調査会では次に示す要綱の如き成案を得た。・・・
 国立及び公立の義務教育諸学校等の教育職員の給与等に関する特別措置法案要綱
一、教職特別調整手当の支給
(1) 国立又は公立の義務教育諸学校等の教育職員の専門職としての職務の特殊性と高度の責任にかんがみ、当面必要な措置として、これに教職特別調整手当を支給すること(校長・教頭を含む。)
(2) 教職特別調整手当は、俸給(公立学校の教育職員の場合は、給料。以下同じ。)の月額並びにこれに対する調整手当及び暫定手当の月額の合計額の六%とすること。
二、超過勤務手当の整理及びこれに関連する措置
(1) 教職特別調整手当の支給に伴い、国立の義務教育諸学校等の教育職員については、一般職の職員の給与に関する法律に特例を設け、超過勤務手当及び休日給の支給の規定の適用を除外すること。
(2) 教職特別調整手当の支給に伴い、公立の義務教育諸学校等の教育職員については、労働基準法及び船員法中の時間外労働に対する割増賃金又は時間外手当の規定の適用を除外すること。
(3) 公立の義務教育諸学校等の教育職員について、労働基準法中の時間外労働についての協定の規定(第三十六条)の適用を除外すること。
(4) 公立の義務教育諸学校等の教育職員について、公務のため必要があるときは、時間外勤務を命ずることができる旨を明らかにすること(労働基準法第三十三条第三項の規定を読み替えて適用すること。)。
三、教育専門職としての地位の確立
 国立及び公立の義務教育諸学校等の教育職員につき、その教育専門職としての地位を確立するため、基本的な制度が近い将来において樹立されるべきであることを明記し、前記一及び二の措置は、この目標達成のための段階であることを明らかにすること。
 これはもう既に給特法の規定そのものですが、それが「当面の施策」であり、将来により踏み込んだ「基本的な制度」の樹立を期していることが明らかにされている点が重要です。それは当時、日教組の教師労働者論に対する教師聖職論という政治的対立図式の中で語られていたものでした。
 なお、1967年から社会党が提出していた女子教育職員育児休暇法案と引き換えに社会党が自民党案に接近し、これを与野党共同提案による議員立法として提出しようという動きもあったようですが、日教組の反対に遭って失敗に終わったという経緯もあったようです*5。こちらは紆余曲折の末に与野党共同提案により、1975年6月に義務教育諸学校等の女子教育職員及び医療施設、社会福祉施設等の看護婦、保母等の育児休業に関する法律として成立しています。
 
6 人事院意見
 
 こうした中で、人事院は1971年2月、「義務教育諸学校等の教諭等に対する教職調整額の支給等に関する法律の制定についての意見の申出」を行いました。これと、とりわけその説明文書が、近年の下級審判決でもそのまま踏襲されている教員の職務の特殊性を論じている権威ある政策文書として使われ続けていることを考えると、その(マイナス面も含めた)重要性は極めて大きなものがあります。
 まず、人事院の名で出された「義務教育諸学校等の教諭等に対する教職調整額の支給等に関する法律の制定についての意見の申出に関する説明」の冒頭の部分を読んでみましょう。これは、それまで教育界では当然の如く語られてきていながら、現実の立法の根拠として用いられたことのない思想が、あたかも当然の理路であるかの如く語られています。
・・・教員の勤務時間については、教育が特に教員の自発性、創造性に基づく勤務に期待する面が大きいこと及び夏休みのように長期の学校休業期間があること等を考慮すると、その勤務のすべてにわたって一般の行政事務に従事する職員と同様な時間管理を行うことは必ずしも適当でなく、とりわけ超過勤務手当制度は教員にはなじまないものと認められる。よって、勤務時間の管理について運用上適切な配慮を加えるとともに、教員の超過勤務とこれに対する給与等に関する現行制度を改め、教員の職務と勤務の態様の特殊性に応じたものとする必要がある。
 この理屈は、全く成り立たないというわけのものではありません。当時はまだ存在しない制度でしたが、後に専門業務型裁量労働制という制度が作られ、教師のうち大学教授等についてはその適用対象となったことを考えれば、程度の差はあるとはいえ、高校以下の教師についても多かれ少なかれ裁量労働的な側面はあり、一般労働者と同じような労働時間管理をすることは必ずしも適当でなく、時間外・休日労働の割増賃金の適用を除外するという発想は十分にありえたといってもいいかも知れません。
 しかしながら、仮にその理屈を認めたとしても、それはあくまでも教師という職種の特殊性に基づくものであって、国家公務員であろうが地方公務員であろうが民間労働者であろうが全く同じように適用されるべきであり、官民の身分の違いによって異ならせることが正当化されるわけのものではありません。人事院が私立学校の教師についてどのように考えていたのかは不明ですが、自らの所管ではないからといって、現に存在する人々を無視するような議論を平気で展開していたことは、それが当時の政治状況の中で迫られていたからだという言い訳は理解できるとはいえ、問題を後世に残す結果になったというべきでしょう。
 しかも、この人事院意見は実は大変皮肉な立ち位置にあります。というのも、そもそも制度上国の機関としての人事院が権限を有しているのは国家公務員に関してだけであり、地方公務員については直接の権限を有していないので、この意見申出は国家公務員たる教師についてのみ語っているからです。実際、この意見申出に添付されているのは「国立の義務教育諸学校等の教諭等に対する教職調整額の支給等に関する特別措置要綱」であって、地方公務員たる公立学校の教師はその対象外なのです。
 これが皮肉である所以はお分かりでしょう。2004年度から国立大学法人化して民間労働者となった国立学校の教師たちは、かつて人事院が専ら彼らのことを念頭に置いて「教員の職務と勤務の態様の特殊性に応じたものとする必要がある」とか「超過勤務手当制度は教員にはなじまないものと認められる」と言ってくれていたのに、その制度から排除されてしまい、労働基準法の労働時間規制がそのまま適用されるようになってしまったのですから。人事院が専ら念頭に置いていた国立学校の教師が今やその適用対象ではなくなっているにもかかわらず、半世紀前のその理屈だけがなお生き続けているという奇妙な事態については、不思議なことに誰もまともに指摘しようとしていません。
 なお、この国立学校に係る特別措置要綱の中身は、公立学校への準用を加えてほぼそのまま給特法として実現されていますので、ここでは省略します。
 
7 中基審の審議
 
 人事院の意見は国立学校に係るものですが、それを立法化しようとすると当然最大勢力である公立学校にも適用することになります。そうすると、既に1968年の教特法改正案の時に問題となったように、地方公務員には労働基準法が原則適用となっているので、中基審の審議が問題となります。こうして、人事院意見の出された1971年2月に、労働省と人事院から中基審に報告し、法案作成の考え方を説明しました。直接労働基準法を改正するのではなく、労働基準法の適用関係を定めた地方公務員法の改正だからという理屈から、あくまでも説明であって、諮問ではありません。
 これに対する中基審の建議は以下の通りです。
1 労働基準法が他の法律によって安易にその適用が除外されるようなことは適当でないので、そのような場合においては、労働大臣は、本審議会の意向をきくよう努められたい。
2 文部大臣が人事院と協議して超過勤務を命じうる場合を定めるときは、命じうる職務の内容及びその限度について関係労働者の意向が反映されるよう適切な措置がとられるよう努められたい。
 また、これは当時の霞ヶ関文化の現れですが、文部省と労働省はこの時次のような覚書を交わしています。
覚書
  昭和46年2月15日
                                文初財第142号
                                 基発第111号
                             文部省初等中等教育局長
                              労働省労働基準局長
国立及び公立の義務教育諸学校等の教育職員の給与等に関する特別措置法(案)について
 第65回国会に提出される「国立及び公立の義務教育諸学校等の教育職員の給与等に関する特別措置法(案)」に関し、文部省と労働省は下記の通り了解し、文部省はその趣旨の実現に努めるものとする。

一、文部省は、教育職員の勤務ができるだけ、正規の勤務時間内に行われるよう配慮すること。
二、文部大臣が人事院と協議して時間外勤務を命じうる場合を定めるときは、命じうる職務については、やむを得ないものに限ること。
 なお、この場合において関係教育職員の意向を反映すること等により勤務の実情について充分配慮すること。
 
8 法案の国会審議
 
 こうして同月国会に提出された「国立及び公立の義務教育諸学校等の教育職員の給与等に関する特別措置法案」は、野党の反対を押し切る形で同年5月に成立に至りました。
 議事録を見ていくと、佐藤達夫人事院総裁が、かなり本気で「教員の自発性、創造性」を論じていることが分かります。
・・・先ほどの雑務の排除、これは小さい例かも知れませんけれども、そういうことを我々大きく考えていることをここで御披露申し上げたわけです。・・・たとえば自発性と創造性といいましても、こういうチャンスがなければ声を大きくして叫ぶ機会はなかっただろうと私は思います。・・・外国における教員の方々の勤務時間はどうなっているかというと、だいたいこれは授業時間が勤務時間とされているように思います。・・・将来の方向としては、私共はやっぱりそういうふうに持っていくべきであろうと思うんです。したがいましてこういう基礎をつくっておけば、そういう進展の道がここに開けるという大きな気持ちをもってわれわれはこの意見の提出を申し上げた。そういう点ではこれは相当の意義を持っておる。深い将来性をもっておるというふうに御了承いただきたいと思うわけです。
 佐藤総裁は、教師が学校内のさまざまな雑務をやらされている目の前の日本の現状を前提にするのではなく、欧米ジョブ型社会のプロフェッショナルな教師たちと同様、授業だけがその遂行すべき職務であるような、それゆえ授業時間だけが勤務時間であるような、そのようなあるべき社会を夢見つつ、それに向けての第一歩としてこの給特法を活用しようと考えていたのでしょう。その意図の真摯さ自体は疑うことはできません。しかしそれならば、たとえば後の裁量労働制のように、「その遂行の方法を大幅に労働者の裁量に委ねる」云々といった歯止めが必要だったのでしょう。その意味では、野党議員の言うように「自発性、創造性を期待するならば、勤務命令こそなじまない」はずです。そして、今日、当時の「雑務」を遥かに超える膨大な学校事務や生徒指導、部活動等々を強いられている教師たちに、給特法の本来の思想としてこの佐藤総裁の言葉を読ませたら、いかなる感想を漏らすか興味深いところがあります。
 
9 1971年給特法
 
 こうして成立した給特法は、上述の通り現行給特法とは異なり、国立学校に関する規定が主で、それを公立学校に準用するものでした。すなわち、第3条から第7条までは専ら国立学校の教師に対する規定であり、第8条以下はそれを公立学校に準用するための規定だったのです。
(趣旨)
第1条 この法律は、国立及び公立の義務教育諸学校等の教育職員の職務と勤務態様の特殊性に基づき、その給与その他の勤務条件について特例を定めるものとする。
(公立の義務教育諸学校等の教育職員の教職調整額の支給等)
第8条 公立の義務教育諸学校等の教育職員については、第三条から第五条までに規定する国立の義務教育諸学校等の教育職員の給与に関する事項を基準として教職調整額の支給その他の措置を講じなければならない。
(公立の義務教育諸学校等の教育職員に関する読替え)
第10条 公立の義務教育諸学校等の教育職員については、地方公務員法(昭和二十五年法律第二百六十一号)第五十八条第三項本文中「第二条、第二十四条第一項」とあるのは「第三十三条第三項中「第十六号」とあるのは「第十二号」と、「労働させることができる」とあるのは「労働させることができる。この場合において、公務員の健康及び福祉を害しないように考慮しなければならない」と読み替えて同項の規定を適用するものとし、同法第二条、第二十四条第一項、第三十七条」と、「第五十三条第一項」とあるのは「第五十三条第一項、第六十七条第二項」と、「規定は」とあるのは「規定(船員法第七十三条の規定に基く命令の規定中同法第六十七条第二項に係るものを含む。)は」と読み替えて同項の規定を適用するものとする。
(公立の義務教育諸学校等の教育職員の正規の勤務時間をこえる勤務等)
第11条 公立の義務教育諸学校等の教育職員(管理職手当を受ける者を除く。)を正規の勤務時間(給与法第十四条の規定に相当する条例の規定による勤務時間をいう。以下この条において同じ。)をこえて勤務させる場合は、国立の義務教育諸学校等の教育職員について定められた例を基準として条例で定める場合に限るものとする。給与法第十七条第二項の規定に相当する条例の規定により休日勤務手当が一般の職員に対して支給される日において当該教育職員を正規の勤務時間中に勤務させる場合も、同様とする。
 いわゆる超勤4項目は、国立学校に係る第7条で「文部大臣が人事院と協議して定める場合に限るものとする」とされているのを受けて、同年7月の文部省訓令「教育職員に対し時間外勤務を命ずる場合に関する規程」によって次のように定められました。
(時間外勤務を命ずる場合)
第4条 教育職員に対し時間外勤務を命ずる場合は、次に掲げる業務に従事する場合で臨時又は緊急にやむを得ない必要があるときに限るものとする。
一 生徒の実習に関する業務
二 学校行事に関する業務
三 学生の教育実習の指導に関する業務
四 教職員会議に関する業務
五 非常災害等やむを得ない場合に必要な業務
 ただ、第7条では文部省自身が規程に定めた項目以外の業務を国立学校の使用者側たる立場にある文部省がやらせるという禁反言的な問題ですが、それを準用している第11条では、地方自治体が文部省の規程を「基準として」条例で定めるものですから、その縛りは間接的なものとなります。
 なお、同年7月に出された次官通達(昭和46年7月9日文初財第377号)は、これをさらに詳しく解説しています。
(1) 実習とは、校外の工場、施設(養殖場を含む。)、船舶を利用した実習及び農林、畜産に関する臨時の実習を指すものであること。
(2) 学校行事とは、学芸的行事、体育的行事及び修学旅行的行事を指すものであること。この場合における学校種別ごとの学校行事とは、それぞれの学習指導要領に定める上記学校行事に相当するものであることに留意すること。
(3) 学生の教育実習の指導とは、附属学校における学生の教育実習の指導を指すものであること。
(4) 非常災害等やむを得ない場合に必要な業務とは、非常災害の場合に必要な業務のほか、児童・生徒の負傷疾病等人命にかかわる場合における必要な業務及び非行防止に関する児童・生徒の指導に関し緊急の措置を必要とする業務を指すものであること。
 もっとも、この4項目は当初文部省が考えていたものよりだいぶ縮小しているようです。国会で西岡武夫文部政務次官が示していたのは次の9項目でした*6。現在の部活動につながるクラブ活動は当初案には入っていながら、人事院との協議で削除されていたことが分かります。
一、児童または生徒の実習に関する業務
二、修学旅行、遠足、運動会、学芸会、文化祭等の学校行事で、学校が計画実施する教育活動に関する業務
三、学生の教育実習の指導に関する業務
四、教職員会議に関する業務
五、身体検査に関する業務
六、入学試験に関する業務
七、学校が計画実施するクラブ活動
八、図書館事務
九、非常災害の場合に必要な業務
 問題の第10条の読み替え規定ですが、給特法制定時点で読み替えられた規定ぶりを再現してみましょう。これは労働基準法を読み替えている地方公務員法をさらに読み替えるというまことに技巧的な規定なので、解きほぐすのも2段階になります。まず、第10条で読み替えられた地方公務員法第58条第3項はこうなります。
(他の法律の適用除外等)
第58条 ・・・
3 労働基準法第三十三条第三項中「第十六号」とあるのは「第十二号」と、「労働させることができる」とあるのは「労働させることができる。この場合において、公務員の健康及び福祉を害しないように考慮しなければならない」と読み替えて同項の規定を適用するものとし、同法第二条、第二十四条第一項、第三十七条、第七十五条から第九十三条まで及び第百二条の規定並びに船員法(昭和二十二年法律第百号)第六条中労働基準法第二条に関する部分、第三十条、第三十七条中勤務条件に関する部分、第五十三条第一項、第六十七条第二項、第八十九条から第百条まで、第百二条及び第百八条中勤務条件に関する部分の規定並びにこれらの規定に基づく命令の規定(船員法第七十三条の規定に基づく命令の規定中同法第六十七条第二項に係るものを含む。)は、職員に関して適用しない。ただし、・・・・
 そしてこれをもういっぺん解きほぐすことで、ようやく読み替えられた労働基準法の規定がその秘められた姿を現します。
第33条 ・・・
③ 公務のために臨時の必要がある場合においては、第一項の規定にかかわらず、第八条第十二号の事業に従事する官吏、公吏その他の公務員については、前条若しくは第四十条の労働時間を延長し、又は第三十五条の休日に労働させることができる。この場合において、公務員の健康及び福祉を害しないように考慮しなければならない。
第36条 (原文のまま存在)
第37条 (不存在)
 これまでは労働基準法第37条(割増賃金)の規定は地方公務員法第58条の読み替え後も適用されていました。それゆえに、上述のような超勤訴訟が続々と起こされ、教育委員会側は片っ端から敗訴していたのです。その規定が地方公務員法第58条による読み替え後は適用されなくなりました。超勤訴訟の根拠を奪うという給特法の最大の目標はこうして実現しました。
 一方で、時間外・休日労働を命ずる根拠規定については、いささか不透明な状況となりました。労働基準法上は官公署に限られている第33条第3項を学校教師にも拡大して、「公務のために臨時の必要」があれば時間外・休日労働を命ずることができるようにする一方で、第36条はあえて適用を外していないのです。ここは、文部省サイドは形式的には外していないが実際には適用の余地がなくなると解釈していますが、本当にそうなら法律上第36条も第37条と並べて不適用とするように読み替え規定を書けば良かったはずで、そうなっていないというのは、第33条第3項以外にも時間外・休日労働があり得るだろうと、少なくとも文部省以外の政府機関が考えたからだと思われます。国会議事録を見ると、岡部實夫労働基準局長は「36条ははずしておりません」と答弁しており*7、適用の余地がなくなるとは考えていなかったことを示唆しています。
 
10 国立大学法人化による改正
 
 成立時の給特法は以上のようなものでしたが、その構造を抜本的に揺るがしたのが、2003年7月に成立し、2004年度から施行された国立大学法人法です。国立学校の教師は完全に民間労働者となったため、同時に成立した国立大学法人法等の施行に伴う関係法律の整備等に関する法律により、給特法は本体であったはずの国立学校が外されてしまったのです。
 こうして法律名は「公立の義務教育諸学校等の教育職員の給与等に関する特別措置法」となり、もともと国立学校に関する規定を準用されていた公立学校が一躍主役に抜擢されてしまいました。これにより、これまでは第11条で「国立の義務教育諸学校等の教育職員について定められた例を基準として条例で定める」とされていたいわゆる超勤4項目が、「政令で定める基準に従い条例で定める」こととされ、旧第7条に倣って第2項として「前項の政令を定める場合においては、教育職員の健康と福祉を害することとならないよう勤務の実情について十分な配慮がされなければならない」という一文が追加されました。
 それにしても、人事院が唯一所管する国家公務員たる国立学校の教師について、あれほど熱烈に「教員の自発性、創造性」を強調し、「超過勤務手当制度は教員にはなじまないものと認められる」と言ってくれていたのに、当の国立学校の教師はあっさりと労働基準法全面適用除外から労働基準法フル適用の世界に追いやられてしまったのですから、なんとも皮肉なことです。後に残された地方公務員たる公立学校の教師は、元々準用であった規定の主役の座に座らされ、原則適用のはずの労働基準法を適用除外する理屈を自分たちだけでこしらえ上げなくてはならなくなってしまいました。
 なお、これと同時に地方独立行政法人法も制定され、その業務には「大学の設置及び管理を行うこと」も含まれたため、公立大学法人も設置することが可能となりました。公立大学法人は法律上すべて非公務員型(一般地方独立行政法人)で、大学の設置管理に附帯する業務として附属学校の設置管理も可能です。実際には、教育学部を有する国立大学と違い、公立大学で附属学校を有するものは数少ないですが、いくつか存在します。たとえば、公立大学法人兵庫県立大学には附属高校と附属中学校があります。
 公立大学法人附属学校の教師には給特法は適用されるのでしょうか。学校教育法第2条第2項は、「公立学校とは、地方公共団体の設置する学校」と定義していますが、同条第1項で「地方公共団体(地方独立行政法人法・・・第六十八条第一項に規定する公立大学法人・・・を含む。次項・・・において同じ。)」とあるので、公立大学附属学校も同法にいう公立学校であり、従って、給特法第2条第2項により同法が適用される「義務教育諸学校等」に含まれます。つまり、給特法は適用されます。
 ところが話はそれで終わりません。公立大学法人は非公務員型であり、地方公務員法はそもそも適用の余地はありません。ということは、給特法が適用されるといってもそれは教職調整額の支給や超勤4項目に係る部分であって、第10条の地方公務員法の読み替え規定は、読み替えられるべき地方公務員法第58条第3項が適用されていない以上空振りとならざるを得ません。つまり、公立大学法人附属学校の教師は公立大学教授と同様に、労働基準法の適用上はフルに民間労働者なのであって、第33条第3項によって時間外・休日労働を命ずることはできず、第36条によって労使協定を締結しなければ超勤4項目に該当しようがしまいが超勤は不可能であり、そして4%の教職調整額が払われているからといって、第37条による割増賃金の支払を免れることはできません。一方、大学教授ではないので専門業務型裁量労働制の適用もできません。現行法条文はそういう仕組みになっているのです。
 
11 働き方改革のインパクト
 
 この間、公立学校教師の長時間労働は悪化の一途をたどっていきました。その大部分はクラス担任や部活動担当に伴うもので、超勤4項目に含まれない「自発的勤務」とされ、事実上放置され続けていました。実態としてはそれなしには学校運営が成り立たない状況にもかかわらず、引き受けた教師の自発的活動ゆえ公務ではないという理不尽なことがまかり通ってきたのです。しかも裁判所も、例えば北海道教組事件(札幌高裁平成19年9月27日)において、給特法の制定経緯を延々と並べ立てた挙げ句に、「教育職員がプロフェッションの一員であるとの自覚のもと,自主的に正規の勤務時間を超えて勤務した場合には,その勤務時間が長時間に及ぶとしても時間外勤務等手当は支給されない」とし、あまつさえ「校長が教育職員にひたすらお願いしてクラス担任や部活動の担当を引き受けてもらうことがある・・・が,このような場合も,教育職員がプロフェッションの一員であるとの自覚のもとにやむを得ず引き受けたものと考えることができるから,引き受けた教育職員の自主的な決定というべきである」と、それを容認していました。
 裁判所がこう言ってくれるので安心していた文部科学省の尻に火がつくには、近年の「働き方改革」による長時間労働規制の登場を待たなければなりませんでした。本誌で働き方改革について再説する必要はないでしょうが、給特法の適用される公立学校教師に対するインパクトとして重要だったのは、労働基準法における時間外・休日労働の上限規制それ自体よりもむしろ、労働安全衛生法における関連諸規定でした。というのも、地方公務員法第58条第2項は、「労働安全衛生法・・・第二章の規定・・・は、地方公共団体の行う労働基準法・・・別表第一第一号から第十号まで及び第十三号から第十五号までに掲げる事業に従事する職員以外の職員に関して適用しない」と規定し、同章つまり労働災害防止計画に係る事項以外は全て公立学校教師にも適用されるからです。ということは、過労死防止対策として講じられている第66条の8から第66条の9までの規定もそのまま適用されます。
 これにより、事業者(=学校設置者)は、その労働時間の状況その他の事項が労働者の健康の保持を考慮して厚生労働省令で定める要件(=休憩時間を除き1週間当たり40時間を超えて労働させた場合におけるその超えた時間が1月当たり80時間を超え、かつ、疲労の蓄積が認められる者であること)該当する労働者(=公立学校教師)に対し、医師による面接指導を行わなければなりませんし、事業者はこの面接指導の結果に基づき、当該労働者の健康を保持するために必要な措置について医師の意見を聴き、それを勘案して就業場所の変更、作業の転換、労働時間の短縮、深夜業の回数の減少などの措置を講じなければなりません。さらに第66条の8の3により、事業者(=学校設置者)は、厚生労働省令で定める方法(=タイムカードによる記録、パーソナルコンピュータ等の電子計算機の使用時間の記録等の客観的な方法その他の適切な方法)により、労働者の労働時間の状況を把握しなければならなくなりました。
 これらの規定が重要なのは、給特法による遮断効果が働かないということです。給特法の小宇宙の中では、超勤4項目だけが法の認める超過勤務であり、それ以外の活動はすべて教師が自発的にやっていることに過ぎないという建前が通用したとしても、それが労働者の健康確保の観点からの「労働時間の状況」に該当しないというわけにはいきません。この結果、文部科学省当局は、一方で給特法の枠組みを維持しつつ、他方で超勤4項目以外の業務に従事している時間にも対応せざるを得なくなったのです。
 なお、働き方改革の本丸であった時間外・休日労働の上限規制については、労働基準法第36条は形式的には適用されているものの、給特法により「実際には適用の余地がなくなる」と解されているため、直接的な法的影響はありませんでした。しかし、その上限規制が労災保険における過労死認定基準の数字である以上、間接的なインパクトがあったのはいうまでもありません。
 
12 2019年給特法改正
 
 こうして2017年7月、文部科学省の中央教育審議会に学校における働き方改革特別部会が設けられ、2019年1月に「新しい時代の教育に向けた持続可能な学校指導・運営体制の構築のための学校における働き方改革に関する総合的な方策について」を答申するとともに、文部科学省は「公立学校の教師の勤務時間の上限に関するガイドライン」を公表し、学校における働き方改革推進本部が設置されました。
 ただ、なまじ給特法で時間外・休日労働が第36条や第37条の違反にならないような仕組みにしてしまったために、それをどうするかが悩ましい問題となります。素直に考えれば、「給特法を見直した上で、36協定の締結や超勤4項目以外の「自発的勤務」も含む労働時間の上限設定、全ての校内勤務に対する時間外勤務手当などの支払」を原則とすべきところですが、答申はあくまでも給特法の基本的枠組みを前提として、「公立学校の教師の勤務時間の上限に関するガイドライン」でもって在校時間等の縮減に取組むというスタンスです。
 この「ガイドライン」は、超勤4項目以外の自発的勤務を行う時間も含めて、在校時間プラス児童生徒の引率等校外勤務時間(在校時間等)の上限の目安を示すもので、1か月45時間、1年360時間、特例で年720時間、その場合1か月100時間未満など、基本的に2018年改正労働基準法に沿っています。ただし、在校時間自体が法的概念ではなく、ガイドラインも法的拘束力はありません。教育委員会はそれぞれガイドラインを参考にして方針を策定し、業務の役割分担や適正化、必要な環境整備に取り組むこととされているだけです。
 では労働時間規制については何もしないのかというと、やや唐突に1年単位の変形労働時間制の導入が打ち出されています。学校には夏休みなど児童生徒の長期休業期間がある一方、学期末・学年末には成績処理や指導要録記入で忙しく、また学校行事や部活動の試合の時期も長時間勤務になりがちなので、年間を通した業務のあり方に着目して検討しようというものです。ただし、現行地方公務員法は(労使協定による)1年単位の変形制を適用除外しているので、答申は地方公共団体の条例や規則等に基づき同制度を導入できるようにすべきと提起しています。
 この答申を受けて、文部科学省は2019年10月、給特法の改正案を提出し、同法案は同年12月に成立しました。これにより、給特法第7条に前述のガイドラインの根拠規定が置かれました。
(教育職員の業務量の適切な管理等に関する指針の策定等)
第7条 文部科学大臣は、教育職員の健康及び福祉の確保を図ることにより学校教育の水準の維持向上に資するため、教育職員が正規の勤務時間及びそれ以外の時間において行う業務の量の適切な管理その他教育職員の服務を監督する教育委員会が教育職員の健康及び福祉の確保を図るために講ずべき措置に関する指針(次項において単に「指針」という。)を定めるものとする。
2 文部科学大臣は、指針を定め、又はこれを変更したときは、遅滞なく、これを公表しなければならない。
 ここには「教育職員が正規の勤務時間及びそれ以外の時間において行う業務の量の適切な管理」と書かれており、「それ以外の時間」はあくまで正規の勤務時間ではなく自発的勤務に過ぎないという建前が維持されています。前述のように、公立学校教師にも労働基準法は原則適用されており、特にその根幹をなす第32条はそのまま適用されているのですから、同条の「労働時間」の解釈は一般民間企業における「労働時間」の解釈となんら変わりはないはずです。上述のような超勤4項目以外は自発的勤務であり労働時間ではないなどという解釈が、そうした公立学校教師以外の労働者における解釈と整合性があるかどうかは、依然として不問に付されているようです。
 またこの改正により、1年単位の変形労働時間制が、過半数組合又は過半数代表者との協定ではなく、条例によって導入することができることとなりました。マスコミ等ではこれが最大の問題点であるかのように報じる向きもありましたが、一般民間企業でも労使協定で導入できる制度であり、労働時間か否かが明確にされている限り、変形制自体が悪いという話ではありません。問題の根源は給特法にあり、とりわけ超勤4項目以外は自発的勤務だから労働時間に非ずという歪んだ解釈を維持し続けている点にこそあると思われます。
 
13 埼玉県事件の地裁・高裁判決
 
 こうした中で、改めてこの問題をややトリッキーな形で問い直したのが埼玉県事件でした。さいたま地裁の判決が2021年10月1日、東京高裁の控訴審判決が2022年8月25日に出され、現在最高裁に上告中です。
 埼玉県の私立小学校の教師であった原告は、時間外労働に対する割増賃金の支払を求めて訴えたのですが、その理屈の立て方がひとひねりされていたのです。
(原告の主張)
ア 給特法は、教育職員(同法2条2項。以下「教員」ということがある。)に対して時間外勤務手当を支払わない旨を定め、労基法37条を適用しないものとしているが、以下の給特法等の定めによれば、教育職員に同条が適用されないのは、平成15年政令2号イからニまでに掲げられた項目に係る業務(以下「超勤4項目」という。)についての時間外勤務命令があった場合に限られ、それ以外の業務について時間外勤務命令を受けこれに従事した場合には、原則どおり労基法37条が適用されるものと解すべきである。
 すなわち、給特法6条1項及び平成15年政令は、教育職員に対しては原則として時間外勤務を命じないものとし、時間外勤務を命ずる場合には、超勤4項目に従事する場合であって臨時又は緊急のやむを得ない必要があるときに限るものとしている。これを前提として、同法3条は、教育職員に対しては教職調整額を支給し(1項)、時間外勤務手当及び休日勤務手当を支給しないこと(2項)としており、同法5条1項及び同項による読替え後の地公法58条2項により、教育職員には労基法37条を適用しないものとしている。以上の定めからすると、給特法は、超勤4項目の時間外勤務については、教職調整額を支給することによって、同法32条や同法37条の義務違反を問われないという免罰効を与えたものと解すべきである。
 他方で、超勤4項目に該当しない業務について時間外勤務命令がされた場合は、給特法上特に定めがないことからすると、原則どおり労基法が適用され、時間外勤務を行わせるためには、同法36条1項の定める手続が必要となり、時間外勤務に従事した場合には、同法37条により時間外割増賃金の支払が必要となるというべきである。
 以上のことからすると、給特法は、超勤4項目について、時間外勤務命令がされた場合にのみ、労基法37条の適用を排斥しているのであって、それ以外の業務について時間外勤務命令がされた場合には、原則どおり同条が適用されるというべきである。給特法の制定趣旨に教育職員の超過勤務防止が含まれている以上、同法が、基本給の4パーセントにすぎない教職調整額を支給することのみをもって、本来予定されていない超勤4項目以外の業務に係る時間外勤務についてまで時間外勤務手当の支払を免除することを許容しているとは到底解し得ない。
 要するに、給特法上の超勤4項目、教職調整額の規定と、労働基準法第37条の適用除外とは密接不可分の牽連性があるという前提に立ち、それゆえ超勤4項目以外の時間外労働に対しては、適用除外されたはずの労働基準法第37条が蘇って適用される、というわけです。原告側としては知恵を振り絞って提起した理屈だったのでしょうが、残念ながらそれは成り立たないと思われます。実を言えば、(文部省の意に反して)労働基準法第36条は適用除外されなかったので、超勤4項目以外の時間外労働は(現に生きている同条に基づき)時間外・休日労働協定の締結が必要であり、それなしに行われた時間外・休日労働は労働基準法第32条違反になるという理屈は十分成り立ちえたと思われますが、地方公務員法第58条第3項を通じてなんの附帯条件もなく適用除外されてしまっている第37条は復活のしようがないのです。
 そのことは、給特法の本体規定と地方公務員法を通じた労働基準法の読み替え規定とが密接不可分ではない事例が存在することからも明らかです。恐らく圧倒的に多くの人々の目には映っていないと思われますが、上述の通り2003年の地方独立行政法人法により非公務員型の公立大学法人が設置され、その附属学校の教師は、公立学校の教員として給特法が適用されるので、超勤4項目への限定や教職調整額の支給は義務づけられる一方で、公務員の身分を有さないために地方公務員法第58条第3項は適用されず、従って同項を通じた労働基準法の読み替え規定も空振りとならざるを得ず、それゆえに労働基準法第33条第3項による時間外・休日労働命令は不可能であり、第36条による時間外・休日労働協定が不可欠であり、第37条による割増賃金の支払を免れることはできません。給特法の法構造自体が、両者が密接不可分の牽連性を有していないことを示しているのです。
 結局、たまたま地方公務員の身分を有するところの原告に関するかぎり、超勤4項目以外の時間外・休日労働を行わせたことが給特法違反の問題を生じさせることは格別、また適用除外されていない36協定無締結の問題を生じさせることはあり得ても、少なくとも完全適用除外されている第37条に基づく割増賃金の請求は不可能であると言わざるを得ません。
 繰り返しますが、これは原告がたまたま地方公務員の身分を有しているからであって、それ以外のいかなる理由によるものでもありません。もし原告が私立学校の教師であったり、国立学校の教師であったり、公立大学法人附属学校の教師であったりしたら、教師としての職責には全く何の違いもないにもかかわらず、原告の訴えは認められていたはずです。
 しかしながら、さいたま地裁の裁判官も東京高裁の裁判官も、そのような深く突っ込んだ考察は一切ないまま、恐らく教育委員会側から提出された資料を何も考えずに丸写しにするような判決文を書いています。
・・・教員の職務は、使用者の包括的指揮命令の下で労働に従事する一般労働者とは異なり、児童・生徒への教育的見地から、教員の自律的な判断による自主的、自発的な業務への取組みが期待されるという職務の特殊性があるほか、夏休み等の長期の学校休業期間があり、その間は、主要業務である授業にほとんど従事することがないという勤務形態の特殊性があることから、これらの職務の特質上、一般労働者と同じような実労働時間を基準とした厳密な労働管理にはなじまないものである。例えば、授業の準備や教材研究、児童及び保護者への対応等については、個々の教員が、教育的見地や学級運営の観点から、これらの業務を行うか否か、行うものとした場合、どのような内容をもって、どの程度の準備をして、どの程度の時間をかけてこれらの業務を行うかを自主的かつ自律的に判断して遂行することが求められている。このような業務は、上司の指揮命令に基づいて行われる業務とは、明らかにその性質を異にするものであって、正規の勤務時間外にこのような業務に従事したとしても、それが直ちに上司の指揮命令に基づく業務に従事したと判断することができない。このように教員の業務は、教員の自主的で自律的な判断に基づく業務と校長の指揮命令に基づく業務とが日常的に渾然一体となって行われているため、これを正確に峻別することは困難であって、管理者たる校長において、その指揮命令に基づく業務に従事した時間だけを特定して厳密に時間管理し、それに応じた給与を支給することは現行制度下では事実上不可能である(文部科学省の令和2年1月17日付け「公立学校の教育職員の業務量の適切な管理その他教育職員の服務を監督する教育委員会が教育職員の健康及び福祉の確保を図るために講ずべき措置に関する指針」〔文部科学省告示第1号〕においても、教育職員の業務に従事した時間を把握する方法として、「在校等時間」という概念を用いており、厳密な労働時間の管理は求めていない。甲82)。このような教員の職務の特殊性に鑑みれば、教員には、一般労働者と同様の定量的な時間管理を前提とした割増賃金制度はなじまないといわざるを得ない。
 これら判決によれば、労働基準法第37条の適用除外は「教員の自律的な判断による自主的、自発的な業務への取組みが期待されるという職務の特殊性」によるものであり、それゆえ「教員には、一般労働者と同様の定量的な時間管理を前提とした割増賃金制度はなじまない」のだそうです。そうした教員の職務の特殊性は、いうまでもなく私立学校や国立学校の教員にもあるはずですが、これら判決を書いた裁判官の目には彼らの存在が映っていなかったのでしょうか。令和2年度の学校基本調査によれば、給特法の対象に相当する高校までの教員数は、私立学校は158,758人、国立学校は4,618人です。公立学校の834,191人に比べれば若干少ないとはいえ、無視していい数ではありません。
 しかも、当然のことながら労働基準法がフルに適用されている彼らについては、労働基準監督機関が法違反を容赦なく摘発しに来ます。2022年8月に厚生労働省労働基準局監督課が発表した「監督指導による賃金不払残業の是正結果(令和3年度)」には、賃金不払残業の解消のための取組事例として私立学校のケースが載っています。
 公立学校にでもなったつもりで4%の教職調整額を払い、時間外割増賃金を払わなかった私立学校が、部活動の時間も含めて不払い残業代を払わされています。現行法上当然のことではありますが、もしこの私立学校の経営者が上記さいたま地裁や東京高裁の判決文を読んだらどう思うでしょうか。我が校の教師たちも、「教員の自律的な判断による自主的、自発的な業務への取組みが期待されるという職務の特殊性」はなんら変わることはなく、「教員には、一般労働者と同様の定量的な時間管理を前提とした割増賃金制度はなじまない」のではないのか。労働基準監督署の監督指導は不当だ!と思うのではないでしょうか。そして、そう思った私立学校が、上記判決文を根拠として、職種としての教員にはなじまない割増賃金制度を、法律に書いてあるからといって押しつけてくるのは違法だと言って訴えを提起してきたら、これら判決を書いた裁判官たちは一体どういう判決を下すつもりなのでしょうか。恐らく、そんなことはかけらも脳裡に浮かばなかったのでしょう*8。
 
14 専門職としての教師にふさわしい労働法制の可能性
 
 さて、しかし、上でちらりと示唆したように、給特法制定時の人事院の意見の背景には、欧米ジョブ型社会のプロフェッショナルな教師たちと同様、授業だけがその遂行すべき職務であるような、それゆえ授業時間だけが勤務時間であるような、そのようなあるべき社会の姿が夢見られていました。ややもすると政治イデオロギー的な教師聖職論と紛らわしい目で見られることもあったとはいえ、この思想それ自体は真剣な検討に値します。
 そして、給特法制定当時は専門職としての大学教授にふさわしい労働時間制度など存在せず、事実上の裁量労働が放任されていたに過ぎなかったのに対し、その後労働基準法上に専門業務型裁量労働制が規定され、講義等の授業の時間が1週間の所定労働時間の半分以下の大学教授は専門業務型裁量労働制が適用されるようになっています。学科担任制や科目担任制の中学校や高校では、この制度を適用する余地のある教師は存在しうるのではないでしょうか。もちろん、現実に膨大な学校事務や生徒指導、部活動等々を強いられている教師たちにそのまま適用することはあり得ませんが、将来のあるべき学校の姿、教師の姿として、そうした専門職としての教師にふさわしい労働法制の可能性を探っていくことも、考えられていいのではないかと思われます。
 いうまでもなく、その際には、公務員であるかないかなどという職種の性質にはなんの関係もない雑事に煩わされることなく、言葉の正確な意味において「まじめ」に検討されなければなりません。
*1渡辺章編集代表『日本立法資料全集労働基準法』(2)信山社p749~
*2以下各節にわたり、大沼淳『教職員の給与制度詳説』帝国地方行政学会(1957年)、佐藤三樹太郎『教職員の給与』学陽書房(1966年)、高橋恒三『教師の権利と義務』第一法規(1966年)、宮地茂監修・文部省初等中等教育局内教員給与研究会編著『教育職員の給与特別措置法解説』第一法規(1971年)を参照。
*3この「職務給制度」がその名に値しないものであったことは、濱口桂一郎「職階制-ジョブ型公務員制度の挑戦と挫折」(『季刊労働法』2020年春号(268号))参照。
*4日本教職員組合編『日教組三十年史』労働教育センター(1977年)p425~。
*5市川昭午「教特法の問題点」『ジュリスト』485号(1971年8月)。
*6参議院文教委員会1971年5月20日。
*7参議院文教委員会、1971年5月21日。
*8実は給特法制定当時も、私立学校の教師のことを誰も議論しなかったわけではありません。1971年4月23日衆議院文教委員会で自民党の塩崎潤議員は、「国公立の先生にはこういった超勤手当制度が調整額制度に改められる。ところが、私立の先生たちには依然として労働基準法の適用があって、どうしても超勤命令を出せば25%の超勤手当をまた払わなければならない。これはどういうふうに考えられるか」と問うています。 

 

 

2025年5月15日 (木)

再三再四 賃上げ与党に減税野党という構図でいいのかね?

昨日、官邸の新しい資本主義実現会議で、「「中小企業・小規模事業者の賃金向上推進5か年計画」の施策パッケージ案」というのが示されたようです。

https://www.kantei.go.jp/jp/103/actions/202505/14shihon.html

石破首相曰く:

『賃上げこそが成長戦略の要』であります。2029年度までの5年間で、日本経済全体で持続的、安定的な物価上昇の下、実質賃金で1パーセント程度の上昇を賃上げの新たな水準であるとの社会通念の規範として我が国に定着させてまいります。そのため、『賃金向上推進5か年計画』を取りまとめ、我が国の雇用の7割を占める中小企業・小規模事業者の経営変革の後押しと賃上げ環境の整備に政策資源を総動員いたします。

資料はこちら

https://www.cas.go.jp/jp/seisaku/atarashii_sihonsyugi/kaigi/dai34/gijisidai.html

なんにせよ、野党が減税ポピュリズムに突進する一方で、与党は賃上げを旗印に掲げるようで、まことに西欧の政党政治を見慣れた目には、賃金労働者の支持を背景にした社会民主主義勢力対お金持ちの支持を背景にした自由主義勢力の、きれいな対立図式にはまり込んでしまっておりますな。ほんとにそれでいいのかね。

というか、もちろん、それではまずいと思っている人もいっぱいいるわけで、それこそ、わたくしを呼んでいただいた立憲民主党の方々は、賃上げ(を始めとする労働問題)こそを旗印にしようと一生懸命に考えておられるわけですが、そういうまっとうな方々の意見がなかなか主流化しないところが、つらいところなのでしょう。

賃上げ与党に減税野党という構図でいいのかね?

このままいくと、賃上げ与党対減税野党という奇妙きてれつな構図になっていくんだけど、それでいいのかね。ま、いいんだろうね。こういう長い歴史があるわけだし。

賃上げ与党に減税野党という構図でいいのかね?日経版

井手英策さんを呼んでAll for Allとか言ってたのはもしかして百万年前のことだったかしら。

賃上げ与党に減税野党という構図でいいのかね?いいらしいね

この段階では、まださすがにそうはなってほしくないんだけどな、という気分がちょびっとくらいはあったんだけど、今現在、まさしく完璧に「賃上げ与党に減税野党という構図」になってしまっている現状を目の当たりにして、もう何も言う気になれませんな。神聖なる憎税同盟の磁力線はかくも強力であったというわけです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2025年5月14日 (水)

立憲民主党の勉強会

一昨日、立憲民主党政務調査会の勉強会に呼ばれて、『賃金とは何か』をお話ししてきました。

今日の最後は、立憲民主党の政調の勉強会でした。短時間だったのが残念で、しっかり濱口先生の著作を読み込まねば!と決意した次第です。機内読書の購入リストに加えます。

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消費税問題では何やら(大見得切って否定したはずの)減税ポピュリズムにふらついていて心配になりますが、労働問題については真面目に取り組んでいるようです。

 

2025年5月12日 (月)

自民党は日本で唯一の社会民主主義政党!?

消費減税「なぜ私が慎重か、分かってほしい」 自民・森山裕幹事長

今回の(参議院)選挙で何が問われているかというと、一つはやっぱり消費税の問題だ。森山が消費税を下げることに反対しているとよく言われる。なぜ私が慎重な態度をとっているのか分かってもらいたい。
 税金が安いのはいいこと。しかし、今の社会保障を担保するには、消費税を下げた分の財源をどこに求めるかという話がないと、つじつまが合わない。私はそういう政治をしてはいけないと思う。 

こたつぬこ🌾ネオ構改派

中北浩爾(政治学者・中央大学法学部教授)【視点】国民民主党や立憲民主党が消費税減税を主張するのに対して、自民党が社会保障制度を維持するために消費税減税に反対する。結局、この国の政治は、責任ある与党か、無責任な野党かの対立であって、(外交安全保障や文化争点は別にして)経済争点での左右の対立軸は成立していない。そういう分析が、かつて政治学で55年体制についてなされていましたが、今なお、そうなのかもしれません。悲しいかな「左翼小児病」ならぬ「野党小児病」の病根は深いなあと、森山幹事長の発言に接して、つくづく思います。

労働組合の強力な支援を受けているはずの政党(受けていない野党も含めて)が続々と風に吹かれるままに「神聖なる憎税同盟」に闇堕ちしていく中で、ただ一人、社会保障維持のために消費減税に抵抗する自由民主党こそ、我が日本が誇るべき唯一の真正社会民主主義政党と呼ぶべきかも知れませんね。冗談じゃなく。

まあ、高福祉高負担の北欧諸国を引き合いに出して消費税廃止を訴える頓知気がまかり通る現代日本では、この程度で驚いていたら身が持ちませんが。

 

 

 

 

2025年5月 9日 (金)

労働基準法上に「民主集中制」という概念は存在しない

Jigazou_400x400_20250509105101 漫画評論家の紙屋高雪さんこと元共産党職員の神谷貴行さんが共産党を解雇された事件については何回か取り上げてきましたが、

結社/経営体としての日本共産党

雇用労働者か職業革命家か?

党専従職員は労働者に非ず…ってのは

まあ、「我が社の社員はみんな同志みたいなもんじゃ、労働基準法なんか関係ないワイ」とうそぶいていたワンマン社長が、言うことを聞かないからとクビにした社員に訴えられて、しぶしぶ労働者性を認めざるを得なくなり、監督署にせっつかれて就業規則や36協定を届け出なくてはならなくなるなんてことは、世の中にはそれこそゴマンとある訳ですが、労働者の味方を標榜している天下の日本共産党もそのワンマン中小零細企業の仲間入りをしたようです。

その神谷さんのブログに、昨日こういうエントリがアップされました。

これが歴史的な共産党の36協定…だけどよく見るとヘンでは?

神谷さんは就業規則と36協定の情報開示を求めたのですが、就業規則本体は不開示だったようです。

でも、面白いのは、労働基準法第90条に基づき、「労働者の過半数で組織する労働組合がある場合にはその労働組合、労働者の過半数で組織する労働組合がない場合においては労働者の過半数を代表する者の意見」を労働基準監督署に届け出る際に添付しなければならない、というその「意見書」は開示されたようで、その写真が載っているのですが、これが実に不可思議な代物になっています。

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労働法をちょいとでも勉強した人ならすぐに気がつくと思いますが、意見書というのは過半数代表が使用者に対して出すものであって、その出された意見書を使用者が就業規則に添付して監督署に届け出るものです。

ところが、この意見書の宛名は「福岡中央労働基準監督署長殿」になっていますね。うーん、天下の日本共産党は労働基準法の基礎の基礎が分かっていないようです。

「労働者の過半数を代表する者の選出方法」が「投票による選挙」になっていますが、さてはて、どこでどういう選挙をして、どういう方を選出されたのか、まさか労働基準法施行規則第6条の2で定められている「監督又は管理の地位にある者でないこと」や「使用者の意向に基づき選出されたものでないこと」に反していませんよね、と、労働法クラスタなら心配になるところです。

使用者とは異なる立場の人が法に則って適切に「選挙」されているのであれば、自分が意見書を提出する相手(自分と対峙する使用者)と、その相手方が当該意見書を添付して就業規則を提出する相手(監督署)をごちゃ混ぜにするなんてことはあり得ないはずですが、どうも、この日本共産党に雇用される労働者の過半数代表という方は、自分が書いた意見書の提出相手は監督署だと心底から思い込んでしまっているようで、労働者の代表なのか使用者の代表なのかよく分からないところがあります。その意味でも、この墨塗になっているところが気になりますね。なんにせよ、まことに残念ながら、労働基準法上に「民主集中制」という概念は存在しないのですよ。

でも、それよりもっと面白いのは、神谷さん曰く「日本共産党の103年の歴史でもおそらく初めてであろう36協定」です。

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これ、労働法の授業で間違い探しをやらせたくなるような、なんとも不思議な内容になっています。

詳しくは、リンク先の神谷さんのブログで説明されていますが、史上初の36協定の出来がかくもスバラ式代物になってしまっているというのは、なんともはやではあります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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