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2025年4月18日 (金)

西村あさひ法律事務所・外国法共同事業編『サステナビリティ大全』

9784785731335 西村あさひ法律事務所・外国法共同事業編『サステナビリティ大全』(商事法務)をお送りいただきました。これはまた大変分厚い本です。

サステナビリティ大全

多角的視点からサステナビリティ(持続可能性)に関する各種の規範を分析し、紹介する。

サステナビリティ(持続可能性)の概念が唱えられて久しいが、その意味は多義的で、それらを巡るルールも数多く形成されている。本書は、日々新たに生じうるサステナビリティ課題を把握し、それが企業活動にどのような影響を与えるかについての視座を提示することを目指し、サステナビリティに関する各種の規範を分析し、紹介する。

目次は下記にありますが、サステナビリティというのが実に広範な範囲に及ぶ概念であることが、わかります。

トランプ大統領がDE&Iに猛攻撃を加えつつある今日ですが、世界の大きな流れとしてサステナビリティが消えることはないでしょう。

座右において時々コンサルトするにふさわしい重厚な本でしょう。

第 1 部 総 論
 第 1 章 サステナビリティの概念(沿革・関連概念等) 
 第 2 章 サステナビリティをめぐる規範を読み解く
 第 3 章 ESG 
  第 1 節 ESG の概念 
  第 2 節 ESG 要素の考慮と取締役の善管注意義務
  第 3 節 マテリアリティ 

第 2 部 コーポレート
 第 1 章 総 論 
 第 2 章 サステナビリティ・ガバナンス 
  第 1 節 サステナビリティ経営を支える体制 
  第 2 節 役員報酬 
  第 3 節 サステナビリティ情報開示
 第 3 章 ソーシャル ・ エンタープライズ 
  第 1 節 ベネフィットコーポレーション
    第 2 節 B Corp 認証制度 
  第 3 節 公益法人
 第4章 M&A と ESG 
  第 1 節 ESG デューデリジェンス
  第 2 節 M&A 契約と ESG 
  第 3 節 PMI と ESG

第 3 部 ファイナンス
 第 1 章 総 論 
  第 1 節 金融・金融機関とサステナビリティ 
  第 2 節 わが国の制度整備の動向
 第 2 章 ESG 投資 
  第 1 節 ESG 投資の意義と背景
  第 2 節 ESG 投資の視点・手法 
  第 3 節 ESG 投資と日本法における受託者責任──「科学的」な議論へ向けて
 第 3 章 サステナブル・ファイナンスと金融商品 
  第 1 節 サステナブル・ファイナンス商品の類型 
  第 2 節 サステナブル・ファイナンスの経済的メリット 
  第 3 節 サステナブル・ファイナンスに用いられる発行条件/契約条件
  第 4 節 サステナビリティ・リンク・デリバティブ(Sustainability-linked Derivatives) 
 第 4 章 サステナブル・ファイナンスとしてのプロジェクト・ファイナンス 
 第 5 章 インパクト投資 

第 4 部 ソーシャル
 第 1 章 Diversity, Equity & Inclusion 
  第 1 節 はじめに 
  第 2 節 多様な労働者に対応する人事労務と法政策
  第 3 節 ジェンダー投資
 第 2 章 ビジネスと人権 
  第 1 節 ビジネスと人権をめぐる規範 
  第 2 節 近時の海外法制の動向 
  第 3 節 個別の人権イシュー
  第 4 節 人権尊重責任と契約 
 第 3 章 労働法 
  第 1 節 サステナビリティと労働分野
  第 2 節 労務:フリーランス 
  第 3 節 同一労働同一賃金
  第 4 節 人的資本経営 
 第 4 章 地方再生・地方創生とサステナブル・ファイナンス
 第 5 章 アグリ・フード 
  第 1 節 アグリ・フード分野における日本のサステナビリティ政策の概要 
  第 2 節 農林漁業資産と食品のサステナビリティ:フードテック 
  第 3 節 漁業分野におけるサステナビリティ 
  第 4 節 農業と再生エネルギー(営農型太陽光発電) 
  第 5 節 農業従事者のサステナビリティ 
 第 6 章 消費者保護と SDGs ウォッシュ 
  第 1 節 消費者向け商品・サービスの表示とサステナビリティ
  第 2 節 ウォッシング
  第 3 節 消費者向けの表示とウォッシング規制 

第 5 部 環 境
 第 1 章 気候変動 
 第 2 章 自然資本
 第 3 章 サーキュラーエコノミー 

第 6 部 独禁・通商
 第 1 章 通商・投資法 
  第 1 節 人権問題と通商規制 
  第 2 節 気候変動問題と通商規制
 第 2 章 競争法
  第 1 節 総論(協調が必要になっている背景、競争法との緊張関係、
          各国競争法の判断枠組み、各国競争当局の動向)
  第 2 節 各国競争法の判断枠組み
  第 3 節 行為類型ごとの考慮事項

労働法の感覚に慣れた目からすると、目次の立て方がなかなか新鮮です。労働関係は第5部の「ソーシャル」に含まれるのですが、女性、LGBT、シニア、障害者、外国人、疾病、ハラスメントは「多様な労働者」に含まれ、国際労働基準やバリューチェーンは「ビジネスと人権」で、フリーランス、同一労働同一賃金、人的資本経営が「労働法」だというのは、ふーん、そうなのかぁ、と思ってしまいました。

 

 

2025年4月17日 (木)

「マージナル大学」の社会的意義その他(再掲)

Mext なんだかすごくデジャビュな記事が垣間見えたので、

一部私大「義務教育のような授業」 財務省が指摘 文科省幹部は異論

 大学なのに義務教育のような授業だ――。財務省が15日の有識者らによる審議会で、一部の私大の教育内容を厳しく指摘し、私学助成の見直しを提唱した。教育の質の評価が必要という考えを示したが、文部科学省からは「粗い考えだ」との指摘もある。

例によって昔々のエントリをサルベージして再掲しておきますね。

「マージナル大学」の社会的意義

居神さんは本田由紀流の「レリバンス」論に対して、

>現在「マージナル大学」の教育現場を覆っているのは、教育内容のレリバンス性を根本的に無意味化する構造的圧力である。・・・「マージナル大学」におけるそれは想像の範囲をはるかに超えるものがある。

と述べ、続く「ノンエリート大学生の実態の本質」というところでは、それは「学力低下」論とも「ゆとり教育の弊害」とも関わりなく、

>同一年齢集団の半分を高等教育が吸収するということは、必然的にその内部に従来では考えられなかったような多様性を生じさせるという点が重要である。

と述べ、その多様性を「認識と関係の発達の「おくれ」」と捉えて、

>もう少し具体的にいうと。認識の遅れは例えば公共的な職業訓練を受けるのに最低限必要な学力水準に到達していないレベルにある。・・・学校を卒業しても改めて何か具体的な技能を身につけようとしても、公共の職業訓練さえも受けられなければ、それは社会生活上の自立にとって大きなハードルになるだろう。

>関係のおくれも深刻である。こちらはもっと卑近な例で、コンビニのアルバイトの面接で落とされてしまうレベルといえばわかりやすいか。要は非正規雇用でも対人接触を伴う業務の遂行は困難なほどの社会性やコミュニケーションの問題が見られるということである

こういう記述を読むと、田中萬年さんの非「教育」論、職業訓練こそ真の学びという論すらも、職業能力開発総合大学校というそれなりに優秀な若者たちを集めたターシャリー教育機関の経験に基づくバイアスがあったのではないかという気がしてきます。

居神さんの「マージナル大学」はそんな生やさしいものではない、と。

では、そういうノンエリート大学生に何を伝えるべきなのか?

>ブラック企業の劣悪な労働環境をこれでもかと例示することによって、ノンエリート大学生がついつい陥ってしまう「楽勝就職」(事前の準備ゼロ、1回の面接で即内定)の末路が何らの仕事能力も身につかず「使い捨て」にされることを何となくでも分かってもらえば、さしあたりは成功である。

そして、ではブラックじゃない「まっとうな企業」に「雇用されうる能力」とは何か?

>まずは「初等教育レベルの教科書」を完璧にマスターしておくことをどうしても伝えておきたい。・・・要するに、「読み・書き・計算能力」こそが職業能力の土台であり、本当に「雇用されうる能力」を高めたければ、まずはそこからスタートしなければならない・・・

これは、まさしくヨーロッパの「エンプロイアビリティ」論が念頭に置いていたレベルです。日本はそうではない、ということを前提に今まで論じられてきたことが、なんだか全部ひっくり返る感じです。日本だって同じや。初等教育レベルのリテラシーとヌメラシーが大事や。まともなスキルはその先や。

世の「コミュニケーション能力」論は、実はやたらに高度な、並みの大人だってできないほどの、そのなんや、「はいぱあめりとくらしい」とやらの話と、こういうまさに小学生並みの、つまり2ちゃん用語でいえば「厨房」以下の話とが、相互に違うことを喋っているという認識すらないままごちゃごちゃになっていたのかもしれません。

それと同時に、彼らの就職先は総じてブラック職場だが、

>そこにとどまることで少しでも職業能力の成長が期待できるならば、とるべき方策は「退出」ではなく、自らの職場を改善・変革するための「異議申し立て」であろう。そのためには、労働者としての権利に関する知識が不可欠である。

と、「ボイス」の必要性と、そのための労働法教育の必要性を強調しています。ノンエリート大学生だからこそ、必要なのです。居神さんはこの点について、近く『もう一つのキャリア教育試論』(法律文化社)を出されるようです。

「大学がマージナルを抱えている」のが「マージナル大学」となる理由

>今は昔ほど偏差値があんまり学力の能力分布の代理指標になってくれない。ノビシロはあるけど、そこそこしか勉強してこなかったという優秀な子たちはちゃんと方向付けされると「へぇ勉強ってこんなに面白いんだ」とそれなりに勉強します。ついでに上の学校みたいにプライドが高くないから、鼻もちならないなんてこともないですし、気持ちもいいです。そういう子たちが底辺の子たちと一緒にいるんですね。だからね、正確に表現すなら、中堅以下の、定員を集めるのに困っている大学は、マージナルな層を抱えていると見るべきではないでしょうか。そもそも、そんな数字を大学が出してくれるわけないですし、境界線上は判定が難しいですから、実証なんて望むべくもありませんよ。

それはまったくその通りだろうと思います。すくなくとも、現に高等教育機関で学生たちに対している方々にとっては、極めて重要な認識であることは確か。

ただ、その正しい「大学がマージナルを抱えている」というミクロ的認識が、マクロ的には「マージナル大学」という認識枠組みで認識されてしまう不可避性というのもまた、統計的差別などという手垢のついた議論を持ち出すまでもなく、社会学的必然性であるわけです。

おっしゃるとおりなのだが、だからそういう(「マージナル大学」というような入れ物で判断するのではなく)本人をきちんと見てくれ、というときの、その見るべき「本人」の能力の判断基準が、「人間力」ということになると、具体的な職務能力といったものに比べて大変深みを要求する手間のかかるものとなり、それゆえに丁寧に選抜するためには、それに値しない者が多く含まれると考えられる集団をあらかじめ足切りすることが統計的に合理的であり得てしまうようなものとなってしまうために、本人は決してここでいわれるような意味での「マージナル」ではない学生たちが、人間力をじっくり判定してもらうところにまで行き着けないという意味において、彼らにとって非常に過酷なものになってしまうというのが、(金子さんが口を極めて批判する)本田由紀説の、わたくしが理解するところの一つのコアであるように思われます。

「マージナル大学」(に限りませんが)という思考経済的レッテルが、あまり有効性を持たないようなやり方はないのか、というのが、(必ずしも表には現れていないにしても)現在の就職問題を論ずる上での一つの軸でありましょう。

金子良事さんの理解と誤解

始めに申し上げておくと、今までも何回か金子さんから指摘されたような気がしますが、

>私の理解では濱口先生は現実がそんなに劇的に変わらないことを織り込み済みで、それでも多少ベクトルを変えるために極端なことを主張する必要があるという極めてブラグマティックな立場なのだと思っています。

というのは、ある意味でその通りです。わたしが本田先生のレリバンス論を繰り返し「活用」するのも、社会全体の方向付けと言うよりも、ある部分に関心を引きつけたいからであり、そここそ、まさに言葉の正確な意味での「マージナル」と呼ばれるような部分であるからです。

実をいうと、日本の大学は普通に考えられているよりもかなり多様であり、特に最近は文部科学省の自由放任主義的政策のお蔭で、専門学校の大学成りが急速に進み、言葉の正確な意味において専門学校に毛が生えたような(毛も生えていない?)大学がいっぱい出てきています。こういう大学は、偏差値的にはまさに「マージナル」ですが、実態はまさしく専門学校ですので、勉強はできないにしてもとっかかりはあるのです。そういうところは、うまくいくにせよ、いかないにせよ、いくいかないの操作可能性の支点が明確です。つまりそれが、わたしが本田先生の議論で役に立つと思っている「レリバンス」なるものです。

問題のある「マージナル」大学とは、むしろ高校レベルにおける「普通科底辺校」に相当するところです。勉強したことになっている範囲は開成や日比谷と正確に同じであるような普通科底辺校の卒業生が、その同じであるはずの学習内容をAO入試で「ウリ」にできるのか、というはなしです。勉強したことになっている範囲は東大や慶応の経済学部と正確に同じであるような偏差値底辺級のマージナル大学の学生が、その同じであるはずの学習内容を「ウリ」にできるのでしょうか、と翻訳すればわかりやすいでしょう。そう、大変むくつけなはなしであり、大学人は露骨に言いたくないでしょうね。しかし、その労働市場の入口における「ウリ」という観点から、せめてなにがしかとっかかりになるレリバンスを、という点において、わたしは本田先生の議論を評価しているのであってみれば、彼女の議論が今までの社会政策や人事労務管理論をきちんと踏まえていないというのは(それが正しいとしても)戦略的には顧慮すべき必要は感じません。

本ブログでずっと昔に指摘したように、本田先生には(自分自身が所属する東京大学教育学部のような高度な研究者養成を主たる目的とする組織も含め)一般的な形における職業レリバンス論を適用できないあるいは適用すべきでない領域にまであまり深く考えずに適用してしまおうとする傾向があります。そこは、それが弊害をもたらしかねなくなった時点で指摘すればよいと、(プラグマティックに)わたしは考えています。

なお、景気が最も重要なファクターであることはおそらく誰も反論しない基本事項ですが、(それも分からずに脳天気なことを言っている「ヘタレ人文系」(?)な人々に対してであれば格別)それを前提にして議論がされているところに、あえて他の議論の重要性を削減するために景気問題を持ち出すことは、議論それ自体の正当性とは別次元において言説としての不適切性があると考えています。これは金子さんではなく、もっと別の土俵で述べられるべきことですが。

(追記)

ちなみに、金子さんや森さんは同時代的には読まれてないと思いますが、今から4年以上前に本ブログ上で時ならぬレリバンス論議が交わされたことがあり、その時のエントリを読んでいただくと、わたくしの変わらぬ問題意識はご理解いただけるものと思われます。

たとえば、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_c586.html(専門高校のレリバンス)

>これを逆にいえば、へたな普通科底辺高校などに行くと、就職の場面で専門高校生よりもハンディがつき、かえってフリーターやニート(って言っちゃいけないんですね)になりやすいということになるわけで、本田先生の発言の意義は、そういう普通科のリスクにあまり気がついていないで、職業高校なんて行ったら成績悪い馬鹿と思われるんじゃないかというリスクにばかり気が行く親御さんにこそ聞かせる意味があるのでしょう(同じリスクは、いたずらに膨れあがった文科系大学底辺校にも言えるでしょう)。

日本の場合、様々な事情から、企業内教育訓練を中心とする雇用システムが形成され、そのために企業外部の公的人材養成システムが落ちこぼれ扱いされるというやや不幸な歴史をたどってきた経緯があります。学校教育は企業内人材養成に耐えうる優秀な素材さえ提供してくれればよいのであって、余計な教育などつけてくれるな(つまり「官能」主義)、というのが企業側のスタンスであったために、職業高校が落ちこぼれ扱いされ、その反射的利益として、(普通科教育自体にも、企業は別になんにも期待なんかしていないにもかかわらず)あたかも普通科で高邁なお勉強をすること自体に企業がプレミアムをつけてくれているかの如き幻想を抱いた、というのがこれまでの経緯ですから、普通科が膨れあがればその底辺校は職業科よりも始末に負えなくなるのは宜なるかなでもあります。

およそ具体的な職能については企業内訓練に優るものはないのですが、とは言え、企業行動自体が徐々にシフトしてきつつあることも確かであって、とりわけ初期教育訓練コストを今までのように全面的に企業が負担するというこれまでのやり方は、全面的に維持されるとは必ずしも言い難いでしょう。大学院が研究者及び研究者になれないフリーター・ニート製造所であるだけでなく、実務的職業人養成機能を積極的に持とうとし始めているのも、この企業行動の変化と対応していると言えましょう。

本田先生の言われていることは、詰まるところ、そういう世の中の流れをもっと進めましょう、と言うことに尽きるように思われます。専門高校で優秀な生徒が推薦枠で大学に入れてしまうという事態に対して、「成績悪い人が・・・」という反応をしてしまうというところに、この辺の意識のずれが顔を覗かせているように思われます。

コメント欄:

>マクロ社会的には、必ずしも優秀でない素材までが、かつて優秀であるシグナルとして機能した(と思いこんでいる)基礎的な専門教育の欠如というシグナリングを求めて普通科になだれ込んできたために、シグナリング機能が消滅したことがあります。
そうすると、こういう連中は、優秀でない上にへたに雇ったら初期教育訓練コストもかさむ存在になりますから、労働市場で一番周辺に追いやられてしまいます。
これは格差の原因ではないにしても、それをある程度増幅する機能は果たしているように思われます。

いずれにしても、専門高校であっても、所詮高校レベルで教えることのできる専門性なんて、それほど大したものではないのですから、「普通高校で教えることの可能な広義の意味での専門性」にそんなに悩む必要もないように思います。
高校レベルで何らかの職業教育を全員が受けた上で、その能力に応じてさらに進学するという仕組みになることのメリットは、進学しない場合のリスクを最小限にすることができることで、これはかなり重要ではないかと思います。

>職業教育の拡大というのは、別に「うまい話」なんかではなく、何にもないまま労働市場に投げ出される若者に、せめてなけなしの装備を提供してやろうという、はなはだみみっちい話に過ぎません

>全くその通りでしょう、私は初めから、日比谷だの戸山だのへいって東大や京大を目指す連中のことは念頭に置いてません。書店に行けば、高校進学ガイドなる冊子がおいてあって、ごく少数の職業科を押しやって山のように名前も聞いたことのないような普通科高校があることがわかります。しかも結構就職しているんですね。入試偏差値でシグナリング機能が代替されてしまい、普通科に進学した意味が全くない彼らをどう救えるのか、ってところに主たる関心があるものですから。(最初に断っているように、私は教育の専門家ではなく、教育の高邁な理念なるものには何の思い入れもないものですから、何がどう役立つか、という関心からのみものを言っています)

(再追記)

ついでに、当時のいくつかのエントリも紹介しておきます。

まず「一般的な形における職業レリバンス論を適用できないあるいは適用すべきでない領域にまであまり深く考えずに適用してしまおうとする傾向」の実例。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_c7cd.html(哲学・文学の職業レリバンス)

>「通りすがり」氏が「私は大学で哲学を専攻しました。その場合、「教育のレリバンス」はどのようなものになるんでしょうか?あと国文とか。」という皮肉に満ちた発言をされたのです。

私だったら、「ああそう、職業レリバンスのないお勉強をされたのねえ」といってすますところですが、まじめな本田先生はまじめすぎる反応をされてしまいます。曰く、・・・・・・

>好きで好きでたまらないからやらずには居られないという人間以外の人間が哲学なんぞをやっていいはずがない。「職業レリバンス」なんて糞食らえ、俺は私は世界の真理を究めたいんだという人間が哲学をやらずに誰がやるんですか、「職業レリバンス」論ごときの及ぶ範囲ではないのです。

一方で、冷徹に労働市場論的に考察すれば、この世界は、哲学や文学の教師というごく限られた良好な雇用機会を、かなり多くの卒業生が奪い合う世界です。アカデミズム以外に大して良好な雇用機会がない以上、労働需要と労働供給は本来的に不均衡たらざるをえません。ということは、上のコメントでも書いたように、その良好な雇用機会を得られない哲学や文学の専攻者というのは、運のいい同輩に良好な雇用機会を提供するために自らの資源や機会費用を提供している被搾取者ということになります。それは、一つの共同体の中の資源配分の仕組みとしては十分あり得る話ですし、周りからとやかく言う話ではありませんが、かといって、「いやあ、あなたがたにも職業レリバンスがあるんですよ」などと御為ごかしをいってて済む話でもない。

職業人として生きていくつもりがあるのなら、そのために役立つであろう職業レリバンスのある学問を勉強しなさい、哲学やりたいなんて人生捨てる気?というのが、本田先生が言うべき台詞だったはずではないでしょうか。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_722a.html(なおも職業レリバンス)

>歴史的にいえば、かつて女子の大学進学率が急激に上昇したときに、その進学先は文学部系に集中したわけですが、おそらくその背景にあったのは、法学部だの経済学部だのといったぎすぎすしたとこにいって妙に勉強でもされたら縁談に差し支えるから、おしとやかに文学でも勉強しとけという意識だったと思われます。就職においてつぶしがきかない学部を選択することが、ずっと仕事をするつもりなんてないというシグナルとなり、そのことが(当時の意識を前提とすると)縁談においてプラスの効果を有すると考えられていたのでしょう。

一定の社会状況の中では、職業レリバンスの欠如それ自体が(永久就職への)職業レリバンスになるという皮肉ですが・・

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/05/post_8cb0.html(大学教育の職業レリバンス)

>大学文学部哲学科というのはなぜ存在するかといえば、世の中に哲学者という存在を生かしておくためであって、哲学の先生に給料を払って研究していただくために、授業料その他の直接コストやほかに使えたであろう貴重な青春の時間を費やした機会費用を哲学科の学生ないしその親に負担させているわけです。その学生たちをみんな哲学者にできるほど世の中は余裕はありませんから、その中のごく一部だけを職業哲学者として選抜し、ネズミ講の幹部に引き上げる。それ以外の学生たちは、貴重なコストを負担して貰えればそれでいいので、あとは適当に世の中で生きていってね、ということになります。ただ、細かくいうと、この仕組み自体が階層化されていて、東大とか京大みたいなところは職業哲学者になる比率が極めて高く、その意味で受ける教育の職業レリバンスが高い。そういう大学を卒業した研究者の卵は、地方国立大学や中堅以下の私立大学に就職して、哲学者として社会的に生かして貰えるようになる。ということは、そういう下流大学で哲学なんぞを勉強している学生というのは、職業レリバンスなんぞ全くないことに貴重なコストや機会費用を費やしているということになります。

これは一見残酷なシステムに見えますが、ほかにどういうやりようがありうるのか、と考えれば、ある意味でやむを得ないシステムだろうなあ、と思うわけです

これらレリバンスを論ずべきではそもそもないものに対し、まさにレリバンスを問うべきではないかと論じているのが、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_bf04.html(職業レリバンス再論)

>哲学者や文学者を社会的に養うためのシステムとしての大衆化された大学文学部システムというものの存在意義は認めますよ、と。これからは大学院がそうなりそうですね。しかし、経済学者や経営学者を社会的に養うために、膨大な数の大学生に(一見職業レリバンスがあるようなふりをして実は)職業レリバンスのない教育を与えるというのは、正当化することはできないんじゃないか、ということなんですけどね。

なんちゅことをいうんや、わしらのやっとることが職業レリバンスがないやて、こんなに役にたっとるやないか、という風に反論がくることを、実は大いに期待したいのです。それが出発点のはず。

で、職業レリバンスのある教育をしているということになれば、それがどういうレベルのものであるかによって、採用側からスクリーニングされるのは当然のことでしょう。

>経済学や経営学部も所詮職業レリバンスなんぞないんやから、「官能」でええやないか、と言うのなら、それはそれで一つの立場です。しかし、それなら初めからそういって学生を入れろよな、ということ。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/post-f2b1.html(経済学部の職業的レリバンス)

>「大学で学んできたことは全部忘れろ、一から企業が教えてやる」的な雇用システムを全面的に前提にしていたからこそ、「忘れていい」いやそれどころか「勉強してこなくてもいい」経済学を教えるという名目で大量の経済学者の雇用機会が人為的に創出されていたというこの皮肉な構造を、エコノミスト自身がみごとに摘出したエッセイです。

何かにつけて人様に市場の洗礼を受けることを強要する経済学者自身が、市場の洗礼をまともに受けたら真っ先にイチコロであるというこの構造ほど皮肉なものがあるでしょうか。

こういうのを読まれると、このhamachanという奴のレリバンス論というのは、なんというむくつけでむきだしでいやらしいものかと感想をお持ちの方もおられるでしょう。その通りです。そういう本音を隠したきれい事で教育論を済ませようとするから、話がことごとくおかしな方向にいくのです。

そして、少なくともわたくしの考えるところでは、社会科学的思考とは物事をこういう風に見て、こういう風に考えることであるはずです。むき出しの事実をありのままに見るところからしか、理想も何も出発のしようはないのです。

 

 

経済同友会がエッセンシャルワークへの職種別最低賃金導入を提言

Logo_20250417131001 日本の最低賃金の歴史を知る人は、経営側は長らく産別最賃なんか要らない廃止しろと言い続けてきたと知っているだけに、今回のこの経済同友会の提言に驚くかも知れません。

政策提言 企業と人材の流動化により中堅・中小企業の付加価値の創造と日本経済の復活を

企業と人材の流動化により 中堅・中小企業の付加価値の創造と日本経済の復活を(本文)

この提言の中で、経済同友会は明確にこう言っています。

①職種別最低賃金制度の導入

デスクワーク領域からエッセンシャルワーク領域への労働移動にあたっては、給与ギャップが生じることが課題となる。その縮小を図るため、従来の施策に加えて、「1.成長を加速させる支援」に記載した提言を踏まえた施策を着実に実行し、生産性を向上させる一方、エッセンシャルワーク領域については、より高水準の最低賃金の設定を可能にすべきである。

具体的には、中央最低賃金審議会において、エッセンシャルワーク領域の特定最低賃金8についても改定額の「目安」9を示し、これを参考に、地方最低賃金審議会において、地域の事情を踏まえて審議を行い、都道府県ごとに必要職種の最低賃金を上げていくことが必要と考えられる。

 

 

 

2025年4月16日 (水)

岸本周平さんの拙著書評

Kishimoto 和歌山県知事の岸本周平さんが急逝されたとの報を聴き、

和歌山県の岸本周平知事が死去、68歳 敗血症性ショックで

和歌山県の岸本周平知事(68)が15日、敗血症性ショックで死去した。14日に知事公舎の寝室で倒れているのが見つかり、病院の集中治療室で治療を受けていた。 

岸本知事は和歌山市出身で東大法学部卒。旧大蔵省に入省し、財務省国庫課長などを経て2009年の衆院選に和歌山1区から民主党公認で立候補し、初当選した。民主党政権で経済産業政務官などを歴任。国民民主党の幹事長代行を務めた。

岸本さんが和歌山県知事になる前の、民主党の国会議員であったころに、そのブログで拙著『日本の雇用と中高年』(ちくま新書)を取り上げていただいたことがあります。

この本は、拙新書の中では例外的に重版がかからなかった「売れない本」だったのですが、岸本さんの心のこもった書評にはとてもありがたい思いをした記憶が蘇ってきます。

ホワイトカラー・エグゼンプションとは何か?

(濱口桂一郎著、「日本の雇用と中高年」、ちくま新書、2014年5月)

「ホワイトカラー・エクゼンプション」とは、何か?

 これは、管理職でない、ある一定のサラリーマンに残業代を払わない制度のことです。

 労働省出身の濱口桂一郎先生の説明では、中高年の人件費対策としての残業代カットのことです。

 つまり、ある時期までは、日本の企業は管理職手当ありで残業代ゼロの本来の「管理職」になれない中高年を「スタッフ職」として管理職手当を出して処遇できていました。

 しかし、90年代以降、そのようなゆとりが無くなったものですから、スタッフ職も管理職待遇ではなく、残業代支給の対象になってきました。この残業代の負担を減らすことが、企業の課題になってきたのです。

 ところが、2007年に、「ホワイトカラー・エクゼンプション」の法案を政府が提案した時に、本来、中高年の残業代を減らす話からスタートしたのに、政府の説明が、「自立的な働き方」だとか、「ワークライフバランスが良くなる」などと実態を反映していなかったので、つぶれたわけです。

 安倍内閣の政策は、いつでも、説明の仕方や表現と中身が大きくかけ離れています。「ホワイトカラーエクゼンプション」も、その典型的な例です。私も、秋の臨時国会では、しっかりと追及します。

 一方、濱口桂一郎先生の「日本の雇用と中高年」(ちくま新書、2014年5月)を読むと、戦後の日本の労働政策の変化が判りやすく書かれています。

 1960年代までは、欧米型の「ジョブ型(職務給)社会」を目指していたのですが、石油危機の70年代以降、「職務の限定のない雇用契約」を特色とする「日本型雇用」が肯定されるようになりました。

 その中で、「同一価値労働、同一賃金」の原則は放棄され、年功序列賃金や家族手当など、中高年になれば支出が増える家計を企業がサポートするようになりました。

 80年代以降、「ジャパン・アズ・ナンバー1」などと、日本型の経営方法がほめそやされる中、「日本型雇用」も反省されること無く続きました。

 ヨーローッパでは、あくまでも「同一価値労働、同一賃金」を原則に、家計支出の増加には子ども手当など社会保障で政府が手当しています。

 正規の職員間ですら「同一価値労働、同一賃金」の哲学が無かった日本に、非正規雇用に対して「同一価値労働、同一賃金」を適用するのは難しいのかもしれません。

 また、今、企業が家計を支援できなくなっているにもかかわらず、政府の社会保障施策が遅れていることが、いろんなところで「貧困」問題を生んでいるように思います。

 また、日本でも一時期、定年制は年齢による差別なので廃止すべきだという動きがありましたが、その後、定年制延長、継続雇用などによる方向に動いています。これが、本当に中高年の雇用の保障になるのかは疑問です。

 多くの先進国では、定年制は、年齢による差別なので違法だとされています。

 一律の規制よりも、個人の多様性に基づく柔軟な制度が望まれます。

 もう一度、「同一価値労働、同一賃金」のジョブ型(職務給)社会を目指し、非正規雇用や中高年の雇用改善への挑戦をすべきではないでしょうか。そのためにも、社会保障改革は避けては通れない考えます。

 

2025年4月12日 (土)

スポットワークは雇用型プラットフォーム労働

最近スポットワーク(スキマバイト)が話題ですが、どうも日本の文脈では職業紹介なのか労働者供給なのかといった労働市場規制問題の枠組みでばかり議論されがちですが、世界的な労働問題の文脈でいえば、むしろプラットフォーム労働のアルゴリズム問題が表出している領域ではないかと思われます。

プラットフォーム労働というと、これまたウーバーやウーバーイーツが想起され、ほとんどもっぱら労働者なのか自営業者なのかという労働者性問題の文脈でのみ議論される傾向にありますが、昨年成立したEUプラットフォーム労働指令にせよ、この6月にILO総会で議論される条約勧告案にせよ、非常に大きな部分がアルゴリズムによる意思決定の問題に充てられていて、その問題はプラットフォーム労働者が法的に雇用労働者であるかそれとも自営業者であるかに関わりなく、共通の問題として提起されています。

残念ながら日本では、この問題をつなげて論じようという感覚が極めて弱く、そもそもスポットワークがプラットフォーム労働であるという認識もほとんど持たれていないようです。

この点については先日「WEB労政時報」に「スポットワークと日雇派遣」を書いたときに、その末尾にちょびっと書き記しておきましたが、

スポットワークと日雇派遣@WEB労政時報

・・・・さて、スポットワークについては、これとは別の観点から考察する必要もあります。スマートフォンアプリによる単発の就労といえば、近年世界的に拡大し、日本でもコロナ禍で急拡大したウーバーイーツのようなプラットフォーム労働が思い浮かびます。実を言えば、スポットワークも広い意味でのプラットフォーム労働の一種です。プラットフォーム労働には非雇用型と雇用型があり、前者の労働者性が世界的に大きな問題となっていますが、スポットワークはそもそも雇用型なのでその問題はクリアしています。しかし、プラットフォームのアルゴリズムによる諸問題は共通です。
 
 特に、2024年10月14日付の朝日新聞記事「スポットワーク、アプリに違法規則 マッチした仕事、『無断欠勤』したら無期限利用停止 厚労省が指導」で報じられた問題は、同省が職業安定法5条の7(求職受理原則)の趣旨に反するという指導を行ったとのことですが、これは2024年10月23日に成立したEUのプラットフォーム労働指令でいう「自動的な意思決定システム」のうちの「プラットフォーム労働遂行者のアカウントを制限、停止又は解除(中略)する意思決定」に当たると思われます。労働過程におけるAIの利用に関する問題は世界的に注目され始めていますが、スポットワークをそういう観点から考えていく必要は今後ますます高まっていくと思われます。

 

 

2025年4月10日 (木)

特定最賃は業者間協定の直系の子孫

焦げすーもさんの疑問にストレートに答えると、

業者間協定方式(静岡の缶詰業者が起源)と、現行の特定最賃は、わずかながら関連性があると言っていいのか否か。 hamachan本を掘り起こしたら、わかるか。

わずかながらどころではなく、むしろ特定最賃は業者間協定の直系の子孫とすら言えます。

静岡県労働基準局長が地元の缶詰業界にやらせたところから始まり、1959年最賃法で立法化された業者間協定方式は、まさに産業別地域別の最低賃金でした。

それがILO条約違反だと叩かれて、1968年改正で業者間協定方式が廃止されて審議会方式となったのですが、とりあえずは既存の業者間協定の業種や地域を拡大しつつ対応したので、このときの最賃は審議会方式の産別最賃でした。

このころ、労働側は全国一律最賃ばかりを主張し、一方経営側は産別最賃の維持を主張していましたが、労働省は産別だけでは漏れる業種があるので、既存の細別最賃とは別に都道府県ごとの地域最賃を全国に広げることを目指し、これが実現したのが1976年です。

これにより、それまで主流であった産別最賃は傍流化し、それまで地賃に否定的であった経営側が、地賃があるんだから産別最賃はいらないと主張し始めて、産別最賃の日陰の身の流浪の旅が始まるわけです。自分たちに身近なはずの産別最賃をほったらかして表層的に全国一律最賃ばかり叫んでいた労働側は、慌てて今更のように産別最賃は大事だと言い出しましたが、実力が伴わないためになかなか広がりません。過去半世紀以上にわたって、産別最賃無用論に叩かれながら何とか生き延びてきたのが、2007年改正でややごまかしのような手口で産別最賃は廃止するけれども代わりに特定最賃を作りますと称して命をつないだのが現在の特定最賃というわけです。

という波乱万丈の人生行路ですが、とはいえ特定最賃の元をたどると業者間協定方式であることは確かでしょう。

Asahishinsho_20250410231501 詳細は『賃金とは何か』の第3部に書いてあります。

同書の259~260頁に、やや皮肉な口調でこんなことを書いております。

 今日では、業者間協定は最低賃金の黒(くろ)歴(れき)史(し)としてのみ記憶されているでしょう。しかしこの制度は、ある地域のある業界の経営者団体を、自分たちの雇う労働者の最低賃金を決めさせるという土俵に引っ張り出して、責任を持たせていたということもできます。当時の労働組合は全国一律最低賃金を唱えるばかりで、自分たちの力である地域やある業種の最低賃金を協定の形で勝ち取る力量などほとんどありませんでした。後述するように、当時地域別最低賃金にすら反対し、業者間協定方式に固執していた経営側は、七〇年代前半に全都道府県で地域別最低賃金ができてしまったら、今度は産業別最低賃金など不要だと言い出しました。それをかいくぐって、一九八六年には新産業別最低賃金、二〇〇七年には特定最低賃金としてなんとか生き延びさせてきたのです。企業別組合の枠を超えられない日本の労働組合には、自分たちで産業別最低賃金を作り出す力量が乏しいということを立証しています。
 今になって考えれば、当時あれだけ「ニセ最賃」と罵倒していた業者間協定をうまく使って、それに関係労組をうまく載っける形でのソフトランディングはありえなかったのだろうか、という思いもします。業界団体という土俵はあったのです。企業を超えた賃金設定システムという生まれつつあった土俵を叩き潰して、もはやその夢のあとすら残っていません。改めて業者間協定という黒歴史を、偏見なしに考え直してみるべきかも知れません。

 

 

 

J.D.ヴァンス『ヒルビリー・エレジー』@『労働新聞』書評

817owjuk5pl_uf10001000_ql80_ 『労働新聞』の書評ですが、今回はJ.D.ヴァンス『ヒルビリー・エレジー』です。

https://www.rodo.co.jp/column/196246/

 今年2月、ホワイトハウスに招かれたウクライナのゼレンスキー大統領はアメリカのトランプ大統領と口論を繰り広げて合意が破談になったが、そのきっかけはヴァンス副大統領の「失礼だ」「感謝しないのか」という発言であった。トランプに輪をかけた暴れん坊っぷりを世界に示したヴァンス副大統領とはどういう人物なのか? それを語る彼自身による半生記が本書だ。2017年に第一次トランプ政権が発足したときに単行本として刊行され、その後文庫化された。その内容はすさまじいの一言に尽きる。

 彼の故郷オハイオ州ミドルタウンはかつて鉄鋼メーカーの本拠地だったが、その衰退とともにいわゆるラストベルトとなり、失業、貧困、離婚、家庭内暴力、ドラッグが蔓延する地域となっていた。彼の両親は物心のついたときから離婚しており、看護師の母親は、新しい恋人を作っては別れ、そのたびに鬱やドラッグ依存症を繰り返す。そして、ドラッグの抜き打ち尿検査で困ると、息子に尿を要求する。登場人物表には、「筆者の父親、および父親候補(母親の彼氏)たち」という項目があり、実父を始め6人の名前が列挙されている。おおむねろくでなしばかりだ。

 母親代わりの祖母ボニーが、彼の唯一のよりどころであり、窮地に陥った彼を助けてくれる全編を通しての天使役だが、彼女自身も十代で妊娠してケンタッキーから駆け落ちしてきた女性であり、貧困、家庭内暴力、アルコール依存症といった環境しか知らない。彼の育った環境を彼はこう描写する。

 「どこの家庭も混沌を極めている。まるでフットボールの観客のように、父親と母親が互いに叫び声を上げ、罵り合う。家族の少なくとも一人はドラッグをやっている。父親の時もあれば母親の時もあり、両方のこともあった。特にストレスが溜まっているときには、殴り合いが始まる。それも、小さな子どもも含めたみんなが見ているところで始まるのだ」。「子どもは勉強しない。親も子どもに勉強を求めない。だから子どもの成績は悪い。親が子どもを叱りつけることもあるが、平和で静かな環境を整えることで成績が上がるよう協力することはまずあり得ない。成績がトップクラスの一番賢い子たちですら、仮に家庭内の戦場で生き残ることができたとしても、進学するのはせいぜいが自宅近くのカレッジだ」。

 そんな環境で育ったヴァンスが、一念発起して海兵隊に入隊し、イラクに派兵され、帰国後オハイオ州立大学に入学し、さらにエリート校中のエリート校であるイェール大学ロースクールに進学するというのだから、絵に描いたようなサクセスストーリーともいえる。だが、彼はイェールで居心地の悪さを禁じ得ない。恋人ウシャに対して突発的にとってしまう暴言や乱暴な振る舞いの中に、彼は母親の姿を見てしまう。逆境的児童体験によるトラウマから脱却しようと試みる。とはいえ、彼は祖母の生き方に息づいているヒルビリー(田舎者)の精神が大好きだ。上流階級の匂いをプンプンさせている民主党が大嫌いなのだ。

 

 

 

 

 

2025年4月 7日 (月)

大木正俊・鈴木俊晴・植村新・藤木貴史『労働法判例50!』

L24383 今一番イキのいい若手労働法学者4人組による判例集です。

https://www.yuhikaku.co.jp/books/detail/9784641243835

事案を読む際に着目すべき点を《読み解きポイント》で,判決文・決定文の示した要点を《この判決/決定が示したこと》で明確に示して,事案と判旨だけでは難解な事例もしっかり理解できる。体系的な理解を促すIntroductionや《解説》で着実な理解に導く。

百選でも200でもなく、たった50の超重要判例に絞って、懇切丁寧に解説しています。

でも、本書を開いて驚愕したのは、その中身ではありません。

冒頭の「はしがき」で、著者4人とおぼしき人々が、「労働法教科書私の推し本発表会!」てのをやっていて、

F氏は、O先生らによる『ストディア労働法』を、

O氏は、M先生の『プレップ労働法』を、

S氏は、M先生の『労働法』を、

それぞれ推していて、ふむふむ、なるほどと、思っていたら、その次に地雷が仕掛けられていました。

U氏:H先生による『ジョブ型雇用社会とは何か』は新書ですが教科書としても使えます。・・・・

いやいや使えませんって。新書で使えるのはM先生のでしょ。

つか、拙著を労働法の教科書に使おうというのは無謀にもほどがあると思いますよ。

ちなみに、「はしがき」の最後には、「以上の会話は著者の一人である大木の創作です。実在の人物や団体などとは関係ありません」という断り書きがあります。いやいや、実在の人物じゃないと言われても・・・・・

 

 

2025年4月 2日 (水)

川口美貴『労働法〔第9版〕』

B0a77b8849a7457cbf238b992c4f60bc 川口美貴『労働法〔第9版〕』(信山社)をお送りいただきました。

https://www.shinzansha.co.jp/book/b10133435.html

毎年改訂の最新2025年版。要件と効果、証明責任を明確化。新たな法改正・施行と、最新判例・裁判例や立法動向(2025年2月分まで)、学説の展開状況に対応。長年の講義と研究活動の蓄積を凝縮し、講義のための体系的基本書として、広く深い視野から丁寧な講義を試みる。全体を見通すことができる細目次を配し、学習はもとより実務にも役立つ労働法のスタンダードテキスト第9版。

昨年の今頃も言いましたが、まさに完全に年鑑と化している川口労働法です。

そして、川口さんと言えばその独自の労働者概念で有名ですが、その膨大な労働者概念に関する記述の中に、職業安定法上の労働者概念はやはり出てきません。

というか、この1100ページに及ぶ大冊の中に、労働市場法制は全く出てこないのです。そこは見事に割り切っているようです。

ただ、その結果、膨大な判例の中でおそらく唯一川口さんの労働者概念とほぼ同一の徹底した経済的従属性基準を貫いている昭和29年の最高裁の判例(「[職安法]5条にいわゆる雇用関係とは、必ずしも厳格に民法623条の意義に解すべきものではなく、広く社会通念上被用者が有形無形の経済的利益を得て一定の条件の下に使用者に対し肉体的、精神的労務を供給する関係にあれば足りるものと解するを相当とする」 )が、本書に収められている膨大な判例の中に顔を出さないという大変皮肉な事態になっています。

 

2025年3月31日 (月)

オリンパスのブロン

Vlrythniegzocei1uhbytnfbb1bcut09 昔読んだ星新一のショートショートに「ブロン」てのがあって、博士がメロンのように大きな実がブドウのようにたくさんなる果物を作ろうとしたら、ブドウのように小さな実がメロンのように少ししかならなかった、て話。

で、今話題のオリンパスなんだけど、日本の『エコノミスト』誌によると

オリンパス子会社「ジョブ型」雇用導入で200人が大量降格――訴訟提起や自殺未遂も

大手医療機器メーカー、オリンパスの販売子会社で「ジョブ型」雇用制度の導入に伴い、大量の降格人事が発生し、問題となっている。40~50代の中堅社員約200人が、基本給を決める人事上の「等級」で新入社員相当に引き下げられ、製品運搬や回収などの単純作業を担う部署に配置転換される事例も多発した。一部の社員は、「ジョブ型雇用に名を借りた事実上のリストラ」として、降格の取り消しとパワーハラスメントに対する損害賠償を請求する訴訟を起こしたほか、精神的な苦痛から自殺未遂を起こす社員も発生している。・・・・

いやちょっと待ってくれ。ジョブ型ってのは、ジョブで給料が決まるけれども、そもそもジョブは合意で決まる。というか、値札の貼ってあるジョブにヒトをはめるのが採用なのであって、社員を勝手にどんな仕事にも配置転換できるはずはない。「製品運搬や回収などの単純作業を担う部署に配置転換される事例も多発」しているのなら、それはまごうことなく100%のメンバーシップ型のはずだが、オリンパスでは配置転換万能の独自の「ジョブ型」をやっているらしい。

これを何と呼ぶべきか頭が痛いところだが、メンバーシップ型で配置転換が自由にできるけれども、配置転換先のジョブで給料が決まるところはジョブ型というまことに都合のいい代物らしい。ジョンバーシップ型とでも呼ぶべきかも知れないが、そこで思い出したのが星新一の「ブロン」というわけ。

ジョブ型とメンバーシップ型のいいところを合わせてよりいいものを作ろうという話はあるけれど、下手すると「ブロン」になっちゃうよ、という教訓話かな。

15401001 『オリンポスのポロン』ならぬ「オリンパスのブロン」でした。

 

志水深雪(龔敏)『雇用契約における明示条項と黙示条項』

9784792334536 志水深雪(龔敏)さんより『雇用契約における明示条項と黙示条項』(成文堂)をお送りいただきました。ありがとうございます。

https://www.seibundoh.co.jp/pub/products/view/15713

イギリス法における雇用契約の明示条項と黙示条項の相互作用を中心とした特質を明らかにすることを通じて、日本の雇用契約論の内容と解釈における新たな方法論を示唆する論文集。

奥付の著者紹介では、中国西安に生まれ、九州大学を経て現在久留米大学法学部教授と書かれていて、本書も久留米大学法政叢書として出版されているのですが、すでにご存じの方もいると思いますが、彼女は明日から野川忍さんの後任として明治大学のロースクールに移られることになっています。届いた本日はぎりぎり最後の日になったわけですね。

本書は、イギリス雇用契約法というなかなか理解が難しい分野を緻密にしかし簡明に説明してくれる本として、しばらく机の上においてときどき目を通させていただきたいと思います。

 

 

三柴丈典編『コンメンタール 労働安全衛生法』

Isbn9784589043627 三柴丈典編『コンメンタール 労働安全衛生法』(法律文化社)をお送りいただきました。ありがとうございます。

https://www.hou-bun.com/cgi-bin/search/detail.cgi?c=ISBN978-4-589-04362-7

労働安全衛生法の体系書。各条文の趣旨のほか、制度史、適用の実際(関係判例、監督指導実務)、関係規定にも言及。規制の趣旨と課題を深く理解し、法目的の実現に向けて努力するという理念が込められた大著。編者が独自に整理再編した概要を付した。

これは外観においても内容においても超弩級のすごい本です。まずもって、本書はB5版で各ページ左右二段組みで1600ページ。もう字がいっぱい溢れています。

コンメンタールなので、基本的には必要のつど、関係部分を拾い読みするというのが正しい使用法なのでしょうが、各条文ごとに、趣旨、内容、沿革、運用等がびっしり書き込まれて、ぱっと開いたページを何気に読み出すと、思わずそのまま読みふけってしまいたくなるところが結構あります。

たとえば、先日国会に提出された安衛法改正案で50人未満に拡大することになっているストレスチェックですが、1229ページ右段から1234ページに書けて沿革が詳細に記述されています。また、1471ページ以下では「心身の状態に関する情報の取扱い」(104条)に関わって、多くの裁判例が詳細に紹介されています。

 

 

 

 

 

年次有給休暇取得率65.3%@『労務事情』2025年4月1日号

B20250401 『労務事情』2025年4月1日号に、「数字から読む日本の雇用」の第34回として、「年次有給休暇取得率65.3%」を寄稿しました。

https://www.e-sanro.net/magazine_jinji/romujijo/b20250401.html

 2024年12月に発表された令和6年就労条件総合調査によると、企業が付与した年次有給休暇日数(繰越日数を除く。)をみると、労働者 1 人平均は 16.9 日で、このうち労働者が取得した日数は 11.0 日であり、取得率は 65.3%となっています。この年次有給休暇取得率は、統計を取り始めた1980年以来最高の数字です。・・・・

 

 

2025年3月30日 (日)

いやでもこれは現代史という歴史書なんです

Asahishinsho_20250330163901 ささみふらいさんという方がこんなつぶやきを

たまには何百年も何千年も前のことじゃなくて今のこと書いてある本読もうかなくらいの気持ちで買ったけど面白かった 賃金とは何か 職務給の蹉跌と所属給の呪縛 (朝日新書)

いや、確かに「何百年も何千年も昔のこと」じゃありませんが、厳密には「今のこと」はごくわずかで、大部分は「何十年も昔のこと」を引っ張り出して、今の話と照らし合わせているので、書いた本人のつもりから言えば、現代史という歴史書のつもりではあるんです。

 

 

2025年3月28日 (金)

勅使川原真衣『学歴社会は誰のため』

9784569858814 勅使川原真衣さんの新著『学歴社会は誰のため』(PHP新書)をお送りいただきました。ありがとうございます。

https://www.php.co.jp/books/detail.php?isbn=978-4-569-85881-4

■長年の学歴論争に一石を投じる!

 学歴不要論など侃侃諤諤の議論がなされるのに、なぜ学歴社会はなくならないのか。誰のために存在するのか。

 背景にあるのは、「頑張れる人」を求める企業と、その要望に応えようとする学校の“共犯関係”だった?

 人の「能力」を測ることに悩む人事担当者、学歴がすべてではないとわかっていてもつい学歴を気にしてしまうあなたへ。

 教育社会学を修め、企業の論理も熟知する組織開発の専門家が、学歴社会の謎に迫る。

 ■本書の要点
●学歴は努力の度合いを測るものとして機能してきた
●ひろゆき氏の学歴論は本質を捉えている?
●日本の学歴主義の背景にあるメンバーシップ型雇用
●仕事は個人の「能力」ではなくチームで回っている
●「シン・学歴社会」への第一歩は職務要件の明確化

 ■目次
●第1章:何のための学歴か?
●第2章:「学歴あるある」の現在地
●第3章:学歴論争の暗黙の前提
●第4章:学歴論争の突破口
●第5章:これからの「学歴論」──競争から共創へ

学歴社会論はそれ自体が一定の売れ行きを見込めるマーケットであるだけでなく、誰もが自分の経験から一家言を持ち、それでもってあれこれ一席ぶてるテーマでもありますが、本書は、教育社会学を学んで組織コンサルタントをされている、まさに教育と労働の狭間を見つめている方としての、マクロとミクロがほどよく混ざった一冊になっています。

実を言えば、日本型雇用社会において「学歴社会」を論じようとすると、一方には日本以外のジョブ型社会共通の、社会的制度として教育資格付与システムによってジョブを遂行するスキルがあると社会的に認定されることによって社会的にある一定のポジションを占めてしまえることそれ自体の、いわば格差再生産増幅装置としてのユニバーサルな意味での学歴社会の問題と、もう一方には、そういう学歴は無用なんだよね、仕事ができるってことが大事なんだよね、という触れ込みで、しかしその仕事ができるってのは難しい受験勉強に耐え得た学歴の人なんだよね、という回路を経て、ジョブ型学歴社会とは少しずれながらある面ではより強固に社会的総意として確立してしまっている日本的な学歴社会の問題と、この二つを同時に相手にする二正面作戦をしなければいけなくなるので、なかなか手強いのです。しかもそれを「能力」というあまりにも雑駁な言葉でお互いに分かったようなつもりで論じ合うという悲惨な状況が長年続いてきているために、それを解きほぐすだけで大汗をかくことになります。

産業化が進行し、雇用という働き方が一般化した社会において、お互いをよく知らない他人同士が「能力」を頼りに協力し合う組織を作っていくという近代社会では、その「能力」をいかに定義するかこそが、社会を成り立たせる根幹的なシステム設計になりますが、だからこそそこが最大の問題の発生箇所にもなるのでしょう。

例によってコンサル先の企業のいろいろな事例が紹介されていますが、いずれも「あるある」感が満載です。役員会で社長に言われて「尖った人材」を採用しなくちゃと相談に来た某企業の人事担当役員さんとかね。

 

 

 

 

 

2025年3月27日 (木)

佐野嘉秀・池田心豪・松永伸太朗『人的資源管理』

659237 佐野嘉秀・池田心豪・松永伸太朗『人的資源管理 事例とデータで学ぶ人事制度』(ミネルヴァ書房)をお送りいただきました。ありがとうございます。

https://www.minervashobo.co.jp/book/b659237.html

人的資源管理の基礎理論の解説から、社員の格付けや賃金管理、配置転換や昇進等の事例紹介、各国との比較、さらにはデータに裏づけられた実態にも迫る。キャリア形成やワークライフバランスの将来設計にも役立つ入門書。

本書は三人の著者名が並んでいますが、ざっと通読した感じでいうと、佐野さんがメイン著者で、池田さんと松永さんはサブ著者といった感じです。

というのは、目次は下にコピペしていますが、おおむね各章とも、第一節のはじめにと第二節の理論編を佐野さんが執筆していて、第三節の事例編を松永さん、第四節のデータ編を池田さんという分担なのですが、第三節、第四節ともほぼ二ページ程度ずつなのに対して、第二節はどれも一〇ページを超える長さであって、読む文章の量からいうと、七,八割は佐野さんの分になります。

はじめに

第1章 人的資源管理の考え方:経営のための働く人の管理
 1 人的資源管理とは何か
 2 経営のための働く人の管理
 3 事例で理解する:雇用システムの比較
 4 データで確認する:社員は仕事の何に満足しているか

第2章 人的資源管理のコンテクスト:経営と社員の期待に応える
 1 人的資源管理のコンテクストとは何か
 2 経営と社員の期待に応える
 3 事例で理解する:コンテクストとしての「均衡処遇」
 4 データで確認する:企業と社員は何を話し合っているのか

第3章 社員格付け制度:序列を決める
 1 社員格付け制度とは何か
 2 社員の序列を決める
 3 事例で理解する:技能形成と社員格付け制度の改定
 4 データで確認する:企業は何を基準に給料を決めているのか

第4章 雇用区分:グループに分けて管理する
 1 雇用区分とは何か
 2 雇用区分を分けて管理する
 3 事例で理解する:生命保険業における雇用区分の再編
 4 データで確認する:なぜ非正社員を雇用するのか

第5章 採用管理:人を募集して雇う
 1 採用管理とは何か
 2 社員を募集・選考して雇う
 3 事例で理解する:採用基準とコンピテンシー評価
 4 データで確認する:企業は人物の何をみて採用しているのか

第6章 要員管理:人数を適切に保つ
 1 要員管理とはなにか
 2 社員の人数を適切に保つ
 3 事例で理解する:百貨店における要員管理
 4 データで確認する:終身雇用は時代遅れか

第7章 労働時間管理:働く時間を管理する
 1 労働時間管理とは何か
 2 働く時間を管理する
 3 事例で理解する:労働時間の長さと仕事管理
 4 データで確認する:日本企業では休暇を取りにくいか

第8章 教育訓練:人を育てる
 1 教育訓練とは何か
 2 企業として人を育てる
 3 事例で理解する:OJTと「工程設計力」
 4 データで確認する:企業は教育訓練にいくら使っているのか

第9章 配置転換:社内で人を動かす
 1 配置転換とは何か
 2 社員の配置を変える
 3 事例で理解する:企業は転勤に何を求めているのか
 4 データで確認する:転勤にはどのような不便があるのか

第10章 昇進管理:管理職へと選抜する
 1 昇進管理とは何か
 2 上位の役職・格付けへと選抜する
 3 事例で理解する:女性管理職育成と女性社員の意識
 4 データで確認する:女性活躍時代の昇進管理

第11章 人事評価:社員の貢献を評価する
 1 人事評価とは何か
 2 社員の貢献を評価する
 3 事例で理解する:グローバル化と人事評価の公正性
 4 データで理解する:優秀な部下は優秀な上司になれるか

第12章 賃金管理:賃金の配分を決める
 1 賃金管理とは何か
 2 賃金の配分を決める
 3 事例で理解する:ゾーン別賃金表と賃金水準の収斂
 4 データで確認する:男女の賃金格差はなぜ生じるのか

第13章 福利厚生:社員の生活を支援する
 1 福利厚生とは何か
 2 社員の生活を支援する
 3 事例で理解する:法定外福利としての団体長期障害所得補償保険
 4 データで確認する:人件費には福利厚生費も含まれる

第14章 多様な人材と就業形態の管理:人々と働き方の多様性を取り込む
 1 人々と働き方の多様性を取り込む
 2 多様な属性の社員の人的資源管理
 3 派遣社員とフリーランスの人的資源管理

参考文献
索 引

内容はおおむね標準的なものですが、最後の章ではちょっと違和感を感じました。それは、「壮年男性中心的な社員の人的資源管理の曲がり角」を指摘した次の項で、多様な人材の活用を「倫理的善悪と経済的損得」という観点から論じているのですが(ここだけは池田さんの執筆)、性別役割分業もかつては倫理的にむしろ正しいものであったのであり、それが社会の変化に合わなくなってきたということなのであって、それを「倫理的善悪」という普遍的通時間的な含意をもつ言葉で語ってしまうのかいかがなものか、と。むしろ、古い感覚で専門的能力のある女性を活用しないことの経済的不利益という意味では「経済的損得」でもあるし、まあ、こういう入門書レベルの用語法にどこまでかみつくかという問題もありますが、違和感を感じたことは記しておきたいと思います。

 

山本陽大『新興感染症と職場における健康保護をめぐる法と政策』

Youta25 JILPTの研究報告書No.232として、山本陽大さんの単独執筆になる『新興感染症と職場における健康保護をめぐる法と政策―コロナ禍(COVID19-Pandemic)を素材とした日・独比較法研究』がアップされました。

https://www.jil.go.jp/institute/reports/2025/0232.html

山本さん得意の日独比較法研究ですが、取り上げたのは、コロナ禍でも(日本では)相対的に関心が乏しかった感染防止や健康保護といった安全衛生に関わる領域の法政策です。

Yamamoto_y2022_20250327123602 彼は2022年頃からこの問題に関心を向けていくつかJILPTホームページ上にリサーチアイというエッセイを書き、2023年にはある程度まとまったところでディスカッションペーパーにしていましたが、それを包括的にとりまとめたのが今回の報告書ということになります。

彼自身による要約を貼り付けておきますが、出来れば報告書自体をダウンロードしてじっくりと読んで頂く値打ちがあります。

Ⅰ 序章・第一章について

本報告書においては、まず序章において、コロナ禍がわが国の労働法および労働政策に対して提起した課題について、大まかに課題領域A)(=コロナ禍に起因する事業の縮小・休業における労働者の雇用維持・所得保障)と課題領域B)(職場という空間における人々のウイルスへの感染防止と健康保護)に区分したうえで、各領域における先行研究の状況を概観することで、特に課題領域B)をめぐる解釈論および立法政策論については、外国法(ドイツ法)との比較を踏まえ、検討する余地が残されていることを明らかすることにより、本報告書の目的と構成を設定した。また、続く第一章においては、第二章以下の理解に必要な限りにおいて、労働関係や公衆衛生をめぐる日・独の法制度について概説するとともに、両国におけるコロナ禍の推移とそれに対応するための(法)政策の形成・展開について、整理を行った。

Ⅱ 第二章について

そのうえで、第二章においては、テレワーク(在宅勤務)とワクチン接種に関するものを除き、職場内における新興感染症への感染防止対策をめぐり(使用者がかかる対策を積極的に講じようする局面と、講じようとしない局面の双方を含めて)労働関係上生じる法的諸課題について、網羅的に検討を行った。このような課題には、大まかにいって、 ① 使用者による感染防止対策の実施に関するもの、 ② 使用者による職場内における感染者(無症状の病原体保有者も含む)の把握に関するもの、 ③ 使用者による感染疑いのある者に対する(感染防止対策としての)自宅待機命令の可否、 ④ 感染症蔓延(パンデミック)下における使用者の労働者に対する出社・出張命令の可否に、区分することができる。これら課題 ① ~ ④ に関する本報告書における検討結果の要点は、以下の通りである。

上記のうち、課題 ① についてはまず、使用者が各職場において感染防止対策を適切に講じているという状況を実現するための政策的対応のあり方が問題となる。この点、日本では立法による規制は行われなかったが、コロナ禍においては、何らの感染防止対策を講じなかった企業も相当数存在していたことに鑑みると、今後の新たなパンデミック下においては、ドイツ法においてみられたように、使用者に対して感染防止対策の実施を法的に義務付ける規制を導入することは、立法政策として十分検討に値する。但し、職場内において労働者がウイルスに感染するリスクは、産業・業種、従業員規模、地域等によって多種多様であることからすると、規制のあり方としては、ドイツのコロナ労働保護規則において最終的に採用されたような、オーダーメイド型(リスクアセスメント型)の規制とすることが望ましい。具体的には、使用者には感染防止対策を実施すべき義務を課しつつも、各職場内における感染リスクの所在を踏まえた対策のあり方については、衛生委員会等における労働者側との協議を通じて、個々の職場ごとに判断・決定させる規制を、労安衛法中に定めることが考えられる。なお、かかる判断・決定に際して現・場の労使が参照できるよう、国がありうる感染防止対策のオプションを指針等で定めることも、併せて検討すべきである。

また、課題 ① に関しては、使用者が実施を決定した感染防止対策の遵守を労働者に対して強制できるかも問題となるところ、日・独両国において特に議論となったのは、使用者の労働者に対する業務命令としてのマスク着用命令の可否である。この点、確かに飛沫・エアロゾル感染の防止対策としてのマスクの有効性は一般的に認められているが、ドイツにおけるこの問題をめぐる裁判例や立法政策も踏まえると、上記命令の有効性は無条件に認められるものではなく、マスク着用にかかる使用者側の業務上の必要性と労働者側の不利益との比較衡量により判断すべきである。これにより、例えば労働者が発達障害を有する等の理由でマスクの着用が日常生活に重大な支障を来し、またそのことについて医師の診断書があるようなケースでは、上記命令が指揮命令権の濫用として無効となる場合もありうる。

続いて、課題 ② に関しては、使用者による職場内における感染者の把握手段として、労働者に対し、コロナ検査(特にPCR検査)の受検、検温およびCOCOAのような接触確認アプリの利用をそれぞれ強制することができるかが問題となる。このうちまず、PCR検査の受検および検温の強制は、(法定外)健康診断の受診命令と問題状況が類似していることから、同命令の有効性に関する従来の最高裁の判断枠組みが、PCR検査・検温にかかる命令に関しても有用と考えられる。そのうえで、具体的判断に当たっては、医学的侵襲の程度等の観点だけでなく、ドイツにおいて議論されているように、PCR検査・検温が労働者としての健康情報の収集としての側面を有することは、日本でも看過されてはならない。従って、上記命令の有効性判断に当たっては、当該使用者において収集された健康情報が適正に取り扱われる状態にあるか否かという観点を摂取すべきである。また、接触確認アプリの利用強制(命令)に関しては、労働者の私物スマートフォンに対してダウンロードを命じることは認められないほか、業務用スマートフォンであっても、上記命令の可否については、接触確認アプリに内在するプライバシー・個人情報保護に対するリスクという観点から、厳格に判断すべきである。

更に、課題 ③ の使用者による感染疑いのある者に対する(感染防止対策としての)自宅待機命令の可否に関しては、業務命令としての自宅待機命令の有効性に関する従来の裁判例の判断枠組みが有用と考えられる。そのうえで、ドイツ法における議論も踏まえると、上記命令の有効性判断に当たっては、一方では、当該労働者の具体的症状や過去の行動履歴に照らし、使用者側において自宅待機を命じることに業務上の必要性があるか否かを考慮すべきであるが、他方では、上記命令により労働者側に生じる不利益の程度についても、特に当該自宅待機の長さや代替措置(特に在宅勤務)による就労可能性という観点から考慮する必要がある。

最後に、課題 ④ の感染症蔓延(パンデミック)下における使用者の労働者に対する出社・出張命令の可否については、最高裁の従来の判例に照らせば、出社による勤務や出張により、労働者が感染症に罹患し、生命・身体に危険が及ぶことが客観的に予想される場合には、労働者はこれらの義務から免れうる。そのうえで、かかる判断に当たり、具体的に考慮すべき事情としては、ドイツ法の議論も踏まえると、使用者による職場における感染防止対策の実施状況、労働者側における感染した場合における重症化リスク、(特に出張の場合には)対象国・地域における感染リスクが挙げられる。いいかえれば、単に労働者が主観的・抽象的に感染への不安を抱いているというだけでは、出社・出張の義務から免れることはできない。

Ⅲ 第三章について

続く第三章においては、テレワークのなかでも在宅勤務に関するコロナ禍固有の検討課題として、使用者の労働者に対する在宅勤務命令の可否(課題 ① )、労働者の使用者に対する在宅勤務請求の可否(課題 ② )、使用者の在宅勤務労働者に対する出社命令の可否(課題 ③ )について、検討を行った。これら課題 ① ~ ③ に関する本報告書における検討結果の要点は、以下の通りである。

これらのうち、課題 ① ・ ② に関して、パンデミックが生じていない平時の問題としてみると、ドイツと類似して、憲法上住居の不可侵および私生活の自由(プライバシー権)が保障されている日本においては、使用者は労働者に対し在宅勤務命令権を持たないと解される一方、労働場所の決定は使用者による指揮命令権の対象事項であること等からすると、原則として労働者が使用者に対し在宅勤務請求権を持つこともないと解される。従って、平時においては、在宅勤務を実施するためには、使用者と労働者との間での個別の合意が必要となる。また、上記課題 ② の例外として議論がある、障害を有する労働者に対する使用者の合理的配慮として在宅勤務請求権については、ドイツ法との比較からは、仮に認められるとしても実際の適用場面は相当限定的と考えられる。

一方、課題 ① ・ ② に関して、パンデミック(非常事態)下の問題としてみると、使用者および労働者の双方について相手方に対する配慮義務として、在宅勤務に関する命令権や請求権を認める解釈、あるいはそのような権利を定める立法政策も考えられなくはない。もっとも、この問題に関するドイツ法の議論や立法政策を踏まえると、仮にかかる命令権や請求権を認めたとしても、同時に相当広範囲に例外の余地も認めざるを得ないことからすれば、パンデミック下においてはむしろ、労働契約当事者をして在宅勤務の可能性を模索させ、個別合意による実施へと誘導するような立法政策を講じることが望ましい。具体的には、緊急事態宣言等が発出されている状況下においては、使用者と労働者の双方に対して、在宅勤務の実施について互いに協議を行うことを義務付ける規制を、労安衛法中に置くことが考えられる。

更に、課題 ③ に関しては、従来在宅勤務を行ってきた労働者に対する使用者の出社命令の有効性については、出社を命じる使用者側の業務上の必要性と、それに従った場合に労働者に生じうる不利益との比較衡量が重要な判断基準となると考えられる。また、その具体的判断に当たっては、ドイツ法も参考に整理すると、前者に関しては、職務の性質や労働者側の行為態様や環境変化に起因する、在宅勤務の円滑な実施の妨げとなる事由が、また後者に関しては、出社・通勤に伴う感染・重症化による生命・身体への危険を生じさせ、あるいは在宅勤務以外での就労を困難ならしめる事由が、それぞれ考慮されるものと解される。なお、ドイツ法との比較からは、上記出社命令の有効性判断に当たり、使用者が事前予告等の一定の手続を踏んでいるかという観点を摂取することも、十分検討に値する。

Ⅳ 第四章について

更に、第四章においては、新興感染症に対するワクチンの接種をめぐり、職場という空間のなかで、あるいは労働関係上生じうる解釈論上または立法政策上の諸課題について、ワクチン接種の「促進」(課題 ① )と「強制」(課題 ② )という2つのベクトルに区分したうえで、検討を行った。これら課題 ① ・ ② に関する本報告書における検討結果の要点は、以下の通りである。

このうちまず、課題 ① に関して、職場という空間を活用したワクチン接種を促進するための政策的対応としては、日本でもドイツでもコロナ禍においてはいわゆる職域接種が行われたが、そのほかにも、ドイツ法との比較からは、使用者に対し、例えば助成金等によってワクチン休暇制度の導入を積極的に促すことや、労安衛法上の安全衛生教育の枠組みのなかでワクチン接種についての周知・啓発を義務付けることが、今後日本でも検討に値する。

一方、課題 ② に関しては、ワクチン接種の医学的侵襲の程度や人体に及ぼす影響、副反応のリスクに鑑みると、接種するか否かの判断は、(労働者を含む)個々人の自己決定(憲法13条)に委ねられるべきである。従って、ドイツ法における一般的理解と同様、少なくとも労働者一般との関係では、使用者が労働者に対し業務命令としてワクチン接種を義務付けること(直接強制)はできないと解される。これに対し、今後コロナ禍と同等あるいはそれ以上のパンデミック下においては、感染した場合に重症化・死亡のリスクの高い「脆弱な人々」(高齢者や患者等)との接触が不可避な医療・介護等従事者に対する関係では、使用者によるワクチン接種命令や、ドイツでみられたようなワクチン接種を間接的に強制する立法政策が問題となる可能性は否定できない。この場合、ドイツ法における議論を参考にすると、かかる命令や立法の有効性・合憲性判断に当たっては、(その時点における最新の科学・医学的知見を前提に) ① 医療・介護等従事者がワクチンを接種した場合に生じる副反応等のリスク、 ② 上記の意味での脆弱な人々を感染から保護すべき必要性、 ③ ワクチン接種の感染拡大防止にとっての有効性(特に感染予防効果)、 ④ ワクチン接種の直接的・間接的強制に代替しうるその他の手段の有無を考慮すべきである。

 

 

 

奥山俊宏『秘密解除 ロッキード事件』

71bgexdemzl_ac_uf10001000_ql80_ 『労働新聞』の月イチ書評、今回取り上げたのは奥山俊宏『秘密解除 ロッキード事件』(岩波現代文庫)です。

https://www.rodo.co.jp/column/194923/

 ロッキード事件と言っても、多くの読者にとっては歴史上の事件だろう。筆者は当時高校生であったが、田中角栄元首相が逮捕されるに至る日々のテレビや新聞の報道は今なお記憶に残っている。田中が逮捕された頃、『中央公論』に田原総一朗の「アメリカの虎の尾を踏んだ田中角栄」というルポが載った。父が買ってきたその雑誌を読んで、ロッキード事件がアメリカの仕掛けた罠であり、独自の資源・エネルギー政策を試みた田中をアメリカが憎んだからだという見立てに感心したことを、半世紀後の今でも覚えている。

 ロッキード事件の真実とは何なのか? 今日に至るまで繰り返しロッキード本が刊行されてきていることからしても、それは日本人が常に問い続けてきた問題であった。これに対して、アメリカ政府が秘密指定を解除して公開された文書を徹底的に読み込んで、アメリカ側からの視点でロッキード事件を再構成してみせたのが、原著が刊行された2016年当時、朝日新聞記者であった奥山俊宏による本書である。彼は、ワシントンDCの国立公文書館や全米各地に散らばる各大統領図書館などで、膨大な資料の密林に分け入り、当時のアメリカ政府の中枢で何がどのように行われていたのかをリアルに再現する。

 その結果浮かび上がってきた姿は意外なものであった。アメリカ政府、とりわけニクソン、フォード政権で外交を担っていたキッシンジャーは田中角栄を嫌っていた。その嫌いっぷりは本書冒頭で繰り返し出てくる。ただし、それは田原の言う資源・エネルギー外交ゆえではなく、田中の粗野で粗雑なスタイルへの嫌悪感であった。とくに、日中国交回復に伴う日米安保条約の台湾条項問題で、「台湾条項は事実上消滅したということか」というメディアの問いに、勝手に「字句にこだわる必要もない」と答えたことに激怒したという。

 しかし、ロッキード事件そのものに対しては、アメリカ外交の闇を暴こうとする上院外交委員会多国籍企業小委員会(とりわけジェローム・ロビンソン)と、それを抑えようとするキッシンジャーらアメリカ政府とのせめぎ合いが激烈であった。田原の「虎の尾」説が成立する余地はない。もっとも、田中の名前はあるが中曽根の名前がないことを知って、心置きなく文書を日本の検察に渡したという可能性は否定しきれない。

 ところが、ロッキードで名前が出ながら無事だった他の政治家にとっては、「虎の尾」説はずっと心の中にわだかまっていたのではないか、というのが著者の見立てだ。とりわけ中曽根康弘は、三木武夫政権で自民党幹事長として真相解明を掲げながら、陰でアメリカ政府に対し「私は、合衆国政府がこの問題をもみ消すこと(MOMIKESU)を希望する」とのメッセージを送っていた。若き日には民族主義的であった中曽根が、アメリカ世界戦略の下で日本を「不沈空母」と呼ぶに至ったのは、アメリカの「虎の尾」を踏まないようにその行動に追従する道を選んだからではないか、というのだ。

 

 

 

 

2025年3月25日 (火)

なぜ公労使で労働立法をつくるのか@『日本労働研究雑誌』2025年4月号

777_04 本日、『日本労働研究雑誌』2025年4月号が刊行されました。

https://www.jil.go.jp/institute/zassi/new/index.html

特集は「その裏にある歴史 」で、次のようなラインナップです。

法学

なぜ労基法上の労働者と労組法上の労働者に違いがあるのか 鎌田 耕一(東洋大学名誉教授)

なぜ定年後に労働条件が切り下げられるのか 櫻庭 涼子(一橋大学大学院教授)

なぜ労働者派遣が労働者供給と区別されて合法化されたのか 本庄 淳志(静岡大学教授)

経済学

なぜ国が休業者に助成を行うのか 佐々木 勝(大阪大学大学院教授)

なぜ初任給はほぼ横並びなのか 上野 有子(一橋大学教授)

なぜ企業は従業員の人的資本に投資すべきか 小野 浩(一橋大学大学院教授)

労使関係

なぜ企業別組合が主流になったのか 呉 学殊(JILPT特任研究員)

なぜ多くの企業が同時期に賃上げ交渉をおこなうのか 李 旼珍(立教大学教授)

なぜ公労使で労働立法をつくるのか 濱口 桂一郎(JILPT労働政策研究所長)

経営学

なぜ属人給が残り続けているのか 金子 良事(阪南大学准教授)

なぜ企業が労働者の安全や健康に配慮するのか 堀江 正知(産業医科大学教授)

なぜ人事部は多くの権限を有するのか 青木 宏之(香川大学教授)

社会学・心理学・教育学

なぜ日本の労働者は長時間残業するのか 田中 洋子(筑波大学名誉教授)

なぜ日本の大企業では新卒一括採用がおこなわれているのか 大島 真夫(東京理科大学准教授)

なぜ学校が職業紹介をできるのか 濱中 義隆(国立教育政策研究所高等教育研究部長)

わたくしは、「なぜ公労使で労働立法をつくるのか」というのを書いております。

 労働法政策が他の政策分野と異なる特徴の一つとして、立法過程において労使団体の関与が規範とされている点がある。いわゆる「三者構成原則」である。これは今から100年以上前に国際労働機関(ILO)が設立されたとき以来の国際的な基準であり、戦後日本においても労働行政における審議会の公労使三者構成として確立し、今日でも労働政策審議会の構成として維持されているが、21世紀になってから規制改革サイドから三者構成原則に対する批判が相次いでいる。一方、20世紀末以来の政治改革論の帰結として政策決定における官邸主導の傾向が強まり、官邸の会議体で結論が決まり、その旨が閣議決定されてから、厚生労働省の三者構成審議会で形式的な審議が行われるという事態が進んでいる。本稿では、三者構成原則の始まりとその展開を跡づけつつ、近年の動向をやや詳しく見ていく。
 
1 ILOの三者構成原則

2 戦前日本と三者構成原則

3 終戦直後の三者構成原則

4 日本的三者構成システムの展開

5 規制緩和の波と三者構成原則

6 規制改革会議による三者構成原則批判

7 働き方に関する政策決定プロセス有識者会議

8 官邸主導と三者構成原則の空洞化

・・・・ もっとも、その後の立法過程では2015年に国会に提出されていた高度プロフェッショナル制度を盛り込むことをめぐって、審議会や場外、国会等でかなりのやりとりが見られた。これはもともと、労働側が全く入らない官邸の産業競争力会議において「労働時間と報酬のリンクを外す新たな労働時間制度の創設」が提起され、閣議決定された「日本再興戦略2014」で「時間ではなく成果で評価される制度への改革」が明記され、労政審から労働側の反対を付記した建議がなされ、それに沿って2015年に厚労省が法案を国会に提出したものの、3年間塩漬けにされていたものである。労働側としては、推進すべき時間外・休日労働の上限規制と阻止すべき労働時間規制の緩和とが合体されることにより、単純な対応が困難になり、神津会長が安倍首相に直接談判して、高度プロフェッショナル制度の導入要件を一部修正させるという行動に出たが、それが傘下産別の一部や他の労働団体からの批判を浴びることとなり、政労使合意を諦めざるを得なかった。
 これは三者構成原則の観点から見ても大変興味深い政治過程であったといえよう。十数年にわたって拡大強化されてきた官邸主導の政策過程の中で、排除されてしまいかねない労働側がいかに官邸主導の政治過程に入り込んでいくかが試された事例であった。都合のいいときだけ選択的恣意的に労働側を政策決定に関わらせる政治状況下にあって、単なる「言うだけ」の抵抗勢力に陥ることなく、その意思をできるだけ政治過程に反映させていくためにはどのような手段が執られるべきなのかを、まともに労働運動の将来を考える者には考えさせた事例であった。

 

 

 

 

スポットワークと日雇派遣@WEB労政時報

WEB労政時報に「スポットワークと日雇派遣」を寄稿しました。

https://www.rosei.jp/readers/article/88808

最近、“スキマバイト”とか“スポットワーク”と呼ばれる働き方が注目されるようになりました。2025年1月にパーソル総合研究所が公表した「スキマバイト/スポットワークに関する定量調査」では、現在のスキマバイト人口を452万人と推計しています。新聞各紙もしばしば取り上げていますが、特に東京新聞は2024年12月から断続的に「スキマバイトの隙間」という連載記事を掲載し、この働き方への警鐘を鳴らしています。・・・・・

 

 

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